ウォーク更家の散歩(東海道・中山道など五街道踏破、首都圏散策)

電車で行く「薩摩街道」 (その5: 川尻宿 :熊本城攻めの薩軍本営の地) 2018.11.6



(写真は、「川尻宿」の「薩軍本営」で、熊本城攻めの指揮を

  執るNHK大河「西郷どん」の鈴木恭平) 

電車で行く「薩摩街道」は、前回の「八代宿」に続いて 、
今回は「川尻(かわしり)宿」を散策します。


「川尻宿」は、熊本から八代、鹿児島へと結ぶ「薩摩街道」の
宿場町だったので、参勤交代の薩摩藩や相良(さがら)藩の
宿泊のための本陣がありました。

また、川尻宿は、細川藩の重要な軍港で、かつ藩の年貢米の
集積・積出港でもあったので、港町として大いに栄えました。


JR熊本駅から10分、2駅目のJR川尻駅で下車します。

川尻町は、中学時代に住んでいた町なので、懐かしくて
ドキドキしながら、JR川尻駅で下ります。

中学時代は、ここから、熊本宿の北の端の熊本大学附属中学へ
バス通学していました。

川尻駅入口信号の交差点から、薩摩街道沿いに南へ向かって
歩き始めます。



川尻町を訪れるのは、中学時代以来ですが、川尻町のメイン
ストリートの雰囲気は、余り変わっていない様な気がします。

先ず、街道沿いの次頁の写真の「くまもと工芸会館」に入り、
「川尻マップ」を貰って、文末の地図を見ながら散策します。






上の写真は、創業200余年の和菓子の「天明堂」です。



薩摩街道沿いの左右には、上の写真の熊本伝統工芸の「刃物
工房」があり、江戸時代の川尻宿の歴史を感じさせます。



街道を右手の道に入ると、写真の「瑞鷹(ずいよう)酒造」の
建物と工場があります。(国の景観重要建造物)






この瑞鷹の先に、西南戦争の熊本城攻めの際に、薩摩軍が本陣
として使った写真の「川尻薩軍本営」跡(今村邸)があり
ました。







NHK大河「西郷どん」では、西郷隆盛は、この「薩軍本営」
から、放火で燃え上がる熊本城の煙を眺めています。

川尻の町は、西郷隆盛以下、1万5千人の兵で埋め尽くされ
ました。



このとき、西南戦争に参加した川尻町出身者は、政府軍
15名、薩摩軍50名でした。

この辺りは、政府軍の川尻奉行所があったところでもあります
が、当時の川尻町奉行は、上田休(やすみ)でした。

上田休は、西南戦争の際、戦時下の川尻町の治安を守るため
に、鎮撫隊を組織しましたが、戦後、薩摩軍に与したとして
処刑されました。



上の写真は、薩軍本営跡の少し先にある、加勢川沿いの木造
2階建て「川尻の御蔵」ですが、御蔵は熊本地震で被災した
ため修復工事中でした。

川尻港は、年貢米の集積・積出港だったので、20万俵もの
米が、ここ「川尻の御蔵」に集められました。


その年貢米の荷揚げや船積のために設けられたのが、次の
写真の「川尻御蔵前の船着場」です。(国指定史跡)





潮の干満や水量の増減に影響を受けないように、長さ
150メートルにわたって14段の石段を設けています。


中学時代、この石段には、我が家の池の金魚のために、よく
浮草を取りに来ていましたが、この様な歴史ある石段だとは
全く気付きませんでした・・・

「川尻御蔵前の船着場」の先に、「御船手 渡し」跡の説明杭が
ありました。

それによると、「御船手」とは「水軍」のことで、川尻の
「御船手」は、加藤清正が設けました。





細川藩時代には、川尻港には、常に軍船が浮かんでおり、
「細川藩 御船手」として有名だったそうです。



前頁の写真は、川尻御船手の近くの「川尻の札座跡」の
説明板です。

それによると、藩札(紙幣)を刷る札座を、港町として
栄えていた川尻に置いたそうです。

 

上の写真は、川尻薩軍本営跡の隣にある安政年間創業のうなぎ
めしの「七代目 若松屋」です。

早い時間だったので、残念ながら未だ営業開始前でした。

川尻町のメインストリートの雰囲気は、私の中学時代と余り
変わっていないものの、一歩住宅街に入ると、昔の面影が全く
なく、町名変更等もあり、私の住んでいた家も、どの辺り
だったのか全く分かりませんでした。




