「/(スラッシュ)」

ナニワのオッサン 怒りのエッセイ!!

/179.使い回し、テレビ番組(制作者はまともか?)

2008-05-30 12:47:30 | Weblog
 歳を取ると、漫画「ゲゲゲの鬼太郎」の主題歌「♪朝は寝床でグーグーグー♪」がなくなった。夜遅く帰宅しても、だ。でも、そのお陰で新しい朝の四季の装い、が楽しめる。言わば年寄りの特権だ。特権の目で見れば、時節はもう真珠色の水無月。水(雨)がたんとあるのに、なぜ水無月というのだろう。六月は僕の生まれた月でもある。また歳を取るんか、もうたくさんだ。今歳の感慨は、若い頃に比べてかなり投げやりだ。

 近所の枚方パークのローズガーデンでは、色とりどりの薔薇が満開だという。北国では、スズランの花が可憐さを競い合っているのだろう。田んぼに水が張られて、今年も元気なカエルの合唱だ。やっと新緑に定着した山滴る季節はまた、梅雨のはしり、を感じる季節でもある。風情のある麦秋、とは名ばかり。だけどまだ、水が恋しい季節でもない。

 僕の独りよがりの想像で山野に目を転ずれば、谷間の岸辺には笹百合が清楚な花を咲かせ、清流の水辺には神秘的な光の蛍が飛び交い、浅瀬には若鮎が遡上する。仰ぎ見る山の緑陰では、「カッコー、カッコー」と鳴く「閑古鳥」と、「テッペンカケタカ」と鳴く托卵(たくらん)の名手「時鳥(ホトトギス)」が子育てに忙しい。などなど、僕好みの生物でまとめた「勝手にシンドパット」の季節模様だ。余談だが、その「サザンオールスターズ」が来年からの活動休止宣言をした。桑田君の偉大さを考えると、いかにも惜しい。

 さて、足早にここでクイズだ。前記した若鮎の「塩焼き」は、最高に美味い。さすがは天然ものの「香魚」だ、と思わせるものがある。この香気は、鮎が川底に着いているケイ藻、ラン藻といった藻類を食べることによる。では、この香魚の腸、または子を塩漬けにした「日本の珍味」を何という? ・・・・・。正解は「うるか」だ。これを出す店が近所にあるが、あまりにも(値段が)高過ぎて賞味し辛い。こんな若鮎の川でラフティングをするのは、少々酷だろうか。僕は昔、ハッポースチロールで造った船(筏?)で、若鮎の川と言われる奈良県の吉野川を下ったことがある。結果は、急流にもまれて残念ながら途中リタイア、だった。水が恋しい季節になったら、また挑戦してみたいものだ。

 次に、気になる話題を都合により4つだけ。1つ目。中国四川大地震の惨状は、目を覆うばかりだ。ただ一言、「凄い」としか言いようがない。その中国の世界一の高峰「チョモランマ」に登った「冒険家兼プロスキーヤー」の三浦雄一郎さんは立派だ。75歳、世界最高齢での登頂記録を目指していたが、自身の登頂前日に、76歳のネパール人に先を越されてしまった。にもかかわらず、相手に賛美の言葉を送りその栄誉を讃えた。三浦さんは、優しい人間だ。彼こそ、後期高齢者ならぬ「高貴高齢者」の代表格だろう。

 2つ目。歪んだ美意識を持った、笑顔の中途半端な冷たい視線のサッカー選手に比べ、今売り出し中の石川君(ゴルフ)と唐川君(プロ野球ロッテ)の表情はステキだ。何よりも、素直な笑顔がいい。このままステキな顔を持ち続けて欲しいものだ。この2人なら、きっと「優子リン」の「コリン星」に行けそう。と、僕の派遣先企業のギャルが言っていた。彼らが出ているテレビの画面が輝いて見えるのは、いったいなぜだろう。

 3つ目。トヨタの「カイゼンに残業代」は、遅過ぎたにしては結構インパクトがあった。何と言っても、今や泣く子も黙る世界のトヨタだ。社員のみならず、このまま「非正社員の給与カイゼン」に向けて突っ走って欲しい。トヨタなら、それが出来るし、後に続く企業も出る。いいことだ。 4つ目。一言だけ。今度の日曜日のダービー(競馬)は、前走が圧巻だった「ディープスカイ」から「馬単」で勝負する。外れたらゴメン。 先を急ぐのでここまでにして、今日はイヤミな「我田引水誘導文」をカット、競馬の馬単のようにストレートにテーマに入る。

 老舗高級料理店のモラルと品格を問われた、船場吉兆(ついに廃業)の食べ残し料理の「使い回し」は、異常だった。しかも、これは全て経営トップの独断による指示だったというから驚きだ。一方で、全国の医療施設などでの(糖尿病患者の血糖値を測定する)「採血器具の使い回し」も大きな社会問題になっている。使い回し、という言葉を厳密に吟味すれば、ひょっとすれば会社員や僕のような派遣社員もそうかも知れず、あまり神経質に考える必要がないのかも知れないが、それはさて置き、今日は誰が見ても「これは使い回しだ」と意識せざるを得ない現象を紹介しようと思う。

 その前に一言念を押しておく。これは明らかに「使い回し」だ。しかもこの使い回しは、裏で隠れてこそこそとやる陰湿な使い回しではない。それこそ正々堂々と日常茶飯事に、我々の眼前で行われている「正統派」の使い回しなのである。この辺で、もったいぶらずに言おう。その使い回しとは、俳優やタレント、評論家や政治家などのテレビ番組での使い回しだ。最近特に目立つのが、とても芸があるとは思えない、悪態をつく「芸能人」のそれだ。

 まず、テレビにまつわる分かりやすい因縁話しをしよう。何度も言うが、テレビは全国津々浦々どこの家庭にもある「究極のマインドコントローラー」だ。このマインドコントローラーを動かすのは、主にテレビ局の番組制作者。彼らの誉れは、言うまでもなく「視聴率」という魔物だ。そして、これがないと彼らの仕事が正当に評価されない。本来、テレビ局の最終使命は、視聴者から信頼される番組作りなのだが、そんな番組が多かったテレビ草創期とは違って、最近はどこのテレビ局も視聴率至上主義に陥っている。そのため、視聴者の射幸心を煽る「興味本位のセンセーショナル」な番組作りに逸走している。つまり、まともな普通の番組作りは、各テレビ局にとっては、絶対「御法度」なのだ。ということは、目指すものは「まともではない視聴率が取れる番組作り」ということになる。

 その結果、生み出されるものは、真実を度外視した「やらせ」や「捏造」番組なのだ。そこで、制作者の演出ターゲットは、このやらせや捏造をお気軽に「演技」出来る最適な人材は誰か? ということになる。そうなると、俄然クローズアップされるのが、視聴者とは既に「顔馴染み」の肩の凝らない芸能人に行き着くのである。こうして、彼らの演技力に視聴者はしばしマインドコントロールされてしまう。こういう図式が成り立つのだ。僕は、そんな番組のカラクリをこう読んでいる。

 勿論、(評論家や政治家などを含める)全ての芸能人使い回し番組がこうだとは言わない。たまには、心打たれる良質番組もある。が、大半はこうした芸能人の使い回しによる悪質番組だ。特に民放は、このような悪循環から一向に抜け出してはいない。もうそろそろ、視聴者から信頼される番組という原点に返らないと、これから益々テレビの地盤沈下は進むだろう。そしてやがては、使い回しによって廃業に追い込まれたあの哀れな船場吉兆のように、視聴者に置いてけぼりになる日が近いのかも知れない。

 再度言う。こんな俳優やタレントの使い回し番組を見ていると、僕はいつも先を読んでしまう。つまり、ちょっと考えると、あの悪態をつく下らない番組の表裏が分かってしまうのだ。それに、出演しているのは、毎度毎度同じような顔ぶれ。全く新鮮味のない面々だ。それらの使い回しの面々は、アドリブで言うこともたかだか知れている。一角の芸はあるが身がない。品格も疑問だ。そして何よりも、僕があざ笑うのは、番組制作者の意図通り、センセーショナルな台本に忠実に演技をするその様だ。時には刺激的に、時には喜劇的に、時には涙さえ見せて。僕は情けなくなる時がある。

 そんな時いつも直感するのは、NHK云々と言う前に、民放ももう少し知恵を絞らないと、いずれは視聴者に飽きられる、という危惧だ。また、このままでは、我々庶民もまた、使い回し芸能人のエエ加減さに翻弄されてしまうのではないかという心配だ。果たして、現状の芸能人使い回しを黙認している番組制作者に、これではダメだという危機感はあるのだろうか。

