難波宮って? 古代史のんびり散歩

時間だけは、タップリある定年団塊世代が、ズート気になっていた
古代日本史を素人の感性でゆっくり探訪します。

「壬申の乱」を令和元年に探索 -その1-

2021年02月14日 | 歴史紀行
「壬申の乱」を令和元年に探索

  制作開始 令和元年五月九日
  校正加筆     7月27日
  補正追記 令和3年2月12日

 探索  令和元年五月十四日〜十七日

  (完成予定 7月末)

 字数制限の為、3日目以降を、-その2- に分離します。

 -その2- をご覧ください。

  想定外情報が歌声喫茶で、発生しましたので、
制作が遅れています。「言い訳」


 「大化の改新から壬申の乱」が、私の定年後の探求心を
掘り起こし、心の拠り所にしていたのですが、「壬申の乱」は
その内の一つの、出来事であり、重大事件と感じていました。
 実際、数年前に、アルバイトで貯まった小遣いで
「壬申の乱の散策」を企画し、奈良県の吉野から、
三重県に入り、名張市、津市、四日市、桑名、関ヶ原、
不破の関、大津を巡る旅を実行しました。

 大海人皇子が、仕掛けた、戦いの壮大さに深い驚きを感じ、
その後の日本の基礎が、この乱で築かれたことを、実感した
思いでした。


{吉野宮 壬申の乱開始の地}



 それが、歌うのが大好きな私が、昔の歌声喫茶「こだま」の
ような場所はないかと、インターネットで検索し、
探し当てた、大阪市肥後橋のビジネス街にある、
歌声喫茶「ピープルズ」でまさかの、隣に座って居られた
オジサンの

「ムラの長老から聞いていた話なのですが、
 壬申の乱の時、私の「明幸村」が、
 イクサに参加したらしいんですよ。」
の言葉でした。

 歴史の重大事件を視点を変えてみた時の、光景が大きく
広がってしまいました。

 そもそも「壬申の乱」の始まりは、大海人皇子であり、
天智天皇亡き後の、近江朝との確執、戦いで、それに華を
添えているのが、当時絶世の美人の、
額田王姫(ぬかたのおおきみ)なのですが、待ってよ、
その戦いに参加した、関連させられてしまった人達の
ことには、私自身が全く無関心で、少しも理解していない
事に気付かされました。

 でもそれが思いもしなかったところから、私の心をノック
したのです。

 日本書紀には、大海人皇子の一行が、吉野を出発してから、
最初50人足らずの小学校の、ヒトクラスが校外学習で、
列を作って歩いている光景を想像してしまう程の、その心細い
一行に、進んでゆく先々で、応援の兵が、各地から、次々に
合流する形で参入してきた経過を、実に丁寧に書かれて
います。
 これまで何も気の止めず、サラッと読み飛ばしたところを、
参加していった、人々の気持ちになって、読み直さなければ、
本当の歴史は見えてこないと気づき、目線を変えて推敲する
ことにしました。

 そのために経過を、その場所に行き、兵士の立場になって、
眺めてきたいと思い、探索紀行を令和元年の5月に始めます。

 応援の兵が参加してくる状況を、「日本書紀」を元に、
日を追って現地を、愛車の軽4 ホンダ ライフで、巡って
みようと思いました。

 歴史的事実を時間経過で記載し、探索状況を添えて
いきたいと思います。



探索 1日目: 奈良大和郡山散策

 昼は奈良公園の近くの、新薬師寺を探索してみました。

 夜は、奈良観光の時にはいつも楽しみにしている、
大和郡山 筒井の 居酒屋「おねえ」で一杯。

「ワーお久しぶり。半年ぶりでしょー。」
「たまに来られた折に、時々一緒になられて飲んでおられる、
 ご隠居さんから、あなたが来られたら、渡して欲しいと
 頼まれているものがあるんですよ。」

