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菅内閣は、弱肉強食加速内閣、アヴェスタ、平安京、調神社つきじんじゃ、川田谷柏原神社

2020-10-08 00:03:19 | 日記
菅内閣は、弱肉強食加速内閣である [2020 10 5 放送]週刊クライテリオン 藤井聡のあるがままラジオ(KBS京都ラジオ)




一部の都市だけ生き残ろうという政策が地方を疲弊させる



上海、老齢化、高齢化率(60歳以上)が3割もいるのか。

何年か前、深圳のIT企業テンセントが作ったAIロボット"Baby-Q"に対して 「中国夢って何ですか?」と尋ねたら「アメリカ移住デス」と応えたのを思い出します。
私も中国歴、大連6年と広州4年また香港5年の者ですがミャオフォーさんの見解は自身の経験と一致する事が非常に多くいつも勉強しております。ちなみにわたしも名古屋出身です。


中国の新米、カドミウム等の深刻な重金属汚染 /米軍・中国の太平洋進出阻止/沖縄に新戦闘団配備計画/ 台湾立法院・米国はとの国交回復促進の議決



① アメリカのポンペオさんが日本を訪問した。 その内容はアメリカと日本との軍事作戦について。 人民解放軍を太平洋入海禁止にする事を日米軍事同盟で計画しようというもの。
アメリカのグアム、沖縄で三つの臨海戦闘団を作る 同じ時期に海軍基地を作る。
沖縄に二つの基地、グアムに一つの基地。 以上三つの基地を作る予定 ハワイにも作る。
② アメリカ情報部と韓国からの情報。 北朝鮮10・10は労働党結党の記念日。
閲兵(お披露目兵)を行う。 朝鮮で2017年から作った、火星15大陸間弾道ミサイルを展示する。 2017年から試験を開始したミサイルだ。 射程は1300km
③ フィリピンはアメリカ用に5つの軍事基地を解放する。 その基地にアメリカ軍は寄港する事ができる。 東沙運動などにこれらの基地からアメリカが発進する。 南シナ海で中国は特に激しく軍事訓練をしている。 これらの基地が重要となってくる。
④ 中国全国の食料倉庫について。 次から次と問題がある米が出てきた。
広東省の食料倉庫の米質を検査した所、 2500tの米に重金属が含まれていることがわかった。 カドミウムは通常微量は含まれている。
中国の国家食料貯蔵庫の2500の米には基準値の100倍以上のカドミウムが含まれていた。
この米は動物餌としても使用できない。 これは氷山の一角。 重金属を含む田んぼは、中国に沢山あるので、 これらの事件も毎年の出来事のようだ。 中国政府がこれを問題として取り上げると、 中国米が売れなくなるので問題として政府は一切取り上げない。 これらの米は毎年、こっそりと騙して販売されている。 裁判で取り上げると少なくとも5年間牢獄に入る。 中国には空気、土地も綺麗な場所はない。
⑤ 昨日、台湾の立法院がアメリカと国交回復と台湾防衛提案を立法会議で決まった。 国民党からの提案だった。 以前は民進党の新米案に反対路線だった。
⑥ アメリカ移民局が2020・10・2に広告を出した。
中国共産党とその家族、関係者はこれから入国禁止。
中国国内の中国人は喜んだ。 逆に中国国内の9000万の共産党員は物凄く嘆いた。 共産党幹部の子供、孫のアメリカ移民率は九十%以上。 2012年頃、香港の動向雑誌の発表で中国共産党の子供、孫は800万人以上いる。 現在、1000万人いるだろう。 在アメリカ企業の財産も没収となる。

川島部長 いつもありがとうございます


あかん!都構想 山本太郎(れいわ新選組代表)大阪街宣 専門家が都構想の本質を解説!!



消費税廃止。
ガソリン税も廃止。東京と地方の格差拡大です。
全ての税金を廃止、税務署廃止。

山本太郎氏の言う事に1から100まですべて賛同するわけじゃない。 自分の考えに1から100まで賛同できるのは自分自身以外にこの世にはいないから。 山本太郎氏の主張する政策が今現在の日本の最大の問題であるデフレーション対策に最も有効であるから 山本太郎氏を支持している。頑張れ山本太郎。絶対に消費税は廃止せねば日本の社会は崩壊を免れません、頼みます!

