「/(スラッシュ)」

ナニワのオッサン 怒りのエッセイ!!

/247.「定年性依存症」と「空巣老人」(孤独・生きがい)

2009-09-25 06:59:01 | Weblog
 また真夏日が出現した。だけど気にするほどでもない。段畑や河畔の岸に彼岸花が咲き乱れる様は、まさに花野の時季に相応しい風景だ。残念にも秋澄むサファイアブルーのシルバーウィークは連休半ばでしぼんでしまったが、降りそうで降らない曇天を恨めしそうに眺めながら中途半端に過ごす時間も、それはそれなりに非日常の功罪だろう。高速道路の渋滞に巻き込まれるよりはましだろうと(ホントは金がない)色々思案した揚げ句、日曜日から火曜日までの休日は、前々からお誘いを受けていた堺市に住む姉夫婦の家族とともに「テニス三昧」の日々を過ごした。さてどこに行こうかと迷った時は、気心が知れている姉に相談するに限る。僕にとっての姉は、金回りのいい頼もしい助っ人だ。

 お陰様で朝晩は料理上手な姉の恩恵を受けられたし、姉が所属するご近所のテニス同好会の行事にも特別参加出来たし、奈良・学園前の高級地にある普段は入れないテニスコートにも行けたし、夜は夜で例の僕の相棒とB級グルメ(と言っても立ち飲み屋や居酒屋での飲み食いの類)に舌鼓を打つことも出来た。「アンタはまるで民宿に寝泊りする居候やね」と、姉に皮肉を言われたが僕は全然へこたれない。2人には昔から、家族の中でも特別の信頼関係が築かれており、誰が何と言おうとそれは単なる「褒め言葉」に過ぎない。4人兄弟(姉妹)の中でも賢いもん同士。しかもカカア天下、の民宿の居心地はすこぶる良かった。

 そんな中、テニスの合間を縫って、姉の自宅がある「北野田(きたのだ)」にほど近い南海・高野線の「金剛駅」付近まで自転車でブラリングした。この駅の周辺には昔、数多くの田んぼがあり、秋には稲穂が頭を垂れる何とも言えない独特の雰囲気を醸し出す田園風景が展開されていた。田んぼの向こう側には「帝塚山学院大学」があり、キャンパスでは女子学生が黄色い歓声を上げながら青春のエネルギーを発散させていたものだ。ところでなぜ、僕はここに注目したのだろう? そう、忘れもしない。「ここ」こそは、僕が若い頃、第一本命の彼女との恋が実を結ばずヤケクソになっていた矢先、偶然にも次の本命候補となる女子学生と現(うつつ)を抜かした場所のひとつ、なのだ。

 彼女は、ナンバのキュートなハイレグ姿の「ウサギちゃん」がいるビアホールで知り合った大阪生まれのお嬢さん。その彼女と「熱く長いキス」をブチューと交わしたのが、何を隠そう、彼女の通う帝塚山学院大学の前にある田んぼのど真ん中、だった。田舎芝居じゃあるまいし、当時なぜ僕が彼女をあんな場所に誘ったのかは、残念ながら記憶が定かではない。でも、強烈な印象として残っているのは、純真無垢な彼女の香りと秋風に揺れる稲穂の香り。つまりあそこは、僕のセピア色の甘酸っぱい青春の1ページを飾る場所でもあるのだ。

 僕はしばし、彼女の面影が消えないように田んぼの周辺に佇んだ。しかし、当時の風景は僅かに残るのみ。帰り来ぬ青春とは、こんなに切ないものなのか。とまあ、昔日の思い出に浸ることもあったシルバーウィークの日々だったが、さあここで、ご当地クイズだ。我が姉が住む堺市の北野田周辺には、恐らく僕が今までの人生で一番多く歌ったであろう、あの名曲「昴」で世界的に有名な谷村新司さんが学んだ大学がある。さて、その大学とは? ・・・・・。正解は「桃山学院大学」だ。谷村新司さんもこの大学で時には傷つき、時には喜び、時には恋に苦しんだことだろう。そして、その青春の向こう側には僕の第ニの恋を育んだ西日に染まった茜色の田んぼがあった。と、ドラマチックに締めくくっておこう。ちなみに彼女の消息は、今は不明だ。

 今日はまず、隣のオバチャン肝いりの気になるランダムニュースから。 「ニュースJAPAN」のキャスターを降板した滝川クリステル。 酒井法子夫婦の「シャブ・借家兼別荘」が不審火で全焼。 恐い怖い古い消火器。 「おらあ、しんのすけだ、とケツを見せるクレヨンしんちゃん」の生みの親・臼井儀人さんが荒船山の断崖で謎の死亡。 敬老の日に「ジージ、バーバ」の言い方に不満。 あの夏の出来事がなかったかのように紅葉する大雪山系。 「スラッシュさんの頭が一番冴えるのは汗を掻いた後、だから当たり馬券の検討はその時やってよ!!」 うーん、僕の答えは「確かにそう、でも星も冴え冴えする晩秋まで待ってくれ」 もう遅い?

 味の悪そうなサンマの臭い。 足が小さいスラッシュさん。(なぜなの?) 今や嫌われ者のエチゼンクラゲの天敵は、鍋(水炊き)すれば安上がりで美味い「ウマヅラハギ」だそうな。 スラッシュさんの自転車エアロビクスは、今流行の「散走」と命名すべし。 「ヒミツ(秘密)のケンミン(県民)ショー」の「数寄屋橋はるみ」はカワイイねえ。(僕も同感) フランスの「連帯市民協約」=「結婚未満」はええんとちゃう。(右に同じ) 連休に「穴場スポット」を選んだ旅行者は賢い。(左に同じ) 初先発で敗戦投手になったものの、3回まで走者を出さなかった吉田エリちゃんは立派。(その通り) またまた不可解「弁当男子」 以上です、とのこと。

 ここからは僕にバトンタッチ。慌てるので、鳩山外交が始まった政局のニュースを短く。 「25%のカーボンマイナス」と「鳩山イニシアチブ」の国際公約は赤丸付き急上昇している。その裏にあるキーワードは「世界の国々が足並みを揃えること」だろう。 八ツ場(やんば)ダムの見直しなど前原国交省のチェンジは白熱している。僕は、セーフティーネットの舞台である長妻厚労省に一番期待する。 新型インフルと景気の兼ね合いも難しい。 これからの政治家は、下書きを見ないで自分で考える説明能力が必要だ。 ビートたけしさんが「TVタックル」で、「自民党は酒井法子と一緒に逃げた弁護士と同じ扱いだった」と苦笑していたテレビ報道。これには鳩山流でちょっと一言。「捨て石では仕方ないじゃないですか、皆さん!!」 本日はこれまで。

 さあ急ごう。次は今日のテーマへのアプローチだ。 秋分の日の夕刻、気分転換で行ったご近所の風呂屋さんで、見たくないものを見てしまった。宿敵ジャイアンツの優勝の瞬間だ。8回も宙に舞った原監督。タイガースファンとしては、声も出なかった。ここは、沈黙は金だ。 もひとつ、見たくはないものを見てしまった、という気がするのは、北アルプスの乗鞍岳・畳平で起こった「ツキノワグマ・パニック」だ。人間を襲うクマが「馬乗り」になった図、羽交い締めの図、仁王立ちして左右フックを食らわしている図。僕はかなりの衝撃を受けた。

 この季節は、クマにとっては冬眠前の食い溜め期。2702メートルの高山帯には、エサがない。なので、山小屋の残飯漁り(あさり)に登って来た可能性が高い。暴れ回って射殺されたクマは、小型だった。彼に罪はなく、ちょっと可哀想だ。元々彼らは木の実など森の食糧、つまり大自然の恵みに依存しながら、細々と生き延びて来た。森に取り残され、行き場を失い、「孤独」になったクマが決して手を出してはいけないものに依存すると、命が危ない。今回はそんな話しをしたい。勿論、僕も該当者になる可能性がある。

 最近になってクローズアップされているのが、高度成長期に激しい競争に晒されながら「会社人間」「企業戦士」として仕事に打ち込んで来た団塊世代が、定年退職とともに悪趣味などに溺れてしまう、という状態の「定年性依存症」だ。同症状該当者が依存に向かう先にあるのが「アルコール」「ギャンブル」「出会い系サイト」などなど。しかもこの症状は突然やって来る、のが特徴だ。その原因は大抵の場合、自分自身にある。ごく単純に言えば、「働くことしか才能がない」自分に対するしっぺ返しだ。彼らは、現役時代から働き方や休日の過ごし方がある意味、一面的過ぎた。そう、好むと好まざるとに関わらず一方通行だったから、だ。そのため、「孤独」と「生きがい」に蝕まれる日々を送っている。

 ある男性は、例えば退職後、次の朝起きる心配がなくなり酒を飲む量が増え始めた。起床とともにお茶代わりに酒を飲む。庭の草むしり、朝の散歩で咽喉が渇いたら飲む。昼食を取る最中も、風呂上りも、夕食時も飲む。初めは日本酒だった。次に家計を考え安い焼酎を水やサイダーで割って、一升瓶を2日に1本のペースで空けた。と、ここまで書けばもうお分かりだろう。この男性は、元から酒好きだったのだ。好きこそ物の上手なれはこの場合、通用しない。こうやって飲み続けた結果、肝炎になり医者に「酒を止めないと死ぬ」と言われた。なのに、自覚症状がないからと止めなかった。行き着く先はもう、いちいち説明する必要がないだろう。しかしこの男性は今、過去を反省しつつ近くのジムに通ったり、地域防犯パトロールに参加したりして、ヒマな時間を作らないようにしている。

