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忘内容怪毒 

江戸古典

『孔子』 

2011-02-19 | 日記

『孔子』 井上 靖  新潮文庫

 小生の関心は、作者がこの古代の巨人にどのような小説的技法で迫りうるかにあった。出来事を時系列的にならべる伝記物語的手法も面白かろうが、資料は少ないはずでそれは困難だろう。では題名にぴったりの作品ができているのか、である。

 構成は論語成立までの具体的事実と弟子(といったよいだろう)えんきょう(鳶キョウ)の回顧という形で構成されている。その過程で子が述べたとされる言葉につき研究会や討議会がもたれその報告のなかで解釈が展開される。特に ’仁’ ’信’ ’天命’ などは繰返し議論、説明がなされる。 論語研究専門家からみてその評価はどうなのか、それは文学的解釈にすぎないのか、その辺はなんともわからない。

 子が北極を仰いで「北辰 その所に居て 衆星、・・・・・」とやり最後の言葉が決まらす黙考する箇所がある。 高弟子路、子貢、顔回らがそれぞれ、「・・・これを囲む、 これを迎う、 これを捧ぐ」と案を出し最後に孔子が「・・・・これを廻る」に決定するくだりは、当時の天文学的知識如何はさておき、なかなかの感動ものである。 さて冒頭の小生の興味の結果は?子の偉大さが最初から前提となって書かれているからなあ、である。いやいやこちらの読込み不足か。筆者八十歳を超えて最後の長編。

 

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浮世風呂

2011-01-17 | 日記

浮世風呂』 式亭三馬 日本古典文学大系 63 中村通夫 校注 岩波書店

 隠居、医者、三助、座等、番頭から老婆、子供、女中、嫁、姑、乳母、下女等々さまざまな人物が登場他愛ない会話がだらだら続く滑稽本。男湯では手ぬぐいと間違え褌で顔を洗う話やら、地震の話、病人の話に医者の見立てあれこれ、芝居に将棋の実況中継などなど。                                                              

 女湯では”たとえ”オンパレードは面白い。一寸のびれば尋(ヒロ)のびる、一寸先は闇、鰯の頭も信心から、三つ子の魂百まで、兄弟他人のはじまり、馬の耳に風、宝は身の指合わせ、子捨てる藪はあるが、身を捨てる藪はなし、背に腹はかえられぬ、傑作は負(オオ)た子より抱いた亭主、か。(二編 巻の下)

 執筆当時(文化六頃)三馬はドラッグストアでもやっていたらしく、「それよりは三馬が所の江戸の水をつけた方がさっぱりして薄くも濃くも化粧がはげねえでいい」とか、「はい只今は二丁目の式亭で売ります。」「三馬がところの歯磨きにするがいい」などマジで宣伝もやっている。これも愛敬か。

 

 

 

 


風来山人集

2010-12-25 | 日記

 

『風来山人集』中村幸彦 校注 日本古典文学大系55 岩波書店

 平賀源内の文学作品については評価がわかれているようだ。しかし”福内鬼外”としての浄瑠璃本、「神霊矢口渡」は舞台初日がせまっていて検証もろくにできていないとの断りはあるものの力作である。最後の段の頓兵衛の娘が逃亡中の新田義岑に恋をし、なんとか追ってを散らそうと「よろめく足を踏みしめ々漸バチを振上て。打たんとしても手はとどかず。伸上りてはよろよろ々。・・・それ打せてよい物かと。抱止るを突退はね退争ふ内・・」偽りの太鼓を打ち鳴らすシーンなどは、劇的効果十分でなかなかの作品と思えるのだがどうか。
 「根南志具佐」「根無草後編」後編との対比で前者は前編と位置づけられている。閻魔大王が路考(菊之丞)に恋をした。彼は舟遊びをするというので竜王が彼を捕まえるよう命じられ請合うが、彼は水虎(かっぱ)と恋仲になってしまうという虚実混交の展開が前編。
男色由来の弘法大師や吉原までの道中描写の詳しいのが後編。難しい漢字がやたら登場し文体も物語り調やら浄瑠璃調やらいりまじり読みずらい。