<太郎さん。資本主義ではもう食べていけないことに気が付いてほしい。問題の根本に目を向ける必要があります>

http://www.asyura2.com/20/senkyo276/msg/348.html

【ゲリラ街宣】れいわ新選組 山本太郎 2020年10月6日





ことらの日記一部
http://kotora888.art-studio.cc/kotora/nikki_2020_01/nikki2020_10s.html
7
宗教の始まりは拝火教

誰かが聖書を書きました。
その元は拝火教の聖典、アベスタなのだそうです。(安閑天皇、カンピュセス2世談)

埼玉県の川島町に居た元明天皇を「あべ」と言うのはウマイヤ朝(661-750)がゾロアスター教の流れだったからです。
宇多天皇は鴻巣市からイベリア半島に逃れ、後(こう)ウマイヤ朝を興し、アルハンブラ宮殿に16菊花弁を飾ったのです。

 この時、菅原道真公を左遷したのもアッバス朝の藤原氏です。平安京とは鴻巣(鴻巣~桶川)だったのです。
藤原氏には天誅が堕ちました。ウマイヤ朝とアッバス朝は世界的な長い抗争だったのです。


『アヴェスター』(英: Avestā) は、ゾロアスター教の聖典である。現代ペルシア語ではアヴェスターと発音するが、中期ペルシア語ではアパスターク (Apastāk)、あるいはアベスターグ (Abestāg) と呼ばれていた。アヴェスターとは、中期ペルシア語で「原典」を意味すると考えられている[1]。

紀元前1000年頃にイラン北東部で話されていたと思われる、インド・イラン語派の方言で記述されている[2]。これは『アヴェスター』以外に用例が見つかっていないため、アヴェスター語と呼ばれる[2]。アケメネス朝時代には編纂されていたが[1]、前330年にアレクサンドロス大王がこれを滅ぼした際の混乱で散逸した[3]。その後、サーサーン朝が成立して間もない3世紀頃に再び作られ、現在まで伝わる形となったと見られる[3]。長らく口承によって伝えられており、6世紀頃にアヴェスター文字で書物へと音写された[2]。元々は21部にわたる構成だったらしいが、イスラム教の迫害を受けて破壊されたため、現存するテキストは4分の1に過ぎない[2]。
『アヴェスター』は、ゾロアスター教の開祖・ザラスシュトラの時代の宗教文学を断片的に集めたものである[3]。その内容は「古代イランの様々な種族なり宗教観の相克を反映」していると評価され、その解釈には様々な学説が提示されている[4]。言語学的には二つの層に分けることができ[1]、最も古い部分はザラスシュトラ自身の言葉で記された『ガーサー(英語版)』(Gāθā) という賛歌である[2]。これは「歌」を意味する韻文の説教であり、前600年頃のものと考えられていて、インドのベーダ梵語の状態に近い[1]。一方、大部分を占めるその他の部分は前300年頃までに成立したと思われ[1]、「後期アヴェスター」と称されている[2]。この箇所はかなり言語的に崩れているものの、一部にはガーサーの時代の内容が含まれる[2]。