 この答えをズバリ言えば、「全くなし」だと言い切れる。その証拠に、昨年関西テレビの「発掘! あるある大事典通Ⅱ」の捏造問題発覚以降も、TBS「朝ズバッ!」の不二家報道問題などが次々と表面化している。放送局側が放送倫理・番組向上機構に「放送倫理検証委員会」を作り、自浄機能を強調したにもかかわらず、だ。その時の委員会の結論は、「番組は、もっとちゃんと作るべきだ」だった。

 その後の10月末にあった民放連のシンポジウムでは、例えば、バラエティー番組で表現やテロップが過剰ではないかという指摘に、日本テレビの編成局長は、「電波少年」を例に挙げて「演出のツールになっていた」と褒めた。また、欧米に比べ、ドラマの質が低過ぎるという質問に、フジテレビの編成制作局長は、「作り手の力量は上がっている」と反論し、「ガリレオ」を「素晴らしい」と讃えた。だが、このように、制作トップが成功した(?)自局番組を例に出して自画自賛しているだけでは、視聴者が本当に見たいものを見失う元になるのではないだろうか。

 思えば、携帯電話やインターネットなどの登場で、テレビ局も今までにない困難な時代を迎えている。魔物とされる視聴率にしがみつく姿勢も、今となっては一種の滑稽さを感じてしまうほどだ。銀行がつぶれ、自治体さえも破綻する昨今、救いと言えば、テレビ局にはまだ倒産がないことだろう。でも、危機感がないままに、同じような顔ぶれの芸能人などを使い回す、安易な番組作りを続けていたのでは、この先が思いやられる。テレビ局自身があまりにも芸がなさ過ぎるのだ。僕はかつて、魅力的で吸い込まれそうなブルーアイズのニュージーランド女性に、こう質問されたことがある。「日本のテレビは、いつもあのようにふざけた番組を流しているのですか?」 外国人の純粋な質問に僕は思わず返答に困ってしまった。日本のテレビに携わる人達は、彼女の言葉の深層(真相)を頭を垂れて想起すべきだろう。

 使い回し番組などの裏にあるのは、テレビ局が人件費や制作費を抑えて、外部に発注する動きが強まったことだろう。その結果、推定で全国500社ある下請け、孫請けの制作会社がテレビ放送の約8割に携わっている、というのが放送現場の実情だ。そして、特筆すべきは、それらの制作者が「床に転がって仮眠を取るような忙しさ」でも、年収が約300万円以下という「格差社会の縮図」の過酷な現場の中にいることだ。過酷な労働条件は、やがては人材難に繋がり、著作権などの権限を握っているテレビ局社員との賃金格差は広がるばかりだ。いい番組作りを目指そうとすれば、これでいい訳がない。安易な番組作りに走る誘因の一つと言える。

 このように、俳優やタレントなどの芸能人が使い回される、悪質なテレビ番組の裏側には、同じようにテレビ局に使い回されている、番組制作者の悲しい現実があるのだ。これでは、今もってテレビ局に危機感が見られないのは当然だろう。それでも、真相を何も知らない一般視聴者は、手っ取り早い娯楽の代表でもあるテレビを信用してしまう。使い回しではないにしても「小泉劇場」がいい例だ。そして、例えウソの情報でも、一種のパニックを起こす「影響力」がテレビにはある。これは「社会的影響力」だ。だから、テレビを見る側の我々にも当然「社会的責任」があるとは言えないだろうか。

 特に、知らぬ間に情報に流されやすい、いい意味でも悪い意味でも、感性の強い若者や日頃テレビに頼り過ぎる人は注意が必要だ。なぜなら、彼らはウソの情報などを、そっくりそのまま他人に伝播する悪質性を持っている。反対に、テレビの情報を冷静に判断する賢い視聴者はまた、信頼出来る視聴者でもある。このことを忘れてはならない。こんな視聴者が増えれば、テレビ局も進化せざるを得ないだろう。

 勝手にシンドバットで好きに書いたが、今日も最後になった。僕は思う。本当に最近、いいテレビ番組がない。新鮮味がない使い回し芸能人のバラエティー番組ももう飽きた。テレビ局がメディアスクラムを組んで報道する姿勢も、もうこりごりだ。芸がありそうで、ない、玄人より、素人が生き生き、活き活きしているテレビ番組はないのだろうか。ある、ある、例えば関西名物、ど素人が主役のお化け番組「探偵ナイトスクープ」だ。

 断っておくが僕はこの番組のファンではない。が、たまにハマル時がある。この番組は、無理やりでわざとらしい「使い回し」の玄人の演技に比べて、ごく自然体の素人の一挙手一投足、生身の演技は好感が持てる。いったい、玄人と素人の境目はどこにあるんだろう、とも思う。仮に、彼らが使い回される番組であれば、僕は喜んで視聴するかも知れない。でも、もし彼らの演技に慣れてしまえば、どうだろうか。・・・・・。ここが「使い回し」の難しいところだ。結論は避けておく。

/178.世界の食糧高騰(だから日本はどうする?)

2008-05-23 18:30:00 | Weblog
 代掻(しろかき)が終わった田んぼで、怪鳥「ケリ」の鳴き声がけたたましい。にっくき(憎い)カラス、ムクドリ、ハト、ヒヨドリと仕事の虫、ツバメ達を蹴散らす勢いだ。隣の貸し農園では、誰が世話をしているのやら、いかにも重そうな空豆が実っている。さやを空に向けてつけるので、この名がついたそうだ。用水路を挟んで傍らの湿地帯では、「いずれが菖蒲か杜若(かきつばた)」が己の存在を主張している。次は俺達の季節だぞ、と。こう言われると、まだまだ青い紫陽花達も黙ってはいられない。何か言いたげだ。草木が入り混じる農家の植え込みでは、サクランボの朱と赤が鮮やか。思わず手に取って食べたくなる。などなど、スケールは小さくても、身近な梅雨近し、の風景としては悪くない。

 公園の緑陰の中で初もののビワを食べていると、まるで庭木のように刈り込まれた、ド派手なプードル犬が通り過ぎた。尻尾の先が盆栽の五葉松みたいだ。犬を引くのは、訳あり有閑マダム風の熟女。シャナリ、シャナリ。そのズッコケそうなアンバランスとチグハグさ。おかしくて、思わず大きなビワの種を口から噴き出してしまった。愛犬家もここまでくれば、滑稽だ。この風景は何とも評価し難い。

 また、競馬のG1レース(ビクトリアマイル)を勝ってしまった。今度ばかりはあまり自信がなかったので、この場で予想しなかったのが残念。今回は馬単で1000円の3点買い。今、ツキマクッテイル。が、独り相撲になってはいけないので、このささやかな喜び、の話しはまたの機会にして、話題を変える。

 「♪夏も近づく八十八夜、・・・・・あれに見えるは茶摘じゃないか♪」 茶摘の季節でもある。千年ブームに沸く「源氏物語」の続編は「宇治十帖」 この舞台周辺の地は、室町のいにしえから引き継がれる京都「宇治銘茶」の産地だ。良いお茶が育つ条件は、澄んだ谷あいの静かな場所で、朝晩の温度差が大きく、適度に霧が発生し、肥沃な土と清い川があることだという。そして、宇治銘茶の最高級品とされるのが、豊臣秀吉や徳川家康の時代に幕府御用を務める「御茶師」として活躍した「上林家」縁(ゆかり)の玉露だ。これは宇治市にある「上林春松本店」で販売されている。

 さて、ここでクイズだ。この「上林春松」を何と読む? ・・・・・。正解は「かんばやししゅんしょう」だ。これを知っていた人は、凄いお茶通だろう。知らなかった人は、以後お見知りおきを。特に秀吉は、上林氏のお茶を「天下の銘茶」と呼んだそうだ。お茶談議で、これを知っていて損はない。ただし、源氏物語の光源氏が「おっ、これはウマイ!!」と言ったかどうかは、もっと時代が遡るので定かではない。いずれにしても、銘茶は自然に恵まれた環境の茶畑でしか育たないのだ。もっともだろう。

 宇治銘茶ではなく、我が愛用の番茶を一杯飲んだところで、早速今日のテーマに入る。本当を言えば、テレビニュースで流される惨状が痛々しい中国「四川大地震」のことを書きたかったが、これを捨て、よりインパクトがあった世界の「食の惨状」のことについて、またまた僕の心情を打ち明けようと思う。書き終えて、苦いお茶にならなければいいのだけれど。

 このところのテレビや新聞の報道を見ていると、他の社会問題はそっちのけにして、これを書かずにはいられない気持ちになる。これとは、「止まることを知らない世界食糧の高騰」だ。この問題は、今夏に開催される北海道「洞爺湖サミット」でも、地球温暖化と並んで大きな焦点となるのは確実だろう。それだけ、世界の食糧需給は逼迫している。

