「/(スラッシュ)」

ナニワのオッサン 怒りのエッセイ!!

/225.恐怖の「追い出し屋」(悪しき心を追い出せ)

2009-04-24 07:42:58 | Weblog
 タンポポの綿毛は行く春を思わせる。人間界は、ゴールデンウィーク前の静けさ。自然界は、どこへ行っても、柔らかい日差しを浴びて爽やかに光るピチピチグリーンの嵐だ。あのみずみずしさ。人間界よりも自然界を好む僕にとっては、秋の紅葉季と並んでお宝の季節だ。例によって、自転車エアロビクスのペダルも軽い。都会の中の小さな自然にはまり込み、行く先々の田んぼや用水路の畦道では、「♪オタマジャクシはカエルの子、ナマズの孫ではないわいな」とか、「ネギ坊主はネギの花」だとか、それこそ見たままの風景を自分なりに適当に解釈しながら、晩春近しの野を観察している。

 こんな気持になるのもこの時季ならでは、だろう。まさに今、森や林や田や畑が生きている、という実感がある。これは、まるで僕に「旅に出よ!!」と言っているかのようだ。JTB時刻表1000号を記念して、さあみんな、旅に出ようよ。それには、僕がもう入手した定額給付金、青春18キップを使うのがいい。狙いは「安近短」だ。自然は、人間を追い出したりはしないぞ。

 大阪造幣局の「桜の通り抜け」ではないが、僕の近くの公園にもややスケールの小さい通り抜けがある。その直下を通れば、「七重八重の恋文」が作り上げた八重桜のピンクの絨毯(じゅうたん)が目に染みる。傍らでは、子供達が四つ葉のクローバーを探している。ふと思い出すあの頃。ゲンゲ田の主の蔓(?)を編み上げながら、隣のミヨチャンと仲良く「ままごと」をしたこともあったっけ。

 舞妓はんが髪の毛に付けるお飾りのような藤の花も、見る者の興味をそそる。名付けて、藤棚の吊るし紫。そこには、独特の性が充満している。色気もある。成熟色の石楠花の艶やかさも、特筆ものだ。それに比べれば、素っ気なく咲くタンポポやめっきり少なくなったスミレには、未成熟のすがすがしさがある。彼、彼女達は恐らく「ゆるキャラ」だろう。思わず「君はひこにゃん?」「君はせんとくん?」などと声をかけたくなる。全ての花・草木が僕の要請に阿吽の呼吸で応えてくれているかのような気がする今日この頃、ご近所の通り抜けも決して侮(あなど)れない。

 この時季、雪解けが進んだ津軽平野に林檎の花が咲く。郷愁を呼ぶ忘れられない心象風景だ。津軽富士・お岩木山を背景に、主役の紅い蕾から「白い五弁の恋文」がページを開く。新鮮だ。この恋文は、清潔で明るい。花盛りの4月から5月の頃、津軽平野の林檎畑は壮観を呈し、言わば晩春の風物詩だ。「面つつむ、津軽をとめや花林檎」

 辛夷(こぶし)、雪割草など、寒い地方に咲く花を見ていると、僕は一種の「応援歌」に似た心境になる。さあ、もうひと踏ん張りだ、頑張って花咲けよ。そして、冬が長ければ長いほど、その感慨がより強くなるものだ。津軽の林檎も同じ。日本一と言われる弘前城の桜と共に、晩春とは言え春まだ浅き津軽の躍動はこの花からスタートする。さあ、ここでクイズだ。さて、林檎は何科の樹木だろうか? ・・・・・。正解は「バラ科」だ。クイズによく出題されるので、知っていた方も多い筈。津軽の林檎に向かって一言。君はバラより美しい。

 こんなご時世、元気になる言葉にも勇気づけられる。例えば、その代表が「イチロー」だ。彼の語りの特徴は、ごく自然に発する言葉。つまり、自然体だ。なのになぜか、深みがある。ひょっとして彼は饒舌家? とも思うが、それは違う。厳しいある一線、高い壁を乗り越えた人のみが持つ説得力であることは間違いない、だろう。彼の発言は今や、この国の政治家にはないお宝だ。それも、日本一の御墨付きという信頼が付いている。

 例えばの話しを続ける。かつて僕が越後へ行った時、ある居酒屋で地元の人がこう言っていた。「(米の)お菓子を食うのは越後を食うのと同じ。亀田製菓を始めとして、日本中の人が越後を食っている。米そのものも、ね」 これは説得力があった。 春スキーは軟雪でケガをしやすい。でも、強引に滑る僕は、そんなシャーベット状の雪質が大好きだった。ある時、「石井スポーツ」の馴染みの店員さんが僕に向かってこう言った。「たとえ『/』さんが好きでも、板が傷つきます。どっちを採るか、ですね」 これも納得。 もう一つ。大不況なのに最高益を上げる孤軍奮闘企業。これも申し分なし、何を言っても、アッパレ!! 

 次に、どうも不可解な言葉&その様。 和歌山カレー事件・林真須美被告の「真犯人は別にいる」 じゃあ、誰なんだ。 もはや乱開発の証人であるアフリカの砂漠にある「バオバブの木」を一躍有名にした「星の王子さま」の作者サンテグジュペリ。彼は天国で「こんな筈じゃなかった」と言っているだろう。 コンビニ、マック、モス、吉野家、松屋などなどがこぞって値引き合戦。嬉しいけど、横一線の芸のなさ。 SMAP・クサナギツヨシの全裸。「(公然ワイセツで)何が悪い」と彼は言った。言い過ぎだよ、剛くん。これはつまり、君のお宝「チンレツ罪」だ。

 もう少し続ける。大阪では、妻の愛人(内縁の夫)が妻の子を幼児虐待した後、ベランダに放置し、死亡させて、山中に捨てる、という半ば「追い出し行為」による殺人事件が起こった。この種の事件、僕はもうコメントする気になれない。なぜこうなる? 不可解な夫婦まがい。二人は死刑だ。腹が立つので、こう言っておく。 

 「中国人は管理が必要」と言った香港俳優ジャッキー・チェン。彼は中国の回し者? 片や、右翼団体の街宣車に植木鉢を投げつけたデビ夫人。彼女は北朝鮮の回し者?  日立の子会社の「エコ偽装」 これは言わずもがな。凄くタチが悪い。 「スラムドック」のヒロインを父親が身売り。そんなバカな。これって、ボリウッド流? 「スター誕生」のヒロイン、「♪お元気ですか」の清水由貴子さん。なぜ死んだ? 介護疲れ? あなたの元気な顔が救い、だったのに。 ベスト電器のワースト電器ぶり。いい加減にせい!! 

 最後にもう一つ。最近、目立って「ノーテンキ」な隣のオバチャン。これには理由がある。どうやら、旦那さんが彼女の居場所を妨害しているらしい。居場所の例えばが、ご近所だ。ご近所はオバチャンの活躍場所。これは、一大事だ。ので、ヤケクソになっているのだ。可哀想なオバチャン。この旦那さんの行為は、僕の側から見れば、追い出し屋に見える。ケシカラン。ので、僕はオバチャンに同情&味方する。と、今日はこんな追い出し屋に焦点を当てる。

 「敷金・礼金なし」の甘い誘い文句で「ゼロゼロ物件」に入居させておきながら、借主が少しでも家賃を滞納すれば、強引に退去を迫る「追い出し屋」の被害がまた増えつつある。この手口は、サラ金地獄に陥った多重債務者などをカモにする「悪質消費者金融業者」のやり方によく似ている。ということを考慮すれば、このような追い出し屋の本質は恐らく、ヤミ金に限らず、振り込め詐欺など裏の世界で暗躍する極悪非道のヤカラの成せる業だろう。

 これは、悪徳商法にありがちな「人の弱みに付け込む」という非人間的な行為。言わば、悪い方向で首尾一貫している手口だ、と言える。このがんじがらめのワナにはまり込む被害者も勿論、文字通り経済的弱者。つまり社会的に立場の弱い人達だ。この中には、派遣切りにあった非正規労働者やワーキングプア、ネットカフェ難民に準じる人々、資金力のない若い学生や社会人などが含まれている。そして、これらの人達を支援する各地の弁護士事務所や消費者センターには、今もなお相談に訪れる被害者が後を絶たない。