 例えばある男性は、無遅刻無欠勤の優秀な社員だった。当時は、同僚とお酒を飲んでも次の日はきちっと目が覚めた。働かなければならない、という緊張感があったからだ。ところが定年退職の際、子供から「父ちゃん、ゆっくりしな」と言われ、こう返事した。「そやなあ、これから何しようかなあ。ちょっと一杯飲んでから考えるわ」 それ以来、住んでいる団地の仲間とビールや酒を飲むようになり、ついには段々と時間が遅くなった。そして、起きている時間はずっと飲んでいる状態になった。この男性の行き着く先も同じだ。彼は言う。「仕事も終わって、子供も巣立って、やれやれという反動だった。今思えば、酒でヒマをつぶすのではなく、他のことをしていれば良かった」 だが、幸いにも大きな不幸とはならず、今は日中に通院し、夜は地域の自助グループに通っている。

 次に紹介するある男性は、スーパーに勤めて仕入れ、販売、伝票整理と一通り何でもこなした。50代でスーパーが他社と合併し、突然上司が変わった。副店長だったが「給料ばかり高いな」などと皮肉を言われ、嫌な思いを何度もした。でも、家族には絶対に仕事の愚痴を言いたくはなかったので、若い頃少しやった経験があるパチンコで憂さを晴らした。そして、定年退職の前後には貯金通帳から毎日5万円ずつ引き出した。それでも足りず、消費者金融5社から20~30万円借りた。こうしてこの男性も、サラ金業者のしつこくて無謀な取り立てに苦しむことになった。彼は言う。「パチンコで一発当てれば何とかなると思った」 しかし、この彼も考え方を改め、今は自助グループに参加して、自分の体験を話すことが日々のはけ口になっている。彼は続ける。「現役時代は企業に押さえつけられて、いきなり放り出される。あの頃から趣味があればいいんでしょうが、そういう人って多くはないと思う」

 出会い系サイトに溺れた男性や、競馬などの公営ギャンブルにはまってしまった男性も大勢いる。彼らも恐らく、現役時代に真面目に働いていた反動で、会社を辞めた途端、他にすることがないから、ヒマに任せて、色情や射幸心に走るのだ。時間がないので省略するが彼らの行き着く先も、ある程度想像がつく。もし、良い方向に進んだのであれば、これも不幸中の幸い、と言うべきだ。

 このように以上の例は、決定的な地獄を見ていないので、まだましな部類だろう。なぜなら、世の中にはこれだけでは済まされない「悲惨な挫折者」が山ほどいるからだ。その人達こそ、もっと不幸のどん底を味わっている「定年性依存症」の真の犠牲者なのだ。そして、上述した通り彼らの特徴は、若い頃からアルコールやギャンブル、出会い系サイトなどで問題行動を繰り返す若年性の依存症とは違って、退職前後に急に依存症に陥ってしまう、ということだ。このことを反映してか、例えば全日本断酒連盟の60歳以上の会員の割合が、01年度は41%だったが、08年度は53、3%と全体の半数を超えている。

 専門家はこう指摘する。「仕事一筋の人が、定年後に新しい趣味や生きがいを見つけるのは難しい」 だから、「働いているうちから、『人生は仕事だけじゃない』と、意識することが大切。平日は仕事に没頭しても、アフター5や休日は家族と暮らし、メリハリをつける。こうした心がけが必要だ」とアドバイスしている。「自分の最良のコーチは自分である」と言ってはばからないのは、経済評論家の勝間和代氏だ。彼女の意見に従えば、「定年性依存症」に陥る人は、現役時代多分、こう思っている「企業にとっては優れた人」だったのだろう。

 しかし、彼女が強調する「どんなに優れた人でも、相手のことを全て理解し、心底から親身になってフォローアップすることは不可能なのです」と語るフレーズの「相手」を「自分」に置き換えれば、現役時代の会社であれば、例えば「どこかに優れたコーチがいて、私を導いてくれる筈だ」という思い込みなどを捨てた途端、「自分以上に自分のことを親身になって考え、分かってくれる人なんて、どこにもいない」と気づかされたが、もう遅い。という現実にぶち当たっているのが、「定年性依存症・その人」なのではないだろうか。

 時間の都合で諸々のことは割愛するが、この症状は会社の接待などで必要以上に暴飲暴食して、自分の知らないうちに「ポーニョ、ポニョ」になっている「メタボ現象」にも類似している。老いも若きも人間は卑しい動物だ。あまりに会社や他人、物への依存度が強過ぎると、その反動が恐い。自分の身を滅ぼさないように、くれぐれも注意した方がいい。

 「定年性依存症」と比較して、僕にとってもっと不憫(ふびん)な言葉がここに来て世間に出回っている。「空巣老人」だ。朝日新聞の「天声人語」によれば、「空巣老人」は「空巣狙いの怪老人」ではなく、「一人暮らしのお年寄り」のことだという。 「雛が育って飛び立てば、巣は空っぽになる。一人っ子政策の影響などで高齢者だけ残される世帯が増え、かの大家族の国でも社会問題になっている。お年寄りをさいなむ孤独感は国を問わず影が濃いようだ」 ここでちょっと一言。待てよ、僕は今、59歳の独身男性だ。雛を育てた経験はあってないようなものだが、それよりこれは、僕の行く末を哀れむ言葉ではないか。けしからん。こんな言葉、聞きとうはなかったわ!!

 気を取り戻そう。とは言ってみたものの、社会問題化しているお年寄りをさいなむ孤独感は、この国でも日に日に深刻だ。例えば、我が大阪にありがちな「万引き」をした高齢者に聞いたら、動機に「孤独」や「生きがい」を挙げる人が目立っていて、しかも9割が友人は「いない」「少ない」と答えたそうだ。この調査をしたのは、警視庁。それだけにグッと来る。そして、そんな人生への絶望感は、「脳卒中などの危険を高める」ことが最近の米ミネソタ大の研究で分かり、日本の秋田大の調査でも生きがいのある人は「脳卒中のリスクが低かった」という。またまたドキッとする。

 僕は思う。確かに前向きな気持を失うと、あらゆる方向に害ばかりが増える。特に意固地な男性は女性より、その傾向が強い。老いてからの友情の芽も、若い頃に比べると丈夫ではない。それゆえ考え方も、後ろ向きになる。これを前向きにチェンジする役目を果たすのが「糟糠の妻」だろうが、僕にはそんな助っ人がいない。今後この弱点を「いかに克服するか」が僕の課題だ。また、こんなご時世だ。今や、定年後を悪妻と化した長年の連れ合い人と暮らす恐妻家の「元暴君」も、質の違う課題を抱えている。

 ましてや定年後、働きたくても働き口がない、失業率も有効求人倍率も最悪、という厳しい雇用情勢。ここはひとつ、男どもは現役時代の過ちを素直に反省して、何とか生活出来る範囲内で、悪妻人(びと)の助言に従って生きることが肝要なようだ。特に、勢いに任せて妻を「召使い」扱いした分からず屋は、暴言を慎むべきだろう。事実、今日例に挙げた「定年性依存症」の男性の大半は、奥さんの助言があったから再生出来た経験の持ち主、ではないだろうか。ここで僕なりの法則を書こう。男どもよ、定年後の人生はより前向きな妻の意見に従って行動せよ。地域のことは、地域に長く生きた妻の方がよく知っている。

 もっと強く忠言したい人種がいる。例えば今まで、人生の大半をバクチで生きて来たであろう「肉体労働者達」だ。彼らは、強引さが売り物の超暴君だ。なので恐らく、「空巣老人」どころか、本物の空巣狙いの怪老人になる危険性を秘めている。悲しいかな彼らは、職場の福利厚生にも恵まれず、そのうえ妻には「誰のお陰で飯が食えているんだ!!」などと声を張り上げていた罵倒派人間だ。この実績は、バクチ場に行って言動を見れば一目瞭然。もし彼らが僕のような独り者にでもなれば、空巣老人の怪も一層社会問題化するだろう。つまり大阪で言えば、日本一の無法地帯に「アルコール」「ギャンブル」「出会い系」のみならず、新たに「万引き」に走らせる条件が整ってしまう、ことになりかねないのだ。

 もう一度換言しよう。このような体質は一朝一夕にはなかなか直せない。なので、地域の最大貢献者である奥さんは、現役時代はああだこうだと我が物顔で命令しておきながら、この場に及んでなんで今更、なんて言わないで、「もっといい趣味を見つけて生きがいを増やしましょう」などと、旦那さんに呼びかける心構えを持とう。そう、これが新しい時代のポジティブな夫婦の生き様のひとつ、でもあるのだ、ということを肝に銘じて。

 ちなみに僕は、行き先を誤らないように、「末広がり」ということで趣味の励行など大きいこと小さいことを含めて、「8つのテーマを自分に課す」生活を半ば強制している。このブログもそのひとつだ。理由は簡単。その方が雑念が増殖せず、ヒマを持て余すリスクを避けられるからだ。仮にこれを、僕の「生きがい」とするならば、これを継続することがちょっとは「定年性依存症」と「空巣老人」の防波堤になるだろう、とこう考えている。

 つまりこれこそ、僕なりの人生の深い読み、だ。もし定年後、ヒマを持て余して、例えば思慮の浅い勝てる筈がない「ギャンブル」や、「アルコール」「出会い系サイト」、あるいは「万引き」などの「破滅が失望に至るプロセス」を選択するならば、僕の中の「善玉・空巣老人」がそれを許さないだろう。「獅子、身中の虫」は、常に自分の中にいる。

