歳を取ると、漫画「ゲゲゲの鬼太郎」の主題歌「♪朝は寝床でグーグーグー♪」がなくなった。夜遅く帰宅しても、だ。でも、そのお陰で新しい朝の四季の装い、が楽しめる。言わば年寄りの特権だ。特権の目で見れば、時節はもう真珠色の水無月。水(雨)がたんとあるのに、なぜ水無月というのだろう。六月は僕の生まれた月でもある。また歳を取るんか、もうたくさんだ。今歳の感慨は、若い頃に比べてかなり投げやりだ。
近所の枚方パークのローズガーデンでは、色とりどりの薔薇が満開だという。北国では、スズランの花が可憐さを競い合っているのだろう。田んぼに水が張られて、今年も元気なカエルの合唱だ。やっと新緑に定着した山滴る季節はまた、梅雨のはしり、を感じる季節でもある。風情のある麦秋、とは名ばかり。だけどまだ、水が恋しい季節でもない。
僕の独りよがりの想像で山野に目を転ずれば、谷間の岸辺には笹百合が清楚な花を咲かせ、清流の水辺には神秘的な光の蛍が飛び交い、浅瀬には若鮎が遡上する。仰ぎ見る山の緑陰では、「カッコー、カッコー」と鳴く「閑古鳥」と、「テッペンカケタカ」と鳴く托卵(たくらん)の名手「時鳥(ホトトギス)」が子育てに忙しい。などなど、僕好みの生物でまとめた「勝手にシンドパット」の季節模様だ。余談だが、その「サザンオールスターズ」が来年からの活動休止宣言をした。桑田君の偉大さを考えると、いかにも惜しい。
さて、足早にここでクイズだ。前記した若鮎の「塩焼き」は、最高に美味い。さすがは天然ものの「香魚」だ、と思わせるものがある。この香気は、鮎が川底に着いているケイ藻、ラン藻といった藻類を食べることによる。では、この香魚の腸、または子を塩漬けにした「日本の珍味」を何という? ・・・・・。正解は「うるか」だ。これを出す店が近所にあるが、あまりにも(値段が)高過ぎて賞味し辛い。こんな若鮎の川でラフティングをするのは、少々酷だろうか。僕は昔、ハッポースチロールで造った船(筏?)で、若鮎の川と言われる奈良県の吉野川を下ったことがある。結果は、急流にもまれて残念ながら途中リタイア、だった。水が恋しい季節になったら、また挑戦してみたいものだ。
次に、気になる話題を都合により4つだけ。1つ目。中国四川大地震の惨状は、目を覆うばかりだ。ただ一言、「凄い」としか言いようがない。その中国の世界一の高峰「チョモランマ」に登った「冒険家兼プロスキーヤー」の三浦雄一郎さんは立派だ。75歳、世界最高齢での登頂記録を目指していたが、自身の登頂前日に、76歳のネパール人に先を越されてしまった。にもかかわらず、相手に賛美の言葉を送りその栄誉を讃えた。三浦さんは、優しい人間だ。彼こそ、後期高齢者ならぬ「高貴高齢者」の代表格だろう。
2つ目。歪んだ美意識を持った、笑顔の中途半端な冷たい視線のサッカー選手に比べ、今売り出し中の石川君(ゴルフ)と唐川君(プロ野球ロッテ)の表情はステキだ。何よりも、素直な笑顔がいい。このままステキな顔を持ち続けて欲しいものだ。この2人なら、きっと「優子リン」の「コリン星」に行けそう。と、僕の派遣先企業のギャルが言っていた。彼らが出ているテレビの画面が輝いて見えるのは、いったいなぜだろう。
3つ目。トヨタの「カイゼンに残業代」は、遅過ぎたにしては結構インパクトがあった。何と言っても、今や泣く子も黙る世界のトヨタだ。社員のみならず、このまま「非正社員の給与カイゼン」に向けて突っ走って欲しい。トヨタなら、それが出来るし、後に続く企業も出る。いいことだ。 4つ目。一言だけ。今度の日曜日のダービー(競馬)は、前走が圧巻だった「ディープスカイ」から「馬単」で勝負する。外れたらゴメン。 先を急ぐのでここまでにして、今日はイヤミな「我田引水誘導文」をカット、競馬の馬単のようにストレートにテーマに入る。
老舗高級料理店のモラルと品格を問われた、船場吉兆(ついに廃業)の食べ残し料理の「使い回し」は、異常だった。しかも、これは全て経営トップの独断による指示だったというから驚きだ。一方で、全国の医療施設などでの(糖尿病患者の血糖値を測定する)「採血器具の使い回し」も大きな社会問題になっている。使い回し、という言葉を厳密に吟味すれば、ひょっとすれば会社員や僕のような派遣社員もそうかも知れず、あまり神経質に考える必要がないのかも知れないが、それはさて置き、今日は誰が見ても「これは使い回しだ」と意識せざるを得ない現象を紹介しようと思う。
