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扇風機の羽の真ん中をおさえるひねくれ者の日記

思うままに....
感じるままに....
JW1.5世の自分が生きてるのを不思議に思う、ひねくれ者の日記です。

How about Survival? No.010 2014.09.27

2014-09-29 19:20:04 | Survival


2014.09.29の18:00~のFNNのキャスターやコメンテーターが地震学者を責めるような発言をしていました.............................

わたしの論理では

「そもそも地震学者を責めること自体が間違い」

です。
日本のマスコミは何かと専門家に責任転嫁をしています。
そして専門家が万事を理解しているかというと、一般人よりは知識がある程度だと言っても過言ではありません。
しかし知識の蓄積は大切です。
それは多くの事象を専門的に検証する能力になります。
一般人が関心の無いような事柄、気にもとめないような事柄が観測上とても重要だと判断できるのは専門家だからです。
そして日本の観測技術は地震大国故に世界でもトップレベルです。

今回の地震に関しては専門家に責任転嫁出来ない面があります。
日本の地震のメカニズムはとても複雑な構造になっているのは明白でしょう。
地殻の構造をよく調べてみてください。
地震が多発している理由が本当によくわかります。

そもそも自然災害の場合に、それに遭遇するのは自己責任で無ければなりません。

自然の事象を全て言い当てる人のことを何というかご存じでしょうか?
過去にそのようなことをした人を地域によっては「予言者」、そしてある地方では「神」となったのです。
科学が発達した現在でも今回のような浅い地層で起こった噴火ではほぼ知るよしがありません。
深い地層で起こることも知ることは難しいのです。
地震(噴火も含む)の予知は

「ただ漠然としか言えない」

と言う事実があります。
はっきり日時を特定できないのは継続的に地殻変動が起こっているからに他なりません。
その地殻変動は日本の場合は複合的に干渉し合う地殻が多数あり、それが影響し合っている故に難しいのです。
今回のように浅い地層での事前予測はとても難しいのです。
以前は「休火山、死火山」などと言う言葉がありました。
しかし今回の火山は以前「死火山、休火山」とされていたのに活火山となった山です。

過去30年間に火山として活動しているのを知っていながら

「その山に登る」

のが自己責任で無ければならないのは明白でしょう。
最近の言葉に「山ガール」という文化があります。
わたしはやるからにはしっかり下調べをして、分析し必要な情報を集めてからで無ければ行動に移すことは出来ない性格です。
傾向と対策を練る必要があるならば「過去問」から学ぶ姿勢というは重要です。
これはテストに限ったことでは無く実生活でも行える行動学だと思いますね。
人間はTry & Errorを繰り返して生きていくべきです。
ただ無為に行動することほど愚かなことはありません。
毎日の行動を実験であるという認識を持つならば生きることに意義がついてくるのです。
そして「実験」には感情は重要ではありません。
確かに感情に流されることもあるでしょう。
ただそれが後々に及ぼす影響は過去のDataとして見たときに関係が無くなるのです。

知識(Data)の蓄積は資産であり、貴重な分析ツールなのです。

それを得ようともせずに専門家に責任転嫁するというのはおかしな事だと思われませんか?

この世の中はその気になれば素人が専門家をも唸らせることが出来るぐらい情報があふれています。
調べようと思えば、そして適切な取捨選択を出来るならば専門家よりも、その一部分の知識に関しては理解を上回ることが出来るのです。
そうであれば、登る前にどのような山なのかを調べるのは重要なのでは無いでしょうか。
蒔いたモノを刈り取るのはこの世の常です。
命に関わることがただ

「運が悪かった」

では済まないのは明白でしょう。

そのような重要なことを前もって調べもせずに出かけるのが悪いのでは無いでしょうか?

そういうけれど起こってしまった後なのだから仕方が無いではないか。
起こることが解らなかったのだから仕方が無いではないか。
亡くなった人を批判するのは簡単であるし、失礼千万、何を言っているのだ!

