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淀君の生き方の問題点

2011-09-28 17:17:00 | 江戸時代初期、家康~秀忠~家光~家綱
産経新聞 9月18日(日)19時28分配信【素顔の「江」33】というコラムがあり、電子版のタイトルは「武田真治インタビュー 宮沢りえは『変わらない』」である。

大野治長を演じる武田真治のインタビューがある。

「淀のような女性の印象はいかがですか」と訊かれて武田真治は「『時代はとっくに変わっていた』という彼女のセリフがあるのですが、豊臣家を守るのであれば、彼女の方が途中から考え方を変えなければいけなかったはずです。豊臣家が天下をとることにこだわり過ぎた結果、滅びてしまったという面がある」と答えた。

ドラマ『江~姫たちの戦国~』では家康(演:北大路欣也)が、『葵 徳川三代』では高台院(演:草笛光子)が、淀君の「豊臣の天下」にこだわる「保守性」を批判していた。

大野治長は『真田太平記』で細川俊之が演じて、千姫(演:工藤夕貴)を家康(演:中村梅之助)に届けることは彼の判断。
『葵』ではこれを初こと常高院(演:波乃久里子)が思いついたことになっている。

淀君が変化したとすれば、最初、秀吉を父の仇として憎んでいたのが、秀吉の側室になったことであるが、大坂夏の陣で自ら豊臣家を滅ぼしてしまったことを考えると、やはり秀吉に対する憎悪の裏返しとして豊臣を支配していたのだろう。

また『江~姫たちの戦国~』第2話で茶々は「戦で死ぬのに立派も名誉もない」と言いながら36年後に大坂城で死を選んでいた。
市も「女の戦は生きること」と言いながら柴田勝家との時代を選んだ。
江は「戦は嫌」と繰り返しながらその姉・茶々は戦をしてでも豊臣の天下を守ろうとした。何とも矛盾している。

戦国の姫たちは戦国時代に戦を否定しながら結局、それを止めることができなかった意味では、「口先だけで無力な人たち」であった。
最終的に戦に明け暮れた家康が太平の世を築いたのは皮肉ではある。

淀はたとえ家康と合戦をしてでも豊臣の天下を守ろうとし、また家康に降伏するより自害を選んだ。一大名になって徳川の太平の世で生きるより滅亡を選んだわけだ。
もし、淀が本当に豊臣の家の存続を望んでいたら、伊達政宗のように天下取りをあきらめて、徳川の家臣になって家を存続させ、江と共に徳川の世で「浅井の血」を残していったはずである。
それをしなかったのは、淀が生まれながらの姫だったことと、秀吉の側室としての言動の裏に秀吉への憎悪が隠されていたからであろう。
淀はかつて憎んだ秀吉の家と道連れになって自害することで浅井長政の仇を討ってしまった。

北政所、高台院は木下藤吉郎が百姓だった時代から知っているので、時代が豊臣から徳川に移ったことを察知し、淀の保守主義を案じていた。
『江~姫たちの戦国~』に登場する戦国の姫たちは昭和憲法に出てくるような平和主義を叫びながら戦を止めることができなかった。日本の現代の平和主義が昭和でなく戦国時代から存在したとすると、別に昭和憲法は珍しくも何ともないし、反戦思想は戦後66年どころか500年たっても戦を防げない意味で無力と言える。

江が浅井長政自決後も生活できたのは秀吉のお陰であり、三度の結婚で最終的にたくさんの子供を持ったのも秀吉が決めた縁組のお陰である。江はその恩を理解せず、秀吉に恨み事ばかり言っていた。
最終的に江の姉・淀が秀頼を道連れに自害することで、江の恨みを晴らしてしまった。それで江にとって悲劇以外の何物でもない。

劇中で悪役に描かれている秀吉こそ戦国武将の強さと孤独さを象徴している。

戦国の姫と若君では明らかに姫のほうが優遇されている。
戦で負けた武将の子は、女であれば助けられるが、男であれば8歳や10歳でも処刑される。
大河ドラマの女性脚本家たちは「戦国の女性は気の毒だった」と言いたいのだろうが、戦国時代は女のほうが得であった。

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2011年9月

関連語句
江~姫たちの戦国~ 淀

▲徳川家光、家綱の時代(『将軍家光忍び旅』、『大奥』家光編、『将軍家家光の乱心・激突!』)

