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Mouton lab

Thai Paris Cairns Chendeu Siem reap

小賢しくなりたくない

2017-12-31 23:48:34 | 詩とか
激動の一年であった。

年初に前の仕事を辞め、2回目のニートを経験した後、再就職。
その再就職先も来年には退職することを決め、株式会社を作った。
既にキャッシュフローも順調に回り始めている。
引っ越しは今年だけで2回、そして月1くらいは海外へ旅に出るスタイル。

こうして振り返ると一貫性のかけらもなく、むしろ「フラフラすることが僕の一貫性です」と言いたいくらいだ。

もちろん来年もどうなるのかは全く分からない。
けれど、不安はほぼゼロで楽しみだけが極大化されていることが、この3年間の成長なのかもしれない。


東京に丸一年どっぷり浸かって気づいたことがある。
僕はそれほど多くを求めるほど乾いてはいない、ということだ。
確かに尖ってはいるけど、複雑な家庭に生まれた訳でもなければ、何か大きなコンプレックスを抱えている訳でもないし、すごくお金に苦労した過去がある訳でもない。
普通にストレスなく暮らしていける余裕があれば、十分幸せだと思う。
大きな目標を持って、何かに強い執着を持つほどには、乾いていないのだ。
ただ、みんなと同じが嫌なだけで、人並み以上に面倒くさがりなだけで、だからあえて早めに行動し続け、その結果、東京に行き着いた。
それだけである。

確かに、得たものはたくさんある。
経済的余裕、人脈、お金の回り方、政治の決まり方、そして日本の中心にいるんだという実感。
自分に関西アイデンティティが強く残っているため、まだ影響は薄い方だが、地方から出てきて東京に骨を埋める人が多いのも頷ける。
それほど色んな要素が凝縮された場所だった。
多様な価値観に触れ、今まで経験したことのないことも沢山経験した。
仕事におけるストレスが限りなくゼロになり、時間もお金もある程度自由になった。
こんなに楽な人生はないのではないかというくらい、今は楽な状態だ。

けれども、僕はその延長線上に人生を描く訳ではなく、またせっせとまた新しいレールを敷き始めている。
ここに長くいてはいけないという危機感と、ここに長くいても本質的に満たされないという不足感がはっきりとあるのだ。
上京した当初に得られた刺激や新鮮さはいつの間にか影を潜め、沈みゆく船に乗っている感だけがどんどんと大きくなる。
まさに、新卒で大企業に入った時に抱いていた時の思いと同じである。
それを今は東京という街、ひいては日本という国に抱き始めている。

だから少しの間、日本を離れようと思う。
ヨーロッパの小さな国に仲間たちと移住し、腰をすえて仕事ができる環境を構築する。
EU圏のあらゆる国を訪れ、その暮らしや文化に触れながら今後の人生を模索する。
見たい景色を見て、食べたいものを食べ、吸いたい空気を吸う。
半端じゃなく漠然としているが、それが来年のアジェンダだ。


来年はきっと違うことを言っていると思うが、それでいい。
少なくとも今を我慢しないというスタンスを貫きつつも、長期的な観点で見てベストを尽くせているはずだ。
東京に来る直前に少し書いたが、僕はやはり「莫大な理想を掲げてそこに酔いしれ、それをモチベーションとして頑張る」タイプではない。
「本質的で面白いと思うことを丁寧に拾い、それを繋げていく」タイプである。
生まれた時から「乾いていない」僕らができるのはきっとそういうやり方だと思うし、これから主流になっていくのもそういう考え方だと思う。


家にいると集中できないから、ちょっと自習室に出かける。
海外に移住するというと大げさだが、多分、それと同じノリだ。
ちょっと場所が遠くなって、期間が長くなるだけだ。
ただ、一緒に行動できる仲間がいることは本当に幸せなことだと思う。

行動できるバカでありたい。
最後は論理ではなく、ノリで決定できる余裕を持ちたい。
来年はもっと激動の一年になることを願う。


良いお年を。

Q.E.D.

