富士塚を行く

身近な富士塚を見に行く
都内区部が多いが
その周辺地、遠隔地にも
足を延ばして見て歩いた記録

豊島長崎の富士塚

2018年07月03日 21時38分34秒 | 富士塚

 池袋近辺にも富士塚があると言うので、山開きの7月1日に登りに行く。
 富士塚なんて、誰も見向きもしないのかと思っていたら、意外と次々と登拝に来る。もっと驚いたことに、ここには外人さんも来ていた!

 ▲合目石もあり、順々に登って行く

 ▲頂上からの眺め。結構高いぞ。

--------<もらったパンフレットの説明>-------------------------------
 富士塚は、富士山を神の宿る場所として信仰する人々の集まりである富士講によって、江戸時代後期以降、主として富士登山が困難な人々のために、江戸とその周辺地域に築かれました。富士講は、角行を開祖とし、江戸時代中期には身禄によって広められ、最盛期には江戸八百八講と称されて、代表的な庶民信仰の一つとなりました。
 豊島長崎の富士塚は、富士講の一つである豊島郡長崎村の月三椎名町元講の人々によって築造されました。塚内には文久2年(1862)の銘記がある碑などが10基あり、これらが最も古く、「当山再建」と刻まれた碑も文久2年であることから、この歳に築造されたと考えられます。
 塚は、高さ約8m、直径約21mで、表面は富士山の黒ボク石(溶岩)でおおわれています。塚内には、頂上に大日如来像、小御岳石尊大権現碑、烏帽子岩奉献碑があるほか、合目石、講石、石仏、天狗像、御胎内などが配置され、約50の充実した石造物群で構成されています。また、塚の東にある浅間神社では、かつてお焚き上げが行われおり、奉納された数多くの講碑からは長崎村の人々の富士信仰の強さと、近隣地域の人々との交流をうかがい知ることができる。
 都区内にある江戸時代築造の富士塚の中では、原形を最もよく保ち庶民信仰の様相を示すものとして重要であるという評価から、昭和54年5月21日に重要有形民俗文化材に指定されました。    豊島区教育委員会
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 東京都豊島区高松2-9-3 (浅間神社)
 平成30年7月1日(日)


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