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アイデアの散策

仕事・研究・日常の中で気付いたことのエッセイ。

情報公開の課題

2011年07月26日 | 日記・エッセイ
 放射線量データは、東日本大震災直後の混乱した状況では、必ずしも適切には公開されなかった感がある。
 情報を公開するときに起きる課題について、今日は考えてみたい。

 しばしば、正確な情報が提供されないことがある。その理由には、概ね次の3つの要因があるのではないかと考える。

1.情報は手元にあるが、何らかの理由があって情報を出し渋る
2.情報が手元になく、そもそも情報を提供することができない
3.手元にある情報を加工・改ざんし、事実とは異なる形で出す

 1番目の状態は、社会不安を招く。都合が悪いから情報を出さないのではないかと多くの人が憶測する状態。その「何らかの理由」が明確にならない限り、情報を受け取る側は、真相を知ることはできない。

 ところで、情報が手元にないから情報提供できないという事態もある。よく「現在確認中」「詳細は不明」と速報されることがあるが、これは2番目の状態だと思う。この状態にあることが丁寧に説明されないと、多くの人は1番目の状態と2番目の状態を混同し、情報を隠しているのではないかと疑ってしまう。

 もっとも、情報を出したとしても、その情報が真実ではないとすれば、正確な情報が提供されたとは言えない。それが3番目である。ただし、情報が曲がって伝えられているかどうかはふつう、一般の者には気づきにくいものである。

 説明責任という言葉が、特に叫ばれるようになってきたが、情報を公開する者は情報を提供する社会的意義について、認識しておく必要がありそうだ。組織の何らかの都合により、情報が公開されないという社会的不都合が起きないためにも。

自分の魅力を出すために

2011年07月25日 | 日記・エッセイ
 昨日の昼は、麻布十番にある緑茶カフェ「KOOTS」で、友人と午後のひとときを楽しんだ。アイス抹茶ラテはおいしかった。

 バイオリズム。
 最近、うまくいかないことが多かった。話しているうちに、お悩み相談のような会話になってしまった。
 バイオリズムが低迷しているに違いない。人間だから、そういう時期もあるのだけども・・・。

 そうしていろいろとお話をするうちに、あることにハッと気づいた。今の自分は「輝いて」いるか。
 不安や悩み事が多いとき、不思議とそれは表情に出てしまう。元気がないときには、運が逃げていくもの。

 活き活きしているときは、人が寄ってくる。今を楽しんでいるとき、そして自分を好きになっているとき、自ずと魅力が内面から湧いてくる。その魅力に人は心を惹かれる。興味を示す。
 無論、自分が心から何かを面白いと感じる気持ちは、会話をすれば、言葉にも表れる。

 言われてみれば、当たり前のことかもしれない。でも、ついつい日常に埋没してしまうと、そうした「自分らしさ」を磨くことに疎くなる。そして、自信を失いそうになる。自分を信じることは、とても大切なこと。

 ふと輝いていたあの頃を思い出し、今の不完全燃焼状態に反省した。輝いていた時期は、毎日が楽しく、アクティブだったのだ。心の元気を戻して前向きに進もう。そう感じた午後のひとときでした。

 自分が元気であれば、周りも元気になる。周りに元気がないと、場がしらけてしまう。
 「わくわく感」があるか。それは、日々を楽しむひとつのバロメータ。
 自分を個性を磨いていくこと。それが自分の魅力につながるのだから。

選り好みの悲劇

2011年07月24日 | 日記・エッセイ
 人間は選択を繰り返す生き物である。

 と言える一面があると思う。就職や結婚、転職といった大きな人生イベントはもちろん、その都度生じる意思決定の場面では、しばしば選択を迫られる。

 ふと、婚活について、昨夜友人と電話で語り合った。結婚できない人の3要素をあえて挙げるとするならば。
・ 選り好みをする
・ 出逢いの場がない
・ 本人の問題(結婚意欲がない等)
 ほかにも要因はあるでしょうが、概ねこうした理由が主ではないかと。

 選り好み(えりごのみ)。
 選り好みの結果、あのときあの選択をしていればと後悔することがある。私にもそういう苦い経験が多少ある。しばしば「妥協」も大切と人には言われる。
 でもね。そうは言っても、人間は、より良いものを願うもの。いわゆる、真・善・美を望んでしまう。

 結婚だけには限らない。選り好みの結果、機会を逃すことはビジネスの場でも多々あるもの。

 「石橋を叩いて渡る」ならまだしも、「石橋を叩いて叩いて渡らない」となると、気付けば石橋がなくなっていて、大損をすることだってある。「慎重」な選択が「幸運」か「悲劇」かはわからない。

 ただひとつ言えることは、「慎重」な選択をしようとする、自分の価値観がそこにはあるということ。その価値観とは、自分にとって譲れない大切な基準でもあるということ。その価値観がもたらす帰結を想定して、結果として「幸運」か「悲劇」かをイメージして、今の価値観にこだわるか、その価値観を改めるか、価値観のチューニングをすること。それが、選り好みをする人にとって大切な作業かもしれない。

