みやけん日記

宮澤賢治4コマまんが

抗議

2015年07月26日 | 大正7年


保阪嘉内の除名放校処分の理由は明らかになっていない。
本人の知らないところで、張り紙一枚で退学になってしまったのである。

賢治は関教授、木村教授に会い、嘉内が当時の虚無思想の持ち主だと誤解されたらしいことを突き止める。
『アザリア第5号』に載った「社会と自分」の一節が問題になったと考えられる(『友への手紙』P108)が、はっきりとした理由は誰からも語られなかった。
また、賢治の妹シゲによれば、賢治が自分も学校をやめると言って家族を驚かせた。

「或る日突然帰宅した兄がただならぬ気色で学校を止めると言ひ張つて父をはじめ私達を驚かせました。お友達一人丈けを退学にさせておけないといふ事で今先生方全部の会合の中で何かを宣言して来た様子でした。その教授会?の席上で校長先生が「ほんとうの幸せとは何か、宮沢君からそれを聞こうじゃないか」と言われたと云ふたのが耳に残つて居ります。」【保阪庸夫「賢治と父」(「宮沢賢治とその周辺」川原仁左エ衛門編著)】

嘉内の書いた文章は、他愛のないものである。
ところが日ごろから行動力のある嘉内が目をつけられていたらしく
問答無用で退学処分とされてしまった。
自由にものが言えない、表現できない時代。
そんなものは遠い遠い昔のことだと考えていたが、
今また言論の自由が明らかに脅かされつつある。
昨今のニュースをみていても愚かとしかいいようがない。
嘉内のような目にあう若者がいてはならない。


最後に、賢治が送った大正七年三月十三日の嘉内宛書簡から。
「今聞いたらあなたは学校を除名になつたさうです。その訳はさつぱり判りませんが多分アザリヤ会で目立つた事、例の西洋紙問題、それからあなたの公然あちこち歩いた事などでせう。どれにしても大した事ではありませんが学校では多分これから後のあなたの運動を困つた事として考へた為でせう。私などはとうとうおめおめと卒業してしまひました。
(中略)
関さんの所であなたの今度の事を聞いたらみな大した原因ではありませんでしたがアザリヤ会に関することは私への遠慮からかとうとう一つも云はれませんでした。木村さんにも聞きました。湯屋であったときに丁度誰も居ませんでしたから。あなたの二年間の心持をも話しました。まあこんな事は兎も角として実はあなたは幾分虚無的なものと誤解された事が第一の原因な様です。」



知らせ

2015年07月21日 | 大正7年


大正7年3月13日、
春休みで山梨に帰省中だった保阪嘉内。
賢治は卒業し、4月からは研究生として盛岡高等農林に残る予定だった。

その賢治のもと(おそらく下宿先)に飛び込んできたのは
進級するはずの嘉内の除名処分の知らせだった。
アザリアたちにとってはまさしく青天の霹靂だったにちがいない。

果たしてその理由は・・・(次回へつづく)