 僕は思う。確かに初期費用の安さばかりを求めるあまり、甘い言葉についつい誘惑されてしまう被害者にも責任がなくはない。しかし、自分自身が今置かれた立場や将来の生活事情を考えると、これ以外に選択肢はない、という心理も分からぬでもない。いずれにしても、巧言令色鮮(すくな)し仁、だ。羊頭狗肉の看板には細心の注意を払うべきだろう。でないと、いずれ自分が袋小路にはまり青息吐息になる。後悔、先に立たずだ。

 メディアで報道されている限りでは、追い出し屋の「報復行為」は陰湿で腹黒いものだ。僕にはとても人間業とは思えない。主犯は、借主が物件を借りる際に契約を結んだ連帯保証人、つまり「家賃保証会社」の社員だ。家主は大抵の場合、表には出ない。よって、社員の独壇場。彼らのしつこい脅かしや嫌がらせは、ヤクザのチンピラ並みだ。その威圧的な振る舞いで、入居者は泣き寝入りを余儀なくされる。このプレッシャーは、体験者のみぞ知るトラウマだろう。

 どんな体験かと言えば、例えば「執拗な督促」「鍵交換」「高額の違約金請求」「室内侵入」「家財処分」「強制退去」などなど。まるでプライバシーの侵害以外何ものでもない、傍若無人さだ。これらの「追い出し行為」の中には、入居契約の段階で早くも刑法や民放、消費者契約法に反する恐れがある条項が記載されていることに「該当するものがある」ことが分かった。

 それでは「違法性のある行為」を次に挙げる。まず「督促」だ。支払いを迫る文書を玄関などに掲示することは、「名誉毀損罪」などに該当する。次に「立ち入り」だが、これは借主の意思に反して住居に立ち入るという意味で、「住居侵入罪」などに問われる。また、別の鍵を取り付けて住居を使用出来なくする「ドアロック」は、「民事上の不法行為」など、借主の意思に反して家財を持ち出し処分する「家財撤去」は、「住居侵入罪」などに触れる、という。

 以上のような法に抵触する行為をする業者は、僕に言わせれば世の中のクズ、だ。にもかかわらず彼らは、社会的経済的弱者を「クズ扱い」しているのだ。言い換えれば、これなどは「滞納した負い目」に「法の無知」、そして、「借主の弱み」に用意周到、巧みに付け込む手口で、まさに「ヤミ金」そのもの、だ。こんな業界にトグロを巻いて集合しているのは、一度悪徳商法に手を染めたら止められない、ヤクザまがいの烏合の衆。つまり「悪い類は友を呼ぶ」構図だ。

 こうした構図の成れの果てが、「ゼロゼロ物件」を金儲けの的にして、闇の世界に暗躍しているのだ。その名は、ヤクザ並みの生業に形を変えた家賃保証業。と、こう言えるだろう。実際、被害状況はその名に相応しい不当な行為のオンパレード、だ。この行為に対して専門家は、「業者の暴走を止めさせ、裁判を起こすためにも、契約書や督促状などの書類を保管し、業者からの電話の内容もメモに記して、証拠を残して欲しい」と助言している。当然の判断だろう、と僕は感じる。

 日弁連の消費者問題対策委員長の弁護士も、こう語っている。「安全で平穏に居住する権利を侵害する追い出し屋を、まかり通らせてはならない」 この発言も当然だ。正真正銘の追い出し屋の話しはこの辺にして、委員長の発言の立場に立てば、今の日本には、形を変えた追い出し行為として見えてくるものがいっぱいある。つまり、追い出し屋に似たしかるべき人の行為の数々だ。先を急ぐので足早に言おう。日本のあらゆる格差の根源も、「貧困」だ。そう考えれば、この貧困者を追い出す行為をする政治家や企業家という「ヤカラ」も、後を絶たない。どころか、それがまかり通っている。

 たくさんあるが、例を最低限に止めて、まず国。ここへ来て目立つのは、厚顔無恥な政治家のやったセーフティーネットを無視した「弱者追い出し政策」だ。最近で僕が一番ショックだったのが、身元不明などの生活保護者を地方の「静養ホーム」に追い出した東京都墨田区の不祥事。行政の受け入れ態勢が整っていない不備なホームで、10人の悲しい犠牲者が出た。群馬県「たまゆら」の火災だ。ここは、「無届け施設」だった。これなども、追い出しという冷たい仕打ちだろう。

 派遣切りなどを恥もなく実行した大半の大企業トップも、同じ穴のムジナ。彼らは、非正規雇用者を「物扱い」している。これなども、人道的に見れば許し難い悪行で、決して放っておけない追い出し行為だ。また、メディアに露出している悪行は、今もなお氷山の一角に過ぎない。その意味では、今日のテーマの追い出し屋よりまだまし、チンピラよりもまだまし、などとは言っておれない、と僕は感じる。もっと例を挙げたいが、残念ながら時間がない。

 思えば、まだまだ日本のセーフティーネットは脆弱だ。万人に優しい政治家、企業家になれ、とは言わないけれど、弱者に優しい政治家や企業家になれ、と僕は言いたい。国民も己に関係ない弱者には、冷たい。押しつけがましい言い方で失礼だとは思うけど、僕はそんな冷たさを「弱者を追い出す行為」と呼びたい気もする。根底にあるのは、臭いものには蓋をする、君子、危うきに近寄らず、という考え方だ。これでは、庶民感覚が泣く。

 話しは少しそれるが、昔僕がドイツを旅した折、ミュンヘンの飲食店で現地の人と盛り上がった。彼らは、僕が日本人であることが分かると、親しみを込めて僕にこう言った。「日本人には慈悲がある」 「おーい、こんな場でいきなり仏さんの話しかよー」 これには、さすがの僕も参った。でも、僕は思った。彼らの基本はキリスト教などの西洋思想。己の考えを東洋人である僕と比較する時、一番分かり易いのがこの慈悲という「精神性」だろう、と。

 そう思うと、僕はなぜか嬉しかった。ダンケ、ダンケ。嬉しかった裏には、彼ら国民が人間も自然も同じであるとする考え方を人一倍持っている人種だから、という僕なりの信念があった。その考えを象徴するかのようにドイツでは、エリートと呼ばれる人が「森の番人」であったり、「川の守り人」だったりする。しかし、ドイツの大抵の人は、見た目我関せず、の人が多い。旅籠に行っても、レストランに行っても、ビヤホールに行っても、日本人のように入り口で「作り愛想のいい顔」をして、しつこく「いらっしゃいませ!!」などとは言わない。ので、マイペースの僕には、そんな淡白な態度がお気に入りで、居心地が凄く良かった。なぜなら、さっき言った通り彼らの国民性を心底知っていたからだ。

 比較して、今の日本人は「執拗」で「強制」されているかと思えるほど、他人に対しては関心があり過ぎるくらいある。なのに例えば、弱者の人に気を使ったり、弱者の気持を想像したりする心や配慮が欠けている。そう、自分で自分の優しい心を追い出しているのだ。慈悲の国なのに、なぜなんだ。格好だけ? これは今でも感じる日本人とドイツ人の人種の違いだ。この感慨を、心の外に追いやりたくはない。と、僕は痛感する。

 だから、もう一度忠言する。日本人よ、追い出すのはあくまで「悪しき心」だ。そして、羊頭狗肉の看板を捨てて、「良き心の慈悲者」になろう。人徳は、人間の外面より内面にあり、というドイツ旅行の教訓を僕は忘れない。それが日本中に拡がれば、すべての追い出し屋は半減する。それで充分だ。

/224.二度目のオリンピック(「人間力」と「音頭とり」)

2009-04-17 08:53:18 | Weblog
 過去最長と言えるほど親しんだ桜がついに散った。今は大半が葉桜だ。そして、季節は雨後の筍のように足早に移ろい、もう「きらめき」の新緑。長い晴天が続いた後の恵みの雨で、淀んだ空気が洗い流されたせいか、初々しい黄緑色が生き生きしている。山吹のだいだい黄金色、チューリップやツツジの濃淡赤色、馬酔木の白色が巧みにミックスされた色彩美は、まさにこの時季の自然の成せる業だ。見ていて飽きることがない。そんな丘陵地の岸辺や公園に「二つ折りの恋文」のチョウが飛んでいる。

