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扇風機の羽の真ん中をおさえるひねくれ者の日記

思うままに....
感じるままに....
JW1.5世の自分が生きてるのを不思議に思う、ひねくれ者の日記です。

Mind Darkness No.09 2008.11.17

2008-11-17 23:55:55 | Depression,Melancholy & Thought
おいらは根っからの完璧主義者です..................................................

しかし人は完璧には成り得ません。
完璧というのは神やキリスト、み使いたちしか成し得ないのです。
人が達成することが出来ることは「擬似的な完全性」でしか有りません。
その「完全性」も非常にか弱く貧弱な外見上での「完全」しか作り出すことが出来ません。
完璧は物事を全て間違うことも、失敗することも、意図した部分から脱することも無い「完全性以上の代物」です。
それに対して「完全」とは徐々に学び作業の完成度を高めていくことによって成し得ることが出来る事柄なんですな。

人間は完全に創られていました。
でも完全であっても知らないことは学ぶ必要があり、知ろうとする努力が必要だったことは聖書を読むと良く解ります。
しかし完璧ではありませんでした。
完璧だったならば神により頼む必要はありませんし、何かにすがる必要もないでしょう。
人は誰しも何かしらに依存して生きています。
どんな人間でもある種のPatternを構築し、その中でしか行動できないんですな。
行動原理というのはこういったモノから発生していきます。
人というのは非常にPattern化させることが多くてMannerism化との闘いを繰り返して生きていかねばなりません。
Pattern化し、Mannerismを起こすと言うことは完璧には物事を運ぶことが出来ないことを示しているのかも知れませんな。
これらのことというのは「進取の気性」を示すことが難しくなってしまうからなんですよ。
完璧主義の人というのは何事も、例え初めて行うことでも失敗を許しません。
出来るべくもないことで当然失敗しても当たり前だと言うことでも

自分自身を許せない

とか

人を許すことが出来ない

という感情を持ってしまいます。
まだしもです。
当然すべきことを蔑ろにして他のことを行っているのを知るとします。
そしてそれが繰り返し常習的に行われることになると更に飛躍的に苦痛が増す訳です。

おいらは完璧主義者です。

重要なこととして「家族の必要を顧みなければならない」と考えている人間が家の人間よりも他人に金を出すということは考えられないことなんですな。
これが必要が賄われているのであれば構いませんし、同じかそれ以上のモノを賄うことが出来ているのであれば文句もありません。

必要以上の出費を強いられ、自分の生活を逼迫させている車の費用に関しても今から考えるとおかしな話です。
おいらの計画では今の購入金額よりも数十万円単位で安く手に入れることが出来るはずでした。
加えて車の保険に関しても自分の生活が出来なくて親に養って貰わなくては生活が出来ない状態になる金額のモノを掛けていたんですな。
「これっておかしいのではないか」と思えるようになったのは明らかに間違いが発生していたからに他なりません。
これは購入当初から考えていたことなんですよね。
保険に関しては父上のSub Carとして登録させて貰って保険料を安くあげるつもりだったのです。

百歩譲ってもです。
そして「親に従順でありなさい」という聖書の言葉があってもですが、間違っていることを間違っていると言えないことというのはおかしなことだと思うようになりました。
今までが普通ではなかったということも書いておかねばならないでしょうね。
神経が衰弱し、消耗し何も考えられない状況で車の購入をしたことがこのような浪費に繋がっているということです。
つまりおいら自身が鬱病でなかったならばこのような事態が発生する可能性が小さかったということですな。
まあ鬱病により金が発生しているのですから文句の良いようもありませんがね。
一応はおいらの分とされているお金なのですからおいらに発言する権利が発生してもおかしくはないでしょう。

親は完全ではありません。
当然ですが、おいらは不完全の最たる例でしょう。
そんなおいらが僭越にも両親の過ちを指摘して、家族を苦しい目に遭わせています。

当然ながら、自責の念が湧いてきますがね。
人間として最低限の着るモノを購入したいという欲求があります。
肌着や下着、靴下などを購入したいと常々考えてきました。
仕事で使用するモノは購入できますけどね。
おいらは自分自身には着用する服に金を掛ける価値がないとしてきました。
これは基本的に変わっていません。

ところがおいらのこういった経済状態にさせたのは親だと言うことには異論はないんですよね。
親の仕事のお客さんだから買ってあげてといわれて、付き合いで車を購入し、付き合いで保険に加入しました。
切迫した金銭状況から脱しつつある昨今ですが、それでも許せないことがあるんですよね。
許せない自分自身も許せませんがね。

おいらの地方には「いのこ」という宗教に根ざした風習があります。
これはChristianとしては容認することは出来ませんし、参加もしません。
厄除けとされる行事を一軒一軒子供たちが回って、その返礼としてお金を貰うという風習です。
母上はしなくても良いと言いながらも回ってくる子たちにお金を与えました。
これは他の宗教を容認し肯定するという行為だとおいらは感じたんですよね。
確かに「いのこ」による厄除けの行為は行われませんでした。
しかしこれはある意味で宗教に対して寄付するのと一緒の行為です。
加えてそのような金があるのであれば多少なりとも、「少なくとも同額の」家族に対しての還元がなされなければならないでしょう。
家族の必要を顧みていないのに、他の宗教にお金を寄付するというのは二つの点で大きな過ちを犯しています。

