「/(スラッシュ)」

ナニワのオッサン 怒りのエッセイ!!

/105.私達は本当に自然が好きか(アウトドア派からの反発)

2007-06-30 17:23:08 | Weblog
 ミートホープ社はやはり不正三昧だった。しかも24年前から。食品業界も不可解なことが多い。ずさんな年金記録の社保庁。民間ならばもうとっくに破産だ。住民税、どうして高いの? スポーツ特待生制度は本当に必要なの? 大阪市職員の学歴詐称(大学卒なのに高校卒)、自分の履歴を偽ってまで、何故? 疑問三昧だ。
 役人の天下り。公益・特殊法人から民間まで、彼らは「わたり」鳥。この渡り鳥は、「迂回」もするし「抜け道」も通る。だがもうじき、「絶滅危惧種」になる筈だ。宮沢喜一元首相死去。東大から当時の大蔵省主計局へ。このルートは、超エリート官僚が通る道だと公務員時代に聞かされた。でも、僕の目には一昔前の政治家のイメージ、ただの良きオッサンとしか映らず。時代は流れている。

 次に、僕にとってインパクトがあった出来事。長野県小谷(おたり)村のトンネル内で、自転車での日本一周を目前にした80歳の男性が交通事故死した。彼は、愛車で同県小川村の自宅を出て北上し、北海道を回って南下。日本各地を巡って目標到達まであと40キロのところで事故に遭ったという。
 彼は、数年前に古い民家を借りて東京都内から移住し、その後「みすずかる信濃」で一人暮らしをしていた。今回の自転車旅行のきっかけは、2ヶ月かけた一昨年のドイツ一周。これで大いに自信がついたらしい。生前、彼はこう語った。「亡くなったかつての戦友には青春がなかった。彼らを偲んで、彼らのために青春をしているんです」 更に、「これからも夢をたくさん持って、悔いのない様に生きて行きたい」 こうも語っていたという。なのに、あと僅かで日本一周という夢の途中で彼は逝った。・・・・・。
 僕は、戦友という心の絆を持たない戦争を知らない世代だ。しかし、高齢にも拘らず、都会を離れて一人で田舎暮らしをしながら、サバイバルに近い、自転車で日本一周という自分の夢を育んだ彼の生き様には、大いに共感を覚える。近未来に、僕はそんなサバイバルを考えている。天国へ旅立ったのは残念だが、彼には勇気を貰った。信濃の空に向かって合掌。

 このブログを書き始めてから本当に新聞をよく読む。しかも、紙面の隅から隅までだ。人から見れば熱心に読んでいる様に思われるだろうが、客観的に見れば恐らく乱読の類だろう。覚えたことがすぐ右から左へ抜けて行く。真剣に読めば、半日はかかるだろう。でも、僕にすれば、乱読せざるを得ない内部事情がある。昔と違って、今は暇がない派遣社員の身。それこそ数分の時を惜しんでいるからだ。だから必然的に、短時間に集中して紙面と格闘しなければならない。こういう読み方になるとそれがまた楽しい。
 若い頃であれば、自分の好きな記事を選択して、一般紙とスポーツ紙などを読み分けた。ゆっくり読んだり、早く読んだり、自由自在だ。時には、得意分野のクイズネタを探して読んだりした。数多くのクイズ番組に出場出来たのも、もしかしたら新聞の功名かも知れない。 今購読しているのは、朝日新聞だ。この一年間は随分とお世話になった。一言で言うなら、この期間、朝日新聞と共に同時進行したお陰で、僕自身かつてないほど社会勉強させてもらった。ブログの参考となる様な記事を提供してくれた記者に感謝し、なおかつ朝日新聞に有難うと言いたい思いがする。

 その朝日新聞から、また今日の「/」のネタを貰った。「私たちは本当に自然が好きか」・・・・・先日、僕のハートを刺激するこんなタイトルの新刊が、ある文芸評論家の評と一緒に紹介されていた。僕は、自然という言葉には常に敏感だ。「旅」と並んで僕の大好きな言葉でもある。しかし、今回は素直にその言葉に反応出来なかった。タイトルが「本当に自然が好きか」ということは、間違いなく疑問形だ。語尾に「?」マークが付く。「自然が好きか嫌いか」ならまだ良かった。
 僕はピンと来た。これは絶対、自然好きの人間を暗に批判する本だろうと。僕は、この手の本は興味はあるが大抵は読まない。自分の気持を「さがな目」されている様で、非常に気分が悪くなるからだ。そうでなければいいが・・・・・。 案の定、文芸評論家の評は、勿論悪意はないだろうが、僕にとっては厳しくもあり、判断が難しくもあり、反面嬉しくもある内容だった。それをそっくりここに書いてみよう。少し長いがインパクトがある。

 「自然好きと自認(自任)する人は多いと思うけれども、はたして私たち日本人が真に自然好きかとなると、じつは甚だあやしいのである。証拠はいくらだってある。思い出してみてほしい。あなたの住まいの近隣で、近年どれほどの樹木が消えたかを。マンション建設のために伐採された屋敷林。駐車場などに転用されて消えた社寺林。落ち葉や日影を理由に強制的に剪定されて、見るも無惨な姿にされた街路樹」 ここまではその通りだろう。僕も同感だ。突然、先日このブログに書いた、見て見ぬふりをする不動産業者に、何の前触れもなく根こそぎ処分された、近所の「セミの木」こと「ソメイヨシノ」が頭に浮かんだ。人間の飽くなき欲望の追求により、今は跡形もなく無味乾燥した駐車場になっている。人間の身勝手に怒りを覚える。

 「本書のキーワードはみどりである。原生自然(人の手の及ばない原始の自然)ではなく、ある程度人の手が加わり、人とのかかわりをもった環境自然(樹木、森林、庭、公園、山など)がここでいうみどり。経済発展や生活向上のためには、みどりを排除するのが当然であるかのような都市開発への疑問が論の基調をなす」 (中略) 「植物の生育条件に恵まれ、国土の66%を森林が占める日本では、みどりに対する渇望感が逆に薄かったのかもしれない。その価値観を変えるには、環境問題のみならず、歴史や文化の面から見たみどりの価値に気づくのが先決。その要求に120%応えてくれる本である」
 いいではないか。僕も常々こう感じている。これはきっといい本なんだ。僕の判断ミスだった。是非読んでみよう。僕はそう思った。

 だが、僕は文芸評論家の評に対して、さっき案の定と言った。そう言ったからには素直に喜べない記述もあったのだ。それは次の部分だ。 「ことは景観の変化にとどまらない。たまの休日に日帰り旅行に出かけ、やっぱり自然はいいね。リフレッシュするね。などと伸びをしたところでその実感は、車で出かけ峠で山を眺めて新鮮な空気を吸い、渓流の釣堀で養殖魚を釣ってアウトドア派と自称する程度の私たち」 これが僕の案の定の正体だ。当該本を読んでいるかいないかや評者の真の意図は別として、僕にはこの部分が大いに引っかかる。

 断っておくが、この本がきっと素晴らしい内容の本であることは、容易に想像がつく。しかし、「自称アウトドア派」の僕が、この評者に反発するのは、「本当に自然が好きか」「・・・・・やっぱり自然はいいねとアウトドア派を自称する程度の私たち」 この2ヶ所の「言葉尻」であり、言葉のニュアンスなのだ。だから、この反発は大人気のない、大した根拠もない、言わば、ただ見た目だけの子供の喧嘩「程度」の発想かも知れない。よって、いいことも書いてくれた文芸評論家のことは、きっぱりと水に流してくれた方が良さそうだ。

 さあここからが本論だ。まず2ヶ所の言葉尻の1点目、「本当に自然が好きか」について、僕なりの意見を言わせてもらおう。長くなるといけないので簡潔に述べよう。 僕は自然が好きだ。この言葉一つで、相手に充分僕の気持が伝えられると何時も思っている。しかし、いったい何処まで自然が好きかと、好きの程度を相手に問われれば、かなり返答に困るだろう。あるいは答えられないかも知れない。また、一般的な会話では、そんな程度問題などを追及する人はそうはいないのではないだろうか。
 ここで僕が重視するのは、自然が好きですかと問われた時、「ハイ」と胸を張って答えられる人は、「自然を愛する優しい思いやりの心」を持っていなければならないということだ。これは、自然好きの人の絶対条件だと僕は思う。また、そんな心の持ち主でないと「本当の自然の良さ」は分からないものだ。もし仮に、私は自然が大好きなどと、さも人聞きがいい通り一遍の発言をする人が、旅に出て行く先々の大自然の中で、つい我を忘れて野生動植物を傷つけたり、ゴミを捨てたりしていたのでは言わずもがなだ。こんな人間は、独りよがりのエセ自然愛好家だろう。いかにも世間に居そうなこれらの人が集まると、自然はすぐ破壊されてしまう。そういう意味では、僕自身は自称ではあるが、相手(自然)を思いやる心と感性を持った、自然大好き人間だと自負している。

 もう一つ気になるのが、「たまの休日に日帰り旅行に出かけ・・・・・アウトドア派と自称する程度」の私達の存在だ。これも、さっき言った様に自然を思いやる優しい心を持った人ならば、この程度で何ら問題はないだろう。それに、日本中の大多数の人々は、この程度のアウトドア派。特に、多忙なサラリーマンなどはこうするより他に選択肢がない。それこそ、日常の煩わしさを逃れて、たまの休日の非日常を楽しむのが常套手段だろう。そして、それが日頃のストレスの吐き出し口だ。主婦しかり学生しかり。
 もし、アウトドアを存分に楽しもうとするならば、僕の様にサラリーマンを辞めて、ある一定期間、しかるべき場所で生活するのが一番だ。だが、そんなアウトドアを実現する人は極少数。ほとんどの人は実行不可能だ。また、実行にはかなりのプレッシャーがかかる。それが、人生のストレスに繋がる人もあながちいないとは言えない。人は出来得る限り、日常の中で非日常を楽しむ方がいい。非日常が長く続くと辛く寂しいものだ。そのことを僕も海外での一人旅で経験済み。
 だいいち、アウトドアを自称する程度を脱却しようと思えば、アウトドアの専門家か、そんな職業を生業とする人間になるしかないだろう。僕は、そんなことをしてまで真のアウトドア派になりたくない。飽くまでも身の丈に合った、破鍋に綴蓋のアウトドア派志向だ。そして、アウトドアを楽しむ場所は、近所の街外れから日本全国、時によっては外国と多種多様。それでいいではないか。

 今日はたまたま大人気ない、勘違いの新聞記事への批判になってしまった。何度も言うが、評論家の意図は他にある。しかし、翻って「本当に自然が好きか」という問いかけに敏感な日本人が、いったい何人いるのだろうか。僕はそのことの方についつい思考が行ってしまう。今の日本に、本当に真に自然を愛する人が増えたとするなら、それは僕の理想社会、桃源郷だ。僕の考えでは、そんな桃源郷には、いじめも、金儲け主義による過当競争も、巷で頻発する人間の愚かな犯罪などありとあらゆる日本の社会悪もない。欲が抑えられた人間味ある明るい社会だ。とても実現しそうにないと考えるより、そういった理想を追求するのもまた人間の良さだ。少なくても、何も言わない大自然はそのことを待ち望んでいる。「君達、本当に自然が好きか」 こう言っているに違いない。

 ひょっとしたらあの本は、果たして何人が真の自然好きかとなるとはてなマークが付く、今の日本人へのアンチテーゼなのかも知れない。自然好きの程度も、アウトドア派の程度も、その他大勢の域を出ない僕は、あの本を読む価値が充分あるだろう。そう考えると、僕への警告本を思わず購入したくなる。「やっぱり自然はいいね。リフレッシュするね」などと呟きながら読んでみようか。今日のエアロビクス自転車の目的地は、アウトドア専門書を売っているご近所の本屋さんだ。紹介してくれた朝日新聞に再度感謝する。

 最後に、今日取り上げた「私たちは本当に自然が好きか」の新刊は、6月29日付けの朝日新聞「天声人語」にも紹介されていた。僕がそれに先んじて、このブログの原稿を書いたのは、6月27日の水曜日の夜だ。ブログを発信するのは今日土曜日。タッチの差で先を越されてしまった。やはり僕は朝日新聞の二番煎じ。プロには敵わない。残念。

/104.温泉施設爆発事故(and自転車事故)

2007-06-24 12:41:05 | Weblog
 自民党単独による改革の波が押し寄せて来ている様だ。数の論理に身を任せて、強気強気の安倍さんは、きっと国民が視野に入っていない。スポーツでも何でも独走は良くない。 大阪の郊外狭山(さやま)で、ヒメボタルの光が点滅した。市民の長年にわたる努力で、やっとの思いで生息場所が確保出来たホタル達。街中の小さな自然、小さな共生の姿だろう。この光は、永遠に消し去りたくはないものだ。

 最初はグー、ジャンケンポン。大阪は「インジャンホイ」だ。日本の言葉の底辺は広い。方言も混じってジャンケンの掛け声も様々だ。東京は「チッケッタ」、茨城は「ジャンケンジャガイモサツマイモ」 長過ぎる。鹿児島は「ジャンケンオス」 挨拶にも使えそうだ。面白い。もっと笑える掛け声がある。島根の「ヤッキッキッ」 青森の「キュッキュノキュ」 思わず吹き出しそうだ。 方言は国の手形。故里のなまりを大切にしたいものだ。