 花の基調は赤・白・黄色組だが、おっとどっこい、「空中組」も負けてはいない。という全ての生物が躍動し山笑う姿に、僕はなぜか、1959年4月10日の「天皇皇后ご成婚祝賀パレード」の光景と女優吉永小百合さんの「デビュー時の顔」を思い浮かべた。あの頃の日本は、まさに春爛漫の雰囲気があったっけ。その一方で、これから始まる自然の熾烈な大レースは、我が胸に果てしない高揚感を呼び込む。こうでなくっちゃと、しばし自分に喝(かつ)を入れる。

 赤・白・黄色組の他にもう一つ、忘れてはならない「組」がある。それは、桃組=桃源郷だ。僕自身は、桃源郷という呼び名を桃だけに限定していない。そういう意味での日本の桃源郷の代表格は、山形県の最上川中上流域とみすずかる信濃の千曲川流域だろう。ちなみに僕は、色彩の豊かさという僅かな差で最上川流域の方に軍配を上げる。が、今日は桃組の多さを評価して、この場に千曲川の桃源郷旅情を呼び込みたい。

 甲斐、武蔵、信濃の三国を意味する「甲武信ヶ岳(こぶしがだけ)」に源を発する千曲川は、山を駆け、谷を巡り、佐久・塩田・善光寺平を潤す。くねくねと曲線を描きながら流れるその様は、まさに「千の曲り」だ。この川に沿って、JR小海線、JR信越本線などが走る。両線とも、日本有数の抒情詩を運ぶ郷愁列車が売りだ。八ヶ岳連峰、南アルプス、浅間山、姥捨山の「田毎(たごと)の月」、小諸懐古園。車窓に映る風景も飽きることがない。

 そして、春まだ浅き杏の里「更埴(こうしょく)」、ここが知る人ぞ知る桃源郷だ。この町は今、「千曲市」と名前を変えた。桃源郷の景観は、人それぞれの旅情をそそる「千曲川のスケッチ」と言えるだろう。目を閉じれば、この川のある風景は、悠久の時を超えて、今も変わらぬ詩情に溢れている。千に曲がる川を愛した画人・文人は多い。一茶、北斎、藤村、鷗外などなど。中でも藤村の「小諸なる古城のほとり、雲白く遊子悲しむ」は、あまりにも有名だ。

 では、ここでクイズだ。次の一茶の句を完成させよ。「信濃では、月と佛(ほとけ)と○○○○○」 ・・・・・。正解は「おらがそば」だ。更科蕎麦に戸隠蕎麦、我が信濃行脚で食べた蕎麦の数々は、なんでもかんでも絶品だ。でも、「おらの蕎麦」とするにはちと遠過ぎる。野沢菜と並んで、残念なことの一つだ。一茶の故郷も千曲川沿いに近い。更埴と桃と一茶と藤村と。この思いがある限り、貴方の旅のスケッチもきっと有意義なものになるに違いない。

 ところで、姨捨山の伝説は全国至るところにあるが、その名が実名で残るのはここ更埴だけだ。ここを含めて、幾多の氾濫を繰り返した千曲川。その河川敷は今、肥沃な畑の河岸段丘となり、桃や林檎の樹影を形作っている。そして、切り刻まれた稲田は天に達して、この桃源郷に彩を添えているのだ。勿論、桃源郷の本命は杏。杏よ、花つけ。杏よ、花咲け。一度見れば脳裏に刻み込まれる心象風景だろう。人はこれを「心のスケッチ」と呼ぶ。

 さあ、離れ難いけれど現実に戻る。今週はやたら、人や組織の「顔」が気になった。ランダムに、まずは哀愁や悲しみを誘う顔から。 桜色に染まっていた桜。涙の別れ、カルデロン・のり子ちゃん。「受粉バチ不足」に悲鳴を上げるイチゴ・スイカ農家。比良山系の滝壺で亡くなった我が街のプロボクサー、小松則幸選手。痩せ細った北の将軍様。スタートダッシュに失敗した我が阪神タイガース・真弓監督の閻魔顔。女子高生の下着に手を入れた防衛医大教授の逆転無罪顔。コメントすればこのオジサン、僕の目にはなぜか哀れに見えた。

 次は安らぎを覚える顔、顔、顔。 僕がかつて草野球で使用したことがある、庶民に惜しまれて去り行く広島市民球場と「ボール犬・ミッキー君」の穏やかな死。北アルプス「涸沢」の助っ人「岳沢(だけさわ)ヒュッテ」の再建を喜ぶ岳人。「スラムドック・ミリオネア」の心意気を持つインドの子供。真弓監督とは対照的な楽天・野村オジサンの恵比須顔。オバマ家の愛犬「ボー」のボーッとした顔。日本のお袋の味で育った健康な子供。3打席連続ホームランを2試合続けた金本アニキ。コメントすればあの年齢で、スゴイの一言。

 次はどっちでもいい、厚顔無恥な顔。 「裏技」の名手、郵便不正のヤカラ。15兆円の新経済対策・補正予算に自慢する麻生さん。これには是非一言、言いたい。あっ、そうさんよ、金を使うからいいの? 金をばらまくからいいの? はっきりしてよ、僕は、アイ・ドント・ノー。誤報の主なのに「まるで被害者」の週刊新潮。理事長・理事を辞任したものの「法人私有化」にはあくまで強気のドン・大久保。沈思黙考を脱却したのに、なぜか「不動明王面」の域に達している小沢さん。いったい何があったの? 

 とまあ、こんなところだが、僕が思うに、悲しくても、苦しくても、腹が立っても、魅力ある人間の顔は、人心を助ける吸引力がある。その代表格が、僕の場合「長嶋茂雄さん」であり「吉永小百合さん」だった。それは今でも、変わらない。今日のテーマはオリンピック。このオリンピックの開催にも、人間力という限りない力が働く、と僕は思っている。ましてや、そんな人達が「音頭とり」となれば、もう「鬼に金棒」だ。ということを、今回はあまり自分の意見に固執せず、「しつこさも中ぐらいなりおらが春」の心境で、至って気楽に「例えばの話し」で語ろうと思う。では出発。

 いよいよ東京オリンピックのIOC視察が始まった。いかに強気の石原知事でも、何とかしてゴマをすらねばならない。と、思っているだろう。その石原知事が、「(今回が)ダメなら次の4年後も立候補」と、本気でやる気になっている2016年・2回目の東京オリンピック開催に、僕は基本的には賛成だ。その理由は、開催理念でも、費用対効果でも、お祭り騒ぎの楽しみでも何でもない。ただ単に僕自身がスポーツ大好き人間だから、だ。

 また、先の「WBC・侍ジャパン」のあの国民の熱気を思えば、今のような暗い時代の人々の沈んだ心を活性化させる起爆剤、としてのオリンピック開催に、興味を示す人間がたくさんいるに違いないと思うし、いてもおかしくはないだろう。そういう意味では、国民が望んでいるエベントではないだろうか。南米のリオ、アメリカのシカゴなど他の候補地を退けて、是非とも開催に漕ぎ着けて欲しいものだ。

 なのでその点では、この話しが決して悪い話しではないのだ。つまり、僕としては今回の2回目のオリンピック開催が「/」ではなく、限りなく「○」に近い心境ではある。でも、この国の現実を考えれば、とてもそんな気になれない、というのが偽らざる僕の本音だ。だから、今のところ「△」としておこう。なぜだろう? この理由を一言で語れば、支持率が70%以上もあるのに、国民全体にこの目標に向かって努力して行く情熱と高揚感がイマイチ不足しているからだ。これは勿論、まだ決定されていないことと、さっき言ったこんな時代のせいもある。