 世界中で米や小麦、大豆、トウモロコシなどの値段が暴騰した「大方のあらまし」はこうだ。食糧不足の原因としては、オーストラリアの干ばつなど、主要農業国の不作が重なった。中国やインドといった人口大国で食生活が変化し、肉の消費と飼料の需要が急増した。先進国でトウモロコシなどの穀物をガソリンの代替燃料に転用し始めた(いわゆるバイオ燃料)ことなどが挙げられる。が、今回の事態を招いた最大の要因は、「妖怪」のような「投機資金」が食糧市場に流れ込んでいることだ。

 サブプライム問題など米国の金融不安を契機に、金融・株式市場から引き揚げられた資金が穀物などに向かい、これによって価格が上昇し、それがまた投機資金を呼び込むという悪循環。これが妖怪の正体だ。これに伴い、食糧輸出国は売り惜しみをして、輸入国は買い占めに走った。具体的には、香港では、米が売り切れ、カイロでは、政府支給による格安のパンを求めて長蛇の列が続き、世界1、2の米輸出国であるタイやベトナムが、相次いで輸出を規制した。カンボジアでは、自国の米が高値で外国に買い占められてしまい、国内に回らなくなった。国連の世界食糧計画(WFP)によると、援助用食糧価格の高騰は「まるでツナミのような緊急事態だ」ということである。

 これら原材料高騰の影響を受けて、世界最大の食糧輸入国である日本では、まるで五月雨のごとき食料品の値上げラッシュ、物価高ラッシュだ。身近なパンが、スパゲティーが、醤油が、味噌が、乳製品が、即席めんが、相次いで値上げしていることは承知の事実。「オイ、いったいどうなっているんだ!!」 庶民は生活防衛に東奔西走、右往左往している。以上、これが日本を含める世界食糧高騰の足早な大筋ストーリーだ。

 そして、このストーリーの中で何よりも脅威に映るのは、人口大国中国、インドに代表される、ブリックス諸国の食を巡る今後の動向だ。もうお分かりだろう。つまり、これらの国々がこのまま更に経済発展を遂げて、世界の食糧(食料)を食べ続ければ、という前提で話しをすれば、「いったい日本はどうなる?」ということなのだ。この点について、日本は今、それ相当の危機感を持っているだろうか。この答えは、僕に言わすれば、絶対に「NO」である。こんなウカウカとしてはおれない状況でも、日本は相変わらずノホホンと食を外国に頼る「飽食の国」なのである。全く矛盾している。

 そんな国のヤカラに釘を刺す意見もある。朝日新聞の「声」欄に掲載された感性豊かな20歳の女子大生、大西奈穂さんはこう言っている。「船場吉兆の料理使い回しが発覚した。私は日本料理店でバイトをしていたことがあり、使い回しを肯定しないが、その気持ちはよく分かる。客がまったく手をつけずに残す料理は、毎日膨大だった。素早く片づけるため、それらをビールや酒と一緒にバケツに捨てていたが、泣きたくなった。使い回しの報道に接する度、ビールの海でおぼれている大量の寿司を思い出す。本当にもったいないと思った」

 「世界の飢餓人口は8億人。食料高騰でアフリカで各地に暴動が起きている。一方、日本国内の食品廃棄物は年2千万トンで、8割が未利用という。なんておかしな世の中だろう。世界ではこの瞬間にも餓死者が出ていると思えば、料理を手つかずで残せないはずだ。無駄な料理や食べ物を買うお金があるなら、食糧支援を必要とする人のために寄付して欲しい。船場吉兆をモラルがないと責めるときは同時に、食べ残しのモラルの無さにも目を向けるべきだ」

 まさにその通りだ。彼女の言う通り、世界食料高騰の裏側では、アジアやアフリカ、中南米などの貧しい国々の人達が食糧不足の犠牲になっているのだ。そればかりか、これらの国々では暴動も起こっている。食料輸出国が輸出規制の自己防衛に走ると、食で自立が出来ない貧困国では、生きることさえ困難な状況になるのだ。

 それを知ってか知らずか、同じように食で自立出来ない裕福な国日本は、未だに大量消費の幻影に浮かれポンチになって、飽食をむさぼっているのである。困ったことだ。これが後何年続くかどうかも分からないというのに。ましてや、飽食の挙句、食べ残しをする何てもってのほか、けしからん!! 少しは貧困国のことを考えろ、思わずこう叫びたくなる。腹が立ってきたので、例によってこの辺で語気を強める。何度も言い続けて来たことだが、日本は自国の食では自立出来ない、悲しい他力本願の国なのだ。国内には、肥沃で豊穣な宝の土地があるにもかかわらず、だ。これは、宝の持ち腐れ、情けないことだ。

 更に続ける。「衣、食、住」で一番大事なのは「食」だ。これは言うまでもない。そしてこれがないと、人間は生きられない。自国で食を生産出来る潜在能力がありながら、何から何まで食を外国に頼り切っているのは、この国の大恥を世界に晒していることだと認識すべきだろう。もう一つ、大事なことを言おう。よく聞いて欲しい。他国(他人)に頼って食っている以上、その国(人)は、いつまで経っても弱みを持ち続ける「居候」だ。このような肩身の狭い日本の食の現実に、日本人が自ら目をつぶっているのは、肥沃で豊穣な宝の土地への背信行為ではないだろうか。だからこそ、今こそ日本(日本人)は、我が家の食に目覚める時なのだ。かなり興奮気味だが、僕はそう思う。

 正気に戻って、日本人の日常生活の食を考えよう。例えば、巷の欧米食を中心とするファストフード店やハンバーガーショップなどは、本当に身体に良いバランス食だろうか。勿論、たまには「良飯店」もあるだろう。でも、大半は「メタボ促進料理店」そのものだ。食べているのは、見た目と雰囲気でお客さんを騙す「生活習慣病誘発料理」以外の何者でもない。そんな店は、新陳代謝が盛んな若者には多少の「利」はあるだろう。けれど、日頃から運動不足の大人達には、何の御利益もない。それどころか、潜在メタボに悪性メタボが結びついて、管理の行き届かない内臓脂肪が益々太るばかりだ。そして、行き着くところがメタボ地獄。転落した地獄には、蜘蛛の糸さえ、ない。こうならないようにしたいものだ。

 そこで重要なのは、日本の食の「体質の転換」だ。二つだけ言う。その一つは、当然ながら食糧自給率のアップ。もう一つは、日本の「食卓の風景を変える」ことだ。そして、それを前提として、国も企業もその方向に舵を取ることだろう。先にも言ったが、日本は食で自立する潜在能力が充分あるのだ。ここはせめて、食だけでも経済のグローバル化や飽くなき市場原理に反発して、日本の独自性を確立することが必要ではないだろうか。でないと、いつまで経っても現状の食の弱みを解消出来ない。この「アキレス腱」をどこかへ吹き飛ばしてしまおう。

 時間がないので、では次に「食卓の風景」に相応しい「時代の選択」に入る。これは、あくまで私見だが、僕自身は大いに自信がある。僕が生きた過去を振り返ってみると、やはり日本の食の原点は、「お袋の味」が充分健在だった昭和30年代の古き良き時代だ。あの時代の食卓に焦点を合わせれば、きっと日本の食は「バラ色」に変身するだろう。

 ただし、あの時代の食卓に戻すのには、少々努力が要る。分かりやすく言えば、質素で、謙虚で、忍耐力のある人間に戻る努力だ。勿論、今のような飽食のおごりは、きっぱりと捨てなければならない。ある程度のサバイバル生活も覚悟しなければならないだろう。具体的には、僕などが背中を見て育った「つましい生活」を知っている全国の「お袋の味創作者」に聴いてみると良い。きっと、欧米食から和食への転換に繋がる「味わいのある意見」が聞ける筈だ。彼女らは、声をそろえてこう言うだろう。「焦る必要はありません。日本の風土に合ったメニューを、毎日の食事の中で増やしてみて下さい」と。先ず隗より始めよ。僕は日本人の努力に期待する。

 今日も長くなった。最後に締めたい。世界食糧の高騰は、市場の暴走と貧困国の飢餓を生んだ。原因は、食糧輸出国の輸出規制などなどだ。これによって、日本は生活必需品が物価高になった。この波は、第1波だけではすまないだろう。発展途上の人口大国・消費大国が、2波、3波を生む。この波はいずれ、大波となって日本に押し寄せるだろう。ツナミのような緊急事態に負けない防波堤は、何だろうか? それは、なんてったって日本人が誇れる「お袋の味復活の食卓」だ。和食のお袋の味は、あの投機資金という「妖怪」だって恐くない。それを知って、その時に備えることだ。寝る前に、苦くなったお茶をもう一杯飲もう。

/177.切っても切れない中国(何も言えない日本)