 女将が、カウンターの下からガサゴソと出してこられたのは、
二冊の綴じ込み雑誌でした。




 このご隠居さんというのは、この居酒屋「おねえ」で
四 五度 隣あわせに座り、奈良の観光名所で話が
盛り上がり、とても話していて、楽しいオジサン
でした。
 話をしていて、名古屋方面の方で、とても旅行好きで、
カメラマニア、の印象を持っていました。
私より数段、名所巡りの経験が多く、羨ましいなと思って
いました。
 今日、「おねえ」の女将から渡してもらった、小誌を見て、
只々感服、しかも小誌が61巻目なのを見て、此処まで、
好きなことを突き詰められていられることに、私との次元の
違いを強く感じました。


新薬師寺
奈良公園の東北角 747年光明皇后により創建




 創建当時は、壮大な金堂が創られ、敷地の広さも威容を
誇ったようですが、金堂は暴風により倒壊。
別の場所のお堂を本堂としてそこに、薬師如来、
その周りに、干支にまつわる十二神将立像が、どうやら、
他のお寺にあったものを、持ってきたと伝えられて
います。

 東大寺や、法隆寺とは明らかに趣の違うお寺と感じました。
 正面門の前に無料で停めれる駐車スペースが在り、
お堂は、正面扉は閉ざされており、横の扉から入るように
なっています。
 中に入って、思うことは。「暗らー」
 暫くして目が暗さに馴染んできて、お堂の中が
見えるようになりました。
 薬師如来様は、とても和らぎのある、笑みをたたえて
居られました。
 その周りを固める、十二神将立像は、子🐭 牛🐮 寅🐯 兎🐰の
十二干支にまつわり、それぞれの神将が、とても威圧的な表情で、
周囲を睨みつけて居られました。
 そのそばのお堂で、新薬師寺の学術調査の成果として、
十二神将の創作時の、外観や色彩状況が画像で再現されて、
映像公開されていました。
 今、暗いお堂で、見てきた立像が、創られた時は、
こんなに明るい、鮮やかな外観だったのかと、
思わず感嘆の声を揚げてしまいました。

 一日目の夜は、サンホテル大和郡山で一泊。



 探索 2日目: 吉野宮から名張市へ

 大海人皇子の出発地、吉野宮旧跡から、できるだけ
「壬申の乱」その時の、行程に合わせて探索開始。
 夜には、今回の旅行予定を組んだ時、前から逢いたいと
思っていた、私の高校時代の旧友で 名張市に住んでいる、
有村君と連絡がつき、談笑予定。
(50年ブリ、楽しみ。)
(天気予報が余り思わしくないのですが。)

 日本書紀から、この乱の経過を日時に沿って記入します。
 今回の探索で、記載されているその場に行って、感じた事を、
順次、追記していきます。

671年12月
 天智天皇 崩御

672年 3月
 唐 進駐軍筆頭 郭務悰に天智天皇崩御を告げる。
 この当時日本は、百済の白村江の戦いで、唐と新羅の
 連合軍に惨敗し、唐からの進駐軍(総勢約2千人)により統治
 されていました。

 昭和20年代の日本と同じ状況です。
 米国進駐軍GHQ マッカーサー元帥を想定して下さい。

 当時進駐軍は、九州大宰府に駐屯していたとされています。

672年
 5月30日

 唐 進駐軍筆頭 郭務悰 帰途に着く(離日)
 面倒なオモシが無くなる。
 唐と連合を組んでいた、新羅の関係が悪くなり、
 対応するため、朝鮮の方へ移動したようです。

 (そんなの、壬申の乱に関係ないでしょ?)読者
 (ところが、ここの新羅が、壬申の乱に大きく関わって
  きていたようなんです。
  大海人軍が、不破関に集合した所で、
  お話します。)筆者(私)

672年 5月
 大津京 滞在中の近臣より、近江朝が大海人皇子の命を
 狙っているとの、確かな情報が告げられる。

 < 此処までが、日本書紀の序段でした。>

672年
 6月22日

 大海人皇子、吉野から東国(不破の関以東)への脱出を決意。
 各地へ、支援要請の連絡を発する。

  携帯も、公衆電話もない時代です。(当たり前か?)
 部下を使者にして、馬で各地に走らせたのでしょうね!
 (何人ぐらい?、どの地区に?)

