先日のジークさんのコメントに、こんなことが書いてありました。
「私は月曜からの会社のことを考えて、ついつい日曜の午後は寝てしまいます。
最近は土日とも引きこもっていることが多く、自分でも、人生それで楽しいか?
と疑問に思ってます。」
これを読ませていただいて「人生」というものについて想いをめぐらせて
みました。
人生は何でできているのか?
これは何となく簡単に答えが思いつきました。
たぶん
「かつて『今』と呼ばれていた、今は『記憶』と呼ばれる時間の断片」
だと思います。
きっと「今」っていうのはこの世にはなくて「今に限りなく近い過去」のことを
人は「今」と呼んでいるんじゃないかと思います。
でも「今」をどれだけのスパンで考えるかは、時と場合と気持ちによって
まるでゴムのように伸び縮みするものだっていうのが一般的な捉え方じゃ
ないかな?
その人にとって「現在進行形」と捉えることができる時間は、仮に昨日であっても
「今」かもしれない。
じゃ、記憶ってなに?
これはちょっと難しい……まだ、これって思えるものは無いのですが
「美化・形骸化・陳腐化のいずれかの形をとって残っている『過去』になった
『今』の断片」
という感じが近いように思われます。
どんな記憶でも、それは断片に過ぎません。
例えば、僕がやがて嫁さんになる女性と行った「愛・地球博」。
エピソード記憶はたくさんあるし、全体的に「楽しくハッピーな時間だった」と
思えても、その日彼女と過ごした十数時間をスタートからゴールまで
同じ十数時間をかけてチクイチ思い出すことは到底できません。
そういう意味で「断片」だと思うわけです。
じゃ、何が記憶として残るの?
「記憶」を上のように定義付けたとしたら、これは割りとシンプルなものに
思えます。それは
「喜び・憎しみ・驚き・切なさ」
短い時間の中で突き詰めていくと、この四つなんじゃないかなと。
もっとシンプルに言えば「喜怒哀楽」ですね。
良くも悪くも、心に刺さったこと、それが断片=記憶として残るんじゃないかな。
で、結局人生とは何ぞや?
僕はそれを
「記憶が散らばった、ある限りのあるスペース」
だと感じます。
なぜか「線」じゃなくて「面」に思えるんです。
記憶を「線」と捉えるには、その前後関係、順番はあまりにもあてになりません。
それどころか幼い頃に親から聞かされた生まれる前のことを実体験として記憶する
くらい人のノウミソはいい加減なものなんだそうです。
そう考えると人生が、「前後」も「夢か現か」も当てにならない記憶が
バケツをひっくり返したように無秩序に散らばっている「面」に思えて
なりません。
で、要は何が言いたいわけ?
それは……それは……(*O*)難しい。
でも、書いたことをガッチャンコすれば
「『今』と思っている時間の中で、記憶のばらまかれた面を俯瞰すること」
そうそう!
人生は名詞じゃなくて動詞だということです!
自分で記憶をかき集めて、今まで生きてきた時間をネンド細工のように
ペタペタモリモリと形にする作業こそが人生なんじゃないか!……と。
少なくとも
「ペタペタモリモリと形にする作業の結果できあがったもの」
ではないような気がします。
「サヨナラだけが人生さ」と言った人は誰でしたっけ?
サヨナラ、それはまさに過去、記憶。
人は「人生」の輪郭をより鮮明にしたくて、写真を撮ったり、日記を付けたり
こうしてブログを書いたり、歌を作ったり、小説を書いたり、映画を撮ったり
体を傷つけたり、悩んだり、求めたり……そんな営みを日々続けているような
気がします。
面に散らばる記憶を、より多く、より正確なものにするために。
「もんきち・なつめのおまけコーナー」
僕の膝の上で、コシタンタンとサンマを狙うなつめ嬢。
おっ!かすかにもんきちの素顔が!!
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