 なまりだけならまだしも、一つの会話自体が全く分からない地域もある。僕のつたない経験で言えば、印象的なのは青森、鹿児島、沖縄の3県だ。特に、青森の弘前はちんぷんかんぷんだった。お年寄りの会話だけならともかく、若者の会話すら理解出来ない。南部と言われる八戸辺りではそうでもなかったが、弘前はなまりがとにかく凄い。お陰で僕は旅先での話し相手を、何も言わない林檎の花に求めた位だ。そう言えば、お岩木山を背景に、弘前は今頃青く可愛い林檎の実が育ちつつある時期だろう。
 そのお岩木山には、山頂付近までバスが通じており、歩いてすぐお山のてっぺんから弘前平野の全貌をパノラマ出来る。津軽海峡と白神山地の緑が鮮やかだ。思わず石川さゆりさんの曲を歌いたくなる。そんな時はやはり、ヒバの大混浴風呂がある酸ヶ湯温泉などに入って、ゆっくりと過ごすのが旅の醍醐味というものだろう。

 ちょうど一週間前、僕がよく行く尾張名古屋出身のオバチャンがやっている門真市のお好み焼き屋さんで、友人と温泉談議になった。相手は、そこで5年前に知り合い、今や旅行の友、飲み仲間となった某氏だ。彼とは人目会ったその日から気が合った。僕と共通点が多いからだ。どちらかと言えば体育会系の人間で、若い頃は北の大地の牧場で働き、競馬の調教師を目指したと言う。また、大のバイク好きでアウトドア派。僕より少し歳は上だが、僕同様見た目は凄く若い。類は友を呼ぶというが、この二人の関係はまさにそのまんまだ。
 それはさて置き、彼は会社員時代にメンテナンスの仕事で腰を痛め、今はそれが持病になっている。それを治すいい温泉が、何処かにないかというのが事の発端だ。僕は自分の経験から、断然「草津温泉」がいいと主張した。しかし、彼は熱い温泉が苦手。(実は僕もそうだ。かつて草津温泉で、例の湯もみ温泉に入る前に、湯の熱気でのぼせてしまったことがある)それに加えて、彼の口から草津温泉に関する良からぬ本当の噂話が出た。かなり前にテレビなどで放映された「湯の花事件」だ。

 「♪草津よいとこ一度はおいで♪」 上州群馬の草津温泉で、地元の湯の花販売業者が、実際は、原油を精製した際の副産物である硫黄や炭酸カルシウムで作ったにも拘らず、土産物の包装には、「天然湯の花100%」などと「偽表示」をしたという事件だ。この業者は景品表示違反で、公正取引委員会から排除命令を受けた。何処の温泉地にもありそうな事件だが、どうやら彼の頭には、このことがこびりついて離れず、それで草津温泉の印象が悪かったらしい。

 話のついでに書くが、彼の口から出た湯治による治癒効果のある温泉は、湯量が日本一の大分別府温泉、自然との調和が素晴らしい北海道登別温泉、元祖岩盤浴の秋田玉川温泉、同じく田沢湖の奥にある乳頭温泉郷などだった。いずれも日本を代表する温泉情緒たっぷりの湯治湯だ。この話、最終的には僕の説得で、来年の秋にお好み焼き屋のオバチャンと、とある女性も含めて、4人で草津湯畑の洗礼を受けようということで決着した。2泊3日、交通手段は格安の高速バスだ。最近の情勢から若干の不安はあるが、普段の行いが非常にいい2人の企画ならば、間違っても事故には遭わないだろうと都合のいい理由も言っておいた。ホントはこれが事故を招く元。でもそんなことを言っていたら、全ての人が遊びに行けなくなる。世の中最悪を考えればキリがない。

 草津温泉には過去5回行ったことがある。関西から行くには、ちょっと中途半端な位置関係だ。でも、あんないい温泉が近くにあれば、僕は何時でも出かけるだろう。と言うのは、僕が草津温泉に行った全てにおいて、湯の花効果の恩恵を充分に受けたからだ。僕だけかも知れないが、それにしても草津温泉の効能は凄い。若い時は、吹き出物やニキビなどが一晩で治ったほどだ。こんな即効性のある温泉は、僕は他に知らない。あの強酸性の熱い風呂と湯畑を包み込む様な強烈な硫黄の臭いは、まさに草津ならでわの風情、一大叙事詩だ。そんな感覚と「草津よいとこ・・・・・チョイナチョイナー」のメロディーが相まって、僕の草津温泉のイメージはすこぶるいい。恐らく彼の腰痛は、2泊3日のチョイナ、チョイナーで完治するだろう。楽しみなことではある。

 そんな温泉談議から一週間も経たない内に、とんでもない事故が起こった。東京渋谷の温泉シエスパ爆発事故だ。白昼の都心の繁華街に爆発音が轟いた。施設の壁や屋根がほとんど吹き飛び、女性従業員ら3人が死亡、更に周辺の通行人を巻き込む大惨事となった。朝日新聞によれば、事故の原因は、地下から汲み上げた温泉水に混じった「天然ガス」が施設に充満し、何らかの作用で引火したことにある。
 南関東一帯の地下には、南関東ガス田が広がり、地下1千メートル前後を中心にそれ相当の埋蔵量があると推定されている。成分のほとんどは「メタンガス」だ。通常は高圧の地層中に水に溶け込んだ状態で閉じ込められているが、たまに地上に噴き出して事故の原因となることがあり、過去にもその様な事例があるということだ。

 ここ数年首都圏では、スパ施設やスポーツクラブなどで女性専用施設が増加している。今回爆発を起こしたシエスパも、こうした流れの中でオープンしたらしい。この温泉施設の増加傾向は、僕の地元関西でも顕著だ。豪華な設備を満載した天然温泉は、我が家のある寝屋川市内にも多い。関西の特徴は、高温の湯を汲み上げるため、地下1千メートル前後も深く掘る天然温泉をうたい文句にする日帰り温泉が主体だということだ。いわゆるスーパー銭湯もこの部類に入る。中でも大阪府は、温泉法に基づく温泉施設は75ヶ所と5年前からほぼ倍増している。こんなに増えているのは、温泉の掘削技術の向上で、それに要する費用が一時期の半額程度まで安くなったことにあるということだ。いずれにしても、怖いのは天然ガス引火に伴う爆発事故やガス漏れによる中毒事故だ。天然温泉の掘削は、湯だけではなく、爆発の危険性も一緒に汲み上げている。このことを想起すべきだろう。都会では今回の様な繁華街が多く、周辺の住民を巻き込む可能性が高い。スーパー銭湯などは、我々にとって身近なレジャー施設だけに、業者の日常の安全管理が欠かせないことは言うまでもない。今回も爆発事故によって、将来のある若い命がまた失われた。悲しいことだ。

 僕もこの前、例の彼と今度寝屋川にオープンしたスーパー銭湯に行こうなどと話していた。明日は我が身だ。もう一つ言いたいことがある。それは、これらの温泉施設のために、地下1千メートル前後も深く掘削するということは、当然地下、地殻の地層自体が、金儲け主義の犠牲になっているということだ。大阪府の地下もかなり傷んでいるに違いない。地下水の枯渇も心配だ。大自然は地上だけではない。地下にも我々の知らない大自然がある。そのしっぺ返しがもっと心配だ。

 東京の爆発事故に関連して、もう一つ気になっている事故がある。それは「自転車事故」だ。僕は、土日の日課として、自転車エアロビクスをしてから、よく横丁の風呂屋さんやスーパー銭湯に行く。そして、それが日常化している。つまり、自転車運転の行き着く先が温泉だ。だから、渋谷スパ施設の爆発事故も、他人事とは思えない。爆発事故が、自転車運転の延長線上にあると思われるからだ。その逆も言える。人は大抵、平凡な日常は怖くはないと認識している。しかし、今回の様なことが起こると、気が緩みがちな日常もまた怖いのだ。

 日常化している僕の自転車エアロビクス。淀川べりの河川敷は絶好の散策コースだ。自転車は、地球環境に優しいエコな乗り物。大げさに言えば、僕はかけがえのない地球に協力している。エアロビクスで、ちょっと酸素を吸い過ぎる難点はあるが。そのエコロジーの代表である自転車が、「運転者の不注意」で交通事故の加害者になるという事例が急増している。自転車を気軽に利用する我々から、日常の自己管理が欠如すると、最悪人の命を奪うという「犯罪者」になり得るのだ。重々注意した方がいい。特に公共マナーが乏しい人は要注意だろう。

 そもそも自転車とは何ぞや? 自転車は立派な車だ。法律では「軽車両」 だから当然、道路交通法では、基本的に車道の「左側」通行だ。そして、標識で自転車通行が認められている歩道以外は走行出来ない。もし走れる場合でも、極ゆっくり走り、歩行者が多い時は一時停止がルールだ。ベルをやたら鳴らすのも違反だ。例えば、オバチャンの「傘さし運転」「横並び運転」「幼児2人乗せ」「携帯電話掛け運転」 若いカップルがよくやる、後輪の踏み台に立って運転者の肩に手を添える2人乗り運転などなどは、場所によってセーフもあるが、大抵はアウトだ。

 僕が何故、長々とこれらの運転方法を書いたのか。それは、これらの公共のルールを多くの人が知らないからだ。名うての無法地帯、大阪などの都会では、あんな違反者が2人に1人はいる。堂々と道路の右側を走る人、歩道を我が物顔で突っ走る人。若者はそこに、「スピード」という悪魔を乗せて走っている。これら全ての人が、今激増している自転車事故の元凶だ。だから、あえて僕は紹介した。そしてこの危険運転者は、道路状況によって、加害者にも被害者にもなり得るという二面性を持っているのだ。この点、自業自得の人もいれば、そんな生やさしい言葉では片付けられない人もいる。アテンション、エコな乗り物も「犯罪車」に変身する。ここがミソだ。このことを声を大にして叫びつつ、全ての自転車運転者に注意喚起を促したい。

 確かに雑踏ばかりの都会では、安全運転するのも大変だ。道路の左端は側溝やマンホールなど障害物が多い。歩行者もルールを無視する人が多過ぎる。僕などは、両方の板挟みで、がんじがらめの運転を強いられている。だから自ずと比較的安全な淀川の河川敷コースを選ぶのだ。でも、やはり一番悪いヤカラは、安全運転も安全ルールも無視して、スピード運転する連中だろう。自転車による死亡事故も増えている。車と名が付くものなら何でも言えそうだが、日頃の安全管理と自己管理なくしては事故はなくならない。運転に際しては、今一度冷静な自分に戻って、自分の足と腕を最低限度に制御して、なおかつそれと同時に、自分の目で最大限の前後左右の周囲確認をする姿勢が必要だろう。加害者事故を起こせば、それこそ言い訳はご法度だ。全て自己責任、行き着く所まで行ってしまう。これが悲しいかな、道路交通法の基本だ。

 ところで、大阪では、ギンギラギンの派手な衣装に身を包み、「傘さし運転」「横並び運転」をする自転車オバチャンが多い。あの光景は、見ようによっては、微笑ましい大阪の風物詩だ。若い頃、派手好きだった僕は、何時もその光景を、好感を持って眺めている。 もう一つ感心するのは、若妻の「幼児2人乗せ運転」だ。そうでなくてもよく動く子供を、不安定な自転車の「カゴ」に前後2人も入れて走る姿は、まるで街頭のサーカスだ。体力、運動能力に自信がある僕だけど、あの芸当はとても真似出来ない。2人乗せどころか、時には「3人乗せ」の若妻を見かけることもしばしばだ。ああなるとサーカス以上。女は強いと感じる瞬間だ。その頼もしい姿に、思わず拍手を送りたい心境になる。

 しかし、その思いはつかの間、ふと我に返り冷静になって眺め直すと、改めて恐怖心が増す。事故にならないか、危ないぞという不安感だ。僕の心もガス爆発寸前。でも、彼女は今や家庭の大黒柱だ。それこそ生活を背負っている。それを知らない子供は上機嫌だ。果たして、あの3人乗せ運転がいいのか悪いのか、スーパー銭湯に入ってからゆっくり考えよう。こちらも、ちょっと危険な気もするが。

/103.見て見ぬふりをする日本人(歪んだ美意識)

2007-06-23 12:35:40 | Weblog
 食品関連会社の偽装が目立つ。新潟産コシヒカリに他県産の安い米を混入した、地元東大阪市の「日本ライス社」の偽装表示。牛ミンチ肉に豚肉を混ぜた、北海道苫小牧市「ミートホープ社」の偽装問題。いずれも、混ぜれば素人は分からない、儲かればそれでいいと、見て見ぬふりをしたトップの認識の甘さだ。労働者の再就職支援をする労働局が、就職面接の際に、「給料や休日などの質問を控える様に指導する内容」のテキストを受講者に配布。「藁をも掴む思い」の弱い立場の労働者を、暗に認めている様なものだ。馬鹿にしている。

