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パニック障害もんきちのウツパニッ記

新婚2週間でうつ病とパニック障害と診断されたもんきちの闘病(?)つれづれ日記

自己紹介

2007年結婚とほぼ同時に仕事上の人間関係からPDとうつ病を発症。退職、リハビリパートを経て、正社員として復職。2011年離婚、退職。今は田舎に帰り療養&再就職活動中。

生き物の不思議

2009-07-18 15:31:49 | 想うこと
ゴーヤを育てていて、なつめを育てていて、たくさんの「不思議」に
出会います。

我が家のわがまま姫のなつめ嬢。

ねずみのおもちゃとかでもよく遊ぶのですが、なんといっても一番のお気に入りの
おもちゃがなんとこれ↓

トイレ砂の粒。
これを手ではじいては追いかけて、また手ではじく。
これを飽きもせず延々とやっているんです。
音もしなけりゃ噛み心地が良いわけでもないのに。

そしてゴーヤ。
水をあげるだけでぐんぐん伸びています。

最初はこんなだったのが


二週間もしないで、こんなふうに。



それだけでもすごいなーと思うのに、そのツルといったら……

名古屋嬢もビックリ!の巻きっぷりです。

自然の不思議というか生き物の神秘というか、本当にすごいなと思います。

人間なんてたくさんの便利な道具や機械や薬があるから、こうして生きて
いられけど、身一つでホッポリ出されたらどれだけの人が生きていけるのかと
ゴーヤとなつめを見ていると考えてしまいます。

人間なんてラララーララララァーラァー♪ですね。



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事務所で涙

2009-07-18 01:19:55 | 想うこと
先週、取引先の営業さんの奥様が亡くなりました。
まだ53歳。早すぎる死です。

いい加減なんだかきっちりしているのか分からないような、恵比須顔の笑顔で
その辺りを上手くごまかすその営業さんは愛情と「食えないおっさん」との
想いを込めて「タヌキオヤジ」と呼ばれるようなおっさんです。

奥様が亡くなってから今日はじめて仕事の電話をかけました。
「ご愁傷様です」
の後に
「僕個人としても何かさせていただきたかったんですけど……」
と言うと、その言葉を遮るように
「そんなこと言われたら涙がでてきますがなぁ……」
と関西弁で悲しくおどけた後、涙声で
「ありがとうございますぅ」
と。

その声を聞いて、まだ勤務時間中で同僚がたくさんいる中で
思わずもらい泣きをしてしまいました。

いつも話を聞いているのか聞いていないのか分からないような感じで
「了解ですぅ」
と言いつつ、仕事はきっちりするおっさん。
納めた商品に不具合が見つかると、こっちが言う前に
「これかえさせてもらいますわぁ」
と言って、段取るおっさん。
だけど、思いもしない凡ミスをするおっさん。

そのおっさんが、泣いている。
僕もあふれる涙を恥ずかしいとも思いませんでした。

「また一緒に仕事ができるのを楽しみにしてますね」
と言うと
「ありがとうございますぅ」
と、少し元気な声で応えてくれました。

亡くなった奥さんのためにも、一緒にいい仕事をしよう。
供養というと大げさですが、そんな気持ちになりました。



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「死」についてまた考える

2009-06-26 19:56:33 | 想うこと
ばあちゃんの体調が深刻になるのと前後して
最近、脳死の問題や池田晶子さんの著書を通して「死」についていろいろと
考えていました。

一般的には今も「心臓死」が人の「死」なんだろうなということ。
「臓器移植をする場合のみ脳死を人の死とする」というご都合主義的な「死」を
どう理解すればいいのか分からないということ。
哲学的には、人は「死」を経験することはできないから、突き詰めて考えると
人にとって「死」は存在しないということ。

本来一つしかない「死」のはずなのに、いろんな解釈、考え方、定義がある。
そんな中、身内の「死」に直面すると、現実問題としての「死」に改めて
直面します。

今回実感したことは、亡くなった人以外の人にとっては、「遺骨」を見たとき
初めて「死んだ」と感じるのではないかということでした。

通夜、葬儀を通してばあちゃんの死に顔を見た人が口々に言いました。
「なんか今にも起きだしそうだね」
「笑ってるみたいに見えるよ」
「きれいな肌だね、とても死んでる人の肌だとは思えないよ」
「死体」であっても「肉体」であることには変わりはなく
「肉体」には、どんなにわずかでも「生命感」「生命力」の残り香があり
それを嗅ぐと人は「肉体」と「生」との関連を断ち切ることができない
ようなのです。

