保健医療政策勉強会
2008年9月にハーバードに着任してから、ボランタリックな活動として保健医療政策研究会(Health Policy Study Group)を主宰しています。私が所属する学部は、国際保健学部(Department of Global Health and Population)ですが、同僚達は文字通り世界中から集まっています。中国、韓国、イラン、イスラエル、ブラジル、タイ、ケニア、アメリカなど、皆その国の保健医療に関する専門家であり、中には実際に国の医療政策に携わってきた中央政府官僚もいます。アカデミック・バックグラウンドも、医学、公衆衛生、看護学、保健学、政治学、歴史学、社会学など多彩です。
このチャンスを逃す手はないと、それぞれの国の保健医療制度について紹介しあって理解を深めてゆこうという趣旨で、一昨年から研究会を始めたのでした。基本的に毎週1回、ランチタイムに1時間ほど集まり、発表者が自らの視点から自国の保健医療制度について解説します。質疑応答も活発で、あっという間に時間が過ぎてゆき、いつも発表者が用意した話の最後までなかなか辿り着かない状況です。
年明け最初の勉強会は、歴史学で博士号をとったアメリカ出身のジェシーで、アメリカ医療の歴史について面白い話をしてくれました。彼の発表によると、今日の市場原理で動くアメリカ医療の原型は、19世紀末からの科学的医療を支持したロックフェラー財団やカーネギー財団が、アメリカ医師会(American Medical Association: AMA)を牛耳る形で、1930年代までに作り上げてきたというのです。
今まで自分の持っていた知識から、アメリカでは19世紀の終わりごろから科学的医療が発展してきて、1930年代ごろに医師の専門職化が進展してきた、ということは知っていましたが、彼の話によると、科学的医療の正統化と医師の専門職化そのものが、巨大資本家の財団の目論見だったというのです。ジェシーの発表に触発され、図書館に走ってゆき、アメリカ医療史に関する本をいくつか紐解いてみると、確かにその話を裏付けるアメリカ医療史のまた別の顔が見えてきました。
アメリカ医療史の別の顔
いくつかのアメリカ医療史の本の中で、なんといっても面白かったのは、リチャード・ブラウンの『ロックフェラーのメディシン・マン:アメリカにおける医療と資本主義』(Rockefeller Medicine Man: Medicine and Capitalism in America)でした。この本の表紙がまた傑作で、アタッシュ・ケースを持って、ネクタイにスーツ姿で聴診器と額帯鏡をつけている、ビジネス・マンならぬメディシン・マンのイラストなのです。しかもこのメディシン・マンがドミノ倒しのように何人も並んでいるのです。
ブラウンは、「どうしてアメリカの医療費はこんなに急速に急騰しているのだろう?」という、今日誰もが感じている疑問を持ちます。ちなみにアメリカの総医療費は、経済成長の伸びを超えており、2009年のOECDヘルスデータによると、GDPの16パーセントと飛び抜けて多くなっています。OECD平均は9パーセントで、日本はそれよりもすこし少なくて8パーセントです。
この医療費の高さというのは、アメリカ近代医療の起源に発しているのではないか、とブラウンは考えます。その起源というのは、科学的医療と資本主義です。彼は1910年から1930年代までの史料を駆使して、医療専門職と医療に関して利害関係のある諸集団が、一般社会の人々の健康ニーズに応える訳でなく、自分たちの狭い経済的・社会的利益を守って行くために資本主義に基づく近代的医学を確立してきた歴史を解き明かします。
一般的に近代医療は、医療技術の進展と産業社会の発展の結果として生じてきたといわれています。たしかに、科学技術と産業化が近代社会を作り上げたというのは社会科学(特にScience Technology Studies: STSなど)の定説ですが、ブラウンはこの科学技術決定論に待ったをかけます。そして、科学技術は、純粋にそこにあるというものではなく、技術を保持し、コントロールできる個人や集団が、その技術を他者の利益になることを妨害しつつ、自分たちの利益に合うように利用していて、この技術と社会の相互作用の歴史が今日の姿になって現れているというのです。