自由への道連れ

2017-07-27 09:46:39 | 詩とか
プログラマーになった。

本物のプログラマーからすれば、僕など青二才だが、作りたいと思ったものを一通り自力で何でも作れるという実感は確かに持っている。
具体的なやり方はマスターせずとも、そこに行き着くまでの方法論を理解したことで、そういう実感が生まれているのだと思う。

例えるなら「明日の12時に青森に行ってください」と言われ、ここ(神戸)からどうやって行けば良いのか全く検討もつかないが、スマホの乗り換え案内で調べたり、駅に行って聞いたりすれば何とかなりそうだという期待のもと、「はい」と答える。そんな感じだ。
具体的な方法は分からなくても、そこに行けるかどうかを調べる方法論と、日本国内であれば1日あれば何とかなるという経験を持っているから、大丈夫だという実感を持てる。


同時にトレーダーになった。

本物のトレーダーからすると、僕の扱う額など知れているが、人に誇れるくらいの成果は挙げられるようになった。
いくらでも稼げるという話ではないが、確実に一線を超えた感はあり、運用に対するストレスや不安は消えた。

例えるなら、地中のどこに金があるのかを大体把握していて、それを掘るコストとそこから得られる利益を秤にかけて、どうするかを判断できる。そんな感じだ。
その方法論を体得してしまったから、対象が別に金じゃなくてもできるし、ずっと見ているとおおよその流れがつかめてくる。


この2つの職業は僕が自由を手に入れるために、おそらく無意識的にたどり着いたものだと思っていて、現状すごくしっくりきている。
雇われるという概念から開放されたし、結果が全てという領域なので、他人にガタガタ言われることもない。

一般的に働いている同世代とは、ほとんど会話が噛み合わなくなってしまったが、自由へのこだわりを捨てられない以上、今は仕方がないと思っている。


ここまで自由、自由と書いてきたが、そもそも「自由」とは何なのか?

僕なりの結論は「人生という長い軸で見たときに、やりたいことをやれる目処が確かに立つかどうか」「方法論を知っていて、そこに確かな勘があるか」ということが、自由であるかないかの分かれ目だと思っている。

もう少し分かりやすく話そう。
例えばの話だが、僕は30歳までに大学の修士に戻り、もう一度自転車競技に打ち込みたいと思っている。
そのためには、ある程度の余裕ある生活と将来のキャリアへの揺るぎない自信が必要だということが分かるが、それをどうやって得れば良いのかはまだはっきりと見えていない。
つまり、「できるか、できないか」が分からない。正確に言うと「できるか、できないのかを何を持って判断すれば良いのか」が分からない。
それが「30分で神戸から青森まで行くのは無理です」「もう地球上に金はありません」的な感じで白黒はっきりつけばいいのだが、なかなか難しい。

けれども、近づきつつあるなという実感は確かにある。
少なくとも今は、その実現に向けて何も邪魔するものはなく、真剣に自分の人生の行く末だけに集中できる。
「もう不毛な時間を過ごすのは辞めよう」と思い会社を辞めてから一年がたつが、その後、信じられないほど色々なことが起こった。

これがずっと続くわけではないのが分かっているので、今ある時間を大切にしたい。
この2、3年が残された最後のチャンスかもしれない。

そう思って日々を楽しみつつ駆け抜けられればと思う。

そんな25歳だったらとても素敵だ。

I wish they all could be

2016-09-22 23:35:46 | 詩とか

書かなければならないことが溜まっている。

けれども、一向に書く気が起きない。

 

特に書きたいこともない。

これといって変わった出来事もない。

 

でも、とりあえず書いておこうと思う。

 

 --- 

 

仕事を辞めてしばらく経つが、毎日楽しく過ごしている。

不安は特にない。

 

悩みがないのが悩みだと、人には言うことにしている。

 

けれども、自由になったという実感もない。

ちょうど大学生の長すぎる夏休みが自由でないのと同様に、僕の獲得したモラトリアムも自由ではない。

キリンやライオンは、檻から飛び出しても自由になれない。

時間はいつも、刻一刻と流れている。

割れた花瓶は、元には戻らない。

そういうことだ。

 

ただ、風を感じることができるようにはなった。

変化といえば、それぐらいだ。

 

時間があればダラダラやるし、時間がなければテキパキやる。

時間がなさすぎる状況に陥るほど要領は悪くないし、何がやりたいか分からなくなって気を病むほど精神が脆弱でもない。

お金があれば家賃が上がるし、お金がなければ家賃は下がる。

仕事があろうがなかろうが旅には出るし、村上春樹の文庫本は大抵の古本屋で買うことができる。

ウイスキーはどのみち、チビチビしか飲めない。

 

何も変わらないのだ。

時間もお金もそれほど大事な要素ではない。

 

時間をお金で買うなんて言っている人は、多分何も分かっちゃいない幸せ者だ。

 

---

 

話を戻そう。

自由についてだ。

 

仕事を辞めても自由にはなれない。

時間があっても、お金があっても自由にはなれない。

 

けれども、時間を止めることはできる。

少なくとも、時間を止めても差し支えがでないぐらいには。

 