 6月24日 (1日目)
  近江朝(大津京)に滞在している、信頼している身内の
 高市皇子・大津皇子に、伊勢で落ち合えるよう、
 急いで出発するよう、大津京脱出を極秘指示。
 (ちなみにGoogleマップでは、吉野から大津京までは、
  自動車で 2時間数10分、徒歩で 20時間ぐらい。
  残念ながら、早馬は検索出来ず!(当たり前か?)
  10時間ぐらいかなと、想像するのですが?)

吉野を出発、東国へ。
 出発時:従者、20人余り、+女官10人余り。

 ◎ 地図を「壬申の乱を歩く」倉本一広 著より抜粋

{壬申の乱、吉野宮〜桑名郡家〜不破関〜瀬田橋}

 馬、馬車などの、乗り物(当時タクシーはありませんでした)
が用意できるまでの時間が惜しくて、取り敢えず
徒歩での出発。
 (よほど、近江朝からの襲来が怖かったかと、
  容易に想像できますね。)

{吉野宮〜津振川沿い路〜}

 壬申の乱出発地点

{吉野資料館に展示されている、当時大海人皇子が、
 住んでいた、住所模型}


{あまり広くない場所で、これでは、
 近江朝廷から攻められたら、
 ひとたまりもなかったでしょう。}



 吉野宮を逃げ出してほどなく、
 県犬飼連大伴(あがたのいぬかいのむらじおおとも?)の
 乗馬に出会う。

 この馬に乗り、皇后は輿に載せる。
 (お供の女官は、これからも徒歩と言うことですね ?)

 途中 津振川(つふりがわ)で(現 津風呂川 吉野町津風呂)
(Googleマップ=G mapでは、吉野から 7.9km
 徒歩での推定所要時間 2時間6分)

(*登坂路で当時のルートは、現在はダム湖の
 川底になっており、G mapの検索出来たルートとは、
 若干外れた別ルートだったと想像します。)

 吉野宮から遅れてきて合流できた、臣官と合流。
(自分の住んでいる家からの、距離と時間を
 想像してみて下さい。どれだけこれからの、
 東国への移動が、大変か身につまされます。)


{津振川の川沿いの道に行くために、かなり険しい
 峰超えの道を行く必要が在ります。
 此処から山に入ってゆきます。}


{もちろん車が通れる道幅は在りません。
 向かって左側の道です。}
 この道へは入って行けないので、(私には無理!)
 遠回りで、この山の向こうへ
 10分ほど掛けて、回り込みました。


{回り込んだ山からの出口です。}
 辛うじて、人が通れるだけの細い山道でした。
(無理をして車で行かなくて正解だー!)


 踏みしめられた形跡もないので、
 地元の猟師さんが使うだけかも?。



{津振川の川沿いの道に、降りる道。}
 1300年前はまだ、これだけ木が生えて
 いなかったのでしょう?


{ダム湖になった道の、向こう岸へ渡る吊り橋} 




{菟田の吾城〜甘羅村〜菟田郡家}

 菟田の吾城(うだのあき)で(宇陀市大宇陀区中庄?)
 (G mapでは、吉野から 17Km 約4時間3分)    
 地元の役人から、食事をたてまつられる。
 「食事は大事、手回しがいいな。」
 前触れの使者が先に来て、
 大海人皇子一行の通過を知らされていた。(?)


{宇陀路大宇陀 道の駅}
 食事をたてまつられたと推定される場所に、道の駅が
 出来ていました。
 単なる偶然の一致で出来たのか?
  歴史に詳しい人が企んだか?
 なんと食堂の名前も、次に向かう(2km先の)
 「甘羅」でした。

 甘羅村(かんらのむら)(奈良県大宇陀町の北部)で、
 (G mapでは、吉野から 19km 約4時間32分)
 そこにいた、二十人余りの猟師を一行に従わせる。
 大伴朴本連大国
 (おおとものえのもとのむらじおおくに)が首領。

{写真の向こう、菟田の吾城(道の駅 宇陀路大宇陀)
 からの旧街道。}


{奈良 桜井 飛鳥に通じる R166号線との交差点}


{交差点の角にある、パチンコ屋の駐車場}
 この駐車場辺りに、猟師が二十人ほどが
 タムロしていた訳ですね。

「待ってる間、パチンコしてたのかな?」

「1,300年前にパチンコ屋があるわけ無いだろう!」(読者)


{交差点の付近に、山に登っていく小さな路が在りました。}
 猟師の住処が有ったのかな?

