ウォーク更家の散歩 (東海道、中山道、日光街道、奥州街道)

http://www7b.biglobe.ne.jp/~akamine/
中山道を歩く(完全踏破の一人旅)

バスで行く「奥の細道」(その11)     ( 「実方中将の墓」 : 宮城県 )  2018.3.13

2018-11-23 10:33:19 | Weblog

(写真は、ぬかるみ道のため「実方中将の墓」へ行くのを断念
する芭蕉と曽良 )

平安時代中期の公家「藤原実方(さねかた)」は、36歌仙の
一人で、「小倉百人一首」にも名を連ねる和歌の名人です。

なかなかの美貌の持ち主で、かの清少納言をはじめ、20人
以上の女性と関係があったとも言われ、かなりのプレイ
ボーイだったみたいです。
驚き!

光源氏のモデルとして、一番有名なのは、前回ご紹介した
「もじ摺り石」の「源融」ですが、他にもいろいろ説があり、
この「実方」もその一人だそうです。

ある時、一条天皇の面前で歌会があり、実方の歌について
藤原行成が批判したため、2人で口論となり、怒った実方が
行成の冠を奪って床に投げ捨てる、という事件が起きました。

実方は、天皇の怒りを買い、「陸奥の歌枕を見てまいれ。」
と、左遷を命じられました。

陸奥守として東北に赴任した実方が、ある日、「笠島
道祖神社」の前を馬で通ろうとした時の話しです。

地元の人々が、神前なので馬から降りて下さいと懇願した
にも拘わらず、実方は「なんの、こんな神!」と無視して
通り過ぎようとしました。

すると、突然、馬が暴れて、実方は落馬し 何と!、そのまま
亡くなってしまいました!

うそっ~?!

蔵人頭になれないまま陸奥守として亡くなった実方は、
その怨念により、雀に転生して、御所の殿上の間の台盤の
上の食物を食べたそうです。

また、都の賀茂川の橋の下に、実方の亡霊が出没するとの
噂も流れました。


図説 地図とあらすじでわかる!おくのほそ道 (青春新書INTELLIGENCE 399)
クリエーター情報なし
青春出版社

奥州街道沿いに、城下町・白石を過ぎて、笠島(かさしま)に
入った芭蕉は、ここ「笠島の道祖神社」の神罰で落馬して
死んだという、実方中将の墓を訪ねたいと願います。

当時は、この実方中将の墓自体が、「笠島」として歌枕に
なっていたのです。

西行法師がここを訪れた際に、”朽ちもせぬ その名ばかりを
とどめ置きて 枯野のすすき 形見にぞみる”と詠みました
が、芭蕉は、この西行が詠んだすすきが未だある、と地元の人
に教えてもらいます。

芭蕉は、実方中将の墓へ向かいますが、雨が降って道が悪い
ことや長旅の疲れのため、「このぬかるみの道では、笠島を
訪れることは出来ない」と断念し、無念の思いで句を
詠みます。

”笠島は いずこ五月の ぬかり道”

話は3か月前に戻りますが、芭蕉が、奥の細道の旅に江戸を
発つ際に、笠島出身の芭蕉の門人が、餞別の句として、
”武隈の 松みせ申せ 遅桜”を贈りました。

(芭蕉が、笠島に着く頃には、もう桜も散っているだろうが、
せめて武隈の松だけはお見せしたいものだ。)

この話しを踏まえ、芭蕉は、実方中将の墓の近くの「武隈
(たけくま)の松」(二木(ふたき)の松)に立ち寄って
句を詠みました。

”桜より 松は二木(ふたき)を 三月越し”

(二木の松は、奥の細道の旅の今日までの3か月越しに私
 を待っていてくれた。)

(「二木の松」が歌枕 で、「松」は「待つ」に、「三月」は
「見つ」に掛け、「二木」(ふたき)は「三月」(みつき)
に数を揃えています。)