2008-05-17 07:36:53 | Weblog
 5月の誕生石の通り山がエメラルドグリーンになった。北では林檎の花が、南では蜜柑の花が芳香を放っている。風薫る緑の広々とした野っ原に身を置くと、心が開放的になり気分がほっとする。その一角で、小鳥達が巣作り・子育てに忙しい。夏めくかと思われた日々も冷たい雨で解消し、季節がまた元に戻った。朝の最低気温が15~16度、日中の最高気温が22~23度。これぐらいが丁度いい。生気みなぎる新緑から青葉に彩を添える石楠花や山つつじは、森のお姫様だ。無論、野に咲く「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」も、人様の目を楽しませている。

 小鳥達の元気な鳴き声に混じって、カエルの音がちらほら。「ゲロ、ゲーロ」 もうヤツラの季節になったんか。親は子を宿し、子は孫を産む。人様よりは短い命ではあるが、そんな自然の輪廻は人も畜生も皆一緒だ。元気と言えば、知らぬ間に増殖した昆虫達もはつらつとしている。中でも人様に最も嫌われ、かつうるさい家バエは、元気の優等生だ。食物や人体にぶつかってしつこい。それもその筈、5月のハエは「五月蠅い(うるさい)」と読む。ハエではなく、うるさい人様がもう一人居る。この季節になると、何の前触れもなく決まって家庭訪問をする、故岡部伊都子ファンの隣のオバチャンだ。彼女も元気そのもの。

 京都の葵祭りが終わった後は、東京浅草の三社祭だ。江戸下町の心が生きている。こんな祭りも人々を元気にする。元気になったところで、334番まである「♪汽笛一声新橋をー♪」の「鉄道唱歌」を口ずさみながら、遠く新緑の秘境に「秘湯」を求める旅はいかがだろうか。いささか我田引水気味だが、ここで温泉通の人向けクイズだ。今日は難しい。 次の文章から連想される秘湯はどこ? 

 「大阪(東京)から新幹線で福島へ。奥羽本線のローカル線にゆられながら『峠駅』で下車。そこから南へ向かう。ここは磐梯朝日国立公園の真っ只中、標高1300メートルの谷間に湯煙を上げる究極の秘湯だ。今にも崩れ落ちそうな硫黄焼けした山肌を眺めながら、野趣満点の露天風呂での一時は最高の気分。老女の伝説を偲ばせる温泉名が、なお一層旅心をくすぐる、吾妻連峰の山懐にある名湯だ」 さて? ・・・・・。正解は「姥湯(うばゆ)温泉」だ。 ここはいい。訪れて見れば、一生忘れられない秘湯になる筈だ。今頃の季節が一番。文部科学省の都道府県認知度調査では、東国原知事の宮崎県が最低だったらしいが、僕の中では、この温泉があるため福島県の認知度が数段上った。と、そう言っておこう。

 今日は余計な(?)呟きは抜きにして、ストレートにあの国の話しから入る。あの国とは「中国」だ。先の日本訪問で中国国家主席は、「中国は発展を遂げたが、依然として世界最大の『発展途上国』であることも、はっきり認識している」と述べた。僕は意外だった。が、この言葉の真意はともかく、スケールを大きく見れば、世界に絡み合う食糧・金融危機や「核の冬」「炭素の夏」などを意識しての発言だろう。中国は、それほど地球規模の存在になっているのだ。今なお発展途上国でありながら、先進国に逆鱗に触れさせない注目度抜群の中国。この大国にかかれば、小国日本はコテンパンだ。そんな印象が僕にはある。アジアの隣国で、日本にとって切っても切れない中国。そして、中国には何も言えない日本。こんな日本の依存体質に一言釘を刺したいが、果たしてどっちが悪いのか、僕も話しがどっちに転ぶか、全く分からない。

 圧政に苦しむミヤンマーのサイクロン被害に続いて、中国中西部の四川省でまた大きな地震災害があった。耐震性のない民家が崩壊して死者の数も桁違いだ。中国には13億の民がひしめき合って生きている。これだけ人口が多い中で、今回のような規模の大きい自然災害があれば、被害の規模も更に拡大するのは必至だろう。遅ればせながら、真っ先に現地支援に入った日本救助隊などに期待する他ない。

 それにしても中国は人が多い。今回の震源に近い重慶(チョンチン)でも、人口は東京を遥かに超えている。また、上海、北京などなど、単純に人口だけなら東京以上の都市がかなりある。「何て人口の多い国なんだ」 こう呟きながら街中を闊歩し、地方の風景にかつての古き良き日本を偲んだ、40半ばの旅を思い出す。日本は少子高齢化が叫ばれて久しいが、そんなことなど中国ではどこ吹く風だ。一人っ子政策などで抑制しながらも、まだ人口世界一の座は揺るぎない。今日は、今やある意味で「世界の脅威」となりつつある、この人口大国のことなどについて、再度僕なりの思いを展開したい。

 「暖春の旅」と銘打った、中国胡錦濤国家主席フィーバーが終わった。果たして、日本と中国に暖かい春が到来したのだろうか。この点については、僕は大いに疑問だ。過去の例から判断すると、この一見「氷を溶かせた」友好ムードは、何かの弾みでまた足元から崩れ落ちそうな予感がある。会談結果をみても、核心部分の有耶無耶も多く、まだまだ五里霧中の中で互いの腹の探り合いが続くのだろう。まっ、大局的な目で見て、これが未来に向けて真の友好を築く第一歩だと思えば、それはそれでいいのかも知れない。

 それでも僕は敢えて苦言を呈したい。今回の久し振りの中国国家主席訪日で赤恥を掻いたのは、福田さんの日本側の方だろう。これが外交だと言ってしまえばそれまでだが、自分の都合でしかものを言っていない中国に対し、付和雷同になり「中国には本音を何も言えない日本の立場」がはっきりしたからだ。例えが悪いが、これは暴力団組長が「三下のチンピラ」に軽くもてあそばれる状況に似ている。(組長と言うには、福田さんも貫禄がなかった)それがおかしければ、傍若無人の小学生に、大人が説教されている図にそっくりだ、とでも言いたい。要は、それだけ福田さんが突然借りてきたネコ、のようにシュン太郎になっていたということだ。情けない。

 それも仕方ないだろう。日本が中国にものが言える筈がない。いずれにしても、言えない理由は明白だ。今の日本にとって、中国は「困った時の神頼み」なのだ。だから、中国国家主席の琴線に触れる発言は極力避けたのだろう。僕はそう言い切れる。考えてみるがいい。日本の国も企業も、まさに中国様様だ。例えば、鉄鋼、電気通信、自動車、食品産業などなど日本の主要産業界は、皆中国外需の恩恵を受けている。そして、これら諸々の企業は、生産工場を中国にシフトして、価格面でも雇用面でも、現地人の安い労働力で帳尻を合わせている。そればかりではない。国内においても、中国人の安い労働力を頼りにしている企業が多いのだ。

 また、巷に溢れる中国の安い製品や食品なども、日本の低所得者層にとっては有り難い存在だ。以下は紙面の都合で省略するが、まだまだ書き切れないほど、日本の国や企業が中国に依存している例がいっぱいある。このような状況の中で、もし日本が中国からソッポを向かれたなら、いったいどうなるだろうか? この答えも、分かり切っている。ズバリ一言。正解は「日本の社会システム崩壊」だ。そう、中国なくしてこの国は立ち行かないのだ。一般家庭に例えれば、中国を手放すことは、「お父ちゃん、お母ちゃんがいない」のと同じことなのだ。中国という一家の主が居ないと、日本は明日からの生活に事欠き、どうしょうか、どうしょうかと途方に暮れる。つまり、中国がなければ日本の明日がない。当然、日本の国も成り立たない。と、こういうことなのだ。だから中国には何も言えない。情けないが、これが現実だ。

 これで福田さんが借りてきたネコになった理由が、分かってもらえたと思う。然るに、今日の「/」は、残念ながら我がままな中国ではなく、切っても切れない中国依存体質「タカリの日本」に、怒りを込めて「献上」したい。こう思うのだ。でも、本当に日本は中国に対してこのままでいいのだろうか。これについて、今マスコミなどで喧々諤々の議論が交わされている。前向きな意見、後向きな意見、真ん中の意見、各人様々だ。日本が積極的に中国にものが言えない理由の中で、一つだけ気になっていることが僕にはある。それは、あの中国に対する「侵略戦争」のトラウマだ。このトラウマの骨が、日本人の喉の奥に常に引っかかっているのだ。この障害物が、何かにつけ躊躇(ちゅうちょ)する原因。これを取り除くことが大事だと僕は思う。