 一方「風流志道軒伝」。これは実在の深井志道軒をモデルとした談義本である。両親が「浅草の観音へ、三七(二一)日の通夜籠(つやこもり)をなんして祈りけるに、満ずる夜の暁、南の方より金色の松茸、臍(へそ)の中に飛び入るを見て懐胎」した子なので長命になるよう仏門にはいる。風来仙人に出会い俗人を導くため団扇にのって人情探索の旅に出る。国内はもとより海外にまででかける和製ガリバー旅行記であり「ねなしぐさ」より読みやすい。「三人寄れば文殊の知恵、百人寄っても出ぬは金なり」とか「落ちそふで落ちぬものは、二十坊主と牛のきんたま。落ちそふもなくて落ちるものは、五十坊主に鹿の角」とかのあやしげな警句がポンポン飛び出し笑わせる。
 茶の湯、立花、囲碁将棋、はもとより儒学者の一部を「腐儒(くされがくしゃ)」とののしっているが、後の黄表紙ほど風刺がきいているわけではない。

 「風来六部集 上・下」は源内の時節短評とでもいうべきもの。「放屁論」やら「痿陰隠逸伝(なえまらいんいつでん)」のようにタイトルだけがやけに有名なものもあるが、味のあるのは「里のをだ巻評」だろう。吉原と岡場所を比較したものだが、「京の女郎に江戸のはり」もたせ大阪の揚屋で会えばこの上なにがあるべき、と言ったのは昔の話で、「今ぞ吉原深川をもみませば、両の手に梅桜」と岡場所も捨てたものではないという説。他方は吉原ではまるで目立たない女郎が、「郭外へ押し出せば掃溜めの鶴、砂の中の金」と成るくらいその差歴然という吉原派。さて気のしれぬ麻布先生の裁定は「吉原にもへちま有り、岡場所にも美人あり。」江戸前うなぎと旅うなぎほど旨みに違いはないとのこと。ちなみに鰻では浅草川、深川産を江戸前といい、他所産を旅鰻という。

 


黄表紙・洒落本集

2010-11-30 | 日記

『黄表紙・洒落本集』水野 稔校注 日本古典文学大系59 岩波書店

金々先生栄花夢  恋川春町 画作
 金むらや金兵衛がまどろみける夢 いづみやの七珍万宝ことごとく譲り受け放蕩三昧零落
 「人間一生のたのしみも、わづかにあわ餅一臼の内のごとし」補注に邯鄲の「栄花のほどは五十年、さて夢の間は粟飯の、一炊の間なり」がある。

高慢斉行脚日記  恋川春町 画作
 高慢斉万屋(ばんおく)が俳諧の修行に出ている間、高弟法外とその弟子にきんきん天狗が乗りうつり、風流自堕落遊里勝手も万屋の才覚で目覚めけり

見徳一炊夢(みるがとくいっすいのゆめ) 朋誠堂喜三二
 栄華屋夢次郎という邯鄲の枕をかして夢商売をする者の所へ、百万両分限蘆の屋清右エ門のせがれ清太郎が五十年の栄華の夢をみんと、千両盗み出してやってきた。丸山では唐言あそびにはまった。

御存商売物(ごぞんじのしょうばいもの) 北尾政演 画作
 八文字屋の読本が「どうぞして、青本その外の地本にけちをつけん」と赤本、黒本の草草紙を引き入れ策略を練るが、唐詩選、源氏物語に意見され・・・・

大悲千禄本(だいひのせんろくほん)  芝 全交作 北尾政演 画
 面の皮屋千兵衛不景気のあまり千手観音の手を切取り一本一両で貸出す。手を失った平忠度、茨城童子、手くだのしらない女郎、無筆もの等々。天明三、四年頃の観音開帳による莫大な儲けと不景気を素材

莫切自根金生木(きるなのねからかねのなるき)  唐来参和 作 千代女 画
 こった題名。万万先生七珍万宝蔵に満ちて万事上手くいくのはよろしくないと、なんとか金蔵を減らすべく、福は外鬼は内と無担保金貸し、傾城買い、博打と何をやっても一行に減らぬ。泥棒の入り安いようにしておいたら、泥棒は盗品まで置いていく始末