 夏至が過ぎた。近所の田圃でカエルが元気に鳴き始めたというのに、気まぐれな梅雨の中休みが長くて暑い。早、水の恋しい季節の到来か。紫陽花も、心なしか色彩が薄く雨待ちの様相だ。紫外線が降り注ぐ中、子供達が水遊びをしている。僕の子供の頃の水遊びは川ガキ。青春時代の水遊びは海水浴。でも僕の場合、海水浴は、海辺の砂浜で甲羅干しをするのではなく、主に「磯遊び」を意味した。アワビ、サザエ、タコ。海に潜って、磯の恵みの大収穫だ。自慢の体力を生かして、一日中海底視察(実はドロボー)するのは楽しい。
 昭和40年代から50年代前半、当時の海は穏やかだった。今の様に、怖いヤカラが介入する監視人もいない。今だから言うが、例えば、ハマユウ咲く南紀串本の民謡に唄われる向かいの大島。橋杭岩(はしくいいわ)が見渡せる絶好の潜水スポットの磯には、日本最北端のテーブルサンゴがある。このサンゴ上にはサザエがワンサカ乗っかっていた。少し潜るだけで採り放題だ。岩場の隙間から、怖い顔をしてこちらを睨んでいるのはウツボ。そのウツボと海中のにらめっこだ。オレの縄張りを荒らすなとヤツらも必死。何回やっても飽きないし面白い。こんなスリルのある磯遊びもあったっけ。
 ウツボは、タコの天敵だ。タコは、アワビ、サザエが大好物。ウツボは、何故かアワビ、サザエを嫌がる。南紀の磯の典型的な三すくみだ。一度だけ、タコが集団でアワビを追い込んでいるのを見たことがあるが、その光景はまさにサプライズだ。その先には、袋小路で行き場を失ったアワビが、つるつるした(アワビはざらざらした岩には着かない)岩場にワンサカ「吸着」している。勿論、ヤスとマイナスドライバーを使って「一石二鳥」「一挙両得」だ。もう一言、特注の味。磯に張り付く「亀の手」のスープと混ぜご飯は絶品。本当に美味い。

 すっかり自分ワールドに入ってしまったが、なにわともあれ、あの頃の海には、磯遊び人にとって好都合な「見て見ぬふりをする日本人」がたくさんいた。平和で有難い時代だった。(今やれば、当然ブタ箱行きだろう)だが、時が流れた現在、そんな日本人の存在が、我々に疑問を投げかけている。「人を思いやる優しい心」を持って行動する。そんな当たり前の極自然な人間味のある行動。これは公共マナーの大原則だ。この当たり前の大原則を知っていながら、見て見ぬふりをする人が何と多いことか。大多数の日本人が、今大事な公共のマナーを喪失している。この大原則はまた、相手が人ばかりではなく、本来我々と共生して行かなければならない筈の、大自然やありとあらゆる生物にも当てはまる。

 先日、何時も僕が自転車で散策するコース上にある「庭に松の木が生い茂る廃屋」が取り壊された。もう人が住まなくなって5年以上経過していただろうか。「景観を害する」という近所の人達の苦情がその発端だ。仕方がないことではある。 しかし、仕方がないことでは済まされないことが同時に起こった。それは、僕にとって悲しい現実だった。 何と、廃屋の傍らで、毎年綺麗な花を咲かせていた1本のソメイヨシノが、根元から無残に切り取られてしまったのだ。かなりの大木だった。そればかりではない、そのソメイヨシノの周辺には、アブラゼミ、クマゼミ、今ではすっかり希少価値になったニイニイゼミが棲み付き、樹皮の色も艶やかな大枝や小枝に止まって、毎夏元気な鳴き声を我々に聞かせてくれていたのだ。勿論、松の木の腐葉土が、セミ達の生息しやすい環境を作っていたこともある。

 それから数日経ったある日、ソメイヨシノはブルドーザーで根こそぎ掘り起こされ、その後は跡形もなくコンクリートで固められてしまった。これで、ソメイヨシノの命も、セミ達の共演(競演)の場も完全に絶たれてしまったことになる。跡地は今駐車場になっている。空しい風景だ。僕は寂しい。あんなに皆に絶賛され、喜ばれていたソメイヨシノだったのに・・・・・。近所の人達の話によると、取り壊しに際しては、誰も反対意見を上げる人がいなかったという。と言うより、あまりに急なことなので、土地の持ち主である高慢ちきな不動産業者の思うが侭だったということだ。住民はただそれを見つめるだけ。不動産会社の人は、ソメイヨシノが周辺住民の癒しの木であることを知っていたらしい。ここにも見て見ぬふりをする日本人の姿があった。

 見て見ぬふりをする冷たい日本人。公共の場で、悪態をつく愚か者を前に、正義という大切な精神を何処かに置いてけぼりにして、ただ呆然と静観するがままの「我関せず人間」が世の中にはびこっている。これは明らかに世の不条理だろう。大人から子供まで、もはや日本人から、相手を思いやる優しい心が失われてしまったのだろうか。 この事例は日常茶飯事、多種多様だ。飲酒運転を助長する酒飲み仲間や飲食店主。電車内で、禁止されている携帯電話の使用者を完全無視する乗客やお年寄りに席を譲ろうとしない若者。困っている人に助け舟を出さず、身体障害者に配慮しない街頭の通行人。最近では、自分の在任中は無難に過ごそうと、年金記録のずさんさを知っていて、知らぬ顔の半兵衛を決め付けた社会保険庁の職員。などなど数え上げればきりがない。これだけ事例が多いと、いったい何が常識かという「善悪の区別」もあやふやになりがちだ。ひょっとすれば、正義が悪に負けている? 僕の身近でもこう感じることが多い昨今だ。 だが、よく考えてみて欲しい。人が人を見る公共の場では、最後に正義は勝つ筈だ。悪を見て黙っている世の中何て絶対おかしい。こう考えるのが世の中の、いや、人間の常識ではないだろうか。ここがあやふやになってしまっては、人間社会、モトもコもない。

 もう一つ、ディープインパクトを残した、見て見ぬふりをする事件があった。JR湖西線で起こった、あの冷酷人間による女性強姦事件だ。声もでかく話し方も荒い犯人は、一見力が強そうで不良者と分かる肉体労働者だったという。そんなヤカラが、最終電車に強姦目的で乗り込んで来た。
 この事件で肝心なのは、男性客の動向だ。いかに夜遅いと言えども、電車内はすっからかんではなくかなりの乗客がいた。そのほとんどが男性客だ。おまけに車掌も定期的に車内点検をする。この状況は、言わば密室状態ではなく、目撃者が多くいるという文字通り公共の場そのものの風景だろう。この中で強姦事件が発生した。 現に、痴漢行為から強姦に至る間、大半の乗客がその場面を目撃し、女性が助けを求めて泣いている声も聞こえていたという。こんな中で何とも情けないのは、現場に居合わせた男性客だ。一部の人間は、犯人に注意したらしい。注意の仕方がどの程度か詳細は定かではないが、いずれも犯人の威圧感と怒鳴り声に圧倒され、女性を助ける行為にまでは至らなかったということだ。

 僕は思う。こんなのは何処にでもいるヤカラだ。何てことはない。女性が助けを求める声を聞いた時、何故男性客何人かが結束して、犯人に立ち向かおうとしなかったのか。何故、見て見ぬふりをする保身に走ったのか。ここが問題だ。どちらにしても情けない人間ばかり。男の片隅にも置けない人物だ。犯人の目的は痴漢ではない。強姦だ。女性にすればこれ以上の屈辱はない。その強姦を目の前にすれば、一目瞭然、何が何でも立ち上がるのが男だろう。こんな時こそ、火事場の馬鹿力を出して、早急に犯人を取り押さえる勇気と行動で、正義感を示すのが男の本意ではないだろうか。僕だったら我を忘れてそうするか、成り行きを見て他の男性客に応援を求めるだろう。車掌を利用する手もある。それ位の勇気はある。人間、窮地の時こそ百人力が出るものだ。ともあれ、あの事件は日本中の人に深いインパクトを与えた。見て見ぬふりをする日本人の典型的な事例だろう。

 では何故そんな人間が増えたのだろうか。世の中が一見平和過ぎて、全体として女々しくなっていることも勿論あるだろう。もっと深いところの、深層心理までを追究しなければならない難題もあるだろう。僕にとっては、その辺のところは未知の世界だ。色々あるが、僕なりに考えて、その一つにテレビの影響があると思っている。テレビはこのブログで何度も登場した。僕に言わすれば諸悪の根源だ。そのテレビが「人間の良心を奪っている媒体だ」そんな風にも感じている。

 分かりやすく言えば、テレビは良いことも映すが悪いことも映す。ここが、テレビのいいところでもあり悪いところでもある。これはある意味仕方ないだろう。これに対して、大多数の視聴者が求めているのは、「肩の凝らない番組」だ。これらの番組は、大半が良い番組だとは言い難い。しかし、見やすい上に分かりやすい。すぐ頭に入る。ここがミソだ。悪いことは、バカな人間ほど頭に入りやすく実行しやすい傾向にあるのだ。その理由は簡単だ。彼らは、「肩の凝るいい番組」は見ないからだ。
 特に、興味本位の人間にぴったりマッチする、肩の凝らないバラエティー番組やワイドショーはその最たるものだろう。これらの番組には、大抵覚えなくてもいい様な悪い情報がたっぷり含まれている。悪い情報は、つまりは不条理の根源だ。そんな劣悪番組を見ると、人間はいい加減になる。いい加減になると、世の中の正義など何処かに吹っ飛んでしまい、皆善悪の区別がつかなくなるのだ。そういった悪循環を繰り返しながら、見て見ぬふりをする人間がじっくり培養されて行くのだ。これが、老若男女、いい加減人間形成のプロセスだと僕は思っている。

 特に、その影響をまともに受けるのが、若さと馬鹿さが同居する若者だ。テレビの虜になって罠にはまりやすい。例えば学校で、公共マナーを紙の上で学んで一応の理解はしていても、家でいい加減なテレビを見て、一人舞台のゲーム機で遊んでいる内に、正しいことなどどうでもいいという感覚に陥ってしまうのだ。
 テレビがお笑い人間を駆使して、いい加減な風潮を作り出しているといった雰囲気もある。質のいいブラックユーモアやトンチの効いた社会風刺ならまだしも、今のテレビ界は、ただただ視聴率一辺倒。過剰演出の虚構がサプライズの効用だと勘違いしている制作者も多い。

 若者だけとは言い難いが、話の流れで今日は若者を責める。若者の中には、間違った社会意識があるのではないだろうか。それは、「正しいこと」が、「かっこ悪いことだ」という漠然とした意識だ。僕は、何故か分からないが、こんな若者の一種の「美意識」を最近感じ取ることが多い。そして、正しいことを言ったり、正しい筈の行動をあえて避けている様にも感じる。
 そんな若者に言っておく。この歪んだ感覚は、到底「かっこ良さ」には繋がらない。真のかっこ良さは、相手に好感を呼び込むものだ。この点誤解のない様にと言いたい思いがする。若者よ。人を思いやる優しい心を持って、正しいことは自ら率先して行動する。これこそが、万人が認めるかっこ良さだ。独りよがりのかっこ良さはもういらない。
 僕がかつて見たドイツやオーストラリア、カナダやニュージーランドの若者、そして、あのヤンキーのアメリカや発展途上国のベトナムの若者でさえ、正しいことをするのが極自然なかっこいい行動なのだと認識する器の広さがあった。日本の若者もそれが出来ない筈はない。

 かと言って、大人が全部まともだと言えるだろうか。現状は大人も同じ穴のムジナだ。巷には、公共マナーもクソもない無責任な大人がワンサカいる。そんな大人はいい加減な子供を育てる。因果応報だ。大いに責任を感じるべきだろう。総じて、あれもこれも日本人の心の病がその根底にある。その病の行き着く先に、見て見ぬふりをする人間がいるのだろう。皆思い切って、正義を全うして生きようではないか。悪者の真の対抗者は正義しかない。

 歴史を振り返れば、平和な時代になると、男が弱くなりボケるという。弱くなった男を、強くなった女がどれだけカバー出来るかが今後の課題だが、女の特性を考えるとそれも大いに疑問だ。やはり男は強くなくてはいけない。間違いだろうか。これも見て見ぬふりをするのが得策? この疑問を世の男性に問いたい。

/102.居場所難民(派遣社員と団塊の世代)

2007-06-17 15:36:57 | Weblog
 最高気温が30度の真夏日を超えた日に我が家の朝顔が咲いた。朝顔は、季節の変わり目を本能的に知っているのだ。何気ない小さな植物に教えられることは多い。今日は外国のニュースから。もうすぐ引退する英国のブレア首相が、最後の恨み節。「人々の間に、政治や政治家ら公人に対する冷笑的な空気が絶えないのは、メディアに問題があるからだ」 この発言、一理あるだろう。日本もそうだ。真面目に頑張っている政治家もいる。そんな政治家もメディアは取り上げるべきだろう。けなすだけではメディアの存在が逆に問われる。 ドイツの石炭で走る蒸気機関車。僕はドイツが大好きだ。環境先進国なのに、あんなに走らせていいものだろうか。ちょっとショック。関西空港でトノサマバッタ大量発生。天敵を避け、彼らも生き残りを賭けている。

