ミートホープ社はやはり不正三昧だった。しかも24年前から。食品業界も不可解なことが多い。ずさんな年金記録の社保庁。民間ならばもうとっくに破産だ。住民税、どうして高いの? スポーツ特待生制度は本当に必要なの? 大阪市職員の学歴詐称(大学卒なのに高校卒)、自分の履歴を偽ってまで、何故? 疑問三昧だ。
役人の天下り。公益・特殊法人から民間まで、彼らは「わたり」鳥。この渡り鳥は、「迂回」もするし「抜け道」も通る。だがもうじき、「絶滅危惧種」になる筈だ。宮沢喜一元首相死去。東大から当時の大蔵省主計局へ。このルートは、超エリート官僚が通る道だと公務員時代に聞かされた。でも、僕の目には一昔前の政治家のイメージ、ただの良きオッサンとしか映らず。時代は流れている。
次に、僕にとってインパクトがあった出来事。長野県小谷(おたり)村のトンネル内で、自転車での日本一周を目前にした80歳の男性が交通事故死した。彼は、愛車で同県小川村の自宅を出て北上し、北海道を回って南下。日本各地を巡って目標到達まであと40キロのところで事故に遭ったという。
彼は、数年前に古い民家を借りて東京都内から移住し、その後「みすずかる信濃」で一人暮らしをしていた。今回の自転車旅行のきっかけは、2ヶ月かけた一昨年のドイツ一周。これで大いに自信がついたらしい。生前、彼はこう語った。「亡くなったかつての戦友には青春がなかった。彼らを偲んで、彼らのために青春をしているんです」 更に、「これからも夢をたくさん持って、悔いのない様に生きて行きたい」 こうも語っていたという。なのに、あと僅かで日本一周という夢の途中で彼は逝った。・・・・・。
僕は、戦友という心の絆を持たない戦争を知らない世代だ。しかし、高齢にも拘らず、都会を離れて一人で田舎暮らしをしながら、サバイバルに近い、自転車で日本一周という自分の夢を育んだ彼の生き様には、大いに共感を覚える。近未来に、僕はそんなサバイバルを考えている。天国へ旅立ったのは残念だが、彼には勇気を貰った。信濃の空に向かって合掌。
このブログを書き始めてから本当に新聞をよく読む。しかも、紙面の隅から隅までだ。人から見れば熱心に読んでいる様に思われるだろうが、客観的に見れば恐らく乱読の類だろう。覚えたことがすぐ右から左へ抜けて行く。真剣に読めば、半日はかかるだろう。でも、僕にすれば、乱読せざるを得ない内部事情がある。昔と違って、今は暇がない派遣社員の身。それこそ数分の時を惜しんでいるからだ。だから必然的に、短時間に集中して紙面と格闘しなければならない。こういう読み方になるとそれがまた楽しい。
若い頃であれば、自分の好きな記事を選択して、一般紙とスポーツ紙などを読み分けた。ゆっくり読んだり、早く読んだり、自由自在だ。時には、得意分野のクイズネタを探して読んだりした。数多くのクイズ番組に出場出来たのも、もしかしたら新聞の功名かも知れない。 今購読しているのは、朝日新聞だ。この一年間は随分とお世話になった。一言で言うなら、この期間、朝日新聞と共に同時進行したお陰で、僕自身かつてないほど社会勉強させてもらった。ブログの参考となる様な記事を提供してくれた記者に感謝し、なおかつ朝日新聞に有難うと言いたい思いがする。
その朝日新聞から、また今日の「/」のネタを貰った。「私たちは本当に自然が好きか」・・・・・先日、僕のハートを刺激するこんなタイトルの新刊が、ある文芸評論家の評と一緒に紹介されていた。僕は、自然という言葉には常に敏感だ。「旅」と並んで僕の大好きな言葉でもある。しかし、今回は素直にその言葉に反応出来なかった。タイトルが「本当に自然が好きか」ということは、間違いなく疑問形だ。語尾に「?」マークが付く。「自然が好きか嫌いか」ならまだ良かった。
