「/(スラッシュ)」

ナニワのオッサン 怒りのエッセイ!!

/2.テレビ(究極のマインドコントローラー)

2006-06-24 14:28:27 | Weblog
 テレビはあらゆる情報メディアの帝王だ。高度成長期に綺羅星の如く登場して以来、あのローマ帝国の繁栄を思わせる勢いで、日本全国津々浦々を今や完全征服して、その支配下に治め、なおも一億人以上の国民に影響を与え続けている。 「全ての道はテレビに通ず」 これ程多くの人々の心をつかんだブツは今まであったろうか? そういう意味で、テレビは究極のマインドコントローラーだ。(こういう言葉があるかどうか僕は解らない。ただ英語の法則に従ったまでだが、もし間違っていたなら僕の造語としておく。)
 そして、この偉大で巨大な情報源(ハード)は、時には刺激的に、時には感動的に動く映像を人々に提供し、新聞や小説にはないまさに百聞は一見にしかずの世界を映し出す。 このテレビの中では、今を時めく小泉首相も、女性の憧れキムタクも、明石家さんまも、モーニング娘も、スマップも、引田天功のイリュージョンも全て小さな主人公(ソフト)に過ぎない。
 
 しかし、この帝王にも大きな死角(欠点)がある。 それは制作者側(テレビ局)に、視聴者側である我々の、要望や意見が充分反映されていないというトラウマだ。 すなわち、この二者間には双方向性が全くと言っていい程存在せず、テレビ局が一方的に番組をタレ流しているという、悲しい現実がある。 かつ、そんなテレビ局の絶対的権威は「視聴率」という名の魔物だ。 つまり、この視聴率さえ良ければ、番組の内容の質は問われないのだ。 そして、その一方で、そのような番組を見ながら日々一喜一憂し、時にはひたすら射幸心をあおられ、時には自分自身がマインドコントロールされている、これまた悲しい視聴者の現実がある。 このことを前提として、思いつくままに話を進めよう。

 僕が初めてテレビを目にした昭和30年代、世の中は底抜けに明るく皆んな優しかった。日本がまだ発展途上と言われた高度成長期だ。未来に対する希望と夢が街中にあふれていた。 テレビから忘れ得ぬヒーローも誕生した。 力道山、長島、王、鉄腕アトム、月光仮面、鉄人28号etc。懐かしいあの頃。 テレビ創生期は、テレビがテレビとして一番存在感があった時期だと僕は思う。 日本全国民がテレビの前にかじりつき、この最大の娯楽に心から感謝した。この言い方は決して言い過ぎではない。 まさに、テレビが巨星の如く輝いていた時代だ。
 今から考えるとこの時代、我々視聴者の意思がテレビ局に伝わっていたかどうかは別として(多分伝わっていたのだろう。)、視聴者が番組を見て感じる正しいか悪いかの境目を、制作者側が確実に自ら把握していたのではないかと僕は思っている。そして、例えば人間が、あるいは世の中がこうあるべきだというポリシーが、その番組の中で暗黙のうちに、視聴者に伝わっていたような気がする。僕も、番組を見た後で何かほのぼのとした気持ちになったものだ。(この辺は、言葉で表現するのは非常に難しい。あくまでも感覚的なものだ。)
 つまり、テレビ局側と視聴者側の双方向性は、自然な形で存在していたと思う。一言で言えば、テレビ局の最大の使命である「視聴者の信頼に充分答えられていた」のだ。 確かに時代背景を考えれば、現在に比べ我々の娯楽や情報の絶対量が少なかったから、たまたまテレビに国民がハマったのだという人もいる。が、僕はそうは思わない。 何故ならあの時代、僕の周囲にも色んな情報を運んでくれる人達が多数いて、今より質のいい話題には事欠かなかったし、テレビ以外の娯楽や健全な遊びは山ほどあった。 だから、単純に時代が違うという言葉では片付けられないと心底思う。 