2008-02-25 14:49:00 | 江戸時代初期、家康~秀忠~家光~家綱



徳川家光は名君か乱心者か
大阪夏の陣の翌年、1616年にガリレオ裁判が始まった。日本が鎖国に踏み切ったのはキリスト教教会の脅威が強かった時代でのことである。
ローマ法王ベネディクト16世(Benedictus XVI)が枢機卿時代の1990年にオーストリア人哲学者のことばを引用し、ガリレオ裁判を「校正だった」と發言(2008年1月16日、毎日新聞ネット版)。
1992年にヨハネ・パウロⅡ(二世)がガリレオ裁判の誤りを認めた。

Google「ガリレオ裁判 ローマ」

1616年にはが滅んで後金が成立。1636年からとなる。

1623年、家光が三代将軍になった。
『将軍家光忍び旅』によると、大阪夏の陣から19年後の1634年ごろ、徳川家光は江戸と京都を往復した際、影武者として新吉という町人を駕篭(カゴ)に乗せ、自らは素浪人に化け、多くの場合、柳生十兵衛(柳生三厳=~みつよし)とともに道を歩いていた。豊臣方の忠臣が家光の命を狙うものの、家光はそれを許し、また、豊臣方の生き残りを擁立した反乱軍に対し、家光はその人物が偽者だと故意に嘘をついて、徳川の世における平安な生活を保障したこともあったようだ。

Wikipediaによると実際の上洛は1623年1626年だが、1634年にも上洛していたようだ

京都から江戸に帰る道中、家光の命を狙う側はすでに将軍の忍び旅を見抜いており、浪人姿の家光を狙ったことがある。幸い、家光は無事、江戸に着いたからよかったものの、これでは、むしろ、江戸に近づいた段階で影武者のほうに浪人姿の忍び旅を任せて、家光本人は影武者の影武者になって駕篭に入っていたほうが安全だったのではなかろうか。

また、家光本人が警護の役人に化けてもよかったと想う。

忍び旅の最中、家光は「天下の主は民百姓たち」、「戦(いくさ)などおろかなものよ」と現代的な意見を言っていた。しかし、その家光が1637~38年の島原の乱ではキリシタンを弾圧することになる。

1636年、後金が国名を清に改めた。都も瀋陽から北京に移したらしい。

島原の乱には宮本武蔵も参戦したが、死を恐れぬキリシタンたちに恐怖したらしい。
天草四郎『魔界転生』で復活したらしい。
家光の時代を扱ったテレビドラマ『大奥』ではキリシタン関係者が家光暗殺を謀るが、家光は「異国のものたちが我が国を狙っているからだ」(要約)とし、政(まつりごと)は時に非情なものだという信念を告げた。キリシタン関係者は家光暗殺をあきらめた。

家光と十兵衛
柳生十兵衛は1650年没、家光は翌年の一六五一年没だが、『柳生十兵衛七番勝負・最後の戦い』では家光没後も十兵衛が健在だったように見えた。家光の死去には諸説あり、映画『将軍家家光の乱心・激突!』では家光が自分の子を殺そうと刺客を送り、素浪人の軍団が守り、最後は子供が江戸城に無事、到着。当の家光の死まで描かれた。また、家臣が家光の首を持って「これは夢じゃ、夢でござる」と叫ぶシーンも覚えているが、ネットで調べたら『柳生一族の陰謀』であった。

家光の死に乗じて統幕を狙った由井正雪(由比~)の乱も失敗に終わった。『剣』と『魔界転生』でこの時代が扱われたらしい。「由井」が「由比」とも書かれたということは、江戸時代初期には語中の「井(ゐ)」と「比(ひ)」の發音が似たものになっていた可能性がある。
『剣』というのはすごい時代劇で、「剣」を中心に歴史上の多くの事件を取り上げ、そのまま、日本の武士の歴史と言っても過言ではない。

『長七郎江戸日記』によると、家光の弟・松平忠長の遺児、つまり将軍・家綱の從兄弟にあたる松平長七郎が江戸で殺人(相手は悪党に限るが)を繰り返していたらしい。番組のホームページでは長七郎は1629年生まれで、Wikipediaでは1614年生まれ(1661年に四八歳で没)という設定が紹介されている。

秀忠が側室に産ませた子供に保科正之がいる。家光・忠長にとっては異母弟である。
『江戸を斬る 梓右近隠密帳』では保科正之は双子で生まれ、弟が梓右近であった。
『江戸を斬る』第1部の最終回で由比正雪が切腹したらしいので、『江戸を斬る』第1部で描かれた梓右近の活動は家光の治世の末期であろう。
なお、梓右近にとって長七郎は甥に相当する。