 特に、1回目だった1964年の東京オリンピック前と比べてみると、そのことがよりはっきりする。しかし、あの頃と比べてみること自体、ナンセンスで少々無理がある、ことも確かだ。時は右肩上がりの高度経済成長期。日本国民には、ようやく欧米と肩を並べる先進国の仲間入りをした、という誇りと達成感があった。言わば、戦後の長いトンネルを一つ抜け、その先にある明るい未来を誰もが確信していたのだ。そしてそれが、国民一丸、目標に向かって行く情熱と高揚感となって前面に弾き出されていた。と、こう言える状態だった。

 比較して、現在はどうだろうか。日本だけではないにしても時代は今、最悪。そして、斜陽だ。また、先行き不透明な混沌閉塞社会。それこそ昔、「夢もちぼう(希望)もないよ!!」とギャグを飛ばした東京ぼん太さん(?)の世界だ。これで、「国民よ、一丸となれ」と、鼓舞を無理強いする方がおかしい。と、こうも言える。しかし、それでも僕はそう言った意見に反抗してでも、あの情熱と高揚感を甦らさせるために、過去の大会を振り返りたくなる人間の一人だ。

 僕にとって昭和39年の東京オリンピックは、それこそ夢の出来事で幼き青春のビックメモリーだ。当時僕は、中学2年生。同学年の意中の彼女に思いを寄せる嘴(くちばし)の黄色い活気ある純情少年だった。また、恋に憧れてもいたが、まだ見ぬ東京にも憧れていた。それに、オリンピック以外のビックエベントがもう一つあった。東海道新幹線の開通だ。あの新幹線に乗って、これまた憧れの人で、今も「聖人」と僕が思っている「長嶋茂雄さん」に会いに行く、という自分なりの情熱と高揚感があったのだ。

 当時の長嶋さんはまさに、男性なら誰もが夢見る「かっこ良さ」の象徴。元祖「カッコイイー」だ。言わずと知れた憧れの人がもう一人いた。「吉永小百合さん」だ。彼女のイメージは「清純な乙女」そのもの。あらゆる褒め言葉を寄せ集めてもまだ足りない、という女性でもあった。まさにこれは、「お高い禁断の果実」で近寄り難い存在。それもその筈、忘れもしない、あの頃巷では秘かに次のような会話がまことしやかに囁かれていた。「小百合ちゃんと美智子さん(皇后陛下)は、おしっこもしないし、ウンチもしない」と。 お粗末でハシタナイ、いかにも大阪らしいウワサ話だが、この庶民の会話に、お二人の高貴な神秘性を感じていただければ幸いだ。

 しかしながらそれでいて、僕の心の中には絶対に彼女にお近づきになれる、という妙な自信と親近感があったのだ。長嶋さんも、そうだ。これは今でも、僕の七不思議の一つだ。だから、このお二人が僕の絶大なる昭和のイメージ。そして、二人とも天国に旅立つまで、僕の昭和は終わらない。と、思っている。要はそれだけ、このお二人に人間の魅力としてのインパクトがあったのだ。僕の東京オリンピックも当然、お二人抜きにしては語れない。

 本当のことを言えば、このままこの話しを続けたい心境だが(新幹線が)脱線してはいけないので、この辺にしておく。が、前提としてあるのは、例えばオリンピックには、「人間力」の要素が深く係わる、ということだ。でも、もう一言大事なことを付加する。それは、「便利さや速さ(早さ)の象徴」としての新幹線の開通が、実は後々の日本の大自然がコンクリートの道によって破壊されて行く「前兆現象」であった、ということだ。

 つまり、あの前兆現象は、古き良き時代のスローライフから、スピードライフに変わる大転換期を暗示していたのだ。しかしその当時、国民の誰一人としてあの2大エベントを否定する人間はいなかった。と言うより、時代がそうさせた、のだ。そしてこれが、戦後の日本に終止符を打つ大事な大事な「お祭り騒ぎ」だったのである。

 だからどうなんだ、などと言う疑問符は、この際雲散霧消させる。が、今になって冷静な心と目で1回目の東京オリンピックを見れば、まだ決定されていないが、今開催の方が断然「エコ」を重視したという面では、意義のあるエベントなのかも知れない。調子に乗って、言い忘れない内にもう一つ言っておく。前回のオリンピック開催による日本の都会部分の大破壊は、「人災」と言ってもいいだろう。大阪も例外ではない。より破壊度が大きかったのが東京だ。代表的なものが首都高速。この建設で、東海道五十三次の拠点、いや、日本の道路網の起点である「日本橋」がコンクリートで覆い隠されてしまった。と同時に、渋谷川も暗渠になり、あの「♪春の小川♪」の生まれ故里が地下に沈んでしまった。などなど、負の側面を発掘すればキリがない。

 ここで重要人物に登場してもらう。その人の名は、京都の「桜守」である「佐野藤右衛門(とうえもん)さん」だ。日本一の「樹木医」を自任する桜守は、あるラジオの深夜番組でこう語っていた。「一つの『便利さ』は、その100倍の自然を破壊する」と。2回目の東京オリンピック開催にこだわる僕としては、決してこの言葉を強調したくはない。が、御大桜守さんの言われた名言をしみじみと噛みしめる時、論外として雲散霧消させてはならない言葉の重みを今一度ここで、有り難く咀嚼(そしゃく)したい思いだ。これぞ、職業訓の貴重なリメンバー。

 2回目の開催に向けて、石原さんは少々焦っているようだ。知事の年齢を考えれば、石原さんにとっても、これが忘れられない最後のリメンバーだろう。その心は、聖火=成果だ。気になるのは例えば、建設費2420億円、招致活動費150億円の出費だ。果たしてこれで、3兆円の経済効果が見込めるのだろうか。地球温暖化対策としては矛盾する「1000円高速」のように、かつての「オリンピック遺産」を使用する実に「コンパクト」な会場設定や交通事情なども、本音は金儲けでは? と、こう勘ぐるのは僕だけだろうか。もしそうであれば、石原知事の商魂のたくましさがミエミエだ。今の時代に合った価値観のオリンピックとは言えない気もする。

 かと言って、僕は前述した通り2回目の開催には反対ではない。やるからには、「採算も中ぐらいなり」のお祭り騒ぎがいい。かつては僕も、派手派手のスキーウェアでゲレンデを飾った。そのせいか、あまりに地味なオリンピックもどうかなあ、と思う。それにはまず、国民の意思表示が必要だ。その際のポイントは、国民をその気にさせる人間力と音頭とり、だ。仮に東京開催が決定すれば、いや、決定前でも国民を引きつけるトリガーとして、絶大な効果が見込める「歌声」を僕は希望する。つまりは「大会絶賛歌」だ。

 前回の大会では、南春夫さんが中心となって「東京五輪音頭」を歌った。あれに近いものがあると、一人一人の意識がまた変わってくる。ちなみに僕は、当時青春歌謡を歌わせば天下一品だった「舟木一夫さん」の「学園もの」のメロディーがなぜか、オリンピック開催とダブっている。余計な話しだが、僕の姉は恐らく、狂いに狂っていた「ビートルズ」の歌声だろう。今回の五輪支持率はそれなりに高い。でも、当てにはならない数字ではある。もし、誘致委員会がこの数字を信じるのであれば、僕はまず「何でもいいから国民誰もが歌える歌、または音頭」を早めに日本中に流すことを提案する。

 なぜなら、今の世の中、あまりにも幼稚だ。理論や理屈で説き伏せるのを嫌う若者も非常に多い。そんな時、デジタルで鍛えた単純細胞を刺激する役目を果たすのが、軽いメロディーだ。こう言うのには訳がある。あの重い雰囲気の中、学生運動で男のエキスが充満していた過激派の終焉時代に、突如沈黙を破って登場した女向きの軽いメロディーがある。「ユーミン」だ。学生運動の真っ只中では、彼女は変人扱いだったかも知れない。でも、今考えれば、彼女の登場はまさに、時代の成せる業。タイミングとして、ピッタリだった訳だ。

 以後彼女の歌はノンポリ系、元過激派を含める学生達にも浸透して、それまでの混沌、閉塞感を見事に破ってしまった。そして日本は、老若男女が非日常を謳歌する「旅の時代」へと変化して行った。その点において、彼女の存在はまさに、トリガーだったのだ。人々のモチベーションを変えた軽いメロディー、あの経験をオリンピックに生かすべきだろう。少々押し付けがましいが、時代は変わっても、歌の効果は無視出来ないと僕は思う。