 来たー、今回の知りたい出来事
 山村からの「壬申の乱」参加の発生!!
でも、普通に猟師が二十人も同じ場所にいる?
 普通に考えて、前もって日時を首領から知らされており、
待機していたと考えるのが、無理がないと思いますよね。
と言うことは、職業に関係なく、大海人皇子軍に参加する
ことを、要望していたんだ!!
 この場所は、まだ奈良県ですから、今回最も知りたい
滋賀県の明幸集落とは、まだ遠すぎるので、関連は
考えられないでしょうね。

{追記}令和1年7月19日

 滋賀の明幸集落と宇陀の甘羅村を検索していましたら、
日本書紀に記載された、大海人皇子の随行武人の、
20人の中に名前のある、
書首根摩呂(ふみのおびとねまろ)、文祢摩呂
(渡来人:大坂難波居住)の墓が偶然、江戸時代に
宇陀市榛原八滝で、地元のお百姓さんが、
畑を耕している時に発見され、発見された中に
墓誌があり、その墓誌に文祢摩呂の名があり、
驚いて出土品はだいじに、地元の龍泉寺に
納められました。
 明治になり確認の上、本物として国宝に
指定されました。

 つまり、壬申の乱に吉野の宮から大海人皇子に同行していた
武人の墓が、この宇陀市榛原にあるということは、
この地の出身でない武人が、ここで余生を過ごしていた
という事で、「壬申の乱」の後に、ご褒美として、
この地を手に入れた。と容易に想像できますよね。

 その文祢摩呂の墓が、なんと猟師が20名たむろしていた、
甘羅村の交差点に、とても近いのです。
 私は今、いろいろなことを妄想しているのですが、
皆さんはどうですか?

 今回私の妄想として作成した、アニキ、マツの笑会話の
内容を少し変更しなければ、いけないかと思い
始めています。



 参加した猟師の目線で想定してみますね。
 大宇陀地区の猟師の首領が、地区の猟師に、
「戦準備をして、甘羅村に集まれ。」
「必ずおいしい、ご褒美にありつける!」

 と伝言を近隣の村々に、発した。
 訳がよく分からないけれど、首領の言うことだから、
逆らうことも出来ず、指示された場所で、たむろしていた。

「誰と誰の戦になるの?」

「確か、吉野に居たはった、オオアマの何とかさんと
 (大海人皇子)
 大津に居たはる、オオトモの何とかさんと(大友皇子)で、
 戦になるんやて!」

「ヘェー、それで俺らどっちに付くの?」

「吉野に居たはった、オオアマさんが、
 もうすぐ此処を通らはるんやて、
 そやから、オオアマさんに付くんやろ。」

 (関西弁で、当時の民衆の気持ちを想像しながら
 喋るのは楽しい。 (´▽`)ノ )


 暫くして、大海人皇子の一行が到着した。

「オオアマさんが来はった、来はった。」

「えっ、あれ? 四十人足らずしか居てへんで、
 こんなので、近江の軍と戦えるんかいな?
 大丈夫かいな?」
「それに女連れで、そのオナゴ衆が
 えらいしんどそうやで。」

「・・・、これから増えるんやろ?」
「ちょっと心配やから、滋賀の知ってる猟師の仲間にも、
 参加するようにって、連絡しとこ。」

「スマホは、まだ売ってないから、早馬にしなはれや!」

 この妄想で、やっと[明幸村]と繋がった!!)
  仮想妄想を出してすみません。

 もう私の企み(たくらみ)は、見抜かれていると思うのですが、
この二人に、これからも出てきてもらいたいので、
名前を付けようと思うのですが、飛鳥時代の一般的な
名前、呼び名がどのようなものだったのかが、まるで
分かりません。
取り敢えず、「アニキ」「マツ」で行こうと思います。