その前に一言念を押しておく。これは明らかに「使い回し」だ。しかもこの使い回しは、裏で隠れてこそこそとやる陰湿な使い回しではない。それこそ正々堂々と日常茶飯事に、我々の眼前で行われている「正統派」の使い回しなのである。この辺で、もったいぶらずに言おう。その使い回しとは、俳優やタレント、評論家や政治家などのテレビ番組での使い回しだ。最近特に目立つのが、とても芸があるとは思えない、悪態をつく「芸能人」のそれだ。
まず、テレビにまつわる分かりやすい因縁話しをしよう。何度も言うが、テレビは全国津々浦々どこの家庭にもある「究極のマインドコントローラー」だ。このマインドコントローラーを動かすのは、主にテレビ局の番組制作者。彼らの誉れは、言うまでもなく「視聴率」という魔物だ。そして、これがないと彼らの仕事が正当に評価されない。本来、テレビ局の最終使命は、視聴者から信頼される番組作りなのだが、そんな番組が多かったテレビ草創期とは違って、最近はどこのテレビ局も視聴率至上主義に陥っている。そのため、視聴者の射幸心を煽る「興味本位のセンセーショナル」な番組作りに逸走している。つまり、まともな普通の番組作りは、各テレビ局にとっては、絶対「御法度」なのだ。ということは、目指すものは「まともではない視聴率が取れる番組作り」ということになる。
その結果、生み出されるものは、真実を度外視した「やらせ」や「捏造」番組なのだ。そこで、制作者の演出ターゲットは、このやらせや捏造をお気軽に「演技」出来る最適な人材は誰か? ということになる。そうなると、俄然クローズアップされるのが、視聴者とは既に「顔馴染み」の肩の凝らない芸能人に行き着くのである。こうして、彼らの演技力に視聴者はしばしマインドコントロールされてしまう。こういう図式が成り立つのだ。僕は、そんな番組のカラクリをこう読んでいる。
勿論、(評論家や政治家などを含める)全ての芸能人使い回し番組がこうだとは言わない。たまには、心打たれる良質番組もある。が、大半はこうした芸能人の使い回しによる悪質番組だ。特に民放は、このような悪循環から一向に抜け出してはいない。もうそろそろ、視聴者から信頼される番組という原点に返らないと、これから益々テレビの地盤沈下は進むだろう。そしてやがては、使い回しによって廃業に追い込まれたあの哀れな船場吉兆のように、視聴者に置いてけぼりになる日が近いのかも知れない。
再度言う。こんな俳優やタレントの使い回し番組を見ていると、僕はいつも先を読んでしまう。つまり、ちょっと考えると、あの悪態をつく下らない番組の表裏が分かってしまうのだ。それに、出演しているのは、毎度毎度同じような顔ぶれ。全く新鮮味のない面々だ。それらの使い回しの面々は、アドリブで言うこともたかだか知れている。一角の芸はあるが身がない。品格も疑問だ。そして何よりも、僕があざ笑うのは、番組制作者の意図通り、センセーショナルな台本に忠実に演技をするその様だ。時には刺激的に、時には喜劇的に、時には涙さえ見せて。僕は情けなくなる時がある。
そんな時いつも直感するのは、NHK云々と言う前に、民放ももう少し知恵を絞らないと、いずれは視聴者に飽きられる、という危惧だ。また、このままでは、我々庶民もまた、使い回し芸能人のエエ加減さに翻弄されてしまうのではないかという心配だ。果たして、現状の芸能人使い回しを黙認している番組制作者に、これではダメだという危機感はあるのだろうか。
この答えをズバリ言えば、「全くなし」だと言い切れる。その証拠に、昨年関西テレビの「発掘! あるある大事典通Ⅱ」の捏造問題発覚以降も、TBS「朝ズバッ!」の不二家報道問題などが次々と表面化している。放送局側が放送倫理・番組向上機構に「放送倫理検証委員会」を作り、自浄機能を強調したにもかかわらず、だ。その時の委員会の結論は、「番組は、もっとちゃんと作るべきだ」だった。
