「/(スラッシュ)」

ナニワのオッサン 怒りのエッセイ!!

/79.神田川の世界(横丁の風呂屋)

2007-03-31 10:57:09 | Weblog
 桜が開花した。京阪沿線の寝屋川駅に近い友呂岐(ともろぎ)緑地の水路沿いには、ソメイヨシノなど約500本が植えられている。五分咲きの桜を見上げているとやはり心が踊る。日本の春だ。桜に生きる力を貰う様な気がする。それにしても気分がいい。僕自身は吉野山などにある山桜が好みだ。野生独特のいい香りがする。全山桜というのも確かにいいが、雑木林にポツンと一本、淡い色彩を放っている山桜もまたいいものだ。「願わくば花の下にて春死なん」と詠った西行さんの気持ちがよく分かる。花が散ると若葉から新緑。「石(いわ)走る、垂水の上のさわらびの、萌えいづる春になりにけるかも」(志貴の皇子)の季節ももうすぐだ。

 閑話休題。「♪貴方はもう忘れたかしら・・・・・」今日の「/」は、南こうせつとかぐや姫、「神田川」の世界だ。勿論、あの懐かしいメロディーが「/」ではない。「/」なのは、僕の近所で次々と姿を消して行く、かつて手拭い片手に下駄を鳴らしながら通った「横丁の風呂屋」だ。
 僕の若い頃の経験から言って、いくら寒くても、さすがに歌の様に手拭いをマフラーにすることはなかったが、セピア色の横丁の思い出と今の姿を二重露光させると、しみじみと込み上げて来るものがある。下町のあの情緒とあの風情。まさに「神田川」は、古き良き時代の庶民生活の象徴ではないだろうか。そんな神田川の世界は、今ではもう絶滅危惧種になりながら、僅かに町の片隅で淡い光を保ちながら行き続けている現状だ。僕は寂しい。

 僕は横丁の風呂屋さんが大好きだ。自宅の小さなバスタブとは、入浴気分の次元が数段違う。特に、湯上りの小一時間は最高の気分だ。「こんな気分で、一日中過ごせたらどんなに幸せか」と何時も思う。
 最近は、自分の健康も兼ねて、愛用のママチャリ(若干改造)で、遠方の風呂屋さんにもよく出かけて行く。何度も通っている場所は、大阪市旭区の千林商店街近くの「神徳の湯」という風呂屋さんだ。僕の住んでいる寝屋川市から、MAX約2時間かかる。と言うより、その日の気分によって、色々ルートを変えるから2時間もかかってしまうのだ。京阪線沿いのコース、大イベントの花博があった鶴見公園緑地を迂回するコース、淀川河川敷を南下するコースと様々だ。
 この内僕のお気に入りは、向かい風が弱い時の淀川河川敷コースだ。時には、十三(じゅうそう)付近までオーバーランすることもある。そして何よりもこのコースは、僕の身上でもある体力を生かせる絶好のエアロビクスコースなのだ。大阪人らしく、金をかけないでたんまり汗を流せる。これ以上の健康アイテムは、正直言って、今の日常生活にはあまり存在しない。おまけに景色も良い。だから、自然にペダルを踏む足に力が入るのだ。

 その汗の先にあるのが「神徳の湯」だ。のぼせない程度に約一時間、たっぷりリラックス出来る貴重なひと時。金属石鹸を排除する軟水のミネラル温泉が、このお風呂屋さんのウリだ。伊吹山の「薬草風呂」、「露天風呂」も心地良い。一番インパクトがあるのが、身体が生き返り、細胞が活性化された様な気分になる、超冷たい「冷水風呂」だ。やや熱い軟水風呂とこの冷水風呂を4,5回繰り返して入ると、僕の心はもう遥か遠い奥飛騨温泉郷まで飛んで行く。まさに都会のど真ん中の至福の時間帯だ。有難い。

 それだけではない。この後まだリラックスタイムは続く。それは、風呂上がりの先にある、大阪情緒満点の立ち飲み屋さんで飲む一杯だ。その店の立地は、自由奔放な、大阪のオバチャンが生息することで知られる千林商店街の延長線上にある。早い話が風呂屋さんの隣だ。
 チューハイ一杯170円、一番安いアテで80円、しかも美味しい。風呂代を含めて2000円もあれば充分だ。これぞ千林、これぞ大阪。ここで何時も約2時間過ごす。バッカスの先にあるものは・・・いや、これはあまり言わない方が賢明だ。今のご時勢自転車も飲酒運転禁止。なので、警察には内緒だが、この後のカラオケがまた楽しいとだけ言っておこう。ともかくこの様にして、横丁の風呂屋さんの恩恵をたっぷり受けている。

 ところが、そんな近所の横丁の風呂屋さんが、去年から今年にかけて、次々と僕の視界から消え去りつつある。知っているだけでも5件以上あるだろうか。僕は以前このブログで、「私鉄沿線冬景色」と題して、宝塚ファミリーランドや甲子園パークなどの大型娯楽施設消滅の無念さを記したが、それよりも、もっと身近にあるこの現実にも一抹の寂しさを覚える。
 下町の代表的な風景である素朴な横丁の風呂屋さんは、我々の世代にとっては昭和の名残り。それこそ歌手イルカさんの「名残り雪」だ。僕に関して言えば、ここにも万博の頃の名残り雪がいっぱい詰まっている。それが残念でならない。この風景は、僕の中では明らかに「/」だ。
 何故神田川の世界が消えて行くのだろうか。確かに高度成長期に比べて、持ち家の内風呂が増えた。少子高齢化、エセイザナギ好景気もあるかも知れないし、ないかも知れない。時代遅れ? それはないと思いたい。それはともかく、これ以上横丁の風呂屋さんが減少しないことを僕は祈るばかりだ。

 その代わり街は今、大駐車場完備のスーパー銭湯が大流行だ。一丁前に「源泉掛け流し」「極上の天然温泉」をキャッチフレーズに、近年次々とオープンしている。値段も、そこそこ400円台から1000円前後とかなり手頃だ。中身だけなら、日本各地にある温泉地の浴槽とあまり変わらない。「付属品」が、また豪華だ。秋田県の玉川温泉もびっくりの岩盤浴、露天風呂、ホットヨガ、リラクゼーション、韓流あかすり、オイルマッサージ、足底マッサージ、サウナ、宴会場などなど、まさに商魂もスーパー。おまけに無料バス付きだ。
 しかし、僕はあまり好みではない。商魂がたくまし過ぎて、自然体の入浴と癒しが望めないからだ。客も宴会気分で何かとうるさい。その上これら大型銭湯の多くは、大事な地球を傷つけている。そりゃあ1000メートル以上も掘れば、何処でも誰でも、地下から温泉を汲み上げられるだろう。たまに行くことはあっても、この行為が、地球に優しい人間の業とはとても僕には思えない。地盤沈下と地下水の枯渇が心配だ。

 それに比べて横丁の風呂屋さんは、地域のコミュニケーションの場だ。どんな人にも気兼ねなく、それこそ裸の付き合いが出来る。特に気分がいい時に、人と話し合えるというのがいい。そういう人に限って、不思議とよく覚えている。相手の顔や話した内容が今でも一致する。友達になろうと思えばすぐなれる。腹を割った本音のトークが出来る。 たまに鼻歌も出る。ほのかな湯煙りの音響効果がバツグンだ。歌が急にうまくなったのではないかと嬉しい錯覚をする。まさに裸の相乗効果だ。これで、男女混浴であれば、もっといいだろうと思うことしばしばだ。古き良き時代は、こんな場で、人間同士の絆を深めて行ったのだろう。そう言う意味では、横丁の風呂屋さんの「地域における存在価値」は非常に大きい。僕は当分健康と体力の維持を兼ねて、そんな風呂屋さんに通い続けるだろう。

 それにしても、千林商店街の「神徳の湯」で遭遇する大阪の「人間模様」は面白い。僕にいいエピソードを提供してくれる人間がたくさんいる。
 何時かのあのオバチャンも凄かった。湯上りのリラックスルームで、コワモテの上半身裸の刺青兄ちゃんの背中をしみじみ眺めながら、大阪弁丸出しで、「兄ちゃん。立派な刺繍やなあ! 高かったやろ? 何処でかいて(描いて)もろたん?(もらったの)なんぼしたん?(値段はいくら)」と大声で話しかけていたのをすぐ傍で見かけたことがある。まさに怖い者知らず。これぞ大阪のオバチャンだ。あっけに取られた刺青の兄ちゃんも、バツが悪そうにただ笑うのみだった。こういうサプライズがあるから、横丁の風呂屋さん通いは止められない。

 下駄を鳴らしながら通った横丁の風呂屋さんで思い出したが、若い頃僕はその下駄の愛好家だった。愛用の桐下駄を履いて、近鉄の特急電車「アーバンライナー」に乗り、当時旅先で知り合った名古屋の「恋人」に会いに行ったことがある。怖い者知らずの頃の出来事だ。
 その懐かしの下駄を履いて、近所の神田川の世界に通いつめれば、あの頃の野性の無鉄砲さが蘇り、ひょっとすれば、遅ればせながら「老いらくのロマン」が芽生えるかも知れない。「♪若かったあの頃、何も怖くなかった♪」そんな気分になる桜の季節だ。

/78.企業の製品事故(コップの中の改革)

2007-03-25 10:26:31 | Weblog
 民間の春闘が終わった。大企業で言えば1000円台の攻防だ。結果的には組合側の敗北だろう。経営側の言い分は、僕の想像通り「国際競争力」だった。企業のトップには悪いが、そんなことは僕にだって分かっている。我々派遣社員にとって一番大事なのは、大企業が主に海外で儲けた金を、どうやって国内に還元するかどうかだ。「設備投資」「技術開発」もいいが、大企業は本当に身を砕き、身を粉にするほど困っているのだろうか。この辺の実態は僕には分からないが、言葉のアヤで、かなり曖昧さがあるのだろう。
 このままでは、非正規雇用者の給料が、ワーキングプア並みの低所得に固定化され、かつ、正社員の給料の伸び率が、頭打ちになり兼ねない。そして、こういう実態の中での日銀の利上げ。今後、ドミノ式に起こり得る消費税等の増税を考えると、これではとても、労働者の個人消費が上昇するとは僕には思えない。何故? どうして? 不思議発見の世界だ。ウサ晴らしに、もうすぐ開花する桜の木の下でドンチャン騒ぎする気にもならない。