と多くの人は感じるでしょう。
では助けに行く立場に立ってみてみましょう。
もし現地に行けば死ぬかもしれない。
幸いながら今回の火山活動で二次災害は起こっていません。
しかし最近、愛媛県の登山で遭難し、救助活動に行った救助をしに行った警察官が二次災害で亡くなりました。

遊び半分で行ったような感覚で遭難し、救助を求めて警察に連絡し助けに来た隊員が二次災害で亡くなる

これは命の優先順位からしてもあってはならないことです。

登山者が亡くなっても良いというのではありません。
ただ優先順位としては

「遭難した人の命<救命隊員の命」

でなければなりません。
すでに亡くなっている可能性が高いなら、なおさら救助活動をする人間の命が最優先にされるべきです。
マスコミや遺族たちはこの優先順位を無視するように、亡くなっている可能性が高いのに

なぜ助けに行かないのか
命がけで行くのは当然じゃないか
あそこには遺族は

「わたしの家族がいるのだから」

、マスコミなら

「要救助者がいるのだから」

と囃し立てます。
今回の遺族たちはとても賢明な方が多く、つらくて悲しいのにも関わらず自衛隊員や警察官、救助をする人を見守られています。

わたしも命の価値を確認せざるを得ない状況に面しました。
3年ほど前の夏にわたしは母方の叔父を亡くしました。
そして2週間ほど前に父方の叔父を亡くして私自身もずっと調子を崩したままです。
人が亡くなることはとても悲しく自分の無力感を痛感させられるのです。
わたしの知人が10年ほどの間に軽く10名以上はいます。
親族が数名、同級生もいますし、知人まで含めるとかなりの人数になります。

自殺した人もいますし
朝起きたら亡くなっていた人
お風呂に入っているときに亡くなった人
病気を患い亡くなった人
事故で亡くなった人

死因というのは亡くなった人の数だけあります。
そして人間というのは今現在の状態では

「生き続けることが出来ない=必ず死ぬ」

のです。

・自分の関係の無い命が災いに遭っている

のを

救難自衛隊や山岳救助の訓練を受けた警察官

は自分の命を賭して助けることが当たり前だとされているのは人間の命の価値として、石橋を叩いて確実に助かる状況でなければならないと思うのです。
二次災害に遭うのはあってはならないと、わたしは命のことを考え辛いからこそ伝えたいのです。

アメリカの方ではHeroismというのがあって「殉職することが美しい」という愚かな論理があります。
避け得る手段をとことんまで考え、さらに論理的に考えて少しでも多くの命を助けることが「美しい」のです。

無闇矢鱈と精神論で頑張れば何とかなる

とか

自分の命はどうでも良いから災害に遭っている人を助けるのが最優先だ

という論理は破綻しているでしょう。
人間は命の危険にさらされた方の命の方が軽くあるべきです。
そして助けに行く人の命の方が重くあるべきです。
助かる順序としては

助けに行く人が助かって当然

であり

災害に遭っている人は亡くなったり怪我をするのは致し方ないこと

ととらえるべきなんですよね。
自然災害で起こるのが解らなかったから仕方が無いのではありません。
自然災害だからこそ、命の優先順位を守らなければならないのです。
これが人災なら書くまでもありませんよね。
当然ながら「救助隊員の命の方が大切」です。
救助隊員は救助の訓練を受けている故に、人を多く助けられる可能性を秘めています。
それをわきまえようともせずに、マスコミや被害者の家族たちは囃し立てることで被害を大きくしてきた事例が過去にもありますよね。
雲仙普賢岳のマスコミ加熱報道による人災などは許しがたい事です。
リポーターやカメラマンは仕方が無いとしても、それにつきあって亡くなった方たちは無駄死にを強要されたようなモノです。

津波に対しても対策を講じておくべきだとも思います。
水位基準面に近い所に住むということはそれだけでリスクを負っていることになります。
わたしは気が狂いそうになりそうです。
備えというのは

「何時何時何があっても大丈夫」

という完璧なモノはこの世の中には存在しません。
備えをしていても人は死ぬのです。
最善を尽くしていても死ぬのですから、何もしていない人の致死率はこれよりもさらに上がることは明白でしょうね。

車の運転で事故を起こしたならそれは誰の責任でしょうか?

車の運転も技術を向上させることにより事故を減らし、他の人の事故にも巻き込まれないようになります。
自分の運転の技術があげることが出来るのであれば未熟な運転をしている人にも対応できるようになるのは長いこと運転されているならば理解できるでしょう。

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