映画『大帝の剣』の舞台は江戸時代が始まって数十年の時代のようで、夏の陣で死んだはずの真田幸村が老人として出てくる。

家綱の時代
『服部半蔵・影の軍団』によると、江戸時代初期には、あの初代・服部半蔵の孫(服部正就=はっとりまさなりらしい)が同じ「服部半蔵」の名を名乗り、「影の軍団」を率いて江戸の悪党と対決していた。『影の軍団Ⅲ』では、四代家綱の時代、1657年の明暦の大火のころ、伊賀忍者の多羅尾半蔵が、やはり影の軍団を率いていた。「我が身すでに鉄なり、我が心すでに空(くう)なり、てんまふくめつ(天魔覆滅?)」が決め台詞。そのバックには千愁尼がいたらしい。昔、観た記憶では、千愁尼没後、半蔵は将軍のもとを訪れて遺品を届け、悪い政治をしたら将軍でも斬ると言ったようだったが、はっきりしない。
江戸時代の伊賀と甲賀の話では、漫画で『伊賀の影丸』、小説で『甲賀忍法帖』などがある。

1661年は『国姓爺合戦・The Sino-Dutch War 1661』の舞台。「国性爺合戦(こくせんやかふせん→~かっせん)」として日本でも有名。
鄭成功(てい せいこう、Zhèng Chéng-gōng、1624~1662年)の物語である。

江戸時代の「不老長寿の薬」探し
白土三平の『いしみつ』の「第四話上・念流青眼霞がえしの巻」によると、榊原源之進という武士が藩主の命令でジャガタライモを探す旅に出た。行き倒れとなり、担ぎこまれた村でオドという老人と逢う。オドは戦に出たことがあるらしい。大坂夏の陣が50年も前のことらしく、舞台は1665年ごろか。一方、オドは天正の地震を覚えており、天正のころ(1573~1592)が100年も前のこととされており、地震が1585年ごろ(1586年とする史料もネットにあり)として、100年後は1685年になる。間をとって1675年ごろか。
オドはサツマイモのほかジャガイモを栽培していたが、ジャガイモについて「このイモが世にでれば多くの百姓が助かるじゃろう。…………じゃが領主にしれれば年貢はもっときびしくなるかもしれん。じゃからこれはあくまで秘密にしておかなければならんのじゃ。」と源之進に言い、「おわかりかの。新しい良いものが作られたり発見されたりしても、世の中のしくみがくるっていると、それがかえって逆の作用をするときがあるのじゃ」と付け加えており、筑摩書房『現代漫画9・白土三平集』(1969)の巻末で文藝評論家・鶴見俊輔(つるみしゅんすけ)がそこを強調し、何でも新しいものを買わせる社会に警告を發している。

イシミツを探す忍者がまた出現し、兵助と名乗り、オドのところで農作業や柴刈りなどをして働いていた。兵助は源之進が持ち出そうとしたジャガタライモをイシミツと疑い、戦っている最中に地震が起きた。ネットで江戸時代に地震の起きた年を調べると、1677年に房総半島沖で地震があったらしい。

地震年表-日本(~江戸時代)

「第四話下・無限流の巻」で兵助はイシミツを奪おうとして再び源之進を襲い、次にかけつけたオドを手裏剣で攻撃したが、返り討ちに遭う。兵助はオドからイシミツがの蜂蜜ことで、村で何度も飲まされていたことを聴かされ、息絶える。
オドは「なんのために長生きをするのかわからんやつらに不老長寿のクスリをのませてもえきないこと……。」と語った。これは平安時代に同じくイシミツを探していた犬麿を倒した藤原千方が言った「ただ、なすこともなく生きながらえるなどくだらぬ」と似ている。

サツマイモ(薩摩芋)=甘藷(かんしょ)を日本で普及させたのは徳川吉宗(1684~1751)と青木昆陽(1698~1769)だったが、ジャガイモ=馬鈴薯(ばれいしょ)が日本で注目されだしたのは天保の飢饉のころからだったらしい。

綱吉の時代

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関連語句
家光 影の軍団 イシミツ

▲江戸時代の始まり

2008-02-25 03:44:00 | 江戸時代初期、家康~秀忠~家光~家綱
秀吉の時代は終わり、家康が天下を握る。
アニメ『少年徳川家康』の主題歌の中の語りを聴くと、竹千代は少年時代から天下平定の使命を与えられていたようになっている。
豊臣の没落は1894年に出た『桐一葉(きりひとは)』でも描かれている。