江戸生艶気樺焼(えどうまれうわさのかばやき)  山東京伝 作 北尾政演 画
 うぬぼれの代名詞ともなった艶二郎登場 天明五年刊 京伝代表作の一つ。うそ心中で浮名を流したいばっかりの道行が本気ととられ丸裸

文武二道万石通  朋誠堂喜三二 作  喜多川行麿 画
 定信の文武奨励策を背景に「ぬらくら」武士判別のため箱根七湯めぐり。”うがち”ねらいも「穴をくわしくさがしたがれど、見物にはいちいちわかりかねます。」と微妙。

孔子縞干時藍染(こうしじまときにあいぞめ) 山東京伝 作 北尾政演 画
 寛政元年刊寛政改革最盛時下の未来聖代の物語。有徳の町人は金銀をほとこすのが最上の仁徳とばかり施すも「酢のこんにゃくのといって」受取ってもらえず。追いはぎは「ゆききの人をまちうけ、とっつかまへて、おのれは真っ裸になり、衣服、大小、金銀をくくしつけてにげる。」折角入込の湯屋(混浴)を造っても誰も入らない。(寛政三年 入込湯停止令)。あげく天は空より金をふらせ給う。

心学早染クサ   山東京伝 作 北尾政美 画
 律儀者の理太郎の皮肉へなんとか入らんという悪魂は、理太郎がうたたねをしたすきに善魂をしばりあげついにその皮肉に入ることに成功した***

敵討義女英(かたきうちぎじょのはなぶさ)   南杣笑楚満人 作  歌川豊国 画
 将棋のいざこざから口論となり双方の親がなだめ一旦はおさまったようにみえたが、子どうしは密かに決闘一人は斬られついに敵討ちとなる。洒落もうがちも笑いも全くみられない反黄表紙的作品と評者。読本的で合巻形態にすすむ過程を示すものという。

以上黄表紙編

遊子方言 田舎老人多田爺(・・・ただのじじい)作
 江戸洒落本の定型を確立した傑作との評だが、今一つ面白味つかめず。

辰巳之薗  夢中散人寝言先生
 岡場所深川の情景の夢描写 「問ひませう。」の言葉遊び。化けるは何かで「茶釜は、やかん。息子は、とつざま。かぼちゃは、とうなす。娘は、かかさん。」とにぎやか。これが遊里の遊びとかや。

道中粋語録  山手馬鹿人
 作者は大田南畝。軽井茶話の副題があるように軽井沢の湯屋情景。ぼたもち好きの遊女が「信濃者とつて大喰するやうにいはっしゃりますけれど、・・・このくらいのぼたもちだら、17、8もくへば沢山だもし。」だそうな。「わしら・・・床さはいっちゃ勤めとやらおっぱなれて女夫逢い(めうとあひ)だもし。・・そんなら帯をとこかいな・・帯もふんどしもおっ取って、股ぐら割込みなさろ。それからはあ、わしがえへようにすべえさ。・・これでよいかいな・・もっと引付けなさろ。それよかんべへが。」堪忍信濃の善光寺。

卯地臭意  鐘木庵主人
 両国橋での夜鷹と客の掛け合い。夜鷹には亭主がいて二人でお仕事。

通言 総マガキ  山東京伝
艶二郎、わるい志庵、きたり喜之助の三馬鹿トリオにその他の客がからみストーリーより部分の描写がこまやか。古典引用、うがちで京伝ものでも難解。 

 かつて万象亭(まんぞうてい)が京伝の瑣末とも思える人物衣装描写を「写実の過ぎたるものの低きにおちた」かの如く難じたことがあるらしい。石川はそれは通客の資格をもって京伝の世界に入るための「入国査証」のようなものであり、万象亭がどう語ろうがそれで京伝のいる世界はくずれないと弁じている。『江戸文学掌記』 石川淳 講談社文芸文庫

傾城買四十八手  山東京伝
 京伝洒落本中最高傑作とされたもの。しっぽりとした手、やすひ手、身ぬかれた手等々それぞれに挿話があるが、夫婦の約束のある男女の交情を描いた”真の手”がとりあえず作者の心境の投影か。「傾城に真があって、運のつき」寛政二年刊(京伝は遊女と二度結婚したとか)

錦之裏  山東京伝
 京伝手鎖五十日実刑となった三部作の一つ。青楼昼之世界との副題付き。勘当された男と遊女夕霧が目出度く結婚の運びとなるハッピーエンド物語のどこが幕府の癇に触れたか。淋病の薬の成分の一つに「女陰毛三すじ黒焼き」とやったのがまずかった?