 ともかく、あれから50年以上、今やテレビは毎日の生活に欠かせないお宝の一つになった。子供から大人まで、テレビを1日1度も見ない人間は恐らくいないだろう。テレビはそれほど多くの国民に浸透している。 だから、当然テレビが社会に対して与える影響は極めて大きく、テレビ抜きにして今の日本は語れない。 そういう意味での社会貢献度は一応認めなければならないし、僕も充分その恩恵を受けている。
 また、ITなどの技術革新の進歩は早く、今ではインターネットやケイタイにテレビの機能が内蔵され、放送と通信の融合が叫ばれている。 近い将来は、光ファイバーを使った高速大容量回線(ブロードバンド)の時代が確実にやってくる。これだけ多くの情報が色んな手段を使って配信されると、少なくても僕はどの情報を選択すればいいのか迷ってしまう。 そして、これだけ多くの情報があるということは、当然悪い情報も氾濫するということだ。
 テレビ創生期に比べて、今のテレビの質の悪さは特筆者だ。たいていの番組が視聴率一本やりで、何のポリシーもないままに一人歩きしている。自己満足ってヤツだ。視聴者はカヤの外。 結局のところこの視聴者の選択が、テレビをいいものにも悪いものにも変えられる筈なのだが、それもままならない現実がある。 ムシャクシャするから先を急ごう。

 今のテレビをズバリ評価すれば、必ずしもいい番組があるとは言い難い。玉石混交ならまだいいが、むしろ、ウンザリする番組の方がはるかに多い。 「見てよかったなあ」と思う番組は数える程度で、人に有害な番組が多過ぎる。それこそ、テレビが社会悪を生んでいる。
 この実情を表現するには、大雨時の河川の異常気象を想定すると分かり易い。
「連日の大雨(大量の情報発信)で、河川の水かさが増し、頼みの綱である堤防(視聴者の意見)が決壊しました。それにより一部住民に被害が出ている見込みです。なお、この河川の氾濫については、事前に当局(テレビ局)の方から(視聴率の都合で)、警報・注意報は発表されていませんでした。」ということだ。
 大量の情報の氾濫によって、人々に害を与えているテレビの現実。 解って頂けただろうか?

 とにかく、需要と供給の原則から言っても、現在は情報過多で、視聴者が受け入れる許容範囲の限界をすでに越してしまっているのだ。 そして、本来我々が知る必要のない、生活上有益とは言えない情報が世間にまかり通っている。ここが、大きな問題なのだ。 テレビの公共性を考えれば、これは立派な社会悪だ。 特に、虚構と現実の区別がつかず世の中がよく解っていない若者が、テレビの魔の手に陥り易い。(だけど、最近は若者だけとは言えない面がある。)
 さあ、次は各論に移って、僕なりに解りやすく斬って行こう。

 まず、攻撃対象に上げなければならないのは、バブル時代のバカ騒ぎは多少おさまったとは言え、本質的には何も変わっていないワイドショーやバラエティー番組だ。 人の不幸やスキャンダルをネタに、内容的にはそれこそ2流週刊誌並みだ。
何時も変わりばえしない芸のない芸能人と、その道の専門家といわれる知識人などをメンバーに、あれこれ議論(?)しているように一応見えるが、余りにも下らな過ぎて心の残るものが何もない。結論があるようでない。全てが曖昧。サッカーならばレッドカードの連発だ。 まさに、「大山鳴動して鼠一匹」の世界だ。
 どうでもいいことに感心したり、誰にでも出来る事を必要以上にデッチ上げたり、あそこまで質が下がってしまえば、もはや知ってる知らないのレベルではなく、特定マニアのための裏ネタと言った方が正しい。 生活する上で本当に発信しなければならないことを棚に上げ、わざわざ余計な情報を取り上げて面白おかしくチャカしているだけだ。 あんなのを真剣に見ていたら、僕などは一種の感覚マヒを起こして、逆に疲れてしまう。 制作者は我々に面白い情報を与えようと、ひたすらネタをコネ回しているのだろうが、コネ回し過ぎてかえってメリハリがない。要するに番組が軽率過ぎるのだ。 もっと大事なことが他にあるだろうが! 制作者の意思やポリシーは何処へ行ったのか? テレビの娯楽が、いい意味での娯楽でなくなった今の時代のコンセプトは他に絶対ある筈だ。 「巧言令色鮮し仁」ただ表面をサプライズで飾り立て、取り繕っていても真実は見えてこない。