その後の10月末にあった民放連のシンポジウムでは、例えば、バラエティー番組で表現やテロップが過剰ではないかという指摘に、日本テレビの編成局長は、「電波少年」を例に挙げて「演出のツールになっていた」と褒めた。また、欧米に比べ、ドラマの質が低過ぎるという質問に、フジテレビの編成制作局長は、「作り手の力量は上がっている」と反論し、「ガリレオ」を「素晴らしい」と讃えた。だが、このように、制作トップが成功した(?)自局番組を例に出して自画自賛しているだけでは、視聴者が本当に見たいものを見失う元になるのではないだろうか。
思えば、携帯電話やインターネットなどの登場で、テレビ局も今までにない困難な時代を迎えている。魔物とされる視聴率にしがみつく姿勢も、今となっては一種の滑稽さを感じてしまうほどだ。銀行がつぶれ、自治体さえも破綻する昨今、救いと言えば、テレビ局にはまだ倒産がないことだろう。でも、危機感がないままに、同じような顔ぶれの芸能人などを使い回す、安易な番組作りを続けていたのでは、この先が思いやられる。テレビ局自身があまりにも芸がなさ過ぎるのだ。僕はかつて、魅力的で吸い込まれそうなブルーアイズのニュージーランド女性に、こう質問されたことがある。「日本のテレビは、いつもあのようにふざけた番組を流しているのですか?」 外国人の純粋な質問に僕は思わず返答に困ってしまった。日本のテレビに携わる人達は、彼女の言葉の深層(真相)を頭を垂れて想起すべきだろう。
使い回し番組などの裏にあるのは、テレビ局が人件費や制作費を抑えて、外部に発注する動きが強まったことだろう。その結果、推定で全国500社ある下請け、孫請けの制作会社がテレビ放送の約8割に携わっている、というのが放送現場の実情だ。そして、特筆すべきは、それらの制作者が「床に転がって仮眠を取るような忙しさ」でも、年収が約300万円以下という「格差社会の縮図」の過酷な現場の中にいることだ。過酷な労働条件は、やがては人材難に繋がり、著作権などの権限を握っているテレビ局社員との賃金格差は広がるばかりだ。いい番組作りを目指そうとすれば、これでいい訳がない。安易な番組作りに走る誘因の一つと言える。
このように、俳優やタレントなどの芸能人が使い回される、悪質なテレビ番組の裏側には、同じようにテレビ局に使い回されている、番組制作者の悲しい現実があるのだ。これでは、今もってテレビ局に危機感が見られないのは当然だろう。それでも、真相を何も知らない一般視聴者は、手っ取り早い娯楽の代表でもあるテレビを信用してしまう。使い回しではないにしても「小泉劇場」がいい例だ。そして、例えウソの情報でも、一種のパニックを起こす「影響力」がテレビにはある。これは「社会的影響力」だ。だから、テレビを見る側の我々にも当然「社会的責任」があるとは言えないだろうか。
特に、知らぬ間に情報に流されやすい、いい意味でも悪い意味でも、感性の強い若者や日頃テレビに頼り過ぎる人は注意が必要だ。なぜなら、彼らはウソの情報などを、そっくりそのまま他人に伝播する悪質性を持っている。反対に、テレビの情報を冷静に判断する賢い視聴者はまた、信頼出来る視聴者でもある。このことを忘れてはならない。こんな視聴者が増えれば、テレビ局も進化せざるを得ないだろう。
勝手にシンドバットで好きに書いたが、今日も最後になった。僕は思う。本当に最近、いいテレビ番組がない。新鮮味がない使い回し芸能人のバラエティー番組ももう飽きた。テレビ局がメディアスクラムを組んで報道する姿勢も、もうこりごりだ。芸がありそうで、ない、玄人より、素人が生き生き、活き活きしているテレビ番組はないのだろうか。ある、ある、例えば関西名物、ど素人が主役のお化け番組「探偵ナイトスクープ」だ。
断っておくが僕はこの番組のファンではない。が、たまにハマル時がある。この番組は、無理やりでわざとらしい「使い回し」の玄人の演技に比べて、ごく自然体の素人の一挙手一投足、生身の演技は好感が持てる。いったい、玄人と素人の境目はどこにあるんだろう、とも思う。仮に、彼らが使い回される番組であれば、僕は喜んで視聴するかも知れない。でも、もし彼らの演技に慣れてしまえば、どうだろうか。・・・・・。ここが「使い回し」の難しいところだ。結論は避けておく。