 今度は僕の好きな話題だ。市町村活性化のひとつに地域ブランドがある。農水産品が主体で、都道府県別では京都府がダントツで日本一だ。さすが京都だ。関東地区の人に聞いたアンケートで、行ってみたい観光地のベスト3(沖縄、大津・京都、函館)に選ばれただけのことはある。と言うより、街自体が日本、いや世界のブランドだ。京都を愛する僕は嬉しい。その「京漬物」のブランドの中で、僕の大好物が、恋に疲れた女が似合う大原の里で生まれた「柴漬け」だ。この柴漬けは、本来「ナスとシソの塩漬け」で、テレビのCMに登場する「キュウリの酢漬け」ではない。消費者も、全国の有名特産品には目が無いだろうが、この様な地域ブランドの実態を正しく理解して欲しいものだ。野沢菜同様、現地産の柴漬けは添加物が少なく文句なしに美味い。僕もよく車で買いに行く。我が愛用のママチャリで行ったこともある。白ご飯の主役として、お茶漬けの友として、何杯食べても飽きない味だ。この地域ブランドだけを目指す旅行者は多い。日本全国ブランドあり。ここが日本の良さだ。大原の里で柴漬けを食べる・・・・・しかも大原女の姿をした娘さんが接客してくれる、赤いじゅうたん(?)と和風日傘の店先で。山里の風景と相まって、これは絵になる光景だ。

 閑話休題。僕は今派遣社員だ。勿論、自分で望んだ訳ではない。人生の成り行きでたまたまこうなっただけだ。しかし、事実は小説よりも厳しい。他の例に漏れず、派遣先の会社では、面従腹背、肩身の狭い思いをすることが多い。決して僕自身が日々自分のことできゅうきゅうしている訳ではないが、僕の周囲の正社員が、肩身の狭い雰囲気を意識的に作り出しているという状況はある。

 そんな中、先日僕と同じ立場の人と、ギスギス感漂う人間関係を逃れて、ほっと一息つく休憩室で雑談をしている時、彼が突然何気なくこう言った。「俺達はホント居場所のない派遣難民だな」と。僕はドキッとした。さもありなん。彼の発言が、その日の僕の状況を、ものの見事に言い当てていたからだ。僕は、まさに図星を指される思いになった。何故なら、その日僕は、新入りの正社員にある仕事を急かされていた。正社員の高飛車な言葉使いと横柄な態度に僕は憤慨し、頭に血が上っていた。仕事は厄介で一筋縄では行かない。かと言って相談相手もいない。がんじがらめだ。どうしよう。こんな心境になっていた時、彼に休憩室で的を突かれたのだ。間違った意味で、渡りに船の発言とはこういう状況を指すのだろう。

 承知の通り派遣社員は、必ずしも正社員と同じ価値観を共有してはいない。そのため、仕事の話以外で、その場が盛り上がることはほとんどないというのが現実だ。また、互いの意見を交換し合う場も限られている。と言うより、派遣社員の方からも、正社員の方からも、腹を割って話し合えない雰囲気が、暗黙の内に会社内にすでに作り上げられてしまっているのだ。飽くまでも社員が全て優先、社員本意、派遣社員はカヤの外、そういう場だ。決して同じ土俵ではない。これは明らかにギスギス感だろう。 今は何処の職場にもあるとは言え、この雰囲気の中で仕事をするというのは、さすがの僕でさえかなり疲れる。一介の人生経験では語れない何かが存在する。並大抵以下の心臓の持ち主では、そのストレスに潰されるだろう。ちょっと大げさだが、これが大多数の派遣社員の日常だろうと僕は思う。

 だったら如何にせん。だけどまあ、こうなった以上は僕の身から出たサビ、自業自得、自己責任だと思って諦める以外に方法がない。こうなると、必然的に立場の同じ派遣社員と、日頃のうっぷん晴らしをするのが極自然の成り行きだ。もう一度言うが、そういう状況の中での彼の発言は、僕のその日の気持ちを見事に代弁していた。つまり僕は、低所得層の立場の弱い派遣社員にありがちな、相談相手のいない居場所難民状態だった訳である。(実際の僕はもっと正々堂々としているが)

 「居場所難民」この言葉から連想されるのは、何も僕の様な派遣社員などの非正規雇用者ばかりではなく、それこそ文字通り居場所のない日本全国の居場所難民群だ。難民という言葉は適切ではないという意見もあるだろう。が、この前このブログに書いた、四六時中親に監視され本来の居場所がない子供達もそうだろうし、また、現在の世の中には、大人の世界にもありとあらゆる所に居場所難民が存在している様に僕は感じている。その意味では、誰でも一度はこういう一種の「疎外感」を覚えた経験があるのではないだろうか。難民という言葉をあながち否定は出来ない。

 その様なあまた存在する居場所難民の中で、今日僕が「/」に選んだのは、「非正規雇用者居場所難民」と大量退職時代を迎えた「団塊世代居場所難民」だ。この二つの難民の動向は、僕にとっても非常に切実な問題でもある。現実に、派遣社員の真っ只中に今僕はいる。年齢がほぼ同じの団塊の世代を含めて、まさに他人事とは思えない。だから、この二つの居場所難民について、派遣社員という難民の立場から、ポイントを絞って僕なりの検討を加えてみたいと思う。

 まず非正規雇用者の居場所難民だ。色々見方はあるが、そのポイントとして、ここでは「労働運動の停滞」を挙げたい。全国の組合の組織率は年々低下し続け、今は約18%だ。こうなったいきさつは抜きにする。企業で言えば、非正規社員は全雇用者の33%、何と働く人の3人に1人だ。一昔前ならば考えられない数値だろう。この状況では、組合に入れない非正規社員に明日はない。

 そのために必要なのは、非正規社員の団結、すなわち労働運動再生のカギである「組合の組織化」だ。 これに関しては、早稲田大学の河西教授が興味ある提言をしている。教授によれば、この課題の解決策はそれほど難しいことではないらしい。彼は語る。「第一に、職場の労働者は毎日気持ち良く仕事がしたい。仲間の間に格差などない方がいい。そんな気持ちを誰もが大事にすること」 もっともだろう。 
 「第二に、非正規社員を組織化しなければ、簡単に言うと正社員の労働条件も低下して行く。この原則を正社員が自覚すること」 これも僕はよく分かる。日本国内の企業では、非正規社員が増加すれば、大抵の労働条件は非正規社員の方に揃えられる。だから、非正規社員の組織化は正社員にとっても死活問題なのだ。このことを知らない正社員が多過ぎる。我が職場もそうだ。
 「第三に、職場内の格差はやがて勤労意欲の低下を招き、いずれは生産性の低下にも繋がる。それを経営者側も自覚すること」 これも、僕は充分にそのことを感じている。職場内に格差があると、非正規社員は一生懸命に働く意欲と誇りを持てる筈がない。 以上の3点が、労使それぞれが「利益の共存」を目指す大きなポイントだろう。そして、この課題の克服こそ、真に非正規雇用者難民に希望を与えることに繋がるだろうと僕は痛感する。詳しいことは抜きにして、この方針に従って皆団結すべきだ。組合の組織化は、このことを何にも知らずに働いている人への啓発にも繫がる筈だ。
 これに関しては、中小企業の広島電鉄(広島市)が好例を示している。この課題の克服によって、見事に給料など職場内の格差を解消した。僕はそれをNHKの報道で知ったが、胸にジンと来るものがあった。 何処の職場でも出来ないことはない。皆頑張れ。もっと書きたいがこの辺にしておく。

 次は、今まで日本経済を支えて来た企業戦士、団塊の世代の居場所難民だ。もう団塊の人達の一部はリストラなどですでに退職している。仕事がなく我が家にパラサイトするその人達を対象にしても別段おかしくはないのだが、それだけでは意味がない。今日は今後起こり得る団塊の世代の退職後の現象について、近未来を僕なりに想像してみる。団塊の世代に関しては、男女問わず僕は寛容、寛大だ。子育てなどの失敗もあえて黙認する忠誠心も持っている。が、この世代の難民に限って言えば、ちょっとサプライズで、しかも寂しい思いがする。

 これを語るには、まず彼らの過去を紐解く必要がある。彼らは現役時代何をしただろうか。勿論大変な仕事をした。高度成長の立役者、大黒柱だ。しかし、その裏で、家族離れ離れの単身赴任。帰宅は良くて月1回。自宅通勤者ですら帰宅は朝帰りで子供はカヤの外。妻には言い放題。メタボリックシンドロームの原因である暴飲暴食。色々理由はあるにしても、自業自得の仕事慢性疲労で家族との絆はきうす。子育ても妻に丸投げ。定年後の人生設計一切なし。などなど。仕事という大義名分の下、好き勝手に振舞った。

 そして、ついに彼らは定年。夫婦揃っておめでとう。だが、様子がおかしい。突然目の前に現れた自由な時間も持て余し気味だ。そればかりか戸惑っているのは、現役時代、好き勝手に翻弄された妻ではなく、好き勝手に何のためらいもなく行動した夫の方だ。そう、悲しいかな、これが団塊居場所難民の近未来の姿なのだ。
 ある妻は言う。「退職して、急に四六時中夫と暮らしてみるとうさんくさい」 また、ある妻は言う。「他人といるみたいでストレスがかかる」 何と彼らは、相思相愛だった筈の妻から嫌われているのだ。その上「濡れ落ち葉」などと夫を揶揄する妻もいる。

 じゃあ何故、彼らに居場所がないのだろうか。それは一言で言えば、企業戦士が主に狭い会社内の人間関係だけで生きて、これから住む地域での社会性を喪失したことに起因している。彼らにしてみれば、付き合いや接待を通じて、充分社会の隅々を見知した筈だった。しかし、それはよく考えてみると、ただ会社という小さなコップの中の社会活動で、退職してしまえば職場のそんな大事な人間関係も、もう遥か彼方の忘却物語なのである。
 それをいち早くキャッチした妻は、「離婚しようよ」 こんな声も聞かれる。でもこんな妻は極少数だろう。良き妻はエライ。数々の艱難辛苦を乗り越えた夫の労をねぎらい、自ら身につけた地域の絆という社会性を手本にして、ご近所の社会復帰に向けて濡れ落ち葉を手助けしている。このけなげさ。夫は涙、涙だろう。
 これが、企業戦士だった団塊の世代の退職後の居場所難民の実態だ。手助けもされず居場所のない濡れ落ち葉よ、いったい何処へ行く。決して、企業戦士でなかった僕はただただ静観する以外にない。

 以上、僕なりに二つの居場所難民を検討してみた。そのうちの一つは近未来の想像だ。が、どちらの難民も少し人生のはかなさが付きまとう。でも、皆自分の居場所は自分で見つけなければならない。それが人間の宿命だ。幸い、僕も男の平均寿命までまだまだ先が長い。また、もう先が短いと思ったことなど一度もない。この先もまだ逆境に立ち向かって行く覚悟だ。人生は終わりのないサバイバルレース。負けてなるものか。

 6月12の朝日新聞に、日本選手最年長の39歳で大リーグ(ペンシルバニア州ピッツバーグのパイレーツ)に居場所を見つけた、元巨人軍の桑田選手のコメントが掲載されていた。彼は、マイナーからメジャーに昇格し、色々曲折はあったが、このほどやっと念願のデビューを果たした。
 パイレーツのトレーシー監督が語っている。「桑田はいい仕事をしてくれた」それに対して桑田選手はこう応えた。「目標を持って、それに向かって努力するのが僕のスタイル。目標が達成されなくても、努力している姿勢が好きなんです」

 大阪府八尾市出身の桑田君。いいこと言ってくれますね。彼のハングリー精神は、何時か僕が見たあのボロボロになった今は人さえ住まない「文化住宅」がルーツだ。一瞬、衝撃的な姿の彼の生家が頭に浮かぶ。あの小さな身体で大きな夢を実現した彼を思えば、僕などはまだまだ俗世間の人間の域を出ない。彼を見習って、夢を持ち続け、その先で、納得する自分の居場所を見つけよう。難民何てクソ食らえだ。

/101.テレビの悪循環(アホな視聴者)

2007-06-16 18:27:25 | Weblog
 近畿地方が入梅。ようやく季節が動いた。菖蒲と杜若、いずれも喜んでいる様だ。四国は水不足で、水をふんだんに使う讃岐うどんの業者は今年も憂鬱とか。憂鬱な雨も自然の恵み。ちょっとした皮肉が不都合な真実を生む。心配だ。 僕のちょっとした憂鬱もある。島根県石見銀山の世界文化遺産登録延期は、期待していただけに返す返す残念だ。広島で生活していた30代前半の頃、3ハンのバイクをぶっ飛ばして現地に行ったことがある。下克上の戦国時代、石見は世界一の銀山。谷あいの銀山跡は、往時のよすがを偲ぶに充分な佇まいだ。中国山地の懐もかなり深い。広島との県境は秘境のイメージ、絶好のツーリングコースで僕はお勧めする。 月探査機「かぐや」が真夏に打ち上げられる予定だ。僕らは南こうせつとかぐや姫の世代。輝く成果を期待する。その真夏の高校野球、今年の入場式では、コーラスグループ「サーカス」のムーディーなアカペラが甲子園に響く。「♪ああ栄冠は君に輝く」 月も甲子園もどちらもロマンがある。
 

 いやなニュースだ。介護事業コムスンの折口会長は、あのジュリアナ東京の仕掛け人。日本中がバブルで踊った頃を思い出す。どんな業界にも参入ありだろうか。彼は、お年寄りの介護にも、競争意識を煽るトップダウンの業績主義を取り入れたという。金のなる木のためなら、非情な采配の軍隊方式で社員を操るトップ。まだまだ成り上がりの経営者には悪徳人がいっぱいいる。その証拠に、巷ではそのトップに洗礼された不正社員が、顔を引きつり目を血眼にして日々徘徊している。そのコムソンといい、英会話学校最大手のNOVAといい、まさに類は友を呼ぶの悪い例。法の裏を掻き違反行為をする会社が後を絶たない。「その内何とかなるだろう」 コンプライアンスもガバナンスもクソもない。企業トップの経営理念がいかに大事か、改めて考えさせられる不祥事だ。

