mixiだけの公開にしようかと思いましたが、こっちにも。
かなり個人的な、しかもけして楽しい話じゃないです。
昨年8月半ば、父が父方の祖母に腹水がたまっていることに気づきました。検査を受けたのがお盆の頃。
8月の下旬に入り、私が父方の祖父母の家にいたときに、検査の結果が出ました。
その頃の私は自分の病気と、祖母が少し痴呆になり、5月に転んで仙骨を骨折したことばかりに気を取られていました。
そんな中、出た検査の結果は……
末期のすい臓ガン。
余命半年と宣告されたそうです。
私が検査の結果を聞かされたのは、帰京してすぐのことでした。
それから私の家族と父方の叔父夫妻ができるだけ祖父母の家に行くようにしました。
名目は夏休みとか、出張のついでとか、年末年始を過ごすためとか、いろいろ。
一時は「2009年の年賀状出せるかな?」という状況でしたが、祖母本人は気がついていないのか、いつもの祖母らしく元気に過ごしていました。
そんなわけで少しはほっとしたものの、介護認定を受け、それまで2階で寝ていたのを1階に移し、料理や食事も座ってするようになりました。
介護用のベッドや車椅子も来ていたそうです(この辺は去年か今年かよくわからないのですが……)。
年末には祖父と父、12月31日に着いた姉を使って大掃除やおせち料理作りに精を出していたそうです。
年が明けて、2009年。
祖母は1月1日には母方の祖母と電話で話してました。
自分より10歳以上年上の母方の祖母を心配して。
1月21日。
祖母は検査と称して入院しました。
それからは行ける人が順番に病院へ通うことになりました。
東京から祖母の入院する病院は新幹線を使っても4時間以上。
ですが、今行かないともう2度と会えないことを誰もが感じていたからです。
母と私が病院を訪れたのは、1月29日でした。
祖母は思ったより元気で、朝鮮からの引き上げの話や電話交換手をしていた頃の話、大好きなタカラジェンヌの話をしていました。
水色の毛糸で編み物をしている私を見て、「目が揃ってて綺麗やねえ」とか「そんな色、私好きなんよ」と言ってました。
母と私が行ったことで、自分がいるところを東京と誤解したこともありましたが、私は今すぐお別れではないな、と考えていました。
2月1日に姉と入れ替わる形で東京に戻った私は、それから慣れない家事に追われていました。
とはいえ、従姉の家に遊びに行ったり、相棒とカラオケしたり、と祖母のことを気にかけつつもまあまあ普通の生活を送っていました。
両親は祖母のお見舞いのために病院や、1人残された祖父のために頻繁に祖父母の家に行っていましたが……。
母が2月3日に再び病院へ向かうとき、祖母に見せるためにデジカメの写真をプリントアウトして渡しました。
祖母は私たち3姉妹しか孫がいないので、一昨年の従姉が結婚したときに撮った私たちの振袖の写真がお気に入りだったそうです。
そして、私たちそれぞれの卒業の写真と、母方の祖母の写真も。
その中に、祖父母、叔父夫妻、私たち家族と全員集合の写真と、神戸で撮った祖母の良い笑顔の写真がありました。
2月12日。
朝着替えている最中に「あ、おばあちゃんは長くないな」と感じました。
祖母の容態が急変したのは2月14日。
16日には多少落ち着きましたが、17日には母から「確実に終わりが近付いています」とメールが来ました。
19日になり、祖母は心電図をつけました。
その夜、母から電話があり、翌日にはみんな来るようにと言われました。
2月20日。
姉と私が着いたとき、そこには痩せ細った祖母の姿がありました。
心電図や血圧計、酸素吸入器をつけて……。
まぶたも閉じられず、光や音にもわずかに反応するだけ。手足は冷たくなっていました。
この日の夜11時過ぎには父と相棒も駆けつけ、叔父夫妻と私たち家族が病室に泊まりました。