/246.今、なぜ「便所飯」なのか(青春の「たまり場」)

2009-09-18 10:33:44 | Weblog
 敬老の日・秋分の日を含むシルバーウィークが目前に迫った。岸和田は「だんじり祭り」で賑わうのだろう。僕の予定は未定だ。冷やかさを感じる今日この頃、稲穂も一層重くなり、現代風にアレンジされた案山子の傍でスズメと赤トンボが追い駆けっこしている。山や里の木の実が色づき、コスモスとマンジュシャゲの共演が望まれる校庭では運動会が盛んだ。夜の主役・虫の音合唱団は、一段とトーンを上げている。見上げる空、澄んだ空気、カラッとした爽やかさ。自然の全てが秋めく時季は、精神のリカバリー、旅情の季節でもある。畑の果実が色づけばついに待ち焦がれた食欲の秋。我が腹の虫も喜び勇んでところ構わず大声で鳴く。

 旅情の季節にツキモノなのが、病院と自宅を行きつ戻りつしている僕の相棒(男)が好きなB級ご当地グルメ。静岡・富士宮やきそば、埼玉・東松山のやきとり、山形・冷たい肉そば、栃木・宇都宮餃子、もひとつ静岡・静岡おでん、北海道・豚丼、愛媛・焼豚玉子飯などなどの人気グルメを「みんなまとめて面倒みよう」と、彼は意気込んでいる。「私は静岡おでんの『黒はんぺん』がお気に入り」と、隣のオバチャン。では僕はと言えば「辛みの利いた東松山のやきとり」と、言っておこう。土曜日から始まる5連休、9連休を利用して、安い高速料金で「全国B級グルメ食べ歩き(走り)」を目論んでいるむさぼり食い意地張り人が各地にたくさんおられることだろう。出来るものなら一度、やってみなはれ!!

 今日の政局の話題はこれしかない。9月16日、歴史に残る1ページ、鳩山連立内閣が発足し、いよいよ新政権が船出した。見渡せば、いい顔ぶれだ。政策や人物評まではここに書いていられない。ので、その代わり去り行く麻生さんに言っておきたいことがある、と隣のオバチャンが口先をとんがらせている。では、聞いて下さい麻生さん。「こら、麻生さん。アンタも(悪い意味で)歴史に名を刻んだね。ところでアンタ、行きつけの高級バーで何してたん? アンタは場末のスナックで小皿たたいたことないやろ。チャンチキおけさ歌ったことないやろ。そんな庶民の気持分からんから捨てられたんや。これからは漫画ばっかり読まんと、京都・清水寺の年末恒例行事『今年の漢字』の再開が決まった『漢検』の試験を、とっとと受けなさい。分かった? ほな、さいなら」 

 オバチャン、ちょっと言い回しが古いけど、スゴークいいとこ突いている。僕は何かにつけて文句を言う「一言居士」ではないけれど、アンタにだけは文句の塊になって、もの申したかった。幸いにもオバチャンが代弁してくれたから、これで腹の虫が治まった。ともかくも自民党はこれから、羅針盤なき航海に出る。後悔、先に立たずだ。グッドラック。

 スタートラインに立った第93代首相は、就任後初めての記者会見に臨み、今後の抱負を語った。語り口は、人となりが出て終始穏やかで、小泉劇場に見られた表に出る熱狂はなかった。でも、感激と責任の裏にある心の熱狂は充分僕にも伝わった。自分に活を入れるかのような重みのあるワンフレーズ・ワンフレーズは、聴いていても張りがあり、気持が良かった。つまり、聴き応えがあったということだ。また、これから起きる出来事を想像すれば、スリリングさ、さえも感じた。新首相にグリード(強欲)はない。ふむ、新しいってことはこういうことなんだ。僕までチェンジしたい気分になる。まさに歴史の変わり目に相応しい世直し政権の滑り出しだった、と思う。

 その中で、一際印象に残るワンシーンがあった。「未知の世界に遭遇して行く。失敗もあるかと思う。その時は是非、内向きにならず外向きに」と仲間に訴えた時の、あの一瞬の「美しい静けさ」だ。この言葉、平凡だが、それでいて異例で正直だ、という側面がある。会見場の誰もが思わず背筋を伸ばした、と僕は直感した。そして何よりも、生命力がある発言だった。人の手が創り出す美しいものには優しさと生命力がある、と有名な芸術家が語っていたが、まさにその域に達する生命力が鳩山さんの顔にも溢れていた。僕も素直に応援したい気持になった。

 しかし、この人も麻生さんに劣らずかなりの資産家だ。日本人の常として、表裏の熱狂はすぐ冷める。注意した方がいい。それでも、「宇宙人」の言葉には山口百恵の「イミテーションゴールド」はない。ちゃんと自分の言葉をハートで語っていた。でも、スピルバーグの「未知との遭遇」は突然やって来る。即対処する、のは非常に難しい。なので、すぐ効果は出ない。正否を判断するのには、それ相当のハネムーン期間が必要だ。それが、鳩山政権のアドバンテージだ。

 マスコミも興味本位でやたら斬り込むのではなく、この点を考慮した冷静な対応で報道すべきだろう。つまり例えば、「権力の二重構造」などと為体(えたい)の知れないフレーズで国民を混乱させるのではなく、まずはチェンジしつつある政治を底辺から支える、といった努力が欠かせない。財界にも同じことが言える。緊張を緩和させるため、私事として鳩山さんには今一度、「太陽をちぎって食べている」と発言した「不思議夫人」を前に「キャベツ畑の中心で妻に愛を叫んで」もらいたい。それが、「宇宙人」と「不可解キャラ人」を結びつけた「嬬恋村」の原点だから、だ。

 考えてみれば、時は移ろい、世は競い合うより運命を共にする時代、そして女性を生かす時代だ。女性は、国民の台所と子育てという大事な命の源を守っている。その意味で、党のために反対するのではなく、国民のために賛成する姿勢も重要な観点となるだろう。また、歴史の変わり目には「若い力」が台頭するのが過去の必然。是非とも彼、彼女らの可能性に賭けて欲しいものだ。僕が新政権に対して最大評価しているのが、世界から喝采を浴びた温室効果ガスの「25%削減」だ。この本質は、地球温暖化防止と新しい産業をどう創るか、だ。産業界は間違えてはいけない。進むべき方向はただひとつ。

 鳩山首相は、「党首力」「政策力」「変換力」「統治力」「求心力」を駆使し、良い顔ぶれの面々と協力し合って、アメリカ一辺倒ではない「アジア型の統合」目指して頑張ってもらいたい。手始めは、10年度予算の編成方針の策定と前政権が作った09年度補正予算の執行凍結に着手することだろう。くれぐれも惰性や癒着、隠蔽等のしがらみが出ないように政界の大掃除に徹し、国民が望む政策の優先順位を誤らないよう、その判断力を磨いて欲しい。その上で、民間との新たな回路を協働で見い出すことだ。例えば、国家戦略局という前時代的な名称が気にかかるが、官僚を全面的に無視しないで、ハネムーン期間中は彼らと党の全員でとにかく切磋琢磨する心構えを持って欲しい、と思う。

 ところで、タッチフットボールが趣味の鳩山さんの曽祖父・和夫さんは、岡山県の美作(みまさか)・勝山藩士の子に生まれたと聞く。ここは、僕の相棒が生まれた故里に近い。現・真庭市にある町(勝山)には旭川が流れ、白壁の土蔵やなまこ壁、連子格子、石壁の家々が今も残る「城址を取り囲む武家屋敷と商家群」が有名だ。僕も行ったことがある。この様はまさに、美作の小京都の名に相応しい。

 旭川の上流にあるのが、全国露天風呂番付で「西の横綱」に選ばれた実績を持つ言わずと知れた「○○温泉」だ。○○ダムの直下にある「砂湯」と呼ばれる野趣に溢れた天然露天風呂は、○○温泉一番の観光スポットだ。また、澄んだ空気に清らかな流れ、緑豊か紅葉豊かな山々に立ち上る湯けむりを愛でながらの「温泉街ブラ歩き」は、山里ならではの風情と味わいがある。そして、あの独特の温泉の匂いがたまらない気分にさせてくれることだろう。

 僕は昔、現在「足湯」がある付近の旭川の中洲にあった「よしず張りの混浴風呂」で数人の若い女性と遭遇したことがある。みんなスタイルが良くキレイだった。あの時の夢心地は、今でも僕の語り草だ。でも、僕の相棒は「今は未知との遭遇は無理かも」と言っている。ではここでクイズだ。個性的な幾つもの温泉(湯宿)や穏やかな時の流れに身を任せられる奥津、湯郷と並ぶ「美作三湯」のひとつである温泉の名は? ・・・・・。正解は「湯原温泉」だ。「是非行ってみて欲しい」と、自称・真庭観光大使の僕の相棒が話している。

 さあ今日は、ランダム・ショートショートを復活させる。まずスポーツ。108年ぶりという気が遠くなるような時の流れを経て、「9年連続200本安打」の大リーグ記録を達成した超人イチロー。前もって自分でプロデュースしたか、と思えるほどのインタビューの受け答えは、あくまで自分に厳しく、しかも淡々として弾けない。彼の動体視力と隠された饒舌に、またまた天才ぶりを見た思いがする。宇宙人の鳩山さんも「彼にあやかりたい」と言っていた。