 確かにあの侵略戦争に対する日本の反省を巡って、両国の関係はささくれ立った。小泉首相の「靖国神社参拝」では、中国各地で空前の反日デモが荒れ狂った。しかし、僕自身はこの問題に対する日本の「ミソギ」は、ODAなどで既に終焉していると思っている。そして、よくよく考えてみれば、双方紆余曲折はあっても、深い根のところでは、戦後戦争の反省から出発して、見事なまでに立ち直った日本の背中を見て、中国も育って来たのではないだろうか。そう考えれば、日本は中国の「先生」なのだ。だから、こんな側面を持っている日本の立場はもっと強い、と思われるのだ。このような日本の戦後を、全ての中国人に正当に評価してもらうべきだと僕は思う。

 そもそもあの戦争時の日本の実態が、中国共産党の国家戦略で、中国人に正しく伝わっていないことも、日中間に深い溝を刻んでいる。それが証拠に、例えば、中国の若者が語っている戦争観は、僕が聞いても「おかしいなあ」と思われるところが多々ある。正確に伝わっていないから、真実を度外視した戦争を知らない若者達の激しい「愛国主義」にも繋がっているのだろう。この話しは、結論が出そうにないのでこれまで。

 ともあれ中国は、眠れる獅子の時代から一転して、日本や欧米列強に翻弄されて来た戦前の歴史がある。だから、国民が卑屈になった面もあるだろう。戦後の経済発展も確かに遅れていた。我々一般人の感覚でも、韓国が15年遅れだった頃、中国は30年遅れだ、と巷で言われていた。僕もそう言われるままに、日本人として何となく優越感を持っていたものだ。例えば、過去のオリンピックでの中国人の言動や振る舞いは、見るからに異常だった。黙して語らず、感情を持たないポーカーフェイス。おかしい、何かヘンだ。こんなイメージが定着した時代もあった。

 それから先はどうだろう。近年中国は、大国の豊富な資源、世界一の人口などを背景に資本主義を導入し、今や世界の大生産工場であり、世界の大消費市場だ。そして、それだけでは満足せず、新たな資源、市場を求めてアフリカや南米などに進出している。また、世界屈指の軍事大国でもあり、スポーツ大国でもある。北京オリンピックがそれを象徴している。かつて田舎者と揶揄されたファッションの分野でも、上海などでは日本に近づいているとの噂を聞く。そんな経済大国の中国国家主席が図らずもこう言った。「我が国は、今も世界最大の発展途上国です」 矛盾だ。

 矛盾の一つが、農薬混入問題で揺れた食品、危ない製品事故。黄砂も含める深刻な大気汚染は日本にとっても脅威だ。まだまだある。こんな中国の有耶無耶は今も晴れない。これは、かつて日本が辿った道を遥かに超える規模の公害や環境汚染だ。どうやらこうして見ると、中国は日本にとって「アリガタ迷惑」な恐い国でもある。評論家の桜井よしこさんが言う、まさに「異形の大国」だ。僕には「奇形の大国」にも見える。

 中国は大きい。ゆえに、大き過ぎて書き切れない。でも、福田さんが「ダンマリ」を決め込んだ冷凍ギョーザ事件、チベットの人権弾圧と聖火リレーの混乱、東シナ海のガス田開発の核心問題に代表されるように、中国のあやふやさは、日本のみならず世界の脅威だ。今、世界が中国の動向を固唾を呑んで見守るのは、その巨人になった経済的、政治的、軍事的な存在感ゆえだ。そんな中国の姿勢が、国際社会の価値観や外交などにそぐわない、と批判されるのも仕方がないだろう。残りのブリックス諸国もスタンバイする中で、中国だけが飛び抜けて異常に見えるのは、やはり「異形の大国」だからこそだ。中国は今こそ、恐い存在から優しい存在に変化する時ではないだろうか。このアジアが多難な時代に、中国だけ我関せずのあやふやな国では困るのだ。同じアジアの隣人として、国同様の大きな目を見開いて欲しいものだ。

 ところで、今日の「/」は、明らかに「日本」だったのに、書いたのはほとんど中国のことになってしまった。本当は、中国を「/」にしたかったのに、その選択に悩んでしまった自分がもどかしい。

 「ツァイチェン」は、中国の別れの言葉だ。でも、中国に頼り過ぎて永遠に「さよなら」を言えない日本。これは今の日本国の宿命だ。せめて日本は、中国にもの言える日本になるために、食を中国に頼らない食料(食糧)自給率アップを目指すべきだ。そうすれば、少しは中国に文句を言える。それが、迫り来る世界の食料(食糧)高騰に対応する手段でもある。先ずは食べて行ける日本、を実現させる必要があるのだ。日本が依存する中国の安いもの、便利なものの先はたかだか知れている。食を解決して、豊穣な国日本の本来の姿を取り戻した時、もの作り、国創りの技術が最も生きてくるのだ。その時、中国は藁を掴んで「コンニチワ」と日本を見直すだろう。立場がトントンになれば、中国にさよならを言える「先生」は強いのだ。

 最後に。中国を「/」にしたかったのに、決断出来なかったミスタースラッシュ。優柔不断な僕も「/」だろうか? しかし、先日、こんな気分を打ち消す中国の「/」の種を、普段行きつけの門真の「お好み焼き屋さん」で見つけた。焼きそば用の中国製の「箸」だ。ママさんは言う。「中国の箸はいつも折れるんよ。縁起悪いね。安いもんもほどほどやねえ。そう思わん?」 ママさん有難う。これで僕ももやもやが晴れた。ここで初めて、身近な中国に「/」だ。

/176.使い捨て、非正規雇用者(すなわち、企業の社会的損失)

2008-05-11 05:45:03 | Weblog
 今日は母の日。円高・原料高もどこ吹く風、母のような自然も、巷で暮らす人も、エネルギーに満ちるいい季節だ。ゴールデンウィーク後の旅、を狙う人達にはうってつけだろう。今年は、花(桜)も緑も実に鮮やかだった。忘れてはならない。これは、2月のあの寒さが植物の休眠打破を促し、3月から4月にかけて昼と夜の温度差が大きかったためだ。寒さと昼夜の温度差が「メリハリのある季節」を生む。人間も自然の一部、当然こうあるべきだ。だが、5月に入ってからは季節外れに気温が高く、気のせいか、人の方はピリッとしたものが感じられない。でも、今日は異常に寒い。少しはピリッとするか。

 昼前の淀川河川敷野鳥地帯。野薔薇、野苺の茂みで、深く耳を澄ませば、アゲ雲雀の陽気な美声、ヨシキリのあこぎな奇声に混じって、日本の国鳥「キジ」の鳴き声。「ケン、ケーン」 子供の頃、大阪人は愛着を込めてこのキジを「ケンケンチャン」と呼んでいた。ケンケンチャンの隣では、鶯(うぐいす)が「ホーホケキョ」 もう立派な成人だ。こうしてみると、小さな野鳥の森が点在する淀川べりも、まんざら捨てたものではない。

 もうすぐ京都の葵祭りだ。古来、祭りと言えば葵祭りを意味した。鴨川から糺(ただす)の森を挟んで、北へ続く賀茂川沿いが活気づく。糺の森から東へ流れるのが、大原へと続く高野川だ。連綿と受け継がれて来た京都の一大行事は、悠久の趣がある。この頃生き生きする名句がある。「目には青葉、山ほととぎす初鰹」 さてクイズだ。この句の作者は誰か? ・・・・・。正解は「山口素堂」 クイズの定番問題だ。でも、素堂さんのような賢人でなければ、この句は、季重ね三昧のただの「素人句」ちゃうの? と、言ってみたくもなる。鰹もいいが、葵祭りが過ぎれば、京都の味わいとして、俄然「鱧(はも)」がクローズアップされる。

 恒例の僕の呟きから。その1。ミャンマーのサイクロン死亡者の数は凄い。シンジラレナイ。バングラデシュも含めて、あの地域は毎年、我々には想定不可能な甚大な被害が出る。この国、軍政治安も異常なら防災も異常だ。これは、圧政貧困地帯ならではの被害と言うべきか。日本で良かった。

 その2。後述するので、たった一言。「福田さん、中国の『貸しパンダ』に騙されてはいけないよ」 その3。これもたった二言。「船場吉兆」の使い回し。「女将さん、お客さんの『手つかずの料理』と『食べ残し』は、どうちゃうの? 使い回すのなら、いっしょとちゃうの?」

 その4。琵琶湖名物「鮒寿司」は「和のチーズ」 さて、貴方は食べられるか? これに関し、「子持ちニゴロブナの『お茶漬け』はたまらないね」とは、釣り好きの相棒の弁。彼は根っこからのゲテモノ主義者だ。彼の弁に反して、この鮒寿司だけは、僕は今でも食わず嫌いだ。