傾城買二筋道  梅暮里谷峨
 前段「夏の床」はそっぺいのなき二十四、五歳のいろ男だが半か通の五郎、相方は二十一、二美人の須磨衣。指切り髪切りで遊女の心がわかるというのは昔の事よ、と通ぶってみたが結局ふられた。「冬の床」は不男文理と遊女一重(ひとえ)の人情話である。

以上洒落本編

追加

時代世話二挺鼓 山東京伝  歌麿門人 行麿 画  日本古典文学全集 小学館

 平将門を平貞盛、藤原秀郷連合軍が征伐するという故事をふまえ、なます造りや、七変化、文字の早書、やがら鉦の早打ちなどの早業競争でこらしめる。将門には影武者六人がおり、田沼一派と田沼家紋、七曜星が飛び交い、田沼の失脚を婉曲に暗示する、うがちの妙。

 















萬の文反古

2010-10-29 | 日記
『萬の文反古』井原西鶴  麻生磯次 富士昭雄 訳注 明治書院
  
 破産した従弟が江戸へ下る路銀30匁の借金を断った者が、やがて家計が苦しくなり、自分も江戸で一旗上げたいので宜しくと従弟へ手紙を書く。その返事がすごい。「おのおのの心底、親類とは申しがたし。・・・」ではじまる借財に行った時の対応ぶりを記し、「お内儀まざまざと留守つかひ候は、今に今にわすれ申さず候。」と明記する。江戸に出て来た時の倹約の仕方を「まづ朝は七つ(午前4時)起きして、自鬢に髪をゆひ・・・」からこまごま述べる。この通りできるなら「我等元銀取替、口過の成申し候やうにいたししんじ申べく候」と厚意も示す。しかし評者が記しているように、「この書付の通りかせがば、はるばるの所をくだりゆくまでもなし。大坂にても口過の成事なり。」といえる。(巻4の2)「この通りと始末の書付」晩年の西鶴の描写の厳しさがのぞく。
 遊女の口説の手紙とされるものがある。(巻5の3)「御恨みを伝へまいらせ候」。売れっ子の遊女「白雲」が「われらは一日も御目にかからずば、この身を立申さず候。女にはにあいたる剃刀御ざ候。」と書き付ける。「・・・ひだりの手のひぢに、かたさまの年の数二十七迄の入ぼくろ(入墨)、右ふとももにきせる焼、爪をはなさせ、小指を切らせ、血染めのふくさ物・・・」の心中立て、「いかにしても世上が立申さず候」の女良の迫力にぞっとするものがある。
 その他 仙台在住の既婚男子が京都にあこがれ、女房をおいたまま上洛、以後17年間に23人女房を取替え身代をつぶした町人の手紙(京にも思うやう成事なし)などの悲哀ものもあるが、そうじてぎりぎりの人間の感情が表されている。但し一部書簡は団水等の作という。


 

 