 ホームドラマのたぐいだってそうだ。簡潔に言って、ストーリーが現実離れし過ぎている。 例えばラブストーリー。大半が偶然偶然の重なり合い。そんな事って我々の日常の生活にそうあるだろうか? もし仮にあったとして、それがハッピーエンドで終わることはあり得ないし、そんな事信じられない。 要は人気俳優を集めた愛の安売り番組だ。本当の愛を無視してしまっている。人間の愛なんて所詮底が浅いものだ。始まりはドラマチックでお互いいい関係であっても、金や人間関係のシガラミが混ざり合うともろくも崩れ去る。そういう現実を考えるとストーリーに重みがない。「愛」よりはむしろ「意地」で成り立っている人間関係に僕には映る。 それならばいっそのこと、「金」か「人間性」かどっちをとる?くらいのテーマにして、もっとトコトン突きつめて、ヒューマニズムに溢れた現実的な「愛」ストーリーを僕は期待している。

 話がちょっと横道にそれるかも知れないが、そのことで僕が感じていることがある。 とにかく、日本のテレビの場合、たとえテレビ局側が一般視聴者にかなり近づいて番組を作ったとしても、それでも、テレビと一般視聴者の間にはギャップがあり過ぎると思う。 これは、一般の人が個人の努力で生活感を余り出さないように努力しているせいかも知れないが、何か自然じゃないものを僕は感じてしまう。
その差は学生と社会人。勿論、取材側のテレビ局の方が、その無責任さにおいて学生だ。 テレビ局の方は、現実を投影している様に見せてはいるが、実はこれも「台本通り」の進行なのだ。 ここにテレビ局のおごりがある。 我々は貴方を主人公に、撮ってあげているのだぞという思い上がりだ。 現実に近づけば近づくほど「虚構」に見える。こんなことがあるのだろうか? 僕には説明がつかないが、これがフィクションとしてのテレビの本質だろう。 現実に近づいても、本当の現実は他の所にあるのだ。だから、テレビには騙されやすい。
 (書いている僕も解からなくなった。適当に解釈してほしい。) 
しかし、これは問題じゃないか。テレビの側に現実への理解度があれば、その画面を通じて「うまく表現できているな」という信頼も生まれてくるのだが、残念ながら現状では視聴者が主役にもかかわらず、その蔭でテレビ局の使命を受けた御意見番の芸能人が実質の主人公として、画面の中でうるさく踊っている。よっぽどのことがない限り、主役としての一般視聴者の本音が出ることはないのだ。