『アヴェスター』は、アケメネス朝期の古代ペルシア語とは異なる言語 (ガーサー語・アヴェスター語) で、1200枚の牛皮に筆録されていたが、大部分がアケメネス朝の滅亡時に一旦失われた (これを否定する説もある[5])。
サーサーン朝期に書籍化が試みられた。アヴェスター語をパフラヴィー文字に書き換えるとき、表記できない音が合ったため、キリスト教パフラヴィー文字やギリシア文字を借用して、新たにアヴェスター文字が作られた。アヴェスター語の方が遥かに古いものの、表記用の文字が発明されたのはパフラヴィー語の後塵を拝した[6]。サーサーン朝期に『アヴェスター』が編纂されたのは、明確な教義・聖典を持ったキリスト教・仏教・マニ教などの台頭に対抗する必要があったためである。また、この頃既にザラスシュトラ時代の呪術が知識人の知的好奇心を満たせるものではなくなっていたことも、聖典整備の一因とされている[6]。
しかし、『聖書』や『クルアーン』のように当初から教徒の間で広くその権威が認められたわけではなかった。『アヴェスター』が書かれたペルシア州から離れた地域では、8世紀になっても一般信徒の間で『アヴェスター』の存在が知られておらず (または理性的に語る聖典とは見られておらず)、ザラスシュトラも (少なくとも預言者としては) 認識されていなかった。さらに神官でも『アヴェスター』を知らず、それとかなり異なる教義を信じていた節がある[6]。
その来世観や終末論などの教義がセム的一神教や仏教などに影響を与えたという説もある[7]。

飛鳥奈良、平安、鎌倉時代の真実



ミトラ教は拝火教の流れで、中央アジアのトルキスタンなどが中心でした。ローマでも中心の宗教でした。
キリスト教が転利のためスタンの国をサタンとし、ミトラ教信者をパクったのです。これらの国はタミアラの民です。


日本の天皇も当然ミトラ教です。
その最初の象徴が神倭朝九代開化天皇の建立したとされる調神社の入り口、二本の石柱です。


調神社つきじんじゃ

埼玉県さいたま市浦和区岸町3-17-25

別称は「調宮(つきのみや)」。社名の「ツキ」により月待信仰が古くからあり、狛犬ではなく狛ウサギがある神社として知られる。

社記(寛文8年(1668年)の『調宮縁起』)によれば、第9代開化天皇の乙酉年3月に奉幣の社として創建されたという。また第10代崇神天皇の時には伊勢神宮斎主の倭姫命が参向し、清らかな岡である当地を選び、伊勢神宮に献上する調物(貢ぎ物・御調物)を納める倉を建て、武総野(武蔵、上総・下総・安房、上野・下野)すなわち関東一円の初穂米・調の集積所と定めたとする。さらに宝亀2年(771年)6月20日には勅使として藤原朝臣常恣が奉幣を行なったので、これが例大祭(現在は新暦7月20日)の起源になったと伝える[3][7][2]。
上記伝承の真偽は定かでないが、『式内社調査報告』等に於いても社名に「調」が見えることから、朝廷への調物(貢ぎ物・御調物)を納める御倉が調神社の前身になったと想定している[3][7][1]。関連伝承として調神社の七不思議のうちに「鳥居が無いこと」があり、その中で倭姫命の命により調物の運搬の妨げとなる鳥居・神門を取り払ったことによると伝えており、この伝承も調神社の前身が御倉であったことを表すものとされる[3]。そして伝承中で奉幣があったと伝える宝亀2年(771年)には武蔵国の所属が東山道から東海道に変更されていることから[8]、この街道変更により調物が通らなくなって役割を終えた御倉が神聖視され、神社として奉斎されるようになったのが実際の創建になると推測されている[3][7]。
以上とは別に、『新撰姓氏録』や国史に見える調連・調首・調吉士・調忌寸一族(調氏)が奉斎したという説もある[3]。この調氏は渡来系氏族であるが、東国に渡来人の集団居住が多いこととの関連が指摘される[3]。当社の所在地名の「岸」は、「吉士」に由来するものとされる[9]。そのほか、境内に多い槻の木(ケヤキ)と「調」を関連付ける説[10]もある[11]。


https://tesshow.jp/saitama/saitama/shrine_urawa_tsuki.html
調神社の創建年代は不詳ですが、崇神天皇の勅創により創建したといい、延喜式神名帳にも記載されている式内社です。慶安2年(1649)徳川家光より社領7石の御朱印状を拝領、明治31年には県社に列格していたといいます。

当社は天照大御神、豊宇気姫命、素盞嗚尊の三柱を祭神とする。
延喜式内の古社にして古くより朝廷及び武門の崇敬篤く調宮縁起によれば第九代開花天皇乙酉三月の頃祭奉幣の社として創建され第十代崇神天皇の勅命により神宮斎主倭姫命が参向此の清らかな地を選び神宮に献る調物を納める御倉を建てられ武総野の初穂米調集納蒼運搬所と定めらる。
倭姫命の御伝により御倉より調物斎清の為め当社に搬入する妨げとなるため鳥居、門を取払はれたる事が起因となり現今に到る。(境内掲示より)