 国内では、また企業の不祥事が連続発覚している。北陸電力の志賀原発では、8年前に、核反応を制御する筈の制御棒が抜け落ちたため、臨界状態となり、核分裂の反応が勝手に起きてしまった。背筋がぞっとするが、それを今まで隠蔽し続けた現場の責任は思い。他の電力会社でも同じことがあった。そして、ロンバルディア航空機の車輪が出ないトラブルも相次いでいる。この二つは、まかり間違えば大事故の可能性が充分あった。情報公開も含めて、企業はもっと謙虚になって社会的責任を果たして欲しい。それこそ鼎の軽重を問われる問題だろう。

 まだある。企業の製品事故だ。直近の「リンナイガス湯沸かし器」の事故の他にも、携帯電話の電池、ゲーム機など、我々の暮らしに身近な製品事故が多発している。それらを羅列してみよう。
 パロマ工業のガス瞬間湯沸かし器の一酸化炭素中毒事故、パソコンに搭載されているソニー製電池の発火疑惑リコール、携帯電話の、三洋電機製リチウムイオン電池パックと、三菱電機製本体の加熱や破裂回収、任天堂の「Wii(ウィー)」のストラップの強度不足、携帯ゲーム機「ニンテンドーDS」の充電器の加熱や発煙の恐れによる回収、三菱ふそうトラック・バスの新型ハブ破断、亀裂によるリコールなどだ。また、シュレッダー事故もあった。恐らくまだまだあるだろう。
 これらは、使い手側のちょっとした注意で、事故は避けられる場合もあるが、基本的にはメーカー側の責任だろう。そして、何より問題なのは、この事故により尊い命が失われているということだ。まさに、イザナギのエセ好景気に踊っている時ではない。この内三洋電機は、最近になって、元NHKアナウンサーの野中ともよ会長が辞任した。本社は、僕の地元守口市だ。そうでなくても問題の多い会社。ナニワの恥さらしにならない様に、しっかりせよと叫びたい思いだ。

 これらの企業の製品事故は、役人の談合などの不祥事と比較して、製品を購入した人個人が、使用中に、速死亡や大ケガ、火災等の被害に遭うということだろう。そういう意味では、我々の身近で突然遭遇する災難だ。そしてそれが一番怖い。

 この様に企業の不祥事による災いは繰り返されている。では、何故こうした事故が近年多発するのか。僕は思う。その過ちから何を学ぶかが大切だ。これは恐らく日本企業の構造的な問題だろう。時間がない。簡単に言おう。
 例えば、バブル崩壊以降大企業は、生き残りを賭けて(実は保身)、人件費の削減と労働の効率化を図るため、生産拠点を海外にシフトして、国内の大リストラを敢行した。そして、その後、中国などの安い労働力と大量消費のお陰で、無事生き延び、トヨタなどの企業はイザナギ景気の恩恵を受けた。ここまでは大多数の企業の思惑通りだった。その思い通り、日本企業の技術力と品質は、アジアに、ヨーロッパに、アメリカにと名声をとどろかせ喝采を浴びた。そこまでは良かったのだ。
 しかし、問題はその次だ。日本企業の生き残りを賭けた大リストラの犠牲になって、会社を去って行った人達にキーポイントがある。この人達は、歴年の企業の奉仕者だ。そして、中高年、団塊の世代中心の「物造りの名人」でもある。つまり、この人達の「技術力の伝承」が、企業の隅々まで浸透していなかったのではないだろうか。おまけに生産現場は、国内に限って言えば、「面従腹背」の非正規雇用者ばかりだ。この人達は、大半が働き甲斐を感じながら働いている会社人間ではない。これで、どうやって製造された製品に安全が保たれるのだろうか。確かにトヨタは大きな不祥事がまだない。しかし、その内にきっとその「マイナス効果」が生じて来る筈だ。技術力と品質に過信している時ではないと僕は感じている。

 例えば日本航空。全日空も含めて、史上最大のイベントと言われた大阪万博の容姿端麗、明眸皓歯、才色兼備の質のいいコンパニオンを、大量に採用した頃が頂点だった。万博に何度も足を運んだ僕も、大阪空港や羽田空港に行けば、よく元万博のコンパニオンを見つけたものだ。その頃のスッチーは、プライドがあり少々お高かった。(僕はその冷たさが好きだったが)
 日本航空は、バブル崩壊以降、社内トップのいざこざが相次ぎ、搭乗者の命を守ることさえ忘れて、航空機の整備など技術力の伝承がおろそかになってしまった。そのため、航空機事故が多発し、大事な顧客が次々と逃げて行く有様で、路線変更を余儀なくされている。そして、今や航空会社のスッチーは、昔のイメージとはほど遠い、体力のある健康的な普通のCAに成り下った。年収も500万、600万円がざらだ。(これはこれでいいのかも知れないが)

 この様に企業は、歯車が狂い始めると、顧客を無視した「コップの中」の改革でその場を凌ごうとする。つまり企業は、企業にとって一番大事な社会的責任を忘れて、不都合な真実を隠蔽し、トップだけの生き残りを賭けた闘い(戦い)に終始するのだ。どこかの国の役人だけを責められない。似たようなものだ。
 聞こえはいいが、「生き残りを賭けた闘い」には、極度の二面性がある。そしてその二面性は、結果が良くても悪くても、企業にとっては有難い言い訳になるのだ。つまり、企業収益が伸びていい結果が出た場合は、決まってこう言う。「必死になって生き残りを賭けた闘いが功を労しました。しかし、まだ国際競争に打ち勝たなければなりません」と。悪い結果が出た場合はこうだ。「生き残りを賭けて必死に闘いましたが、残念ながら力が及びませんでした」 実にいい加減だ。企業トップでなくても、誰でも気軽に使える便利な言葉だ。失敗した後で、国にすがりつく情けない企業もある。この言葉に、国民は騙されてはいけないと僕は心底そう思う。

 相次ぐ製品事故の裏側には、やはり企業のコンプライアンスと社会的責任がある。そして、そのもう一つの裏側には、格差社会の現状が隠されているのだ。僕は考えた。もし製品事故が起きた場合は、勿論面倒でも、製品評価技術基盤機構(NITE)や全国各地の消費生活センターなどに、早急に連絡するのは言うまでもないが、その後でよく考えてみて欲しいことがある。
 それは、この製品事故の裏側にある低収入の非正規雇用者が、働く人の3分の1という現実だ。しかも、アルバイト、パート、派遣社員などは社会保障でさえも満足に受けられてはいない。そのうえ、組合にも縁のない働く意識も低い人ばかりだ。何度も言うが、企業は、そんな扱いやすい非正規雇用者を、人件費の節約と雇用調節のために「利用」しているに過ぎないのだ。そんな環境の生産現場で、これらの人が、より安全な製品を誇りを持って造る意欲が湧くだろうか。ここがキーポイントだ。 やはりこの種の問題の僕の結論は、今日もここに行き着いてしまう。やはり製品事故は、明らかに企業のエゴの結果だ。

 この道の専門家、東京大学助教授の本田由紀さんは、朝日新聞紙上でこう述べている。『・・・・・戦後アメリカの庇護を受けて、日本が高度成長を成し遂げ、安定的な雇用と賃金、そして、年金を享受した世代は間もなくこの社会を去る』 そして、その次の悪いシナリオは、このまま企業が社会的責任を無視し続ければ、『・・・・・その次に残るのは、むき出しの低賃金の労働者の巨大な群れだ』と。
 僕もそう思う。そして、このことをもし読者に理解していただけたならば、今日こうして的を得ないまでも、ブログを書いた意味があったと、実質ワーキングプアの僕は強く感じている。くどいようだがもう一度言っておく。これ以上企業の横暴を許してはならない。コップの中の改革じゃあ済まされない。非正規雇用者も立ち上がれ!! 

/77.人里の豊かな風景(春の小川とゲンゲ田)

2007-03-24 10:57:02 | Weblog
 今日、僕の前を足早に通り過ぎた若者の姿に、明日を見つめる曇りのない目と、一抹の不安を、ふと感じた。その足は軽くもあり、重たくもある。僕は直感した。別れの季節だ。「仰げば尊し」の余韻を引きづっているのだろうか。そんな若者には、「贈る言葉(海援隊)」「いい日旅立ち(山口百恵)」「卒業写真(ユーミン)」「卒業(松山千春)」の歌がよく似合う。
 それより長く世の中を生きて来たサラリーマンにとっては、良きも悪しきも人生の別れ道、新しい選択肢である転勤の季節だ。僕も何回か経験があるが、そこにあるのは、期待以上の悲壮感や孤独感だったりした。

 大自然に目を移してみよう。街頭の樹木も雑木林もそろそろ芽吹き始めた。山眠る季節から、山笑う季節への移行だ。まさに早春賦の世界。悲喜こもごも。人間と大自然の輪廻を即座に感じる。そんな季節のファンも多いことだろう。
 23日に球児の祭典、春のセンバツが始まった。この青春の熱闘も、別れと、別れの次に来るもの、その狭間の出来事だろう。そして間もなく、桜の開花と共に、今度は出会いの季節がやって来る。

 今日は、「山笑う風景」の悲喜こもごもだ。日本の豊かな森や里山。これらの日本の原風景は、地球環境に大いに貢献している。今は誰もが知っているだろう。地球温暖化の最大の元凶である二酸化炭素を吸収して、生きるために必要な酸素を人類に供給するという大切な役割だ。この酸素は、光合成による産物と言える。そればかりではない。本来なら、人類と共生して行く筈の野生生物(動物)に、貴重な食糧を提供する宝の山だ。森の番人であるクマも、サルも、イノシシも、シカも、里山を境界にして、人間に被害を与えない様に、最低限のセーフティーゾーンを保ちながら、豊かな森の恩恵を受けて来た。
 