 
じゃあこのような番組は、誰がどの様にして作られているのだろうか?
普通一つの番組を作るには、テレビ局とテレビの制作企画会社が絡んでいると言われている。今はたいていの場合、制作企画会社が主体となって作られているようだ。 そこにスタッフが加わり、演出などの味付けをする。その結果、手本となるのが「台本」だ。だから、例えば芸能人が出演する場合、たいてい台本通りに話すことになる。したがって、どんな番組でも、即興、アドリブ、出たとこ勝負というのはまず考えにくく、進行時間も考慮しつつ、ほとんど台本通り喋っていると思った方がいい。 視聴者参加番組の場合も同様に、本人が喋ることに芸能人ほどの強制はないにしても、かなり台本通り進行していると考えていい。
 そのせいか、特に民間のバラエティーやクイズ番組を見ていると、妙に番組自体に緊張感がない。ほとんどが芸能人の台本通りの演技だろう。その内に番組の裏側も見え見えになってくる。特に芸能人参加のその種の番組に至っては、クイズなどの答えがあらかじめ与えられているような、または、芸能人のキャラクターや役目が、前もって決められているような、一連の流れを僕などは感じてしまう。
 だから、当然新鮮味も感じないし、2~3回見れば番組のストーリーが読み取れる。 こうなると、「またヤラセ、またサクラ、またパクリ」の連続で、もう見る気がしなくなる。それを見破れないほど視聴者はバカではない。 勿論、純粋な素人参加のクイズ番組のように、リアルな緊張感のあるものもあるが、たいていの場合テレビ局側の意見が反映され、淡々と番組が進行しているという印象はぬぐえない。僕にすればこの淡々としている「出演者総演技」の方が全く面白くない。余りにも肩が凝らないように作り過ぎだ。その上に出演者の言葉も、さも視聴者の目を意識し過ぎ。 つまり、始めから出来レースなのだ。 何故あれだけ視聴者に媚びる必要があるのだろうか。これじゃ悪徳商法と何ら変わらない。 それならいっそのこと、一度クサイ演技ナシの本音のバラエティーや、僕の好きなクイズ番組をやってみたらどうだろう。 それこそ出演者の個性が前面に出て、ハラハラドキドキのスリルを味わいながら、「変わりばえした芸能人」に、僕は大いに拍手を送るに違いない。

 スポーツ番組も、余計な演出はかえって邪魔者だ。リアルなそのままの現場の雰囲気を、素直に伝えてくれる方が僕は有難い。 解説者も多弁過ぎる。 余計な解説は視聴者も余り期待していないだろう。 格闘技やマラソンなどでの、企画倒れと思われるオーバーな音響効果や、アナウンサーの大絶叫もしかり。 スポーツ好きの僕には迷惑三昧だ。そうすることによって、かえって現場の緊張感や臨場感、迫力が薄れて逆効果になっている。ロックコンサートじゃあるまいし、スリルや勝負を楽しむ番組ではスタンダードが一番だ。
 それに、「止めてよー!」と言いたいのが、負けた選手へのしつこい変なインタビュー。負けた人の気持ちは見た目で充分わかる。 勝ち負けの世界では、負けた人を擁護するより突き放す善意のプレッシャー(僕はこう呼んでいる)が必要だ。後で凄い反発力となって跳ね返って来る。 やる方にも見る方にも(ここが味噌)ある程度のプレッシャーは、スポーツにはつきものなのだ。

 ほかに、斬らなければならないテレビのジャンルは山ほどあるが、僕の「/」はまだまだ先が長い。こればかりに時間を費やしている訳にも行かない。 よって番組の中身を斬る方は、尻すぼみになったがこの辺で止めておく。 しかし、一つだけ言えることは、ニュースや報道番組にしても、特番にしても、グルメ番組にしても、コマーシャルにしても、解りやすく言えば、あの手この手を使って変に「飾り過ぎ」なのだ。 厚化粧の女に言うのではないが、ウワベだけではなく、もっと「内面を鍛えなさい」ということだ。
 また、その中には報道姿勢が大げさ過ぎて、一歩間違えば事故に繋がりかねないものもあるし、人のプライバシーを明らかに侵害しているものもある。 これなどは、人道的な見地から大きな問題になっており、もっと規制すべきだろう。 そして、シンプルイズベスト。 その上で番組の意図するものが我々にストレートに伝わって来る。 言わばテレビの「原点回帰型」の制作コンセプトを僕自身は期待している。