僕はピンと来た。これは絶対、自然好きの人間を暗に批判する本だろうと。僕は、この手の本は興味はあるが大抵は読まない。自分の気持を「さがな目」されている様で、非常に気分が悪くなるからだ。そうでなければいいが・・・・・。 案の定、文芸評論家の評は、勿論悪意はないだろうが、僕にとっては厳しくもあり、判断が難しくもあり、反面嬉しくもある内容だった。それをそっくりここに書いてみよう。少し長いがインパクトがある。
「自然好きと自認(自任)する人は多いと思うけれども、はたして私たち日本人が真に自然好きかとなると、じつは甚だあやしいのである。証拠はいくらだってある。思い出してみてほしい。あなたの住まいの近隣で、近年どれほどの樹木が消えたかを。マンション建設のために伐採された屋敷林。駐車場などに転用されて消えた社寺林。落ち葉や日影を理由に強制的に剪定されて、見るも無惨な姿にされた街路樹」 ここまではその通りだろう。僕も同感だ。突然、先日このブログに書いた、見て見ぬふりをする不動産業者に、何の前触れもなく根こそぎ処分された、近所の「セミの木」こと「ソメイヨシノ」が頭に浮かんだ。人間の飽くなき欲望の追求により、今は跡形もなく無味乾燥した駐車場になっている。人間の身勝手に怒りを覚える。
「本書のキーワードはみどりである。原生自然(人の手の及ばない原始の自然)ではなく、ある程度人の手が加わり、人とのかかわりをもった環境自然(樹木、森林、庭、公園、山など)がここでいうみどり。経済発展や生活向上のためには、みどりを排除するのが当然であるかのような都市開発への疑問が論の基調をなす」 (中略) 「植物の生育条件に恵まれ、国土の66%を森林が占める日本では、みどりに対する渇望感が逆に薄かったのかもしれない。その価値観を変えるには、環境問題のみならず、歴史や文化の面から見たみどりの価値に気づくのが先決。その要求に120%応えてくれる本である」
いいではないか。僕も常々こう感じている。これはきっといい本なんだ。僕の判断ミスだった。是非読んでみよう。僕はそう思った。
だが、僕は文芸評論家の評に対して、さっき案の定と言った。そう言ったからには素直に喜べない記述もあったのだ。それは次の部分だ。 「ことは景観の変化にとどまらない。たまの休日に日帰り旅行に出かけ、やっぱり自然はいいね。リフレッシュするね。などと伸びをしたところでその実感は、車で出かけ峠で山を眺めて新鮮な空気を吸い、渓流の釣堀で養殖魚を釣ってアウトドア派と自称する程度の私たち」 これが僕の案の定の正体だ。当該本を読んでいるかいないかや評者の真の意図は別として、僕にはこの部分が大いに引っかかる。
断っておくが、この本がきっと素晴らしい内容の本であることは、容易に想像がつく。しかし、「自称アウトドア派」の僕が、この評者に反発するのは、「本当に自然が好きか」「・・・・・やっぱり自然はいいねとアウトドア派を自称する程度の私たち」 この2ヶ所の「言葉尻」であり、言葉のニュアンスなのだ。だから、この反発は大人気のない、大した根拠もない、言わば、ただ見た目だけの子供の喧嘩「程度」の発想かも知れない。よって、いいことも書いてくれた文芸評論家のことは、きっぱりと水に流してくれた方が良さそうだ。
さあここからが本論だ。まず2ヶ所の言葉尻の1点目、「本当に自然が好きか」について、僕なりの意見を言わせてもらおう。長くなるといけないので簡潔に述べよう。 僕は自然が好きだ。この言葉一つで、相手に充分僕の気持が伝えられると何時も思っている。しかし、いったい何処まで自然が好きかと、好きの程度を相手に問われれば、かなり返答に困るだろう。あるいは答えられないかも知れない。また、一般的な会話では、そんな程度問題などを追及する人はそうはいないのではないだろうか。