 しかし、最近は、その繊細な生態系が激変している。それは、人間の一方的理由で、森や里山が荒廃したからだ。この原因は、農林水産業の衰退による、人里の過疎化と高齢化だ。この国の悪政で、森と里山を間伐、枝打ちをするもう一方の森の番人、手入れ管理人の人間がいなくなってしまった。
 その影響で、全国各地の人里では、本来の森の番人が、人間に被害を与えている。これについては、僕もこの「/」で何回も指摘して来た。やはり人間は、昔から野生生物(動物)と暗黙の内に約束した通り、豊かな森と里山を守る義務があるのだ。この先、気が遠くなる様な年月を重ね、人間の努力で、繊細な生態系が回復した豊かな山笑う風景を、是非この目で確かめてみたいものだ。それまで生きていられるだろうか。

 もう一つ、人間の営みが原因で荒廃したものがある。いや、人間が手をかけ過ぎて、消滅しつつあると言った方が正しいのかも知れない。それは、森や里山近くの人里の田や畑だ。「♪春の小川はさらさらいくよ、岸のスミレやレンゲの花に」と歌われた温かい原風景と、そこに生息する野生生物を育む豊かな自然環境が「破壊」されているという現実だ。

 まず取り上げなければならないのは、すっかり天然の野生生物を育む機能を失った「小川」だ。もっと拡大解釈をして日本の川と言った方がいい。何故なら、世界から見れば、日本の川はみんな小川だろう。大大陸に行けばそのことがよく分かる。
 僕が知っている限り、かつての日本の川は、アユ、ハヤ、マス、メダカ、エビ、カニ、サケなどの多種多様な野生生物(水生生物)の絶好の棲みかだった。それだけではない。我々人間も、そのきれいな川の恩恵を受けたのだ。早い話がガキの頃の川遊び。川の中を泳ぎながら、魚やカニを獲って、河童になった気分で、一日中伸び伸びと自然との対話が出来た。いわゆる川ガキだ。今になって思えば、我が成長期の貴重な体験だったとつくづく感じる。

 それが今はどうだろう。時代の流れで片付けてしまうのは、あまりにも川が可愛そうな変貌の仕方だ。それを特に感じるのは、美的センスのないただコンクリートで固めただけの護岸工事だろう。しかも、そのコンクリートで固めたところが、本来野生生物の大切な棲みかであるということが、センスのなさを悪質に上塗りしている。言わば恥の上塗りだ。この「川の個性」を無視した様な土木行政によって、日本の川はどこもかしこも地域の住民と「共生」出来ない、ただ汚い水が流れるだけの「無用の長物」となってしまった。
 そこに追い打ちをかけたのが、これまたセンスのないダムの建設だ。この影響で、例えば、アユやマス、ウナギ、サケなどの回遊性の魚が天然遡上出来ず、産卵場所が限定されて、漁獲量が激減している。そういう意味では、護岸工事もダム建設も、必ずしも適材適所と言えず大半が無用の長物だ。
 おまけにこれらの工事の多くは、日本の大自然を傷つけるばかりでなく、川の野生生物の生態系を著しく破壊しているということが大きな問題だ。この画一化された川の姿を見ていると、自然愛好家(ナチュラリスト)の僕は、とても耐えられない。もし、出来るならば、日本の川をもっと自然体の流れに戻して、川岸に野生生物が棲める様な自然環境にすべきだろう。これは、自然との調和を図る美的センスある日本人の土木技術なら絶対出来る筈だ。

 次に田や畑だ。僕も若い頃3ハンのバイクで、農道や林道を好んで走り回ったが、畑はまだましだ。問題は田圃だろう。かつてゲンゲ田で草野球に熱中した僕は、人一倍田圃に愛着があり、あの頃の豊かな田圃の実態をよく知っている。
 
 その田圃もまた、多くの野生生物の宝庫だった。メダカ、ドジョウ、カエル、ヤゴ、ミズスマシ、ゲンゴロウ、タニシなどなど、今でも名前と形が一致する。そこには、それらの生きものを食糧とする水鳥達がたくさんいた。何も水鳥に限らない。付近の住民もその恩恵を受けて、川魚同様その一部をご飯のおかずとして食べていたのだ。これが本来の田圃の姿だろう。そして、暖かい春先から稲刈りの季節は、泥んこになりながら、「田圃遊び」をする場でもあった。近所のミヨチャンをよくいじめたっけ。これも川遊びと同じく僕は懐かしい。

 ところが今、この本来の田圃がどれほど残されているだろうか。ほとんど姿を消したと言っても過言ではない現状だ。農薬や化学肥料を大量に使用したあげく、悪政による減反などで、田圃を手放す農家や、米の生産効率だけを追求する農家が増えたことによる影響が大きい。勿論その影響は小川にも及ぶ。そして、メダカや川ブナが泳ぐ用水路もコンクリートで固められてしまった。言わばこれも、政治に翻弄されたとは言え、人間自身の自然環境への思慮のなさが成せる業だ。
 幸いにも、日本の米は、まだ世界一美味しいとのもっぱらの評判だ。しかし、農薬や化学肥料に複合汚染された田圃で製造された米が、本当に良質かどうか僕には疑問だ。そのうえ、日本人のルーツは、農耕民族だ。古来から、稲作という生活の糧の舞台で、田圃と喜怒哀楽を共にした長い歴史がある。
 だから、日本人には、安全な無農薬農法などで、絶滅危惧種を含む多くの野生生物を育む本来の田圃を残しながら、自然環境を保全して行く義務があるのではないだろうか。田圃には、日本人が学ぶべきことがいっぱいある。つまり、田圃にも共生の倫理が必要なのだ。

 この様に、住み(棲み)やすい環境は、人間が単独で決めるものではない。そこに共生している生きもの全てが決めるものだ。そういう意味では、荒廃した小川や田圃で環境破壊の犠牲になった野生生物は、自ら死をもって、その行く末を警告しているのではないだろうか。
 ともあれ、我々の子供の頃がそうであった様に、人里の豊かな原風景は、人間も豊かな心に変えることは確かだろう。そして、その風景は、人に優しいアナログだ。僕は思う。アナログがもっと飛躍すれば、それこそ全世界をも変えるのではないかと。日本は今選挙のシーズンだ。もし、日本に「アナログ党」という政党があるならば、否応なしに僕は入党するだろう。それほどアナログには神通力がある。 

/76.性風俗の氾濫(目線の位置)

2007-03-18 10:34:48 | Weblog
 2月が暖か過ぎた反動か、寒の戻りで気温の低い日が続く。これで平年並みなのに、何故か体が対応しないから不思議だ。 そんな中我が家の菜の花が咲き誇っている。黄色い四つの花弁が可憐。一時の癒しだ。正確に言うと、食用として植えた小松菜と野沢菜。種から育てたものだが、花の季節になると、どっちがどっちだか見分けがつかない。気温が少し高くなると、ミツバチがやって来て盛んに蜜を吸っている。と言うより、蜜を巣に持ち帰るために、花粉を採取していると言った方が正しい。このミツバチ君、近づいても仕事に夢中で逃げようともしない。働き者だ。頑張れ!! 思わずそう声をかけたくなる。
 こんないい気分になっている時に、例によって話題を変えなければならない。しかも菜の花と違って醜い風景だ。これも我が「スラッシュ」の宿命。ミツバチ君を見習って一仕事しよう。

 バクチが、何時の時代においても形を変えて存在し続けている様に、男と女がいる限り、そして、発情期の若者、性に執着する成年、下半身が元気だった頃を懐かしむオジサンなどがいる限り、性風俗(産業)もまたなくならないもののひとつだ。これからも永遠に生き続けるだろう。
 
 それにしても性風俗の氾濫は凄まじい。バブルの崩壊で下火になったと思いきや、ところがどっこい、あの手この手でその誘惑は止まるところを知らない。社会人として生きるすべを知らない若者でも、性風俗のことは必要以上に詳しい。また、社会人としては半人前でも、子供を作ることだけは知っているなどと若者を酷評する大人も多い。特に都会では、色々な性風俗の店があり、そこが性犯罪の巣になっている。そこでは、売春、薬物などの売買が日常茶飯事の様に行われている。また、麻薬や覚醒剤の密売には、外国人のシンジケートに日本の暴力団が絡み、ここ数年増え続けているという。東京新宿の歌舞伎町がいい例だ。

 どの時代においても消え去ることがなかった性風俗が、このままなくなるとは僕にはとても思えないが、性風俗をエサに悪行を繰り返す暴力団や悪徳業者は、今後も厳しく取り締まるべきだろう。それらの諸悪の根源を徹底的に取り除けば、性風俗も少しは健全化するのではないだろうか。また、病魔の元、麻薬や覚醒剤の密売を、水際で食い止めるため、治安機関の一層の奮闘を期待したいものだ。

 インターネットで風俗を紹介したり、禁止薬物を売買するビジネスがある。当然ながら、これには知らない者同士がアクセス出来る。しかも誰もが参加出来る。新しいビジネスの形態として注目されたインターネット。だが、どうやらここにも、もうたっぷりと悪玉の温床が見え隠れしている。勿論、そうではない正統派の良質のビジネスやベンチャービジネスといったものもあるが、「隠れてやる闇のビジネス」というところに落とし穴があった。
 僕のこのブログを読んでいる人に、そんな人はいないと信じたいが、これなども青少年を巻き込んで、どんどん裾野を広げている。もっと法的に何らかの手を打たないと、行く末大変なことになるだろう。何をアクセスしようが、何を売ろうが、本人の自由であるとすれば、一般の裏ビジネスで暗躍しているその道の達人が、それに乗じて付け入る隙は充分ある。いや、言うまでもなく、もう充分そんな悪玉が入り込んでいる筈だ。何故なら、隠れてやる裏のビジネスには、ロクなヤツしか介入しないからだ。このことは特に警告しておく。

 話を戻そう。風俗産業の悪いところは、社会のゴミとも言える暴力団、麻薬・覚醒剤、性犯罪の「醜態三点セット」のたまり場になっているところだ。言わば裏社会の大きな傷。そして、ここをキーステーションにして、日本中に悪行が発信されているのだ。ここを断たねばならない
 昼夜の区別なく、巷でうごめくシンジケート。日本は外国人の格好のエサ場になっている。これを元から断つ方法はないものだろうか。ことがある面、男と女の性に関することだけに、この問題の行く末は僕には全く分からない。今はただただ、風俗をエサに獲物をあさる地下組織を根絶してもらいたいと願うのみだ。

