11日未明から12日早朝にかけて我が街でも凄い雨が降った。一時は竜巻に関する警戒情報が発表され、おっかなびっくり。これでまた季節が前に進むだろう。原色のバラが咲き乱れる公園では樹木の帰り花、野原では枯れ尾花、路地裏ではお年寄りの日向ぼっこが目立つ「冬浅し」の今日この頃、見渡せば近畿各地で錦秋が真っ盛りだ。さあ、きっぱりと紅葉狩り、という気分になる。多分これから2週間ほどがピークと思われる。朝晩の冷え込みで肌がピンとすると、なぜか露天風呂と硫黄の匂いが恋しくなる。この時季の僕の条件反射だ。紅葉しぐれ、黄落しぐれが降る湯船で、野鳥の鳴き声と地元の人の方言を心地良く聴きながら、肉体と精神を蘇生させたい思いが募る。温泉とはまさに、日本を代表する癒し系の必須アイテムだ。そやろ? んだ、んだ。そやけん、そやけん。そうどすえ。
紅葉のピークに合わせて、僕の相棒は自称・B級グルメマニアの実力を遺憾なく発揮している。それにしても彼の食いっぷりは尋常ではなく、フードファイターになる素質十分だ。どちらかと言えば華奢(きゃしゃ)な身体を考えると、人並みではない。まるで牛並みの大食漢だ。「大食い大会に出場してもいいセンいくんとちゃう?」と僕が言うと、「田舎出身の人はよく食べるけんね」だって。この意見は違うと僕は思う。胃は食べ方によって膨張したり収縮したりする。田舎出身の人が都会に出れば、大抵の人は食べる量が減ると聞く。その法則に従えば彼は少食気味になる筈だ。だけどあんなに食べるということは、彼は元々牛並みでないと満足出来ない性格なのではないか、と思ったりする。まあどっちにせよ、食欲の季節にあんなに食べられるのは、僕にすれば実に羨ましい限りだ。
彼にはもうひとつ気になることがある。それは、最近目立って「ざ行」と「だ行」の区別がつかなくなっていることだ。なぜか? この答えは簡単。彼の奥さんの出身地が和歌山市のど真ん中だから、だ。奈良県南部の人もそうだが、特に和歌山県の人は「からだ」を「かだら」と言ったり(または「かざら」)、「ぜんざい」を「でんだい」と言ったりする。奥さんの影響を強く受けている彼と付き合うようになってから、僕も最近「ざ」と「だ」の使い方がおかしくなる時がある。そう言えば若い頃、スキー仲間として付き合っていた生粋の江戸っ子の彼も、時々僕を悩ませた。例の「し」と「ひ」の使い方だ。彼の大田区の実家で飲んだ時、「東」を「しがし」と喋ってしまい「東京人の仲間入りだね」と家族の人に大笑いされたことがある。方言は面白い。過去において僕が本当に理解に苦しんだ方言と言えば、津軽と沖縄と薩摩弁だ。特に津軽は、ちんぷんかんぷんだった。沖縄は、島単位で言葉が違うと聞く。日本は広いと言われる所以だろう。
相棒関連の話しはこれぐらいにして、ここしばらく恒例になっている雅な京都の話題の締めくくりは、三尾の最奥にある栂尾・高山寺の話しだ。山紫水明の中の紅葉という意味では、京都の頂点に立っていると言っても決して過言ではない「鳥羽僧正の鳥獣人物戯画」で有名な世界遺産のこの寺には、「日本最古之茶園」の碑がある。このことは以前にも紹介したことがあるが、是非知ってもらいたいので再度記すことにした。言わば、高山寺の知られざる意外性だ。
何を隠そう、名刹高山寺は全国に茶を広めた「茶園発祥の地」でもあるのだ。平安初期、唐から帰朝した最澄により日本に茶が伝えられた。しかし、当時の茶は宮中の儀式や薬用だけに用いられる貴重品扱いだった。これでは不公平だと感じてその茶を世間に広めたのが、高山寺を開いた僧○○上人だったのだ。○○上人は鎌倉初期、栄西が宋から持ち帰った茶を栂尾山に植え、ここで茶の栽培を始めた。それゆえ○○が「茶祖」、栂尾が茶の発祥地と言われる。