 混沌として先が見えず閉塞感が漂う現在は、何でも悪循環に陥りやすい世の中だと言える。国のレベルで言えば、例えば、国の借金800兆円超。少子高齢化で史上稀に見るお年寄り社会に突入している。今や5人に1人が65歳以上の老人だ。その上格差社会。日本国内のギアチェンジに対応出来ない過疎化、高齢化した地方は、財政悪化に行政もたじたじだ。破綻寸前で踏み止まっている町もあり、大まかに言えば都会は勝者、田舎は敗者だ。教育やいじめなど社会問題も深刻化している。また、逆三角形の人口構成に社会保障制度でさえ崩壊の危機にある。
 
 企業のレベルでは、例えば、経済のグローバル化で主要企業の海外シフトが進み、国内では効率化や人件費の削減で、働く人の3人に1人が非正規雇用者だ。実感なき景気回復で、正規雇用者でさえサービス残業などで給料が上がらず、そのため個人消費も依然として上昇の気配がない。そして、外貨で稼ぐ大企業に比べ、中小企業は、未だ暗中模索の状態が続いている。この企業間格差も解消されないままだ。

 身近のレベルでは、例えば、格差社会の影響を受けて、特に庶民と呼ばれる貧困層を中心に、人の心と家庭の崩壊が社会悪を誘発し、ダメ親やバカ親の児童虐待、子供による不可解な親殺しなど人間性のない悲しい事件が続出している。これらは確かに収入格差もあるが、突き詰めれば、全てデジタル社会の中でアナログの優しい心を失った人間の成せる業だ。

 例えば、これと同じ様な悪循環がテレビ社会にもある。テレビは究極のマインドコントローラー。この情報化社会の寵児の影響は、それこそ一歩間違えば日本全国津々浦々まで即座に及ぶ。そのことを知っていて知らぬフリをする「視聴率至上主義」のテレビ番組制作者は、過剰演出、過剰表現などの手法で、必ずしも真実を伝えない劣悪番組を、これでもかこれでもかと日々垂れ流している。また、この無配慮無責任のテレビ番組を信じる「グータラ人間」が今や日本中に充満して、まさに双方共倒れの状態(常態)だ。そんなテレビ信者は、それ以上に尾ひれを付けた知る必要のないウワサ話を周囲に垂れ流す。この垂れ流しの二重構造が今のテレビ社会の実態だ。言わば、テレビ番組制作者も視聴者も同じ穴のムジナ。どちらも情報過多の中、二流週刊誌のガセネタ提供者と言えるだろう。

 大げさに言えば、この現象は日本中の老若男女一億総白痴化。ここまで世間がテレビ人間化するとは、僕は昔考えたこともなかった。それがどうだ。どっちでもいい話題に振り回され、皆女々しくみみっちいパパラッチ状態だと言わざるを得ない。一番ダメなのは、テレビに従順で何の疑問も感じない「受身人間」が多いということだろう。そして、それらの人は全て鈍感で行動なし人間に成り下ってしまった。パスカルは「人間は考える葦」だと言った。考える葦も地に墜ちたものだ。
 そこに追い打ちをかけているのが、デジタルの寵児、インターネットやゲーム機だ。この終わりなき悪循環は、いったい何時まで続くのだろうか。こんな人間をもう一度考える葦に復元させることは、もはや不可能なことなのだろうか。残念だが、その答えが出るのはかなり遠い道のりが必要だろう。
 とは言ってみたものの、テレビをそう悪者扱いしていたのでは光明は見えない。このテレビの悪循環を「正(善)循環」に変換する方法はないものだろうか。その方法はある。色々あるが、あまり話が長くなるといけないので、今日は二つだけここに挙げておこう。

 一つは、テレビ制作者が視聴率至上主義から「内容至上主義」に変換すること。つまり、視聴者とテレビ局との双方向性を明確にして、視聴者本意の番組制作に徹することだろう。これは非常に重要なことだ。しかし、テレビ業界もインターネットやIT産業の発達によって、今後かなりの困難が予想される。金を出すスポンサーとの絡みもあるだろう。従って話は益々流動的だ。だから、今のところ時の流れに任せて静観する以外に方法がない。しかし、黙っていてはテレビ局側の思うままだ。もう立ち上がっている人もいるが、僕の様に怒りに燃えて疑問や問題点を発信する必要がある。ここまでは我々自身も出来る筈。ひたすら射幸心を煽る番組には、苦情という名の強烈なカウンターパンチで攻撃する姿勢を持つことだ。パンチを打つのは勇気がいる。パンチが当たらなければ効果なし。なら隙を見て険を握ろう。融通の利かないマスコミの王者には、抗議という蟷螂の斧を束ねて対抗するのが世の習わしだろう。これがテレビ局への対策裏ルートだ。

 二つ目は、テレビ局への対策表ルートだ。いったい何だろうか。簡単だが、しかし、実行はなかなか難しい。では言おう。それは我々自身のテレビの見方だ。究極のマインドコントローラーの虜になってしまって、そっくりそのまま信じ込む、信者さん状態から脱皮することだ。つまり、テレビを見る姿勢を変え、いい番組を選択する賢い視聴者になるということ。これなら今すぐにでも全ての人が実行可能だ。ただしこれには頭がいる。
 
 僕に言わすれば、ある一面、今のテレビは「薬」だ。薬はあまり服用し過ぎると必ず副作用がある。また、薬は逆に読むと「リスク」だ。副作用=リスク。それこそ自分にリスクをかけるテレビの利用の仕方は、後々になって必ずその副作用が出る。だから、自分自身がテレビはいい薬だと思って、正しい処方で利用する寛容さが必要だろう。間違っても悪い薬は利用してはいけない。
 この辺で思い切って正直に言おう。関西弁ならあまり失礼はない筈だ。テレビを賢く利用するには、視聴者は「頭を使え」、 この一言を強調しておく。要するにテレビを見る側が「アホ」では「アカン」のだ。アホになって、根も葉もない虚構に騙されてはいけないのだ。もう一つ付け加えるならば、僕の地元、今の大阪の庶民層は、アホが多過ぎる。アホが多過ぎるから、テレビ人間化したワルが、その副作用に毒されて、無法地帯の一因を作ってしまうのだ。そんな人間は、重々テレビという薬の怖さを知るべきだろうと僕は思う。そういう意味では、テレビは隠された凶器だ。そう思うことが最近は多い。

 今一度復習しよう。テレビも利用者の見方によって格差がある。こちらの格差は、格差社会とは大分ニュアンスが違う。つまり、分かりやすく言うならば、この格差は視聴者の頭と心一つだ。例えば、テレビを賢く見る家庭には、それなりの良い作用があり、そうでない家庭には悪い副作用が何時までも蓄積される。そして、この格差がそれぞれの家庭の成り行きを左右するのだ。こう言っても決して過言ではない。「あるある大事典」がその小粒のいい例だが、あの現象が何回も重なると、事は複雑に大粒化しそれこそアホでは済まされなくなる。特に、バラエティーなどの番組には、悪を助長する潜在的な虚構悪が隠されている可能性が高い。だから、悪質番組なのだ。タレントの巧妙な演技に騙されてはならない。もっとより大人になって視聴すべきだろう。

 テレビの使い道について、大阪人としてもう一つ提案がある。それは、引ったくり、違法駐車、婦女暴行、窃盗などなど人の心が荒んでいるとしか思えない今の大阪の防犯対策として、テレビを有効活用せよということだ。これに関しては、「犯人捜し」など以前に何回かテレビの特番として放映されている。しかし、継続してテレビが利用されたことはあまり例がない。犯罪全てに対して絶対テレビを利用すべきだ。この効果は間違いなく大きい。後は警察、行政などが費用対効果を考えればいい。
 
 交通事故なども運転手や歩行者の「公共マナー」に起因するケースがほとんどだ。これらの常識をもう一度双方に確認させる意味でも、テレビは最適ではないだろうか。僕も自転車であちこち放浪することが多いが、運転者も歩行者も非常にマナーが悪い。そればかりか、「人は右、車は左」「自転車は左」という通行の基本的な規則を知らない人がザラにいる。この予防啓発には、まさにテレビは適材。そして、その呼びかけ人には、大阪ならではの「お笑い芸人」を参加させるのだ。犯人捜しも同じこと。テレビの影響力ならば逮捕率も向上すること請け合いだ。そんな番組が定期的に放映されれば、今はただの虚構の噂話還元人間に成り下がっている、大阪のオバチャンもオッサンも黙ってはいまい。特に大阪のオバチャンは、こんな時こそその真価を発揮する筈だ。オオカミやコヨーテの遠吠えは、四方八方、遥か彼方の大地まで届くという。大阪のオバチャンは声もでかい。テレビが究極のマインドコントローラーなら、大阪のオバチャンは究極の絶叫マシーンだ。僕はなお更推薦する。こんなテレビ番組のスポンサーは企業イメージも良くなる。是非実行してもらいたい。

 今日はテレビの悪循環と正(善)循環について書いた。僕の今までの人生も悪循環と正循環の繰り返しだ。今日書いた内容も、以前書いたものと重複した部分もある。繰り返し言うが、テレビにもいい面がたくさんある。いいテレビ番組は見ていて勇気をもらう。後で頑張ろうと思う。僕も正義感の塊。そんないい番組に触発されて実行(行動)に至ったこともしばしばだ。「義を見てせざるは勇なきなり」テレビがこんな人間を、本当の意味で「君子豹変」させる存在になることを僕は切望する。

/100.お袋の味VSコンビニ弁当(味の違いは何か?)

2007-06-10 12:18:06 | Weblog
 清楚な笹百合が谷間にひっそりと咲く頃だ。この花の香りは野生植物の中でも最高レベルだろう。鼻先で匂いを嗅いでいると、あまりの芳香に心奪われ自分自身が酔ってしまいそうになる。まさに里山の名花だ。里山ではもうすぐホタルブクロの花も咲く。田圃の岸辺に似合う花で、昔はお決まりの様にすぐ近くに小さな池があった。池の中にはゲンゴロウやミズスマシ。こんな癒しの風景が、子供の頃まで近所にあったのだ。我が寝屋川市は、川にホタルが飛び交う街を目指していると聞く。ならば是非、笹百合やホタルブクロ、田圃や池の生物が蘇る里山作りも目指して欲しい。

 僕のブログも書き始めてから早1年。社会批判は必ずしも僕の本意ではなかったが、何が何でも「/100」まで書くという意地でここまで来た。継続は力なり。ようやく目標に到達した。肩の荷が下りた感じがする。ここまで来れたのは、目を通してくれる人がいたからこそ。本当に有難うと大きな声で言いたい思いだ。 当初は「/100」で終わりにしようかと思っていたが、どうやら到達点は通過点になりそうだ。帰宅がなお遅くなる仕事の都合で、もう少し続けることにした。勤務状態が好転する秋(10月)まで、このまま「スラッシュ」で行く。
 そして、暑さもおさまり心身ともに冴え渡る秋からは、「/」ではない世の中の「○」を書いていくつもりだ。内容一新、今度はもっとファンタスティックに「○の風景」を描きたい。また、あまたある社会批判は新聞などに任せて、「/100~エピローグ」までは、より自分色の話題を取り入れた内容にしたい。そう思っている。読んでくれた全国の人にもう一度言います。何処の人、どんな人が読んでくれているのかは分からないけど、顔を見たい気もするけど、これも何かの縁です。本当に有難う。感謝感激雨霰です。

 さあ今日も頑張って行こう。今日はお袋の味VS(バーサス)コンビニ弁当を「/」としたが、勿論「/」は味の悪いコンビニ弁当だ。コンビニ弁当に近い(と思っている)ファストフードなども同類項。お袋の味は、このブログでも何回か書いた通り、僕の中では自分自身のお袋が料理の鉄人であり、そのお袋が作った料理が最高グルメだ。よってこの絆はテコでも動かない。文字通り鉄板、鉄則だ。そして、このお袋の味が僕の舌に残っている限り、他のどんな料理の追随も許さない。それこそ京都の雅な高級料理をも。

 そのお袋の味を一層引き立てるのが、世間では良くなった、美味くなったと言われているコンビニ弁当やファストフードの地に墜ちた味だ。僕も好奇心の塊。巷でそれなりの店がオープンすると、ミーハー的に先ずは毒味をする。味は不味いだろうなあ。その思い通り全然美味くない。美味くないばかりか、口に含んだだけでその味に失望するのだ。
 特に若い女性が行く店には目が無いが、そんな店に限って失望の度合いが非常に大きい。そんな時、何時も思うことがある。「ははあー、あの女性達はここに料理を食べに来ているのではない、きっと店の雰囲気を食べに来ているのだ」と。こんな女性達が大きくなって、あのお袋の味に対抗する存在になるなどという空恐ろしい想像は、とてもじゃないが僕には出来ない。雰囲気を食べるという女性にお袋が負ける筈がない。雰囲気がいいと言われているハンバーガー屋さんに至っては、カスカスのゲスゲス、まるで豚のエサだ。

