突然の高熱も下がり、やっと復活気味です。
まだ喉にイガグリが入っているようだ・・
○「ぼくんち」西原理恵子
○「シニカル・ヒステリー・アワー」久保キリコ
(あと、ちょこっと「ものぐさ精神分析」岸田秀)
まとめてドドーン。
全くテイストの違う「ぼくんち」と「シニカル」。
唯一の共通点は、子どもが主人公というところ。
子どもが主人公だけど、子どもの世界を描いた話じゃなくて、
子どもの目をフィルターに使って大人の世界を描いた話だ。
「ぼくんち」の主人公は、厳密にいうと三人いる。
小学生低学年くらいと思われる(学校に行っている気配が無いので、予想)二太と、
14~15歳くらいと思われる二太と父親違いの一太。
それから、後に一太が弟子入りする22歳(明記してあった)のこういちくん。
それぞれの年齢の男の子が、それぞれの受け止め方、戦い方で、
あのどうしようもなく貧乏で悲惨な町で生きて行く。
しかしまあ、あの悲惨な町の、現実離れしているのに凄まじいリアルさは
一体何事なんだろう。
一緒に読んだ同居人のくまは、「なんだか
スワロウテイルの円都みたいなところだよね」
と言っていたが、リアルさで言えば「ぼくんち」のほうが比べ物にならないほど圧倒的だと思った。
このリアルさというか現実感は、作者が幼少時に過ごした高知県高知市沿岸部の
浦戸地区がリアルに描かれているからとか、そういうことじゃあない。
そこで生きている人たちには、悲惨さのあまり、もう現実感しかないのだ。
「生きるか死ぬか」しか選択肢が無い状態まで追いつめられて、
それが日常となっている人たち。
もちろんそうなったら生きるしかないのだから、必然的に生き方がシンプルになってくる。
しっかり食べて、泣いて、笑って、大好きな人といっしょにいられれば一番幸せ。
こういちくんのいう生きるヒント(人は殺さない、できるだけゴーカンはしない、気張らない、大好きな人を一人つくっておく)は、常識的にいかがなものかどうかはともかく、
人として生きる上で、ものすごくまっとうだと思う。
そう、「ぼくんち」に出て来る人たちは生き方がすごくまっとうなのだ。
"悲惨な状況の中でも愛情を見失わない"のではなく、
"悲惨な状況の中だからこそ、愛情を見失うわけにはいかない"のだ。
生きて行けないから。
二太にとっての、一太とかの子姉ちゃん、
一太にとっての二太とかの子姉ちゃん、
こういちくんにとってのママとお姉さん、
もしかしたら、さおりちゃんにとってのお父さん・・
誰一人として、「一人で生きてます」みたいな顔をしていない。
生きて行くために何が必要か、そんなこと考えも悩みもしていないけど、
この人たちは知っている。
だから私やくまは、この人たちに同情なんて出来なかったし、
少し羨ましくさえあった。
こういちくんが一人になってしまった後、お父さんの舟で海へ出ることにしたとき、
くまは思わず泣いてしまったらしい。
わたしもちょっと泣いた。
ハッピーエンドなんかないとわかっているけど、それでもたぶん大丈夫。
(えー、煎じ詰めると、「天晴れ」ってことですね。)
さて、そんな「ぼくんち」と全くの真逆、「生きるか死ぬか」なんて遠く宇宙の果てくらいにふっ飛んでいる、80年代の小学生たちの「シニカル・ヒステリー・アワー」。
「生きるか死ぬか」が宇宙の果てまでふっ飛んでしまうと、
日々の悩みは環境(自分の外側)についてではなく、自分の内側のことばかりになってくる。
(「シニカル」には超絶お金持ちは出て来るけど、超絶貧乏人はいない。
みんなの生活レベルはだいたい中の上で同じ程度に見える。)
しっかりものでおとなしいけど、アイドル歌手になりたいシーちゃん。
ふだんは地味だけど、隣町のそろばん教室ではパンクスになれるツン太。
可愛い顔だけどオドオドしていて、強いツネコちゃんに憧れるののちゃん。
いじめられないようになりたい沢の井くん。
挙げたらキリがないけど、とにかくみんなの悩みは
「ほんとはそうなりたいけど、なれないってわかってる」自分のこと。
人生に悩むんじゃなくて、「キャラ」に悩んでる。
アイデンティティの悩みっていうのかなあ・・