 「エストロゲン」VS「アンドロゲン」、世界選手権・女子800メートル金メダル・南アフリカのセメンヤ選手は、卵巣がなく精巣が体内にある「両性具有者」だった。彼&彼女のことを誰がセメンヤ?! 5年ぶりに現役復帰して短距離自由形を大会新で制したハギトモは凄い。 ナニモノかを完全につかんだ女子ゴルフ・諸見里しのぶちゃんは、今やオーラが出ている自信満々のプレーヤーになった。 などなどのスポーツは、実践するも観戦するも僕の楽しい気晴らしだ。

 次は社会。天下りOBの年収を指示した独立行政法人「高齢・障害者雇用支援機構」とは、いったい何様や!! またも発覚した障害者団体の補助金流用、その名は「さくら市」という美名の街にある「ハートピアきつれ川」 堺市長選挙にも顔を出す橋下大阪府知事。知事アンタも出るの好きやね。僕の昔(クイズ番組など)とそっくりや。 事務次官会議が120年の歴史に幕、戦々恐々の霞ヶ関。 民主党には破産しても頑張る、という人がいる。経緯よりも、僕は心意気を買う。

 淀川の「シジミ」は案外美味かった。「ドラゴンボール改」は面白い。「ペッパーランチ」と「ステーキのどん」の角切りステーキは危ないよ。サルコジ大統領は「山椒は小粒でピリリと辛い」って言うの知らへんね。以上3点は隣のオバチャンの弁。 僕の気になったことを続ける。 奥穂高岳の「ジャンダルム」に隣接する「ロバの耳」で起こった救助ヘリ墜落事故。 「アップルのプレーヤー」と「ソニーのウォークマン」の携帯音楽販売合戦。 「デルタ航空」と「アメリカン航空」のJAL争奪戦。 まだ終わらない、もっと短く。

 山中教授の「ラスカー賞」受賞。 鉄道ファンが選ぶブルーリボン賞に「小田急ロマンスカー・MSE」 あの日本最大最強のH2Bロケット。 あの田中氏が選挙戦で連呼した「ベーシック・インカム」とは? あの吉本興業の非上場化。 あの「イージーライダー」(映画)のデニスホッパーとピーターフォンダの共演は、いつ観ても昭和44年が甦る。 僕もドキッとした、あの慣用句誤用。きっとこのブログにも「あると思います」 夫が出て来たのに(保釈)、まだ出て来ない。今はもう「飯時」だ。早く臭い(怪しい)ところから「♪出て来い、出て来い、池の鯉(酒井法子)♪」と思っていた矢先、ついに「あやつ」が出て参りました。今日はこの「ノリ」(のりピー)で植木等さんではないけれど、一言文句を言いたい。

 ある日の昼休み、行きつけの飯屋さんで何気なく週刊誌のページをめくっていると、普段あまり見かけない不可解で不思議な言葉が視界に飛び込んで来た。その言葉は「便所飯」、なんじゃこりゃあ?! ますます食事が不味くなるではないか。「便所バエ」「便所バチ」なら遠い昔に見たことがあるけどなあ。と思いつつ、記事を読み進めるとやっとその意味が分かった。何と何と「便所飯」とは、「一人で食べる姿を見られたくないから、トイレで食事を取ること」らしく、これが大学生など若者の間で広がっている、という。

 その途端、僕は怒った。確かに人間は他の畜生とは違って、何でもかんでも食べてしまう、つまり果てしなく食い意地が張っている生き物だ。だから、他の生物よりも賢く進化して良くも悪くも今や、地球一番の存在になった。ひょっとすれば、日本人がその頂点にいるのかも知れない。だけど、かといって厠(かわや)で飯を食べるなんて、あの「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」と言われた聖徳太子でも許すまい。これは本当に見苦しい、さもしい、はしたない姿だ。まほろばの国に住む人間の一人として恥ずかしい。なんてザマだ。おい、いったいどうなっているんだ。だいいち便所で飯を食っても全然美味しくないではないか、バカタレ!! 

 とまあ、60歳近いオッサンがあまりわめき立てても身体に悪いだけ。それより、日本が新しい世の中に生まれ変わりつつあるこの場に及んで、「便所飯」をテーマにする己の根性の方が恥ずかしい、のかも知れない。しかしそれでも、あの悪態にだけは一言文句を言っておかねば気が済まぬ。ましてや攻撃対象は、明日の日本を支える若者達だ。と思いつつ、こんな時期にこんな話題で申し訳ないと反省しながら、このまま話しを続けることにする。出来得れば、このブログを読んでくれる人が食事後であることを切に祈っております。

 「臭い話しは連鎖する」のだろうか。あれから数日経って朝日新聞の朝刊を読んでいたら、同じような記事が掲載されていた。例えば「便所飯」の実態を探るため、法政大学の尾木教授が同大学の学生487人にアンケートした結果がある。それによると、回答した400人の内、「便所飯をする」学生が2、3%(9人)もいた。また、「一人で食堂に入れない」「いつも友達と一緒じゃないと落ち着かない」という回答もあった。次の瞬間、僕は思った。それ見よ、何をか言わんやだ。

 この数字を少ないと採るか、多いと採るかはその人次第だろう。でも僕は、理屈抜きに「多い」と思った。かつてのヒルマン監督ではないが、シンジラレナイ。僕の記憶では、若い頃こんな「便所飯」をする恥ずかしいヤツなど一人もいなかった。おまけに僕は、「連れション」「便所着替え」ですら嫌いだった。なのに、どうしたことだ。時代が変わった、と言われればそれまで。しかし、僕に言わせれば一人でトイレに行って食べることが全く納得出来ないし、そのこと自体がまるで不可解で不思議の世界の出来事だ。なぜ、多くの学生達がこんな行為をするのだろうか。何が若者をこんな気持にさせるのだろうか。実に理解に苦しむ行動としか言いようがない。

 尾木教授は毎回講義の最後に、学生に質問や悩みを自由に書かせているらしい。その質問のひとつに「トイレに『食事禁止』の張り紙があるって本当ですか」というのがあった、という。どうやら事実のようだ。この事実に、僕はまたビックリした。何でトイレにあんな張り紙をする必要があるの? そもそも張り紙があること自体がおかしい、と。じっくりと想像してみて欲しい。物心がついた大の男(女も)どもが、大学のトイレでドキドキ、ウロウロしながら一人寂しく昼食を取る様は、誰が考えても滑稽だ。とても最高学府に相応しい光景だとは言えない。僕ならば恐らく、30秒も持たないだろう。

 僕にとって驚くべき結果がまだある。「一人で食堂に入りにくい」という学生が「よくある」と「少しはある」を併せて6割近くいた。また、「昼食は友達と一緒でないとみじめだ」という学生が「よくある」で31、8%、「少しはある」で13、3%。「いつも友人と一緒でないと落ち着かない」という学生が「よくある」「少しはある」併せて23、5%もいた、とのことだ。これも僕には信じられない不可解で不思議の世界だ。一人で食べるのがなぜ、みじめ何だろう? 自分にやましいことがないのなら、もっと自信を持って堂々と一人で食事をしたらどうなんだ、と言いたい。

 けれども、学生生活を充実させる楽しく喋るスペース、つまり「たまり場」が欲しい気持は分からぬでもない。が、女の腐ったヤツでもあるまいし、せめて男ぐらいは他人の目を気にせず食事をしてもらいたいものだ。でないと、たかが食事でこんなみじめな思いをしていたら、これから先、もっともっと執拗なほど息苦しい人間関係のルツボ、つまり嫌というほどのプレッシャーがドーンとかかる大人の実社会の荒波に対処出来る筈がない。渡る世間は鬼ばかりだ。この(食事)程度の小波に躊躇していては、とてもじゃないがまともなセーリングが出来っこない。若者よ、よおーく考えてみよう。

 尾木教授は、東大や早大の聞き取りをしても同じ傾向になる当世の「変わりつつある学生の姿」をこう結論づけている。「一人ではいられない学生の本質が浮かび上がってきた。その突出した現象が『便所飯』ではないか。依存度が高く、他人の目が気になるのは(己を持たない)思春期の発達の特性だが、それは小5から中3の発達段階。高校時代、人との交わりや生活体験が抜け落ちてしまっているのでは」 なるほど。この指摘はまさに、我が意の的を射ている。

 僕は思う。学生が一人で食堂に入りにくい大きな原因のひとつは、個人のコミュニケーション能力が低過ぎるから、だろう。だから孤独に耐えられない。もし個人のコミュニケーション能力が高ければ、こうはならない。あの場合、僕であれば一人で食堂に入って寂しいと感じたならば、自ら意を決して隣の学生と積極的にコンタクトする。彼、彼女らは多分それが出来ないから、自分がうっとおしい存在だと勘違いするのだろう。そしてそのように、自分が弱い人間だと他人に認識される、または友達がいないと思われるのが嫌で、侘しい侘しい「便所飯」に走るのではないだろうか。仮にこんなつまらない動機であるとするならば、彼、彼女らは他人に話しかける勇気がない幼稚な小中学生の域を出ない人間だ、と僕は結論づけたい気がする。要は心の持ち方だ。

 人との交わりや生活体験が抜け落ちてしまっている高校時代、という教授の意見に従ってもう一言提言すれば、その背景にある大きな主因の一つは、「デジタル」に溺れた世代の「アナログ」のコミュニケーション能力不足だろう、と僕は考える。つまり、人間同士の生の対面会話をデジタルが奪っているのだ。これに、バーチャルが追い討ちをかけている。その代表的なものが、ケータイやパソコンのメールであり、ゲーム機なのだ。これは、例えば家の外で電車などの交通機関に乗車すれば、一目瞭然、すぐ答えが出る。

