The mind is washed.............................................
最近は部屋の掃除をしています。
部屋を掃除することは心を洗濯すると表現されるのが少なくありません。
鬱病の傾向として「モノを捨てられなくない」というモノがあるようです。
思い出というのはどうしても流れていきますし、捨てなければ場所が取られて生活に支障が出てくるにもかかわらずです。
おいらの場合は非常に重傷だったようです。
部屋にあるモノで大体の鬱の深刻度が推し量れるというのもあるようです。
おいらはCollectするのが生きている証(あかし)だと考えています。
しかし捨てても何ら問題がないモノが多いのに最近気が付くようになってきました。
というより色々と他の人の部屋に入ることがあるのですが、
何故こんなにものが少なくて生活できるのだろう?
と不思議でなりませんでした。
おいらは随分前から鬱病の傾向を示していたようです。
それも小学生よりも小さい頃からの習慣というよりはもっと根深い依存状態だったようです。
部屋にあるモノの量が思い出の証拠であった訳です。
つまり精神面での依存度で過去に生きている時間が長い人間なんですよね。
人間というのは現在の時点で生きるのを認識しなければ「生きていること自体」を把握できなくなります。
過去に生きている人間にとっては沢山のモノがある方が安心感がある訳です。
よって邪魔だと感じるどころか動けないぐらいモノがある方が平安があるんですよね。
ところが最近は全く逆の感情が発生するようになってきました。
確かなこととして良質のモノは別物ですけどね。
良質のモノというのは長く使えますし、所有欲を満たすことも出来ます。
良質のモノは往々にして効果ですので購入時点で征服欲も満たすことが出来ますが、良いモノというのは最初は余り良い所がない事が少なくありません。
こんなモノなのか?と不思議に思うぐらいに買って使っていることに満足感は無いのです。
でもしょっちゅう行う作業をする際の違いで理解できたり、使い続けることによって馴染み出す頃からモノの本質や良さを理解できるようになっていきます。
今回は掃除のことを書いていますので良いモノに関してはこれぐらいにしておきましょうかね。
おいらの部屋にはモノが溢れていて本が溢れていて、塵が溢れている事に最近気が付きました。
今までは殆ど全てのモノに価値を見いだしていて全てが必要だから置いていたのですがね。
Catalogなどは時間が過ぎると価値が無くなっていきます。
よってCatalogは捨てることが出来たんですけどね。
他のモノ例えば学んだ雑誌でも非常に古くてSoftware化されてDataとしてComputerの中にあるモノが少なくありません。
というより聖書関連の雑誌は1年程度前からのLibraryはほとんど全てComputerに入っています。
下線を引いたり聖書を調べて書き込んだりしているモノも多数ありますし、勉強した痕跡のあるモノが沢山あります。
しかし全てを置いておくことが不可能なのだという結論に達しつつあります。
重複するモノを持っていても価値がないということに気が付くようになってきたんですよね。
おいらは何事も自分で物事を行いたいと願っていますが、専門家が居る意味を認めざるを得ないようです。
大概のことは練習次第で人間は出来ます。
でも全てを練習して上手くできるかというと100%不可能なのです。
理由は人間には「限られた時間」という制限があるということですな。
時間が無限にあり、他の人に迷惑を掛けないのであれば別に構わないのですが、何かしらを行うと言うことは他のことを差し置いて時間を消費していることになります。
それは駄目ですよね。
Egoismの固まりのような人でも生活をする為には一つのことに集中しなければ生活は成り立たないのです。
例えば仕事というのは集中できる時間が長ければ長いほど効率というのは上がっていくことが少なくありません。
しかし人間には「体力的な限界」と「精神的な限界」もあります。
体力的な限界は食べる必要や睡眠を取る必要、もよおすなどの生理的な必要性が発生してきます。
精神的な限界は集中力を維持することが容易に出来るのであれば誰でも天才になれますし、誰でも素晴らしいSports選手になり得ます。
Professionalの世界では想像を絶する集中力を発揮できる人でさえ「絶対」とか「完璧」な100%満足できるLevelの結果を残せることは稀なんですよ。
時折味わうことが出来る「素晴らしい世界=ZONE」を夢見てあの世界を再現する方法を限界まで行う訓練によって模索することが続くのでしょう。
Sportsの場合は良き対戦者が居なければこのようなMix Upが起こることはありません。
よって強敵と書いて「友」と呼ぶのは正しいんですよ。
まあ北斗の拳を呼んでいる人にしか解りませんよね。
Egoismが成立するのは資産を有する人、結果を残せる人の特権です。
しかしもしそれらがない、もしくは失うのであれば孤独になっていきます。
どのような分野でもが素人よりも上のLevelを維持できていてもProfessionalというのは毎日新人が出現する世界です。