呼吸や血圧の数値は確実に最期が近付いていることを示していましたが、心電図の波形だけは、健康な人と変わらず美しい形でした。
日付が変わって午前3時。
血圧や体温を測るために看護師さんがやってきました。
眠れずに起きていた父と私が見守る中、看護師さんが痰を取りました。
そのとき、ほんの僅かですが、祖母の目が苦しそうな表情を浮かべました。
私は祖母の手を握って「大丈夫だからね」と何度も言いました。
気のせいかもしれませんが、祖母は私の手を握り返し、「お母ちゃん」と呼びかける父の方へ目を向けていました。
痰は吸入しきれず、祖母の口からこぼれました。痰は胆汁でどす黒くなり、私は思わず涙を流しました。
午前4時頃、母に促されて私は眠りにつきました。
午前6時頃。
急に祖母の血圧が測れなくなり、辺りが騒がしくなりました。
それまで右手で測っていたのを左手に変え、徐々に低くなっていく血圧を見ていました。
心拍数も少なくなりましたが、心電図の波形はまだ美しいままでした。
午前中に一度祖父が来ましたが、「まだ大丈夫や」と言って11時頃に帰っていきました。
まず私たちが、そのあと両親と叔父夫妻が昼食を取り、その後はずっと病室にいました。この頃、血圧はもう測れなくなっていました。ただ心電図だけが動いていました。
やがて祖父も病室にやってきました。
午後4時頃に当直の先生が挨拶に来ました。その日は非番だった主治医の先生が最期に間に合わないかもしれないから、というので。
午後5時。
心電図が少しずつ乱れてきました。
心拍数が60を下回りました。父が「お母ちゃん」と呼び続けていました。
やがて心拍数が50になり、40になり……
0になりました。
そのとき、主治医の先生が飛び込んできました。
父が「お母ちゃん、先生来てくれはったで」と言ったとき、ほんの一瞬だけ心拍数が20台まであがりましたが、すぐに0になりました。
2月21日午後5時8分。
「お別れです」
主治医の先生が静かに告げました。
「お母ちゃん、今まで頑張ってくれてありがとうね」と父。
私はもう一度祖母の手を握りました。まだ温もりのあるその手が握り返すことはありませんでした。
8月に一緒に買い物に行ったとき、ちょっとだけうざいと思ってしまったこと、生きている間に一緒に宝塚を観に行けなかったこと、料理上手な祖母から一品も教わらなかったこと……。
気がつけば私は大泣きしていました。誰よりも。
最後にもう一度だけ、「おばあちゃん」と叫べば良かった。
後悔ばかりでした。
いろいろな処理があり、葬儀が行われる会館に着いたときはもう夜でした。
その会館は泊まれるようになっていたので、体調不良を理由に自宅へ帰った叔父以外が祖母の仮通夜をしました。
まるで眠っているようで、また起きて雑談に加わってくるのではないか、と思ったのも一度や二度じゃありません。
仮通夜の間、生前の祖母の話をして、時には笑い声まで出てきました。
祖母は死んだのではなく、生ききったのですから。夫や2人の息子とその妻たち、それに孫3人に囲まれて旅立ったのですから。
賑やかなことが大好きだった祖母も、もしかしたら笑顔で見ていたのかもしれません。
22日にお通夜、23日に告別式がありました。
東京と関西では風習がまったく違い、15年前に母方の伯父が亡くなったときと比べて異なる点が多く、興味深い点も多々ありました。また、このとき初めて会う親戚もたくさんいました。
お通夜のときにお坊さんが「人は3つの部位でできている。両親からもらった体、阿弥陀様から頂いた魂、そして、皆さんから頂いた心」という言葉が印象に残っています。
23日、出棺前。
お棺に花を入れ、最後のお別れをするとき、私は涙で声にならない声で「ありがとう」と何度もつぶやきました。
お骨になって戻ってきた祖母は、年齢のわりに骨格がしっかりしていました。骨密度が高く、心臓も強かった祖母は、ガンにならなければ100まで生きたかもしれません。