 この辺でちょっと回り道をして僕の過去を振り返ってみると、我々世代の高校時代は、あれこれと自分の気持を相手に伝えたいために、なりふり構わず、良くも悪くも一所懸命面と向かって会話して、己のコミュニケーション能力を磨いたものだ。しかもごく自然に。そして、たまには全然知らない相手にも積極的に自分の思いをぶつけた。つまり「ポジがポジを呼んだ」のだ。これぞ、外向きのアナログの良さが充分発揮された現象で、対面会話の真髄が充分機能していたのだ。

 だが現在は違う。人と人との濃厚なコミュニケーションの方法がケータイメールなどに様変わりした結果、今や都会や田舎のどこへ行っても、相手が見えないデジタルの内向きの世界に閉じこもっている学生(高校生)がもの凄く多い。まるで見えない何者かに取りつかれたかのように、自由な行動を縛られながら身じろぎもせずじっとメールを打つ学生の姿は、僕から見れば超異常だ。家の中の姿もほぼこれに同じ。メールやゲーム機は、明らかに家族からアナログの会話を奪っている。これでは、高校時代にコミュニケーション能力は育たない。このように、コミュニケーションの方法をデジタルに依存した高校生達は、アナログの会話の良さを半分も享受することなく、対面会話能力が未成熟なまま、大学生活に入ってしまっているのだ。僕は、自分なりにこう想像している。

 では、僕の高校時代の飯時と言えば、例えば食べる姿をじろじろ見られたくない学生が大勢いた。特に女子は、その折り紙つきだった。なので、中にはそんな弱みを利用しておかずの恩恵に授かるヤカラがいて、彼女達にはすこぶる評判が悪かった。断っておくが僕ではない。しかしそれでも、食べる姿を見られたくないからトイレに行って「便所飯」をする学生は皆無だった。今になって思えば、古き良き時代は皆が精神的に「アナログ・ポジ」で、それなりのコミュニケーション能力を駆使して、善悪の区別をつける心が育っていたのだろうと思う。

 つまり、アナログの生活を通じて、それぞれの学生が相手に何を伝えたらいいのか、という一種の常識を知らず知らずの内に身につけていたのだ。だから、あの時代の感覚で言えば、「便所飯」をする様にならない草食系男子などはきっと、クラスの嫌われ者だったに違いない。そして、何よりも「便所飯」は悪いこと、恥ずかしいこととして誰もが認識していたのではないだろうか。であれば、あの頃の級友に感謝しなければならないだろう。

 それに比べると、生の対面会話の方法を半分ぐらいしか知らないのに、一人でいられない学生が多い、という今時の学生の現実はどこか矛盾している。これは些細なことでも耐えられない「弱い体質の学生」の悪い面が出ている証拠だ。こんな学生が将来の日本を背負って立つのかと思うと、さすがの僕も「ネガ」にならざるを得ない。おーい、しっかりしてくれよ。

 ああ、今日もまた長居してしまった。最後にもう一度学生諸君に告ぐ。ここいらでそろそろ、はしたない「便所飯」はもう止めにしよう。と言うより、「便所飯」という僕らの世代の常識では考えられない「学生用語」に早くおさらばしたい思いだ。ましてや今、日に日に増殖している草食系男子の「便所飯」など、想像するだけでも背筋がゾッとする。近くの飲み屋に行ってそんな話しをすれば、「スラッシュさん、サムーイ!!」と言われるのがオチだ。

 でもでも、確かにトイレは人それぞれの排泄物の「たまり場」ではある。江戸時代は、畑の肥やしとして武士の「たまり場」には最高級の価値があったほどだ。しかし、この「たまり場」での食事は、僕にしてみればあまりにも酷過ぎる。それに、あの場に「食事禁止」と書いてある張り紙にも情けなさを感じる。もし便所に貼るならば、難しい理数系の定理や法則がいい。僕は高校時代、とある先生から意見されて迷った揚げ句、冷静に落ち着いて物事を判断し、自分の頭を鍛えるのなら絶対ここがいい、と自信を持って張り紙をした。つまり、トイレで己の弱点を矯正したのだ。今の学生達もそうするがいい。

 そして、矯正された頭を使って、今度は生の対面会話が存分に楽しめる外の「たまり場」へとチャレンジするのだ。この「たまり場」は、人間どもが蠢(うごめ)く願ってもないアナログの「コミュニケーション・フィールド」だ。さあ、飛び出そう。ここには君達の将来の生き字引がいっぱい生息している。青春を内向きに過ごしてはならない、ということが身に染みて分かるだろう。ここで飯を食えばいいんだ。美味しいぞ。

/245.ミツバチからの伝言(「働きバチ」の日本人へ)

2009-09-11 06:57:38 | Weblog
 朝晩はすがすがしい。残暑という言葉はもうとっくにどこかへ消え失せた、という気分にさせてくれる。涼しくなると僕は、センチメンタルジャーニーになる。カラッとして抜けるような空の青さ。雲の軽やかさ。日本一魅力的な街・函館へ行こうか。それとも飛騨高山。想像は尽きない。野原の萩の花も一段と妖しくなった。どこにでも育つモロヘイヤのようなたくましい雑草も健在だ。思い草と呼ばれるナンバンギセルもどこかで花を付けているだろう。食欲の秋も近い。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」 秋の水と秋の風の爽やかさを感じながら、調子に乗ってエアロビクスの自転車をぶっ飛ばしていたら、ハチの一刺しが恐い。皆さん、気をつけよう。これ、僕の教訓。

 ゴーグルをしていない目と鼻と口には、色んな種類の虫達が飛び込んで来る。特に鼻の中に入った虫は、表現することさえ難しい複雑な薬味になる。「越中富山の反魂丹(はんごんたん)、鼻くそ丸めて萬金丹、それを飲むやつぁ あんぽんたん」という俗謡があるが、我が大阪ではこうは言わない。「越中富山のあんぽんたん(または萬金丹か薬売り)、鼻くそ丸めて黒仁丹」 市内に「仁丹製薬」の工場があるからだろうか、この響きが懐かしい。

 それはともかく、昔は鼻くそと鼻水まみれのクソガキがよくいた。今年の我が阪神タイガースは、まさに鼻くそと鼻水の類になってしまっている。と、隣のオバチャンなら言うだろう。そのように、弱い者同士・似た者同士でCS進出を賭けて3位争いを繰り広げている姿は、ちょっと空しいものがある。ちょっとアホに片寄り過ぎている昨今の「タレント売り出し戦略」とそっくりだ。復活した「カーネルおじさん効果」もあって盛り上がっているだけまだまし、かも知れないけれど、せめて、ビートルズのリマスター盤で「ヤァ!ヤァ!ヤァ!」と喜ぶ僕の姉並みの気分になりたい。これ、僕の本音。

 今日は早めに打ち切りたいので、政局はスルーして、ランダム・ショートショートのみを書く。 大阪タワー(朝日放送)が43年の歴史に幕を下ろす。僕は淋しい。あそこは、正統派・軟弱派織り交ぜたクイズなど視聴者参加番組の予選会でよく通ったところ。ミーハー時代が懐かしい。タワーに上ればあの頃はまだ、大阪はスモッグの街だった。 イチローがまたやってくれました。大リーグ・2000本安打の大偉業。目の前にある「9年連続200本安打」の大記録も含めて、まさに彼は超人。あれだけ多くの選手が日本からメジャーに行って、打者としてものになっているのは、イチローただ一人だ。彼はまだまだ異次元の世界を走り続けるだろう。凄いヤツだ。

 ゴルフの石川遼君も同じ道を辿るのだろうか。 変わったところでは、民主党・鳩山代表の「ミユキ夫人」の噂も世界を駆け巡っている。「魂に乗って金星に飛んで行きました」って、いいじゃないの。 世界の最高峰にはやや足りないかも知れないけれど、テニスの世界ベスト4大会で「シングルス・62大会連続出場」を果たした杉山愛ちゃんが引退するという。戸惑いながらも自分の力を精一杯出し切った彼女には、ご苦労さんと言いたい。 千葉県の不正経理の数々に青春の巨匠・森田健作知事が平謝りだ。悪い野郎に剣道の「面一発」食らわせろ。それにしてもひどい額の税金を「ネコババ」したものだ。

 国境の川・イムジンガン(イムジン川)で北朝鮮が予告なしにダムの放流をして韓国人が犠牲になった。独裁国家とはあんなもんだ。「♪イムジンの流れよ、答えておくれ♪」 過去最悪の失業率、有効求人倍率。近畿地方も会社の倒産が後を絶たない。街角景気はなお、深刻だ。 新型インフルも、恐い展開になってきた。 元フリーターでゴーグルをして街角の雑草を刈っていた民主党の「草刈オバチャン、頑張れ!!」と、隣のオバチャンが激励していた。 もっと書きたいが時間の都合で今日はこれまで。

 続いてクイズタイム。いいネタがないので、今回はとある新聞記事から選んだ。白夜のノルウェーなど北極圏の「オーロラ」には、憧れる。でも、いざ行ってみて見上げると、恐い。これと同じく大砂漠のど真ん中から見上げる満天の星も、不気味だ。これは、エジプトに行った時の僕の実感。作家の村山由佳嬢が、別の作家の小説評論でこんなことを書いている。 「ジブラルタル海峡を船で渡り、モロッコのタンジェに上陸して車でひた走ること一週間、砂漠の入り口に立つホテルを夜半に発ち、ラクダに乗って砂の海を越えた。月の昇る音が轟きわたるかのような静けさだった。白銀に輝く砂をラクダのひづめがサク、サク、と踏む音のほかは、自分の鼓動と、呼吸と、あとは耳鳴りしか聞えない。方向感覚とともに、時間も思考も何もかもが失われていた。真空の中にいるようだった」と。