「ぼくんち」の町の人がきいたら、何のことやらわからないだろう。
だけどこの悩み、小学生だけじゃない、いま25歳くらいの私と同じくらいの
年齢の人だって持ってる悩みじゃないだろうか。
いろんなものになりたくて、ちょっと頑張ればなれる気がしてたけど、
この年になるとなんか無理っぽいかも?と気が付き、自分って一体なにかしら。
もっといいものになれると思ってたのに。
さびしい。つまらない。飽き飽きする。だけどまあいいか。買い物でも行こう。
・・みたいな。
生きるか死ぬかの世界にいる人にとっては最高にクダラナイことだろうけど、
そういう現実感を持たない私たちにとっては慢性病のような悩みだ。
この悩みには他人は入って来ない。
他人は「その人そのもの」じゃなくて「わたしを見ているその人」であって、
つまり自分の中に勝手につくった"人の目"というやつだ。
「シニカル」の仲間たちの関係には、はっきりとした信頼とか愛情は無い。
(まあ実際、小学生のころの友だち同士って、はっきりとした信頼とか
愛情なんてふつう持ってないですよね。クラスがいっしょとか、たまたま絵を描くのが
好きな二人だったとか、そんなような気がする。)
ツネコちゃんとキリコは、「わたしたちって親友よね!」とたびたび言い合うけれど、
本当のところどうなんだか、本人たちにもよくわかっていない。
じゃあなんでいつも一緒にいるのか?
たぶん憧れみたいなもので繋がっているんだと、私は推測しました。
「シニカル」の仲間たちは、先に挙げた「なりたい自分になれない」絶望派の他に、
「自分はこんなもんだ」と思っている達観派(学くんと花子ちゃん、キリコ)、
「そもそもそんなこと考える必要性がない」楽観派(一郎くんとみちこさん)が
いると思う。
そのどれにも属さないのがツネコちゃんだ。
ツネコちゃんだけが、自分のキャラとなりたいキャラのギャップを持っていないし、
だいたい客観性(人の目を気にする)というものを1グラムも持ち合わせていない。
だから絶望もしない。
「いじわる・わがまま・いいかげん」がツネコちゃんの三大要素で、
絶対仲良くなれないキャラなのに、周りの人間がいつも彼女に巻き込まれてしまうのは、
みんながちょっとずつ、無意識にツネコちゃんに憧れているからじゃないかなあ。
みんなきっと、「なれたはずの自分」をツネコちゃんの強烈なキャラに見ているんじゃないだろうか。
解説の柴田元幸さん曰く"昭和の女"ツネコちゃん。
そういやツネコちゃんだけが、サバイバルに生きている家族を持ってるなあ。
生き方がシンプルという点では、「ぼくんち」に通ずるものがあるかも。
うーん、ちっとも「小学生のマンガ」じゃないぞ。
だからこのマンガを読んでると、笑うと同時にヒヤっとしちゃうんだな。
ちょっと、いじわるなマンガだと思う・・
以上、読み終えてほやほやの「ぼくんち」と、
読み終えて2週間経過、発酵気味の「シニカル」の感想でした。
自分にとってどっちが強烈だったか、読むとわかっちゃいますね。
で、今は「ものぐさ精神分析」をあと少しで読み終わるところです。
これはまた、予想に違わず面白い・・
アマゾンのブックレビューで、"落ち込んでいる人はもっと凹むから、
読まない方がいい"と書かれている方がいたけれど、私は逆だと感じました。
本当に凹んでいるとき、
「本当は世界は素敵なことだらけなのよ、だから目を開いて頑張りなさい」
とか言われても、絶対に浮かび上がれないだろう。
「ものぐさ精神分析」を読んでいて思い出したのが、
茨木のり子さんの「ある一行」という詩の中で引用されていた言葉。
(正しくは、茨木さんが引用した、魯迅が引用した、ハンガリーの詩人の言葉)
"絶望の虚妄なること、まさに希望に相同じい"
絶望は虚妄だ、希望がそうであるように。
家族や親しい人が鬱に入り、会話もままならなかったとき、
本当に伝わって欲しかったのはこういう言葉だったように思う。
毎日「こんなのどうせ全部マボロシさ」と生きて行くのはよろしくないけれど、
ちょっと落ち込んだ時のためにこういう考えを頭のすみにしまっておくのは、
いいんじゃないでしょうか。
また読み終えたら、整理のためにも日記に書きたいと思います。