ここで僕が重視するのは、自然が好きですかと問われた時、「ハイ」と胸を張って答えられる人は、「自然を愛する優しい思いやりの心」を持っていなければならないということだ。これは、自然好きの人の絶対条件だと僕は思う。また、そんな心の持ち主でないと「本当の自然の良さ」は分からないものだ。もし仮に、私は自然が大好きなどと、さも人聞きがいい通り一遍の発言をする人が、旅に出て行く先々の大自然の中で、つい我を忘れて野生動植物を傷つけたり、ゴミを捨てたりしていたのでは言わずもがなだ。こんな人間は、独りよがりのエセ自然愛好家だろう。いかにも世間に居そうなこれらの人が集まると、自然はすぐ破壊されてしまう。そういう意味では、僕自身は自称ではあるが、相手(自然)を思いやる心と感性を持った、自然大好き人間だと自負している。
もう一つ気になるのが、「たまの休日に日帰り旅行に出かけ・・・・・アウトドア派と自称する程度」の私達の存在だ。これも、さっき言った様に自然を思いやる優しい心を持った人ならば、この程度で何ら問題はないだろう。それに、日本中の大多数の人々は、この程度のアウトドア派。特に、多忙なサラリーマンなどはこうするより他に選択肢がない。それこそ、日常の煩わしさを逃れて、たまの休日の非日常を楽しむのが常套手段だろう。そして、それが日頃のストレスの吐き出し口だ。主婦しかり学生しかり。
もし、アウトドアを存分に楽しもうとするならば、僕の様にサラリーマンを辞めて、ある一定期間、しかるべき場所で生活するのが一番だ。だが、そんなアウトドアを実現する人は極少数。ほとんどの人は実行不可能だ。また、実行にはかなりのプレッシャーがかかる。それが、人生のストレスに繋がる人もあながちいないとは言えない。人は出来得る限り、日常の中で非日常を楽しむ方がいい。非日常が長く続くと辛く寂しいものだ。そのことを僕も海外での一人旅で経験済み。
だいいち、アウトドアを自称する程度を脱却しようと思えば、アウトドアの専門家か、そんな職業を生業とする人間になるしかないだろう。僕は、そんなことをしてまで真のアウトドア派になりたくない。飽くまでも身の丈に合った、破鍋に綴蓋のアウトドア派志向だ。そして、アウトドアを楽しむ場所は、近所の街外れから日本全国、時によっては外国と多種多様。それでいいではないか。
今日はたまたま大人気ない、勘違いの新聞記事への批判になってしまった。何度も言うが、評論家の意図は他にある。しかし、翻って「本当に自然が好きか」という問いかけに敏感な日本人が、いったい何人いるのだろうか。僕はそのことの方についつい思考が行ってしまう。今の日本に、本当に真に自然を愛する人が増えたとするなら、それは僕の理想社会、桃源郷だ。僕の考えでは、そんな桃源郷には、いじめも、金儲け主義による過当競争も、巷で頻発する人間の愚かな犯罪などありとあらゆる日本の社会悪もない。欲が抑えられた人間味ある明るい社会だ。とても実現しそうにないと考えるより、そういった理想を追求するのもまた人間の良さだ。少なくても、何も言わない大自然はそのことを待ち望んでいる。「君達、本当に自然が好きか」 こう言っているに違いない。
ひょっとしたらあの本は、果たして何人が真の自然好きかとなるとはてなマークが付く、今の日本人へのアンチテーゼなのかも知れない。自然好きの程度も、アウトドア派の程度も、その他大勢の域を出ない僕は、あの本を読む価値が充分あるだろう。そう考えると、僕への警告本を思わず購入したくなる。「やっぱり自然はいいね。リフレッシュするね」などと呟きながら読んでみようか。今日のエアロビクス自転車の目的地は、アウトドア専門書を売っているご近所の本屋さんだ。紹介してくれた朝日新聞に再度感謝する。
最後に、今日取り上げた「私たちは本当に自然が好きか」の新刊は、6月29日付けの朝日新聞「天声人語」にも紹介されていた。僕がそれに先んじて、このブログの原稿を書いたのは、6月27日の水曜日の夜だ。ブログを発信するのは今日土曜日。タッチの差で先を越されてしまった。やはり僕は朝日新聞の二番煎じ。プロには敵わない。残念。