 「ユーミン」の事は書かない方が良かったみたいだが、ついでに書く。そう言えば、東京オリンピックのマラソンの優勝者は、コンクリートの上を裸足で走った「アベベ」という「変人」だった。「東洋の魔女」もいた。その魔女を変幻自在に操ったのは、「鬼の大松監督」という「奇人」だった。その当時、テレビ番組の「シャボン玉ホリデー」には、一世を風靡した「植木等さん」という無責任男がいた。また、NHKの「ひょっこりひょうたん島」には、僕が大好きだった「ドン・ガバチョ」という「変な大統領」もいた。

 このように、オリンピック開催前後には、案外いい意味での「魑魅魍魎」が必要なのかも知れない。であれば、小説「太陽の季節」で当時の暗い若者の性を開放したのは、現東京都知事の「石原さん」だ。その意味で、石原さんもその仲間、と言わせてもらおう。知事も良き魑魅魍魎として、存分に「それらしさ」を発揮してもらいたい。黙っていては、知事の「人間力」が半減する。

 知事の音頭とりに乗ってくれそうなのが、暗雲が漂っているとは言え、仲の良さそうな「青春知事・森田健作さん」だ。僕の聖人「長嶋さん」が体調不良な今、代役は海の向こうにいる「世界の安打王・イチロー」だ。彼は今日、日本の最多安打記録を作った。離れていても人気者の彼は、凄い発信力がある。吉永小百合さん、舟木一夫さんは、まだまだ元気。この5人に橋下大阪府知事、東国原宮崎県知事を加えて、総勢6人、紅一点1人を含む「七人の侍」の登場だ。

 この7人の音頭とりは、強力だ。とにかく今は発信&発信あるのみ。「成せば成る」を合言葉に、国民をその気にさせくれ!! そうでもしないと危ないよ、石原さん。まっ、そう焦ることもない。あくまで今日の提言は、始めの約束通り「例えば」の話しだから、ネ。

/223.引き継がれる教育格差(子供に罪はない)

2009-04-10 13:58:37 | Weblog
 花冷えが去って、突然夏日が出現した。この極端さは何だ。僕にしては暑過ぎる。だけれども、京阪神地方の春は今、まさにピークだ。我が街の寝屋川沿いの道は、流れを挟んで「柳は緑、花は紅」の心地良い風景を醸し出している。ポカポカの昼春に思わずウトウト、の人も多いことだろう。やっと盛り上がった花見の宴。さあ、これからが本格的な花祭りだ。と、思いながら人恋しい気分で眺めていると、川面にはそろそろ、はかない命を終えた桜の花弁が浮かんでいる。「久方のひかりのどけき春の日に、しづ心なく花のちるらむ」

 今年の桜は、花冷えが効いて過去最長と言えるほど愛でられるらしい。良きこと、良きこと。花見の輪の中でいななく若駒は、赤ちゃん。その泣き声はさしずめ、ビージーズの小さな恋のメロディーか。それとも、明るい笑顔が印象的な小学生演歌歌手「さくらまやちゃん」の唸り節か。どちらにせよ、初々しい光景だ。子は鎹(かすがい)、子は宝。

 田園(ルーラル)と都市(アーバン)の合成語「ラーバン」は、言わば雑踏の中の小さな里山自然だ。そこに目をやる。気がつけば、田んぼ、畦道、路傍には、タンポポ、スミレ、レンゲの3点セットが出揃った。見晴るかす北摂の山々も、既に笑い始めた。透明感のある春光の下、ラーバンの中を我が自転車エアロビクスおじさんが、颯爽と疾風する。気分爽快。

 よく見れば、セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、の春の七草も顔を出している。チョウが飛ぶ。鳥が飛ぶ。虫が飛ぶ。畑も飛ぶ飛ぶ、家も飛ぶ。走れー走れー、鉄橋だ、鉄橋だ、楽しいな。このままナニワを飛び越して、僕の好きな明日香村「稲渕(いなぶち)」のゲンゲ田に行きたいなあ。これ本音。

 海の向こうのイタリアでは、地球のプレートが跳んでブチ切れた。地震は恐い。日本列島、政官民界にも良からぬウワサが飛ぶ。謎の北朝鮮の「飛翔体」、聞き慣れない変な名前だ。ありゃ何だ? 人工衛星? クイズであれば、正解は「テポドン2改良型ミサイル」という大型怪鳥。これに憤慨したナニワのご意見番がいる。「やしきたかじん」さんだ。「テポドン飛ばずに、(自分の)番組が飛んだ」と、怒る怒るたかじん。こんな冗談で済まされないのが、この国の危機管理能力だ。「どうなってんねん、防衛省!!」 誤報も飛ぶ飛ぶ、信用も飛ぶ。失敗だ、失態だ、楽しいな。これ皮肉。という訳で、僕はテポドンが本当に飛んだことより、この国の誤探知、誤報のチョンボの方が気になった。

 青春の巨匠「森田健作議員」にも、暗雲が飛んだ。青春の勲章は、くじけない心だ。僕はアニキを信じているぞ。「小沢さん」にも、まもなく悲劇のカタルシスが飛ぶようだ。「美少年酒造」には、裏金が飛んだ。「気象庁」の桜開花予想も飛ぶ。「ハリセンボン」の肺結核風評も飛んだ。長男の大麻所持で、「中村雅俊さん」のイメージが飛ばないか心配だ。かと思いきや、正真正銘の大型怪鳥「アフリカハゲコウ」が本当に飛んだ。信じられん、信じられん、楽しいな。これも皮肉。

 面白い話として、隣のオバチャンがこの二つを推奨する。一つ目。京都と大阪を襲った「京阪ミシュラン」は、一見さん禁止の古都、安くて美味い店が多い食いだおれ、が相手だ。手強いぞ。覚悟せよ、ミシュランさん。そうどすえ、そうだっせ。二つ目。ホンマに面白いのは、麻生さんだ。「支持率が上がったそうですね」としかるべき人に聞かれ、「あっ、そう」だって。ご近所なら、この手のシャレは大受けなのにね。しかし、それにしても最近の「あっ、そう」さんは、ご機嫌だね。何があったの? 

 と、こんなことを言っていたら、近い内にボケも進行するだろう。これではいけないと、持ち前の体育会系のノリで真剣勝負で臨んだ先週のクイズ「アタック25」 結果は、準パーフェクトだった。今のところテレビに出る気はサラサラないけれど、問題が易しかったせいもあるけれど、まだまだ僕の右脳は衰えていないと確信した。これぞ、肉体と精神の一致だ。そう言えば、僕の人生の中で(遊びを除いて)肉体と精神が見事なまでに一致していた「ラーメン店修行時代」のあのひたむきな2ヶ月間は、まさに一心不乱の汗とロマンがあった。これは言わば、僕の体質に合っているカタルシス(?)。もう一度チャレンジしたいことのひとつだ。

 春の陽気に誘われて、是非訪れてみようと思っていた交野(かたの)市にある「大阪市立大学理学部付属植物園」に行って来た。勿論、恒例の自転車エアロビクスの延長線上の出来事だ。目的は、僕がこの近辺の里山の妖精だと思っている「カタクリ」の花見。キツツキの「トントントントン」という威勢のいい穴掘りの音の下、咲いていました優しい彼女が。しおらしい紫色の花は、可憐。見方によっては、艶(あで)やか。ここにチョウが止まれば、まさに絶妙なコントラストだろうと思いつつ、ゆっくりと散策を楽しんだ。

 でも、実はもう一つ、じゃなくもう一人、会いたい人がいた。新年の地元情報誌のエッセイで、僕好みの便りを発信してくれた「植松千代美」さんだ。入り口の事務所に居るあの人に間違いない、と思ったけれど、やっぱり突然で失礼だからと、僕に似合わず謙虚になり過ぎて、結局声をかけられなかった。が、僕としては、これで彼女と縁が出来たと納得している。しかし、僕が相手を知らないだけに、気になるのは「性別」だ。もし、男だったらどうしよう? 