(岸村)調神社
社領七石を賜ふ、當社は「延喜式」神名帳に足立郡調神社と載る所なりと云、されど祭神等すべて傳ふる處詳ならず、按に「武蔵風土記」にも足立郡大調郷、或は大都幾調神社、神田六十束、二字田雅日本根子彦大日天皇、乙酉三月所祭瀬織津比咩也、有神部巫戸と載たるもの全く當社の事と見ゆ、されど此風土記は後人の擬書なる由言傳れば、正しとも言がたし、又土人の此邊の事跡を記せしものに、當社は日の神倉稲荷玉命の二座を祭る所にして、延元二年二月五日、那賀郡廣木村吉原の城主、色大興寺入道範行と云し人再興して、神田五邑を附せしなど載たれど、此一色範行と云もの他に所見なし、ことに延元の頃再興せしと云るも、式社のことをわきまへざる書ぶりなり、がたがたうけがたし、又云其後貞和観應の頃兵火にかかりて社頭破壊せしを、康暦年中佐々木近江守持清又再造せしが、それも両上杉戦争の地となり、次第に衰廃せしを小田原北條分国の時に再興ありしと記す、されどみな左證とすべきものなし、たとへ證すべきことありとも、是を以て式社の興廃を知るには足べからず、殊に別當寺にては、近き頃まで月輪を祀りし社とのみ傳へたれば、古を知らざるもの附会せしなるべし、調の字の訓月に同じければ、後世月待の宮として、又愚民の信を得んがためにかく唱へしなるべし、今を以て考ふるに、當社の外此郡中調神社の名残と覚しきもの更になし、目撃する所を以て古へを推には足らざれど、社地のさまいかにも神さび、数囲の樹木枯株などのとこせるを見れば、古社なる事は論なかるべし、今は社人も調の社といへば、恐らくは古へに復せしなるべし。
末社。
石神社。稲荷を合祀せし。
蔵王社。是も熊野を合殿とす。
稲荷社。
第六天社。
別當月山寺。
新義真言宗、浦和玉蔵院末也、本尊愛染を安ず、開山詳ならず、昔は福壽寺にて當社を兼帯し、爰には庵を置て守らしめしを、後年一寺となして月山寺と號すと云り。(新編武蔵風土記稿より)