だから、僕は日の明るいうちから風呂に入り、本を読む。

体が熱くなり、額が汗ばんでくるまで本を読む。

風呂から上がり、体が冷えてくると、まずまずなコーヒーを作り、また本を読む。 

少しだけ、時の流れを止めるのだ。

 

だから、僕はまた旅に出る。

北へ行き、東へ行き、西と南の間に行く。

気が向けば、日記でも書く。

 

チャラチャラした文章が書けるうちに、たくさん書いておくのだ。

 

 

イーストコートの娘はイカしてる。

ファッションだってご機嫌さ。

南部(サウス)の女の子の歩き方、しゃべり方、

うん、ノックダウンだね。

中西部(ミドルウエスト)のやさしい田舎娘、

ハートにぐっときちゃうのさ。

北部のかわいい女の子、

君をうっとり暖めてくれる。

 

素敵な女の子がみんな、

カリフォルニア・ガールならね……。

 

California Girls (村上春樹『風の歌を聴け』より)

 

Q.E.D.


そういえば、仕事を辞めた

2016-08-21 15:09:18 | 詩とか

フィリピンに来ている。

その水どっかの乾いている土地に送ってやりなよ、というぐらいに雨が降る。

湿度は高くない。飯は普通。柄は、、、まあ良くない。

 (手前と奥のコントラストに、つい足を止めてしまった)

 

フィリピンの話は、また書くとして、仕事を辞めた話について書く。

 

旅とは関係ないのだけれど、まわりに遠慮せず、世に情報を発信できるのは、この場しかないので。

 

正直、うまく説明できる自信はない。

でも、まあ、やってみよう。

 

 

分かりやすさ。

 

 

ひと言で言うと、これに尽きるのではないか。

 

なぜ人は悩むのかというと、何に悩んでいるかが、分からないからである。

なぜ分からないかというと、その問題が分かりにくいからである。

 

もう少し掘り下げよう。

 

が、その前に選択というものについて少し。

 

自転車競技部に入部して半年がたった。半年というと長いのか短いのかはっきりしないが、とりあえず現時点で入部したことに全く後悔はない。他の部活動、サークルを見て、「隣の芝生は青く見える」状態にならないのが自分でも驚きだ。選択には心残りや後悔がつきものだと思っていたが、どうやら悔いのない選択というものも存在するらしい。

 

これは5年ほど前に、部の会誌に投稿するために書いた文章の冒頭である。

自分で引用しておいてなんだが、まさにその通りだと思う(笑)

後悔のない選択というのは、きっと存在する。

言い方を変えれば、チャンスを逃さなかったという手応え。

あるいは、満を持したという安心感。

ごくたまに、であるが、そういった選択が出来る時がある。

 

もちろん、大抵の選択には、後悔がつきものだ。

大学に進学するときですら、少し後悔した。

ケチをつける人は誰もいない大学だったけれど、「あぁこのままレールに乗ってしまうのか」「もう一生、ジョッキーにはなれないのか」と心のどこかで思っていたものだ。

 

おそらく自分の頭でモノを考えることができるようになったのが、高2の後半ぐらいなので、それまではそもそも選択らしい選択をしてこなかった。

 

そういった意味で、「10年やってきた野球を辞めて自転車をやる」と決めたことは、自分にとって初めての”悔いのない選択”だったのかもしれない。

 

そして”悔いのない選択”という観点で見ると、今回が二度目。

仕事を辞めたことに関しても、恐ろしいぐらいに後悔がない。

そして、恐ろしいぐらいに、動機が一度目と同じだ。

 

辞めて間もないので、まだそこまで確信めいたものはないが、5年後10年後に振り返ったときに「あの時の判断はベストだった」「遅すぎず早すぎずちょうど良かった」と言っている予感みたいなものはある。

 

どうしても対外的に説明を求められることが多い話で、その時になんと説明したら良いこことかと悩むことも多かったが、自分なりに答えは出た。

 

到底やりきったとは言えないし、ベストを尽くしたかと問われると、返答に詰まる。

けれども、色々頑張ってみた結果、もっと他に頑張れそうなことが見つかった。

そんな風に表現をすることはできる。少なくともそれぐらいはやった。

 

野球はチームが勝つことが最優先だけど、自転車は自分が勝つことを目指す。

 

野球は何を持って強いというか分からないけど、自転車は一目瞭然。

 

野球は相手あっての試合だけど、自転車は自分との戦いの要素も大きい。

 

野球は楽しようと思えばできるけど、自転車はずっとしんどい。

 