以来、栂尾山の茶は「本茶」と呼ばれて珍重され、茶の栽培は「宇治」などにも伝わった。こうして茶は、嗜好品として広く人々に飲まれるようになり、室町時代に「茶の湯」を生む土壌が育まれたのである。そして、約800年の時を経た現在も高山寺では茶園が営まれている、という訳だ。ちなみにこの茶園は、宇治の篤志家、つまり慈善心のある親切な人達の手によって維持されていて、高山寺の意外な歴史に彩りを添える役目を果たしている。さてここで、非常に難しいクイズだ。高山寺の開祖でもあり、日本に茶を広めた茶祖でもある僧の名は? ・・・・・。正解は「明恵(みょうえ)」上人だ。これを知っていた人には敬意を表したい。
もうひとつの「鯖街道」である福井県小浜市まで続く「周山街道」に面して建つ高山寺の燃えるような紅葉は、主に楓(かえで)が織り成す錦でその美しさは特筆ものだ。僕も若い頃、この時季になると決まって足を運んだ思い出がある。感動的なのは、紅葉の間から木漏れ日が射す表参道。また、秀逸の苔や北山杉などもカメラに収めるには最高の題材だろう。楓紅葉が幻想的な雰囲気で高山寺境内を覆う様は、まさに京錦秋の誉れだ。この地に行かれる際は是非、お茶にまつわる歴史も一緒に味わって頂きたい。より旅の深みが増すと思う。なお、日本で一番茅葺屋根が多い町・美山町は、周山街道をもう少し遡ったところにある。そこの「摘み草料理」は今、旅人の評判になっている。以上、栂尾・高山寺は庶民のお茶の故里だった、というお話しでした。
巷では今週も、鳥取・口先詐欺女(35歳、元スナックホステス)&東京・婚活サイト同情詐欺女(35歳、無職)の睡眠導入剤などを使った不審死事件がメディアを賑わせているが、整形・市橋容疑者大阪で逮捕&島根県浜田市の女子大生殺人事件も含めて、社会の闇が益々深さを増して日本中に浸透している事実を今更ながら実感させられる。また、東京の詐欺女が「(婚活サイトに)簡単に騙される方が悪い」と平然と言ってのけたのには、僕は唖然とした。そして、思わず背筋がゾッとするような不気味さと後味の悪さを覚える。男も女もワル、ワル、ワル。どこにでも潜む「百鬼夜行」とはまさにこのこと、ではないだろうか。
他では、奈良県桜井市の「卑弥呼の館」の新事実、南北朝鮮・艦艇銃撃戦などもインパクトがあった。でも、相変わらず頬が緩むのはスポーツの分野だ。ウインタースポーツのスピードスケート・女子W杯での小平&穂積選手の活躍は、メダルの色から、次の大舞台での更なるステップの可能性を感じさせてくれる。こんな若い選手がもっともっと出て来て欲しい。かと思えば、スポーツ選手だけでなく、我々も全身で存在感をアピールしようとする「詩のボクシング」も、僕は大いに結構なことだと思った。なにかにつけて、世界ではまだまだ日本人はアピール不足。グローバル化した世の中では、正々堂々と自分を表現する度量の広さが必要だ。その点、今日来日した米・オバマ大統領は、世界最高レベルのいいお手本になる。
アピール力狙いと採れそうなのが、3つのワーキング・グループに分けて、この国の447事業の「仕分け」を突貫工事で行う行政刷新会議のフルオープン見直し判定だ。これは、見ものだった。「元の木阿弥はない」との方針で臨んだ問答無用の蓮肪(れんほう)参院議員らの斬り口鋭い「ツッコミ」は、まさに「ナニワ受け」する迫力があった。天下りも容赦なく斬った。これも新政権の目玉だ。非常に結構なことではある。もっと斬れ、もっと斬れ。
そのせいで、すっかり錆びれてしまった「脱官僚依存」の鉄剣の旗印が忘れ去られ、「スピード感を持ってやるには、なる人がいなければ仕方ない」といったような意見を正当化してしまいかねない雰囲気もある。しかし、新政権の体質が元の木阿弥になるのは国民は望んでいない筈だ。果たしてこれは、鳩山&裏の闇将軍・小沢一家の演技か本質か? 我々の判定は、いよいよ佳境に近づいて来た。翻って今日は、「存在そのものが既に演技」だった人の話しだ。