 近場の問題は、それこそ直近にある。誰もが行く場所で、風俗が野放しにされていると感じるのが、コンビニや書店などに無作為に陳列されている「風俗本やビデオ(DVD等)」だ。種類はピンからキリまである。一番問題なのは、これらのものを大人に限らず、子供などの青少年が、簡単に手にとって見られるということだろう。発達途上の未熟者、ことが子供だけに、社会的影響は非常に大きいと僕は思っている。これは、早急に何とかすべきだ。

 僕もCD・ビデオ店を経営したことがある。その中で、一番頭を痛めたのが、この風俗物の取り扱いだ。 まず風俗本。一般にエロ本と言われる週刊誌、マンガ、ムック、コミックからSM雑誌、アダルト関係本、マニア向け雑誌と多種多様だ。
 次にアダルトビデオ。これもいやというほど種類が多い。日本や外人の女優ビデオから書くのも恥ずかしいが、ロリータ(少女ものだが、これはもう販売禁止になっているかも知れない)、インディーズ、SM、強姦、獣姦、スカトロ、盗撮、アニメなどなどだ。
 この内、獣姦は文字通り動物だ。詳しくは書かないが、適当に想像して欲しい。スカトロ? 経済学用語ではない。汚いウンコ、クソの類だ。エゲツナイ。これなど女性には酷過ぎる。とても正視は出来ないだろう。(店長は、責任者としてこれらのビデオを確認しなければならない)そもそも見るには低級過ぎるのだ。
 しかし、これらの風俗物が、風俗産業関係者から、代理店を通じて、ビデオ店に送られて来るのは明白な事実。ということは、これらを見るマニアックな人達がたくさんいるということなのだ。こんなごく普通のCD・ビデオ店にも、風俗産業の死角があると考えてもらいたい。

 そして、これらのエロ本、エロ雑誌、エロビデオが、どこにでもあるコンビニや書店で堂々と子供の目の高さ、つまり「視線の先」「目線の位置」に並べられ、しかも子供に売られているところに大きな落とし穴があるのだ。この日常を何とかしなければならない。
 脱法ドラッグもそうだ。ラッシュもエクスタシーなども、行くところに行けば、簡単に手に入る。金さえ出せば、大人に限らず、子供も購入者なのだ。しかも、この風俗物が、子供の視線の位置にあるというのが一番怖い。
 今後は、ひたすら射幸心を煽るものを売る販売者を対象に、全国のこの種の店から風俗物を締め出す対策を考えるべきだろう。そうでないと、将来ある若者がとんでもない方向に走ってしまう可能性が高い。ちょっとぐらいエエじゃないかではなく、かつて経営していた店の実態を思うと、本当に真剣に考えなければならないことだと僕は思う。

 どちらにせよ風俗の問題は、一方的に子供を責められない。我々大人が解決しなければ先が見えない。しかし、これも難しい面はある。それは、これが明らかに男と女の本質に根差した問題だからだ。そして、ひいてはそれが、人間さえ否定することに繋がりかねない。その辺の下々の良策を請い願いたいものだ。

 僕の経験から言っても、CD・ビデオ店の一つの重要なアイテムであるアダルトビデオはよく売れた。季節によっては売れ筋商品だ。そのため、店の経営を考えれば、風俗物はダメだと一概に決め付けられなかったことも事実。しかし、女性も来る店の印象度を思うと、なるべく大量在庫は避けたい。この様に、商売するには、その辺の矛盾が絶えず存在し、悩みの種だった。

 話はまた回帰するが、食欲、金銭欲、物欲、名誉欲等々人間の本能的な欲には限りがない。男と女の性欲も無限大だ。世の人も千差万別、複雑怪奇。性を生理的に受け入れない潔癖症の人もいれば、真面目に大人の玩具に凝る人もいる。性を買う人もいれば、売る人もいる。風俗を一概にヤミ社会の産物と言えない面もある。
これも悩みの種だ。作家の誰かさんの名セリフじゃあないけれど、それこそ、ミンナナヤンデ大きくなった!!  現在の性風俗の氾濫は、確かに「/」には違いないが、ことがことだけに、僕にもホント整理(生理)がつかない。   

 
 
 
 

/75.いじめの本質(ガキ大将と鼎の軽重)

2007-03-17 10:42:39 | Weblog
 プロ野球の裏金問題が発覚した。斉藤人気で盛り上がる早稲田大学の学生などに、西武ライオンズが過去最高額の金銭供与をしていたという。確かに大きな不祥事だが、その供与額が1000万円以上だったということを除いて、僕はあまりインパクトを感じなかった。それは、現行のドラフト制度では、裏金問題は必ず起こり得ることだし、今までもその種の不祥事が繰り返されて来た球界の悪しき歴史があるからだ。どうやら、「希望入団枠」は廃止されそうだが、この問題については深く追求せず高見の見物を決め込んでいる。一歩間違えば、大きな事故になったボンバルディア航空機の胴体着陸もしかりだ。

 その代わり、今回は、それより数段難解で未だに結論さえ出ていない、また、この世から消え去ることがないであろう「いじめ」の問題について、遅ればせながら、僕なりのメスを入れてみた。ただ、総論は浅学の僕にはとても無理だ。問題の根が深過ぎる。だから、各論の一部をクローズアップしたい。

 「いじめ」については、子供から大人まで多面的に考えなければ意味がない。その子供だが、どこまでを子供かと定義するのは非情に難しい。僕自身は、せめて高校生位までとしたいが、最近の大学生を見ていると幼稚だ。それこそ子供っぽい。しかし、ヤツらはある程度世間を知っているし、大人と子供の境目を自分に有利な様に利用することも知っている。よって、残念ながら除外だ。従って、大人は18歳位からお年寄りまで幅広く対象に入ると考えてもらいたい。

 まず、子供のいじめについて、的を一点に絞る。この年齢層のいじめの本質は、突き詰めれば「弱い者いじめ」だろう。つまり、強い者とそのケライが、寄ってたかって、弱い者をいじめるという構図だ。そして、強い者は弱い者を思いやるということを一切しない。当然ながら、その中間に立つ最近のケライは、強い者を制止する機能を持たない。皆根性なし、強い者に刃向かうと今度は自分がいじめられるからだ。
 大体こういう図式なのだが、最近の子供にはもう一つ特徴がある。それは、この強い者と思われる集団が、ヤクザのチンピラ集団の様に細かく分かれているのだ。一見強い者の大集団が細分化されているということは、取りも直さず、学校や地域で幅を利かし、しかも、その大集団全体を引っ張る牽引者、つまり、子供界の大リーダーが全く存在しないということになる。言い換えれば、「大元締のいない子供界」、これが今の子供の内部事情なのだ。

 そこで登場するのが、社会秩序の一端を担った昔の子供界のヒーロー、「ガキ大将」だ。この辺の内部事情については、僕は知り過ぎるほど知っている。思い出してみるがいい。あの頃のガキ大将は、それこそ学校や地域のまとめ役だった。皆に慕われていた。いい意味での相談役だった。正義の味方、スーパーマンだ。
 そして、何より特長的だったのは、「相手を思いやる心」があり、かつ、「弱者に優しい」リーダーだったということだ。そういう強く優しいガキ大将が、睨みを利かす子供界に、悪質で陰湿な弱い者いじめは無縁だろう。そうだ。今の子供界には、絶対にガキ大将の復活が必要なのだと僕は常に思っている。
 では、そのガキ大将を誰が養成するのか? それが、学校の先生であり親の役目じゃないのか? 少し逃げ口上になるが、あれこれ言っている時間がない。今はこう言っておこう。とにかく、あれこれ言わずに、関係者は優しいガキ大将作りに励んで欲しいものだ。そして、これは僕の「具体的な提案」だ。

 それと、子供の陰湿ないじめを生み出す要因の一つに、ゲーム機などのデジタルとテレビなどのメディアの存在がある。今やゲーム機だけでなく、テレビも、虚構やバーチャルの要素が充満している内容の番組ばかりだ。これらにたっぷり浸っていると、子供は人間性が失われ機械的になる。これも、ひとことで言えば、デジタルのいいところも認めつつ、「アナログへの回帰」が必要だろう。
 何も知らない子供や中途半端に世の中を知っている子供には、「相手が見える人間や動植物に対する真の愛情を慈しみ育む」アナログの世界が絶対必要なのだ。アナログの世界を愛する僕は、このことを強調しておきたい。

 次に、大人のいじめだ。このいじめも、世の中を知り尽くした大人だからこそ根が深い。だから、これもポイントを一つに絞る。大人のいじめは、子供のいじめに比べて、当然のことながら、その人の仕事(職業)意識に根ざしていることが特徴だ。つまり、サラリーマンなどのいじめの多くは、日本人の閉鎖的な横並びの集団行動に代表される様な、仕事を重んじるあまり、その仕事の枠組みから逸脱する人間を、無理やり、暗黙の了解事項の様に、寄ってたかっていじめるという構図だ。
 仕事が出来ない人間をいじめるのではない。勿論それもあるだろうが、僕が気になっているのは、会社なら会社の方針に合わない人間を排除しようとする「仕事オンリー」の人間がいるということだ。そして、そんな男に限って「男は仕事が一番」などと吹聴する。しかも、そういう人間は、会社人間ではない人間の人間性さえ無視する。ここをよく考えてみる必要がある。本当にそうだろうか。いじめられる人間は、本当に仕事が出来ない無能な人間ばかりだろうか。

 僕の答えは「NO」だ。僕の経験から言えば絶対そうではない。例えば、職場や地域で、「あいつは変わっている」という評価を受けた人間。そういう人間と、実際会ってみて話をしてみると、面白い特長のある感性を持った人間ばかりだ。決められた枠組みから少々ズレてはいても、それこそオンリーワンの個性ある人間がたくさんいる。例えば、「私が男だったら」などと、男に媚びへつらい、やたら自分の立場を擁護する女性にロクなヤツはいない。何故なら、そんな女性より、何も言わずに黙々と仕事をやっている女性の方が、ずっと仕事が出来るからだ。と言うより、仕事が出来る女性は、そんなことを言う前に、もうとっくに何も言わないで仕事をしているだろう。もし、何も言わず仕事をしている女性が、どちらかと言えば口ベタで、しかも、その職場でいじめられているとしたらどうだろうか。