1600年、オランダ船リーフデ(Liefde)号が豊後に漂着。英国人ウィリアム=アダムズ(William Adams、1564~1620)が日本の武士「三浦按針」となった。
映画『SHOGUN』にこれが記録されている。

関ヶ原の戦いとは、いわば、ねね茶々の対立が背後にあり、『おんな太閤記』ではそれが鮮明だった。
映画『茶々・天涯の貴妃(おんな)』で茶々の歴史が描かれている模様。
『功名が辻』山内一豊(1546~1605)と妻・千代の物語。

徳川幕府ができた1603年で安土桃山時代は終わり、江戸時代に入るが、時代劇では事実上、1615年の大阪夏の陣までが「戦国時代」である。
『あずみ』、『サスケ』も江戸時代初期の話である。

白土三平の『ざしきわらし』によると、伊賀と甲賀の戦いの中で、伊賀の年老いた下忍・ダンズリの小助が逃走した。小助は東北の村で「ざしきわらし」となって百姓の子供を助け、忍法・月の輪で城主からの追っ手を倒し、絶命。

大河ドラマ『琉球の風』によると、1610年、琉球尚寧王(しゃうねいわう→しょうねいおう)が徳川家康と会っていたが、明と日本の力関係の中、薩摩の「侵略」で併合された琉球の王は、ほとんど、家康の家臣のようにひれ伏していた。国土の大小はともかく、対等な国同士の首脳会談なら、琉球王も堂々としていられた。日本の幕府は明に服從するのを嫌がって琉球を己に服從させた、ある意味で身勝手な政権であった。

『功名が辻』の2006年12月3日に放送された回で、1603年における秀吉の妻・高台院(北政所=きたのまんどころ、ねね、おね)と山内一豊の妻・千代の会話があり、高台院の台詞が「関ヶ原の戦から3年、うちの人(秀吉)が死んで5年」となるべきところ、放送で「死んで10年」となっていたらしい(2006年12月9日更新『日刊スポーツ』)。秀吉没年は1598年だから1603年は5年後。再放送で訂正されたはず。
Google「功名が辻 時代考証」検索

小次郎武蔵の対決
宮本武蔵(1584頃~1645)が吉岡一門との決戦におもむく際、社(やしろ)に必勝祈願をしようとしたが、「頼れるのは己の剣のみ」と自分を恥じて、やめたらしい。このことは、のちに『巨人の星』星一徹(1920推定~1978推定)が星飛雄馬(1951頃~)に語って聴かせたもので、1968年の正月に飛雄馬がそう言っている。また、『侍ジャイアンツ』によると、ヤクルトの選手だった眉月光も1972年新春に語っていた。

「天は自ら助くる者を助く(天助自助者)」と言われる。菅原道真(845~903)などはこのように神に頼らない者を救いたいと想うだろう。ただ、武蔵は、敵の将とはいえ、子供を殺したようだ。評価は分かれるだろう。

1612年、宮本武蔵と佐々木小次郎(生年不詳)が船島(巌流島)で決闘。歴史を扱ったテレビ番組で出演者が、「小次郎は決闘の当時、相当、年をとった老人」で、「武蔵が弟子たちに集団で小次郎を攻撃させた」など、定説と違う歴史観を紹介したこともある。

2008年正月、某テレビ局で放送された時代劇風のコントで、武蔵と小次郎が決闘しているとき、徳川光圀佐々木助三郎渥美格之進がテレビの『水戸黄門(みとくわうもん)』そのままの姿で登場する場面があった。この舞台作品では武蔵が若者で光圀が老人だった。
しかし、光圀は1628年生まれで、1584年生まれの宮本武蔵のほうが44歳年上であり、巌流島の決闘があった1612年当時、まだ光圀は生まれていなかった。人々が歴史上の人物を固定した印象で覚えていることのあらわれである。

過去と現代で時間が同時進行?
『ドラえもん』の「名刀“電光丸”」によると、若き日の宮本武蔵がのび太を師と仰ぎ、電光丸という刀をもらって自身をつけた。電光丸は自動的に敵の動きを察知し、剣を持っている人間の意思と無関係に勝ってしまう。ただ、相手を斬るというより殴って気絶させるようである。

