1『羅生門』で何を学ぶ(2)
前回の補足
漢字のレベルでいえば、芥川の「芥」。この漢字も意識しないと「茶」と区別しない生徒がいる。作者名を漢字で答えさせると、何人かは「茶川」と書く。
また、この「芥」が「ちりやゴミ」というあまりきれいとは言えない意味であることも、ペンネームとしては納得いかないところである。「ちり、あくた」という連語(?)で理解させるとよい。
また、龍之介の「龍」。右の下が3本ある。パソコンの時代に2本でも3本でもあまり気にならないが、採点となると拘ってしまう。
本文の読解でもっとも注意させるのは下人の心理の合理的な理解である。下人の心理の変化である。
②心理の合理的な理解
理知派たる芥川の面目は、下人の心理描写にある。因-果の法則で「こころ」をとらえる。その因と果をしっかり読解させる。
a 羅生門の下
主人から暇を出されて、行き所がなくなっている下人は、「明日の暮らしをどうにかしよう」と考える。何とか生きる手段を見つけようとするのである。
芥川は、人間の心理を合理的にとらえるために曖昧な要素を排除する。「明日の暮らし」は「どうにもならないこと」と設定される。現実問題なら、「難しい」とは言い得ても、「どうにもならない」と、可能性が100%閉ざされることはない。この芥川の条件設定のため、下人には「飢え死にするか」「盗人になるか」の二者択一しか残されていないことになる。
この条件があるため、「どうにもならないことを、どうにかするためには、手段を選んでいるいとまはない」と、手段の選びようがないことが、あっさり書かれる。
ここまで読むだけで、芥川は、人間の現実を描こうとしたのではなく、ある条件下での、ドラマチックな人間心理の変化を描こうとしていることがわかる。
「選んでいれば、飢え死にして犬のように捨てられる」。しかし、悪をなす勇気のない下人は、ここで逡巡、低回する。「方法はないな」「死にたくないな」「明日のことを何とかしなければ…」。
そして、やっと、「選ばないすれば」と、手段を選ばないことを想定する。
芥川は、「何度も同じ道を低回したあげくに、やっとこの局所に逢着した」と書いている。ここに至るまで時間がかかっている。
そして、
「しかしこの『すれば』は、いつまでたっても、結局『すれば』であった。下人は、手段を選ばないという事を肯定しながらも、この『すれば』のかたをつけるために、当然、その後に来る可き『盗人(ぬすびと)になるよりほかに仕方がない』と云う事を、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。」
まるで、手に取るように下人のこころを規定する。
事実としては、おそらくはそれ以前にも、「盗人」のことは心に浮かんでいたであろう。しかし、浮かんではすぐに、選択肢としては排除されていたに違いない。芥川によれば、何度も低回したあげく、やっと「手段を選ばない」ことを肯定する。そして思う。「(明日の暮らしをどうにかするには、)盗人になるより他にしかたがない。(でも、それはできないな、いやだなあ)」と。いやな気持ちを押し切って「積極的に肯定するだけの勇気」がでなかったのである。「いつまでたっても」とあるから、何度も何度も、とりとめなく考えていたのであろう。
ところで、ここで別の視点から。
下人の思考は、二つの過程(時間)に分かれる。何度も同じ道を低回していた時間(A)。「手段を選ばないとすれば、」と「盗人になる」ことを思いついてからの時間(B)。こういうとき、人間は決断できないまま時間を浪費する。AとBを合わせると、相当の時間になってもおかしくない。
下人はいつから、羅生門の下にいたのか。 テキストでは「雨に降りこめられた下人」が「雨やみ」を待っていたのである。「申(さる=午後四時)の刻下がりからふりだした雨」、とある。普通に読めば、羅生門の近所にいた下人が、雨が降り出したので、雨やみのために羅生門の下に駆け込んだということであろう。
そして、夕闇が迫ってきて、寒くなってきたので、そして、考えることに疲れて、一晩夜を明かそうと考えるのである。「夕冷えのする京都」とある。まだ、夜になりきっていない。冬に近い季節で、秋の終わりが適当か。秋分もとっくに過ぎている時期で、五時頃にはもう暗くなる。ということは、羅生門の下に駆け込んで、1時間もたっていない!