初七日をその日のうちに終え、祖父母の家に祭壇ができました。
三月にまたがない方が良い、ということで、当初は3月28日が四十九日でしたが、お寺さんの都合で3月21日に四十九日法要をすることになりました。
四十九日まで、そこに祖母はいます。
これは今日(日付変わっているので、昨日)母から聞いた話ですが。
2月21日深夜、母方の祖母のところへ祖母が訪れたそうです。
母方の伯母が気付いたときには、母方の祖母はベッドの上に座り、「本当に良い婿をもらって……」と話していたそうです。
母方の祖母は昔からそういうことがあるそうで、外国人の幽霊が出たとき、お水をあげて無事昇天できるように祈ったこともあるそうです。
もしかしたら、本当に祖母は、母方の祖母に挨拶に行ったのかもしれません。
伯母が祖母に「行かなくちゃならない」と言ったときに、そんなに驚かなかったそうですから。
仏壇を大切にして毎日お経を上げていた祖母。
奇しくも初孫である姉の誕生日の前日、阿弥陀様のいる極楽浄土へ旅立った祖母。
亭主関白の祖父と60年以上連れ添い、北朝鮮で敗戦を経験し、2人の息子を有名国立大まで進学させた祖母。
料理と手芸が上手で、太極拳を習っていて、宝塚のファンで、北海道から沖縄まで日本全国を訪れたほど旅行が大好きだった祖母。
うちの母いわく、良きお姑さんで、良き祖母でした。
来年からは、ヴァレンタインデーが近くなるたびに祖母を思い出し、そっと手を合わせることでしょう。
私は仏教徒ではないのでお経は唱えませんが、心の中で手を合わせて「ありがとう」と何度も言うでしょう。
遺影は、あの神戸で撮った、笑顔の祖母。
祖母はいつも微笑みかけてくれています。
おばあちゃん。
迷惑ばっかりかけて、生意気で短気な悪い孫で、本当にごめんね。
そして――
今まで本当に、本当にありがとう。
かなり個人的な、しかもけして楽しい話じゃないです。
昨年8月半ば、父が父方の祖母に腹水がたまっていることに気づきました。検査を受けたのがお盆の頃。
8月の下旬に入り、私が父方の祖父母の家にいたときに、検査の結果が出ました。
その頃の私は自分の病気と、祖母が少し痴呆になり、5月に転んで仙骨を骨折したことばかりに気を取られていました。
そんな中、出た検査の結果は……
末期のすい臓ガン。
余命半年と宣告されたそうです。
私が検査の結果を聞かされたのは、帰京してすぐのことでした。
それから私の家族と父方の叔父夫妻ができるだけ祖父母の家に行くようにしました。
名目は夏休みとか、出張のついでとか、年末年始を過ごすためとか、いろいろ。
一時は「2009年の年賀状出せるかな?」という状況でしたが、祖母本人は気がついていないのか、いつもの祖母らしく元気に過ごしていました。
そんなわけで少しはほっとしたものの、介護認定を受け、それまで2階で寝ていたのを1階に移し、料理や食事も座ってするようになりました。
介護用のベッドや車椅子も来ていたそうです(この辺は去年か今年かよくわからないのですが……)。
年末には祖父と父、12月31日に着いた姉を使って大掃除やおせち料理作りに精を出していたそうです。
年が明けて、2009年。
祖母は1月1日には母方の祖母と電話で話してました。
自分より10歳以上年上の母方の祖母を心配して。
1月21日。
祖母は検査と称して入院しました。
それからは行ける人が順番に病院へ通うことになりました。
東京から祖母の入院する病院は新幹線を使っても4時間以上。
ですが、今行かないともう2度と会えないことを誰もが感じていたからです。
母と私が病院を訪れたのは、1月29日でした。
祖母は思ったより元気で、朝鮮からの引き上げの話や電話交換手をしていた頃の話、大好きなタカラジェンヌの話をしていました。