鎬を削って生きていく世界に身を置いている人は若い人の新しい世界観に付いて行けずに過去の人になるのが多いのも現状でしょう。
Top Runnerというのは常に最新の最良のモノを提供し続ける必要があるんですな。
ところが世の中にはOne PatternやMannerismという言葉があります。
一人の人の思考には限界があり、ある一定以上のモノを作り出すとPatternが発生するようにもなるんですよ。
これは「発想の枯渇」という言葉で以前に書いたことがあるのですが、盗作に繋がる事が少なくありません。
他の人からInspirationを受けて自分の作品を作るのであれば良いのですが、絶不調の中で周りの期待が大きすぎる時は何も考えられなくなります。
Pressureは相当なモノで何も手に付か無いのも関わらず、期待に応えようとするのですから盗作を起こしてしまうんですな。
こうなると過去の地位も意味を成さなくなっていきますし、全てを失う切っ掛けになっていきます。
資産がある人というのは腐敗を生んでいくことも少なくありません。
「権力=資産」というのは絶対に腐敗するんですよ。
なんだか話が別方向に行ってしまって今日書きたいことが書けませんな。
この頃はおいらの中で価値を失っていくモノが多数発生するようになってきました。
しかも惜しみながらというよりは全く価値が無くなっているんですね。
モノを捨てられると言うことは鬱病が軽くなっている証拠だと言われています。
価値があるモノというのは使うモノです。
人一人が使うモノというのは生活の中では限られてきますよね。
それに過去に所有していたモノでも良質のモノを購入して全く使用しなくなっているモノがあることに気が付くようになってきました。
こういうモノはSubは取っておく必要がありますがそれ以上のモノというのは捨てるか他の人にあげる方が役に立つことが少なくありません。
貰い物というのはおいらは全く捨てられない性格でした。
これも変わりつつあります。
価値があるモノとして使うならまだしも棚の肥やしになっているモノを沢山置いてあっても邪魔になるだけです。
そのSpaceには沢山入れたいモノがあるにもかかわらず、それを置いておく為に確保してある事が少なくなかったのです。
先日で考え方の大きな変化が訪れました。
人が必要なモノというのは極々わずかです。
聖書の言葉を借りるならば
「ですから、命を支える物と覆う物とがあれば、わたしたちはそれで満足するのです。」
んですよね。
つまり今手元にあるモノ全てを失っても「衣食住」を全く別に確保するのであれば生きていけるという訳です。
それにこういう聖句もあります。
「わたしにとって得であった事柄、それをわたしは、キリストのゆえにすべて損と考えるようになりました。
いや、この点で言えば、わたしは実際のところ、わたしの主キリスト・イエスに関する知識の優れた価値のゆえに、一切のことを損と考えています。
キリストのゆえにわたしはすべてのものを損失しましたが、それら多くのくずのように考えています。」
Realにこういう考え方を出来るような日が来るとは考えもしていませんでした。
おいらは記憶障害ゆえに様々なモノを貪欲にStockしなければ生きていけないと考えていたんです。
しかも今から考えると無価値でゴミでしかない物を溜め込んでいたんですよね。
人間というのは流れの中に生きています。
その流れは殆ど全ての世にある物を過去のモノに変えていきます。
でも流れの中にある物で杭を打ち流されないようにしようとして、Pointを作っておいても過去の物になってしまった物を最新の物に勝るモノと出来るのは余りありません。
確かに普遍的な価値を維持できるモノというのはこの世の中に存在しますし、作り手の技術がモノを言う類のモノは別ですけどね。
過去になっているモノは価値を損なっていることが多く無価値になっていることも少なくありません。
それを非常に大きな価値があると考えて溜め込んでいた訳ですよ。
しかも大量にね。
よって今それを捨てる処理を行っている訳です。
まだまだ沢山ありますし、本棚や机も見直す必要があります。
そうなったら模様替えでしょうかね。
Bedも必要がないと考えています。
Lay Outをよく考えて空間を広く使えるようにしたいモノです。
明日はDigital Photoを書きたいモノですな。
最近写真を撮れていなかったので写真を撮りに行こうと思います。
最近は部屋の掃除をしています。
部屋を掃除することは心を洗濯すると表現されるのが少なくありません。
鬱病の傾向として「モノを捨てられなくない」というモノがあるようです。
思い出というのはどうしても流れていきますし、捨てなければ場所が取られて生活に支障が出てくるにもかかわらずです。
おいらの場合は非常に重傷だったようです。
部屋にあるモノで大体の鬱の深刻度が推し量れるというのもあるようです。
おいらはCollectするのが生きている証(あかし)だと考えています。
しかし捨てても何ら問題がないモノが多いのに最近気が付くようになってきました。
というより色々と他の人の部屋に入ることがあるのですが、
何故こんなにものが少なくて生活できるのだろう?