もともと、のび太は20世紀の東京でジャイアンこと剛田武(または郷田~)から剣道での勝負を申しこまれていた。ただ、面も胴も防具を何もつけない勝負のようで、のび太が大ケガをするのは目に見えていた(ドラえもんの道具でどうとでも防御できただろうが)。ドラえもんはその特訓のためにのび太を連れてタイムマシンで江戸時代初期の日本に来た。ところが、ドラえもんは何を間違ったか、西暦1621年の船島に行こうとし、のび太が怖がって暴れたおかげで、タイムマシンが目的の時代より「少なくとも十年」昔に到着。決闘前の西暦1611年以前についた模様。のび太が暴れてよかったことになるが、ドラえもんがどうして年数を間違えたのか。
縱書きの台詞なので、作者が漢数字で
一 (1)
六 (6)
一 (1)
二 (2)
と縱に描いたのが、活字にする段階で
一 (1)
六 (6)
二 (2)
一 (1)
と誤認された可能性がある。

ドラえもんとのび太は武蔵によって引き止められ、江戸時代の日本で予想以上に長く滞在し、武蔵と別れて20世紀の日本に戻ったとき、なぜか、出發した時刻の直後でなく、もっとあとの時刻に戻ってしまった。ジャイアンとの決闘は午後4時の予定だったが、電光丸は武蔵に持ち去られていた。ドラえもんとのび太が20世紀の野比家自宅に戻ったとき、すでにあたりは暗くなっており、スネ夫によると、ジャイアンは待ちくたびれて風邪を引き、決闘をやめて家に帰ったという。

作品ではドラえもんとのび太が江戸時代の日本にいる間、一時的に場面が20世紀の日本に切り替わり、ジャイアンがのび太を待ちながらクシャミをする姿が描かれていた。まるで、「20世紀」の世界と「江戸時代」の世界が同時に進行しているように描かれていたが、当然、時間軸上では江戸時代より20世紀のほうがあとであるから、ドラえもんとのび太は帰る際に時刻を調節すればよかったのである。そもそも、電光丸が一本しかなかったのがおかしい。22世紀の科学を使っていくらでも補充はできただろう。

また、鳥山明の『Dr.スランプ』によると、決闘直前の武蔵は則巻アラレというロボットによって20世紀の日本(ペンギン村か)に連れ去られ、小次郎は巌流島で老人になってしまった。

のちに江戸時代に出現した町奉行所同心(警察官)・中村主水(~もんど、主に文化文政~幕末)は武蔵のような二刀流も使えたが、小次郎のような剣法も使えたようである。『必殺仕事人IV』第20話「主水、宮本武蔵の子孫と試合をする」での武蔵の子孫との対決では、主水は裏稼業を隠すためわざと負け、その裏稼業で武蔵の子孫を倒すときは静かに刺していたようだが、二刀流との真剣勝負をしなかったのが惜しい。

アントワネットより前の瞬時白髪
『真田太平記』によると、徳川秀忠が将軍を継いだあとの戦で、忍者が刺客となって大御所・家康を狙うが、徳川の家臣が家康を守り、空中で刺客と差し違え絶命。そばにいた仲間が、恨みをこめて死んだ敵を痛めつけている間に白髪となった。演じた俳優の記憶からネットで検索すると、白髪になった側は「山中大和守俊房」だった。この「瞬時の白髪」は、1793年にはマリー・アントワネット(Marie Antoinette、1755~1793)も経験し、およそ、1973年ごろのボクシング界で矢吹丈と戦ったホセ・メンドーサ(Jose Mendoza、綴りは推測)、さらに西暦199X年以降には南斗水鳥拳のレイにも起きた現象である。資料は言うまでもなく、『ベルサイユのばら』『あしたのジョー』『北斗の拳』である。

1615年、大阪(または大坂)夏の陣で真田幸村の一子・真田大助(幸昌=ゆきまさ)が豊臣秀頼に出陣を要請したが、淀殿によって拒否された。余談だが、淀殿こと茶々は「待ちゃ」が口癖だったような気がする。豊臣家の家臣・大野治長(おほのはるなが→おおの~)が独断で千姫を家康のもとに送るが、停戦は認められず。真田大助は大野から脱出を薦められるが拒否。秀頼が大助に謝罪。真田の息子は大阪城で豊臣家と運命をともにする。真田幸村(真田信繁、源二郎、作品で左衛門之助とも)が自決(『真田太平記』)。豊臣家と真田家の関係者は家康を戦争犯罪者として告訴しないのだろうか。
大坂夏の陣で火事場泥棒のようなことをした武士がいたらしく、19年後に徳川家光またはその一派によって斬殺されたらしい(『将軍家光忍び旅』)。

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夏の陣 家光