 「お袋の味」を語ろうと思えばそれ相当の準備がいる。それは「夫婦」という存在だ。この夫婦を描かないことにはお袋の味を説明出来ない。だから思うままに書く。 男と女が結婚すれば大抵は家庭が出来る。子供が生まれれば家庭の構成員が一人増える。言わば1+1プラスアルファーの世界が一般的な家庭だろう。昔は、1+1のところにもう一組1+1がいた。つまりおじいちゃん、おばあちゃん(元祖お袋の味)だ。しかし、今は核家族化が進み都会では大家族が見られなくなった。子供が多いのがいいのか悪いのか正直言って僕には分からない。が、日本の国土面積や人口密度、生活環境等を考えれば、少ない方がいいに決まっている。
 こんなことを言っていいのだろうか。ズバリ言って日本は人口が多過ぎる。狭い国土に人口が集中し過ぎたため、本来人間が住む環境ではなくなった。特に、100万都市や首都圏と言われている地域は今や満杯状態だ。箱庭の様な風景の中に小さなウサギ小屋があると揶揄された日本の住宅。アメリカなどの外国人から見れば異常な光景だろう。ともかくもそんな風景の中に夫婦が住み家庭がある。

 夫婦関係は、日本では一夫一婦だが、世界には一夫多妻の国も数多くある。アフリカなど未開発国はまだまだ夫婦関係が多彩だ。先進国はだいたい一夫一婦だろう。夫婦といっても今では離婚率も高く、昔の様な「これが夫婦だ」という夫婦の形もあまりはっきりしない。いや、まだあるのだろうか。あまり深刻に夫婦の定義を考えると僕などは頭が痛くなる。ただ僕は、愛云々も確かにあるだろうが、夫婦は、結婚した以上は一緒に生きなければならないという、ある種の義務感の上に成り立っている様にも感じている。単純に、結婚すれば二人仲良く生活を共にする、子供が生まれれば、少なくてもその子が自活出来る年齢になるまで育てる、と言った様な本能的な義務感だ。
 夫婦も元は他人である以上、そう長くは一人の人間を愛せるとも僕には到底思えない。しかし、長く暮らした結果として愛は二人の間に常について来るものだ。愛の狂気の熱が冷めた頃に現実が見え、離婚するかこのまま一緒に暮らすのかの中間点に誰でも一度は立つだろう。この中間点に立った時、人は冷めた愛にもう一度奥がある愛を与えられるだろうか。

 僕の考えでは、双方がもしもう一度一緒に暮らそうと考えたとすれば、それは双方が自分の人生を総合的、客観的に判断した結果のある種の義務感ではないかと思う。愛で成り立っている夫婦関係は最高だろう。が、それは多分どちらかの一方通行だろう。何年も二人で暮らそうと思えば、愛だけでは片付けられない何かがあるのだ。しかし、長く暮らした結果として愛は必ず後からついて来る。そういうものだろう。夫婦の結論は、夫婦関係が幕を下ろす直前に突然出現すると誰かが言っていた。終の結論・・・・・恐らくそれが真実だろうと思う。夫婦を語るのは弱輩の僕には難しい。

 そんな、つかず離れず(不即不離)のいい関係を保って来た夫婦には味がある。燻銀(いぶしぎん)の風格がある。夫婦の品格だ。糟糠の妻もいるだろう。海千山千の夫もいるだろう。でも夫婦は何時も「偕老同穴」だ。そんな、雰囲気のいい仲むつまじい夫婦は世間に山といる。そして、その偕老同穴の夫婦から生まれるのがお袋の味だと僕は言いたい。少しアプローチが長過ぎたが、僕は最終的にこれが言いたかった。 ともあれ、仲のいい夫婦は羨ましい。僕も度々不即不離の夫婦に出会う。何時も感じるのは、お二人の阿吽の呼吸だ。その呼吸がこちらに以心伝心して気分が良くなる。これ以上書く必要もないだろう。いい夫婦とはそんなものだ。

 じゃあ何故、こんな夫婦からお袋の味は生まれるのか。それが今日の結論かも知れない。ここも大事だ。では言おう。それは、本来のお袋の味の源泉は、仲むつまじい健全な夫婦の家庭にあるからだ。そして、そこから根差し、以心伝心して、親から子、子から孫へと伝えられ、語り継がれて行く。これがお袋の味の本質なのだと僕は思う。現に僕もそうだった。お袋の味を伝承する健全な家庭で育ったという自負心は人一倍ある。だから、僕にすればお袋の味=料理の鉄人なのだ。
 それとは逆に、喧嘩三昧の今世間で目立つ「ダメ親」の家庭で育った子供には、残念ながらお袋の味は無きに等しいだろう。もしあったとすれば、それしか食べていないという漠然とした親の味だろう。その味がお袋の味だと僕には到底思えない。言わば舌の思い出だけの味だ。そこには健全な家庭の思い出の味が詰まってはいないからだ。お袋の味はそれだけ深遠なのだ。
 しかし、たとえダメ親でも、お袋の味はお袋の味だという人もいるだろう。それはそれでいい。誰にも価値観はある。それこそ言論の自由だ。もしそう言われれば僕は返す言葉がない。でもそういう議論がお袋の味が復活するきっかけになる。悪くはないだろう。

 どうやらお袋の味一色に染められたみたいだが、そんなお袋の味も今は忘れられた存在になりつつある。僕はそれが残念でならない。世間では食育論議が活発だ。代々伝えられたお袋の味こそ食育の最たるものだろう。メタボリック症候群に悩まされている大人にだって食育は必要だ。ハンバーガーかぶれの孫請けメタボもたくさんいる。日本人の体質に合わない欧米風のファストフードが身体にいい訳がない。ただただ内臓脂肪を肥大させるだけだ。その裏には、多忙だというお袋の手抜きもあるだろう。だが、一昔前のお袋はもっと忙しかった。

 今日のテーマはたまたまお袋の味VSコンビニ弁当としたが、バーサスとはライバル視するもののことだ。その意味では、コンビニ弁当もファストフードも器が小さ過ぎる。ここに登場する回数も少なかった。だから、僕はダミー扱いだ。僕の中では、それらのものは、料理の鉄人、お袋の爪の垢でも煎じて飲めと言いたい。それほど味が地に墜ちている。また、身近でよく出店されているお袋の味がウリの「ザ、めしや」でも大阪らしい「まいどおおきに食堂」でも言えることは同じだ。神聖なお袋の味と対抗させること自体大不本意だが、話のアヤでこうなっただけ。バーサス扱いされただけでも幸せというべきだろう。また、次の機会に批判する場を設けたい。

 スキー、テニスなどのスポーツや宴会、飲み会三昧だった若い頃、時間がなくコンビニ弁当を買って帰る日が続いた。独身寮に帰って電子レンジでチーンだ。そんな日が何度も重なったある日、本物の発掘あるある大事典に遭遇した。何と電子レンジの中が、食品添加物や着色料などの臭いで充満したのだ。おまけに、まともな食品をチンしても、その臭いがめしやおかずに残留して、とても食べる気にならない。もったいないが捨ててしまった。と同時に、当時高価だった電子レンジも捨ててしまうハメになった。それ以来、コンビニ弁当というエセバランス食品を購入したことは数えるほどだ。僕にとっては、コンビニ弁当は要注意食品、身体が受け付けないのだ。僕は今独身。こうなれば一膳飯屋でもいい、お袋の味が早く広く世間に復活して欲しい。今のままでは味覚が心配だ。味の違いが分かる僕だから。

/99.緑のない街(大阪に明日はない)

2007-06-09 11:58:53 | Weblog
 山滴ると書いて山したたると読む。六月前後の山の形容だ。山形県の高級さくらんぼの佐藤錦。果物の宝庫と言われるみちのくの里で、最上川の清流と滴る山を背景に錦色に実る姿は、まさにさくらんぼの最高峰にふさわしい。と、昔東北出身の人に聞いたことがある。近所の小さな里山では、青梅の下で杜若(かきつばた)が咲いている。長雨の季節の脇役は揃っているのに、主役の梅雨はまだ来ない。
 今週は年金問題が全てだった。そんな中で気になったのは、トヨタの役員報酬15億円。使い道は他にないものか。手前味噌だが、このブログも明日で100回目。どちらかと言えば苦手な分野で、意地で頑張った社会批判。読んでくれる人がいたからこそだ。自分にご褒美、人に感謝だ。

 今日は山滴る「緑」の話題だ。その前に例によって長いアプローチ。ちょっと聞いてもらおう。今の世の中、便利過ぎるほど便利だ。以前にもこのブログで書いたことの繰り返しになるが、「便利さ」は、ある時代までは、その言葉自体が人々の羨望の的だった。しかし、日本人がそれを必要以上に追い求めた結果、便利さの裏返しとして、数々の弊害を生み出して来た。このことは、日本人自身が反省の意味を含めて、肝に銘じなければならないことだと僕は思っている。
 人は、何でも便利便利とさもそれが美徳であるが如く口にする。が、それは「破壊をもたらす第一歩」であるということについては、あまり語りたがらない。勿論、ある程度の便利さまではいいのである。例えば、電車や車は生活の手段としての必要性から生まれ、今では我々の生活とは切り離して考えられない。例えば、テレビや洗濯機、冷蔵庫、電子レンジ。これらも、その意味では生活の必需品、特に問題がない。 問題なのは、それらの便利なものが、その人間、その地域、あるいはその国のキャパシティーに対して、必要限度を超えてしまうことなのだ。
 日本も、欧米の先進国を手本にした必要限度の時代までは、その恩恵を受けて住みやすかった。まさに便利さも中ぐらいなりおらが春。僕などは疑う余地もない。しかし、その後が天狗になり過ぎた。経済優先の時の勢いに任せて、便利さの必要限度をはるかに超えてしまったからだ。これは多分、超大国アメリカの影響が大きい。だが、日本とアメリカは国土の面積が月とスッポンほど違う。単純比較で言えば、日本は国が小さ過ぎるのだ。そんな小国が、アメリカと同じ様なことをやれば、当然便利さでパンクする筈だ。

 日本と同じ面積か、それに近いヨーロッパの国々はどうだろうか。これらの国にも、必然的に日本と同じ様な便利さの傷はある。だが、その傷の程度が大きく違うのだ。その差は何だろう。ズバリその差は、環境を重んじる歴史を積み重ねた精神文化の差だろう。日本は、そんな文化が花開かないまま、主に都会部分を中心にして急いで国土を破壊し、無秩序に便利さを追求した。そして、ついにパンクしたのだ。 その上に日本は人口が多い。例えば、人口が多いと便利さの中に埋もれているゴミが大量に出る。しかも、急速に便利さを追求し過ぎたから、自然や環境に目をやる余裕がなく、知らない内にその反動が測り難いウミとなって噴出した。その結果、ゴミ問題一つ取ってみても、もはや都会部分は人間の住むところではなくなったのだ。まことに残念と言う他に言葉がない。
 この点を考えると、日本もアメリカばかりではなく、環境文化先進国のヨーロッパの国々とも深く付き合う必要があるだろう。そして、我々の生活レベルから言えば、一人一人が環境を意識して、現時点で考えられる便利さの必要限度を見直し、常にそれを意識した行動をすべきだろうと僕は思う。そんな精神文化は遅れをとっても、独自な伝統文化を持つ日本人にもやれないことはない。
 それには、衣僅かに足りて、自然な香りの食材が食卓を潤した、小さいながらも楽しい我が家の古き良き時代に、気持ちだけでもプレイバックすることだ。そうすれば、便利さの必要限度が分かる。そして、何が人間にとって必要なのかの答えも見えてくる。

 便利さは、人間の住みやすい環境を奪うと同時に、人々の正常な心をも奪う。便利さの追求によって破壊された大自然は、いずれ人間にしっぺ返しをするだろう。いや、もう嫌と言うほど地球温暖化など不都合な真実の脅威に晒されている。また、この様な大自然のしっぺ返しは、今や当然の結果として人々に認識されている。その意味で、もっともっと不可解なのは、便利さによって奪われた人間の正常な心だ。優しい心だ。この脅威に晒されている街がある。それが我が街大阪だ。

 先日、朝日新聞に興味ある記事が掲載された。「このままでは大阪に明日はない」・・・・・この衝撃的な憂うべき発言をしたのは、高校時代にプロボクサーを経験し、卒業後独学で世界的建築家になった「異色の熱血漢」、安藤忠雄さんだ。
安藤さんはその中で、「明日はないという私の言葉には、今こそ立ち上がれ、大阪人!! という呼びかけが続くのです」と述べている。
 安藤さんが問題提起したのは、東京や名古屋に比べ景気が良くない事実、逃げて行く企業、有効求人倍率の低下などの経済面の他、「仕事がない」「違法駐車」「引ったくりが多い」「緑が少ない」「ホームレスが多い」「公共心がない」などなどの具体的な大阪の恥部の指摘だ。 この中で、僕が一番インパクトがあったのが、「緑が少ない」という事実。僕もこのブログの「/1」で、現在の「無法地帯大阪」をあらゆる角度から批判したが、この点についても、自称「ナチュラリスト」の立場から、大いに共感を覚える。

 安藤さんは、04年秋以降、大阪のど真ん中、中ノ島周辺で、桜を植樹する活動に取り組んでおられる。また、大阪の明日を考える時「デジタルを過信してアナログを軽んじてはいけません」「IT情報の中身は実感ではなく幻想だ。そこに行って対面しないと分からない」、こんな発言もされている。そして、インタビューの最後をこう結んでいる。「市民、経済人、行政マン、政治家など皆が自分のことだけにきゅうきゅうとしている。大阪を良くしようと立ち上がる人がいない」 この発言は、僕にとっては強い味方。まさに孤高の代弁者だ。安藤さん、よく言ってくれました。