 その5。アテンションプリーズ。国民年金の満期は、480ヶ月だ。各位、払い過ぎに留意されたし。 その6。またまた値上げ。「五月雨値上げ」という言葉がピッタリだ。背景には、世界食糧の高騰がある。このまま人口大国が食べ続ければ、近未来に地球在庫はなくなるという。小国日本はどうなる? 大は小を兼ねる? その7。スペインの世界遺産「サクラダ・ファミリア(聖家族教会)」は、別名「燕の巣」と言われている。あんな巣を作る燕を見たい。さぞかし感動するだろう。

 その8。「貧困の差=学歴の差=教育の差」の、日本になってはいけない。あまりにも子供がかわいそうだ。でも、年齢の差に臆することなく、体力と身体能力の差で若者を負かした「クルム伊達公子」はテニス界の重鎮だ。子供達も喜ぶだろう。体力には絶対的な自信がある僕も、学ぶべきものを貰った。 その9。ラッキー、ラッキー。競馬の春の天皇賞は、狙い通り勝利した。勝ち馬から「馬単」で、3000円の3点買い。G1レースなどタマにしかしないが、そのタマにが、最近はよく当たる。この臨時収入、ワーキングプアに近い僕には、有り難い。これからも、このブログに闘志を込めて予想しよう。今、天性の勝負勘が冴えている。

 その10。真面目で活発な愛知県豊田市の女子高生と、ごく普通のおとなしい京都府舞鶴市の女子高生が、突然何者かに殺された。命ある各地の花や野鳥も、何者かに殺されている。共に、愛しい人、愛しい生き物だ。兵庫県豊岡市の愛しいコウノトリは、併せて7羽が無事に野生に育ったと言うのに。未来ある生き物の、この違いは何だ? 

 その11。ある調査で、正社員より非正社員の方がよく働くという結果が出た。正社員は、「ノルマ達成」で「安心」するからだ。不安な非正社員に、安心はないと言うのに。時間の都合でここまでだが、今日は、この話しをトリガーにして先を進めたい。

 平成版「姥捨て山」とも言える後期高齢者医療制度(保険料の年金天引き)と、実質車社会の地方を直撃したガソリン税の復活は、ジリ貧福田政権支持率低下に、より一層の拍車を掛けた。本人は、これも小泉、安倍政権のツケまたは貧乏くじの付け回しと、いつもの調子でシラを切っているのだろうか。もしそうであれば、とんだ御門違いだろう。非難、非難の民意に押され、多少見直す気配はある。が、それにもめげず、このまま「ほうほうの体」でシラを切り続けるのであれば、もはやこの政権も、怒り千万、笑止千万の的として国民に見捨てられ、近い内に終止符を打つ運命にあるだろう。中国国家主席の暖かい春の旅、たかが「貸しパンダ」一頭で、我が身は安泰だと慢心している余裕などない。福田さんは今、「溺れる者は藁をも掴む」の心境だと僕は想像する。

 「溺れる者は藁をも掴む」と言えば、派遣社員でありながら「実質ワーキングプア」に近い我が身の心境も、それに近いものがある。こうなった責任は、勿論「自己」にもある。しかし、大局的に見れば、国や企業によって、意図的にこういう状況に落し込まれた、という印象が僕にはある。それもその筈、今や日本国内の働く人の3人に1人が、ワーキングプア予備軍を含める非正規雇用者だ。

 いかにグローバル化の進展はあろうとも、この「異常な状態」を、このまま「野放し」にしておいていい訳がない。また、文明国家・先進国家としての国の責任、企業の社会的責任を大きく問われても仕方があるまい、と僕は常々思っている。今日は、この周辺の問題点などをもう一度僕なりに整理し、特に、こういう方向に足を引っ張った「企業の横暴」について、怒りの意見を若干指摘したい。

 ためらわずストレートに入る。日本経済が「失われた10年」で閉塞、停滞していた時、終身雇用や年功序列賃金により硬直化していた労働市場を、流動化・柔軟化することが、生産性や競争力を強化するためには不可欠だ、という議論が広がった。そして、実際に日本企業は、規制緩和の後押しを受けて、成果主義の導入や賃金の抑制、正社員の削減、パート・派遣社員の雇用拡大などを実行して、収益力を高めたのだ。

 僕は思う。確かにあの時は、止むを得ない選択肢だったかも知れない。企業の眼前に厳しいグローバル競争があるという「恐怖心」があったからだ。いや、そうでなかったかも知れない。と言うのは、その時点で、あまりにも事の後先を考えない、歪んだ「窮余の選択」があったとも思われるからだ。ここのところは、今日は敢えて追及しない。でも、「生き残りを賭けた闘い」という大義名分の裏で、自己責任に対する甘い考え方も企業内に横行していたのではないか、と僕は考えている。

 さて、各企業が切羽詰った状況の中で実行した、これらの「戦略・策略」とでも言うべき「改革・改善策」の結果はどうだろう? その結果が、企業の横暴となって、今現実に世の中に出現しているのだ。それが、果たして成果を上げているだろうか。また、成功だったと言えるだろうか。確かに俯瞰して、企業トップの目で見れば、成果があり、成功だったろう。だが、我々雇用労働者から見れば、明らかに「失敗」に見える。なぜなら、現実に全国の正規雇用者も非正規雇用者も、一言で言えば苦しんでいるからだ。そして、業績が回復した現在進行形の今でも、企業体質はあまり変わっていない。これが問題だ。

 また、中長期的な視点で見ると、この企業の横暴そのものが、日本経済の「持続的成長」を妨げている要因ではないだろうか。現在の労働市場は、大企業で言えば、高賃金・正規雇用者と低賃金・非正規雇用者に階層化され、所得格差が拡大している。そして、(中小企業も含めて)全体として言えば、賃金の伸びは抑制され、雇用確保への不安も高まっている。

 その弊害が、ワーキングプア、名ばかり管理職、偽装請負などなどだ。そこには、労働市場の公正さもなければルールもない。労働意欲を掻き立てるパフォーマンスもない。まるで各職場は、企業の束縛から逃れられない「サービス残業社員」と「面従腹背非正社員」のにらみ合いだ。その挙句、どっちも肉体的、精神的に疲れ切っている。これが正常とは、とても僕には思えない。

 まだまだ弊害はある。これだけ非正規雇用者が増えれば、大事な企業の人材も育たない。雇用者のスキルアップも進まない。企業が社員教育などといくら綺麗事を言っても、これも名ばかりの企業理念や経営理念が益々すたれてしまう。そればかりか、企業スキルも落ち込む一方だ。経済成長の最大の原動力は、「人」である。にもかかわらず、人を資源としてではなく、「使い捨て」のコストとして不当扱いして来たツケが、今になって露呈しているのだ。

 企業は、現状の労働市場を正常な状態に戻す必要がある。すなわち、企業トップの価値観と発想の転換だ。現場を支える非正社員の発言力が弱く、重要情報が中枢に上らない、組織が自浄能力を失い、内部告発が続出しているのであれば、それに対応する手段はいくらでもある筈だ。企業が成果主義や非正社員化を強化して、「真面目に働けば何とかなる」という「暗黙の了解事項」が消滅し、現場の荒廃が進んだのであれば、直ちにしかるべき手を打つべきだ。主に正社員向けの福利厚生も、全体の利益として考えるべきだろう。勿論、正社員などの汗の結晶である「残業手当」を支払うことも忘れてはならない。今は、そんな企業トップの決断と品格も社会から求められているのだ。

 企業は、賃金格差解決策としての最低賃金の底上げなど、制度の大枠改善も必要だが、その前に、我々にとって、いったいどういう働き方が幸せなのか、人間らしい生活のためには、いったい何が必要なのか、といった労働者の原点に立った合意作りが一番大切だ。そうすれば、非正規雇用者は「人件費削減のための使い捨て」といったトップの「非情な采配」も自ずと自粛、自嘲する方向に向かうだろう。

 この辺で強い怒りのトーンに変える。短期の利益を目指して、企業は低賃金労働者を増大させたが、これは長期的に見て明らかに間違っている。また、実際に我々がよく目にする「モノづくり」や「販売」に必要な熟練と低賃金労働は両立しない。恐ろしいことに、こうした変化は、「組織への帰属心の低下」「働き手同士の信頼喪失」「組織についての知識の減少」という三つの「社会的損失」を招くのだ。企業トップは、これを謙虚な姿勢で聞き耳を立てる必要がある。そして、この社会的損失を解決するのが、企業の社会的責任だ。これこそ、優良企業の本質ではないのか。よおーくこの意味を噛みしめて欲しい。

