ウォーク更家の散歩(東海道・中山道など五街道踏破、首都圏散策)

中山道を歩く(56:赤坂) 岐阜県大垣市 6km 2015.11.11


(写真は、赤坂港跡にそびえる「火の見櫓」)

早朝に、彦根駅前のビジネスホテルを出て、前日のゴール
である養老鉄道養老線の東赤坂駅へ向かいます。







東赤坂駅で下車して、駅の前の中山道を、通学の中学生達と
一緒に歩き始めます。



少し歩くと、中山道の案内板があり、それに従って左へ入る
道を進みます。


左手に白山神社を見て、更に住宅街を道なりに進むと、
「杭瀬(くいせ)川」に掛かる「赤坂大橋」がありました。




広重の浮世絵「木曽街道69次之内 赤坂」は、この杭瀬川に
掛かる「赤坂大橋」(当時は土橋)の手前から、橋の向こう側
の赤坂宿を描いています。

雨上がりで、手拭を被り傘を閉じた女が土橋を渡っています。
合羽を着た旅人が、赤坂宿を出て土橋を渡っています。

この「杭瀬川」は、現在の狭い川幅からは想像出来ませんが、
江戸時代には揖斐川の本流だったため、もっと水量が多かった
そうです。


「続膝栗毛(第二部)」(静岡出版)(1,500円)では、弥次
さん喜多さんは、ここ「杭瀬川」の「六の渡し」の畔で、江戸
時代にはよくあったという詐欺の両替屋に騙されます。

弥次さんが両替してもらうために出した本物の貨幣を、両替屋
は、手の内に隠していた贋金と、手品の様にすり替えてしまいます。

両替屋「今、あなたが私に渡した貨幣は偽物ですよ。」

弥次さん「そんなバカな!、どれどれ・・・、あれ?ホントに偽物だ!」

両替屋が去ったあとで、喜多さんから詐欺の手口を指摘され、
騙されたことに気付いた弥次さんが一句、

”するほどの ことに先非(せんぴ)を 杭瀬川 六の渡しの ろくでない旅”

(「先非」は、前の宿場町でやった失敗で、先非を”悔い”る
  と”杭”瀬川、 ”六”と”ろくでもない”、の語呂
合わせです。)


赤坂大橋を渡り、少し進むと、十字路の左手に「火の見櫓」、
その道向いに「赤坂港跡」が見えます。






”中山道「赤坂宿」”は、”東海道の「赤坂宿」”と同じ名前
で、間違えられることも多かったので、江戸時代には「美濃
赤坂宿」と呼ばれました。(中山道と東海道で、宿場名が重複
するのは、この「赤坂宿」のみです。)




上の写真は、明治時代の「赤坂湊」ですが、大正時代の初め
までは、この様に湊として、盛んに利用されていたようです。
「赤坂港跡」の案内板によると、江戸時代には、ここ赤坂港は、
米、材木、石灰等を運ぶ水運の要所で、数百隻の舟が出入り
していたそうです。
赤坂港を出た舟は、伊勢湾を通って、東海道の桑名宿で荷を
降ろしていたそうです。

上の写真の右端は、赤坂港跡の常夜灯です。

上の写真は、赤坂港跡の隣の赤坂港会館です。
赤坂港跡をあとにして中山道を進み、JR東海道線の踏切を
渡ろうとすると・・・
ん?
踏切の近くの家の前に東海道線のプラットホームが見えます?
嘘だろ・・・

家庭専用の東海道線のホーム?
鉄道ファンの私は、この個人用のプラットホームが気になって先へ進めません・・・
不思議に思い、周辺をグルグルと歩いて回ると、踏切の真横
に、「赤坂本町駅跡」の石碑がありました。

先程は、この石碑に気付かずに通り過ぎたみたいです。
そうか!昔、ここに「赤坂本町駅」があったときのプラット
ホームの残骸なんだ!納得!