俳優で「屋根の上のヴァイオリン弾き」の舞台などで知られる森繁久弥さん(96歳)が11月10日午前、老衰のため東京都内の病院で亡くなられた。恐らくこれは、天寿を全うした深く安らかな眠りであったろう、と僕は想像する。また、そう思えるほど離れて看取る「おくりびと」が日本中に集っていることだろう。ここに謹んで故人のご冥福をお祈りしたい。森繁さんは、わが街に隣接する枚方市の出身で、高校時代は大阪の名門・北野高校で過ごし、(中退はしたものの)早稲田大学に進学する、という僕の理想とする青春勉学コースを歩んだ「近くて遥か遠き人」だ。それだけに、またひとつ昭和の灯が消えたとの思いが強くする。
森繁さんの「役者としての功績」を今更僕がここに紹介する必要はないと思うので省略するが、こう思わせるくらいラジオ、舞台、映画、テレビで大活躍した森繁さんはまさに、戦後のマルチタレントの先駆けだ。芝居人としての森繁さんの特長は、軽妙さとペーソスが溶け合った演技力にある。特に、サラリーマンの本音と建前を見事に演じ切った感がある「社長シリーズ」の人情喜劇は一世を風靡し、渋さとユーモアと哀愁を兼ね備えた名演技は、世間の評価を高めた。これは、僕でも知っている。ただ、御大を案外知らないことも多い。
ということを踏まえた話しをすれば、僕は森繁さんの人柄が好きだった。でも残念ながら、舞台や映画などほとんど観ていない。なので、森繁さんその人を熟知している訳ではない。あくまでも僕が知り得ているのは、今までテレビなどで報道された森繁さんの「人となり」だ。だけど、演劇に関する数々の受賞者であることは十分承知している。勿論、もう二度と現れることのない名優であることも。まっ、この程度の知識で森繁さんを語るつたなさは、失礼千万でお許しを願いたいと一言申し上げておく。それでも僕は、ここで森繁さんのことを大いに語りたくなる。
僕が数ある森繁さんの功績の中で一番評価したいのが、あの名曲「知床旅情」の作詞・作曲者であること、だ。これを抜きにして森繁さんは語れない。「知床旅情」は、元々地元で歌い継がれていた伝説の俗謡がベースになっている。とは言え「知床旅情」は僕にとって、我が愛する「旅」に関する全ての要素がいっぱい詰まった「完璧」の愛唱歌であることに変わりがない。だから僕の中では、谷村新司さんの「昴」に匹敵する聴き応えのある名曲として、ずっと今でも聴き惚れている。要するに文句なしの歌なのだ。
思えば、今ではスポーツ以外で唯一無二の趣味である旅が好きになり、旅に目覚めた青春時代の入り口には、常にこの曲があった。つまり「知床旅情」は、僕の旅にまつわる言わば「登竜門」としての役割を果たしてくれた曲、なのだ。僕と同年代でしかも旅好きの人間であれば、この曲の存在を隠せはしないだろう。振り返ればあの日、あの時、あの場所で、「知床旅情」は知床の歌であっても知床だけではなかった、とも言えるありとあらゆる様々な旅の場面で、僕らの心にそっと寄り添っていたのだ。という印象が僕にはある。その場面で傍にいたのは、恋人、友人、同僚、家族などなど。そう、だから言おう。いつかのブログで書いた加藤和彦さんの「あの素晴らしい愛をもう一度」が青春時代の僕の「忘れじのメロディー」ならば、この「知床旅情」は文字通り僕の「忘れ得ぬ旅歌(詩)」だ、と。