実際僕もそんな感覚を持ちました。

多くの人が意識的か無意識的かは別として「魂」のようなものをイメージとして
持っていて、肉体(死体であっても)をその「入れ物」だと感じているのでは
ないでしょうか。
だから、入れ物が無くなってしまうまでは、魂的なものは中に入っていて
故にまだ死を現実的に受け入れていない。受け入れられない。

でも、火葬が済むと、「肉体」がなくなり「骨のかけらの一塊」になる。
それは「魂の入れ物」が消えてなくなったことを否応無く知らされることで
それを見て、立ち上る煙のイメージとあわせて、魂も空へと昇っていき
もう戻ってくる場所はなくなったと感じる。
そこで初めて「死者」と「生」との関係が絶たれるのだと感じました。

事実、僕自身も骨になったばあちゃんを見て
「ばあちゃん死んだんだなぁ」
としみじみと感じました。

冷静になってもう一度考えます。

やっぱり人は「自分の死」を死ぬことはできないから、他人の死を死として
受け入れることで、自分の身にいずれ必ず訪れる「自分の死」を仮想現実として
体験しているんじゃないかと感じます。
肉体を持つ「自分」の中には必ず「入れ物にならない骨の塊」が入っている。
自分もやがて「入れ物」ではなくなってしまう。

そう考えると、現実社会の「死」は死んだ本人の周りの人間が
「この人は死んだね」
と納得することでその人の「死」は完成する、逆に言えば、周りの人間が
納得することでしか「死」を完成させることができないんじゃないかと
思いました。

僕がやがて迎える「死」は誰のものなのか?

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今日は桜桃忌。そして……

2009-06-19 20:15:52 | 想うこと
今日は太宰治の誕生日であり、玉川上水から遺体が見つかった日「桜桃忌」です。
太宰のお墓のあるお寺の息子は大学時代の友達なので
太宰をよく読んでいた僕は、桜桃忌に限らず何度もお墓参りをさせて
もらったものでした。

そして、今日はばあちゃんの命日にもなりました。
人の名前や誕生日や記念日を覚えるのがめちゃめちゃ苦手な僕でも
絶対に忘れない日が命日になりました。

まだ対面をしていないので、弱った姿なのに、僕の手を骨がポキッというほど
強く握っていたばあちゃんの姿が「最新」の記憶。
だからまだ実感が湧きません。

小料理屋を両親で営んでいたので、小学校に入る前にじいちゃんばあちゃんの
住んでいた家に引越し、東京の大学に入学するまで一緒に暮らしていました。
大学を卒業した後に田舎に帰り就職してから、もう一度東京に出て働くまでの
5年間も一緒に暮らしていました。

中学三年の終わりの頃、虐められていた僕のウチには、僕を虐めてたヤツが
集まっては、タバコを吸って騒いだり、もっと酷いことをしたりしていました。
そんな時、階段の下から心配そうに顔をのぞかせて僕の名前を呼び
「大丈夫かい?」
と声をかけてくれた姿を思い出します。

この10年近く、心臓を患い入退院を繰り返していました。
何度「危ない」と言われても奇跡の生還を繰り返していました。

口癖のように「長く生きすぎた」と言っていたばあちゃん。
でも、大嫌いな地震があると「死ぬかと思ったよ」と言い
米寿のお祝いをしようと話が持ち上がると
「お祝いすると早死にするって言うからねぇ」
と言って、実は生きる気マンマンだったばあちゃんでした。

きっと死に顔をみたら、またいろんな感情が湧きあがってくるんじゃないかと
思います。「死」についても改めて考えるんじゃないかとも。

明日からばあちゃんに会いに田舎へ行ってきます。

お見舞い

2009-06-08 20:20:30 | 想うこと
土曜日の夜に嫁さんと群馬の実家へ行き、日曜日にばあちゃんのお見舞いに
行ってきました。
日曜日には東京に住んでいるいとこの家族4人も来るということで
ばあちゃんはずいぶん楽しみにしていたようです。

(余談ですが「休日高速1,000円ポッキリ」はありがたかったです。
群馬まで片道約400キロ、新幹線で行けば二人で往復80,000円近くかかるのに
ガソリン代も含めて往復で6,000円くらいでした。)