再び、東海道線の踏切を渡り先に進むと、左手に「本陣跡
公園」がありました。
公園の中には、「中山道赤坂宿本陣跡碑」と「和宮之碑」が
並んで建っています。

また、公園の少し奥に、「所郁太郎」の像と説明版があり
ました。

それによれば、所郁太郎は、幕末の赤坂出身の医師であり、
元老・井上馨が刺客に襲われ重傷を負ったときには、大手術
して命を救ったそうです。
公園の奥に綺麗なトイレがありました。
この時期、トイレが近いので助かります!
本陣跡公園を出て、赤坂宿の古い町並みを歩いて行きます。

町中の十字路の右手の赤坂宿の看板の脇に、下の写真の
常夜灯型の道標があり、「右たにくみ道」と刻まれてます。

「たにくみ道」とは、谷汲山・華厳寺へ続く谷汲街道のことです。

ここの十字路を左手の奥の方へ進んでゆくと、往時を彷彿と
させる建物群が並んでいて、まるでタイムスリップしたかの
ような風景です!










十字路に戻って、少し進むと、左手に「脇本陣跡」の碑、
右手に「妙法寺」がありました。





「脇本陣跡」は、現在は上の写真の「榎屋旅館」になっています。



更に、進むと、左手に「赤坂宿御使者場跡」の石柱があり、
その石段を上がると、下の写真の「兜塚(かぶとづか)」が
ありました。

案内板によれば、この丘は、関が原の前哨戦の「杭瀬川の
戦い」で戦死した東軍中村隊の武将の鎧兜を埋葬してある
そうです。
この兜塚が、赤坂宿の西の外れになります。



「垂井宿」を目指して歩いて行くと、間もなく、「昼飯町」
という珍しい地名の町に入り、左手の奥まった所に「昼飯
大塚古墳」が見えました。
その古墳に上ってみますが、写真の様に、かなり大きな古墳
です。


更に、中山道を進むと、その先右手に「如来寺」があり、
そこに「昼飯町の由来」の案内板がありました。



(読み方は、”ひるめし”ではなくて”ひるい”です。)

町名の由来は、甲斐国住人の本多善行が難波の海から
拾い上げた三尊仏(善光寺如来)を、長野の善光寺に
納めるために運ぶ途中で、ここで昼飯を食べた事に
由来するそうです。

という事は、”ひるめし”でも良かったのでは・・・?

中山道は、その先でJR東海道線のガードをくぐり、鎌倉時代
に東山道の宿駅として栄えたという「青墓」集落に入ります。


「史跡の里 青墓町」の白い標柱が建っています。


青墓集落を歩いて行くと、左手に「照手姫水汲井戸」と
書かれた標識が見えたので、それに従って中山道から
少し入って行きます。



すると、国道に突き当たる手前に、その井戸と説明版がありました。



その「照手姫の水汲みの井戸」の説明版によると、

昔、武蔵国郡代の娘で「照手姫」と呼ばれた美人がいました。

「照手姫」は、浄瑠璃で有名な「小栗判官」と恋仲でした。

ところが、小栗判官は、郡代の家来に、毒酒を盛られてしまいます。

照手姫は、嘆き悲しみ、放浪の末、ここ青墓の長者に売られて
しまいます。

長者は、その美貌をみて、身分の高い客の相手をさせようと
しますが、姫は拒み続けます。

怒った長者は、2キロも離れたこの井戸に水汲みに行かせる
等、嫌がらせをします。

ところが、毒殺されたと思われた小栗判官は、熊野の霊水に
つかって蘇えり、めでたく照手姫と結ばれたそうです。

「照手姫水汲井戸」から 中山道に戻って少し進むと、右手に
「円願寺 よし竹庵」の石柱が建っています。

その説明版によると、

「源義経」は、京の鞍馬山を抜け出し、金売吉次をお供に、
奥州平泉へ落ち延びる途中で、源氏再興を祈願するため、
ここ旧「円願寺」跡に立ち寄りました。

(円願寺は、焼失して現在は残っていません。)