僕はこの曲を主に加藤登紀子さんの語りで聴き、そして友と歌った。その加藤さんがしみじみこう語っている。「ほんとに寂しい。年齢を重ねてから益々可愛いおじいちゃんだった。100歳まで生きて欲しかった。『歌うように語り、語るように歌え』というのが森繁さんの教え。『知床旅情』も歌わせていただいた。何度も声を合わせて歌い、感じたのは、(旧満州へ渡った経験があることから)大陸の大きさと日本人の優しさ、男のロマン、そして色気でした」と。なるほど絶妙なコメントだと思う。そのように加藤さんの語りは感動的だ。本人の語りも深い味わいがあった。あの独特の声色を真似て飲み屋で歌い、客の喝采を浴びたことが今となっては僕の懐かしいエピソードだ。
図らずも加藤さんは、森繁さんは男のロマンを持った人だと言った。僕も言いたい。そればかりか森繁さんは、多感で悩み多き青春時代の当時の僕を、心が癒される旅のロマンへと誘ってくれた「偉大なる水先案内人」ではなかったか、と。つまり「知床旅情」の奥底に流れているテーマは、まさに旅のロマンであり、今の日本には希有な多くの「人の優しさ」だ。「♪知床の岬にハマナスの咲く頃、思い出しておくれ俺達のことを、飲んで騒いで丘に登れば、はるか国後に白夜は明ける♪」 そしてそこにあるのは、今の世にあってこそ人がひしひしと感じるべき「大自然の優しさ」ではないだろうか。それを求めて、人は旅に出る。これぞ、森繁ワールドの真髄だろう。
森繁さんの曲に心魅(ひ)かれて、当時の若者は北の大地のみならず、皆全国各地に旅立った。まるで「知床旅情」に誘惑されるが如く。若者だけではない。時の右肩上がりの経済を背景に、「知床旅情」は世代を超えて旅人を旅愁、郷愁、抒情、憧憬などなどのロマンに誘ったのだ。ひょっとすれば、あの頃の大旅行時代の先導役が「知床旅情」だったのでは、とも思える。そして、行く先々で巡り会った大自然と人の情けの良さを称賛するのが時の未知との遭遇だった。しかし、それから間もなく本来の森繁ワールドはだんだん廃れて行った。すなわち人の心と自然環境破壊だ。「ディスカバージャパン」とは名ばかり、心ない「観光客」の影響で傷つくロマンの地。でも今日は、この弊害は書く気はない。なぜなら今回のテーマの主役はあくまで、森繁さんであり「知床旅情」なのだから。
旅情の世界に誘う曲が他にもある。例えば曲名だけだと「♪遠くへ行きたい」「♪いい日旅立ち」など。これなども旅の歌としては極上でお馴染みだ。なので僕なりの思いをもう少し語りたい気持はある。が、今日はもう残された時間がない。と言うより、「知床旅情」でもう十分だ。この主役が、時の世間に訴えた旅の情けは計り知れないものがある。前述した通り我ら世代の旅好きの人にとっては、この曲抜きして、それは語れない。という意味で、天国に逝かれた森繁さんには「ありがとう」と優しくお礼を言いたい。続けて言う。お疲れさん、森繁さん。貴方の「知床旅情」は、永遠に不滅です。
森繁さんの死を脚本家の倉本聰さんは、「『存在そのものが既に演技』という希有な役者さんだった。社会的に評価が低かった役者稼業を、芸術という領域に高めていった人でした」と絶賛した。一方、作家の藤本義一さんは、「僕にとって大師匠。気遣いが細やかで、深い優しさを持っていた人。でも、会うとボケたふりをしたり、僕と握手しながら隣りの女性のお尻を触ったり。人間として『見事に人生を完結』された気がする。うらやましい」と語っている。
今日も終わりに近づいた。まだまだ言いたいことがいっぱいあるけれど、大阪のドン・藤本さんの言葉そのままに、見事に人生を完結された森繁久弥さんが生みの親の名曲「知床旅情」が、旅好きの人にとって、これからも「完璧の歌(詩)」であることを祈念して、今回のこのブログを終えたい。そうすれば、知床の「ピリカ」も「白いカモメ」も笑ってくれるだろう。それに応えて、きっと森繁さんは天国の屋根の上で、ヴァイオリンを弾いてくれているに違いない。合掌。