 この様に、一つの職場で、いじめられるであろう、特定の人間の本質を見極める場合は、職場を基準に人を評価する「木を見て森を見ず」ではダメなのだ。もっと言えば、仕事という「小さな尺度」で、人の評価や人間性を論じるべきではない。その人の人間性を含めて、相対的客観的な評価が必要だろう。つまり、より大きな世界観で人を見れということだ。
 だから、大人のいじめは、いじめの根拠が、本質からずれていると僕は感じている。そして、もう一つ付け加えておこう。既存の「会社人間」「仕事人間」は、会社の評価とは違って、実につまらない人間が多い。こんな人間が、仕事のマインドコントロールから解放されて、組織という枠組みから離れてしまえば、恐らく自分を見失い途方に暮れてしまいそうな気さえする。

 大人のいじめを誘発させる第一の原因は、取りも直さず、独特の歪んだ集団心理が働く会社などの過剰な「儲け主義と競争意識」だろう。そういう大義名分で仕事をさせられ、日々プレッシャーをかけ続けられると、成績が落ちた社員は心理的に行き場を失い、その矛先は、非正規雇用者などの弱者や家庭の妻、子供に向けられ、職場や平凡な日常生活まで影響が及ぶ。そういう意味では、組織自体が、いじめを製造している面は大いにあるだろう。この様に、大人のいじめは、仕事という男の大義名分がなせる業、そして、組織の中に暗黙の内に内在する悪習であるといっても決して過言ではない。世の中に仕事があるから、いじめがあるのだ。残念だがなくならないだろう。でも、なくすることは出来る。

 そう考えると、過剰な儲け主義に晒される企業よりも、金の論理であまり動かない公務員の方が、相対的に見てずっと人間味があったなあと僕は感じる。何故なら、僕は、公務員、会社員、自営業(CDビデオ店長)、派遣社員と色んな世界を見て来たからだ。だから、企業などからいじめをなくする方法は、企業自体が、人間味のある組織に転換することだろう。すなわち、人間味のある企業が、人間味のある社員を作り、職場だけでなく、家庭においても、人間味のある生活をするという構図だ。極度な競争意識からサラリーマンなどが開放されれば、いじめのない大人社会に向けてテイクオフ出来る筈。
 そうなれば因果応報、親の因果が子に移り、巡り巡って三丁目の夕日の世界に回帰して行くのだろう。社会的弱者のいじめも含めて、企業は今こそ決断して欲しい。目指す道は、社会的責任を果たし、互いに相手を思いやる人間性回復の組織創成の王道だ。僕は期待している。

 「鼎の軽重を問う」という諺がある。権力、権威のあるものが、その権力、権威にふさわしい実力を持っているかどうか疑問を持つという意だ。これは、組織にも、大人にも、子供にも言えることだろう。
 先ず組織のトップがそれを問い、親もその組織に埋没し、付和雷同になることなく、家庭の鼎の軽重を問い、子供は子供で、弱い者いじめをする小集団の「エセガキ大将」の真価を問う。そんなところに案外いじめをなくするヒントが隠されているのかも知れない。 どちらにせよ「疑問」は、知ることへの第一歩、ひいては行動に繋がる最強のアプローチだ。僕は疑問を大事にしたい。

/74.悪質商法(騙しのテクニック)

2007-03-11 10:41:29 | Weblog
 今朝、FM放送でS&Gの「明日にかける橋」が流れていた。世界一好きな曲だ。へエー。気象庁の桜の開花宣言。今までの統計では、四国の高知県が日本一早いのか。暖かいのは九州ではなかったのか。おかしいんじゃないの?  なに。今年の日本映画大賞は「フラガール」か。福島のいわき市も有名になったもんだなあ。近くには、美空ひばりさんの歌で話題になった塩屋の岬もあるし、勿来の関跡もある。へエー。・・・・・寝ぼけ眼で新聞を読んで、一人呟いているのは僕だ。だけど、これでは話の展開上不都合。ちょっと設定を変えてみることにする。

 新しい設定をする。変わったのは、時刻と性別だけだ。つまり、もう少し時計を進めて、時刻は昼下がり、新聞を読んでいるのは、昼食を済ませ居間でのんびりとくつろぐ奥さんだ。一仕事を終えてうつろうつろ。そろそろあくびも出る頃。とその瞬間、今日の主役のお出ましだ。
 「ピンポーン、奥さん!!」・・・・・何処かで聞き覚えがある筈だ。あのイントネーション。うっとおしい響き。もうお分かりだろう。今日のテーマは、「ピンポーン」で始まる迷惑な訪問販売などの「悪質商法」だ。

 ひと口に悪質商法と言ってもピンからキリまであり、その手口は多種多様だ。「訪問販売」「展示会商法」「利殖商法」「マルチ商法」などなど。奥さんを口車に乗せて、あの手この手の騙しのテクニック。「巧言令色すく鮮(すくなし)仁」まさに言葉の魔術師、甘いワナを仕掛ける詐欺師が横行している。だから、「転ばぬ先の杖」 荒唐無稽なトークには重々気をつけた方がいい。

 その中でも我々に一番身近なのは、何と言っても悪質訪問販売だ。まず僕の知っている範囲内で、騙しのアプローチ言葉を少しだけ羅列してみる。この言葉を覚えているだけでも、今後の参考になるだろう。また、どんな業者かは話の内容で分かる筈だ。
 「○○市の者です。水道管の点検に来ました」「隣の家の工事に来て気付いたんですが、奥さんの家の屋根瓦がズレてます」「大事な鬼瓦が歪んでいて危険です」「壁が湿気を帯びてます。中の建材が腐っている証拠、早い内に手を打たないと、とんでもないことになりますよ」「今キャンペーン中ですので、○○を無料点検します」「床下が湿気てます。シロアリが棲み付いている可能性があります」「本日契約していただけるなら、資材原価で格安の見本工事をします」 まだまだある。とても書き切れない。この辺にする。

 これらに加えて、僕の知り合いが見事に引っかかったのは、屋根のラバーロック工事だ。その手口は、まず「ピンポーン」とやってから、「近いうちにこの地区で、当社の工事があります。大変ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんが宜しくお願いします。その代わりと言ったらおかしいですが、この地区の希望者だけ、1000円でトユの清掃をさせてもらってます」と言って、(OKすれば)速はしごを掛けて、トユにたまっているゴミや土の掃除をしてから、「奥さん、瓦がズレてます」と脅かしながら、巧言令色巧みな話術で、法定外の高額工事契約をさせる方法だ。これは多分会社のマニュアル通りだろう。
 訪問者(訪問会社)も老若男女色とりどりだ。奥さんの顔色を窺(うか)がってから、変幻自在、巧みに人のウィークポイントに付け込んでくる。気弱な奥さん、思考力が鈍っているお年寄りなどは絶好のターゲットだ。特に、「点検」商法、「無料」商法、「見本工事」商法には要注意だろう。

 展示会商法は、基本的には「見るだけでよい」と軽い口調で展示会に誘い出し、その後キビスを返して、強引な勧誘をするという手口だ。これには必ずと言っていいほど何人かのサクラがいる。そして、グルになって本人をその気にさせ、一度顧客になるとなかなか断り切れなくなる。去年倒産した呉服の「愛染蔵(あぜくら)商法」がいい見本だ。いかさまには違いない。

 利殖商法は、「高金利の資産運用方法がある」などと主に電話で勧誘することが多い。「すぐに儲かる」と言うのが合言葉の様だ。ウソに決まっている。今の世の中、そう簡単に儲かる方法などない。それこそ、うまい話には必ずウラがある。テレホンアポインターなどの巧みな話術に騙されないことだろう。

 マルチ商法は、ネットワークビジネスなどに見られる様に、会員が、会員を増やすことによって、中間マージンが入るシステムになっているが、実は、儲かるのは、お馴染みの「三角形の構図」の一部の人間だけというカラクリになっている。自慢ではないが、僕はこの手の構図を見事に見破った経験がある。よく考えれば謎は解ける。ジグソーパズルより簡単だ。手を出さないのがベターだろう。

 他に、身に覚えのない「架空請求ハガキ」や「使用料請求」などもある。使用料請求に関しては、携帯電話の有料サイト、インターネットのアダルトサイト、迷惑メールなどでよく知られている。これなどは相手が見えない。だから、余計に警戒した方がいい。そう言う意味では、この僕のブログも死角がいっぱいあり、知らない内に被害者になる可能性が充分ある。皆さん、くれぐれも注意されたし。

 では、これらの悪質商法に我々がいかに対応するか。誰にも分かることを書いておこう。ズバリ、訪問販売には、奥さんがドアを開けないこと。これが一番だ。もし開けてしまった場合は、「NO」ときっぱり断るアメリカ型、大阪のオバチャン型の人間に変身することだろう。
 展示会商法には、基本的には行かないことだが、誘うのが友人となると断りにくいものだ。しかし、よく考えてみると、契約させられるのは自分。これも「NO」と言う決断が必要だろう。利殖商法、マルチ商法も同じだ。何度も言うが、簡単に儲かる話には、耳を貸さないことだ。いくら親しい友人や先輩でも、僕ならば逆に説得するかも知れない。ハナから「自分は興味なし、お断りします」という意思表示することが寛容だろうと思う。
 仮に契約してしまっても、最後の砦として「クーリングオフ」制度がある。原則として、8日以内、マルチ商法は20日以内だ。これはクイズなどでもよく出題される。でも、僕ならば、ここまで来る前に「悪徳人」を撤退させる自信がある。何故なら、相手の態度や顔色、身振り素振りで、人間を読む審美眼が僕は発達している。つまり、僕の中では、悪玉菌は何処から見ても悪玉菌なのだ。決して誘いに乗ってはいけない。断ることだ。

 悪質商法が何故世にはびこるのか? それは、騙されやすい人間が世の中にいっぱいいるからだ。しかし、それだけでは人は満足しない。でも、この言葉以上の答えは僕には見つからない。絶対騙されないという自信がないからだ。だから、矛先を変えて、悪徳会社について僕なりの意見を少し述べておく。