嵐無常物語

2010-09-29 | 日記
『嵐無常物語』井原西鶴 麻生磯次 富士昭雄 訳注 明治書院
 延宝から天和貞享期にかけ、江戸山村座から京都村山座等で人気の歌舞伎役者嵐三郎四郎の生涯をモチーフとした作品。絶世の美貌をうたわれた役者が自分を慕うこれまた美貌の地若衆(歌舞伎役者の色若衆に対し素人の少年)久松に酒のうえで「いよいよ我に命をくれ給はば、明日くれがたに死で見せ給へ」といったら彼に形見の前髪をおくり「そのあとに、りんじうしやうねん(臨終正念)に自害せし・・・」となってしまった。驚いた三郎四郎は自分も死のうとするがとりあえず諌められここは自戒。しかしひいき大尽の勘当があり結局は「おもわくのほかなる義理死、ひとしほ惜しかりき」の結末をみる。
 以上が上巻、下巻は結婚をしても「嵐がためのさし合い(差合・精進中)とて、いづれにても床に入事なし」の女性等に翻弄される亭主の悲喜劇。ただ少し合点がいかぬのが「若衆の念者こがるる、これぞはじめなるべし。」(上の二)の意。ちなみにこれは貞享五年の刊行である。



椀久一世の物語

2010-09-20 | 日記
『椀久一世の物語』井原西鶴  訳注 麻生磯次 富士昭雄 明治書院

 大坂堺筋の商人椀屋久右衛門を素材としたモデル小説とされる。上巻は主人公椀久(わんきゅう)の豪遊ぶりを、下巻では末路の零落水死をえがいている。貞享2年の刊行でありリアルな事件を題材にした点では次の「好色5人女」の先駆的作品ともいえる。
 乱痴気騒ぎで「徳若に御万歳」とばかり50両、100両とまき散らし太夫にいれ込み妻には逃げられる。まさに「必ず色あそび、物を使はずかしこくなる時分は、銀がないものなり」(上官ー7)
 零落してからは乞食坊主となり水死、がその一生となる。しかし誇張があるにせよ、限りなくもらい物があり、それを人にやるので椀久のまわりには「あまた袖乞いつきまはりて」の状態、水死も船中で竹刀を抜いての喧嘩で水中に突き落とされたものであれば、お見事の一生といえる。「川浪に落ちかかるまで、『弓矢はちはち』という声も、底に沈みて」あはれや浮き世のかぎりとなりぬ。」三十三の暮れの年のことであった。

武家義理物語

2010-09-11 | 日記
『武家義理物語』 訳注 麻生磯次 富士昭雄 明治書院

 西鶴のいわゆる「武家物」は一般的には低調といわれているようである。本書の物語も衆道あり、遊女あり、役人のお節介ありで「武家義理」に統一されているとはいえない。しかし趣のある話が多く西鶴の切り口が知れる。
 武士道の本筋を説いた「発明は瓢箪より出る」(巻三-1)は、昔は酒を断って逃げるのか、といわれたら武士の一分が立たぬといって切り合いになるのが当り前だったが、それは命を軽んじるものでいざという時主君のために働けないから「天理にそむく大悪人」であると西鶴はいう。「近代は、武士の身持、心のおさめやう、格別に替れり」と貞享期に言っているのが面白い。
 「せめては振袖着て成とも」(巻四-2)は元服後に枕をむすぶという衆道物で異様な感がするが、「これぞ衆道のまこと成心ざしぞかし」と西鶴は結ぶ。
七十近いおやじと二十八前後の麗しき美女とがやむを得ない事情から同居するが、おやじは美女のさる公家との結婚話に身の潔白を証明するため腕を切り落とすという凄惨な話がある(「表むきは夫婦の中垣」巻六-2)。おやじは今はなき美女の父に仕えていたからそれへの義理立てとして西鶴はこれをあげたのだろうが、柳下恵の説話との出典解説がある。「りちぎも物によれと、左の足をうちもたせ・・・」のおやじの肉欲との葛藤描写が泣き笑いものだ。

男色大鏡

2010-08-15 | 日記
『男色大鏡』井原西鶴 麻生磯次 富士昭雄 訳注 明治書院

『諸艶大鏡』と対になる西鶴の作品とされる。男色世界の様々な出会いと別れがある。前半四巻二十話は主に侍の、後半二十話は歌舞伎を中心の役者の世界である。美少年二人に複数の者が恋をし嫉妬無視殺害自決追腹と命を懸けた衆道の世界が続く(薬はきかぬ房枕 巻三)。 瞬間の出会いで心を奪われ、相手が川に唾を吐いたのをみて、あわてて川下の水をすくって飲むというこれぞ衆道の極みともいうべき描写もある(夢路の月代巻二)。貫肉とは別の意味での半端じゃない官能の絆乱舞様々あり、当時の武家社会のまぎれもない一断面が描かれている。
「しなへる柳の腰、紅の内具(腰巻)・・・これ等は・・・隠居の親仁のもてあそびのたぐいなるべし。血気さかんの時ことばをかはすべきものにもあらず。総て若道のありがたき門に入ることおそし。」(序)と西鶴はのたまっておらるる。