※ところで最後に「ブログ休止」のお知らせだ。個人的に期することがあり、次の仕事に向けて11月下旬から夜、とある教室で学ぶことになった。なので、どうしても時間が取れず、しばらくの間このブログを休止することにした。とにもかくにも、あくまで再開は僕次第。「継続は力なり」をモットーにしてきただけに不本意ではある。が、日数が少し空くのもまた、継続への充電期間だと思っている。じゃあ、しばらくの間ごきげんよう。またお会いしよう。
紅葉のピークに合わせて、僕の相棒は自称・B級グルメマニアの実力を遺憾なく発揮している。それにしても彼の食いっぷりは尋常ではなく、フードファイターになる素質十分だ。どちらかと言えば華奢(きゃしゃ)な身体を考えると、人並みではない。まるで牛並みの大食漢だ。「大食い大会に出場してもいいセンいくんとちゃう?」と僕が言うと、「田舎出身の人はよく食べるけんね」だって。この意見は違うと僕は思う。胃は食べ方によって膨張したり収縮したりする。田舎出身の人が都会に出れば、大抵の人は食べる量が減ると聞く。その法則に従えば彼は少食気味になる筈だ。だけどあんなに食べるということは、彼は元々牛並みでないと満足出来ない性格なのではないか、と思ったりする。まあどっちにせよ、食欲の季節にあんなに食べられるのは、僕にすれば実に羨ましい限りだ。
彼にはもうひとつ気になることがある。それは、最近目立って「ざ行」と「だ行」の区別がつかなくなっていることだ。なぜか? この答えは簡単。彼の奥さんの出身地が和歌山市のど真ん中だから、だ。奈良県南部の人もそうだが、特に和歌山県の人は「からだ」を「かだら」と言ったり(または「かざら」)、「ぜんざい」を「でんだい」と言ったりする。奥さんの影響を強く受けている彼と付き合うようになってから、僕も最近「ざ」と「だ」の使い方がおかしくなる時がある。そう言えば若い頃、スキー仲間として付き合っていた生粋の江戸っ子の彼も、時々僕を悩ませた。例の「し」と「ひ」の使い方だ。彼の大田区の実家で飲んだ時、「東」を「しがし」と喋ってしまい「東京人の仲間入りだね」と家族の人に大笑いされたことがある。方言は面白い。過去において僕が本当に理解に苦しんだ方言と言えば、津軽と沖縄と薩摩弁だ。特に津軽は、ちんぷんかんぷんだった。沖縄は、島単位で言葉が違うと聞く。日本は広いと言われる所以だろう。
相棒関連の話しはこれぐらいにして、ここしばらく恒例になっている雅な京都の話題の締めくくりは、三尾の最奥にある栂尾・高山寺の話しだ。山紫水明の中の紅葉という意味では、京都の頂点に立っていると言っても決して過言ではない「鳥羽僧正の鳥獣人物戯画」で有名な世界遺産のこの寺には、「日本最古之茶園」の碑がある。このことは以前にも紹介したことがあるが、是非知ってもらいたいので再度記すことにした。言わば、高山寺の知られざる意外性だ。
何を隠そう、名刹高山寺は全国に茶を広めた「茶園発祥の地」でもあるのだ。平安初期、唐から帰朝した最澄により日本に茶が伝えられた。しかし、当時の茶は宮中の儀式や薬用だけに用いられる貴重品扱いだった。これでは不公平だと感じてその茶を世間に広めたのが、高山寺を開いた僧○○上人だったのだ。○○上人は鎌倉初期、栄西が宋から持ち帰った茶を栂尾山に植え、ここで茶の栽培を始めた。それゆえ○○が「茶祖」、栂尾が茶の発祥地と言われる。
以来、栂尾山の茶は「本茶」と呼ばれて珍重され、茶の栽培は「宇治」などにも伝わった。こうして茶は、嗜好品として広く人々に飲まれるようになり、室町時代に「茶の湯」を生む土壌が育まれたのである。そして、約800年の時を経た現在も高山寺では茶園が営まれている、という訳だ。ちなみにこの茶園は、宇治の篤志家、つまり慈善心のある親切な人達の手によって維持されていて、高山寺の意外な歴史に彩りを添える役目を果たしている。さてここで、非常に難しいクイズだ。高山寺の開祖でもあり、日本に茶を広めた茶祖でもある僧の名は? ・・・・・。正解は「明恵(みょうえ)」上人だ。これを知っていた人には敬意を表したい。