 ということで、ここでクイズだ。千代美さんのイメージを膨らませるかのような「カタクリ」の花は、さて何科の植物か? ・・・・・。正解は「ユリ科」だ。カタクリは、山野に群生する多年草。この花に似た高山植物は数多い。北アルプスなどの癒しのお花畑や湿原に咲く花々は、僕の胸を打って離さなかった。まるで「吉永小百合」さんのイメージそのもの、だからだ。カタクリの生みの親、ユリ科の花に「格差」はない。今日は、小細工せずにこのまま素直にテーマに突入する。

 小泉元首相は、自ら演出した劇場の絶頂期に「格差は昔からあった」と発言した。その通りだ。いつの世にも格差はあった。むしろ、格差ある社会は活力がある。人間は生まれながらに平等だ、と語った賢人はいたが、かといって格差のない社会何て日本有史以来あっただろうか。僕は疑問だ。ちなみに広辞苑によれば、格差とは「商品の標準品に対する品位の差、および価格・等級などの差」とあり、例として「賃金格差」が挙げられている。

 何だ、つまらない。たったこれだけ? 僕にとってこれは、期待外れだ。もう少しあれこれと説得性のある能書きを付けてくれよ、もっと多岐にわたる説明と解釈があるやろ!! と、正直こう思った。そう、天下の広辞苑でも、格差とはこの「程度」のものなのだ。それもそうだろう。いちいち僕の期待通り詳細に掲載していたら、ページがいくつあっても足らない。だから、格差とは行き着くところ、「程度問題」であるのだ。納得。

 それはそうと、そういう目で見れば、僕は何となく格差の意味が分かるような気がする。なぜなら、古代から現代まで、この程度の感覚で、程度問題としての格差がはびこって来たのだろう。そして、僕のつたない歴史認識で言えば、それが激動の時代を生み、血生臭い戦いを経て、また次の新しい時代に突入して行ったのだ。また、そんな時代は、大雑把に言ってこの程度問題としての格差が大き過ぎたから、しかるべき人々の反感を買ったのだろう、と思う。

 などと、余り意味がないこんな邪文(造語)をダラダラと書き並べても、逆に僕の程度が疑われる。よって、この辺で行稼ぎの前文をストップするが、我々庶民感覚で言えば、格差とは「己が他人と比べて生活程度に相当差があるなあ」とか、「あいつは俺より恵まれ過ぎだ」とかという思いを抱き、かつそれを身近にしみじみ感じることを指すのだろう。うん、これなら益々納得出来る。しかし、そう感じながらも、この程度問題をそんなに気にせず、裕福・貧困みんなが我慢と痛みを共有して、せっせと働いていた古き良き時代があったことも、ここに特筆しておく。

 さあ、今回のテーマは、この程度問題としての「現世の格差」だ。「現在の格差」と言った方がいいかも知れない。僕なりの結論から言えば、僕が生きた昭和25年6月15日以来今が最悪だ、と感じる。もっと厳密に言えば、メディアなど情報の絶対量を考慮しても、僕が物心ついた頃から今まで、それこそ身近に肌で感じる格差は「戦後最悪だ」と、そんな気がする。

 代表的なものが、「雇用」「地方」「教育」「医療」「住宅」などだ。この根源は、詰まるところ「貧困」だろう。加えて現在は、この貧困者に「敗者復活のチャンス」が全くない。これが、唯一無二の大きな欠点だ。つまり、貧困者には格差が解消されるような夢と希望が持てない、のだ。だから、必然的にこの格差は拡大している。一般的に格差を感じる要因は、他人との生活水準の差だ。これは前述した。日本人の中には今、数年前と比べると生活水準が下がったと思う人が、半分以上いる。良否は別として、憂うべき現象には違いない。

 その原因は、国と企業にある。有効な政策が打てない、政治が良くない、日本経済の低迷、世界経済が回復しない、助け合いが薄らいでいる、メディアなどの機能不全、少子化で国力が減退している、などなどだ。ましてやこんなご時世、グローバル化の中で大きく沈没する日本社会に、格差を解消させる具体策が見い出せない有り様だ。かつての「一億総中流社会」は、いったいどこへ行ってしまったのだろうか。懐かしい言葉のように思われる。

 これらの格差の中で今日採り上げたいのが、それぞれの人生のスタートに直面する「教育格差」だ。要するに、貧困者には最初から格差ありき。そして一番気になるのは、現在のような教育格差が拡大すれば、後々の雇用にも、住宅にも、結婚にも、否応なしに影響を及ぼし、貧困者それぞれの人生を悪い方向に大きく左右することだ。つまり、格差の根源である貧困がすっかりそのまま次の世代に引き継がれて行く、というこの層にとって最悪のシナリオが待ち受けている悲しい実態が、この国にはある。

 言い換えればこれは、人生のスタートで貧困者の親の子供が、何も知らない内に落ちこぼれ人間になってしまう、という絶対に許してはならない格差であることだ。このことは、ある重要な負の側面を示唆している。それはまさに、人間が生まれながらに平等であるという賢人の「聖説」(造語)に相反するものだろう。つまりは、大事な大事な「生存の権利」に繋がる格差、なのだ。へんな言い方だが、これは決して、本人が望んでいる格差ではない。

 望んではいないのに、何も分からないまま、格差の真っ只中に落ちこぼれて行く子供に、果たして罪はあるだろうか。物心ついた子供は空しい現実を前に、戸惑いながらきっとこう考えるだろう。「何で僕(私)だけこんな運命になるの」と。そして、心の中でこう呟く。「なぜ? そんなバカな」 この悲しい現実は、人は生まれながらに、その環境において、格差がある、ということであり、親の貧富、つまり他力によって、己の能力を発揮する機会と可能性が不当に阻害されている、のだ。そのために、知らず知らずの内に格差という名の奈落の底へ落とされてしまう。こんなことが本当にあっていいのだろうか。

 もっと言えば、その前の前の段階の「産まれた子供」は、その瞬間、才能の発揮されるべき可能性において、平等でなければならない、という国家や社会の基本から外れているのだ。このことこそ、教育という名の下、最も力を入れなければならない大きな懸念事項だろう。いや、もしかしてこの点に尽きる、と言ってもいいのではないだろうか。これが汚点となって、貧困者の子供は日本社会の底辺から抜け出せない運命になっているのだ。この運命の諸悪の根源は、国や社会の無責任さ。だから、悲しいかな教育格差も引き継がれる。残念なことだ。僕は怒りを覚える。

 もっともこれは、僕独自の考え方ではなく、教育も含めて、あらゆる人々がその個々の才能をフルに動かして、格差を追究しうる社会を求める有識者は多い。また、このような社会こそ、真に人々を幸福にする活力ある社会なのだ。それを思えば、彼らの指摘通り、今の格差論がいささか感傷論に傾いているキライがあるように、僕も思う。

 教育格差は、感傷論で済まされるものではない。現実の寒々とした教育格差は、誰が考えても分かる「各家庭の経済力の差」だ。このような個人の努力を遙かに超える格差は、もはや「大差別」ではないか。ここを無視してはいけない。直視すべきだ。この差別によって、小学生で早くも頭を打った貧困者の子供は、将来を見通せる物心がつく中学・高校で、更に落ちこぼれる。陰では、社会に反発して不良化する。そして勿論、大学にも入れない。などと、悪いことだらけだ。その一方で、小学、中高校と順調に羽を伸ばし、国立大や有名私大に合格するのは、高所得家庭の子供。と、こういう構図になる。

 この構図が意味するものは、もう言うまでもない。結局、金持ちが徳をし、貧乏人には敗者復活のチャンスさえない、のだ。これが見え透いているから、今の教育格差が目立つのだろう。つまり、親の経済格差が子供の学力格差となり、やがては未来に向けての意欲や希望格差となって、ついには人生の転落に繋がる、という貧乏くじを引くのが文字通り貧困家庭の子供なのだ。彼(彼女)らが社会から抹殺される運命を辿る前に、入り口部分で手を差し延べることが出来ないものだろうか。今こそ国や社会は、このような子供達を守るために、人生のスタートラインは平等でなければならないという原点に返って、具体的な施策を考える時だろう。センチメンタル一辺倒では、この問題は解決しない。