当社の鎮座する「浦和市岸町」の地名は、大河の流路の屈曲点、もしくは中洲だった所を示す浦曲(うらわ)と、その河岸であったことを示す岸であるといわれる。境内は現在、欅を中心とした落葉広葉樹であり、往古も社名を想起する「つきのき」つまり欅の大木が林立する杜であったことがうかがえる。恐らく古代祭祀は、この大河の望める地、そして欅の巨木がある森厳なる森の中で行われたのであろう。
『廷喜式』神名帳には、足立郡四座の内、「調神社」と載り、「つきのかみ」を奉斎する社であった。
この「つきのかみ」については諸説あり、「調」が大化の制における賦課、租・庸・調の「調」で、これを納めた御倉に祀られたのが「調神」であるとする説、『新撰姓氏録』にある調布の紡織集団である渡来系氏族「調連」一族が奉斎した神であるとする説、また、天保十年(一八三九)当社に参拝した平田篤胤が『調神社考証』で述べた祀る神は天照大御神と宇賀御魂命で、伊勢の神宮に奉献する初穂を収納するための御倉に祀られた神であるとする説などがある。
祭神は『江戸名所図会』には月読命とあるが、現在は天照皇大御神・豊宇気姫命・素盞嗚尊である。
「調宮縁起」(寛文八年・玉蔵院寂堂法印誌)によると、創建は崇神天皇の勅創とある。中世の動向については、建武三年(一三三六)足利尊氏の一族、伊豆山密厳院の覚遍法印は高崎の月宮と当社調宮を遥拝し、尊氏が両社を再建する。延元二年(一三三七)二月五日、武蔵国那賀郡広木吉原城主一色大興寺入道源範行を奉行として社頭を復興し神田五か村を寄進する。貞和・観応の乱により兵火にかかる。康暦二年(一三八〇)正月、武蔵国足立郡の将、佐々木近江守源持清は同氏の氏神である近江国蒲生郡鎮座の沙々木大明神が調宮明神と同体であるとして社殿を造営し、神田二か村を寄進すると記している。
慶安二年(一六四九)三月二十四日、代官熊沢彦兵衛は寺社奉行に、社領七石は前々より別当月山寺が管理してきたところ、社内山林竹木等も除地であるため御朱印頂戴の旨を願い出ている(短才見聞録・玉蔵院文書)。これにより同年八月二十四日、徳川家光より社領七石安堵の朱印状(調神社文書)が発給された。
別当は、古くは真言宗福寿寺が兼帯していたが、いつのころか当社南東の一角に同寺は庵を構え、祭祀に当たっていた。その後、庵は一寺となり月山寺と号し、福寿寺に代わって別当となった。『短才見聞録』には、「月読本尊(当社神像)往昔兎乗御座候」とあり、この本地仏は勢至菩薩像であると載る。元来、勢至菩薩像は月天子の本尊であるから、当社の月読神(調を月に転じた)と共に月待信仰の対象とされたと考えられる。
文人墨客もこの月待・月読の神を知ってか数多く参詣している。中でも寛政三年(一七九一)四月十一日、俳人小林一茶は深い森の中に鎮まる「月よみの官」に額突いたことを『紀行』(一茶全集第五巻)に書いている。また、旅を好んだ僧、津田大浄ほ文政二年(一八一九)『遊歴雑記』に「二十三夜の宮と称す(中略)社の造営善尽し、美尽し、内のかざり心々の奉納の品々夥しく、辺鄙の駅路にくらぶれば目を驚かせり」と、社頭の繁栄を記している。当時参詣者の書いた月読社、二十三夜の宮、また月山寺などの社寺名などからも、二十三夜の月待信仰は庶民にかなり流布していたと思われる。
造営は、享保十八年(一七三三)に一間社流造りの本殿を建立している(社蔵棟札)。子の時、旧本殿は『短才見聞録』によると玉蔵院鎮守の山王権現宮本殿として移築している。次いで安政五年(一八五八)現在の総欅で豪壮な権現造りの社殿を建立した。翌年の「調神社社殿再建寄附額」によると、この造営には寄附者として浦和宿・岸村・白幡村・根岸村・辻村・別所村・針ケ谷村・玉蔵院・月山寺・武蔵一宮氷川神社社人入江若狭・杉山大隅などの名が見え、寄附総額は約一八五〇両に及ぶ。なお、享保の造営の折の旧本殿は、境内社稲荷社の本殿となり、現在に至っている。
明治初年、神仏分離により月山寺は廃寺となり、本地勢至菩薩は玉蔵院に移された。明治六年郷社となり、同三十一年には県社に昇格した。
祀職は神仏分離後、青田彦七郎ー憲勝-英一と累代奉仕し、現在、吉田一則が宮司として社頭の隆昌に努めている。(「埼玉の神社」より)

調神社旧本殿(市指定有形文化財)
扇面三十六歌仙絵(市指定有形文化財)
神輿鳳凰(市指定有形文化財)
調神社扁額(市指定有形文化財)
調宮縁起(市指定有形文化財)
調神社の境内林(市指定有形文化財)
調神社は「延喜式」にみられる古社です。この建物は江戸時代中期の享保十八年(一七三三)に調神社本殿として建立されたものです。型式は一間社流造りです。屋根はもとこけら葺きであったと思われます。規模は小さいが木割りは「匠明」という書物に記されているものと一致し、本格的な設計のもとに建立された本殿といえます。また各所にはめ込まれた彫刻も優れており、特にうさぎの彫刻は調神社と月待信仰の関係を知るうえで貴重です。なを、現社殿が建立された安政年間までこの本殿が調神社本殿として使われていました。(市教育委員会掲示より)

http://kotora888.art-studio.cc/tuki/tukijinnjya.html
・天照大神様、豊受大神様を御祭りする、さいたま市浦和区の調神社のご紹介です。
・覚鑁上人様の生家はここです。九州の誕生院ではありません。
・動画上映は5分以上かかります。