もうひとつの「鯖街道」である福井県小浜市まで続く「周山街道」に面して建つ高山寺の燃えるような紅葉は、主に楓(かえで)が織り成す錦でその美しさは特筆ものだ。僕も若い頃、この時季になると決まって足を運んだ思い出がある。感動的なのは、紅葉の間から木漏れ日が射す表参道。また、秀逸の苔や北山杉などもカメラに収めるには最高の題材だろう。楓紅葉が幻想的な雰囲気で高山寺境内を覆う様は、まさに京錦秋の誉れだ。この地に行かれる際は是非、お茶にまつわる歴史も一緒に味わって頂きたい。より旅の深みが増すと思う。なお、日本で一番茅葺屋根が多い町・美山町は、周山街道をもう少し遡ったところにある。そこの「摘み草料理」は今、旅人の評判になっている。以上、栂尾・高山寺は庶民のお茶の故里だった、というお話しでした。
巷では今週も、鳥取・口先詐欺女(35歳、元スナックホステス)&東京・婚活サイト同情詐欺女(35歳、無職)の睡眠導入剤などを使った不審死事件がメディアを賑わせているが、整形・市橋容疑者大阪で逮捕&島根県浜田市の女子大生殺人事件も含めて、社会の闇が益々深さを増して日本中に浸透している事実を今更ながら実感させられる。また、東京の詐欺女が「(婚活サイトに)簡単に騙される方が悪い」と平然と言ってのけたのには、僕は唖然とした。そして、思わず背筋がゾッとするような不気味さと後味の悪さを覚える。男も女もワル、ワル、ワル。どこにでも潜む「百鬼夜行」とはまさにこのこと、ではないだろうか。
他では、奈良県桜井市の「卑弥呼の館」の新事実、南北朝鮮・艦艇銃撃戦などもインパクトがあった。でも、相変わらず頬が緩むのはスポーツの分野だ。ウインタースポーツのスピードスケート・女子W杯での小平&穂積選手の活躍は、メダルの色から、次の大舞台での更なるステップの可能性を感じさせてくれる。こんな若い選手がもっともっと出て来て欲しい。かと思えば、スポーツ選手だけでなく、我々も全身で存在感をアピールしようとする「詩のボクシング」も、僕は大いに結構なことだと思った。なにかにつけて、世界ではまだまだ日本人はアピール不足。グローバル化した世の中では、正々堂々と自分を表現する度量の広さが必要だ。その点、今日来日した米・オバマ大統領は、世界最高レベルのいいお手本になる。
アピール力狙いと採れそうなのが、3つのワーキング・グループに分けて、この国の447事業の「仕分け」を突貫工事で行う行政刷新会議のフルオープン見直し判定だ。これは、見ものだった。「元の木阿弥はない」との方針で臨んだ問答無用の蓮肪(れんほう)参院議員らの斬り口鋭い「ツッコミ」は、まさに「ナニワ受け」する迫力があった。天下りも容赦なく斬った。これも新政権の目玉だ。非常に結構なことではある。もっと斬れ、もっと斬れ。
そのせいで、すっかり錆びれてしまった「脱官僚依存」の鉄剣の旗印が忘れ去られ、「スピード感を持ってやるには、なる人がいなければ仕方ない」といったような意見を正当化してしまいかねない雰囲気もある。しかし、新政権の体質が元の木阿弥になるのは国民は望んでいない筈だ。果たしてこれは、鳩山&裏の闇将軍・小沢一家の演技か本質か? 我々の判定は、いよいよ佳境に近づいて来た。翻って今日は、「存在そのものが既に演技」だった人の話しだ。