 そして、砂漠(デザート)は3年前に旅をした本物の○○○砂漠のみならず、大インド砂漠とも呼ばれるタール砂漠や、エジプトのギザ、あるいは中国大陸のタクラマカン砂漠などなどに関して、「砂漠は死んで、世界に見捨てられた不毛の地ではなく、そこを訪れる者に『生』について静かに物語れる土地なのだ」と、著者は言っているらしい。彼女は続ける。「砂の果てにのぼる巨大な月。皮膚まで染まるかに思える夕暮れや夜明け前の空気。まるで女の裸体にも似た砂丘の輪郭のなまめかしさと、乾ききった大地に暮らす人々の熱くて力強い息づかい。なるほど私自身、あの砂漠の旅を通して死生観ががらりと変わってしまった気がする」と語っている。 さあ、ここでクイズだ。彼女の死生観が変わったという「♪ここは地の果て、アルジェリア」にある砂漠の名は? ・・・・・。正解は「サハラ砂漠」だ。

 サハラ砂漠は大きい。なので、どこからどこまでが国境線かは未だに分からない、という。ホンマに砂漠とはそんなもんだろう。ところで、ここから今日のテーマに誘導するのは至難の業。でも、時間がない、強引に繫げよう。砂漠にある「オアシス」は、もし仕事で言うならば、リラックス出来る空間だ。そこには生きるための水があり、数々の植物が育つ。植物が育てば花が咲く。花が咲けば蜜の味を求めてハチが集まる。そう、オアシスには「働きバチ」が欠かせないのだ。働きバチは、オアシスで次の生命を育む役割を果たす。苦しい生活だが働き蜂よ、頑張れ!!

 大きく飛躍して、日本人という働きバチには今、オアシスがあるだろうか。僕は、目下のところ日本国は便利で生きやすいにもかかわらず、オアシスはない、と思っている。そして、空気も重く息苦しい。といった観点から、本物の働きバチの生き様を探ってみる。

 我が日本は今、民主党主体の新政権誕生に向けて最高に盛り上がっている。少なくても僕はそうだ。無理もない。100年に1度のあまりにも衝撃的・歴史的な出来事を国民が目撃したからだ。鳩山・連立政権がこれから先、やるべきことはただひとつ。グローバル化した現代社会に合致した政策を国民目線で練り直すことだ。これが出来ないと、失望は時を待たない。希望への幕開けがいよいよ間近に迫った。新たなる日本丸、出航ブラボー。

 それはそうと、私事を言えば、このところ歴史的選挙に目が行っていたので、ついつい他の事を考える余裕があまりなかった。と言うより、これ以外に適当な「/」のネタがなかった。いや、あることはあるのだが斬り口が難しい。おまけにドタマ(頭)が疲れている。どうすりゃいいんだ思案橋。でもな、もうすぐ還暦だ。素人があまり無理せんとこ。所詮、俺は俺。ボチボチ行こやないか。などなどと、自問自答していた。かと言って僕には、自虐趣味はない。良く言えばマイペースだ。よって、どちらかと言えば苦手な政治の分野には、今日はこれ以上深入りするのはヤーメタ。そやから一度、パターンを変えよやないかいな。

 ということで今日は、前から気になっていた「働きバチ」にスポットを当てた。働きバチと言えば、日本人は相変わらず働きバチだ。働き口がない、こんなご時世だというのにね。僕は思う。何でこれだけ、一触即発の危険な人間関係を見せつけながら、働くのだろうか。自分が苦しいだけじゃないか。「仕事絶対優先」の昔からのDNAがそうさせるのだろうか。働かなければ食い扶持がない人がいるとは言え、こんな生活楽しいかな? 大した美徳でもないのにね。僕なんかは、まるで仕事が趣味であるかのような日本人の「働き過ぎ」に、散々文句を言ってきた内の一人。ましてや、現在のように「ワークライフバランス」が声高に叫ばれ、給料が多少減っても労働時間が減る方がいい、と考える人が多い世の中になったのに、それを許さない古い体質の企業風土などには、僕は「なぜなんだ」と大声でもの申したくなる。本当にこれが正常なのか。今もって分からない。

 それに、この働きバチは罪と罰の権化だ。あちらが立てば、こちらが立たず。あちらがずっこければ、こちらがダウン。シーソーゲームじゃないんだから。また、自分にそれほど仕事がないのに、「責任がある立場なので」とか「職場が休みにくい雰囲気なので」とか「自分がいなければ仕事が成り立たないと勘違い」したりだとかして自己弁護を理由に、本心でもないのに、自分が休むことを許さないメンツがいっぱいいる。なので、働き過ぎで日に日に鬱憤が溜まる一方だ。そのお陰で、休暇を取る勇気ある人も萎縮する。働き過ぎだ、と思っているヤツが裏で散々愚痴をこぼすからだ。困ったものだ。

 こんな自己過信と自己嫌悪を繰り返した揚げ句、大抵のサラリーマンは、「働いても休んでもストレス」という状態になる。そう、これぞ自己責任の押し付け合いの後遺症だ。そのため、いつまで経っても、双方リラックスした人間的な生活が出来ない。失われたものと得られるものを量りにかければ、そろそろ日本人も悪玉DNAの束縛から逃れて、自分自身を仕事地獄から解放してあげるべきだろう。と、僕は痛感している。まっ、この話しはこれ以上あまり追及しないで差し障りのない範囲内に止めておこう。僕が今日言いたいのはこのことではあるけれど、このことでもない、ので。

 昔からの悲しい性が抜けない日本人という働きバチを尻目に、僕も「もの申したい」と言っている「善良な虫達」がいる。元祖働きバチだ。彼らは、この国の永田町や霞ヶ関に生息する魑魅魍魎と違って、その働きぶりには定評がある。そして彼らは、最近の不順な自然界に次のようなメッセージを伝えようとしている。そんな彼らの気持になって、僕が以下に代弁したい。人間どもよ、よく聞くがよい!!

 皆さん、僕はミツバチです。人間様のように働くことに一切文句は言いません。それが僕達の宿命なのです。これまでも、人間様には事ある度に誠心誠意尽くして来ました。今もその気持に変わりはありません。そうなのですが最近なぜか、自然界がおかしいんです。これはひょっとすれば、人間様が犯した罪と罰かも知れません。だからこそよく聞いて欲しいのです。

 それでは言います。ある日のこと、外国で僕達の巣箱を開けると、中にいる筈の僕達の仲間が忽然と姿を消しました。それも、何万匹という多くの仲間が、です。しかも、女王バチと幼虫と大量の蜂蜜が巣に残されたまま、死骸さえ見当たらない、というミステリーです。僕達は忠誠心に富み、組織を大切にする習性なのですが、あのミステリーはそれからは考えられない衝撃的な現象でした。まるで、日本社会に新政権が誕生したかのような驚きです。その現象の名は、「蜂群崩壊症候群(またはCCD)」と呼び、2007年春までに欧米では4分の1の仲間が消えたと言われています。これぞ、あのレイチェル・カーソンの著書「沈黙の春」に記された警告そのものの現実でした。

 日本でも春先に大問題となり、「もし僕たちがいなくなったら」人間様の生活がいったいどんなに困るのか、分かってくれたことでしょう。そうなんです。僕達の恵みは、蜂蜜だけではありません。イチゴも、サクランボも、リンゴも、スイカも、カボチャも、キュウリも、人間様が普段食べている農作物がどれほど僕達に頼っているか、思い知った筈です。現に、僕達の恩恵を受けられなかった日本各地の農家は、ほとほと困り果ててしまいました。僕達の特殊な技術は、花から花へと飛び回って受粉する「ポリネーション(花粉媒介)」に代表されます。これは、いかに腕のいい日本人でもとても対処し切れません。

 脅かす訳ではありませんが、もし僕達がいなくなったら大変なことになります。なぜなら、人間様の毎日の食卓で何気なく食べている多くの果物や野菜も自然には実らない、からです。だからこの際、人間様に強く忠告しておきます。僕達が日頃思っている以上に人間様はポリネーションの恩恵を受けて、毎日を生きているのです。また、果物や野菜などの農作物に限らず、地球に大気を供給し、気象を安定させている地球上の膨大な種類の植物のかなりの部分は、僕達のような「訪花昆虫」のポリネーションによって、命の鎖をつないでいるのです。このことを決して忘れないようにして下さいね。

 このような本当に微妙な生態系のバランスが崩れた時、命の鎖は途切れ、ともに生きなければならない人間様も滅びて行く運命が待っている、と言えます。これって、大げさな話しではありません。地球を含む大自然とは、そういうものなんです。よく考えてみて下さい。人間様もまた、地球という名の星に存在する生態系の、大自然の一部にしか過ぎないのです。だから人間様はもっと、僕達のことを同等扱いするべきです。思い出して下さい。過去において、人間様は大自然に不当に介入し、不自然な手を加えて来ました。そのことが今、「沈黙の春」となって表面化しているのです。人間様は、誤った歴史を今一度見つめ直し、生物の多様性という進むべき道を模索することが不可欠なのです。

 そして、生態系の大自然の一部にしか過ぎない、という人間様が謙虚さを持ちつつ、自分達の都合により地球を破壊した過去を反省することが、行く行くは僕達を守ることに繋がるのです。これを「共生の文化」と言います。共生の文化とは、農業の「耕す文化」+人間が「自然の声に耳を傾けながら耕す文化」の合成語です。これからの農業は、こうあるべきでしょう。そして、自然界の多くの命と関わる農業のあり方=人間の生き方そのもの、なのです。もう一度言います。僕達は日本人と同じで「働き者」です。ですが、日本の人間様のように決して相手を傷つけたりはしません。どうか僕達を見習って下さい。そして、末永く温かく見守って下さい。よろしくお願いします。(以上、山田養蜂場の資料参照)