まずは
・クリスチャンとして
これは書くまでもなく他の宗教を肯定することはNGなんですな。
例え厄除けの行為を行わなかったと言っても結局は「いのこ」という宗教に根ざした行為で回っている子供たちにお金を渡すという意味で間違って居るんですよ。
これはおいらなりの拡大解釈なのですがね。
子供たちには罪はありませんし、一生懸命に回ってくること自体にお金を渡したいと思うのは当然のことだとおいらは考えています。
しかし「宗教に根ざした風習」なのですから、妥協の余地は全くないのです。
お金を渡すという行為はクリスチャンとして明確な指針を持って行動していないと取られてもおかしくないでしょう。
悪のやり口としては妥協すると、更に大きな妥協を求めて押し寄せてきます。
よってきっぱりと立場を明確にし、毅然とした態度で追い払わなければならないのです。

・親として
おいらの金銭状況を親は管理していたのですから良く理解しています。
そしておいらがどのような状況で生活しているかも良く解っているはずなんですよね。
服装にしても現在着ている服の90%程度は両親が買ってきたモノか鬱病になる前に購入したモノです。
見窄らしい服を着て生活していることを見かねて服に無頓着な両親が購入してきたぐらいなのですから、かなりのモノだったのでしょう。
おいらは別に新しい服が欲しい言っているのではありません。
最低限の肌着や下着、靴下に事欠くことがないような生活をしたいだけなのです。
結構事欠きますからね~。
親のを借りたり、伸びきった下着やかたちんばの靴下で色の似ているモノを履いたりして対処しています。
FormalなPantsに関しては昨日書きましたが、夏服の一枚しか有りません。
春夏秋冬を通してこの一枚でほとんど生活しています。
Jeansに関してもですが、実質的に履けるのは2枚です。
一枚は履けていなかったのですが、最近少し痩せまして履けるようになったんですな。
後は太って着られなくなったモノの変わりに仕方が無く購入した服ですかね。

Computerの周辺機器やMac Pro
Photo関連
Stationery
Car用品
Audio

などを購入するぐらいならばそちらに金を掛ければ良いではないか?
と両親も実の兄弟姉妹も考えていることでしょう。


・価値観では仕事道具を兼ねているモノ
・人の役に立つモノ
・人が使用できるモノ
・長い目で見て周りによい影響を与えていくモノ

のほうが優先順位が高いんですな。
ComputerやPhoto関連の道具というのはおいらは追々仕事としていきたいと願ってやまないモノです。
つまりおいらとしてみれば仕事道具に他なりません。
まあMassage関係の仕事もすることになり、少し収入が発生したのでその発生した分をComputerの購入に充てているのです。
そしてComputerの修理やMaintenance ToolとしてもMac Proは非常に有用な役割を果たしています。
確かなこととしてStationeryはおいらの好みが出ていておいらが好きで購入しているモノが多いのは確かです。
でも自分が使用しても良いモノというのは制限を掛けています。
かなりの数のモノがありますが、使用してしまうと他の人にPresentできなくなるからなんですな。
車に関しては生活に欠かせないものですし、行動できないのですから当然だと思っています。
ただ普通車でなくても良かったと考えているところです。
長い目で見て周りによい影響を与えていくモノとしては例としてあげたモノ全てが包含されていますな。

それと比較するとです。
おいら自身が着る服というのは全く価値のないモノでゴミ同然だと思うんですよね。
ゴミを着ていれば良いんですよ。
服というのは好みがはっきり出る部分です。
そしてSizeも違うことから着まわしというのがおいらは出来ません。
おいらが着用するモノはおいら専用になってしまうんですな。
おいら自身に価値がないのですから、おいら専用のモノはゴミでしょう。

しかし聖書にはこのような言葉があります。
「自分の家族に必要なモノを備えない人が居るならば、その人は信仰のない人よりも悪いのです。」
つまり少しはおいらの着用するモノにお金を出す責任を親が負っていると言うことですな。
これはおいら自身がお金を浪費し、無駄遣いしているのであれば責任はありません。
ところが金銭的余裕がない事態を引き起こしたのは両親なのですから、多少なりとも責任は発生していると言うことになります。

こういったところで納得できなかったので強い口調で家族全員に発言したんです。
そりゃまあドン引きしますわな.................

おいらはいつも孤独ですので事態が少し前と一緒になったと思えば良いだけの話ですな。
おいらは「薄い空気」を吸いたくはありません。
効率よく濃い空気から息をしたいのです。

完璧主義というのは達し得ないのですからおいら自身が間違っていることは間違いないでしょう。
おいらの考え自体が破綻しており、おいらの存在自体がNGなんですよね。

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