役人の天下り。公益・特殊法人から民間まで、彼らは「わたり」鳥。この渡り鳥は、「迂回」もするし「抜け道」も通る。だがもうじき、「絶滅危惧種」になる筈だ。宮沢喜一元首相死去。東大から当時の大蔵省主計局へ。このルートは、超エリート官僚が通る道だと公務員時代に聞かされた。でも、僕の目には一昔前の政治家のイメージ、ただの良きオッサンとしか映らず。時代は流れている。
次に、僕にとってインパクトがあった出来事。長野県小谷(おたり)村のトンネル内で、自転車での日本一周を目前にした80歳の男性が交通事故死した。彼は、愛車で同県小川村の自宅を出て北上し、北海道を回って南下。日本各地を巡って目標到達まであと40キロのところで事故に遭ったという。
彼は、数年前に古い民家を借りて東京都内から移住し、その後「みすずかる信濃」で一人暮らしをしていた。今回の自転車旅行のきっかけは、2ヶ月かけた一昨年のドイツ一周。これで大いに自信がついたらしい。生前、彼はこう語った。「亡くなったかつての戦友には青春がなかった。彼らを偲んで、彼らのために青春をしているんです」 更に、「これからも夢をたくさん持って、悔いのない様に生きて行きたい」 こうも語っていたという。なのに、あと僅かで日本一周という夢の途中で彼は逝った。・・・・・。
僕は、戦友という心の絆を持たない戦争を知らない世代だ。しかし、高齢にも拘らず、都会を離れて一人で田舎暮らしをしながら、サバイバルに近い、自転車で日本一周という自分の夢を育んだ彼の生き様には、大いに共感を覚える。近未来に、僕はそんなサバイバルを考えている。天国へ旅立ったのは残念だが、彼には勇気を貰った。信濃の空に向かって合掌。
このブログを書き始めてから本当に新聞をよく読む。しかも、紙面の隅から隅までだ。人から見れば熱心に読んでいる様に思われるだろうが、客観的に見れば恐らく乱読の類だろう。覚えたことがすぐ右から左へ抜けて行く。真剣に読めば、半日はかかるだろう。でも、僕にすれば、乱読せざるを得ない内部事情がある。昔と違って、今は暇がない派遣社員の身。それこそ数分の時を惜しんでいるからだ。だから必然的に、短時間に集中して紙面と格闘しなければならない。こういう読み方になるとそれがまた楽しい。
若い頃であれば、自分の好きな記事を選択して、一般紙とスポーツ紙などを読み分けた。ゆっくり読んだり、早く読んだり、自由自在だ。時には、得意分野のクイズネタを探して読んだりした。数多くのクイズ番組に出場出来たのも、もしかしたら新聞の功名かも知れない。 今購読しているのは、朝日新聞だ。この一年間は随分とお世話になった。一言で言うなら、この期間、朝日新聞と共に同時進行したお陰で、僕自身かつてないほど社会勉強させてもらった。ブログの参考となる様な記事を提供してくれた記者に感謝し、なおかつ朝日新聞に有難うと言いたい思いがする。
その朝日新聞から、また今日の「/」のネタを貰った。「私たちは本当に自然が好きか」・・・・・先日、僕のハートを刺激するこんなタイトルの新刊が、ある文芸評論家の評と一緒に紹介されていた。僕は、自然という言葉には常に敏感だ。「旅」と並んで僕の大好きな言葉でもある。しかし、今回は素直にその言葉に反応出来なかった。タイトルが「本当に自然が好きか」ということは、間違いなく疑問形だ。語尾に「?」マークが付く。「自然が好きか嫌いか」ならまだ良かった。
僕はピンと来た。これは絶対、自然好きの人間を暗に批判する本だろうと。僕は、この手の本は興味はあるが大抵は読まない。自分の気持を「さがな目」されている様で、非常に気分が悪くなるからだ。そうでなければいいが・・・・・。 案の定、文芸評論家の評は、勿論悪意はないだろうが、僕にとっては厳しくもあり、判断が難しくもあり、反面嬉しくもある内容だった。それをそっくりここに書いてみよう。少し長いがインパクトがある。