近所の枚方パークのローズガーデンでは、色とりどりの薔薇が満開だという。北国では、スズランの花が可憐さを競い合っているのだろう。田んぼに水が張られて、今年も元気なカエルの合唱だ。やっと新緑に定着した山滴る季節はまた、梅雨のはしり、を感じる季節でもある。風情のある麦秋、とは名ばかり。だけどまだ、水が恋しい季節でもない。
僕の独りよがりの想像で山野に目を転ずれば、谷間の岸辺には笹百合が清楚な花を咲かせ、清流の水辺には神秘的な光の蛍が飛び交い、浅瀬には若鮎が遡上する。仰ぎ見る山の緑陰では、「カッコー、カッコー」と鳴く「閑古鳥」と、「テッペンカケタカ」と鳴く托卵(たくらん)の名手「時鳥(ホトトギス)」が子育てに忙しい。などなど、僕好みの生物でまとめた「勝手にシンドパット」の季節模様だ。余談だが、その「サザンオールスターズ」が来年からの活動休止宣言をした。桑田君の偉大さを考えると、いかにも惜しい。
さて、足早にここでクイズだ。前記した若鮎の「塩焼き」は、最高に美味い。さすがは天然ものの「香魚」だ、と思わせるものがある。この香気は、鮎が川底に着いているケイ藻、ラン藻といった藻類を食べることによる。では、この香魚の腸、または子を塩漬けにした「日本の珍味」を何という? ・・・・・。正解は「うるか」だ。これを出す店が近所にあるが、あまりにも(値段が)高過ぎて賞味し辛い。こんな若鮎の川でラフティングをするのは、少々酷だろうか。僕は昔、ハッポースチロールで造った船(筏?)で、若鮎の川と言われる奈良県の吉野川を下ったことがある。結果は、急流にもまれて残念ながら途中リタイア、だった。水が恋しい季節になったら、また挑戦してみたいものだ。
次に、気になる話題を都合により4つだけ。1つ目。中国四川大地震の惨状は、目を覆うばかりだ。ただ一言、「凄い」としか言いようがない。その中国の世界一の高峰「チョモランマ」に登った「冒険家兼プロスキーヤー」の三浦雄一郎さんは立派だ。75歳、世界最高齢での登頂記録を目指していたが、自身の登頂前日に、76歳のネパール人に先を越されてしまった。にもかかわらず、相手に賛美の言葉を送りその栄誉を讃えた。三浦さんは、優しい人間だ。彼こそ、後期高齢者ならぬ「高貴高齢者」の代表格だろう。
2つ目。歪んだ美意識を持った、笑顔の中途半端な冷たい視線のサッカー選手に比べ、今売り出し中の石川君(ゴルフ)と唐川君(プロ野球ロッテ)の表情はステキだ。何よりも、素直な笑顔がいい。このままステキな顔を持ち続けて欲しいものだ。この2人なら、きっと「優子リン」の「コリン星」に行けそう。と、僕の派遣先企業のギャルが言っていた。彼らが出ているテレビの画面が輝いて見えるのは、いったいなぜだろう。
3つ目。トヨタの「カイゼンに残業代」は、遅過ぎたにしては結構インパクトがあった。何と言っても、今や泣く子も黙る世界のトヨタだ。社員のみならず、このまま「非正社員の給与カイゼン」に向けて突っ走って欲しい。トヨタなら、それが出来るし、後に続く企業も出る。いいことだ。 4つ目。一言だけ。今度の日曜日のダービー(競馬)は、前走が圧巻だった「ディープスカイ」から「馬単」で勝負する。外れたらゴメン。 先を急ぐのでここまでにして、今日はイヤミな「我田引水誘導文」をカット、競馬の馬単のようにストレートにテーマに入る。
老舗高級料理店のモラルと品格を問われた、船場吉兆(ついに廃業)の食べ残し料理の「使い回し」は、異常だった。しかも、これは全て経営トップの独断による指示だったというから驚きだ。一方で、全国の医療施設などでの(糖尿病患者の血糖値を測定する)「採血器具の使い回し」も大きな社会問題になっている。使い回し、という言葉を厳密に吟味すれば、ひょっとすれば会社員や僕のような派遣社員もそうかも知れず、あまり神経質に考える必要がないのかも知れないが、それはさて置き、今日は誰が見ても「これは使い回しだ」と意識せざるを得ない現象を紹介しようと思う。