義経は、ここで、「葦(よし)の杖」を地面に突き刺し、
「さしおくも 形見となれや 後の世に 源氏栄えば よし竹となれ」
と歌を詠みました。

すると、その願いが仏様に通じたのか、杖にしてきた葦から
見事な竹が芽を吹き、杖から竹が成長したそうです。

それで、この珍しい竹を「よし竹」と呼び、この寺を
「よし竹庵」と呼ぶようになったそうです。



この場所は「小笹竹(こしのだけ)の塚」と呼ばれ、阿弥陀
如来像とたくさんの五輪塔が並んでいますが、この五輪塔の
中の一つが「照手姫の墓」らしいです。





「よし竹庵」を少し進むと、中山道は、県道を斜めに横切り、
田園風景の中を直進して行きます。






やがて、右手に、「国分寺道」と彫られた道標が見えてきました。



道標を右折して、県道を横切って歩いてゆくと、広々とした
公園になっている「美濃国分寺跡」がありました。















美濃国分寺跡から 中山道に戻り進むと、まもなく「垂井町」
バス停がありました。



もう、垂井の町に入ったみたいです。

単調で直線の中山道が暫くの間続きます。


やがて中山道は、 川沿いの道にぶつかってT字路になって
います。

このT字路の右側の相川橋を渡ればもう垂井宿です。

T字路の左角には、1709年に建てられたという写真の
「垂井追分の道標」がありました。



道標には、「是より 右 東海道大垣みち、左 木曽街道
たにぐちみち」と刻まれています。

この追分は、中山道と東海道を結ぶ美濃路の分岐点にあたる
そうです。

下の写真の相川橋は、昔は人足渡しだったそうです。



赤坂宿から垂井宿までは、約6キロです。


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コメント一覧

更家
彦根城
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
この春の中山道歩きでは、彦根城見学を予定していますのでお楽しみに。

そう、最近はあまり「火の見櫓」を見なくなりましたが、ここの火の見櫓は、見上げるほど高くて、江戸時代の風景を彷彿とさせました。
もののはじめのiina
火の見やぐら
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/7c98ba9dc8c302ab36dee3848a735c8a
彦根を歩いたことがないので、高速道路から見れた彦根城などを見学したいです。

幼いころには火の見櫓が、彼方此方に建っていましたが、最近はほとんどなくなりました。
そんな火の見櫓ですが、現代を予言した浮世絵が存在します。幕末の浮世絵師・歌川国芳が東京スカイツリーを予知していたというものです。↓
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/026fdb0c3dcf91379240c9793d45cd48

なお、江の島の荒海越しに見える富士山の絶景を、本ブログ中の①②③④をクリックすると前年の荒波が見れれます。

更家
西濃鉄道
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
そうなんですか、貨物専用の西濃鉄道だったんですね。

そう、ホーム跡が気になって、先に進めませんでした(笑い)。
Komoyo Mikomoti
こんばんは。
http://blogs.yahoo.co.jp/ya3249
赤坂まで伸びている線路は、西濃鉄道ですね。
今は、貨物専用だと思います。
ホーム跡があったというのは、まったく気づいていませんでした。
今度行く機会があったら、見てみようと思います。
更家
明星輪寺
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
そう、赤坂は思ったよりも、雰囲気のある建物や石碑などの見どころが多かったです。

私も、明星輪寺へ行きたかったのですが、地図を見たら、中山道から外れて、結構、距離のある山道だったので諦めました。
hide-san
時代が
http://blog.goo.ne.jp/hidebach
時代が残る建物や石碑が沢山ありますね。
ボクは見落として通り過ぎたのでしょうか。

もっとも日本三大虚空蔵菩薩がある金生山明星輪寺(字が違っているかもしれません)を訪ね、
ここで野生のシカに出会ったりしました。
かなり道草しましたが、ここは「おくのほそ道」で芭蕉が最後の地「大垣」から足を延ばしたところでした。
山道がきつくて途中休憩したところに、
サクランボが沢山生っていて、足元を見たら、
タネがいっぱい落ちていたので、
手を伸ばして食べた記憶です。
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