ボストン便り

伝統的であると共に革新的な雰囲気のある独特な街ボストンから、保健医療や生活に関する話題をお届けします。

ポリオの世界の今

2011-11-16 21:52:02 | 国際保健
ゲイツ財団のポリオ撲滅キャンペーン

 今年は夏の終わりから東京で過ごしましたが、9月下旬にワシントンDCに、ビル&メリンダ・ゲイツ財団(Bill & Melinda Gates Foundation、以下、ゲイツ財団)のワシントン支部を訪ねてきました。ゲイツ財団は資産規模として3兆円近くを誇り、100以上の国々で教育や保健衛生などの事業や研究に資金提供をしています。公衆衛生業界では、この財団の助成金を得ることに血眼になっていて、ゲイツ夫妻に読んでもらうためだけに本を書いて出版したというハーバードの教授さえいます。どんな財団なのかと、私もかねてより興味があったのですが、この度、慶応大学システムデザイン・マネジメント研究所の久能祐子教授のアレンジによって訪問が実現しました。
 DCでも名だたる一等地の、セキュリティも万全な豪華ビルに財団はありました。職員の方は、「シアトルの本部は大きいのですがここは手狭で」とおっしゃるのですが、2フロアにわたる広々としたスペースに、モダン・アートがそこここに置いてある素晴らしいオフィスでした。
 会議室に通され、職員の方にゲイツ財団の説明をしていただいたのですが、今最も力を入れているのは、「世界のポリオ撲滅」ということでした。過去20年間で世界中でのポリオ発症は99%減少しましたが、なかなか撲滅とまではいかない「あと少し」の状況だというのです。そこでゲイツ財団は「ポリオ撲滅キャンペーン」を行っているというのです。そこでこのキャンペーンの一環として作成した、ふたつのプロモーション・ビデオを見せてくれました。ひとつは、サッカー選手がゴールを決める姿が次々と映し出され、99%以上のゴールを目指そうというもので、もうひとつは世界各国の様々な人、大人から子どもまで、一般人から有名人までが、「あと少し」という言葉とジェスチャーを交えて訴えかけるというものでした。どちらも、とても洗練されたクールな出来栄えでした。

ポリオ撲滅への日本の協力

 ゲイツ財団は、ポリオ撲滅に関して日本政府を重要なパートナーとしています。2011年8月15日には東京で、JICA理事長の緒方貞子氏が、ビル・ゲイツ氏とパキスタンにおける「ポリオ撲滅事業」の業務協力協定を締結し、世界におけるポリオ撲滅対策等の強化に向けた戦略的パート ナーシップを結ぶことを発表しました。そして同日、パキスタンのイスラマバードでは、大江博駐パキスタン日本国大使とパキスタンのアブドゥル・ワジッド・ラナ経済・統計省経済担当次官が、ポリオ撲滅のために49億9,300万円を限度とする借款契約を締結することを発表しました。
 どうしてパキスタンへの50億円近い円借款がゲイツ財団と関係するかというと、パキスタン政府がポリオ予防接種キャンペーンを着実に実施した場合、ゲイツ財団がパキスタン政府に代わって日本に対して円借款を返済する予定だからだそうです。ちなみにパキスタンでのポリオ撲滅事業の具体的内容は、ワクチンの調達をして、キャンペーンを実施し、5歳未満児の接種率を上げることです。そのために現在、世界銀行、ユニセフ、WHO、ロータリークラブなど様々な組織が、いろいろな形で連携を進めています。

日本でのポリオの現状

 ポリオ蔓延国であるパキスタンでは、強固な免疫を付与するために経口の生ポリオ・ワクチンが使用されています。ただし先進国においては、ワクチン接種が功を奏して1970年代には強毒野生株の排除に成功しているので、生ワクチンではなく不活化ワクチンが使用されています。ちなみに韓国は既に不活化ワクチンに切り替えており、中国やインドも生ワクチンから不活化への移行中です。ところが日本では、ポリオ撲滅が宣言されているのにもかかわらず、未だに生ワクチンが使われています。これはどうしてなのでしょうか?
 その理由は私にも分かりません。どう考えても不可解なのです。昨年末から、広域ボストン・ポスト・ポリオの会の例会にたびたびお邪魔させて頂いているのですが、ある時、「日本では生ワクチンを使っている」と言ったら、とても驚かれました。「日本はまだポリオ蔓延国なの?」と。
 毒性の強い野生株がいまだ存在するポリオ蔓延国ならば、生ワクチンを接種して免疫をつけておく必要があります。しかし、既にポリオが撲滅されているような国では、実際にポリオを発症してしまう危険性もある強力な生ワクチンでなくても、安全性が確立されている不活化ワクチンで十分だ、というのが世界の常識なのです。ですから、日本で生ワクチンが使われているという事実は、世界の人たちの目から見たら非常に驚くべきことなのです。
 