・2004年10月某日、埼玉県に住んでいる私は、太郎子山稲荷神社の社主(稲荷狐です。)に尋ねました。
「埼玉県で一番由緒あるお稲荷さんのお社は何処でしょうか?」
社主は私をさいたま市にある調神社(つきじんじゃ)と言うところに案内しました。地元では通称は「つきのみや神社」です。

神倭朝の第9代開花天皇の乙酉年とは22年の事で、紀元前136年の頃だと思います。
 調を「つき」と読むのは、元々、この神社が斎宮(いつきのみや)だったからの様です。それが調宮(みつきのみや)、即ち屯倉(みやけ)の跡の社と成ったようです。
 神倭朝の第11代、垂任天皇により伊勢神宮ができるより、ずっと前の事です。
かっても関東が日本の中心だったと考えるのが自然です。
 地元では「つきのみや」神社と読んでいるそうです。神道で「つき」とは都があったことの意味でもあります。








埼玉の嵐山町が嵐山です。京都、奈良の多くはコピペです。橿原神宮は大六天神のある柏原神社です。
捏造を実行したのがスペイン悪霊、聖武天皇です。鴻巣に居た宇多天皇 はアッバスに追われ、スペインに逃げたのです。

川田谷柏原神社

〒363-0027 埼玉県桶川市大字川田谷2082


東国の日本開闢の地、三田原氷川神社

http://kotora888.art-studio.cc/kotora/nikki_2016_01/201602_10.html

三田原《柏原》氷川神社
https://tesshow.jp/saitama/okegawa/shrine_mitahara_hikawa.html
三田原氷川神社は、桶川市川田谷にある神社です。三田原氷川神社の創建年代などは不詳ながら、寛文8年(1668)の宗源宣旨が当社内陣に残されていることから、江戸時代初期にはすでに祀られていたといいます。明治維新後には無格社となったものの、昭和4年村社に列格、また年不詳ながら八幡神社・八坂社を合祀したといいます。
氷川神社<桶川市川田谷二〇八二(川田谷字泉野)>
川田谷は、荒川左岸の自然堤防上に位置する村で、南北朝期から見える河田郷に比定されている。早くから開けた地であったためか、元禄七年(一六九四)の「桶川町助郷帳」(須田家文書)では上川田谷村と下川田谷村とに分けて記され、化政期(一八〇四-三〇)には既に全体で家数五〇〇戸に達している。当社は下川田谷の鎮守である。
古い川田谷村の項には「氷川社 一は竹内にあり、一は三田原村にあり」と二社の氷川社が記されているが、当社はそのうち「三田原村にあり」とされている方の神社である。創建の時期は不明であるが、内陣には寛文八年(一六六八)の宗源宣旨があり、江戸時代の早い時期に正一位の神階を受けていたことがわかり、当社は既にこのころには相当の信仰を集めていたものと推測される。また、このほかに文政十三年(一八三〇)の墨書のある神璽筥と像高三七センチメートルの氷川大明神像、更に石棒などを納めた木箱が納められている。
明治維新を迎え、社格制定に際しては無格社とされたが、規模も大きく、信仰も厚かったため、昇格の申請がなされ、昭和四年十二月二十七日に村社に列した。また、年代は分からないが、八幡神社と八坂社の二社を合祀して境内社とした。境内社は、かつて一社ずつ現在の幟竿置場の辺りに並んでいたが、昭和二十八年ごろ合殿にまとめられた。(「埼玉の神社」より)