その前に一言念を押しておく。これは明らかに「使い回し」だ。しかもこの使い回しは、裏で隠れてこそこそとやる陰湿な使い回しではない。それこそ正々堂々と日常茶飯事に、我々の眼前で行われている「正統派」の使い回しなのである。この辺で、もったいぶらずに言おう。その使い回しとは、俳優やタレント、評論家や政治家などのテレビ番組での使い回しだ。最近特に目立つのが、とても芸があるとは思えない、悪態をつく「芸能人」のそれだ。
まず、テレビにまつわる分かりやすい因縁話しをしよう。何度も言うが、テレビは全国津々浦々どこの家庭にもある「究極のマインドコントローラー」だ。このマインドコントローラーを動かすのは、主にテレビ局の番組制作者。彼らの誉れは、言うまでもなく「視聴率」という魔物だ。そして、これがないと彼らの仕事が正当に評価されない。本来、テレビ局の最終使命は、視聴者から信頼される番組作りなのだが、そんな番組が多かったテレビ草創期とは違って、最近はどこのテレビ局も視聴率至上主義に陥っている。そのため、視聴者の射幸心を煽る「興味本位のセンセーショナル」な番組作りに逸走している。つまり、まともな普通の番組作りは、各テレビ局にとっては、絶対「御法度」なのだ。ということは、目指すものは「まともではない視聴率が取れる番組作り」ということになる。
その結果、生み出されるものは、真実を度外視した「やらせ」や「捏造」番組なのだ。そこで、制作者の演出ターゲットは、このやらせや捏造をお気軽に「演技」出来る最適な人材は誰か? ということになる。そうなると、俄然クローズアップされるのが、視聴者とは既に「顔馴染み」の肩の凝らない芸能人に行き着くのである。こうして、彼らの演技力に視聴者はしばしマインドコントロールされてしまう。こういう図式が成り立つのだ。僕は、そんな番組のカラクリをこう読んでいる。
勿論、(評論家や政治家などを含める)全ての芸能人使い回し番組がこうだとは言わない。たまには、心打たれる良質番組もある。が、大半はこうした芸能人の使い回しによる悪質番組だ。特に民放は、このような悪循環から一向に抜け出してはいない。もうそろそろ、視聴者から信頼される番組という原点に返らないと、これから益々テレビの地盤沈下は進むだろう。そしてやがては、使い回しによって廃業に追い込まれたあの哀れな船場吉兆のように、視聴者に置いてけぼりになる日が近いのかも知れない。
再度言う。こんな俳優やタレントの使い回し番組を見ていると、僕はいつも先を読んでしまう。つまり、ちょっと考えると、あの悪態をつく下らない番組の表裏が分かってしまうのだ。それに、出演しているのは、毎度毎度同じような顔ぶれ。全く新鮮味のない面々だ。それらの使い回しの面々は、アドリブで言うこともたかだか知れている。一角の芸はあるが身がない。品格も疑問だ。そして何よりも、僕があざ笑うのは、番組制作者の意図通り、センセーショナルな台本に忠実に演技をするその様だ。時には刺激的に、時には喜劇的に、時には涙さえ見せて。僕は情けなくなる時がある。
そんな時いつも直感するのは、NHK云々と言う前に、民放ももう少し知恵を絞らないと、いずれは視聴者に飽きられる、という危惧だ。また、このままでは、我々庶民もまた、使い回し芸能人のエエ加減さに翻弄されてしまうのではないかという心配だ。果たして、現状の芸能人使い回しを黙認している番組制作者に、これではダメだという危機感はあるのだろうか。
この答えをズバリ言えば、「全くなし」だと言い切れる。その証拠に、昨年関西テレビの「発掘! あるある大事典通Ⅱ」の捏造問題発覚以降も、TBS「朝ズバッ!」の不二家報道問題などが次々と表面化している。放送局側が放送倫理・番組向上機構に「放送倫理検証委員会」を作り、自浄機能を強調したにもかかわらず、だ。その時の委員会の結論は、「番組は、もっとちゃんと作るべきだ」だった。