 話し変わって、先日テレビで大阪大学の入学式の様子が放映されていた。アナウンサーの説明をよく聞くと、何と子供の数より親の数の方が多いのだ。僕はショックだった。最高学府の熱気と情熱、学問の多様さを映すべき場が、親の見栄の多様さのみを映し出す場に変質していた現実に、半分失望した。また、親と子供の慣れ合いのような笑顔にも嫌味な気分になり、おめでとうと素直に反応する気になれなかった。つまり、それ以上のものを何も感じなかったのだ。

 彼、彼女らは恐らく、親も含めて限られた教育の勝ち組だろう。それにしては、あの場の雰囲気はどっちもどっちで、根底に流れている筈の希望すれば必ずこうなる、あるいは努力すれば報われる、といった感慨深げが一切なかった。ましてや、そういったエネルギーも、親の必要以上の介入で抹殺されていた。結果、どう見てもあの光景は陳腐で幼稚。言わば「勝ち誇りキャンパス」といったところ、だった。トドのつまりは、双方とも高学歴に対応した「偏差値階層」の大量出現だ。

 僕は思う。昔はもう少しあらゆる階層がシャッフルされた、それこそ教育格差を超越した「ごった煮」の入学風景が展開されていた。それに比べれば、今はまるで至って淡白な京都名物「奥丹の湯豆腐」のようだ。確かに高くて美味いかも知れないが、何かが足りない。湯豆腐を「ちゃんこ鍋」にチェンジして、濃厚で「格差程度もほどほど」の教育の場を、僕は望む。なぜなら、学問のスタートは雑多で、平等なのだから。来年の阪大入学式は、今年を「引き継ぐ」ことがないよう僕は期待する。

/222.厚顔無恥な世襲議員(不可解な魑魅魍魎)

2009-04-03 07:44:16 | Weblog
 春眠暁を覚えず、といきたいところだが、天は信長、相当うつけだ。この時季にしては、花冷えが厳しい卯月のスタートとなった。でも僕には、この寒気が芽吹きの春に丁度合っているように感じる。京阪神地方の桜は、これから一週間が見頃だろう。今春の桜日本は、世相を反映している。そのせいで、ご近所の公園では花見客が本当に少ない。気分的にはもっと盛り上がって欲しいのだが。

 特に、低温下での夜の宴席はさっぱりだ。提灯やぼんぼりの灯りでライトアップされているにもかかわらず、花見酒を楽しんでいるのはごく少数のグループ。このお寒い光景は、まさに「花見の光と影」だ。そんな中、若者のグループが今流行の演歌「のろま大将」を合唱していた。盛り上がるでもなく、白けるでもなく、実に不況に合ったスローな演出だ、と僕は思った。

 甲子園の球春が終わった。長崎の清峰高校、おめでとう。やっぱり春は投手力だ。プロ野球は本日3日開幕する。1000円高速、神戸9クルーズの「ナックル姫」は既に始動している。社会人への門出の入社式、未来の宝塚ジェンヌ誕生、祇園の都をどり。などなど、新しい芽吹きが我が心の息吹を呼び込む。そして、物によっては値下げの春だ。郊外では、春耕の畑田の上空に早くも燕が来鳴きて、けたたましくこう叫んでいる。「おーい、春だよ~ん」 彼らは、のろまではない。かなりのスピード狂だ。まるで、僕のスキーテクニックのように、春を急(せ)かす。

 若芽の萌黄色が眩しいそんな折、気になるのは3月~4月が年間ピークだという火事の多さだ。旧吉田茂邸も焼けた。不審火や放火も混じる。この際、対岸の火事ではなく、みんな気をつけよう。もっと気になるのは、京都の哲学の道沿いにある日本画家・橋本関雪の旧宅「白沙村荘(はくさそんそう)茶室」の火事だ。白沙村荘は、知る人ぞ知る隠れた京のデートスポット。僕も若い頃、彼女とよく足を運んだ。侘び、寂び、雅、いずれを採っても情緒満点の雰囲気を色濃く残す癒しの地だけに、非常に残念な思いがする。これは、隣のオバチャンも同意見だ。

 京の花見には絶好のデートスポットがある。「○○」だ。祇園の街を横断して鴨川へと合流する○○は、四季折々の自然を映し、今も水鳥の遊ぶ姿が目撃される。 「かにかくにぎおんはこひし寝るときも、枕のしたを水のながるる」 祇園を愛した文人達は、この○○の風情を心底から堪能した。桜と柳がミックスされた和服姿がよく似合う花街に、超一級の情緒を添える○○の流れは、まさに「春の川を隔てて男女哉」だ。

 ○○を挟んで多くのお茶屋の座敷がよしず越しに見渡せる。出格子に駒寄せ、花街の華やぎが彷彿とする「切り通し界隈」は、夜ライトアップされれば、より幻想的な雰囲気に包まれる。これぞ、京都NO1の品と艶のあるデートスポットだ。さて、ここでクイズ。江戸時代からの生活路と佇まいを川面に映すこの川の名は? ・・・・・。正解は「白川」だ。くれぐれも昔の僕のように、ここで「白川夜船」にならぬことをお祈り致します。

 さあ、巷のしがらみに戻る。先を急ぐので、今日は「統治力情勢」の一件だけ。民主党の「クリーンなイメージ」が落ちると言われる小沢さんのダーティーさ。このダメージを考えると、僕はもう岡田さんでいいと思う。イメージ戦略で言うなら、全契約社員を正規雇用にした「広島電鉄」のような、地域環境と文化保護を前面に押し出した「ビール1本、寄付1円」のアサヒ・スーパードライのような、インパクトのある費用対効果を考えないと、先が危ないよ、民主党さん。

 もうちょっと言うなら、ナポリに近い風光明媚なあの「イタリア・アマルフィー」の文化海岸も、一歩間違えば断崖絶壁の先に死の淵があるからネ。ついでに言うなら、間もなく開通する立山・黒部アルペンルートの先にある北アルプスの峰々にも、クレオパトラニードル、ダイテングラード、ジャンダルムなど耳に優しいネーミングの「憧れの地」があるけれど、雪が解ければ、一歩間違うと奈落の底に落ちる実体の峻嶮な岸壁だからネ。これに、何かを感じて欲しい。

 調子に乗ってもう二つ付け加える。阪神タイガースには確かに「カーネル効果」があったけれど、あの大頭の助っ人「メンチ」が早くも「ピンチ」だ。彼は、ファンに愛想のいいメンチを切り過ぎて、すっかり自分本来のバッティングを忘れてしまい、今や戦士として危ういからネ。春の小川にも、昔は助っ人があった。用水路と水田の狭間の「魚道」だ。そこでは色んな魚がすくすく育ち、まさに癒しの道だった。今の民主党は、クリーンとダーティーの狭間に「小沢さん」がいる。この魚道は、それこそ007の「危機一髪」だ。だから民主党よ、もっとクリーンなイメージの政党は他にもあるけれど、統治力を中長期的に考えて、小沢さんはこの辺で「見納め」にしといた方がエエのとちゃう? 今日のテーマもそんな話しだ。

 麻生首相は年頭に「定額給付金は『我々のベストの案』」と語り、例によって例の口調で胸を張って見せた。ところが、この支離滅裂な景気対策は、国民の声、つまり民意を反映したものではなく、その場限りの大愚策で、結論としては「これほど評判の悪いベストも珍しい」という最悪の結果になった。主因は、今最も優先すべき雇用・失業者対策など、日本社会のセーフティーネットを完全無視したものであったからだ。そのお陰で、「誰もがホームレスに近い存在」の非正規労働者が路上に溢れた。しかし、当の首相に反省の弁は全くない。全国の世論調査でも、首相の「ベスト」が国民の「ワースト」になったというのに、だ。僕は首相の脳神経を疑う。

 国民一人一人に現金を配るという自慢のアイデアがこれほど不評なのは、金額の多少の是非はともかく、首相が世間の厳しい現実の空気を読んでいない証拠だろう。事実、僕の周辺では今でも、この定額給付金の評判はすこぶる悪い。仲のいい隣のオバチャンなどは、それこそ不満タラタラだ。それでも、ねじれ国会でこの法案は議決された。こうなった以上、国民は「くれるものは拒まず」で「有り難くお上の金を受け取ります」と極めて従順な態度で、この政策に甘んじる以外に選択肢はないのだ。そして、多少の不満はあっても、私は拒否しますと言う人はほとんどいない。なるほど、これも道理だ。

