その昔、総合大学の学部を列挙する時、法学、医学、工学、文学、理学の順序で呼ぶのがしきたりだったらしい。
先日読んだ、伊達宗行著『「理科」で歴史を読みなおす』ちくま新書のp219に、そう書かれてあった。当時、「法医工文理の順序」という小文が、「日本及び日本人」という雑誌の昭和3年9月号に正岡子規の未発表遺稿として掲載されたらしく、その小文には次のようなことが記されているという。
おそらく、実用中心に並べたのだろうが、この順序は大変面白いもので、これを一本の磁石と考え、+法医工文理-と置くと、+極に近いほど陽気であり、-に行くほど陰気である。そしてどこで切っても磁石のように切り口に+-が現れるというのである。当時の法科は、政治、経済、官僚への人材養成所であり、陽気な若者が多いが、喧騒でもある。無頼の徒も多い。そして対極にある文学、理学は高尚な学問と自称するが、大体において陰気で鵜やせ我慢をしているように見える。
以上、『「理科」で歴史を読みなおす』のp219から引用したが、今日、たまたま東京大学の学部・大学院を案内するウェブページを見たところ、学部は確かにその順になっていた。さすが、東京大学は伝統を守っている。
(参考) http://www.u-tokyo.ac.jp/index/c00_j.html
ためしに京都大学、名古屋大学など、旧帝大のウェブページを見てみたが、この記事を書く時点で「法医工文理の順序」にはなっていなかった。
また、1887年に規定された学位令では、第2条に
博士の学位は、法学博士、医学博士、工学博士、文学博士、理学博士の5種とする。
と書かれてある。
ちなみに、1888年(明治21年)5月7日に、各博士5人ずつ、計25人の博士が誕生したという。
(参考) 学校に関する日本初の一覧(ウィキペディア)
いまでは、たくさんの学部の種類があり、多くの博士学位取得者がいるが、はじまりが法医工文理であったという点は知らなかったので、記事にしてみました。
先日読んだ、伊達宗行著『「理科」で歴史を読みなおす』ちくま新書のp219に、そう書かれてあった。当時、「法医工文理の順序」という小文が、「日本及び日本人」という雑誌の昭和3年9月号に正岡子規の未発表遺稿として掲載されたらしく、その小文には次のようなことが記されているという。
おそらく、実用中心に並べたのだろうが、この順序は大変面白いもので、これを一本の磁石と考え、+法医工文理-と置くと、+極に近いほど陽気であり、-に行くほど陰気である。そしてどこで切っても磁石のように切り口に+-が現れるというのである。当時の法科は、政治、経済、官僚への人材養成所であり、陽気な若者が多いが、喧騒でもある。無頼の徒も多い。そして対極にある文学、理学は高尚な学問と自称するが、大体において陰気で鵜やせ我慢をしているように見える。
以上、『「理科」で歴史を読みなおす』のp219から引用したが、今日、たまたま東京大学の学部・大学院を案内するウェブページを見たところ、学部は確かにその順になっていた。さすが、東京大学は伝統を守っている。
(参考) http://www.u-tokyo.ac.jp/index/c00_j.html
ためしに京都大学、名古屋大学など、旧帝大のウェブページを見てみたが、この記事を書く時点で「法医工文理の順序」にはなっていなかった。
また、1887年に規定された学位令では、第2条に
博士の学位は、法学博士、医学博士、工学博士、文学博士、理学博士の5種とする。
と書かれてある。
ちなみに、1888年(明治21年)5月7日に、各博士5人ずつ、計25人の博士が誕生したという。
(参考) 学校に関する日本初の一覧(ウィキペディア)
いまでは、たくさんの学部の種類があり、多くの博士学位取得者がいるが、はじまりが法医工文理であったという点は知らなかったので、記事にしてみました。