 僕はこんな異常な現状を、今なお止むを得ない、として無視し続ける企業の本心を知りたい思いだ。同情論として、グローバル化に伴う石油や原材料の高騰は確かに懸念材料だろう。しかし、例えば、そんなことで消極的になり、国内労働者を粗末に扱う横暴を重ねる一部の日本大企業が、世界のグローバル化の波に沈んでしまうとは僕には到底思えない。日本のモノづくりの技術は、深くて精巧で世界屈指だ。置いてけぼりにはならない、もう恐いものなんかない、と腹をくくって、自信を持って突き進むくらいの肝っ玉の太さを見せて欲しいものだ。その積極的姿勢が、中小企業をも刺激する。更に刺激を受けて、日本の労働者もやる気満々に変化するのだ。

 それが出来ないのであれば、企業は直ちに全国の非正規雇用者を組合に入れて、合意の道を探るべきだろう。考えても見て欲しい。3人に1人が非正規雇用者で、組織率20パーセント以下の正規雇用者の組合に、どんな意味があるのだろうか。今の組合が、職場全体の利益になっているだろうか。僕は大いに疑問だ。また、国内における企業の儲けの大半は、我々非正規雇用者の汗と血と涙の結晶だ。そんな有益な非正規雇用者を粗末に扱う何て、「もってのほか」ではないだろうか。我々は、褒められこそすれ、決してけなされることはない、企業実績の陰に隠れた縁の下の力持ちだ。そして、その功名は、クリスタルストーンのように輝いているのだ。僕はそう思う。

 クリスタルストーンは、一筋の光を与えてこそ、迷いなく生き生きと輝く。企業トップもこのことを想起しよう。それどころか、そんな器が必要だ。「横暴」を「希望の光」に変える「改善」を僕は期待する。果たして、非正規雇用者使い捨てによる「企業の社会的損失」を、「企業の社会的責任」によって労働格差を解消する、日本のモノづくり現場の再生・復活はあるのだろうか。僕はもうしばらく静観する。

/175.硫化水素自殺(ネット依存症の弊害)

2008-05-03 09:40:50 | Weblog
 知らないうちに自然がつむぐ花のドラマがクライマックスを終え、優雅だった蓮華田が耕かされた。上空では、南国からの渡り鳥、燕が飛び交っている。茶摘の話題もちらほら。西日本の内陸部では、気温が30度を越す真夏日が観測された。北の大地では、桜と共にライラックが咲き始めたという。京都では、初夏の訪れを告げる鴨川の「納涼床」がオープンした。立夏とは名ばかり。若葉から新緑を待たず、早くも夏の到来を思わせる日々だ。

 この時季、若い頃は率先して旅の主役を張っていた。なのに、今はしがねえ(しがない)傍観者。何とも淋しい限りだ。と思いつつ、いい天気だし、せめて汗を伴う運動を兼ねてと、午後から少年野球のコーチ業に出勤だ。これが結構忙しい。

 五月は皐月。皐月の空に「高く泳ぐや鯉のぼり」も、童謡唱歌の詩(うた)の中だけ。最近の鯉のぼりは、随分と屋根より低い。昔の「端午の節句」のようなおおらかさもない。メーデー、八十八夜、本日の憲法記念日と続く大型連休後半は、伸び伸び楽々と過ごせる筈なのに、今はそんな生活の余裕があまり感じられない。でも、近所の横丁の風呂屋さんには「菖蒲湯」が残っている。古いものが軒並みすたれる中、大切にしたい習慣だ。

 思えば、昭和30年代前半初夏、大阪の淀川べりには、オオバコやカヤツリグサなどが繁茂し、十三大橋直下には田んぼもあった。田んぼには稲が植えられ、タニシやドジョウも育っていた。その傍らで、全国各地からの貨物を運ぶ蒸気機関車が黒煙を上げ、郷愁を誘う汽笛を鳴らしながら、ゆったりと、しかものどかに走っていた。また、現在の北大阪急行周辺の竹薮や小川には、里山の妖精、ホタルが乱舞していたものだ。そしてその頃は、人心の荒廃もなく、子供達も大声を上げて遊び、実に豊かで平和な時代だった。蘇らないものか、懐かしきあの風情。

 光市母子殺害事件判決、ガソリン税復活など今週も色々なニュースがあった。それにはこだわらず、今日も僕のランダムな呟きから。 その1。揺れながら、聖火がいよいよ中国に入った。このリレーの舞台裏には、中国共産党の策謀が渦巻いている。が、プロパガンダと言うには、あまりにも幼稚で滑稽だ。だが、中国に何も言えない日本は、中国に完全に読まれている。こちらも見苦しい。

 その2。英スピード社の競泳用水着は、まるで水着のドーピングだ。あれだけ世界新記録が続出しているのだから、あの水着が戦いに有利なのは、素人目にも明らかだ。よって、世界のひのき舞台で、日本の水着は不利なのも目に見えている。選手が公平に勝負するには、オリンピック出場者全員が、同じスピード社製の水着を着用することが第一条件だ。全然関係ないが、明日の競馬の天皇賞は、スピードを重視して、僕は、8枠14番「アドマイヤジュピタ」で勝負する。自信あり、だ。

 その3。先日、昔日の土産物、萩焼の「湯呑茶碗」に湯を注いでいたら、茶碗の側面に「湯上り美人の裸体」が鮮やかに浮かび上がった。そう言えばこれを、遊び心で女の子にプレゼントした記憶もある。裸体を見て、一人クスッと笑ってしまった。クスッと笑ってしまったことが他にもある。

 例えば、今から25年前、ローカルな広島テレビの深夜ニュース番組。酔っ払って帰って、部屋のテレビを点けた途端、画面の中央に大きなハエがいる。酒のせい、気のせいかとも思うが、どうもヘンだ。この野郎、と画面を叩くが何の反応もない。よく見れば、ハエは広島テレビの映像(カメラ)の中に居た。その時、つくづく笑って感じたものだ。「こんな放送局って大事にしなくっちゃ」

 もう一つ。今から数年前の夏、日曜日の夕刻にあった「田丸美寿々(たまるみすず)」さん司会の「全国区」の某局報道番組。当日は、富士山頂からの中継が予定されていた。様々な話題で番組が盛り上がった後、いよいよ富士山でスタンバイする記者にバトンタッチする際、田丸さん、何を勘違いしたのか、記者の名前を間違えて、思わず「富士さん!!」と紹介してしまった。僕は笑いが止らなかった。

 その4。その富士山に関しての話題。もうすぐ「富士山ナンバー」が誕生する。夢のある話しだ。対象は、山梨県など富士山周辺市町村。所轄官庁の粋な計らいとも言える。我が大阪で、インパクトがあるこのナンバーを確認した時、僕は思わず叫ぶだろう。「富士さん!!」

 その5。淀川の葦(よし)原でヨシキリが鳴く頃だ。この頃は、意外と紫外線が強い。紫外線被害で、メランコリーにならないよう注意したいものだ。特に、アウトドアスポーツを楽しむ人は気をつけよう。ヨシキリの鳴き声は独特だ。実はこの時季、僕はなぜか目がヤニばって、かゆくて、チカチカする。紫外線のせいかも。原因不明の嫌味な病だ。私事で失礼。

 こんな取り止めのないことを書くのが、本来は僕の得意分野だが、長くなりそうなのでこの辺にして、恒例のクイズ、今日は社会派問題だ。僕はかつて公務員時代に、予算編成作業をしたことがある。これは、役所仕事の中で一番の思い出だ。例えば、今社会を揺るがせている道路特定財源。この予算は、年度内に使い切ってしまうことが至上命令だった。なので、この予算は別名「○○○○予算」と言われていた。さて、この○に当てはまる言葉は? ・・・・・。正解は「ひもつき」だ。

 僕は当時、何でこんな無駄遣いをするのか疑問を感じながらも、命令されるままに、使い切るための指示文書を出していた。その予算を使い切れなかった地方の総務課長は、我が総括課長から激しく叱責される有様だ。今から思えば、何とも馬鹿げた話しだ。

 この道路特定財源も、血も涙もない後期高齢者医療制度も、共に怒り千万、迷惑千万だが、元はと言えば、あの小泉さんの有り難くない置き土産だ。また、後先を省みず小泉劇場に陶酔した我々にも責任の一端はある。その裏にある「少子高齢化」による社会保障制度の財源不足の議論も当然あってしかるべきだ。戦後の日本を創った功労者を非情に扱う「年金天引き問題」には心動かされたが、今日はこのことよりも、よりインパクトがあった、ネットが生んだ「短絡的死に急ぎ」とも言える「硫化水素自殺」について、その側面を探りたいと思う。上手く言えないかも知れないが、しばしお付き合いを。