 さて、その「緑が少ない」だが、これは僕も実感する。確かに東京、名古屋などの大都会に比べて、大阪には緑が少ない。万博以降、便利さなどの追求によって、開発と言う名で無秩序に破壊された大阪の街は、見るからに殺風景だ。とても人間の住む街だとは思えない。

 緑は、人の心を優しくする不思議な力がある。山の緑、海のエメラルドグリーン、砂漠のオアシス、ガレ場の高山植物。緑は地球の救世主だ。緑の森や原生林は、温室効果ガス、二酸化炭素を吸収し酸素を放出する。都会のヒートアイランドも解消する。温室効果対策にも充分威力を発揮するが、人間の心を温かくする万能薬でもあるのだ。
 緑のない街は、北アルプスで言うなら、無味乾燥し荒廃した風景が広がるガレ場だ。ガレ場には、足を踏み外し滑落の危険がある浮石がある。そんなガレ場は、言わば都会のゴミ捨て場。ゴミ捨て場には何が集まるだろうか。カラス、捨て猫、野良犬、ドブネズミ。これらは人間で言えば何に該当するだろうか。ヤクザ、不良(ワル)、悪徳人。いずれも人間のクズだ。まともな人間は誰も来ない。大抵は心の荒んだヤカラだ。ガレ場の浮石にも似た危険人物。掃き溜めに鶴はいない。 ホームレスもいる。だけどこの人達だけは責められない。この人達は、それこそ食うために必死になってエサを探している。そのホームレスを襲うヤカラもいる。少し抽象的だが、ニュアンスはお分かり頂けるだろう。庶民の街、大阪は今、こんなに傷んでいる。皆心が痛んでいるから、日本一の無法地帯なのだ。

 だからこそ僕は提案したい。安藤さんの様な大阪を愛する人間が、今こそ立ち上がって、一人ひとりの力で、せめて大阪を緑で埋めて行こうではないか。殺風景で何の変哲もない僕のブログの様な風景でも、人々の優しい心、つまり緑の風景があれば何とか様になる。緑色が人の心をいい方向に変え、ひいてはそれが以心伝心して、類は友を呼ぶのだ。「類を以て集まる」という諺もある。緑はそういう善の循環を持つ色だ。そんな「緑の大阪環状線」を全ての人の心に走らせたいものだ。そうなった街は強い。怖い者なしだ。そうは思わないだろうか。僕はそう思う。

 大阪に残された唯一のブランド、「お笑い」もいいが、今の大阪の現状を思えば、何時までも笑ってばかりではいられない。デジタルばかりの街では、到底人間性は回復出来ない。誰かが立ち上がらなければ、万博時代の再浮上は夢のまた夢だろう。太閤さんも空しくそう叫んでいるに違いない。
 そうでなくても、街自体が、安上がりのバラエティ番組の様な肩の凝らない大阪の街。これだけでは駄目だろう。まさにあるある捏造の世界だ。便利さの中に埋もれ、お笑いの日常にあぐらを掻いていたのでは、皆受身になってしまう。難しいことは我知らずだ。難しいことにこそ真実がある。受身はすなわち「行動なし」だ。行動がないと大阪に明日はない。安藤さんの呼びかけも空しく響く。

 今の世の中、万事肩の凝らない話が優先されている。僕に言わすれば、肩の凝らない話=しまりのない子供の話だ。その話の出所は、例えば、究極のマインドコントローラー、テレビなどのメディアだ。昔と違って、大阪庶民が限りなくテレビ人間化して、口だけ、噂話だけの人間になってしまっている現状も実に情けない。その裏で、数々の無法行為が横行しているというのに。
 少なくても僕は大人だ。こんなユルユルの世間に、もうこれ以上の娯楽も不要だ。便利さももういい。大阪は、いい加減に生きている人間が多いのに、皆ストレスがあると言う。それは心に緑がないからだ。緑がないから大阪に明日はない。いったいどうすればいいのだろう。大阪人の大人の悩みは相当深い。

 そんな心境になった時は、やはり山滴るの原点に返るべきだろう。僕はやはり、白神山地のブナ林、三十六峰静かに眠る京都東山、丹頂舞う釧路湿原、至仏山を仰ぐ水芭蕉の尾瀬、そして、深くて広い黒部峡谷の緑がいい。皆緑を愛して欲しい。

/98.過当競争の規制緩和(限りないギスギス感)

2007-06-03 11:50:53 | Weblog
 談合を取り締まる筈の警察官が談合。我が街の隣り、枚方市の不祥事だ。情けない。枚方市自体は革新的ないい街なのに。いよいよ6月に入った。15日は僕の誕生日。歌手の細川たかしさんも一緒だ。ああまた歳を取る。それにしても1年は短い。こちらも情けない。時よ止まれ。
 
 今日もストレートに本論から入る。職場の人間関係が、今ほどギスギスしている時代はないのではないか。そう感じることが最近は多い。会社のトップは、社会的責任やコンプライアンスを、上司は、職務権限に相当する責任能力を、部下は、成果というスキルを問われている。その上司や部下は、終わりのないノルマ達成のトップ通達に振り回され、日々過重労働、サービス残業だ。
 しかも、バブル崩壊以降、職場は大きく様変わりしている。見渡せば周囲は、必ずしも同じ価値観を共有しない非正規雇用者ばかり。心理的優位に立つ正社員は、立場の弱い「面従腹背」の実質部外者に、日頃の鬱憤を晴らそうと、罵声の浴びせ時を虎視眈々と狙っている。これに対して非正規雇用者は、解雇という恐怖感に絶えずさいなまれながら、蟷螂の斧を弱々しく振り上げて必死に抵抗している。双方共に保身に汗だくだ。こんなギスギス感の構図が、今は何処の職場にもあるだろう。我が職場も例外ではない。

 また、本来なら中間管理職である筈の年齢層が、今はリストラの対象になっている。公務員ならともかく、民間の職場はそういう意味でも皆必死だ。これだけギスギスすると、生き残りを賭けて闘っている社員も大変だろう。それは僕にも充分理解出来る。会社のトップに自分の仕事能力を問われた時、結果として、他の社員に責任を押し付け、危うく難を逃れるケースもあるだろうし、一生懸命会社に奉仕したにも拘らず、リストラの対象になり極度の職場不信に陥るケースもある。
 海外進出の大企業は大儲けしているが、中小企業は未だに倒産が続出している。また、倒産はしないまでも、市場経済のグローバル化の影響を受けて、軒並み収益が減少するという現実もあり、急に変わった我が社の人間模様に対応出来ない人がいることは容易に想像がつく。
 しかし、一連のリストラ時代が終われば、また一見良好な人間関係が保たれる昔日の職場にプレイバックするのではないか。僕はそう思いたい。そして、かつてはそう楽観視ししていた人も多かった。このギスギス感も、もうしばらくの辛抱だ。やがて歴史は繰り返す。・・・・・。と思っていたら、もうそんな時代はとっくに終焉したというのが良識者の近未来予想だ。だったらなお更大変。日本全国どの職場でも、まだまだこのギスギス感が続いて行くのだろうか。そうなって欲しくはないものだ。

 少し話は変わるが、昔も今も、職場の人間関係のもつれや不信で会社を辞めて行く人は多い。少なくなったとは言え、各職場がモデルチェンジした現在でも、ゴマスリ、ヨイショ、いじめなどの元締め、見た目会社人間はまだいる。いることはいるが、世の中がシュビアーになると、そんな人間関係のことなどとやかく言っておれなくなる。早い話、日本の古い職場の体質が、今の時代の様にその人の能力が問われる体制に改善されると、まず自分がやらなければと思う気持ちが強くなり、必然的に他人のことなどいちいち構っていられないのだ。
 バブル期までは、何処の職場にも、仕事はそこそこでも文句だけは言う人とか、職務経験の長さを武器に、高飛車に部下に命令するといった不束者がゴロゴロいた。そういう人間に限って、自分を都合のいい様に偽装するのが上手なのだ。だから、考え方によっては、こういうゴシップ還元人間を排除する年功序列や終身雇用制の崩壊は、仕事の本質や職場の活性化から言って、むしろ歓迎されるべきことではないだろうか。旧態依然の体制が障害になって、人間関係にうんざりする人も多かった筈。そういう意味では、欧米並みになった今の成果主義はやはりベストではないか。少なくても以前よりは悪くないことだと僕は思っている。

 大体、職場は仕事をする所で、ドロドロした人間関係を学びに行く所ではない。あくまでも人間関係は2次的、ことによっては3次的なものだ。それに、個人個人が組織を乱さない程度の教養と包容力を持って、しかも、仕事の業績を上げていれば、常識ある人間は何も言わないものだ。
 欧米の人は、個人主義が多く公私の区別がはっきりしている。日本人も人間関係はほどほどにして、私の時間、つまり仕事以外の時間を有効に使った方がいいのではないか。その考え方から言えば、成果主義はいい筈なのだが、現状ではまだ日本人のDNAがそれを拒否しているかの様な職場もまだまだ多い。そして、そこに格差社会の閉塞感が、職場の労働者の心理を微妙に揺さぶっている。このギスギス感、何とかならないものだろうか。

 こんなギスギス感の中、もう一つギスギス感を煽る現象が起こっている。それは「規制緩和」による業者間の過当競争だ。結論だけ先に言おう。今の一部の規制緩和は間違っている。勿論、新規参入者にも自己責任はあるが、受け皿の整っていない規制緩和は人を不幸にするだけだ。

 まず、最近起こった規制緩和の影響と思われる出来事をここに少し取り上げてみよう。スキーバス「あずみの観光」の悲劇など、深夜走行のバスや大型トラックの事故、過酷な勤務実態のタクシー業界の再編問題、米の産地偽装、少子化で全入時代に突入したにも拘らず益々増加する大学、身近では、開店、閉店を繰り返すコンビニやパチンコ業界などなど例を挙げればキリがない。
 02年度の自由化により、業種、業態を問わず国の規制というバリアを越えて、新しいビジネスへの新規参入者が激増している。この現象は、まさにバリアフリーの時代にふさわしいパフォーマンスの大家、小泉前首相の置き土産だ。しかし、規制緩和でただ業者が増えればいいというものではない。その前提として、もっと大事なキーポイントがある。

 この規制緩和を考える上で一番大事なのは、今の日本国内の社会情勢の把握だろう。分かりやすく言おう。少し時代を遡って、バブル全盛期以前の大量生産、大量消費時代であれば、この政策が的を得たものであった可能性は高い。何故なら、日本社会が金で潤っていたからだ。従って、国民の懐具合は温かく、需要と供給のバランスも良好だった。つまり、その時代は何をやっても旨く事が運び、それこそ新規参入者が規制緩和の恩恵を充分受けたであろうと想像出来る。それだけ時代が良かったのだ。
 だけど今の日本社会の実態はどうだろうか。大企業は主に海外で儲けてはいるものの、国内に限って言えば実利は少ない。中小企業はほうほうの体だ。おまけに格差社会ときている。また、労働者の大半は給料の安い非正規雇用者だ。雇用情勢は改善されたとは言え、ワーキングプア、ネットカフェ難民、ロストジェネレーション等々が巷に溢れている。これらの人達は、パラサイトする場所がなければ生活保護者以下、まかり間違えばホームレスも近い。こんな閉塞感が漂う世の中は今、消費者に金が充分供給されてはいない。つまり、需要と供給のバランスが大きく崩れているのだ。

 そんな社会実態の中で規制緩和を敢行するといったいどうなるか。もうお分かりだろう。日本社会は必然的に供給過多になるのだ。例えば、深夜バスの場合、この構図の中、規制緩和で新規参入した業者は、否応なしに弱肉強食という競争原理にさらされる。しかも過当競争だ。同じ業界には業者が溢れている。この過当競争に耐えるためには何が必要だろうか。それは財力、つまり「金」だ。金がないと次に必要なのは何だろうか。それは「無理」だ。無理をするとどうなるか。それは職場にギスギス感が増殖して、利用者の尊い命を奪う「事故」だ。ズバリこの悪循環が、この業界の規制緩和の実態だろうと僕は思う。そして、いずれ業者は経営破綻する。特に零細業者はいちころだ。

 こういう「起こるべくして起こる事故」などを誘発する規制緩和は考えものだろう。規制緩和と自由化という、一粒で2度美味しい「甘い飴」のうたい文句に刺激されて、新規参入する業者の行く末はイバラの道だ。「飛んで火に入る夏の虫」、甘い飴ならぬ雨と鞭、七転八倒の日々が待ち受けている。まさに「火中の栗拾い」で、当初の希望通り、目指すものを手に入れるのは、九里四里よりうまい13里のもっと先、の話だろう。成功者はほんの一握りの業者に過ぎない。
 交通手段として多くの人達が利用する、深夜バス以外のタクシー、産地直送など速さを競う大型トラックなども悲惨な事故に直結する。それぞれの実態はどうだろうか。これらの業界も、近年激安を競い合う業者間の過当競争が激しい。従って起こる事態はほぼ同じだろう。