価値自由を理解する

2011年07月23日 | 日記・エッセイ
 前の記事に続き、大学院の授業で知った「価値自由」という概念についての備忘録。少し難しい話です。

 マックス・ウェーバーは社会科学を論じるために、「価値自由」(wertfreiheit)という概念を用意した。wertfreiheitを「没価値性」と訳す場合もあるらしいが、「価値自由」に関して、書き留めます。

 人はふつう、それぞれ異なる価値観を持っているもの。したがって、社会科学とは、それをする人によって観点が異なるもの。そのため、何らかの仮説を作る際には、まずは自由な価値・観点に立って良いのであって、またそうするしかない。この意味で、社会科学とは「価値自由」な学問であるとも言える。

 とはいえ、そうした自らの価値観に基づく仮説によってある現象を説明しようとする場合において、また別の人から見れば、その説明が間違っているようにみえたり、説明がうまくいかないときがある。その際には、自らの仮説を改めて、うまく現象を説明しうる仮説を再び形成する必要がある。
 このように、トライアンドエラーを繰り返しながら、仮説はある一定の価値に基づくものに向かってゆくのである。そうして、その辿り着く先には、文化価値というものがあるという。ある時代、ある条件において成立する「文化価値」がある。そこへ辿り着くためにも、まずは社会科学においては「価値自由」であることが求められるという。

 主観的な客観性。
 「○○ではないか」という、自分にとっては「客観性」があるだろうと「主観的」に思える仮説をまずは用意するもの。それ自体は「価値自由」なものであってよい。その主観的な客観性について、ある集団に理解を求める過程で、客観性の妥当性が高まることになる。ところが、その集団もまた、ある主観的な価値観からその妥当性を判断するだろうから、客観性は主観的に捉えられてしまう。社会科学とは、主観と客観が連鎖する営みにも思えてしまう。

 絵描き。
 芸術の営みにもそのような感があると先生が解説してくれた。基本的には、絵描きは自らの価値観、主観をベースにして絵を描こうとする。だが、主観的な視点だけでは、多くの人に理解されうる絵にはならない。ある程度の客観性を持って、しかし主観的に絵を描くことになってしまう。そうして描いた絵は、ある程度の客観性を持ったものに出来上がるだろうが、その絵はまた、見る者の主観的な価値観により受け止められる。
 
 芸術と科学。その営みには共通する点もありそうだ。
 数学という、もっとも科学的に見える学問であっても、そこに真の客観性があるかは断定できない。他方、ある数学の解法が「エレガント」だというときもある。芸術的な「美」と科学的な「美」のシンクロを見るとき、学問の面白さに遭遇するような気がします。

悪い噂はなぜ広まるのか

2011年07月21日 | 日記・エッセイ
 今夜は職場の仲間6人による歓送迎会が赤坂見附であった。

 その会の途中、ある人が少し失言をした。すると、その人に対して、ある人が「いまの発言は絶対に忘れないからね」と、揚げ足を取るかのように言い放った。と同時にまた別の人が、「明日職場のみんなに言いふらそう」と言った。

 正直、そういうやりとりに無関心の私は、端の席で巻き込まれないよう、黙々と飲んだ。

 それにしても悪い噂はなぜか広まる。

 これは厄介なことだ。その発言を訂正しようにも、一度流れた情報は消すことができない。これが「情報」の難しいところ。噂話にならないよう、妙に発言に慎重になって自由なことが言えなくなる人もいれば、噂話に仕立てるべく、脚色した大げさな話をする人もいる。

 こうした、情報が広まること、情報が人を媒体として伝搬する(複写されていく)ことを、かつてリチャード・ドーキンスはその著書『利己的な遺伝子』の中で、「ミーム(meme)」という造語を使って説明した。その後、スーザン・ブラックモアなど何人かの研究者が、追随してこうした現象を解明しようとしている。

 一つ言えることは、情報には重みづけがあるということ。重要であると思われる情報は、積極的に記憶し伝搬するよう意識づけられる。情報を理解する過程には、明らかに重要か重要でないかの判断のプロセスが含まれている。

 だから、話題は脱線するが、学校教育で教え方がうまい先生は、教えるときにその内容の重要性をきちんと説明していると思う。意味があるのかないのかがはっきりしないと、情報は簡単に左から右へ流れてしまう。

 情報の重要さは人によって異なる。海外旅行に興味がない人にとっては、飲み会で熱く海外旅行の楽しさを教えられても実感がわかないもの。仕事好きな人が集まれば、仕事の話題に花が咲く。情報の重要さを図るもの。その一つが価値観なのかもしれない。

 悪い噂を広めることに価値を見いだせない人にとっては、噂話には面白くない。噂話が好きな人は本当に好きそうですが、少なくとも私は、失言は大目に見てあげて良いのではないかと思います。