「自然好きと自認(自任)する人は多いと思うけれども、はたして私たち日本人が真に自然好きかとなると、じつは甚だあやしいのである。証拠はいくらだってある。思い出してみてほしい。あなたの住まいの近隣で、近年どれほどの樹木が消えたかを。マンション建設のために伐採された屋敷林。駐車場などに転用されて消えた社寺林。落ち葉や日影を理由に強制的に剪定されて、見るも無惨な姿にされた街路樹」 ここまではその通りだろう。僕も同感だ。突然、先日このブログに書いた、見て見ぬふりをする不動産業者に、何の前触れもなく根こそぎ処分された、近所の「セミの木」こと「ソメイヨシノ」が頭に浮かんだ。人間の飽くなき欲望の追求により、今は跡形もなく無味乾燥した駐車場になっている。人間の身勝手に怒りを覚える。
「本書のキーワードはみどりである。原生自然(人の手の及ばない原始の自然)ではなく、ある程度人の手が加わり、人とのかかわりをもった環境自然(樹木、森林、庭、公園、山など)がここでいうみどり。経済発展や生活向上のためには、みどりを排除するのが当然であるかのような都市開発への疑問が論の基調をなす」 (中略) 「植物の生育条件に恵まれ、国土の66%を森林が占める日本では、みどりに対する渇望感が逆に薄かったのかもしれない。その価値観を変えるには、環境問題のみならず、歴史や文化の面から見たみどりの価値に気づくのが先決。その要求に120%応えてくれる本である」
いいではないか。僕も常々こう感じている。これはきっといい本なんだ。僕の判断ミスだった。是非読んでみよう。僕はそう思った。
だが、僕は文芸評論家の評に対して、さっき案の定と言った。そう言ったからには素直に喜べない記述もあったのだ。それは次の部分だ。 「ことは景観の変化にとどまらない。たまの休日に日帰り旅行に出かけ、やっぱり自然はいいね。リフレッシュするね。などと伸びをしたところでその実感は、車で出かけ峠で山を眺めて新鮮な空気を吸い、渓流の釣堀で養殖魚を釣ってアウトドア派と自称する程度の私たち」 これが僕の案の定の正体だ。当該本を読んでいるかいないかや評者の真の意図は別として、僕にはこの部分が大いに引っかかる。
断っておくが、この本がきっと素晴らしい内容の本であることは、容易に想像がつく。しかし、「自称アウトドア派」の僕が、この評者に反発するのは、「本当に自然が好きか」「・・・・・やっぱり自然はいいねとアウトドア派を自称する程度の私たち」 この2ヶ所の「言葉尻」であり、言葉のニュアンスなのだ。だから、この反発は大人気のない、大した根拠もない、言わば、ただ見た目だけの子供の喧嘩「程度」の発想かも知れない。よって、いいことも書いてくれた文芸評論家のことは、きっぱりと水に流してくれた方が良さそうだ。
さあここからが本論だ。まず2ヶ所の言葉尻の1点目、「本当に自然が好きか」について、僕なりの意見を言わせてもらおう。長くなるといけないので簡潔に述べよう。 僕は自然が好きだ。この言葉一つで、相手に充分僕の気持が伝えられると何時も思っている。しかし、いったい何処まで自然が好きかと、好きの程度を相手に問われれば、かなり返答に困るだろう。あるいは答えられないかも知れない。また、一般的な会話では、そんな程度問題などを追及する人はそうはいないのではないだろうか。