 その点そうでない番組もある。それこそバッシングを受けている嫌いはある例えばNHKと、民間のドキュメント番組だ。これらには、フィクションにはない生の良さを感じる。 人間にしろ、自然や生物が主役であるにしろズバリ言って嘘がない。 そこに出ている主人公は、人間タレントより素晴らしいタレントが一杯いる。 何故人は自身が感覚マヒになる、偶然偶然の有りもしないドラマばかり見て、こんな本当のドラマを見ないのか僕は不思議に思う。 我々の現実に近い所にこんな筋書きのない感動のドラマがあるのに、何故大多数の人々はそれを見ようとしないのか。 それとも人は無理に現実から目をそむけているのだろうか。 僕は、下手なストーリーが読める非現実的なドラマなどが大嫌いだ。 あの阪神大震災のガレキの山から立ち上がった人々や、ナホトカ号の重油流出ドキュメントをこの目にした時、人間のその姿に励まされ、また感動した。 僕にとっては、まさに本当のドラマだった。
 そういえば、まだいい番組(テレビ局)があった。サンテレビ局だ。 あの阪神大震災の時に、真に被災者側の立場に立っての報道を貫いたこのテレビ局には、正直に拍手を送りたい。 何より首尾一貫して、弱者の立場を訴え続けたその姿勢は尊敬に値する。僕は、後に色々な書物でその内容を知り、報道の原点を知った思いがした。 ただただ頭を下げるしかない。

 何度も言うが、テレビと世の中のかかわりは深すぎるほど深い。それゆえ、社会に与える影響もNO1だ。 日本中を揺るがせた「小泉劇場」を見ても一目瞭然だ。これに異論を唱える人は誰もいないだろう。 だから、テレビ番組に携わっている
人の考え方や制作する内容次第で、それが人々の感動を呼び生きる糧になるか、あるいは悪玉の温床になるかはまさに「紙一重」だ。 この点は番組制作者にとっては、充分考慮すべき大事な要素だ。

 また、テレビがあるために、言わば「耳学問」だけが先行し、自分が何も行動しないのに、何かいいことをやり遂げた人に対する「賛美」の言葉だけは、誰もが知っているという「奇麗事社会」「言葉先行型社会」になってしまったのは残念なことだ。 自分が何も行動しないで、人に期待するという姿勢も年寄りくさいし、少々女々しすぎる。 これもテレビ社会の欠点だろう。
 テレビは、人間を保守的にするという人もいる。 例えば、何か嫌なことがあれば、その悔しさをバネにして一念発起、自分を成功に導いたなどという美談は昔はよくあった。それが今はどうか? 嫌な事があれば、テレビを見て忘れてしまうというのがオチだろう。 テレビが現実逃避の道具になってしまっている。
 テレビは、その見ている姿通り人間を「受身」にするという人もいる。 「受身」から生まれるものは何もない。自分から動いて始めて何かが生まれる。 「受身」生活から脱却するのには、じっくり考える静かな時間が必要だ。
 だから僕は思う。一度テレビを朝から夕方までの何時間かを休憩にしたらどうだろう。 今の様に軽いシャボン玉の様な番組ではなく、国民が本当に見たいと思う番組を、制作者が信念を持って提供出来る様になるまで、しばらく休憩するのだ。 言わばテレビのリストラだ。 バブル以降、多くのサラリーマンが味わった悲哀を、家庭の主婦も学生も子供も経験するのだ。 現状視聴者にとって特にマイナスはないだろう。 それが丁度自分を見つめ直すいい機会になって、視聴者テレビ局共に、何か斬新な答えが出るかもしれない。