 そもそも悪質商法をする会社は、まっとうな商売が出来ないから、不当な方法で人を騙す商売しか出来ないということではないだろうか。このことは絶対に言える。つまり、悪徳会社には、一流会社の様なまっとうな商売をする良質なマニュアルやノウハウがないのだ。
 では、まっとうな商売をするマニュアルやノウハウがない会社を引っ張るのは誰か? その答えは簡単だ。そんな会社で幅を利かすのは、今まで悪質商法であぶく銭、悪銭を儲けた悪徳人以外に僕は考えられない。トップが、世の中の裏街道を歩いた極悪非道の人物ならば、もうその会社の中身は僕にはスケスケだ。そして、それらの悪徳人に利用される社員も、たかだか知れているだろう。

 多分これも僕の想像だが、そんな社員も、まっとうな会社からはみ出た(あるいは社会からはみ出た)、言わば烏合の衆の集まりではないだろうか。つまり、悪徳会社は、人生の裏街道を歩いた人間が、同族の三下、烏合の衆を率いて、悪徳マニュアルとノウハウを手本に、会社を操っているのだ。
 その会社のもう一つの顔は、常時社員に極度なプレッシャーをかける「人間性無視」の軍隊方式とも言える恐怖政治だ。殴る蹴るの暴力は日常茶飯事。血も涙もない幹部は、「ピンポーン」の主役の営業成績が落ちれば、容赦なくクビを切るのだろう。そして、高い固定給と、営業成績の対価として出す賞金、やればやるだけ出すというフルコミ(歩合)をエサに、社員の意識を高揚させる騙しのテクニックのロールプレイを日々訓練し、法定外の高値契約を賞賛しながら、形だけの訓話を大唱和して、これでもかこれでもかと、人の弱みに付け込んだ商売に東奔西走しているのだ。これを悪徳会社と言わずして何と呼べるだろうか。いい加減にして欲しい。

 とにかく、悪質商法なんてとんでもない。こんな商売は世の中から早く追放すべきだ。この騙しのテクニックで傷ついた人は全国に山ほどいるだろう。また、こんな商法がまかり通っている社会に品格もクソもない。被害者の奥さんもこのことを肝に銘じて欲しい。そして、騙されることなくしっかり「悪徳人」対応してもらいたいと僕は思う。
 かく言う僕も、今までまっとうな人生を歩んで来たかどうか。多少の疑問はある。が、曲がりなりにも、善悪の境目だけはキープして生きて来た。これは自信を持って言える。悪徳会社にはそれが皆無だ。
 その悪玉の「ピンポーン」が、善玉の「ピンポーン」に変わる日は何時のことだろう。シャレではないが、ヤツラに福原愛ちゃんの「愛」のオージサーブを伝授してやりたい。そうすれば「ピンポーン」の質も良くなる筈だ。

/73.夕張ドミノ(幸せの黄色いハンカチ)

2007-03-10 07:31:15 | Weblog
 北海道夕張市が、財政再建団体の指定を受けた。やや聞こえはいいが、企業で言えば倒産だ。夕張は、高度成長期には炭鉱の街として隆盛を誇った。また、かつて庶民には高嶺の花と言われた肉厚で美味しい「夕張メロン」は今も大ブランドだ。だが、何処でどう間違えたのか、積み重ねられた赤字額は353億円。全国ワースト1の自治体との有り難くないお墨付きを貰った。落ちるところまで落ちたものだ。そればかりか、街はシャッター通りと化し、あまりの悲惨さに夕張を離れる人も目立つという。まさに往時を偲ぶよすがもない「昔の光今いずこ」の状態だ。

 夕張がここまで落ちた原因は、炭鉱閉山による人口流出を食い止めるために市が推進した観光投資、いわゆる「ハコモノ行政」だ。しかし、バブル崩壊後の景気悪化で観光事業は低迷。それでも財政破綻に薄々気付いていた市議会などの行政が、「寄らば大樹の陰」「長いものには巻かれろ」の市民意識をもてあそびながら、国からの補助金や助成金を、収支の見通しも曖昧なまま投資を続けた。つまり、最初からある程度悪い結果が見えていた「投資ありき」なのだ。
 この行政の甘い判断が積もり積もって大赤字になるのだが、もっと馬鹿さ加減を露呈したのが、この破綻状況を、住民には黒字とウソ偽りの説明をしていたことだろう。しかも、良心の呵責に耐え切れなくなった行政は、去年の6月に突然赤字の総額を白状する。とんだ茶番劇、ペテン行為だ。何をか言わんやだ。

 この夕張の行政のだらしなさも特筆ものだ。が、全て行政に丸投げしていた住民にも呆れる。都会ならば、あまりの情報量の多さと人々の喧騒に紛れて、ついつい自分さえも見失いがちで、街の行政の実態までおぼろげに判断することすら困難だろう。でも、それより数段人口の少ない夕張の街ならば、ある程度想像はつく筈だと僕は思う。よっぽど長いものを信用していたのだろうか。それとも、巻かれ過ぎて感覚マヒに陥っていたのだろうか。僕には信じられない。
 議会と住民は今対立している。しかし、僕自身は、この財政破綻に至るまでの長い道程とお粗末な結果を考えると、どうしても住民側の立場に付く気にはならない。こんな行政を選んだ住民も行政の一部、確かに被害者ではあるが、いいとこ喧嘩両成敗ではないだろうか。

 ところで、この様な行政と住民の崖っぷちの構図は、僕の地元大阪を筆頭に全国津々浦々何処にでもある。夕張だけでなく、夕張を「他山の石」としなければならない「明日は我が身」の破産寸前の自治体がいっぱいあるのだ。そして、いつ何時第二の夕張が出現してもおかしくはない状況だ。それこそ、辛うじて土俵際の徳俵で踏み止まっている地方の街、田舎の町がトグロを巻いている。それが「夕張ドミノ」と呼ばれる所以だ。
 そんな街(町)の行政も住民も企業も、夕張ドミノ倒し、悪循環の連鎖にならない様に、今こそ「共生」して生きて行かねばならない時だろう。目指すは「ガラス張り」の情報公開行政だ。

 「ハコモノ」も、もう先が見えた。よくよく考えてみるがいい。もはや、ハコモノに投資する時代ではない。企業活動も含めて、見通しの甘いハコモノ行政によって、日本の自然や人の心は傷つけられた。エタイの知れぬハコモノが突然出現すると、人は一時敏感に反応する。しかし、そんな熱はすぐ冷める。今はもう高度成長期ではないのだ。ましてやバブルでもない。イザナギ以上という名声だけが独り歩きする「エセ好景気」なのだ。そこに少子高齢化と来れば大体分かるだろう。
 あの時はたまたま成功したからと言って、そう柳の下に何時もドジョウはいない。少なくても国内は、何をするにも、身の丈に合った「破鍋に綴蓋」の時代に入っている。皆謙虚になるべきだ。平穏無事の公務員を辞めて、波瀾万丈の人生を選択した僕でさえ、一見華やかなハコモノに踊るアホウはもうたくさんだ。

 夕張ドミノに沈む街もあれば、行政、企業、地域住民が見事に共生し、浮上した町もある。例えば、徳島県の上勝町。この町の活性化の「主役」は、街の料亭などで料理の「脇役」として添えられる「ツマモノ」と言われる紅葉やカエデなどの「葉っぱ」だ。町役場の職員が、視察先の大阪や京都の料亭に行った時、料理のツマとして出された見栄えのいい鮮やかな色彩の「葉っぱ」を目にした瞬間、「これを町おこしに」と直感したという。
 その本主役の生産者(山に入って葉っぱを採る人)は、大半が60歳以上のお年寄りだ。つまり、「過疎」の町のもう一人の主役は「高齢化」した人達なのである。日本の何処にでもある田舎町のマイナス要因を、全てプラスに変えるこの発想、このアイデア。まさに身の丈に合ったコンセプトではないだろうか。このツマモノの事業は大成功を収め、今では一億円以上の年間売り上げがあるという。四国山地の山峡の住民に僕は拍手を送りたい。

 もう一つは、九州の湯布院温泉(大分県)、黒川温泉(熊本県)がある町(あえてこう呼ぶ)だ。この両温泉は、住民、行政、旅館が一体となり、長い時間をかけて、「今の時代」に合った温泉地のコンセプトを、じっくりと模索したという。そして、その結果が今の盛況だ。決して歓楽街的な華やかさはない。従ってケバケバしさもない。百聞は一見に如かず。実際現地に行ってみれば、その努力がひしひしと胸に伝わってくる。ここに至るプロセスは賞賛に値すると僕は感じた。
 周囲の自然とマッチした、あるいは同化したと言っていい様な佇まい。決して慌てず、焦らず、身の丈に合った発想が生んだ成果と言えるのではないだろうか。日本の温泉町でありながら、ヨーロッパの文化都市に身を置いた様な、いい様のない穏やかさがある。和みもある。まさに絶好の癒しの場所だ。本当に来て良かった。この町にも拍手を送らねばならない。
 そして、何より上勝町、湯布院温泉、黒川温泉のある町のいいところは、まだまだ現状に満足せずに、より良い明日を目指して日々前進していることだろう。言うならばエバーオンワード。きっと人が来てくれる。きっと人が喜んでくれる。そうだ。こんな町には「幸せの黄色いハンカチ」が良く似合う。

 「幸せの黄色いハンカチ」・・・・・高倉健と倍賞千恵子の名演技で涙を流した人も多いと思う。僕もそうだ。そして、僕の記憶が正しければ、夕張は、あの感動のシーンの撮影地だ。幸せを信じてヒーローを待ち続けるヒロインは、幸せの黄色いハンカチが風に揺れるこの地で再会を果たす。
 望みはまだある。すっかり落ちぶれた夕張を応援しようと、映画関係者や芸能人などが、もうすでに立ち上がってイベントを開催し、現地の人々を励まし続けている。希望の架け橋はまだ残されているということだろう。しかし、かつての街を取り戻すには、まだまだ困難な前途が待ち受けている。まさに夕張は今、幸せの黄色いハンカチの感動のドラマの出発点に立ったと言うべきだ。そういう意味では、今がクランクインだ。何とか頑張っていいドラマを見せて欲しいものだ。かつての街に無事再会を果たすまで。

