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淀君の生き方の問題点

産経新聞 9月18日(日)19時28分配信【素顔の「江」33】というコラムがあり、電子版のタイトルは「武田真治インタビュー 宮沢りえは『変わらない』」である。

大野治長を演じる武田真治のインタビューがある。

「淀のような女性の印象はいかがですか」と訊かれて武田真治は「『時代はとっくに変わっていた』という彼女のセリフがあるのですが、豊臣家を守るのであれば、彼女の方が途中から考え方を変えなければいけなかったはずです。豊臣家が天下をとることにこだわり過ぎた結果、滅びてしまったという面がある」と答えた。

ドラマ『江~姫たちの戦国~』では家康(演:北大路欣也)が、『葵 徳川三代』では高台院(演:草笛光子)が、淀君の「豊臣の天下」にこだわる「保守性」を批判していた。

大野治長は『真田太平記』で細川俊之が演じて、千姫(演:工藤夕貴)を家康(演:中村梅之助)に届けることは彼の判断。
『葵』ではこれを初こと常高院(演:波乃久里子)が思いついたことになっている。

淀君が変化したとすれば、最初、秀吉を父の仇として憎んでいたのが、秀吉の側室になったことであるが、大坂夏の陣で自ら豊臣家を滅ぼしてしまったことを考えると、やはり秀吉に対する憎悪の裏返しとして豊臣を支配していたのだろう。

また『江~姫たちの戦国~』第2話で茶々は「戦で死ぬのに立派も名誉もない」と言いながら36年後に大坂城で死を選んでいた。
市も「女の戦は生きること」と言いながら柴田勝家との時代を選んだ。
江は「戦は嫌」と繰り返しながらその姉・茶々は戦をしてでも豊臣の天下を守ろうとした。何とも矛盾している。

戦国の姫たちは戦国時代に戦を否定しながら結局、それを止めることができなかった意味では、「口先だけで無力な人たち」であった。
最終的に戦に明け暮れた家康が太平の世を築いたのは皮肉ではある。

淀はたとえ家康と合戦をしてでも豊臣の天下を守ろうとし、また家康に降伏するより自害を選んだ。一大名になって徳川の太平の世で生きるより滅亡を選んだわけだ。
もし、淀が本当に豊臣の家の存続を望んでいたら、伊達政宗のように天下取りをあきらめて、徳川の家臣になって家を存続させ、江と共に徳川の世で「浅井の血」を残していったはずである。
それをしなかったのは、淀が生まれながらの姫だったことと、秀吉の側室としての言動の裏に秀吉への憎悪が隠されていたからであろう。
淀はかつて憎んだ秀吉の家と道連れになって自害することで浅井長政の仇を討ってしまった。

北政所、高台院は木下藤吉郎が百姓だった時代から知っているので、時代が豊臣から徳川に移ったことを察知し、淀の保守主義を案じていた。
『江~姫たちの戦国~』に登場する戦国の姫たちは昭和憲法に出てくるような平和主義を叫びながら戦を止めることができなかった。日本の現代の平和主義が昭和でなく戦国時代から存在したとすると、別に昭和憲法は珍しくも何ともないし、反戦思想は戦後66年どころか500年たっても戦を防げない意味で無力と言える。

江が浅井長政自決後も生活できたのは秀吉のお陰であり、三度の結婚で最終的にたくさんの子供を持ったのも秀吉が決めた縁組のお陰である。江はその恩を理解せず、秀吉に恨み事ばかり言っていた。
最終的に江の姉・淀が秀頼を道連れに自害することで、江の恨みを晴らしてしまった。それで江にとって悲劇以外の何物でもない。

劇中で悪役に描かれている秀吉こそ戦国武将の強さと孤独さを象徴している。

戦国の姫と若君では明らかに姫のほうが優遇されている。
戦で負けた武将の子は、女であれば助けられるが、男であれば8歳や10歳でも処刑される。
大河ドラマの女性脚本家たちは「戦国の女性は気の毒だった」と言いたいのだろうが、戦国時代は女のほうが得であった。

前後一覧
2011年9月

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江~姫たちの戦国~ 淀
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