ここで僕が重視するのは、自然が好きですかと問われた時、「ハイ」と胸を張って答えられる人は、「自然を愛する優しい思いやりの心」を持っていなければならないということだ。これは、自然好きの人の絶対条件だと僕は思う。また、そんな心の持ち主でないと「本当の自然の良さ」は分からないものだ。もし仮に、私は自然が大好きなどと、さも人聞きがいい通り一遍の発言をする人が、旅に出て行く先々の大自然の中で、つい我を忘れて野生動植物を傷つけたり、ゴミを捨てたりしていたのでは言わずもがなだ。こんな人間は、独りよがりのエセ自然愛好家だろう。いかにも世間に居そうなこれらの人が集まると、自然はすぐ破壊されてしまう。そういう意味では、僕自身は自称ではあるが、相手(自然)を思いやる心と感性を持った、自然大好き人間だと自負している。
もう一つ気になるのが、「たまの休日に日帰り旅行に出かけ・・・・・アウトドア派と自称する程度」の私達の存在だ。これも、さっき言った様に自然を思いやる優しい心を持った人ならば、この程度で何ら問題はないだろう。それに、日本中の大多数の人々は、この程度のアウトドア派。特に、多忙なサラリーマンなどはこうするより他に選択肢がない。それこそ、日常の煩わしさを逃れて、たまの休日の非日常を楽しむのが常套手段だろう。そして、それが日頃のストレスの吐き出し口だ。主婦しかり学生しかり。
もし、アウトドアを存分に楽しもうとするならば、僕の様にサラリーマンを辞めて、ある一定期間、しかるべき場所で生活するのが一番だ。だが、そんなアウトドアを実現する人は極少数。ほとんどの人は実行不可能だ。また、実行にはかなりのプレッシャーがかかる。それが、人生のストレスに繋がる人もあながちいないとは言えない。人は出来得る限り、日常の中で非日常を楽しむ方がいい。非日常が長く続くと辛く寂しいものだ。そのことを僕も海外での一人旅で経験済み。
だいいち、アウトドアを自称する程度を脱却しようと思えば、アウトドアの専門家か、そんな職業を生業とする人間になるしかないだろう。僕は、そんなことをしてまで真のアウトドア派になりたくない。飽くまでも身の丈に合った、破鍋に綴蓋のアウトドア派志向だ。そして、アウトドアを楽しむ場所は、近所の街外れから日本全国、時によっては外国と多種多様。それでいいではないか。
今日はたまたま大人気ない、勘違いの新聞記事への批判になってしまった。何度も言うが、評論家の意図は他にある。しかし、翻って「本当に自然が好きか」という問いかけに敏感な日本人が、いったい何人いるのだろうか。僕はそのことの方についつい思考が行ってしまう。今の日本に、本当に真に自然を愛する人が増えたとするなら、それは僕の理想社会、桃源郷だ。僕の考えでは、そんな桃源郷には、いじめも、金儲け主義による過当競争も、巷で頻発する人間の愚かな犯罪などありとあらゆる日本の社会悪もない。欲が抑えられた人間味ある明るい社会だ。とても実現しそうにないと考えるより、そういった理想を追求するのもまた人間の良さだ。少なくても、何も言わない大自然はそのことを待ち望んでいる。「君達、本当に自然が好きか」 こう言っているに違いない。
ひょっとしたらあの本は、果たして何人が真の自然好きかとなるとはてなマークが付く、今の日本人へのアンチテーゼなのかも知れない。自然好きの程度も、アウトドア派の程度も、その他大勢の域を出ない僕は、あの本を読む価値が充分あるだろう。そう考えると、僕への警告本を思わず購入したくなる。「やっぱり自然はいいね。リフレッシュするね」などと呟きながら読んでみようか。今日のエアロビクス自転車の目的地は、アウトドア専門書を売っているご近所の本屋さんだ。紹介してくれた朝日新聞に再度感謝する。
最後に、今日取り上げた「私たちは本当に自然が好きか」の新刊は、6月29日付けの朝日新聞「天声人語」にも紹介されていた。僕がそれに先んじて、このブログの原稿を書いたのは、6月27日の水曜日の夜だ。ブログを発信するのは今日土曜日。タッチの差で先を越されてしまった。やはり僕は朝日新聞の二番煎じ。プロには敵わない。残念。