俳優で「屋根の上のヴァイオリン弾き」の舞台などで知られる森繁久弥さん(96歳)が11月10日午前、老衰のため東京都内の病院で亡くなられた。恐らくこれは、天寿を全うした深く安らかな眠りであったろう、と僕は想像する。また、そう思えるほど離れて看取る「おくりびと」が日本中に集っていることだろう。ここに謹んで故人のご冥福をお祈りしたい。森繁さんは、わが街に隣接する枚方市の出身で、高校時代は大阪の名門・北野高校で過ごし、(中退はしたものの)早稲田大学に進学する、という僕の理想とする青春勉学コースを歩んだ「近くて遥か遠き人」だ。それだけに、またひとつ昭和の灯が消えたとの思いが強くする。
森繁さんの「役者としての功績」を今更僕がここに紹介する必要はないと思うので省略するが、こう思わせるくらいラジオ、舞台、映画、テレビで大活躍した森繁さんはまさに、戦後のマルチタレントの先駆けだ。芝居人としての森繁さんの特長は、軽妙さとペーソスが溶け合った演技力にある。特に、サラリーマンの本音と建前を見事に演じ切った感がある「社長シリーズ」の人情喜劇は一世を風靡し、渋さとユーモアと哀愁を兼ね備えた名演技は、世間の評価を高めた。これは、僕でも知っている。ただ、御大を案外知らないことも多い。
ということを踏まえた話しをすれば、僕は森繁さんの人柄が好きだった。でも残念ながら、舞台や映画などほとんど観ていない。なので、森繁さんその人を熟知している訳ではない。あくまでも僕が知り得ているのは、今までテレビなどで報道された森繁さんの「人となり」だ。だけど、演劇に関する数々の受賞者であることは十分承知している。勿論、もう二度と現れることのない名優であることも。まっ、この程度の知識で森繁さんを語るつたなさは、失礼千万でお許しを願いたいと一言申し上げておく。それでも僕は、ここで森繁さんのことを大いに語りたくなる。
僕が数ある森繁さんの功績の中で一番評価したいのが、あの名曲「知床旅情」の作詞・作曲者であること、だ。これを抜きにして森繁さんは語れない。「知床旅情」は、元々地元で歌い継がれていた伝説の俗謡がベースになっている。とは言え「知床旅情」は僕にとって、我が愛する「旅」に関する全ての要素がいっぱい詰まった「完璧」の愛唱歌であることに変わりがない。だから僕の中では、谷村新司さんの「昴」に匹敵する聴き応えのある名曲として、ずっと今でも聴き惚れている。要するに文句なしの歌なのだ。
思えば、今ではスポーツ以外で唯一無二の趣味である旅が好きになり、旅に目覚めた青春時代の入り口には、常にこの曲があった。つまり「知床旅情」は、僕の旅にまつわる言わば「登竜門」としての役割を果たしてくれた曲、なのだ。僕と同年代でしかも旅好きの人間であれば、この曲の存在を隠せはしないだろう。振り返ればあの日、あの時、あの場所で、「知床旅情」は知床の歌であっても知床だけではなかった、とも言えるありとあらゆる様々な旅の場面で、僕らの心にそっと寄り添っていたのだ。という印象が僕にはある。その場面で傍にいたのは、恋人、友人、同僚、家族などなど。そう、だから言おう。いつかのブログで書いた加藤和彦さんの「あの素晴らしい愛をもう一度」が青春時代の僕の「忘れじのメロディー」ならば、この「知床旅情」は文字通り僕の「忘れ得ぬ旅歌(詩)」だ、と。
僕はこの曲を主に加藤登紀子さんの語りで聴き、そして友と歌った。その加藤さんがしみじみこう語っている。「ほんとに寂しい。年齢を重ねてから益々可愛いおじいちゃんだった。100歳まで生きて欲しかった。『歌うように語り、語るように歌え』というのが森繁さんの教え。『知床旅情』も歌わせていただいた。何度も声を合わせて歌い、感じたのは、(旧満州へ渡った経験があることから)大陸の大きさと日本人の優しさ、男のロマン、そして色気でした」と。なるほど絶妙なコメントだと思う。そのように加藤さんの語りは感動的だ。本人の語りも深い味わいがあった。あの独特の声色を真似て飲み屋で歌い、客の喝采を浴びたことが今となっては僕の懐かしいエピソードだ。