 そう言えば湯布院、黒川温泉で思い出した。九重山系と阿蘇山周辺から立ち上る湯煙(水蒸気)は、上空を飛ぶ航空機から見ると凄い迫力だ。あれを地球の情熱に例えれば、そんな地球の恵みを素直に受け止め、優しく応えた現地の人の情熱も相当なものだ。それこそ、人の誠意ある情熱は地域社会をいい方向に変える。
 しかし、時として、地球はイラダチを爆発させる。内部のマグマの熱「収支」がうまく行っていないからだ。でもこれは、大自然と人間の宿命だ。現地の人の情熱がある限り、幸せの黄色いハンカチは永遠になびき続けるだろう。その情熱が幸せの千の風に乗って、北の大地夕張の街に届くことを祈りたい。

/72.強い巨人軍(プロ野球の救世主)

2007-03-04 10:06:45 | Weblog
 「この季節、存在示すはクシャミだけ」(朝日川柳) 東大寺二月堂のお水取りが本行を迎え、ひな祭りも過ぎた。関西の桜の開花ももうすぐだ。
 そして、今年もプロ野球の開幕が迫っている。セリーグは、巨人軍の復活はあるのか、中日の連覇か、我が阪神がスタートダッシュを決めて独走するのか、それとも、伏兵チームが台頭して混戦に拍車をかけるのか、興味が尽きない。 
 その一方で、日本のプロ野球以上に盛り上がっているのが、新入団のレッドソックス松坂、ヤンキースの井川、デビルデイズ岩村選手らの活躍が期待される大リーグの話題だ。特に、ボストンレッドソックスに移籍した松坂選手の人気は、イチローや松井選手入団時を遥かに上回っていると伝えられている。日米のマネーゲームとも思える、超高額の契約金が舞うポスティングシステムが、いいのか悪いのかは別としても、野球の世界では最高峰の大リーグで、日本選手がこれだけ注目されるのは気分がいいものだ。プレッシャーに負けず、実力を発揮して頑張ってもらいたい。

 そんな球春迫る日本のプロ野球だが、僕自身の気分は、阪神の動向を除いて今のところそう盛り上がっていない。むしろ、その前に甲子園球場で開催されるセンバツ高校野球に目が行っている。何故だろう。それは、新興勢力の台頭があるとは言え、今の日本のプロ野球自体が全く魅力に欠けるのだ。事実、相撲と同じ様に、人気が凋落している。ここまで落ちた原因はいったい何処にあるのだろうか。
 実力と話題性がある日本選手の大リーグへの放出、スポーツや娯楽の多様性等々色々言われている。その通りだろう。しかし、僕にはいま一つピンと来ない。ピンと来ないが、その中で、僕自身がなるほどと大いに納得する原因がある。何か? ズバリ言おう。それは、かつて有無を言わせぬ大ヒーロー「ON」がいて、V9を達成した「強い巨人軍」がいないからだ。これが第一の原因だと僕は思う。

 ONとは、勿論長嶋と王さんだ。僕らの英雄ONだ。多少時間がかかるかも知れないが、現状を打破する究極の方法はこれしかないだろう。人口が一極集中している日本の首都大東京で、強い巨人軍の復活は、あらゆる意味で今の世にインパクトを与えるだろう。
 その強い巨人軍がいたあの時代を思い出して欲しい。プロ野球全盛期と言っていいあの時代は、巨人軍を中心にして、野球界が全ていい方向に回転していた。また、それだけではなく、日本全国何処の街でも、仕事を終えたサラリーマンなどが繁華街にドッと繰り出し、巨人戦のナイター中継をエサにする飲食店などがあんなに潤っていたではないか。そして、喧々諤々の素人談義で、V9選手の話題性はバツグンだった。これなどは、誰も疑う余地はないだろう。世の人心の盛り上がりと街の活性化。まさに強い巨人軍のおかげだった。つまり、強い巨人軍の復活は、巨人フャンのみならず、日本中のプロ野球ファンを元気にさせる可能性が高いのだ。

 もともと見る側も含めて、勝負の世界には、強いものに憧れるという人が多いが、欧米人に比べて日本人は、それプラス強いものに依存する体質がDNA的に残っている。また、そういう何かにすがりたいというのが今の社会だ。そのことは、小泉劇場で証明されている。
 更に言えば、日本全国には、あの時代の強い巨人軍に洗礼された団塊の世代を中心に、潜在的な「隠れ巨人」がそれこそいっぱい隠れている。今の弱い巨人軍に飽き飽きしていたそんな人達は、強い巨人軍の出現によって、きっと球場に足を運ぶだろう。そして、変身した巨人軍をエサにしてドッと酒場に繰り出し、家庭では、家族を巻き込んでテレビに夢中になる。
 このシナリオ通りだと、強い巨人軍の相乗効果、経済効果は相当なものだ。阪神フャンの僕でさえ、目をつぶってこの効果は大歓迎する。そうだ!! 球界の救世主は、強い巨人軍の復活しかない。

 これで、日本プロ野球界のハードの難問は解決された。少々強引だが、僕はこれしかないと思う。しかし、このハードには疑問点もある。それは、強い巨人軍にするためには、誰を入団させるかということだ。現に巨人軍はもう何年も前から、それを実現するため、世間の批判を浴びながらも、金の力で実績のある国内外の名選手を次々と入団させた。だが、結果はことごとく失敗し、今も弱い巨人のままだ。常に、球界のリーダーを自負して来た巨人の経営力をもってしてもこのザマだ。だから、この点に関しては、僕は何とも言い難い。ただ、将来性があり、無限の可能性がある選手を入団させればいいとしか言い様がない。これだけは、巨人軍の首脳部に任せるしかない。無責任ながらも、その他の日本野球界の数々の問題は、まず強い巨人軍が復活してから考えようではないか。

 次にソフトだが、視聴率が低下している巨人戦の対策として、僕は一つだけ提言しておく。野球と相撲、昔で言えば「巨人、大鵬」だ。「たまご焼き」が今も頑張っているのに、この二つはだらしない。例えば、テレビで見るプロ野球。マンネリ化したスローモーな番組の流れは、お年寄りの茶話会の様に活気がない。解説者も喋る内容が的を得ていない。新鮮味もない。覇気もない。だから僕は、何時もテレビを消音にして、ラジオの音声で野球を見ている。画面と比べて少々大げさだが、この方が面白く見れるからだ。

 さて、その提言だ。僕は阪神フャン。日本一の熱狂的な阪神ファンをここまで育て上げたのは、地元の放送局「サンテレビ」の貢献度が大きい。サンテレビは、試合の合間には、必ず応援団の姿を色々な要素で楽しめる様に、撮るアングルを工夫して映している。選手を応援する側の一挙手一投足を隈なく投影することにより、見る側も含めてファン同士の親近感が湧くのだ。かつ、テレビの画面を通じて、選手との距離感も縮まった様な印象を受ける。
 それだけでなく、毎回お年寄りから子供までの幅広いファンを実況席に迎えて、ざっくばらんに好きなことを喋らせている。僕はこれを聞くのが好きだ。凄く興味がある。そして、中継は終了まで続く。勝った時の「六甲おろし」は最高だ。これがテレビ本来のスポーツ中継だろう。小さいことからコツコツだ。実に的を得ている。
 要は何処のテレビ局も、サンテレビの手法を真似て欲しいのだ。僕は阪神ファンだが、時には興奮しても過激派ではない。ロマン派、エスプリ派の阪神ファンだと自負している。手前味噌で言うのではないが、ロマンあるスポーツ中継は、見ている人にもロマンを呼び込むのだ。サンテレビは、阪神大震災の時も廃墟の中からロマンを生んだ。人に優しいテレビ局だと僕は今も思っている。

 ところで、今年の野球界で、阪神以外の選手で最も注目している選手が二人いる。その一人が、大リーグパイレーツのマイナーからスタートする元巨人軍の桑田選手だ。あの小さな身体で、投手としてよく大成出来たものだとつくづく思う。僕は、高校時代の彼と清原選手を見たさに、仕事をズル休みして、今はなき日生球場に行ったことがある。その時目にした清原選手とのアベックホームランは忘れられない。きっとバッターとしての素質も相当なものだったに違いない。あの桑田選手のハングリー精神は何処で育まれたのだろう。
 実を言うと、僕は、若き公務員時代に、公務で行った八尾市の仕事を終えた後、市職員の車に乗って、彼のルーツ、「生家」を訪ねたことがある。是非見てみたいという僕のリクエストだった。家の前に立った時唖然とした。もう見るも無残なボロボロの崩れかけたアパート(文化住宅)だ。(それとは対照的に、近くには天童よしみの大豪邸がある)人はもう住んではいなかった。僕は思った。色々とスキャンダルのあった彼だが、ここが彼の出発点だったのかと。
 その後、仕事で何回か八尾市に行く内、近鉄八尾駅前のスナックで、偶然彼の父に出会ったことがある。その折の名刺は今も持っている。父から彼のことを聞いた時(彼の父は離婚している)、その目から涙がにじんでいた。何も言うまい。大リーグでもう一花咲かせて欲しい。

 もう一人は、年俸400万円、中日ドラゴンズで再出発するビュンビュン丸、中村選手だ。彼は、大阪の普通の公立高校出身だ。僕は親近感を覚える。彼も色々あった。バッシングも受けた。だが、野球への情熱を語るあの目は真剣だ。僕には分かる。桑田選手同様彼にも実績がある。あの豪快なスィングで、セリーグに新風を吹き込んで欲しいものだ。

 最後に、もうひとこと言いたい。強い巨人軍の復活は、後3年先でいい。何故なら、今年から阪神がV2を達成するシナリオを僕は考えている。あくまでも欲のない僕の希望だ。つまり、阪神が巨人との対立軸を明確にした後、強い巨人と遭遇したいからだ。だから、巨人ファンには悪いけれど、今年は阪神のV1だ。でも、何だかまだもどかしい。本音を言おう。今年も弱い巨人何て実につまらない。

/71.富士山と小京都(心の文化)

