富士塚を行く

身近な富士塚を見に行く
都内区部が多いが
その周辺地、遠隔地にも
足を延ばして見て歩いた記録

下赤塚富士(赤塚諏訪神社富士塚)

2020年08月14日 22時18分47秒 | 富士塚

 上赤塚富士塚に引き続き、こちらも見る。ここの塚名には下赤塚とあるが、現在の所在地の住所は、大門だ。でも、赤塚の隣接地でもあり、起伏のある地形は赤塚と殆ど同じく見える。

 さて、その富士塚だが、この静かな住宅地を抜ける大きな道路(新大宮バイパス)脇に立地する。この大きな道路、実際は半地下なので、直接車に接することはないが、訪れるにはこれが大きな目印になる。と言うのは、この富士塚は場所が分かりづらい。諏訪神社にある富士塚なのだが、境外地にある。その境外地は神社から1~2分の所にあるものの、一見、ただの空き地にしか見えない。尤も注意深く見れば、その空き地には、祭礼などで幟を立てる棒の置き場になっていることから、神社に関係する土地なのかなぁと気付くかも知れない。そんな土地の一画に件の富士塚がある。棒置き場の蔭に隠れる様にだ。空き地の通路状の道を入って行くと、鳥居2基、祠3基、石碑やら石像が見えて来る。

      

▲写真左から、この空き地状の土地の一番奥に富士塚がある。中央の開口部から中に入り、踏み込まれた道に沿って歩くと、左から2番目の写真、幟の棒を横置きにしてトタン屋根を掛けた棒置き場に差し掛かる。それを横目に更に進むと、鳥居や祠が見えて来る。ここにあったのかぁ!3番目の写真だ。そして、一番右側の写真は、その鳥居を潜った先から右手側の祠方面を見たところ。縦型の石碑には、御室浅間大神の文字が見える。御室って言うと、京都の御室仁和寺[オムロニンナジ]を思い出した。でも、富士塚が仁和寺や宇多天皇とは関係ないであろう。ここでは、神様の坐す場所、部屋である「みむろ」と読むのであろうか。みむろせんげんだいじんって読めばいいのかな。それと、その手前の低い方の石には、講に参加した人達の名前だか屋号だかを記したものなのかが見える、、。しかし、これらの石って、表面が凄く綺麗だ!江戸末期だか明治時代だかの彫りってことないよね、この綺麗さは。汚れもないし、文字や文様も明瞭ってことは、近年も富士講をやってる人達が居るってこと!?

 富士塚にある祠3基はいづれも木製で、戸が閉まっており、中がどうなっているのか、何が祀ってあるのか確認出来なかった。だいぶ古びており、余り手入れされていない感じだ。それと、鳥居は石造りで、3基ある祠のまん中のものだけにある。石碑もやや少ない感じだ。いや、、、と言うか、この盛夏の草深の中、見当たらなかった。本当は、折角行ったのだから、時間を掛て見るべきだったのであろうが、ここ昨今の真夏日の猛暑の中、耐えられず、早々に撮影をして退散してしまった次第だ。

 それから、ここで目を引くのは、2体の石像だ。向かって左手側の祠の両側に置かれている。石像本体は摩耗が激しく、顔や衣装など彫り込みがはっきりしない。更に手・腕が破損して仕舞っている。おそらく、仁王様であろう。

▲3基あるうちの左手側にある祠。2体の仁王像が祠を守る。今、改めて写真を見てみると、祠には紙垂が下がっていることもあり、全く管理されていないことでも無さそうだ。僅か乍らも、富士信仰のある人達は居るんであろうか、、、。

▲右側の石像:だいぶ摩耗してしまっており、苔やカビで細部がよく見えない。左腕の先も無くなっている。

 

▲左側の石像:右側同様、摩耗、破損している。(像の後ろの灰色の壁は、新大宮バイパスの遮音壁) 

 そして、ここの富士塚の一番大きな特徴は、塚がないことだ。緩い傾斜地に祠や石碑などが平置きされている。富士塚なら決まってあるべき黒ボク石も見当たらない。元々無かったのか、それとも途中で壊したり撤去されたりしたのか。説明板はあるが、その辺の記述はない。そう言えば、さっきの上赤塚富士塚も黒ボク石が無かった。この辺はそう言う富士塚の作り方をする地域なのか、、、。何か色々疑問の残る富士塚だ。

 ▲富士塚の裏手(南西)側から見る。ここから見ると余り富士塚と言う気がしない。又、写真中央の大きな石碑には、日露戦役記念碑と見える。ここは単に富士山の信仰の場だけではなく、地域共同体の共通認識の場でもあったのであろうか。

--------<説明板・縦書き>------------------------------- (富士塚の共有説明文は省略)

 当富士塚を造成した富士講「丸吉講」は、新座郡中沢村(現新座市)出身の浅海吉右衛門が開いた講中です。当地(旧下赤塚村)へと丸吉講が伝播した時期については、詳らかではありませんが、和光市白子熊野神社境内の富士塚にある、明治三年(1870年)に奉納された鳥居には、他地域の丸吉講の講中とともに下赤塚の人びとの名が見られることから、それ以前の幕末期には当地に伝播していた可能性が考えられます。

 また、この富士塚の造成時期については志木市敷島神社の境内にある「田子山富士」へ奉納された明治五年の「丸吉講新富士百三十三所奉納額」に、「下赤塚仙元富士山」と表記されていることから、それ以前の段階だと考えられます。

 当富士塚は、平成二十二年度、区の登録記念物(史跡)となりました。

   平成二十三年三月八日 

                                     板橋区教育委員会 

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 東京都板橋区大門5 諏訪神社 境外地
 2020年(令和2年)8月14日金曜日・晴れ・36℃


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