JR川尻駅からJR熊本駅へ戻りますが、最近、川尻駅と熊本駅
の間に新しく出来たJR西熊本駅で下りてみます。



JR西熊本駅は、私が小学4年生のときに住んでいた苅草
(かりくさ)町に最近出来た新設の駅です。





私は、ここ苅草に住んでいるときは、ここの校区の次頁の
写真の「力合(りきごう)小学校」に通っていました。




JR熊本駅に戻り、お昼過ぎに、駅の構内の食堂で、写真の
「郷土盛り合せのほろ酔いセット」(1,280円)を注文
します。



懐かしい馬刺し、辛子蓮根等と生ビールがセットになって
います。


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コメント一覧

ウォーク更家
熊本出身の金栗四三
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
ええ、今年の熊本の地震は、揺れは大きかったものの被害はほとんど無かったようです。

そうなんですよ、NHK大河は、年末の田原坂と熊本城攻めに続いて、年明け早々、金栗四三の生家の玉名と、実家の周りが次々に舞台になるので、今年も、帰省の際は忙しくなりそうです。

こもよみこもちさんお勧めの「ある明治人の記録」がドラマチックで面白かったので、次は、海音寺潮五郎の「西郷と大久保」を読んでみようかなあ。
こもよみこもち
こんばんは。
https://blogs.yahoo.co.jp/ya3249
今年の熊本の地震のニュースのテレビ画面に、
金栗四三の幟が写って、熊本出身の人だと知りました。
その後、ニュースにはならないので、どうやら大事にはならなかったようですね。

先日、海音寺潮五郎の「西郷と大久保」を読んで面白かったので、
今年はこの作家の作品を何冊か読んでみようと思っています。
(現在は「江戸開城」を読んでいます。)
ウォーク更家
薩摩街道は遠い
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
そう、薩摩街道は遠いので、わざわざ走りに行くには無理な街道ですよね。

いや~、中山道の和田峠日帰りなんて、私には若くてベストの時期でも絶対に無理です。

そうなんですよ、大河は、昨年が隣の県の鹿児島の「西郷どん」と西南戦争の熊本の田原坂、そして今年が、熊本出身の金栗四三と、帰省毎に出かけるスポットが増えて忙しくなりそうです。
コスモタイガー
薩摩街道
https://blog.goo.ne.jp/cosmotiger_1968
薩摩街道ですか~!
さすがに遠いですね。
ちょっと現役期間中は厳しいかな…。

じゃ、定年後に…ってそんな年まで走ってられるかな~と思ったりします。
旧街道runを開始したのが30代後半。
そのころに比べてさすがに走力が落ちてることを日々実感しています。

中山道の和田峠日帰り。(屈ブログ中山道編25参照)
当時は自信満々で走りましたけど。
今ならどうかな~、と思ったりします。

それにしても熊本は今、旬ですね~!
つい先月、「西郷どん」の舞台になったと思ったら、今年の大河も熊本出身の、金栗四三。
熊本、行ってみたくなりました。

反対側の別府・大分は何回か行ってるんですけどね。(別府大分マラソン)
ウォーク更家
力合小学校の思い出
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
ええ、力合小学校は、仲が良かった同級生や、台風で学校が休みになり嬉しかったことや、鶏当番で苦労したこと等の思い出が蘇えります。

そうですか、疎開していた頃の小学校だと、少し意味合いも異なる懐かしい思い出がたくさんあるのでしょうね。
hide-san
小学校
https://blog.goo.ne.jp/hidebach/
>「力合(りきごう)小学校」に通っていました。

昔通って居た小学校には思い出があるでしょうね。

ボクは疎開して居た頃の小学校(今もまだある)へ、
「奥の細道」の終点からほど近いので、
ほぼ70年ぶりですが、行こうと思っております。
ウォーク更家
昔繁栄した川尻宿
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
ええ、ほろ酔いセットの馬刺し、辛子蓮根、生ビールで、昼間からお正月気分でした。

中学時代は、歴史に全く興味がなかったので、自分の住んでいる町はただの田舎町だと思っていて、かっては立派な軍港で、御蔵もたくさん建っていたなんて想像もしませんでした。

ただの石段だと思っていた場所は、工夫された歴史ある船着き場でした。
もののはじめのiina
川尻宿 
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/8a76f83628d6efa6d941819a64d93439
ほろ酔いセットの馬刺し、辛子蓮根等と生ビールが、お正月のつづきから、より親しみを感じます。^_^;

川尻(かわしり)宿は、拝読すると立派な軍港ですから、御蔵もたくさん建つのが理解できます。
船着場の工夫が偲ばれます。

> スズメのために、百均でパン屑の袋を買ってきて、ベランダに撒いています。
野鳥の棲みづらい世になりました。



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