古琉球時代、与座・中座は現在の両集落の南方の山の上にありました。そこは水利の便がきわめて悪く人々は生活用水の大部分を、この井から求めなければなりませんでした。カーンザ道を下り登りして生活用水を確保するためには、多くの時間と労力を要し肉体的にも大きな苦痛が伴いました。
近世琉球時代になると、両集落は現在の世持井の近くに移動定着したため、生活用水などの水の利用は以前に比べてきわめて容易となり両集落の住人にとってまさに世直しでした。
また、世持井は元々アハ井と呼ばれていました。それには次のような伝承が残っています。古琉球時代、この井の南の山に上原按司によって上城が築かれてましたが、やがて花城按司によって滅ぼされました。城内の水をすべてこの井に頼っていたため、水の確保は城の運命を左右する大問題でした。そこで花城按司は、他人に井を使用させないよう敵の目をくらますためにアハ井と呼ぶようにしました。アハ井とは「味が薄くておいしくない水の湧く井」という意味です。以後アハ井を大井(ウフガー)というようになり、やがて世持井と呼ばれるようになりました。
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