我々のパック旅行のバスは、「実方(さねかた)中将の墓」へ
向かいます。

芭蕉が立ち寄りを断念したという実方の墓は、仙台の南の
名取市の田園地帯の山際にありました。





小川に架かる実方橋を渡ると、訪れる人も少ない感じで、
実方を偲んで訪れたという西行が追悼歌に詠んだ
「形見のすすき」がありました。

(”朽ちもせぬ その名ばかりを とどめ置きて 
  枯野のすすき 形見にぞみる”   西行)
悲運の死を遂げた「実方中将の墓」は、木の柵に囲われて、
次頁の写真の様にひっそりとした場所にありました。

(左奥は実方の歌碑)

(実方の墓標)
墓の周辺には、実方を偲んだ前々頁の写真の「西行の
歌碑」と、下の写真の「芭蕉の句碑」がありました。



(”笠島は いずこ五月の ぬかり道”  芭蕉)

パック旅行のバスは、「実方中将の墓」を出て、近くの
「武隈の松」(「二木の松」)へ向かいます。

平成26年に「おくの細道の風景地」として国名勝に指定
された「武隈の松」は、根方が二木に分かれた形の老松で、
現在の松は七代目ですが、芭蕉が見たのは五代目の松らしい
です。



(”桜より 松は二木(ふたき)を 三月越し” 芭蕉) 

二木の松の前の歩道を少し歩くと、神社の参道の入り口が
あり、「竹駒神社」がありました。


竹駒神社の境内には、次頁の写真左の”桜より 
松は二木(ふたき)を 三月越し”の芭蕉句碑があり
ますが、これは1793年の芭蕉百回忌に立てられた
ものだそうです。

竹駒神社の竹駒稲荷は、 伏見稲荷、笠間稲荷と共に、
日本三大稲荷の一つだそうです。





コメント (6)   この記事についてブログを書く
« バスで行く「奥の細道」(そ... | トップ | バスで行く「奥の細道」(そ... »
最近の画像もっと見る

6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
お疲れ様 (hide-san)
2018-06-14 15:29:15
藤の中条実方が乗馬のまま通りすぎたという
「笠島道祖神社」にはお出でになりませんでしたか?

お墓のすぐそばにありましたが・・・・。

笠島道祖神社の写真を撮り損ね (ウォーク更家)
2018-06-14 16:22:17
バス旅行では、笠島道祖神社は、車窓からだったので、ぶれた写真しか撮れませんでした・・・(-_-;)

そう、お墓で下車する5分くらい前に車窓から見ました。
奥の細道 (船橋原人)
2018-06-15 07:05:33
今回記載されている辺りが成人まで過ごした町の周辺です。興味深く拝見致しました。
「竹駒神社」は元旦にお参りに歩いて行きました。
賽銭箱の前は押すな押すなの人・人でした。
隣町だったので、歩いて行ったことを思い出しました。
奥の細道沿いの実家 (ウォーク更家)
2018-06-15 07:31:20
原人さんの実家は、仙台とお聞きしていましたが、この辺りが成人まで過ごされた町でしたか。

そうでしたか、竹駒神社が初詣の神社でしたか。
歴史ある非常に立派な社殿でしたので、やはり、初詣は押すな押すなの人、人なのでしょうね。
藤原実方(さねかた) (もののはじめのiina)
2018-06-15 09:37:53

藤原実方(さねかた)が陸奥に左遷され、笠島道祖神社の前でうやうやしく下馬していると、ちがった人生を歩んだでしょうか・・・。
異なった陸奥を生きたとしても、やはり西行と芭蕉も和歌の名人である陸奥時代の実方を偲んだのでしょうね。
そして、生きて都にもどって、また浮名を流していそうです。


> 池の縁に、ちゃちな白蛇の作り物がありましたが・・・
大谷寺(おおやじ)境内の弁財天隣に、こんどは大きな白蛇がいましたょ。真新しい白蛇でした。
磨崖仏の千手観音をはじめとする石仏が、いまも印象に強く残ります。

もしも藤原実方が落馬しなかったら (ウォーク更家)
2018-06-15 12:50:29
そうですよね、もしも、笠島道祖神社の前でうやうやしく下馬していれば、違った人生だったハズですよね。
神罰は恐ろしい!

なるほど、実方は和歌の名人ですから、違った人生を送ったとしても、やはり、西行と芭蕉は陸奥時代の実方を偲んだかも知れませね。

そう、もしも実方が落馬しなかったら、生きて都にもどって、また浮名を流していますよね。

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事