好色五人女

2010-07-07 | 日記
『好色五人女』 井原西鶴 江本裕 全訳注 講談社学術文庫


お夏清十郎、樽やおせん、おさん茂兵衛、八百屋お七、おまん源五兵衛と五つの実在事件をもとにした西鶴のモデル小説である。 しかしおまん事件のように真相のはっきりしないものや、樽やおせん事件のようにかなり脚色されているものもあり(本書解説)西鶴が事件にヒントを得て創作したものと考えるのが無難だろう。

 おさん茂兵衛話のように、からかい半分で身代わりになり身を許してしまいそのまま不義にのめりこもうと決意する女心も、ありかなとは思うが、放火で処刑されたお七の死を知った吉三郎が「兄分の人帰られての首尾、身のたつべきにあらず。」と念友を気にするのもありかよ、 という感じだ。
 
 尚本書刊行の前年貞享2年に『西鶴諸国はなし』が出ており、その巻4の2に本書のテーマにつながる話の指摘がある(474頁)。 これは大名の姪御と下級武士の駆落ち事件であり、発覚後男は処刑、女も座敷牢で自害を迫られるが独身であるから不義ではないと断固拒否仏門に入るというもの。 結末の「我すこしも不義にはあらず。」の一言が閃光を放つが「夫ある女の・・・死別れて後夫を求むるこそ、不義とは申すべし。・・・」に死別でも再婚を許さぬ当時の理不尽さがうかがえる。そのような時代であった。 

大黒屋光太夫

2010-05-30 | 日記

『大黒屋光太夫』上・下 吉村昭 新潮文庫

 『長英逃亡』にせよ『天狗争乱』にせよ故吉村のいわゆる漂流物は、正確な情景描写が迫真の舞台を提供、 読者をあきさせない見事なものだが、 特に本書は舞台が異国であるだけに尚その感が強い。同じテーマを扱ったものにすでに井上靖の『おろしや国酔夢譚』がある。こちらも力作であり両者を読み比べてみるのは一興であろう。 
 ただ本作品では吉村は遭難者17人中たった2人の帰還者の一人磯吉の供述記録『ロシア国漂白聞書』など新たな資料を発見、それをもとに描写しているだけに作中人物の苦闘が直接伝わってくるようだ。 片足を切断、絶望のなかでロシア正教に入信する庄蔵の苦悩と光太夫等周りの者のとまどい、 帰還に向け献身的努力をしたロシア人キリロの活躍、なかんずく帰還後の光太夫のかなり自由な生活ぶり等は井上作品にはない本作品の最大特色と言ってよい。 一作家の作品が歴史の一齣を従来とは全く違った形で浮び上がらせる、作家冥利につきるのではないか。

 


好色一代女

2010-05-12 | 日記
『好色一代女』 井原西鶴 横山 重校訂 岩波文庫

 西鶴の好色物では最初の一代男が天和2年(1682)刊で、この一代女は貞享3(1686)45歳の時である。 その間に二代男、五人女があり、翌年『男色大鏡』が刊行されている。西鶴の没年は元禄6年 52歳であるからまだまだ現役風俗ライターとしても御健在時の作品と言っていいのだろう。
 この作品は老尼の回顧録である。ただ一代男と違って名前がないこと、年次的構成でないこと等作品の詳しい解説が本書にはついている。面白いのは美人の品好みで、年は15から18歳まで、目鼻口等の面道具不足なくというのは今でも当然として、 胴間一般より長く、腰しまりて、肉置きたくましからず、尻付きゆたかに、云々だそうな。(巻1-3)闇夜だったからといって、59歳なのに17歳とさばを読んだ話(巻6-3)には悲哀では片付けられない切なさがある。
 一代女の主人公は「生殖」にかかわらぬ一代女であり、母、親子から自由である点、近松世話物に登場する女とは違うという富岡氏の指摘がある。(『西鶴の感情』富岡多恵子 講談社文庫142頁)エロス論として示唆に富む。
  

