日記を見たということでした。
「よく理解してまとめてくれているなあ~(^.^)/~~~」と言うお褒めの言葉でした。
会社でもうれしさのあまりC型肝炎が消えたことを話したそうです。
もともとなかったんではないの~?とか、誰かのデータと取り違えているのでは?などと冷たい反応で信じてもらえないようです。
再生不良性貧血と言う難病で、あと3ヶ月の余命を宣告された大学2年の夏休み~
(ああ、ちょうど今くらいだったかしら~?)
当時私は貧しい家だったのでアルバイトや家庭教師の苦学生でした。
夏休みのアルバイトの真っ最中に彼の姉から呼び出しを受けて、弟が医大に入院したこと・弟が病気になった原因はあなたの存在だと家族会議できまったこと・今後いっさい交際しないでほしいと・・・
一方的にJR駅のベンチに座り、人目に触れないように小声で告げられたのでした。
バカにしないでよ~と内心怒りを覚えていました。
「押しかけ女房のように無理にすがりついて友達になってもらっているのではないわよ~」
でも、口には出さず飲み込みました。
奈良の家で思いを口にしたことがなかったのは、ここから始まっていたのかもしれません。
出した言葉は消えないってその頃から悟っていたようなんです。
せっかく半日の休みを貰ってきているので、お別れに見舞いに行きたいと許可を得たのです。
深いお付き合いなどさらさらする気は持っていませんでした。
「大分に帰って教師になるんだ~
4人姉妹の長女なので、妹や親に安心させたいから大学4年の無駄を許して~」と仕送りできないわが身を責めていたのでした。
故郷の同級生は集団就職列車で都会に出て、中卒後から仕送りをしていたのです。
必要としてくれるところが私の居場所だという信念から、見舞いをきっかけにしてそれまでの意に反して運命的な付き合いが始まったのでした。
初めから今まで40年近く彼の傍で見てきたから、非加熱製剤の輸血や大阪の西成のホームレスの黄色い輸血を夥しく受けてきたのを知っています。
間違えばエイズになっていた~とも思いました。
10年ごとにもうこれが最期かも~と怯えてきたものです。
そんな繰り返しの大波を共にもろに受けて泳いできた私たちだったから、喜びの時に真っ先に知らせてやりたくなったのも理解できることなのでした。
「本当によかったわね~」となおも繰り返す私。
「おう、良かった~
屋敷の中に庭作りをしてきたのが気分転換になってよかったのかな~?って医者が言ってくれている~」
「そうかもねえ~
でもね、私の一番言いたいことは最後の言葉なんだからね~」と付け足しておきました。
「わかっている~」
人生の戦友だし、今もそう!
そしてこれからも~~
日記の反響は教え子たちやメルトモさんからとても大きくいただきました~
みんな喜んでくださっていました
もっちゃんの人生は素晴らしいって
第3幕はますます佳境に入っていく予感がしますよねえ~
筋書きのないドラマを一等席でワクワクしながら観ているのです~
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もっちゃん
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