 もう一度スキーバスや高速バスの話に戻る。この業界のバス運営業者は、旅行会社などの企画した超低価格のツアーの要望に応えなければならない。断れば契約解消されるからだ。超低価格ということは、もともと契約予算が安い。だから、企画会社から支払われる金額もたかだか知れている。その予算内で利益を上げるのは至難の業だ。それこそアメとムチのリスクをかけて社員を酷使して、コストダウンを図り、しかも運転手などの人件費も低く抑える必要がある。そうしないと儲けが出ないのだ。
 そのため運転手は必死だ。自分の運転に会社の命運がかかっている。どうしても業界内の過当競争に勝利しなければならない。契約解消されると自分のクビも危うい。そんな心理状態で深夜の過酷な長時間走行だ。精神的にも肉体的にも満身創痍の運転手。当然、ハンドル操作も集中力も鈍る。こういう勤務が連日続くと過労になる。過労が重なった結果、悲惨な事故は起こる。スキーバスの「あずみ野観光」はいい例だ。まさに起こるべくして起こった事故の典型だろう。

 この様な悪循環がこの業界にある限り、利用者の命の保証はないに等しい。こう言っても決して過言ではないだろう。運転手の腕一つが、利用者の天国と地獄の境目。これが何を隠そうこの業界の悲しい実態だ。だから、逆に言えば、浮き沈みの激しいこの業界自体が規制緩和の犠牲者だと言わざるを得ない。これはギスギス感だ。

 大学も全入時代で、どこかの大学が経営破たんし、規制緩和の犠牲者になることは必死。また、規制緩和と言えるかどうかは分からないが、コンビニなどのサービス業界参入者のユーザーさん、オーナーさんも、甘い本部説明会に騙されないことだ。冷静な経営コンセプトを持って参入することをお勧めする。
 僕もフランチャイズチェーン店を経営したことがあるが、一度傘下に入ると、本部は何時までも加盟店を援助してはくれない。詰まるところ、全て自己責任だ。都合のいいところだけを助言するスーパーバイザーも信用出来ない。これもギスギス感。

 最後にそのチェーン店の話。先日、「ZARD(ザード)」のボーカル、坂井泉水(いずみ)さんが亡くなった。僕がCD・ビデオ店を経営していた一時、彼女のCD、デビュー時のグラビアビデオは一番人気だった。青い目の外人さんも「ディスワンプリーズ」だ。それにあやかって、店のBGMに彼女の「負けないで」という曲を流していた。この曲に、当時僕は本当に勇気づけられた。有難うと言いたい。
 でも彼女は天国に旅立った。そして、僕は店を売却して今は派遣社員の身だ。何か因縁を感じる。しかしギスギス感は一つもない。僕は負けない。

/97.年金問題(宙に浮いたり消えたり)

2007-06-02 12:05:35 | Weblog
 近所の田圃に水が張られた。早乙女の季節の到来だ。この季節、シャクナゲも咲く。シャクナゲは「石楠花」と書く。人知れず静かに咲く愁いを持った花だ。勿論、北アルプスなどの高山帯にも見られる。シャクナゲで思い出すのは、皇族流刑の地島根県の隠岐島。後醍醐天皇が流された、島後(とうご)の最高峰「大満寺(だいまんじ)山」に登った時、山頂に近い峻険な山肌に、故人の愁いを偲ぶかの様に淡いピンクの花を咲かせていた。岩場(石)に似合う高貴な香りの花だ。微かに日本海の潮の香りもした。「♪隠岐は絵の島花の島」、島の民謡「しげさ節」の素朴なメロディーが懐かしい。旅先での青春の1ページだ。

 松岡農水相自殺。気の毒だが、自ら死を選ぶなら、国民にきちんと事実を明かす勇気を持って欲しかった。松下電気、またリコール。想像もつかない台数。売ったらおしまいという企業体質は変わらない。募るは不信ばかりなり。関西テレビが「テレビ倫理・行動憲章」を制定した。社長はこう言った。「視聴者の批判に誠実に対応する」 本当か? ウソ(捏造)か? 良質なメディアを目指すのか。旧態依然のままか。究極のマインドコントローラーの行く末や如何に。憲法改正、僕は体育会系の人間でしかも肉体身上派。よって立場は微妙な「△」
 いいニュースもある。みのもんたより忙しいと言われている、宮崎の東国原知事。よくやっているね。藤原紀香ちゃんの結婚披露宴、ちょっとシラケた。淀川シジミ、安全宣言。良かった。京都のど真ん中、四条通の川端(かわばた)から烏丸(からすま)間がマイカー禁止。いいことだ。牝馬ウォッカ、64年振りにダービー制覇。女は強い。僕の好きなチューハイも大半がウオッカベースだ。これからも応援しょおーっと。 感激の大ニュースもある。河瀬直美監督作品「もがりの森」が、世界三大映画祭の一つ、カンヌ国際映画祭でグランプリを獲得した。彼女は、高校時代にバスケットボールのキャプテンで、国体出場経験もある体育会系だ。授賞式では、堂々として泣かせるスピーチをした。我が愛する明日香村のある奈良県を舞台に、メガホンを撮り続けている。シンが強そうな性格もいい。有難う。そしておめでとう。 以上、「/」「○」「△」混成フラッシュニュース終了。

 さあ、これからが今日の本番、怒りの「/」だ。勿論、ターゲットは年金問題。この問題は、老後の自分達の生活に直結する。年金を頼りにする人にとっては生命線だ。裕福な人ならまだしも、貧困層にはその比重が大きい。その年金保険料を現役時代に支払っているのに、「宙に浮いた年金記録」と「消えた年金記録」があるという。いずれも、ずさんな管理運営を続けて来た社会保険庁のミスだ。その職員のミスによって、まかり間違えば年金が貰えない。こんなのあり?! 悲痛な叫びが聞こえて来そうだ。本人は大変なショックだろう。僕のこのブログも間違いはある。誤字、脱字、勘違い。でもこの間違いは、赤恥を掻いた後、冷や汗を流しながら訂正すればそれで済むことだ。

 しかし、年金の場合、話はそう簡単に行かない。何故か? それは、もう忘却の彼方の遠い過去の話でも、本人が保険料を支払ったという証拠が要るからだ。具体的には、領収書と年金記録訂正の有無など。これがないと年金受給出来ない。例えば、口頭で「昔、確かに払った記憶がある」「確かに僕(私)は払いました。間違いありません」ではダメなのだ。とどのつまり、元はと言えば社会保険庁の責任なのだが、その自己責任を放棄して、高飛車に「証拠を見せて下さい」というヤカラがいる。つまり責任は受給対象者だ。おいおい、それは逆だろう。問題の根源はここにある。

 じゃあ、「宙に浮いた年金記録」と「消えた年金記録」とはいったい何だろう。宙に浮いた年金記録とは、97年の基礎年金番号導入後、転職や結婚などで、複数の年金手帳を持っている人の年金番号記録は、本人が「申請」すれば、社会保険庁で基礎年金番号記録に一本化される。しかし、申請しなければ、一本化されずに宙に浮く。これらの類だ。
 消えた年金記録とは、実際には保険料を納めたのに、社会保険庁のミスなどで記録が残っていないケースだ。これは、領収書や勤め先の給与明細書を保管していれば、回復可能だという。びっくりするのは、この国の詐欺的行為とも言える悪態によって、宙に浮いた年金記録が何と5000万件。そこに、消えた年金記録が複雑に入り込んで混乱に輪をかけているのが現状だ。

 ではどうするか? すでに宙に浮いた年金記録等の救済対策は、今国会に提出され、与党の数の論理で強行採決された。それによると、宙に浮いたり、消えたりした年金記録が見つかれば、5年という時効をなくして差額を支払う。また、年金漏れの解消に万全の措置を講じるということだ。
 具体的には、宙に浮いた年金記録を、すでに年金を貰っている人の基礎年金番号と突き合わせ、一致した人には、通知確認した上で不足分を支払う方針らしい。更に、これを手始めに、年金を貰っていない人や無年金の人にも注意を呼びかけ、それらの人も含めて、原簿とコンピューターで管理している記録を突き合わせ、原簿からの入力漏れがないかどうかを調べるという。何せ5000万件だ。作業を急がなければ不都合も充分起こり得る。まだまだ話は流動的だ。

 支払った保険料がきちんと記録され、年金となって支給されることは基本中の基本。国民の年金記録は1億人を超える。台帳方式から電算化し、バラバラになっていた記録を、複数の年金に入っていた人に「名寄せ」するのは大変な作業だろう。が、これは社会保険庁の「自己責任」だ。何とかして、宙に浮いた該当者の生命線を確保出来る様、職員の大奮起を促したい。消えた年金記録者への対応も同じことだ。誠意を以て尽くすのがパブリックサーバントの条理だろう。 それだけではない。大事な年金記録が、何故こんなにずさんに扱われたのか。何故これまで今回の様な措置を取ろうとしなかったのか。問題の根は相当に深い。国は、その原因と責任を明らかにしなければならない。今まで義務感にさいなまれながら保険料を支払った国民に罪はない。

 「人生も色々、会社も色々」小泉前首相は、軽々しくこう言った。年金改革で、勤務実態のない厚生年金加入を巧くかわした言葉だ。まさにケンモホロロ。そんな国会議員や裕福な人達の老後は快適なものだろう。それこそ「人生も色々」で困難も簡単にかわせる。しかし、そうは行かない本当に苦しい人達は全国に山といる。明日の生活さえままならないその日暮らしの人は、「ホロロ」と泣く以外生きる糧がないのだ。年金暮らしも格差社会の影響がモロに出る。弱者救済こそ国民本位の年金支給の真髄だろう。決して希望の記録が消えてはならない。そんな時、僕は声を大にしてこう叫びたい。「社会保険庁、消えるのはアンタや!!」と。

 年金支給の実態については、今すでに年金を貰っている人の方がより詳しい。疑問があれば、そんな人に聞くか、地元の社会保険事務所に問い合わせるのが一番だ。消えていると思われる記録も、大半は社会保険庁内部に残っていると言われている。また、現行制度から言えば、今まで保険料を支払っていれば、基本的に支払った期間の分だけ年金支給してくれるのは間違いない。この基本が崩れれば、それこそ年金制度総崩れだ。 
 余談だが、僕の記憶によれば、昔は商売人がより儲けていた。家業も、元気な内は続けられ定年もない。だから、自営業は国民年金で支給額が少ない。定年があるサラリーマンは、先を考え支給額の多い厚生年金になった。誰からともなくそう聞いた。公務員の共済年金も、おおむねその様ないきさつがあるだろう。あるいは間違いかも知れないが、時の情勢はそれに近いものがあったと推察出来る。だとすれば、意外にも出発点は割合淡白だったのだ。それが、世が変わって、人も変わって、今は複雑怪奇になった。それを除けば、ナニワともあれ有難い制度ではある。大いにその恩恵に与るべきだろう。

 ところが、出発は淡白だった年金制度も、今は、社会保険庁担当職員のコンピューターの入力一つで大問題になる。ある人にとってはそれが不幸の始まりだ。現にそんな人がいっぱいいるから、社会保険事務所に確認者が殺到し、日本中が大騒ぎだ。これもまた、現在のデジタル社会のシステムを象徴する出来事だろう。コンピューターのキーボードを打つのは淡白だが、入力した記録が浮いたり、消えたりすればさあ大変だ。その大変さを、本人(職員)はどう意識しているのだろうか。僕には、職員自身の中で、何かが浮いたり、消えたりしている様に思えてならない。そんな職員は、やはり浮世から消え去ってもらおう。

 ちなみに僕は、公務員時代の共済年金は絶対安泰だ。記録漏れなど先ず考えられない。プータロー、店長、ラーメン屋さんの修業時代の国民年金も証拠があるから大丈夫。問題は、転職が何度かあった現在の厚生年金だ。安心は禁物、再度石橋を叩いて確認する必要がある。年金受給は国民の権利だ。対象者は、慎重かつ大胆に対処するべきだろう。決して諦めて、泣き寝入りしてはならない。
 社会保険庁の職員とは、公務員時代にも付き合いはなかった。だが、官庁の中でも、異質で、特殊で、秘密性が強い印象があり、何度か違和感を覚えたのは確かだ。そんな体質が、一連のずさんな管理運営の呼び水になったことは明らかだ。

 社会保険庁への憤慨はこの辺にして、御門違いかも知れないが、最後に年金生活について考えてみたい。先ず年金生活が楽しい人を想像してみよう。マイホビー、海外旅行、まだまだ起業家等々「労後(老後)」の夢は際限なく広がる。年金に恵まれた人の特権だ。実に羨ましい。
 かたや、年金生活が楽しくない人はどうだろうか。当然苦しい。破鍋に綴蓋という心の持ち方にも限度がある。自分で望んだ訳ではないのに、人生の終着駅まで、あくせくしながらの生活だ。「全て国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」 憲法第25条の文言も空しく響く。ああ辛い。僕はどっちだろう。幸いにも僕には物欲、金銭欲があまりない。でも最低限度の定義は曖昧だ。せめて、心を豊かにして、健康で文化的な生活を送りたいものだ。

 だがしかし、宙に浮いたり、消えたりする年金記録で、文字通り老後の生活が宙に浮く人達のことを思うと、やはりいたたまれない。腹も立つ。心ない社会保険庁。憤りは治まりそうにない。僕もナニワのオバチャン、いやオッサンだ。日頃負けているオバチャン以上に怒りに燃えて、この際、社会保険庁が速やかにこの世から消えることを再々度「申請」する。申請者をずさんに扱うことなかれ。