では、それはどういうことなのでしょう。ブラウンの本に沿いながら見てゆきましょう。
「患者中心」医療から「専門職中心」医療へ
アメリカにおいて医師は、現在では専門職の代表として、地位も高くお金持ちというイメージがあります。しかし19世紀末、医師は力もなく富みもなく、地位も低かったといいます。それは、当時の医療というのが、完全に患者中心であったからです。当時は、薬草療法、温水療法、信仰療法などさまざまな治療方法があり、患者は、自分の症状と経済状況にあわせて、治療を受けるか受けないか、受けようとする場合にはどんな治療がいいのか、自分で選んでいたのです。そして医師は、患者の希望にあわせて、患者にとって適当な方法と価格の治療を提供していたのです。この頃からも、医師による組織団体はいくつかあったらしいですが、誰が医師として業界に参入できるか、誰ができないかというコントロールはまったくされておらず、医師になりたい人は、自分で名乗れば勝手に治療行為を行うことができたということです。
ところが、1930年代までごろにこの状況は一変します。医師集団が、医学校や教育病院を運営することで、医師になるためのライセンス付与のコントロールを始めたからです。また、医師は、地元の医学会を通して、診療内容や料金を決めたりするようになりました。この青写真を書いたのが、アブラハム・フレクスナーです。
彼はカーネギー財団から資金を得て、医療のあり方に関する有名な報告書、フレクスナー・レポートを1910年に出しました。そこには、「医療は、科学的で臨床的で研究志向の大学院教育に基づいた臨床実践を意味するようになるべき」ことが示されていました。大学院教育がまだ特殊に高度な教育と考えられた時代に、科学的な大学院レベルの学問が医師になるのに必要な条件となったことで、医師には特別な地位が要求されるようになりました。この任をまかされたのが、アメリカ医師会に他ならず、以後、アメリカ医師会は大きな権限を持って、新規参入する医師たちを厳しくコントロールするようになりました。
2008年9月にハーバードに着任してから、ボランタリックな活動として保健医療政策研究会(Health Policy Study Group)を主宰しています。私が所属する学部は、国際保健学部(Department of Global Health and Population)ですが、同僚達は文字通り世界中から集まっています。中国、韓国、イラン、イスラエル、ブラジル、タイ、ケニア、アメリカなど、皆その国の保健医療に関する専門家であり、中には実際に国の医療政策に携わってきた中央政府官僚もいます。アカデミック・バックグラウンドも、医学、公衆衛生、看護学、保健学、政治学、歴史学、社会学など多彩です。
このチャンスを逃す手はないと、それぞれの国の保健医療制度について紹介しあって理解を深めてゆこうという趣旨で、一昨年から研究会を始めたのでした。基本的に毎週1回、ランチタイムに1時間ほど集まり、発表者が自らの視点から自国の保健医療制度について解説します。質疑応答も活発で、あっという間に時間が過ぎてゆき、いつも発表者が用意した話の最後までなかなか辿り着かない状況です。
年明け最初の勉強会は、歴史学で博士号をとったアメリカ出身のジェシーで、アメリカ医療の歴史について面白い話をしてくれました。彼の発表によると、今日の市場原理で動くアメリカ医療の原型は、19世紀末からの科学的医療を支持したロックフェラー財団やカーネギー財団が、アメリカ医師会(American Medical Association: AMA)を牛耳る形で、1930年代までに作り上げてきたというのです。
今まで自分の持っていた知識から、アメリカでは19世紀の終わりごろから科学的医療が発展してきて、1930年代ごろに医師の専門職化が進展してきた、ということは知っていましたが、彼の話によると、科学的医療の正統化と医師の専門職化そのものが、巨大資本家の財団の目論見だったというのです。ジェシーの発表に触発され、図書館に走ってゆき、アメリカ医療史に関する本をいくつか紐解いてみると、確かにその話を裏付けるアメリカ医療史のまた別の顔が見えてきました。