その後の10月末にあった民放連のシンポジウムでは、例えば、バラエティー番組で表現やテロップが過剰ではないかという指摘に、日本テレビの編成局長は、「電波少年」を例に挙げて「演出のツールになっていた」と褒めた。また、欧米に比べ、ドラマの質が低過ぎるという質問に、フジテレビの編成制作局長は、「作り手の力量は上がっている」と反論し、「ガリレオ」を「素晴らしい」と讃えた。だが、このように、制作トップが成功した(?)自局番組を例に出して自画自賛しているだけでは、視聴者が本当に見たいものを見失う元になるのではないだろうか。
思えば、携帯電話やインターネットなどの登場で、テレビ局も今までにない困難な時代を迎えている。魔物とされる視聴率にしがみつく姿勢も、今となっては一種の滑稽さを感じてしまうほどだ。銀行がつぶれ、自治体さえも破綻する昨今、救いと言えば、テレビ局にはまだ倒産がないことだろう。でも、危機感がないままに、同じような顔ぶれの芸能人などを使い回す、安易な番組作りを続けていたのでは、この先が思いやられる。テレビ局自身があまりにも芸がなさ過ぎるのだ。僕はかつて、魅力的で吸い込まれそうなブルーアイズのニュージーランド女性に、こう質問されたことがある。「日本のテレビは、いつもあのようにふざけた番組を流しているのですか?」 外国人の純粋な質問に僕は思わず返答に困ってしまった。日本のテレビに携わる人達は、彼女の言葉の深層(真相)を頭を垂れて想起すべきだろう。
使い回し番組などの裏にあるのは、テレビ局が人件費や制作費を抑えて、外部に発注する動きが強まったことだろう。その結果、推定で全国500社ある下請け、孫請けの制作会社がテレビ放送の約8割に携わっている、というのが放送現場の実情だ。そして、特筆すべきは、それらの制作者が「床に転がって仮眠を取るような忙しさ」でも、年収が約300万円以下という「格差社会の縮図」の過酷な現場の中にいることだ。過酷な労働条件は、やがては人材難に繋がり、著作権などの権限を握っているテレビ局社員との賃金格差は広がるばかりだ。いい番組作りを目指そうとすれば、これでいい訳がない。安易な番組作りに走る誘因の一つと言える。
このように、俳優やタレントなどの芸能人が使い回される、悪質なテレビ番組の裏側には、同じようにテレビ局に使い回されている、番組制作者の悲しい現実があるのだ。これでは、今もってテレビ局に危機感が見られないのは当然だろう。それでも、真相を何も知らない一般視聴者は、手っ取り早い娯楽の代表でもあるテレビを信用してしまう。使い回しではないにしても「小泉劇場」がいい例だ。そして、例えウソの情報でも、一種のパニックを起こす「影響力」がテレビにはある。これは「社会的影響力」だ。だから、テレビを見る側の我々にも当然「社会的責任」があるとは言えないだろうか。
特に、知らぬ間に情報に流されやすい、いい意味でも悪い意味でも、感性の強い若者や日頃テレビに頼り過ぎる人は注意が必要だ。なぜなら、彼らはウソの情報などを、そっくりそのまま他人に伝播する悪質性を持っている。反対に、テレビの情報を冷静に判断する賢い視聴者はまた、信頼出来る視聴者でもある。このことを忘れてはならない。こんな視聴者が増えれば、テレビ局も進化せざるを得ないだろう。
勝手にシンドバットで好きに書いたが、今日も最後になった。僕は思う。本当に最近、いいテレビ番組がない。新鮮味がない使い回し芸能人のバラエティー番組ももう飽きた。テレビ局がメディアスクラムを組んで報道する姿勢も、もうこりごりだ。芸がありそうで、ない、玄人より、素人が生き生き、活き活きしているテレビ番組はないのだろうか。ある、ある、例えば関西名物、ど素人が主役のお化け番組「探偵ナイトスクープ」だ。
断っておくが僕はこの番組のファンではない。が、たまにハマル時がある。この番組は、無理やりでわざとらしい「使い回し」の玄人の演技に比べて、ごく自然体の素人の一挙手一投足、生身の演技は好感が持てる。いったい、玄人と素人の境目はどこにあるんだろう、とも思う。仮に、彼らが使い回される番組であれば、僕は喜んで視聴するかも知れない。でも、もし彼らの演技に慣れてしまえば、どうだろうか。・・・・・。ここが「使い回し」の難しいところだ。結論は避けておく。