 このように、お国の政策には民意が首相に届かないことが多過ぎる。と言うより、国民の目には、訳の分からないところ(霞ヶ関)で跋扈する魑魅魍魎が大事なことを有耶無耶に決めてしまっている、というように見え、そのために被害妄想的な感情を持つ人が多いのだ。これを名付けて、国民の政治家に対する「一億総乖離現象」だ。これは、この国の政治家の目線が国民の目線に立っていない、ということだろう。ましてや、現在は100年に1度と言われるこんな大危機の時代だ。国の指導者たるものは、激しい状況の変化に機敏に反応し、民意に沿った政策を大胆に実行する「君子は豹変す」くらいのインパクトのある政治姿勢、が国民から求められている。

 なのに、未だ愚策に終始して「夜郎自大」に振舞う麻生首相の統治能力を、僕は疑わざるを得ない。この状況はまさに、国民にとって不幸そのもの。視点が定まらずあっちへこっちへとふらつく「朝令暮改」の麻生政権の足元に明日はない、と僕は感じる。が、野党の民主党も攻める側の姿勢としては、お粗末で弱過ぎる。どっちもどっちだ。だから、この際言っておく。こんな民意に相反した「税金の無駄遣い」に鈍感なのはやはり、政治家自体が「死に至る病」と言われる「世襲病」の処方箋を持たないからだろう。

 民主党の岡田克也元代表は、自民党の世襲体質をそんな言い方で批判していたが、僕に言わせれば世襲議員がより少ない民主党も大きなことは言えない。と、思っている。しかし今日は、そのことはさて置く。問題なのは与党の世襲体質だ。政治家が子や孫、娘婿などに議席を引き継ぐ世襲の衆院議員は、今の自民党の3分の1に達するという。特に目立つのが最近の首相で、ここ三代は歴代首相の孫、息子、孫だ。これらの首相がいったい何をしたかは、もう言う必要がないだろう。

 世襲議員は、強固な地元後援会などを引き継ぐから、選挙には断然有利だ。大事な政治資金も、現状では先代の残した資金の多くを事実上引き継ぐ。つまり、ジバン、カンバン、カバンの確保に何一つ苦労しない。その上に、親と同じ選挙区で立候補する。これは、新たなるチャレンジャーにとっては分厚い壁だ。それどころか、現実として闘う前に結果が分かるので、立候補を断念せざるを得ない裏事情がある人が多いのではないだろうか。よって、新鮮味がない旧態依然選挙を繰り返す結果になるのだ。そしてそれが、政権政党である自民党を悪い方向に衰弱させ、ひいては政治全体の停滞感をもたらす要因となるのだろう。

 こうして有権者には絶えず不満が募り、やがて「誰がやっても同じ」という政治家乖離現象が蔓延して行く。ズバリこれが実情だ。確かにこれが実情だが、そんなことより一番的を射た問題点は、これらの世襲議員が小さい頃から何不自由なく「おぼっちゃま」「おじょうちゃま」で育っていることだ。つまり、家庭が裕福な親の七光り、親のスネかじり。こんな体質で育った議員に、我々庶民の心が読める筈がない。ましてや、政治家の究極の使命である「弱者救済」に、果たして目が向くだろうか。ここが、世襲議員の最大の弱点だと僕は思う。

 その結果、世襲議員の「死に至る病」が「国民を死に至らせる病」に変質して、奈落の底へ底へと導いているのだ。と、こう思ったりもする。また、それだけこの病は悪質なのだ、とも。続けて言えば、だから格差社会になる、だから社会のセーフティーネットから外れる人が増えるのだ。もし彼らが、まともな神経を持つ人間であれば、今の日本は絶対おかしいと素直に感じるのじゃないだろうか。けれども反応が鈍い彼らは、もう完全に神経が麻痺しているとしか、僕には思えない。

 世界金融危機に際しても、言いたいことは同じだ。もしこの国の首相に、社会情勢と国民の声、つまり民意を謙虚な姿勢で読む心があれば、緊張感と危機感を我が意として共有し、もっと適切な政策を実行出来た筈だ。それもしないで、党利党略に明け暮れ、国内外に税金の無駄遣いを繰り返した「政治力喪失」に、国民はもう飽き飽きしているのだ。きっとそうに違いない。

 このような首相を含める世襲議員の慢性的な「死に至る病」が、チャレンジ精神に満ち満ちた若手議員にも知らず知らずの内に蔓延して、行き着くところは「第二の魑魅魍魎」を生み出すという最悪の構図になる。つまり、本来政治家が持っている犠牲的精神をのっけから蝕んでいるのは、筋金入りの世襲議員の体質に他ならない、のだ。こうなると、必然的に政策も甘くなるし、目先ばかりに目が行って、中長期的に物事を考えることもない。その結果が、言わずと知れた「ハコモノ」の公共事業であり、「第三セクター」であり、「かんぽの宿」でもあるのだ。

 例えば、鳩山総務相が「安売り」と異議を唱えた「かんぽの宿」の問題だ。これも恐らく、遡(さかのぼ)れば古い体質を引き継いだ魑魅魍魎の成せる業だろう。今度の売却は、2400億円かけた国民の資産を109億円で売るのか、という強い反発を生んだ。これに対して日本郵政は、なぜ(期限を切られたため)スピード優先で一括売却だったのか、入札は公正だったのか、新たな買い手は決まるのか、を有耶無耶にしか説明していない。

 愚の骨頂は、たった1万円で売却された「かんぽの宿」が6千万円で、評価額千円の運動場が4千9百万円でそれぞれ転売された「大失態」だ。これはまさに、驚天動地で言葉がない。更には、宿泊・保養施設の備品の売却前の駆け込み購入だ。詳細は書かないが、このやり方で、日本郵政は売却価格に付加価値を付けたかったのだろうか。とんだ思い違いとしか言いようがない。

 これらの「当初の事業」に共通しているのは、民間の感覚なら多分首を横に振るであろう採算がとれない、見通しの甘い、親方日の丸の事前の評価額だ。この国の役人のあやふやな評価によって、今や地方の財政が圧迫されている。橋下大阪府知事の国に対する暴言も確かにうなずける、この有り様だ。これらの金のかかる事業は、やった後で何が優先されるべきだったのか、いったい何が必要だったのかをいくら議論しても、もう遅い。所詮、後の祭りだ。

 また、何でもかんでもただやればいい、と言うものでもない。やる前に、時の社会情勢、経済情勢などなどを充分考慮した上で、相対的・客観的にそれが妥当な事業であるのかどうかを判断する具体的な根拠が必要なのだ。それを度返しした結果が、成果の乏しい公共事業になり、全国のあちこちに負の遺産となって行き場のないまま空虚に点在している、というのがこの国の税金の無駄遣いの実体だ。

 じゃあ、どうすればいいのかは、時間の都合であれこれ言わない。が、一つ言えることは、これまでお役人がやったことへの反省を込めた「不必要な公共事業」などの「撤退ルール作り」だろう。つまり、「無駄遣いがないか」を第三者の目で一つ一つ厳しくチェックする制度の構築だ。でないと、過去の経験からまたまた今後も、官僚を含めた国の魑魅魍魎による「世襲病」の成れの果てが恥を晒す空しい風景が、日本中に残されてしまう。

 訳の分からぬ魑魅魍魎の処方箋として有効な良薬はやはり、一般的ではあっても、最も重要な民意という名のエキスを持った「特効薬」だろう。その特効薬のエキスを一つ間違えば、国民にとって政治家は「死に至る病」を併発する悪い「クスリ」になる。裏を返せば、クスリは「リスク」だ。リスクに弱いぼっちゃん議員には、それくらいの政策プレッシャーを感じながら、ことに当たって欲しいものだ。そうすれば、自ずと国民にも飽きられはしないだろう。世襲議員に告げる。全ての人とは言わないが、「厚顔無恥」なその面捨てて、真に己がベストの心身に、豹変せよ!!