と不思議でなりませんでした。
おいらは随分前から鬱病の傾向を示していたようです。
それも小学生よりも小さい頃からの習慣というよりはもっと根深い依存状態だったようです。
部屋にあるモノの量が思い出の証拠であった訳です。
つまり精神面での依存度で過去に生きている時間が長い人間なんですよね。
人間というのは現在の時点で生きるのを認識しなければ「生きていること自体」を把握できなくなります。
過去に生きている人間にとっては沢山のモノがある方が安心感がある訳です。
よって邪魔だと感じるどころか動けないぐらいモノがある方が平安があるんですよね。
ところが最近は全く逆の感情が発生するようになってきました。
確かなこととして良質のモノは別物ですけどね。
良質のモノというのは長く使えますし、所有欲を満たすことも出来ます。
良質のモノは往々にして効果ですので購入時点で征服欲も満たすことが出来ますが、良いモノというのは最初は余り良い所がない事が少なくありません。
こんなモノなのか?と不思議に思うぐらいに買って使っていることに満足感は無いのです。
でもしょっちゅう行う作業をする際の違いで理解できたり、使い続けることによって馴染み出す頃からモノの本質や良さを理解できるようになっていきます。
今回は掃除のことを書いていますので良いモノに関してはこれぐらいにしておきましょうかね。
おいらの部屋にはモノが溢れていて本が溢れていて、塵が溢れている事に最近気が付きました。
今までは殆ど全てのモノに価値を見いだしていて全てが必要だから置いていたのですがね。
Catalogなどは時間が過ぎると価値が無くなっていきます。
よってCatalogは捨てることが出来たんですけどね。
他のモノ例えば学んだ雑誌でも非常に古くてSoftware化されてDataとしてComputerの中にあるモノが少なくありません。
というより聖書関連の雑誌は1年程度前からのLibraryはほとんど全てComputerに入っています。
下線を引いたり聖書を調べて書き込んだりしているモノも多数ありますし、勉強した痕跡のあるモノが沢山あります。
しかし全てを置いておくことが不可能なのだという結論に達しつつあります。
重複するモノを持っていても価値がないということに気が付くようになってきたんですよね。
おいらは何事も自分で物事を行いたいと願っていますが、専門家が居る意味を認めざるを得ないようです。
大概のことは練習次第で人間は出来ます。
でも全てを練習して上手くできるかというと100%不可能なのです。
理由は人間には「限られた時間」という制限があるということですな。
時間が無限にあり、他の人に迷惑を掛けないのであれば別に構わないのですが、何かしらを行うと言うことは他のことを差し置いて時間を消費していることになります。
それは駄目ですよね。
Egoismの固まりのような人でも生活をする為には一つのことに集中しなければ生活は成り立たないのです。
例えば仕事というのは集中できる時間が長ければ長いほど効率というのは上がっていくことが少なくありません。
しかし人間には「体力的な限界」と「精神的な限界」もあります。
体力的な限界は食べる必要や睡眠を取る必要、もよおすなどの生理的な必要性が発生してきます。
精神的な限界は集中力を維持することが容易に出来るのであれば誰でも天才になれますし、誰でも素晴らしいSports選手になり得ます。
Professionalの世界では想像を絶する集中力を発揮できる人でさえ「絶対」とか「完璧」な100%満足できるLevelの結果を残せることは稀なんですよ。
時折味わうことが出来る「素晴らしい世界=ZONE」を夢見てあの世界を再現する方法を限界まで行う訓練によって模索することが続くのでしょう。
Sportsの場合は良き対戦者が居なければこのようなMix Upが起こることはありません。
よって強敵と書いて「友」と呼ぶのは正しいんですよ。
まあ北斗の拳を呼んでいる人にしか解りませんよね。
Egoismが成立するのは資産を有する人、結果を残せる人の特権です。
しかしもしそれらがない、もしくは失うのであれば孤独になっていきます。
どのような分野でもが素人よりも上のLevelを維持できていてもProfessionalというのは毎日新人が出現する世界です。