アメリカ医療史の別の顔
いくつかのアメリカ医療史の本の中で、なんといっても面白かったのは、リチャード・ブラウンの『ロックフェラーのメディシン・マン:アメリカにおける医療と資本主義』(Rockefeller Medicine Man: Medicine and Capitalism in America)でした。この本の表紙がまた傑作で、アタッシュ・ケースを持って、ネクタイにスーツ姿で聴診器と額帯鏡をつけている、ビジネス・マンならぬメディシン・マンのイラストなのです。しかもこのメディシン・マンがドミノ倒しのように何人も並んでいるのです。
ブラウンは、「どうしてアメリカの医療費はこんなに急速に急騰しているのだろう?」という、今日誰もが感じている疑問を持ちます。ちなみにアメリカの総医療費は、経済成長の伸びを超えており、2009年のOECDヘルスデータによると、GDPの16パーセントと飛び抜けて多くなっています。OECD平均は9パーセントで、日本はそれよりもすこし少なくて8パーセントです。
この医療費の高さというのは、アメリカ近代医療の起源に発しているのではないか、とブラウンは考えます。その起源というのは、科学的医療と資本主義です。彼は1910年から1930年代までの史料を駆使して、医療専門職と医療に関して利害関係のある諸集団が、一般社会の人々の健康ニーズに応える訳でなく、自分たちの狭い経済的・社会的利益を守って行くために資本主義に基づく近代的医学を確立してきた歴史を解き明かします。
一般的に近代医療は、医療技術の進展と産業社会の発展の結果として生じてきたといわれています。たしかに、科学技術と産業化が近代社会を作り上げたというのは社会科学(特にScience Technology Studies: STSなど)の定説ですが、ブラウンはこの科学技術決定論に待ったをかけます。そして、科学技術は、純粋にそこにあるというものではなく、技術を保持し、コントロールできる個人や集団が、その技術を他者の利益になることを妨害しつつ、自分たちの利益に合うように利用していて、この技術と社会の相互作用の歴史が今日の姿になって現れているというのです。
では、それはどういうことなのでしょう。ブラウンの本に沿いながら見てゆきましょう。
「患者中心」医療から「専門職中心」医療へ
アメリカにおいて医師は、現在では専門職の代表として、地位も高くお金持ちというイメージがあります。しかし19世紀末、医師は力もなく富みもなく、地位も低かったといいます。それは、当時の医療というのが、完全に患者中心であったからです。当時は、薬草療法、温水療法、信仰療法などさまざまな治療方法があり、患者は、自分の症状と経済状況にあわせて、治療を受けるか受けないか、受けようとする場合にはどんな治療がいいのか、自分で選んでいたのです。そして医師は、患者の希望にあわせて、患者にとって適当な方法と価格の治療を提供していたのです。この頃からも、医師による組織団体はいくつかあったらしいですが、誰が医師として業界に参入できるか、誰ができないかというコントロールはまったくされておらず、医師になりたい人は、自分で名乗れば勝手に治療行為を行うことができたということです。
ところが、1930年代までごろにこの状況は一変します。医師集団が、医学校や教育病院を運営することで、医師になるためのライセンス付与のコントロールを始めたからです。また、医師は、地元の医学会を通して、診療内容や料金を決めたりするようになりました。この青写真を書いたのが、アブラハム・フレクスナーです。
彼はカーネギー財団から資金を得て、医療のあり方に関する有名な報告書、フレクスナー・レポートを1910年に出しました。そこには、「医療は、科学的で臨床的で研究志向の大学院教育に基づいた臨床実践を意味するようになるべき」ことが示されていました。大学院教育がまだ特殊に高度な教育と考えられた時代に、科学的な大学院レベルの学問が医師になるのに必要な条件となったことで、医師には特別な地位が要求されるようになりました。この任をまかされたのが、アメリカ医師会に他ならず、以後、アメリカ医師会は大きな権限を持って、新規参入する医師たちを厳しくコントロールするようになりました。