水色の毛糸で編み物をしている私を見て、「目が揃ってて綺麗やねえ」とか「そんな色、私好きなんよ」と言ってました。
母と私が行ったことで、自分がいるところを東京と誤解したこともありましたが、私は今すぐお別れではないな、と考えていました。
2月1日に姉と入れ替わる形で東京に戻った私は、それから慣れない家事に追われていました。
とはいえ、従姉の家に遊びに行ったり、相棒とカラオケしたり、と祖母のことを気にかけつつもまあまあ普通の生活を送っていました。
両親は祖母のお見舞いのために病院や、1人残された祖父のために頻繁に祖父母の家に行っていましたが……。
母が2月3日に再び病院へ向かうとき、祖母に見せるためにデジカメの写真をプリントアウトして渡しました。
祖母は私たち3姉妹しか孫がいないので、一昨年の従姉が結婚したときに撮った私たちの振袖の写真がお気に入りだったそうです。
そして、私たちそれぞれの卒業の写真と、母方の祖母の写真も。
その中に、祖父母、叔父夫妻、私たち家族と全員集合の写真と、神戸で撮った祖母の良い笑顔の写真がありました。
2月12日。
朝着替えている最中に「あ、おばあちゃんは長くないな」と感じました。
祖母の容態が急変したのは2月14日。
16日には多少落ち着きましたが、17日には母から「確実に終わりが近付いています」とメールが来ました。
19日になり、祖母は心電図をつけました。
その夜、母から電話があり、翌日にはみんな来るようにと言われました。
2月20日。
姉と私が着いたとき、そこには痩せ細った祖母の姿がありました。
心電図や血圧計、酸素吸入器をつけて……。
まぶたも閉じられず、光や音にもわずかに反応するだけ。手足は冷たくなっていました。
この日の夜11時過ぎには父と相棒も駆けつけ、叔父夫妻と私たち家族が病室に泊まりました。
呼吸や血圧の数値は確実に最期が近付いていることを示していましたが、心電図の波形だけは、健康な人と変わらず美しい形でした。
日付が変わって午前3時。
血圧や体温を測るために看護師さんがやってきました。
眠れずに起きていた父と私が見守る中、看護師さんが痰を取りました。
そのとき、ほんの僅かですが、祖母の目が苦しそうな表情を浮かべました。
私は祖母の手を握って「大丈夫だからね」と何度も言いました。
気のせいかもしれませんが、祖母は私の手を握り返し、「お母ちゃん」と呼びかける父の方へ目を向けていました。
痰は吸入しきれず、祖母の口からこぼれました。痰は胆汁でどす黒くなり、私は思わず涙を流しました。
午前4時頃、母に促されて私は眠りにつきました。
午前6時頃。
急に祖母の血圧が測れなくなり、辺りが騒がしくなりました。
それまで右手で測っていたのを左手に変え、徐々に低くなっていく血圧を見ていました。
心拍数も少なくなりましたが、心電図の波形はまだ美しいままでした。
午前中に一度祖父が来ましたが、「まだ大丈夫や」と言って11時頃に帰っていきました。
まず私たちが、そのあと両親と叔父夫妻が昼食を取り、その後はずっと病室にいました。この頃、血圧はもう測れなくなっていました。ただ心電図だけが動いていました。
やがて祖父も病室にやってきました。
午後4時頃に当直の先生が挨拶に来ました。その日は非番だった主治医の先生が最期に間に合わないかもしれないから、というので。
午後5時。
心電図が少しずつ乱れてきました。
心拍数が60を下回りました。父が「お母ちゃん」と呼び続けていました。
やがて心拍数が50になり、40になり……
0になりました。
そのとき、主治医の先生が飛び込んできました。
父が「お母ちゃん、先生来てくれはったで」と言ったとき、ほんの一瞬だけ心拍数が20台まであがりましたが、すぐに0になりました。
2月21日午後5時8分。
「お別れです」
主治医の先生が静かに告げました。
「お母ちゃん、今まで頑張ってくれてありがとうね」と父。