図らずも加藤さんは、森繁さんは男のロマンを持った人だと言った。僕も言いたい。そればかりか森繁さんは、多感で悩み多き青春時代の当時の僕を、心が癒される旅のロマンへと誘ってくれた「偉大なる水先案内人」ではなかったか、と。つまり「知床旅情」の奥底に流れているテーマは、まさに旅のロマンであり、今の日本には希有な多くの「人の優しさ」だ。「♪知床の岬にハマナスの咲く頃、思い出しておくれ俺達のことを、飲んで騒いで丘に登れば、はるか国後に白夜は明ける♪」 そしてそこにあるのは、今の世にあってこそ人がひしひしと感じるべき「大自然の優しさ」ではないだろうか。それを求めて、人は旅に出る。これぞ、森繁ワールドの真髄だろう。
森繁さんの曲に心魅(ひ)かれて、当時の若者は北の大地のみならず、皆全国各地に旅立った。まるで「知床旅情」に誘惑されるが如く。若者だけではない。時の右肩上がりの経済を背景に、「知床旅情」は世代を超えて旅人を旅愁、郷愁、抒情、憧憬などなどのロマンに誘ったのだ。ひょっとすれば、あの頃の大旅行時代の先導役が「知床旅情」だったのでは、とも思える。そして、行く先々で巡り会った大自然と人の情けの良さを称賛するのが時の未知との遭遇だった。しかし、それから間もなく本来の森繁ワールドはだんだん廃れて行った。すなわち人の心と自然環境破壊だ。「ディスカバージャパン」とは名ばかり、心ない「観光客」の影響で傷つくロマンの地。でも今日は、この弊害は書く気はない。なぜなら今回のテーマの主役はあくまで、森繁さんであり「知床旅情」なのだから。
旅情の世界に誘う曲が他にもある。例えば曲名だけだと「♪遠くへ行きたい」「♪いい日旅立ち」など。これなども旅の歌としては極上でお馴染みだ。なので僕なりの思いをもう少し語りたい気持はある。が、今日はもう残された時間がない。と言うより、「知床旅情」でもう十分だ。この主役が、時の世間に訴えた旅の情けは計り知れないものがある。前述した通り我ら世代の旅好きの人にとっては、この曲抜きして、それは語れない。という意味で、天国に逝かれた森繁さんには「ありがとう」と優しくお礼を言いたい。続けて言う。お疲れさん、森繁さん。貴方の「知床旅情」は、永遠に不滅です。
森繁さんの死を脚本家の倉本聰さんは、「『存在そのものが既に演技』という希有な役者さんだった。社会的に評価が低かった役者稼業を、芸術という領域に高めていった人でした」と絶賛した。一方、作家の藤本義一さんは、「僕にとって大師匠。気遣いが細やかで、深い優しさを持っていた人。でも、会うとボケたふりをしたり、僕と握手しながら隣りの女性のお尻を触ったり。人間として『見事に人生を完結』された気がする。うらやましい」と語っている。
今日も終わりに近づいた。まだまだ言いたいことがいっぱいあるけれど、大阪のドン・藤本さんの言葉そのままに、見事に人生を完結された森繁久弥さんが生みの親の名曲「知床旅情」が、旅好きの人にとって、これからも「完璧の歌(詩)」であることを祈念して、今回のこのブログを終えたい。そうすれば、知床の「ピリカ」も「白いカモメ」も笑ってくれるだろう。それに応えて、きっと森繁さんは天国の屋根の上で、ヴァイオリンを弾いてくれているに違いない。合掌。
※ところで最後に「ブログ休止」のお知らせだ。個人的に期することがあり、次の仕事に向けて11月下旬から夜、とある教室で学ぶことになった。なので、どうしても時間が取れず、しばらくの間このブログを休止することにした。とにもかくにも、あくまで再開は僕次第。「継続は力なり」をモットーにしてきただけに不本意ではある。が、日数が少し空くのもまた、継続への充電期間だと思っている。じゃあ、しばらくの間ごきげんよう。またお会いしよう。