鎬を削って生きていく世界に身を置いている人は若い人の新しい世界観に付いて行けずに過去の人になるのが多いのも現状でしょう。
Top Runnerというのは常に最新の最良のモノを提供し続ける必要があるんですな。
ところが世の中にはOne PatternやMannerismという言葉があります。
一人の人の思考には限界があり、ある一定以上のモノを作り出すとPatternが発生するようにもなるんですよ。
これは「発想の枯渇」という言葉で以前に書いたことがあるのですが、盗作に繋がる事が少なくありません。
他の人からInspirationを受けて自分の作品を作るのであれば良いのですが、絶不調の中で周りの期待が大きすぎる時は何も考えられなくなります。
Pressureは相当なモノで何も手に付か無いのも関わらず、期待に応えようとするのですから盗作を起こしてしまうんですな。
こうなると過去の地位も意味を成さなくなっていきますし、全てを失う切っ掛けになっていきます。
資産がある人というのは腐敗を生んでいくことも少なくありません。
「権力=資産」というのは絶対に腐敗するんですよ。
なんだか話が別方向に行ってしまって今日書きたいことが書けませんな。
この頃はおいらの中で価値を失っていくモノが多数発生するようになってきました。
しかも惜しみながらというよりは全く価値が無くなっているんですね。
モノを捨てられると言うことは鬱病が軽くなっている証拠だと言われています。
価値があるモノというのは使うモノです。
人一人が使うモノというのは生活の中では限られてきますよね。
それに過去に所有していたモノでも良質のモノを購入して全く使用しなくなっているモノがあることに気が付くようになってきました。
こういうモノはSubは取っておく必要がありますがそれ以上のモノというのは捨てるか他の人にあげる方が役に立つことが少なくありません。
貰い物というのはおいらは全く捨てられない性格でした。
これも変わりつつあります。
価値があるモノとして使うならまだしも棚の肥やしになっているモノを沢山置いてあっても邪魔になるだけです。
そのSpaceには沢山入れたいモノがあるにもかかわらず、それを置いておく為に確保してある事が少なくなかったのです。
先日で考え方の大きな変化が訪れました。
人が必要なモノというのは極々わずかです。
聖書の言葉を借りるならば
「ですから、命を支える物と覆う物とがあれば、わたしたちはそれで満足するのです。」
んですよね。
つまり今手元にあるモノ全てを失っても「衣食住」を全く別に確保するのであれば生きていけるという訳です。
それにこういう聖句もあります。
「わたしにとって得であった事柄、それをわたしは、キリストのゆえにすべて損と考えるようになりました。
いや、この点で言えば、わたしは実際のところ、わたしの主キリスト・イエスに関する知識の優れた価値のゆえに、一切のことを損と考えています。
キリストのゆえにわたしはすべてのものを損失しましたが、それら多くのくずのように考えています。」
Realにこういう考え方を出来るような日が来るとは考えもしていませんでした。
おいらは記憶障害ゆえに様々なモノを貪欲にStockしなければ生きていけないと考えていたんです。
しかも今から考えると無価値でゴミでしかない物を溜め込んでいたんですよね。
人間というのは流れの中に生きています。
その流れは殆ど全ての世にある物を過去のモノに変えていきます。
でも流れの中にある物で杭を打ち流されないようにしようとして、Pointを作っておいても過去の物になってしまった物を最新の物に勝るモノと出来るのは余りありません。
確かに普遍的な価値を維持できるモノというのはこの世の中に存在しますし、作り手の技術がモノを言う類のモノは別ですけどね。
過去になっているモノは価値を損なっていることが多く無価値になっていることも少なくありません。
それを非常に大きな価値があると考えて溜め込んでいた訳ですよ。
しかも大量にね。
よって今それを捨てる処理を行っている訳です。
まだまだ沢山ありますし、本棚や机も見直す必要があります。
そうなったら模様替えでしょうかね。
Bedも必要がないと考えています。
Lay Outをよく考えて空間を広く使えるようにしたいモノです。
明日はDigital Photoを書きたいモノですな。
最近写真を撮れていなかったので写真を撮りに行こうと思います。