2007-03-03 12:24:23 | Weblog
 世界の名峰「富士」は何処から見ても美しい。山容はコニーデ。桜と並ぶ日本のシンボルだ。葛飾北斎の「富嶽三十六景」や安藤広重の「東海道五十三次」の絵画に代表される様に、昔から日本人に愛されて来た。
 伊豆や箱根、富士五湖から仰ぎ見る富士山は雄々しい。日本第二の高峰南アルプスの白根北岳から顔を見せる、笠雲をかぶった富士山は凛々しい。標高3776メートル、日本一の高さを実感する。八ヶ岳の麓を走るJR小海線沿線から遠望する、甲府盆地におおらかに裾野を広げる富士山は筆舌に尽くし難い。まさに霊峰、偉大な山である。
 
 そんな富士山にあやかろうと、全国各地にはもう一つの富士山が点在する。山容が似ているからだろう。 南から、薩摩富士(開聞岳)、ほうき富士(大山)、会津富士(磐梯山)、出羽富士(鳥海山)、津軽富士(岩木山)、蝦夷富士(羊蹄山)、そして北の果て利尻富士(利尻山)などなどだ。他に、讃岐富士、近江富士、榛名富士、まだまだある。これだけ日本人の心に浸透した山は珍しい。まさに富士山は日本そのものだ。

 しかし、こんな富士山が世界自然遺産に登録されていない。僕はこれが不思議でならない。何故だろう。世界の有識者から敬遠された主な理由の一つは、霊峰富士の景観を害する汚い「ゴミ」の山と登山者の「人糞」の垂れ流しだ。登録されなかったのは悔しいが、よく考えてみると、僕にはその理由が分かる様な気がする。

 僕も、一度だけ日本一の富士山に登ったことがある。頂を極めた理由は恥ずかしい。実に単純だ。ある日の夜クイズ好きのミナミのママさんに、「日本一高いところは何処?」と質問され、「富士山」と答えたら、「違う」と言って笑われた。正解は「気象庁富士山測候所レーダードームのてっぺん」だった。何時もの様に悪酔いしてヘベレケだったバカな僕は、何故か意地になって、「だったら、その証拠写真を撮って来てこの店に飾ろう」と失言してしまった。
 バッカスの勢いでつい口走ってしまった悔しさ半分の一言、たったその一言で、不幸にも富士山にチャレンジするハメになったのだ。情けない。ちなみにそのスナックは、バブル崩壊の余波でつぶれてしまった。情けなさと汗が一杯詰まったあの写真の行方は未だ不明だ。まあいい。当時の僕はそんな不信な行動がよくあった。

 富士山に実際登ってみて分かったことだが、確かにゴミが多く汚い。その上、山頂の「下の廊下(?)」は、たまらなく臭かった。「大沢崩れ」のガレ場も思った以上にひどい。ゴミ、トイレ、規模の大きい崩落現場。この三点セットを取ってみても、霊峰富士山の価値は半減する。それこそ、美しい山にはトゲと毒がある。
 この内、大沢崩れはあくまでも自然現象だ。自然は責められない。トイレも最近は、山小屋などで環境重視型に改善されつつあるが、ある意味仕方ない面はある。あまり責められない。現実に僕も、ガマン出来ずに我がうん蓄物を北アルプスの天地に晒したことがある。出物腫れ物ところ嫌わずだ。だけど、技術の開発が進めば、これは何とかなるだろう。関係者のうん蓄に期待したい。

 何とかならないのがゴミの山だ。富士の裾野から山頂まで、心ない人間の仕業によって複合汚染されている。まさに実態は人間の無責任の山だ。こんなに富士山を崇める人間が多い一方で、逆に富士山を蔑む行為をする「悪徳人」が山ほどいるということ自体僕は悲しい。許し難いことではないだろうか。 もっと悪いのは、違法行為を知っていて、何の自責の念もなく、富士の裾野にゴミを投棄する常識外れの卑怯者だろう。それも大半がいい歳をした大人だ。

 この点を考えてみても、世界遺産登録を選考する世界の有識者の判断は、妥当だったと僕はつくづく思う。あれ以来僕は、富士山は「見る山」と決め付けている。そして、今のところ、僕の中での登る山としての富士山の価値は、日本一の高さ、ただそれだけだ。だから、富士山に登る動機も情けないが、登った実感も情けないというのが僕の結論だ。早く見る山から「登りたい山」に変身して欲しいと願うのは僕だけではないだろう。自然を愛し、山を愛する人間の共通の願いだ。世界遺産登録に向けて、国を挙げて取り組んでもらいたいと思う。

 さて、次は小京都だ。こちらは、町並みや雰囲気が京都に似ているという意味でよく使われる呼称だ。個人の主観にもよるが、僕が小京都だと思っている町は、鎌倉を除いて、飫肥(宮崎県)、日田(大分県)、萩(山口県)、津和野(島根県)、内子(愛媛県)、出石、篠山(兵庫県)、小浜(福井県)、郡上、高山(岐阜県)、金沢(石川県)、足利(栃木県)、会津若松(福島県)、平泉(岩手県)、角館(秋田県)、弘前(青森県)などなどだ。

 この内、金沢以外、僕の中では、小京都が元気でやっているかどうか、今は消息不明だ。いや、元気にやっていると思いたいが、どう何だろうか。最近それらの小京都に足を運んでいないこともあるが、何故か気になって仕方がない。すっかり表舞台から消え去ったイメージがある。僕の勘違いだろうか。
 勿論、心ないマスコミなどに、必要以上に騒がれるよりは、何もなくしっとりと落ち着いて、小京都らしさを保ちながら、静かに過ごす方が町にとってはいいこと何だろう。決して「/」の対象ではない。しかし、それらの町に、いい思い出が山の様に堆積されている僕にはどうしても気がかりだ。

 断片的に思い出してみよう。維新の町、萩の武家屋敷。夏蜜柑が実る土塀沿いの路を歩きながら、若き草莽の志士の大望を想った。町を見下ろす青野山から眺めた津和野は、青や赤の屋根の瓦がカラフルだった。森鷗外の生家と、萩同様町を縦横無尽に流れる小さな水路のニシキゴイが印象的だった。
 鯖街道の終着駅小浜は、今も魚の美味しい寺町だ。出石は、出石蕎麦が美味い。篠山は、今年の干支猪鍋がたっぷり食べられる。高山は、京都と同じ名の東山がある。宮川沿いの通りと、上三之町、下三之町の古い町並みが心癒してくれる。ここは、北アルプスの登山帰りによく立ち寄った。冬の高山は、空気もピンと張りつめて荘厳だ。まさに本物の京都だろう。
 会津若松は、白虎隊の墓にはやや興醒めしたものの、会津富士、磐梯山を背景に気品を感じさせる町だ。何よりも温かい東山温泉が良かった。平泉は、小京都と言えるかどうか。しかし、藤原三代の栄華を彷彿させるに充分な佇まいだ。北上川と衣川と、そしてもう一度「牛若丸と弁慶」に逢いたい。弘前は、お岩木山の津軽富士に、林檎の甘く白い花がお似合いだ。弘前城の桜は、日本一の美しさと言われ一見の価値有りだ。

 さあ。最後になった。どん尻は角館だ。萩の武家屋敷に比べて、何となく華がある。駅前からサイクリングで町を巡れる。クライマックスは、何と言っても桧内川(ひのきないがわ)沿いの満開の桜だ。信州高遠のコヒガン桜も確かに華麗だが、ここの桜は心打たれる。哀愁がある。小さな町の小さな風景だからかも知れない。それとも、田舎町の自然体の風景だからだろうか。僕の目には、そんな風景がとてつもなく大きい存在に見える。そして、妙に愛着のある旅の1コマに映った。是非角館に行きたいものだ。 ともあれ、頑張れ小京都達。とりとめもなく書いてしまったが、僕は何時も君達に注目し応援している。

 ところで、今小京都の「本家」京都では、景観論争が盛んだ。分かりやすく言えば、悠久の歴史的景観を残すため、周辺地域の「ビルの高さを制限」したり、目に毒な風俗店の「看板やネオン照明などを撤去」する方針を京都市が打ち出したため、生活が懸かった民間の業者などが猛反発している。ここにも、企業の生き残りを賭けた闘いがある。が、どうやらこの勝利者は行政側だろう。
 少し遅過ぎた感は否めないが、僕もこの方針には大賛成だ。そんなこと当たり前だとも思う。これは、言わば、日本一の歴史的景観を残す京都を守る最低限のセーフティーネットだろう。
 例えば、嵐山を一望出来る酒の神を祭る「松尾大社」から北に延びる桂川沿いの道。僕はこの道が、嵐山アプローチの絶好のビューポイントだと思っているが、何時訪れても、沿道は車の列と排ガスで気分を害する。おまけに、桂川自体も荒れ果てて汚い。旅人が美しい景観を眺めながら、気分良く散策するには、周辺を自然体に整備して、なおかつ交通規制すべきだ。それが旅人に優しい本来の姿だろう。

 これに関して、僕は何時も敏感に反応するある思いがある。それは、建築物や護岸工事などに見られる日本人の「美的感覚のなさ」だ。自然との調和や人心を省みない、ただコンクリートで固めただけの味気のない「無味乾燥」した風景が日本にはいっぱいある。しかも、何処に行っても、日本人の集団行動的精神を反映した様な美的センスのない「同質同形」の景観ばかりだ。どこに個性があるのだろうか。本家本元の京都でさえ、文化をないがしろにする「木を見て森を見ず」の建造物がどこにもある。
 それに比べて、ヨーロッパの文化都市などの景観はどうだろう。ライン川沿いの風景や中世の面影を残す田舎町の風景は、まさに「文化」そのものだ。心が落ち着き、その中に身を置くだけで、それこそ目からウロコだ。物心両面で文化の重みを感じる。そして、そんな風景の中でこそ、愛国心も育つのだろう。

 富士山も小京都も大げさに言えば日本人の心だ。便りのない小京都達には、さだまさしの歌ではないけれど、「元気でいるか?」と呼びかけたい思いがする。たまには便りが届いて欲しい気分だ。富士山も、ゴミというトラウマから開放されて是非復活して欲しい。富士山が真に美しい山として蘇った時を想像してみよう。僕は思う。その時は、日本人に、「本物の心の文化」が育まれた時ではないだろうか。きっとそうに違いない。