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扇風機の羽の真ん中をおさえるひねくれ者の日記

思うままに....
感じるままに....
JW1.5世の自分が生きてるのを不思議に思う、ひねくれ者の日記です。

Mind Darkness No.27 2009.04.14

2009-04-14 23:55:55 | Depression,Melancholy & Thought
おいらは即物的な人や目先のことしか考えない人が苦手です..........................................

直ぐにモノとして形になるのは確かに魅力なのかも知れませんね。
しかし短絡的な考え方の人とは話がそもそも噛み合いませんし、最近は合わそうとも思わなくなってきました。
短絡的な思考をしている人というのは単純で扱いやすいというのがありますが、反面で此方の意図を全く理解して貰えないことが少なくありません。
此方の意図の方が遙かに深くて広いモノとなっている事が多くて、相手のことを考えているのに相手本人が全く考えもせずに行動するような人間が多すぎます。

例えばこういうことがありました。
交通事故で怪我した子と幾人かで通院とちょっとしたDriveや食事をしました。
桜が満開でいっぱいになっている頃です。
おいらは少し疲れていたので車で寝ていたのですが、車が無ければ帰れる距離ではありません。
これは大前提で考えていたようなのですがね。
怪我をしたので通院しているのですよ。
怪我を治す為に治療に専念しているというのに長距離の散歩か少し走ったようなんですよね。
走れる状態ではないにも関わらず確信犯的に走ったのはおいらの見地からは考えられません。
「寝ているのを起こすのが躊躇われたから」という理由を言っていましたが、そもそも車が無ければ帰れないのになぜ声を掛けないのかが理解に苦しみます。
かなりの距離を歩き克つ走った訳です。
車で7~8分程度走ったと思うのですが、単純に時速60kmでは7~8kmということになります。
まあ探しながらゆっくり走ったので5km程度だったとは思うのですが、中学生の子が一緒だったのが駄目だったのかも知れませんな。
今度から一緒に行かないようにしなければならないですな。
おいらは彼が怪我をしたので気の毒に思って運転手をしていまし、それが当然だとは思っています。
でも自分で怪我を悪化させるようなことをするのであれば運転をしなくても良いかな~とか考えてしまいますよね。
明らかに車に乗る時に苦痛を感じていてもし車を運転しなければならないのであれば暫くは無理だったでしょう。

中学生の子は流石に若いだけあって後先のことを考えないようですね。
おいらの中学生の頃だったならば判断が付いていたと確信できる状況です。
短絡的な思考をしている人と話をしていると苦痛になってくるんですな。
理由は後ほど書きます。

Stressが溜まっているというのは否定しませんし、それを解消する方法として何かしらの活動を行うのは当たり前の行動です。
怪我で動けないのは若い彼にとっては苦痛でしかないでしょう。
でも人の善意を前提にアテにして怪我を悪化させるというのは非常識だと思う訳ですよ。

それに車の保険に関しても以前に書きましたが、彼の車を運転するのはおいらなのですから、おいらの年齢までCoverして貰えるようにして貰えているモノだと考えていました。
これは愚痴だと取られても仕方がないのですがね。
おいらは事故しても責任を負えない立場です。
まして彼の都合で車の運転をしているのですから、彼かもしくは彼の両親が保険のお金を負担するのが当然だと思うんですよね。
極端な事を書くならば、こちらは別に運転して行かなくても言い訳ですよ。
車を運転していくのも辛そうで気の毒だった頃からおいらは運転をしているのですが、これは常識的に考えても無責任ではないでしょうか。
金銭状況を把握していますが、彼はComputer並びに周辺機器などをSub機まで所有している状態です。
だったら尚のこと負担するべきでしょう。
高ければ安い保険を探す努力をするべきです。

「事故を起こして支払う金額と保険料とどちらが安いのか」

という簡単な答えの出し方を理解できない人間が居ることの方が不思議です。
人間が怪我するというのはかなりの金が掛かります。
もし死なせでもすれば償うことはまず不可能だと解りきっているのに保険を掛けないという理由が分かりませんし、理解できません。


先手先手で物事を考えていくのが人間の能動的な能力だと思うんですよ。
これは人間としての優秀さに繋がっていきます。
殆どの場面では緻密な計算に裏打ちされたBackboneを元に活動し、確信が持てる時は直感的に感覚的に物事を行っていくのが人間の素晴らしい点でしょう。
なのにただその場その場を乗り切るような即物的で一時的な不安定さの中を当然のように生活する人間の思考には付いていけないんですよ。

おいらは

行動する理由、活動する意義、実行する確信

を求めて生活しています。
これらが無いものというのは無駄なことでしかないからです。
因果関係を洗い出し、自分が出来る最善を求める訳ですな。
そして様々なSimulationを行い、どのような状況でも、どのような反応でも対応できるようにしておくのがBestでしょう。

短絡的な思考の人と会話をしていると苦痛になる理由を書きましょうかね。
理由は出がらしのお茶に100ccに更に100Literの水を加えたような薄~い話に付き合わなければならないと言うことでしょうか。
しかも詰まらないこと「=おいらからすれば取るに足りないこと」で怒ったり悩んだりしているように見える訳です。
そしてこのような種類の人というのは話の結論が見えている事が少なくありません。
この展開ならこういった結論になるんだろうな~と幾通りかSimulation Modelを作っておくとバッターの打者ぐらいの確立で当たることがあります。