生きるか、死ぬかという大事な問題である。一時間程度の迷いは、問題の重要さに比してそれほど長い時間ではない。ちょっと芥川にだまされている気分である。
前回の補足
漢字のレベルでいえば、芥川の「芥」。この漢字も意識しないと「茶」と区別しない生徒がいる。作者名を漢字で答えさせると、何人かは「茶川」と書く。
また、この「芥」が「ちりやゴミ」というあまりきれいとは言えない意味であることも、ペンネームとしては納得いかないところである。「ちり、あくた」という連語(?)で理解させるとよい。
また、龍之介の「龍」。右の下が3本ある。パソコンの時代に2本でも3本でもあまり気にならないが、採点となると拘ってしまう。
本文の読解でもっとも注意させるのは下人の心理の合理的な理解である。下人の心理の変化である。
②心理の合理的な理解
理知派たる芥川の面目は、下人の心理描写にある。因-果の法則で「こころ」をとらえる。その因と果をしっかり読解させる。
a 羅生門の下
主人から暇を出されて、行き所がなくなっている下人は、「明日の暮らしをどうにかしよう」と考える。何とか生きる手段を見つけようとするのである。
芥川は、人間の心理を合理的にとらえるために曖昧な要素を排除する。「明日の暮らし」は「どうにもならないこと」と設定される。現実問題なら、「難しい」とは言い得ても、「どうにもならない」と、可能性が100%閉ざされることはない。この芥川の条件設定のため、下人には「飢え死にするか」「盗人になるか」の二者択一しか残されていないことになる。
この条件があるため、「どうにもならないことを、どうにかするためには、手段を選んでいるいとまはない」と、手段の選びようがないことが、あっさり書かれる。
ここまで読むだけで、芥川は、人間の現実を描こうとしたのではなく、ある条件下での、ドラマチックな人間心理の変化を描こうとしていることがわかる。
「選んでいれば、飢え死にして犬のように捨てられる」。しかし、悪をなす勇気のない下人は、ここで逡巡、低回する。「方法はないな」「死にたくないな」「明日のことを何とかしなければ…」。
そして、やっと、「選ばないすれば」と、手段を選ばないことを想定する。
芥川は、「何度も同じ道を低回したあげくに、やっとこの局所に逢着した」と書いている。ここに至るまで時間がかかっている。
そして、
「しかしこの『すれば』は、いつまでたっても、結局『すれば』であった。下人は、手段を選ばないという事を肯定しながらも、この『すれば』のかたをつけるために、当然、その後に来る可き『盗人(ぬすびと)になるよりほかに仕方がない』と云う事を、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。」
まるで、手に取るように下人のこころを規定する。
事実としては、おそらくはそれ以前にも、「盗人」のことは心に浮かんでいたであろう。しかし、浮かんではすぐに、選択肢としては排除されていたに違いない。芥川によれば、何度も低回したあげく、やっと「手段を選ばない」ことを肯定する。そして思う。「(明日の暮らしをどうにかするには、)盗人になるより他にしかたがない。(でも、それはできないな、いやだなあ)」と。いやな気持ちを押し切って「積極的に肯定するだけの勇気」がでなかったのである。「いつまでたっても」とあるから、何度も何度も、とりとめなく考えていたのであろう。
ところで、ここで別の視点から。
下人の思考は、二つの過程(時間)に分かれる。何度も同じ道を低回していた時間(A)。「手段を選ばないとすれば、」と「盗人になる」ことを思いついてからの時間(B)。こういうとき、人間は決断できないまま時間を浪費する。AとBを合わせると、相当の時間になってもおかしくない。
下人はいつから、羅生門の下にいたのか。 テキストでは「雨に降りこめられた下人」が「雨やみ」を待っていたのである。「申(さる=午後四時)の刻下がりからふりだした雨」、とある。普通に読めば、羅生門の近所にいた下人が、雨が降り出したので、雨やみのために羅生門の下に駆け込んだということであろう。
そして、夕闇が迫ってきて、寒くなってきたので、そして、考えることに疲れて、一晩夜を明かそうと考えるのである。「夕冷えのする京都」とある。まだ、夜になりきっていない。冬に近い季節で、秋の終わりが適当か。秋分もとっくに過ぎている時期で、五時頃にはもう暗くなる。ということは、羅生門の下に駆け込んで、1時間もたっていない!
生きるか、死ぬかという大事な問題である。一時間程度の迷いは、問題の重要さに比してそれほど長い時間ではない。ちょっと芥川にだまされている気分である。
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