病室に入ったときは、ちょうど昼食を食べ終えたところでした。
(といってもほんのわずかしか食べられないようでしたが)
昨日はとても調子がよく、食休みが終わったら車椅子で病院の敷地内の
散歩コースへ出られるとのことだったので、ばあちゃんが休んでいる間に
僕らは昼食を食べてくることに。
1時間くらいして戻ってきて、散歩に出かけました。

ポータブルの酸素吸入器から伸びた管を鼻に入れ、車椅子に座るばあちゃんは
小さくて細くて弱々しくて、命が細く細くなっている様子そのものでした。

昨日の群馬(前橋市)はとても陽射しが強く暑い日でしたが湿気はなく
カラッとしていて、風の強い日でした。
散歩コースは大きな木に囲まれていて、日陰にいると風は心地よく
木々の葉が風に撫でられる音が波音のように聞こえました。

そんな中で、車椅子にちょこんと座るばあちゃんを、僕と嫁さんと僕の両親と
六つ上のいとこといとこのだんなさんと二十四歳の娘と十九歳の息子が囲み
思い出話をするでもなく、ばあちゃんを励ますでもなく、みんなそれぞれに
思い思いの距離感と優しさでばあちゃんに接していました。

時間にすればわずか20分程度の散歩だったと思うのですが、ばあちゃんは
それでもずいぶん体力を消耗したらしく、病室に戻るとグッタリと横になって
休みました。

ばあちゃんの姿は、体中の筋肉が縮んでしまっているように小さく丸くなっていて
まるで胎児のようでした。
シックリくる体勢になることも、母親と看護士さんの助けを借りてやっとなんとか
できるという状態で、改めて命の細さを感じてしまいました。

ところが、僕らが名古屋へ帰るときにばあちゃんの手を握ると、思いがけず
強い力で握り返してくれて、僕の小指の骨がポキッと音を立てるほど。
ばあちゃんが「ごめんね」と言った時には、ばあちゃんを笑い声が包みました。

嫁さんがばあちゃんの手を握った時、ばあちゃんは言いました。
「またね。まぁ、次があるか分からないけどね」
不思議なことに、見舞っている時間の中でこの時が一番ばあちゃんが
「生きているんだなぁ」
と思った瞬間でした。

僕らは「またね」と言って病院を後にしました。

病院を出て二時間くらい後、高速道路を走っているときに父親から電話が
かかってきました。
出てみると、付き添っていた父親がちょっと病室を離れている間に
なんとばあちゃんがベッドの上に自力で起き上がり、軽くストレッチを
していたとのこと。

驚くと同時に、それを嬉しそうに話す父親のことを
「ばあちゃんの息子なんだな」
と実感しました。

聞けば「孫に会いたい」と伝えたのは家族にではなく、看護師さんにだった
そうです。
ばあちゃんなりに気を使いつつも、家族ではない人に対してポロリと口から
こぼれた言葉だったのでしょう。

もちろん、ばあちゃんの体が快方に向かったわけではなく「テンションが上った」
という感じの状態になっただけでしょう。
でも、会いたかった孫やひ孫の顔を見て、元気が出て思わず体が動いたのであれば
本当に行って良かったと思います。

ここのところずっと書いている、書く前に考えている「死」について
またいろいろ考えさせられました。
上手く言葉にできるようになったら、書いてみようと思っています。



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ばあちゃんの思い出 その2

2009-06-05 21:41:16 | 想うこと
今日も実家からは何の連絡もなく今に至っています。
きっとばあちゃんはまだ生きているのだと思います。

今日思い出したのは、僕が小学校の3年生くらいの冬のこと。

なんで僕がそんなに憤っていたのかは全く覚えていませんが、とにかく
猛烈に僕は憤っていました。
泣きながらまさに「自暴自棄」になって、練炭の燃える掘りごたつの中に
入り込んでいきました。

ばあちゃんが
「そんなところに入ると死んじゃうよ!早く出ておいで!」
と言うのにも耳を貸さず
「死んだっていいもん!」
とか言っていました。

でも、ばあちゃんと三つ上のいとこのお姉ちゃんがコタツ布団をペロンと
めくり上げ、一酸化炭素はモワァ~ンと部屋中へ上っていき、僕の自殺は
未遂に終わったわけです。

さらにどうにもやりきれなくなった僕は、さらに憤りの度を増し
たぶんテレビドラマかなにかで耳にして覚えていた「生みの親・育ての親」に
まつわる主人公の叫びをマネして思い切り言い放ちました。

ばあちゃんは僕が生みの孫じゃないからかわいくないんだ!