神奈川県の決断と政府の批判
 このような中、10月15日に、神奈川県が不活化ポリオ・ワクチンを独自に輸入して、希望する県民に接種する方針を固め、年内に実施する予定というニュースが飛び込んできました。神奈川県ではワクチン接種率が低下し、現在1万7000人が無接種者であるといいます。神奈川県知事の黒岩祐治氏は、中国の新疆ウイグル地区で野生株由来のポリオの集団感染が報告されたことに危機感を持ち、無接種者にワクチン接種を促そうとして不活化ワクチン接種の実施を決断したのだといいます。
 近年、ポリオの会や一部の小児科医の働きかけのおかげで、生ポリオ・ワクチンによって、毎年100万人に2~3名程度が実際にポリオに罹患してしまうこと、それを避けるためには不活化ワクチンを接種すればいいことが、広く知られるようになってきました。それと共に、安全性の高い不活化ワクチンを子どもに受けさせたいと思う親御さんが増えてきました。不活化ワクチンは有料で、医療機関によっても異なりますが1回4,000円から6,000円で、3回受けると12,000円から18,000円になります。生ワクチンなら公費で無料なのにもかかわらず、多くの親御さんが有料の不活化ワクチンを選んでいるのです。
しかし、不活化ワクチンを輸入して接種できる医療機関の数は十分とは言えません。また厚生労働省はホームページで、不活化ワクチンの導入は「可能な限り迅速に行いますが、早くても2012(平成24)年度中」と答えています。すなわち今現在の時点で、日本の子どもたちに不活化ワクチンが届けられる体制は、全く整備されていないのです。
このような状況を解消するため神奈川県知事は、利用者に費用は請求しながらも、神奈川県立病院機構と協働して、不活化ワクチンを提供できる体制を準備することを宣言した訳です。ところが、厚生労働大臣である小宮山洋子氏は、10月18日の閣議後の記者会見において、神奈川県の対応を「望ましいと思っていない」と批判したそうです。「国民の不安をあおって、生ワクチンの接種を控えて免疫を持たない人が増える恐れがある」と。

日本の子どもたちのために
 確かに、ポリオ撲滅への道には1%の壁があるように、中国で集団感染が報告されるように、ポリオは未だ終わっていない世界の大問題ですから、日本の子どもたちがワクチン接種をしないでいたら大変なことが起きる、という小宮山氏の発言は大いにうなずけるものがあります。しかし、国内で野生株のポリオが撲滅されているにもかかわらず、ポリオを発症する危険性のある生ワクチンを接種すべきいうことは、どうしても理解できません。そして、万にひとつでも、生ワクチンでポリオを発症するようなことがあったら子どもに申し訳ないと思うがゆえ、不活化ワクチンを望む親御さんたちの気持ちは、とてもよく分かります。
 私の場合、現在13歳の長女は乳幼児の頃、日本で生ワクチンを受けました。7歳の次女は、アメリカで不活化ワクチンを受けました。当時、ポリオ・ワクチンに関する私の知識は乏しく、生ワクチンの危険性を知ったのは、恥ずかしながらほんのこの2、3年のことでした。次女はアメリカにいたからラッキーでしたが、長女の時にはこんな危険性のあることをしたのかと思うと、何事もなくてよかったと胸をなでおろします。しかし、アメリカにいたからよかったと思うことに、釈然としないものも感じてしまいます。どうして日本にいるというだけで、予防接種をしたがためにポリオに罹るかもしれないという心配をしなくてはならないのでしょうか。
 日本政府は、本気でポリオ撲滅を志向しているならば、ゲイツ財団と組んでパキスタンを支援することも重要ですが、一刻も早く、日本において不活化ワクチンに切り替えて欲しいものです。

<参考資料>
ゲイツ財団のホームページ、2011年10月18日閲覧
http://www.gatesfoundation.org/Pages/home.aspx

「日本、パキスタンのポリオ撲滅支援:約50億円の円借款」、ヤフー・ニュース、2011年10月18日閲覧 
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110817-00000001-indonews-int

「ポリオとポリオワクチンの基礎知識」、厚生労働省のホームページ、2011年10月18日閲覧
http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/polio/qa.html#q6

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