野球は練習が成果に直結しにくいけど、自転車はすぐに結果がでる。

 

野球は集団行動しないといけないけど、自転車はいつどこで練習しようと自由だ。

 

野球は嫌いじゃないけど、自転車は好きになれそうだ。

 

 

 

野球は分かりにくいけど、自転車は分かりやすい。

 

前の仕事は分かりにくいけど、次の仕事は分かりやすい。

 

。。  

 

確かに、生きていくのは、「分かんねえよ、どうなってんだよ」と身悶えしながら、進んでいくことなのかもしれない。

 

けれども、

僕は、

できることなら、

やっぱり、

もっと、

分かりやすく、

生きたい。

 

(全然掘り下げてねえじゃん)

 

Q.E.D.


進化論の話

2016-04-24 00:47:24 | 詩とか
年始以来の更新になってしまった。

いつの間にか、あの「60日更新のないブログ」に貼られる広告が出ている。

もうすぐ「60日更新のないブログ」に貼られる広告が出てから60日になる。

60日なんて割とあっという間なのだ。

そのうち、また60日すると、もう一年の半分が経過する。

そうしたらまた、来年の年賀状を考え始めないといけない。

そうだ、今年の進化論のやつはちょっとひどかった。

「進化も紆余曲折も大差ない、というか紆余曲折こそが進化だ」ということを伝えたかったのに、回りくどすぎた。

今年のは、もっと分かりやすく、面白くしないといけない。


年始のブログには「税理士を頑張る」と大それたことを書いていたが、果たして今はどうかというと何と税理士を頑張っている(笑)

宣言したからにはやらなければという本末転倒な焦躁感と、勉強していると落ち着くという謎の安心感が支えになっているかもしれない。

もしくは単に「頑張ってる俺カッケー」という中二的な動機なのか。

いずれにせよ、そんなことはどうでもいいのだ。

サッカーの本田もよく言っているではないか。




「結果がすべてです」と。





平日は外でフラフラしている。

断っておくが、仕事を辞めたわけではない。

そういう仕事のやり方に変わったのだ。

車もETCも手に入れた。自転車も自由に使える。

そういう立場に変わったのだ。

ガラケーだって使い放題だ。


平日に外をフラフラしていると色んな発見がある。

最近気づいたのは、路肩に止めてある車には2種類あるということだ。

教習所の教官と生徒が入れ替わろうとしている車を入れれば3種類になるし、卒業試験中に大胆にも路肩に乗り上げ「はい、残念ですがそこまでです」と宣告されている車を入れれば4種類になるんだろうが、まあ主には2種類だ。

一つは中に人がいるパターン。

言い換えると、サボっている営業マンだ。

もう一つは中に人がいないパターン。

言い換えると、サボって遊びにいっている営業マンだ。

中にはそうじゃない人もいるんだろうが、まあ十中八九そうだ。

彼らは実に色んなところでサボっている。

平日の昼間ウロウロしている人は、大抵が車を置いてサボっている営業マンなのではないかと疑いたくなるくらいだ。でないと説明がつかない。

でも、そんなことはどうでもいいのだ。

サッカーの本田もよく言っているではないか。




「結果がすべてです」と。





そういえば先日、島に向かわないといけない用事ができた。

しかも助手席に人を乗せて。

初対面の人である。

困るなぁと思っていたら、走り始めてから忘れ物をしたと言い出すではないか。

本当に困るなぁと思い、職場に戻り再びスタートすると今度は道を間違えた。

これはいよいよやばいぞと思い、相手先になんと言おうか考える。

道が混んでいたことにしようか、いや不運にも相手は車のプロだ、そんなことはすぐバレる。

隣のこの人のせいにしようか、いや流石にそんなことを言ってまた一緒に帰る度胸はない。

頭がぐるぐる回る。一種の紆余曲折だ。


そうこうしているうちにまた道を間違えた。

みんないとも簡単に橋を渡っていくのに、なぜか橋に乗れない。

やはり協調性がないのだろうか。またもとの道に戻る。

時間がどんどん過ぎていく。


ぐるっと一周回って三度目の正直だ、と思って突っ込んだら今度は橋の下に行ってしまった。

また、余計なことを色々考える。

時間がどんどん経っていく。

あっちだと思っていたところがこっちで、こっちだと思っていたところは行き止まりで、ぐるぐるぐるぐる回る。

紆余曲折に紆余曲折を重ねる。





すいません、みんなを置いて僕だけがどんどん進化してしまいそうです。



やけになってそう、叫びたくなった。



Q.E.D.