 ミツバチ君。心あるメッセージをどうも有り難う。彼らの文句ひとつ言わない謙虚で前向きな働きぶりは、毎年僕も我が家の庭先でじっくりと観察させてもらっている。翻って、彼らが言うようなこの国の人間様の異常な働きぶりは、もはや誰が見ても「人間群崩壊症候群」の域に達している見苦しい醜態だ。不幸にも彼らの「CCD」は、原因が不明。でも、人間様の崩壊症候群は、巣を放棄することがあまりなく、幸いにも原因が分かっている。この原因を追究して、格差の大きい働きバチ同士がよく話し合って共生する、という連帯感を濃厚にすることが未来に向けての課題だろう。生まれ変わって欲しい、と願う新政権も双方の働きバチを温かく見守る姿勢が必要となるだろう。そうなれば、本物のハチも人間様を刺しはしない。

/244.いざ行け、民主党(しがらみのない政治)

2009-09-04 06:48:43 | Weblog
 立春から数えて二百十日も過ぎ、09年も終盤に差し掛かった。身も心もサファイア色の秋、といきたいところだが、このところやや蒸し暑い。お天道様と大自然は気まぐれだ。気象庁の長期予報によると、今秋はどうやら高気温になりそうだ。と言っても、例年なら大阪独特のうだるような暑さに悩まされる夏が低気温気味だっただけに、あまり苦にならない。エルニーニョ現象にも良し悪しがあるってことだろう。このまま順調に季節が進んで欲しい。

 秋の花と夏の花が混在するこの時季、去るべきものと来るべきものも混在している。例えばこの辺りの去るべきものの代表格であるセミとツバメ。近所の公園ではあらゆる種類のセミが鳴き止んだ。ツバメは、南方への帰り支度のために淀川べりの葦原などに一斉集合している。例えば来るべきものの代表格の赤トンボとヒヨドリ。赤トンボは、山から里に下り、田んぼの稲穂の上空で元気よく舞いながら夕焼け色の輝きを一層増している。僕が稲の花粉で鼻をムズムズさせているのとは対照的だ。ヒヨドリは、赤や黄色に色付き始めた庭木の小さな果実をいつ我が物にしようかと、夫婦連れ立って偵察に来ている。

 その様子を観察している僕に向かって、我が愛する隣のオバチャンが「新型インフル気いつけなあかんね」「ペコちゃん人形盗んだのはヤーさん(暴力団員)みたいやね」と、矢継ぎ早に井戸端会議の最新ネタを吹聴する。相変わらずだ。でも、憎めない。彼女は、香山リカの「しがみつかない生き方」を実践している。

 先週の土曜日の昼下がり、久し振りに汗が出ない程度にゆっくりと東部丘陵地を一周してみた。名付けて変形自転車エアロビクスだ。郊外では、セミはまだ鳴いている。ツクツクボウシもヒグラシも、去り行く夏を惜しみながら最後の力を振り絞って声を張り上げているかのようだ。僕は想った。例えどこにでもある何気ない風景かも知れないけれど、この日、この瞬間を大切にしなければなあ、と。セミ君達も残り少ない命を一所懸命、精一杯生きているのだから。そう思えば、野の花のさりげない美しさも、カマキリの斧も、バッタやキリギリスの羽音も、みんなロマンチックだ。そして、そよ風は肌に優しく僕を風呂上りの新鮮な気分にさせてくれる。そう、それはこうやって非日常のここに来たから感じる秋の喜びや愁いなのだ。大人も子供も、何も行動しないで与えることだけでは心は育たない。

 それに、ここにこうしていれば、幼い頃の思い出の糸を懐かしく手繰り寄せることも出来る。僕の良き感性である自然はいいなあ、というサブリミナル効果もある。そう言えば、沖縄の4人組バンド「かりゆし58」のメンバーはこう言っていた。「僕が生きる今日は、もっと生きたかった誰かの明日かも知れないから」と。うーん。なお更僕は、思い当たるフシがある。生きるってことは幅が広い。誰かを思いやるってことも。帰り道、僕はしみじみこう述懐した。その気になればご近所にも、ロマンチック街道がいっぱいある。

 ところで僕は、周囲のパノラマが効く広い場所が大好きだ。河原、野原、里山。そして、広ければ広いほど癒し効果があり、諸々の想像力も増すと思っている。高いところも好きだ。お山の大将になって、下界(ちまた)を見下す爽快感がある。あまりにも広くて、あまりにも高いと、返って孤独感にさいなまれ心が狭くなる場合がある。公務員を辞めて無我夢中で世界旅行をした時も、これと同じようなことを痛感したものだ。

 あまりにも高い世界の代表格は、酸素が平地の3分の1しかない「8000メートル以上の地球の屋根」だろう。ヒマラヤ山脈やパミール高原でお馴染みだ。さて、ここで定番クイズ。全世界で8000メートル以上の高峰はいったい何座ある? ・・・・・。正解は「14座」だ。あまりにも高いこの14座を全て制覇した人は、もはや人間ではなく、超人だろう。と、僕は思う。だから、頂上に立てる人は超人の成せる業が備わった人、だろう。なぜなら、彼、彼女らは生物としての人間の限界を遥かに超えた厳しい条件をも克服しなければ偉業を達成出来なかったからだ。まさに、凄いの一言に尽きる。

 正直言って、僕もかつて超人に憧れたことはある。しかし、そのプロセスを想像するだに恐ろしく、それまでだった。エベレスト、K2、カンチェンジュンガ、ローツェ、ダウラギリ、マナスル。などなど名前を聞いただけでも思わず怯(ひる)んでしまう。ましてや、単独登頂となると一般の人には到底無理だ。せいぜい自分なりの想像力で幻の登山を楽しむしかない。僕もその一人だ。

 一方で、7大陸最高峰を制覇した人は案外多い。アジア・エベレスト、欧州・エルブルース、アフリカ・キリマンジャロ、北米・マッキンリー、南米・アコンカグア、南極・ビンソンマシフ、豪州・コジウスコ、(オセアニア・カルステンツ) この内僕は、キリマンジャロには登った。ちょっとした自慢だ。エルブルースにはシベリア鉄道で行こう(見よう)としたが、民族紛争でオジャンになった。アコンカグアは眺めた。エベレストは見えなかった。低い低いコジウスコも眺められた。

 でもでも、素人にはどだい無理だ、と考えるのは浅はかだ。本当に登るのが難しいのだろうかと「?マーク」を付けてみる必要があるのではないか。例えば、実際は世界の最高峰・エベレストでさえ、最近は商業公募隊のガイドが引率し、年間数百人が登頂している。また、他の最高峰にも確かにツアーがある。なので、時間とやる気と資金と冬山経験があれば、短時間で達成可能だと専門家は指摘している。なら、僕にも希望の芽が出て来た。貴方ならどうする?  こうなったら「せめて」7大陸最高峰の2~3座にチャレンジしてみてはいかがだろうか。

 ということで巷に戻る。今週は選挙後の政治情勢以外にあまりインパクトがあるニュースがなかった。よって、世間のしがらみは、スルーしカットする。その代わり、新政権奪取が成った民主党には、しがらみのない政治を臆することなく堂々と展開してもらいたい。なんせこんなご時世だ。確かに厳しい世の中ではあるが、それこそ8000メートル以上の世界の14座に挑む気持で死ぬ気で臨め、と言うのは少し酷な発言かも知れない。だが「せめて」、7大陸最高峰完全制覇を目指す気持で、自らの政治目標を達成してもらいたいものだ、と僕は思う。我々には不可能はない。成せば成る、成さねば成らぬ。今回のブログは、そんな熱意を持って日本丸を舵取りする民主党に向けての「期待を込めた僕の応援歌」だ。

 投票率も割合評価出来る政権選択の夏が終わった。民主党・300、自民党・119議席。1955年の結党以来続いた独裁政党の牙城がついに崩れた。惨敗自民党は、まさに惨憺たる結果だ。そして、歴史が塗り替えられ、新しい時代に突入した。僕は嬉しい限りだ。京セラ・稲盛和夫名誉会長の言葉を借りれば、平成維新が成った、ということだろう。僕も来るべきものがやって来た、という感じがする。敗軍の将は、いつになく多くを語らず、まるで他人事のように神妙だった。

 一方、政権奪取した勝者も決して浮かれてはいない。グッと気を引き締めて、近未来のチェンジを見据えているように僕には見えた。ここは「おごる平家は久しからず」、明日は我が身と肝に銘じて、国民目線に立った「74%の期待」を今後の国政に反映させて欲しいものだ。そしてそれが、腐敗したこの国の政治不信を払拭する最良の近道だ。

 僕にとっても8月30日は、誇れる日になった。午前8時15分、身じろぎもしない選管委員の鋭い視線を背中に感じながら、一票の重みを3枚の投票用紙にぶつけた。さりげなく投票箱にインする。すると気分は上々。後は運否天賦、幸運を祈る!! ちなみに僕は、悩みに悩んだ揚げ句、小選挙区は民主党、比例区は少数政党の人だった。本人の人となりが全然分からない最高裁判所裁判官の国民審査は、白票だった。果たして民意はいかに?  そして迎えたテレビの選挙速報。うむ、なるほど。結果は、ほぼ僕の予想通りだった。また、現在の状態で自民党が僕の想定外の得票を伸ばすこと自体、おかしいとも思った。