私はもう一度祖母の手を握りました。まだ温もりのあるその手が握り返すことはありませんでした。
8月に一緒に買い物に行ったとき、ちょっとだけうざいと思ってしまったこと、生きている間に一緒に宝塚を観に行けなかったこと、料理上手な祖母から一品も教わらなかったこと……。
気がつけば私は大泣きしていました。誰よりも。
最後にもう一度だけ、「おばあちゃん」と叫べば良かった。
後悔ばかりでした。
いろいろな処理があり、葬儀が行われる会館に着いたときはもう夜でした。
その会館は泊まれるようになっていたので、体調不良を理由に自宅へ帰った叔父以外が祖母の仮通夜をしました。
まるで眠っているようで、また起きて雑談に加わってくるのではないか、と思ったのも一度や二度じゃありません。
仮通夜の間、生前の祖母の話をして、時には笑い声まで出てきました。
祖母は死んだのではなく、生ききったのですから。夫や2人の息子とその妻たち、それに孫3人に囲まれて旅立ったのですから。
賑やかなことが大好きだった祖母も、もしかしたら笑顔で見ていたのかもしれません。
22日にお通夜、23日に告別式がありました。
東京と関西では風習がまったく違い、15年前に母方の伯父が亡くなったときと比べて異なる点が多く、興味深い点も多々ありました。また、このとき初めて会う親戚もたくさんいました。
お通夜のときにお坊さんが「人は3つの部位でできている。両親からもらった体、阿弥陀様から頂いた魂、そして、皆さんから頂いた心」という言葉が印象に残っています。
23日、出棺前。
お棺に花を入れ、最後のお別れをするとき、私は涙で声にならない声で「ありがとう」と何度もつぶやきました。
お骨になって戻ってきた祖母は、年齢のわりに骨格がしっかりしていました。骨密度が高く、心臓も強かった祖母は、ガンにならなければ100まで生きたかもしれません。
初七日をその日のうちに終え、祖父母の家に祭壇ができました。
三月にまたがない方が良い、ということで、当初は3月28日が四十九日でしたが、お寺さんの都合で3月21日に四十九日法要をすることになりました。
四十九日まで、そこに祖母はいます。
これは今日(日付変わっているので、昨日)母から聞いた話ですが。
2月21日深夜、母方の祖母のところへ祖母が訪れたそうです。
母方の伯母が気付いたときには、母方の祖母はベッドの上に座り、「本当に良い婿をもらって……」と話していたそうです。
母方の祖母は昔からそういうことがあるそうで、外国人の幽霊が出たとき、お水をあげて無事昇天できるように祈ったこともあるそうです。
もしかしたら、本当に祖母は、母方の祖母に挨拶に行ったのかもしれません。
伯母が祖母に「行かなくちゃならない」と言ったときに、そんなに驚かなかったそうですから。
仏壇を大切にして毎日お経を上げていた祖母。
奇しくも初孫である姉の誕生日の前日、阿弥陀様のいる極楽浄土へ旅立った祖母。
亭主関白の祖父と60年以上連れ添い、北朝鮮で敗戦を経験し、2人の息子を有名国立大まで進学させた祖母。
料理と手芸が上手で、太極拳を習っていて、宝塚のファンで、北海道から沖縄まで日本全国を訪れたほど旅行が大好きだった祖母。
うちの母いわく、良きお姑さんで、良き祖母でした。
来年からは、ヴァレンタインデーが近くなるたびに祖母を思い出し、そっと手を合わせることでしょう。
私は仏教徒ではないのでお経は唱えませんが、心の中で手を合わせて「ありがとう」と何度も言うでしょう。
遺影は、あの神戸で撮った、笑顔の祖母。
祖母はいつも微笑みかけてくれています。
おばあちゃん。
迷惑ばっかりかけて、生意気で短気な悪い孫で、本当にごめんね。
そして――
今まで本当に、本当にありがとう。
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