二十一世紀の資本主義論 岩井克人 ちくま学芸文庫

2010-04-23 | 日記
 ソ連邦が崩壊し世界経済はグローバルなものになったが、それはまさは「アダムスミスの時代」つまり市場が経済を支配する時代になったことだと筆者はいう。20世紀末に大規模な金融危機が世界を震撼させ、ヘッジファンドが世界を跋扈、投機家がやり玉に上がった。そこで非難されたのは、小生からみれば”やり過ぎで”あろう。 
 しかし筆者によればグローバル市場経済にとっての真の危機とは、金融危機でもなければ、かつてマルクスエンゲルスが問題視した恐慌でもない。 市場経済参加者はある意味で投機家ならざるをえないのだから、投機の問題でもない。真の危機とはハイパーインフレ、すなわち基軸通貨たるドル価値が暴落するドル危機である。恐慌とは商品に対する総需要が総供給を下回ることで、換言すれば人々が商品より貨幣そのものを欲することである。そこにはまだ貨幣への信頼がある。ドル危機つまり貨幣信頼の失墜が真に現実化すれば行き着く先はグローバル市場経済の解体でしかない。*
 市場経済ではスミスの見えざる手が機能するのではなかったのか。筆者はケインズが提示した美人投票の論理、つまり「予想の無限の連鎖」の論理こそが問題の鍵であるとする。その連鎖の崩壊には合理性のパラドックスがからむ。なんとも厄介な世界ではある。

* 国家財政破綻と国民の信頼
 話はそれるが、財政赤字が700兆とか800兆とかで大変らしい。しかしこれは以前からいわれているがそれでも日本国家が破綻してはいない。 国民が納税する限り国家破綻ということはないのではないか。 つまり国民が国家を信頼している限り大丈夫ということだろう。ギリシャはそうなっていない。

『ヴェニスに死す』 トオマス マン 実吉捷郎 訳 岩波文庫

2010-04-19 | 日記
 青年の健康的で神々しいまでの美しさはギリシャ彫像に結びつくらしい。それに惹かれそれを愛してしまうのはなぜか老紳士が多そうだ。本書主人公のアッシェンバッハはもとより、三島の『禁色』はいうまでもない。川端にもそのような作品があったか。
 古代ギリシャのプラトンだったかアリストファネスだったかが、巧みな比喩で人間の性を三種に分けて以来、同性愛の存在は不思議ではないが、その市民権については様々な意見があろう。しかしどうもそれに死の影が付きまとうのはなぜか。「美の道を進んでゆけば、必ずエロスの神が道づれ」になり「思慕は常に恋愛ならざるを得ない」し結局は「奈落」にひきつけられてしまうと主人公はまどろみながら語る。(146頁)分離と生の非連続性の悲劇とでも言うべき古代からの永遠の課題か。



世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド

2010-04-18 | 日記
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』村上春樹 新潮文庫

 一角獣(ユニコーン)といえば伝説の怪獣であるが、貴婦人とのからみでタベストリー(織物絵)を思い起こす読者もいることだろう。この獰猛だが処女には従順とされた怪獣の住む街が『世界・・の』舞台とするなら、シャフリングにたけた計算士が活躍する近未来の世界が『ハードボイルド・・』・となる。この二つの話を交互に組み合わせ(まさにシャフリングして)物語は展開していく。 世界の終りとは、現実の世界が消滅することではなく、「人の心の中で終る」ことだとされる。(下102頁)。「そこには時間も無ければ空間の広がりもなく、正確な意味での価値観や自我もありません。」 そこでは一角獣が人々の自我をコントロールしているとの説明がされる。その街に向かって「僕」は進んで行くのが終章で、ワンダーランドは読者それぞれが心象風景として描きうると作者は語っているようでもある。

 

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