 硫化水素による自殺の連鎖が止らない。昨年3月に初めて確認され、その後、今年に入って日本の各地で徐々に増え始め、4月だけでも50人を超す死亡者が出ている。自殺者の大半は10~30代の若者だ。自殺に使われるのは、家庭用の洗剤などで、色々な種類を混ぜると硫化水素が発生する。この自殺が広がるきっかけは、インターネットだった。ネット上で硫化水素による「詳細な自殺方法」が紹介されると、たちまち悩みを抱える全国の人達に伝わった。この問題を一層深刻化させているのは、自殺者を助けようとした人や近隣の住民までもが、ガスを吸い込んで巻き添えになる恐れがあることだ。

 我々も決して他人事ではない。現に、4月29日に僕の近くの寝屋川市萱島(かやしま)信和町のマンションでも、35歳の住人の男性が硫化水素による自殺で倒れているのが見つかり、間もなく死亡が確認された。現場は、密閉状態で洗剤などの容器が落ちていたという。警察や消防は、「卵が腐った臭いがした時は、慌てて現場に入らないように」「硫化水素は、空気より重く拡散しにくい」などと冷静な判断を呼びかけてはいるが、いざ現場に直面すると、近所の人達が避難を迫られるほど危険を伴うので、どんな人間でも一時はパニック状態になる。随分と迷惑な話しだ。

 自殺者は、「硫化水素発生中」とわざわざ張り紙をして、他人に気を使っている例もあるという。これも、自殺を誘発するネットのマニュアル通りだろうか。でも、こんな有害サイトのどっちでもいい小さな親切が、自殺者には、余計なお世話とならないところが、隠匿性があるインターネットの恐さだ。一頃目立った「練炭自殺」もネットが誘発した。誰もが自由に発信出来るネットは、デジタルで便利な道具である一方、安全安心を脅かす危険な書き込みの場でもある。あくまでも僕の予想だが、今回の場合も、人生経験に乏しい若者が、世の中に失望して行き場をなくし、他人を含む命の尊厳を十分考えないままに、ネットの「安易で簡単に死ねる方法」に頼って自ら命を絶ってしまったのではないだろうか。言い換えれば、ネットは自殺を考える人の背中を押したのだ。許されることではない。

 しかしだ。ここで僕の視点は、またまた気になる「あの方向」を直視せざるを得ない。自殺そのものの行為云々は抜きにして、今日もその話しをする。あの方向とは、巷に蔓延する「インターネット依存症」だ。いじめ、引きこもり、リストカット。我々世代から見ると、若者は非社会性を持った異質な存在に見える。その真相のほどは僕にはよく分からない。でも、若者達のコミュニケーション能力や規範意識の欠如は、若者に甘い僕でも、十分過ぎるほど感じることが多い。

 若者に終始貫流するキーワードは「優しい関係」だ。互いの対立の回避を最優先課題とし、彼ら特有の人間関係能力を駆使する。その代表例が、ノリの悪い「KY君」の排除だ。つまり、KY君がいると皆居心地が悪いのだ。これは、周囲の人々と同調することを重視する若者の特徴だ。決して特長ではない。ただ、周囲とは、限られた仲間のこと。日頃から、狭い閉じた集団内で自分が浮き上がらないように気をかけている。

 ただし、僕に言わすれば、これはいわゆる男の論理では説明がつかない、非常に女々しい人間関係で、言わば内向きの世界に心が向いている状態だ。分かりやすく言えば、自分だけが遅れる恐怖感から、平均的であることに安心感を見い出す。そして、その延長線上にあるものが、インターネットや携帯メールだ。それを手段にして、いつも周囲と繋がっていたいのだ。これが高じると「友達地獄」に陥る。更に進むと「裏サイト」だ。

 外向きの世界に心が向いて、インターネットや携帯メールを有効利用している賢人ならばいい。しかし、インターネットやケータイに依存して、閉じた内向きの世界に心が向いている人間が、有害サイトに手をかければ、書き込む内容が徐々にエスカレートして、悪意に満ちたものになってくるのだ。今回の硫化水素自殺の有害情報を流したヤカラも、そんな人間のハシクレだろう。

 いったい何が言いたいのか、自分でも混乱してきた。でも言おう。要はネット依存症は良くないということなのだ。依存症は心を閉鎖的にする。だから若者よ、何も限られた仲間内だけで「優しい関係」を結ぶ必要はない。益々感性が鈍化する。ノリの悪いKY君が居てこそ、十人十色の集団だ。ひたすら周囲と同調していては、規格外れの大きな人間にはなれない。大海原も見えない。閉じた集団内で居れば、己の大志や希望もしおれるばかりだ。詳細については、くどくど書かないが、どうか、閉じた闇間を脱出して、人間性を回復するアナログの良さをもう一度見直して欲しい。と、僕は想う。

 ちょっと訳が分からなくなった。寝不足だ。ニュアンスで理解して欲しい。朦朧とした中で、僕なりの結論を言う。今回の硫化水素自殺連鎖の根底にあるのは、インターネットに依存しやすい若者が、インターネット地獄に陥ったヤカラの書き込んだ有害サイトに過敏に反応して、自殺という最低で最悪の方法を選択をした本人の「心の弱さと狭さ」だ。そして、そんな自殺者が最終決断をしたトリガーは、間違いなく有害サイトだった。

 勿論、自殺を思い詰めている人間に、聞き耳はないし、冷静な判断をせよと言うのも無理な話しだ。でも、彼らがもし、アナログの世界に居て、家庭や職場、あるいは友人同士で顔を見合わせて、生身の言葉を交わすことがあったなら、また違った結果が見い出せたかも知れない。他人に話すことによって、新たな自分を再発見することだってあった筈だし、それが自殺を踏み止めるきっかけになったかも知れない。いずれにしても、自殺者にも問題があり、彼らの自殺に、有害サイトという「招かざる助っ人」が存在したことは明らかだろう。それだけに、いかに表現や通信の自由はあろうとも、このような自殺者の連鎖を煽る有害サイトの排除は、国や行政の至上命令だろう。

 ところで、この問題に詳しい、自民党の高市早苗議員がこだわる有害情報の定義は、「自殺を直接的かつ明示的に請負、仲介及び誘引などする情報」「人の性行為または性器等のひわいな描写、その他性欲を催させまたは刺激する情報」らしい。また、18歳未満が対象の携帯電話のフィルタリングサービスのブラックリストは、「違法薬物、テロ、中傷、アダルト、ハッキング、ギャンブル、出会い系、オカルト、掲示板、チャット、喫煙、飲酒、他」だ。勿論、「学校裏サイト」もある。

 こうして見てみると、有害サイトがなくならない理由が僕にはよく分かる。ほとんどが日常性があり、人間の悪徳の根源を成すことばかりだからだ。これだけあれば、とても一筋縄では行かない。このような情報に、陰々と共感するネット依存症の人間もたくさんいることだとも思う。どちらにせよ、現在の危機的状況を改善するには、家族、関係企業、サイト運営者、治安機関など社会全体が取り組む必要がある。

 有害サイトに情報を書き込むヤカラの中には、例えば、仕事を失って寄る辺をなくした腹いせに、以前から恨みを持つ人間をネットでたたく目的の常習者もいるだろう。ネットは匿名だけに、こんな四面楚歌で自暴自棄になったヤカラが一番タチが悪い。そうでないにしても、硫化水素自殺には、それを煽る有害情報を流したヤカラに、相当の悪意を僕は感じる。あまりにも、人間の命を軽く見てはいないだろうか。世の中には、病気や事故などで生きたくても生きられない人がたくさんいる。その人達のことを深慮すれば、とても「簡単に死ねます」とは書き込めない筈だ。

 ヤツラは、きっと悪ふざけ人間ではないだろう。もっともっと陰湿で、世の中の底辺をつつく「うじ虫」みたいなブタ野郎だ。僕はそう想像する。あからさまに言いたくはないが、そんな人間こそ、「ただ今硫化水素発生中」と張り紙をして、世間に屍を晒すべきだ。それだけの責任は充分ある。

 最後に気分を変える。硫化水素は、「硫黄」と「水素」の化合物。このうち硫黄は、僕の大好きな温泉の成分だ。大自然がいっぱいの温泉地で、硫黄のいい匂いがあれば、心身ともに癒される。折りしも、今日から4連休。携帯電話のフィルタリングサービスのホワイトリストには、「天気」「ニュース」「交通」がある。身体に有害ではないそれらの情報を頼りに、硫黄の芳香に会いに行く旅はいかがだろうか。幸い季節もいい。森や山には新鮮な酸素がいっぱいだ。是非お勧めする。

 その際は、家族に妥協しないKY君になって、己の我を押し通す信念の旅人になってもらいたい。そうすれば、山や海も笑ってくれる。だけど、くれぐれも有害サイトの誘惑にだけは気をつけて。僕は今から、淀川河川敷に信念の汗を掻きに行く。では。