恐らくは僕の後ろでばあちゃんは大笑いをしていたことでしょう。

そのあと僕は小さなリュックサックに服を適当に詰め込み、人生初の家出を
敢行しました。

でも、まだ若かったばあちゃんといとこはやすやすと僕に追いつき
家から50メートルも離れていない歩道橋の上で挟み撃ちにされ、初家出は
わずか数分で終わったのでした。

「生みの孫じゃないから!」この名台詞は、正月などに家族や親戚が
集まった場で、ちびだった僕のおもしろエピソードとしてたびたび
笑いのタネになりました。

ばあちゃんは今でもこのことを思い出せるのでしょうか?
会った時に意識がしっかりしていたら聞いてみようかなぁ……

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僕は生きている

2009-06-04 02:14:19 | 想うこと
今はもう午前1時を過ぎているけれど、ちっとも眠くならなくて
(逆効果だと知りつつ)PCを立ち上げて、ブログを書いています。

いま田舎の群馬でばあちゃんが「死」と添い寝するように病院で寝ています。

もう7・8年くらい前のこと。
ばあちゃんは心臓の血液が逆流しないようにする弁が硬化してしまい
それを人工弁に変える手術を受けました。
そのときは、劇的と言ってもいいほどの回復振りを見せました。
それはエンジンには問題ないけどエンジンにガソリンを送る管が詰まっていて
その詰まりを取ってあげたらエンジンは問題なく動き出したとでもいうような
感じでした。

ただ、歳とともに心臓は弱り、人口弁の「耐用年数」も訪れ、でも再度
弁を交換する手術に耐えるだけの体力はなく、ここ数年は入退院を
繰り返していました。

でも、今年に入り癌が見つかりました。
もう歳が歳なので(94歳?96歳?)切除をして体力を奪うことの方が
死期を早めるという判断があったらしく、癌には手を着けないことにした
ようです。
今はすでに痛み止めのモルヒネを打っている状態で、言葉は悪いですが
「時間の問題」だとの連絡を受けました。

突然ですが、いま僕は生きています。
体力は落ち、無理もきかなくなり、酒も弱くなり、食べるられる量も減り
額はだんだん広くなり、それに反比例するように腰周りに「脂」がつき……
それでも、生きています。

そして、ばあちゃんとの思い出や、ばあちゃんと一緒に住んでいたときに
自分の身の上にあった出来事が次から次へ思い出され、その思い出の持つ
時間と共に変わってしまう部分ではない「経験」といまの自分とのつながりが
湧き上がり、眠剤を飲んでも、酒を飲んでも目が冴える一方です。

この前、脳死についてブログを書き、いろんな考えを聞くことができました。
「何をもって人の死とするか」ということに関して、いろんな人がいろんな考えを
持っていることを知ると共に、自分が何を持って人の死とするのかということを
考えさせられました。

で、いま想うのは「意識がなくなり、回復の可能性がなくなる」ことが
人の死なのかなということです。

脳死の人は、呼吸をし、暖かな体温を保ち、心臓は鼓動を繰り返し
髪やヒゲは伸び、それは「眠っている」のとなんらかわりの無い「様子」です。
でもそれは生きていて、それを眺めている人間が見て「生きている」と
感じるだけの状況が揃っているというだけじゃないかと思うんです。

冷たく聞こえるかもしれませんが、意志の疎通ができなくなり、再びそれが
できるようになる可能性がなくなったとき、人は死ぬんじゃないかと思うんです。

生きているということは、何かしらの「意思表示」を示すことじゃないかと
いま思っています。
呼吸をすること、心臓が鼓動を繰り返すことは「私は生きていますよ」という
意思表示ではありません。

意識がなくなり、それが戻ることが無い状態に人がなったあと、その人を
機械や薬を使って「心臓死」や「脳死」にしないでおくことは、その人の
周りで生きている人の「エゴ」なんじゃないかと思ってみたりもしています。

明日の朝になったらこの考えは180度変わって全否定しているかもしれません。
ばあちゃんが「心臓死」を迎えた時に、それより早くばあちゃんを「死んだ人」と
する考えを持った自分を嫌になるかもしれません。

でも、とにかくいま「死」をそんなふうに思っています。

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