盛岡中学4年生の2学期から3学期にかけ、自彊寮の舎監排斥運動が起こった。
舎監の異動が多く、
それにともなう問題があったかもしれないが、理由は明白ではない。
賢治が黒幕参謀だったという証言もある。
寄宿生たちは、寄宿舎の電灯を消したり
夜中ドンドン廊下を踏み鳴らし、舎監が提灯をつけて見回りにくると
ふとんにもぐりこみ、二階へ上がる邪魔をして戸板を立てたりした。
この事件によって4・5年生全員が退寮を命じられ、
北山の清養院(曹洞宗)へ下宿することになる。
のちの「文語詩篇」ノートに賢治は
「かの文学士などさは苛めそ。家には新妻もありて、われらの戯れごとを 心より憂へたり。なれらつどひて石投ぐるそはなんぢには戯れなれども われには死ぞと云ひしとき口うちつぐみ青ざめて 異様の面をなせしならずや」
と書いている。