氷川神社の簓獅子舞は、毎年十月上旬から中旬に行われる祭礼において奉納されている。この獅子舞は別名三田原の簓獅子舞といわれており、この三田原とは三ツ木、田向、柏原の各字を総称した呼び名で、この三つの字の人々によって伝承されている。
この獅子舞の始められた年代は不明であるが、地元に伝わる由来記には、江戸時代の元禄年間(一六八八~一七〇四)以降に盛んになったと記されている。本来この獅子舞は、柏原の八幡神社において、旧暦八月十五日にその氏子によって奉納されていたものであるが、その後八幡神社が氷川神社に合祀されたこともあり、現在の日時に行われるようになったという。
舞は全部で十二の場からなり、旧村内の㐂(七が三つ)倉堂から行列を組んで、舞の庭に舞い込み、四隅に立つ花笠の中で、宰領とよばれる道化と女獅子、法眼、後獅子の三頭の獅子によって舞われる。その内容は、女獅子をめぐって、法眼と後獅子がいさかい、また和解するといった展開である。
現在、この簓獅子舞は、後継者も多く、また舞の型のくずれも少なく、桶川市における貴重な民俗芸能の一つである。(埼玉県・桶川市掲示より)

http://keny72.blog.fc2.com/blog-entry-907.html
毎年10月に簓獅子舞(ささらししまい)が奉納され、『三田原の簓獅子舞』として桶川市の無形民俗文化財に指定されています。
『ネットのマップ上では氷川大明神となっています』
『左から三田原氷川神社拝殿、九社の合祀社、八幡宮です』
【大六天社・御嶽社・妙見社・白山社・稲荷社(三社)・八坂神社・天神社】








上海VS北京などという構図になるかもしれません。世界情勢から、どれも駄目も有りえます。
一部の都市だけ生き残ろうという政策が地方を疲弊させる
前出

中国大洪水中

【10月07日】専門家は三峡ダムに100の亀裂を発見しました。三峡ダムの緊急補修工事が行われている。【三峡ダム】【三峡ダム最新】


宝永の大地震は10月の末でした。異臭騒ぎの神奈川の方は注意です。
【重要】首都直下型地震に南海トラフ地震、さらには富士山の噴火!どれから始まってしまうのか!




7つの瞑想、ハーモニー・メディテーション

https://blog.goo.ne.jp/mkana777jp/e/84a4e2b11ef95229353f4319e5ac82da


癒やし・瞑想音楽の作曲演奏家 朝瀬蘭の瞑想探訪記 三重編

https://youtu.be/GT_WGFH3UTk


朝瀬蘭のホームページは https://ranmusic.red です。
ブログ
https://ameblo.jp/asaseran/entry-12624210453.html




YHWHヤーウェ Yahweh の解説
聖書の解説は、地球人は科学的に創造された、マイトレーヤラエル著をお読みください。
無料ダウンロードhttps://ja.rael.org/download.php?view.32
マンガ版もあります。https://ja.rael.org/download.php?view.36



MMTポリティクス
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12607382741.html
今更ですが、MMT(現代貨幣理論)とは、単なる現代の貨幣の説明です。
貨幣とは、特定のモノではなく、債務と債権の記録。すなわち、貸借関係である。


パラダイズムまで貨幣を配り、ロボット化で全て手に入れば、貨幣は必要なくなる。
BI(ベーシックインカム)、AI、ブロックチェーンによる民主化ロボット化、最後はパラダイズムへ

https://ja.paradism.org/index.php 

https://youtu.be/qh95qCEgjTI


労働に人は必要ではない世界は始まっています。
https://ameblo.jp/tony-9/entry-12589468638.html
さまざまなロボット

Dr佐野千遥 BI推奨
コロナビールス問題で資本主義自体が倒壊しようとしている。財政出動とか社会保障なんぞを幾ら遣っても押し止めようがなく、給料・年金に代わるベーシック・インカム、ベーシック・キャピタルを期限付き使用可能紙幣として無制限に刷って全ての個人に定期的に配布し、税金・税務署廃止、金融銀行業廃止、株式株式会社株式市場廃止、つまり資本主義消滅を実施することに依ってのみ、人類社会は生き延びる事ができる。







今日は地場のお仕事でいつもの東浜へ。帰り道のラーメンルーティンは丸星へ。


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