 当落議員のメンツをしみじみ眺めれば、気分爽快。これでなきゃあ、というのが正直な僕の実感だ。国民もそうバカではなかった。僕なりの結論を言えば、比例区で復活した魑魅魍魎の再登場は非常に残念だが、国民掃除機が自民党の積年のウミとホコリを吸い出した、という言葉がピッタリだ。とりわけ顔を見るだけでも不満だった高慢、仏頂、自惚れ、自慢などなどの顔と面をした派閥の領袖、大物議員、元首相、閣僚経験者、現職閣僚、党幹部といった昔の名前のメンツと直近の嫌味なメンツの多くが相次いで落選したのは、願ったり叶ったりだ。また、小泉チルドレンや存在感のないまま政権政党にしがみついた公明党のメンツも消えた。

 これは、政治にはもう口先だけの年寄りやベテラン、馴れ合いは要らない、今までの厚顔無恥はご法度だ、という政界のしがらみを一掃しようとした「民意の勝利」ではないだろうか。こうしてみると、いかに自民党の劣化したメンツが「醜い旧態依然」だったかがありありと分かる。彼らは、自分の役目がこれで終わったと理解すべきだ。こんな欠陥だらけの自民党の光景におさらばしたかった我が意も、秋の涼風に心地良く揺れている。ともかくも、見苦しいメンツだけでもかなり入れ替わったことに僕は大いに満足している。でも、落選した人も含める自民党諸氏には、ここまで日本を豊かにしたのは我が党だ、という自負心はあるだろう。僕も多少その気持は理解出来る。その意味では、大変だろうがまた這い上がる日まで捲土重来、陽はまた昇る、特に不満のある若手議員には今一層の奮起を期待したい。

 比較して、こうして変化してみると新政権発進に向けて動き始めた民主党のメンツには、言い知れぬ躍動感を覚える。敗れた自民党が美肌化粧品の「使用前」なら、勝った民主党は「使用後」 まるで月とスッポンだ。それくらい勝者は、はつらつとしている。一番目立つのは、これまでの政治家のイメージを刷新したかのような若手議員の初々しく清清しい姿だ。これは印象的。まさに劇的に政治が変わる、というインパクトがある。勿論、他の議員にも、今までの自民党のメンツにあったような何とも言えない「いやらしさ」は感じない。慣れ合いもそれほど感じない。みんないい顔、そして陳腐でなく斬新だ。政権交代を果たした高揚感がそうさせるのかも知れない。しかし、ただ一人だけ気になる人物がいる。小沢氏だ。これがどう出るかが僕の心配の種だ。

 それでもみんな、やたら浮かれてなくて、緊張感と臨場感を保ちながら、やる気が前面に出ているのも好感が持てる。頼もしい。各議員のポイントを外さない勝利のコメントなどもグッと来るものがあった。政(まつりごと)を他人事と勘違いしている議員もいない。これぞまさに、「勝って兜の緒を締める」を地で行く責任を全身に感じた謙虚な姿勢で、政治が活性化された姿と言えるだろう。僕は、この態度を高く評価したい。そんな彼、彼女らを見ていると、思わずバックアップしたい気持になる。こういう活気と活力ある姿は、国民をその気にさせる。いい傾向だ。これならば、外国人から見ても好ましい人物像と映るに違いない。民主党議員よ、「♪動き始めたマイ・レボリューション♪」 この良い状態をずっと保ち続け、民意に恥じない行動をしてくれ!! ちょっと褒め過ぎだろうか。

 という訳で、今回は新政権への応援に徹することにしている。しかしながら、政権交代のワンフレーズを歓迎しつつも、大きくは変えられないとする国民が46%(朝日新聞調査)もいる。この現象は言うまでもなく「ともかくも自民党にはノー」を突きつけたものの、民主党の政策や力量には懐疑的だ、というウソ偽りのない国民の深層心理だろう。そういう意味では、民主党には今後の政策実行力が試されているのだ。この点について、9月2日付けの同新聞の「天声人語」にはこう記されている。

 その前に趣旨の前提を以下に書く。文章は形容詞から腐ると作家の開高健さんが言った。そのように飾り言葉は美味しいだけに朽ちるのも早い。また、中曽根元首相は、政治は美しいとか、キラリと光るとか、形容詞でやるのではなく、動詞でやるものだ、と語ったらしい。だから、動詞なき形容詞は絵に描いた餅の飾りに過ぎない。ということを踏まえて、次のように結んでいる。

 「とはいえ形容詞を欠く動詞もまた、やせ細った政治だろう。持ち味の形容詞を腐らせない実行力が、いよいよ試される。16日には特別国会が召集されて、(鳩山氏が)首相指名を受ける。就任会見や所信表明での一言一句が吟味され、そこから先は容赦のない現実が待つ。言葉で訴えたもろもろの実が問われる。期待のすぐ横に失望の奈落が口を開けているのは、新政権の常である。『言行一致の美名を得るためには、まず自己弁護に長じなければならぬ』と皮肉屋の芥川龍之介は言った。せっかくの形容詞がそのために乱れ飛ぶようでは、国民は失望する」

 このコラム、僕は大いに感じるものがある。さあ、一票の「重みと熱気」を生かすために、鉄は熱いうちに打て。民主党は、この両方を制御し、政治に生かすことが大きな課題になる。時には矛盾する政策もあるだろう。だが、そうした破壊の力を創造に転換する作業が16日から本格的に始まるのだ。つまり、「細切れじゃなく、長ーいお付き合い」を願う国民の期待に応える政治をやる使命が民主党にはある。じゃあどのように、ということをいちいち詳しく書く時間は、残念ながら今の僕にはない。なので今回は、参考にはならないと思うが、民主党政権が砂上の楼閣に終わらないよう、僕が常々感じている是非ともこれだけはやって欲しくない、という醜態の数々を分かりやすい表現でついでに羅列しておく。

 まず、無意味でド派手な政策はもうゴメンだ。もしやるなら、きちんと国民に説明すること。次に不祥事が積み重ねられる負の連鎖も、もう見たくない。税金の無駄遣いは言うに及ばず。大企業との癒着も、もうコリゴリだ。少数政党の建設的意見には素直に耳を傾けよう。仲間割れはご法度だ。短期で政権を投げ出すなど以ての外。マニフェストに書いたいいことはきちんと守りましょう。情報は公開しましょう。グローバル化に対応した党の顔をしっかりと持て。数の力で物事を解決しない。大企業優先のバラマキはしない。などなどだ。

 そしてあくまで、基本は「弱者救済」 合言葉は「選択と集中」で、時間をかけるべきものと喫緊・緊急にやるべきものを見分けて迅速に行動することが肝要だ。あっ、大事なことを忘れていた。民主党に贈る僕なりのキーワードは、上とダブルけれども「情報公開」「説明責任」「国民目線」だ。

 この辺で断っておく。やはり、政権移行後の民主党のあるべき姿をここに要約するのはちょっと無理がある。が、言うまでもなく民主党の大きな国家戦略は、「政権主導」で「脱・官僚依存」の政治だ。そのために、政治と行政を透明化し、我々有権者の積年の政治不信を拭い去る任務を民主党は負っている。官僚は、知識と経験を兼ね備えた政策の企画や執行のプロ集団だ。これを使いこなせるか、使いこなせないかは元公務員の僕にはスゴク興味がある。

 でも、国家戦略としてのこの強い基盤を築くのには政官協働だけで事足りる、とは僕は思わない。時間がないので早口に言う。なぜなら、日本の国を動かしている船頭(先導)役がもうひとつ存在するからだ。その名は財界、つまり大企業を中心とする企業だ。この財界には、それこそ京セラ・名誉会長のような善人もいれば、金権にまみれた大悪人も大勢いる。なので、ここで提言する。財界人はあくまで、自分に都合のいい第三者的立場に甘んじてはならない。大事なのは、彼らが現政権に極力協力する、といった視点を明確に持つことだ。つまり、財界は政官のバックアップ役に徹する。この姿勢はきっと、国民の幸せを呼び起こす原動力になるだろう。と、少々躊躇しつつ僕はこのことを注文しておく。

 さあ、今日もやっとこさ終わりに近づいた。とにかく僕は、今や巨大な政党に膨れ上がった民主党には、容赦のない現実が待ち受けているのだ、と言いたい。例えば、少子高齢化に象徴されるこの国の社会構造の大変化。例えば、グローバル化の中での地域(地方)経済の疲弊等々に立ち向かうためには、民主党自身が強固な己の自画像を創成して、何が何でもやり遂げる、という不変不屈の意志が必要になる。また、時には是非「不偏不党」の一面も見せて欲しいものだ。そして、おごらず、ぶれず、勝って兜の緒を締めながら、しがらみのない政治を継続させ、民意に即した斬新な政策を実行する政治理念を失わないことだ。

 改めて僕は思う。政権奪取を成し遂げた今の民主党議員のマインドなら、新しい日本の未来像がきっと築ける筈。あのメンツ、このメンツ。僕の目に狂いはない。そんな彼、彼女らには浅はかな「邯鄲の夢」は決して語って欲しくはない。むしろ語って欲しいのは、知能の限り、心の限りを尽くす「肝胆(かんたん)を砕いた後の夢」だ。「簡単ではない」がそのような度肝を抜く器の大きい、世界に誇れる堂々とした政治を僕は期待する。その上で、動詞と形容詞で潤う、飾らない、腐らない、太った政治を展開して欲しい。旧態依然は、16日を以ておさらばだ。