途中、要請に応じて美濃王(地元の首領か)
  一行に従う。(人数記載無し)

菟田群家(うだのこりのみやけ)(宇陀市榛原町萩原)の前で、
(G mapでは、吉野から 24km 約5時間30分) 
 伊勢の国から米を運んでいた、50頭の馬の一行から、
米をみな捨てさせ、徒歩の従者をその馬に乗せた。


{R369 伊勢から奈良へと、R165 奈良から津への交差点、
 右側を近鉄大阪線が走っています。}

 無理矢理奪い取ったのかな? 馬の従者はその後も、
 行軍に従ったのかな?

 米1俵は60kg、馬には普通2俵積むと聞いていますので、
 50頭✕2俵=100俵✕60kg=6,000kg
 ちなみに、私がまだ小さいとき
「男の子は、米俵1俵を担げたら、一人前や!」と
 近所のオッチャンに言われてました。
 すごい量の米を捨てたんだ。?!!

「アニキ、積んでた米俵を下ろして、その馬に皆乗りはったで、
 あの米どうなるんやろ?」

「スマホがあれば、女房に言うて、
 取りに越させたいぐらいやな、マツ。」

「それより、偉いさんばっかり、馬に乗らはって、
 俺らは馬無しや。!」


{大野〜名張}

 大野(宇陀郡室生村大野)に着くと、
(G mapでは、吉野から 31km 7時間)
 6月24日 ⇒ 現新暦 7月24日 日没 19時5分
 日が暮れて、暗いので、村の垣根を壊し、それを灯す。
 ここで日が暮れたということは、吉野離宮を出発して、
 今、午後7時を回ったと想定できますね。


{大和地区と津、四日市の中部地区(東国)とを結ぶ古道です。
 山の中を進むイメージが大きかったです。}



 でも、灯りが欲しいからだけで、人の家の垣根を
壊してしまうなんて!

 携帯も、テレビも、無い時代もちろん、街灯などは皆無の
 田舎道を、想像してください。
 しかも、月齢24日は15日の満月を遠くに過ぎ、
 真っ暗闇の道を、行進するためには、道を照らすタイマツが
 どうしても必要だったのでしょう。
 日本書紀に書かれているということは、
 この垣根を壊すことに、少しも、ヤマシサを感じていない
 という事です!

 隠駅(なばりのこおり)(名張市)に着き、
(G mapでは、吉野から 40km 9時間、推定午後9時)
 隠駅家(なばりのうまや)を焼き、(又焼いたのか?)
 村の中に向かって、
「天皇が東国にお入りになる。
 それゆえ、人夫として従うものはみな出てこい」
と呼ぶが、
 !!  一人も、出て来ようとはしなかった。


{隠駅家の位置の特定が難しく、
 全然違うが場所かもしれません?}

 この地区には、予めの連絡はしていなかったんだな。
 夜の9時過ぎに大勢でやってきた、大事な馬屋を焼かれて、
 出てきて俺の味方になれと言われても、ノコノコ出て行く
 者なんて居ないよな!

 2日目の夜は、ルートイン名張で。

 3日目は、ブログの字数制限(30,000以内)が
 かかりましたので、別ページを作ります。



探索 3日目: 名張から草津へ ーその2ーへ飛ぶ。

 3日目の夜は、草津市グランドデュークホテルで。



散策 4日目: 前回(平成31年1月)雪のため挫折断念した、
 「明幸集落」の探索を実行







 今回のブログのページを作ろうと思った瞬間です。
◎「歌声喫茶って 知ってます。」



◎ 古代史 のんびり散歩 
   
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◎ 「難波宮ッテ?」
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 すみません。私は、理系出身で物を知らないド素人の定年組みです。記載内容に、非常識な内容、不快な表現等があるかと思いますが、何卒ご容赦いただきますようお願い申し上げます。ご指摘頂けましたなら、早急に訂正変更いたしますので、ご指摘、ご指導お願いします。 記載内容に多少の大袈裟や、特に会話記載に省略や脚色を加えております。老人の戯言と、ご容赦下さいね。