 そう言えばこんなこともあった。 あの長野オリンピック前の、信州八方SKI場のロッジに泊まった時、偶然にも日本に研修に来ていた外国の若者と、夕食後の宴会の席で大いに盛り上がったことがある。その時外国の若者が日本の印象として、「日本は美しく素晴らしい国なのに、何故自然を粗末にするの」とか、「日本人は、はっきりしない」とかの意見が出た後、全員が声を揃えて口にするのは「日本のテレビはサイテー」という言葉だった。どうも外国の若者には、バラエティー番組などは「子供がはしゃいでいる」ぐらいの印象しか残っていない様だ。 SKIでいえば「ボーゲン」並みで、「ウエーデルン」に上達するまでもっと練習しなさいということだ。 文化の違いはあるにしても、この言葉は当時の僕には相当ショックだった。 しかし、今になって思えば、彼、彼女達は素直に日本のことを評価していたんだなあと感心する。 「子供がはしゃいでいる」ということは、日本のテレビが大人の域に達していない、ズバリ言って相当レベルが低いということだ。 第三者が語るこの言葉の意味は大きい。
 もともと、日本のテレビはアメリカ型志向でここまで来た様だが、日本人とアメリカ人は、人種的にも文化的にも正反対だ。体力的にも、スケールの点でも差があり過ぎて、その点では生理的に相容れないものがある。その証拠にテレビの中のダンスシーン一つとっても、骨格の違いでアメリカ人が迫力があるのに比べて、日本人のそれはどう見ても「盆踊り」に僕には見える。 それ程体格の違いは明らかだ。  そこで提案がある。日本のテレビは一度ヨーロッパ型の番組を参考にしたらどうだろう。その方が日本人には合っている様な気がする。 事実BS放送などを見ても、心が落ち着く番組が多く、内容がケバケバしくなく、ストレートに癒される。 そして、何よりも日本の様に悪いことばかりを取り上げて、それこそ「重箱の隅を楊枝でほじくる」様な番組が少なく、人に優しい番組作りに徹しているその姿勢が素晴らしい。

 さあ、日本のテレビはこれからどうする?  その問いに対しての僕の答えは以下だ。 端的に述べよう。
  
 承知の通り、情報の大量の氾濫によって日本のテレビは複合汚染されている。この汚染の元をまず断たなければならない。  そのためには、我々の手によって、社会悪を生む番組、問題がある番組、悪の温床となるような番組、知る必要のない余計な番組、ひたすら射幸心をあおる番組等を、日本のテレビから永久に追放することだ。  そして、視聴者とテレビ局側のトラウマである「双方向性」のトンネルを一日も早く開通させる。 その上で2者間で徹底的に討論して、視聴者の総意に基づく番組を、テレビ局が提供できるようなシステムを構築することだ。
 この内容については、今の様な一方通行は避け、各テレビ局が公開(公表)して予め視聴者の信任を得なければ何の意味もない。

 また、テレビ局にはまだしてもらうことがある。 最大限の企業努力だ。

 制作者のボスは言う。・・・すなわち、今テレビが人間から、想像力を奪って、純粋な人間に余計な知識を与え、現実を虚構に変え、悪い方向にマインドコントロールしている現状にかんがみ、これを解決すべきは、何よりもまず視聴者の信頼を回復させる番組作りに専念する。 願わくば昭和30年代のテレビの原点に戻ることが望ましい。 
 制作者のボスは部下に言う。・・・いいか!そのためには、日頃かかってくる視聴者からの電話にも、誠意を持って対応しなければならない。 うかつにも苦情処理のアルバイトに、「僕は詳しいことを聞かされてませんから、明日担当の者にそう伝えておきます」などと失言してしまった場合には、担当者にそれなりの責任を取らせるぞ!!。 何故ならここが全ての出発点だからだ。           

  そして、最後に我々を呪いにかけて金縛りさせているあの「魔女」を、我々自らの手で地獄に追放させよう。  これが出来たら我々は開放されるのだ。  長年の呪縛から逃れられるのだ。我々は「/」ではなくなるのだ。

 僕は言う。・・・その魔女の名は言わずと知れた「視聴率」。 果たしてその魔女狩りが実現できるかな?  ここが地獄の一丁目。 もし、それが出来たら僕の「/2」イリュージョンは、逆転のスーパーイリュージョンに変わる!!。