加えてこういった種類の人のPrideや自分の命への考え方、自尊心というのは呆れてしまいます。
ちょっとTeeーUpが掛かると直ぐに調子に乗ったり我が物顔で行動しているのを見ると「単純なのね」と心の中で考えてしまうんですよね。
この辺りはおいらがひねくれ者たる由縁なのでしょう。
おいらは自身が人様よりも優れた所は無いものだと確信していますが、おいらが知る分野では多少は知識の点では知らない人よりは保有しているモノがあります。
でもそれを自慢の種にするような血迷ったような行動には出たくはありません。
まあ最近増長している傾向にあるので気をつけなければならないな~と考えていますがね。
こういった傾向を示せるようになったのも多少は鬱病の傾向が薄まっていることの表れだと自分で割り切るようにしています。
Pride「=誇り」と訳されますが、良い意味での誇りを抱いて生活するというのは人として素晴らしいことですし、望ましいことです。
でも「誇ることの理由」は自分に関しては全くありません。
「これこれのことをしたから自分は偉いのだ」というような論理は人を不快にさせる言動でしょう。
上には上が必ず居ます。
居ない場合は心配しないで下さい。
必ず現れてくれますからね。

誇るのは神に関してのみ誇るべきです。

神を知っていること、真理や知識、知恵、思考などを学んで得ることが出来たことを誇るべきだという意味です。
他の理由で誇るのであればそれはどれも人間のEgoismの固まりな訳ですよ。
人間というのは基本的に悪に走る傾向があります。
Egoismというのは基本的に「悪に走る傾向」な訳です。
これはどのような人間でも「欲望」や「渇望」を抱えて生きているモノなのです。
人それぞれが様々な欲望や渇望を抱えているのですが、それがどのようなモノであるにしても醜いことには変わりはありません。
そしてこれらは沢山のしがらみになって巻き付き人を動けなくしていきます。
自分で自分の首を絞めていくんですな。
こう考えると悲しいですね...................
人間ってつくづく愚かなのだと思い知らされます。
逆に神に関してしか誇る理由がない場合は本当に開放的になれます。
自分に関しては誇る理由が何もないのですから、自分が優越感に浸ることも余りないということになるのですからね。
全くないと言えば嘘になります。
所詮は人間は不完全なのですからね。

また自分の命の価値に関しての適正な見方を出来ていないことが少なくありませんね。
おいらは死んだモノとして考えているので突き放していることから他の人の命への執着が理解できないことがあります。
例えば自己犠牲的な死に方をした人に関して「自分はそのような死に方をしたくもない」と言っているのをつい最近聴きました。
「なぜあのような死に方が出来るのか理解できない」という訳です。
おいらからすれば自分の命に非常に大きな価値があることを自分で考えている人の方が理解できません。
自己犠牲的に死ねるならば本望だとも思います。
まだ普通の人は良いでしょう。
聖書の見解によれば復活の可能性が示唆されています。
それを理解した上で「他の人の為に死ぬなんて浅はかなことだ」と言ってのける方が逆に感心してしまいます。
それほどの価値があるのであれば人の役にもさぞ立つのでしょう。
利他的な行動というのはまず自分の必要を顧みてからでなければ行えないのは当然です。
しかし最も素晴らしい愛というのは自分を顧みる分を用いて一緒に支え合うのが利他的な行動だと言えるのではないでしょうか。
自分の分をそっくりそのまま分け与えるのも愛ですけどね。
これは極限状態ではまず無理な話であって2人なら互いを補い合い補完し合う方が1人の状況よりも強さが増します。
2人よりも3人、3人よりも4人と数が増えていく上で補完し合える部分が増えていくんですよ。
人には各自が持っている賜物と呼ばれる特質や得意な分野があります。
その賜物を用いて互いを補い合い補完し合う最大の表れとしての自己犠牲になるんですよ。

そして最終的な愛の最上級のモノとして極限状態で他の人の為に死ぬ事になるわけです。
でもこれには前提があります。
人が示す愛の対象として何よりも上には神が居なければならないという絶対的な優先順位ですな。
ついでChristでしょう。
これはChristianならではの思考ですな。
多くの人は家族であったり、親族であったり、愛する人であったりするのでしょう。
狂信的だと取られる背景にはこのような思考があるということを理解せずに判断する人が多いからですな。

付き合いがあるので仕方がないとしても、なるたけ関わり合いになりたくないと思うようになりました。

まず割り切らなければならないこととして、事故して怪我した子の通院の手伝いを見直す必要があるということでしょう。
これは
・保険という観点
・怪我を治す気があるのかという観点
まだまだ沢山あるのですが、取り敢えず解りやすいこの二つの点で行かないようにする向きで検討していこうと思います。
おいらも最近Scheduleが詰まりつつありますのでね。
隔週で行っていた事を考えるとかなりの負担減になります。

それに思考の浅い方とも余り関わり合いにはならないようにしていきたいモノです。
子供達は別ですけどね。
特にほとんどの家庭の一番上の子(長子)の思考というのは良く理解し把握できるモノです。
おいらが通ってきた道と良く似て居るんですよね。
まあおいらのようにとことんまで落ち込んだ経験を持っている人は知りませんのでなんなんですが、長子は物事をよく見ていたりよく考えていたりします。
一番上の子はそれなりに背負わされたり、我慢させられたり、感情移入する機会が多かったりするモノだからなのでしょうか。

なんだか今日はおいらの狂信的Christianの要素、ひねくれている要素満載でお送りいたしましたな。
適当に読み流してやって下さい。
少し考えることが多くてそのはけ口が欲しかっただけなんですよ。

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