みやけん日記

宮澤賢治4コマまんが

The Azaleas

2014年11月23日 | 大正6年


大正6年10月31日、
天長節の式典の後、授業もなく学生達は自由にすごしたのだろう。
賢治、健吉、緑石、嘉内の4人は
中ノ橋の側にあった奈良写真館で記念写真を撮った。
4人で写っている有名な写真である。

奈良写真館があったのは、旧岩手銀行本店(現・岩手銀行中ノ橋支店)の北、
現在は深草という喫茶店があるあたり。

伯母

2014年11月19日 | 明治31年


父・政次郎の姉・ヤギは、
賢治が生まれる前に嫁ぎ先から実家に戻っており、
幼い賢治を可愛がった。
子守歌がわりに「正信偈」や「白骨の御文章」を教えたという。

父も熱心な仏教徒であり、
宗派の問題はあったが、賢治も生涯仏教への信仰を貫いた。

トシ誕生

2014年11月17日 | 明治31年


明治31年11月5日、賢治の妹・トシが誕生した。
母・イチが賢治を産んだのは19歳。
魚好きで食にうるさい舅・喜助の仕度や店の客へのもてなしで
台所仕事に追われた日々であったらしい。
そんな中でトシは賢治2歳の時に産まれた。

後にガリ版で刷って友人たちに送ったらしい文章の一つ〔手紙四〕には
「ポーセはチユンセの小ちいさな妹いもうとですが、チユンセはいつもいぢ悪わるばかりしました」
とある。

長子にとっての妹・弟の存在は、
ある程度の年齢に達するまでは微妙なものである。
それゆえ幼い日の思い出は痛みや哀しみを伴うことが多い。

蛇足ながら、私の誕生日もトシと同じである。

ヒドリ?ヒデリ?

2014年11月04日 | 昭和6年


昨日に引き続き「雨ニモマケズ」について。

前回、ほとんど推敲もされていないと書いたように、
賢治は「デ」を「ド」と書き間違える癖がここでも出て
そのままになってしまったようだ。
馴染みのない人(私も含め)にはわかりにくいが、
標準語にはない微妙な発音を使い分けているのが東北弁だ。

賢治が間違えるわけがないというのは
ひいきの引き倒しどころか、崇拝も過ぎれば冒涜となってしまうだろう。

私には「雨ニモマケズ」発表後、
何年も経ってから「ヒドリ」説を言い出したひとの
真意がよくわからないのである。

そもそも賢治は発表などする気もなかったのだから
雲の上でヤキモキしていることだろう。

雨ニモマケズ

2014年11月03日 | 昭和6年


1931(昭和6)年の今日11月3日、
宮澤賢治は病床にあって、
黒い皮表紙の手帳に
「雨ニモマケズ」で始まる一遍の文章を書き付けた。

詩と呼ぶには、推敲の跡もなく、
作品として完成されているとは言えない。
本人に発表の意志があったとも思えない。
この手帳の発見の経緯はまた別に描くとする。

これは2度目の発病で死を覚悟した賢治の
来し方の後悔や反省の思いから生まれた
「祈り」の言葉であろうと私は思う。