難波宮って? 古代史のんびり散歩

時間だけは、タップリある定年団塊世代が、ズート気になっていた
古代日本史を素人の感性でゆっくり探訪します。

「壬申の乱」 を訪ねて 4日目

2021年02月01日 | 歴史

平成27年5月15日 

壬申の乱を訪ねて4日目
   「難波宮って?」妄想 取りまとめ −1− 回目

     令和3年1月28日  追記補正

 平成27年5月 歴史探訪 最終日です。

 大津駅前スーパーホテルで、とても気持ちのいい目覚めを
迎えれました。これは、昨夜の大学時代の旧友との、とても
楽しい飲み会のお陰です。
 旧友とは、実に四十五年ぶりの再会で、お互いの変わりように
驚き、笑い合えました。お互いの人生「半世紀」をなんの
わだかまりも、躊躇もなく語り尽くせました。
こんなに楽しくて、心いい飲み会は生まれて初めてでした。
 思えば、サラリーマン時代の同僚との飲み会は、
「上司の悪口、会社へのグチ」を一生懸命に大きな声で、
喋り合い、でも、妙に心にブレーキをかけながら変な
駆け引きをしながら、薄っぺらな見栄を張って、飲み続けて
過ごしていたんだなと、初めて気がつきました。



 今日は、天智天皇の後継者、大友の王が、瀬田の唐橋での
最終決戦に負け、大半の家来の兵が自分を見捨てて、逃げて
行ってしまって、あとに残ってくれた、ほんの僅かな
供連れで、山崎まで落ち延びて行った跡を辿りました。

 コースは、途中までは大海人皇子が、大津の宮から、吉野へ
都落ちした道順で、宇治の六地蔵から、鳥羽を越え、
桂川を越えて、天王山の麓の、山崎で、自ら命を
絶ったとのことです。

 ここで、今回の、「壬申の乱を訪ねて。」は終わりです。

 移動距離 兵庫県川西市から 550km 



 京都の山崎で、淀川沿いの眺めの良い、喫茶店があったので、
昼のサービス定食を頼み、「難波宮って?」で始めた、
今までの数々の旅行を、振り返ってみました。

 定年後の歴史探訪。淀川の流れを見ながら、
ここで一度自分の妄想を、取りまとめてみました。

 定年後、幾らでもある自由時間を使い、図書館に通い、
古代日本史の関連書を読みアサリ、
「へーそうだったんだ。」と、自分の知識の無さをにあきれ、
私の歴史認識では、「天岩戸などの神話時代」は別にして、
「大仙御陵などの仁徳天皇」ぐらいからは、間違いない
こととして、既に、確定された歴史として 決まっている
ものと思っていたし、まして大化の改新以降に作られた。
「難波の宮」等の日本史は決まり切っている、ことと思って
いました。ところが、関係ありそうな本を読めば読むほど、
確信がボケてきて、そうじゃないんだよ、という説が
いくつもあり、これでは、学校の教科書にどの説を、
どう載せるのかが難しいと思え、
「だから、日本史の教科書が通り一辺の、
 記載で面白くなかったんだ。」
と思い知らされました。
 すぐ分かる事と思っていた、「難波の宮」が何故、大阪の
上町台地でなければいけなかったのか。
何故、都が飛鳥から、大阪に移って来たのか?
 何故、難波の宮から、また元の飛鳥に変わったのか?
 適格な答えが記載された書籍に巡り合っていません。
 飛鳥に変わって、この後に起こる、朝鮮三国の内乱に
巻き込まれて、世界最強最大の唐に、無謀にも戦いを挑み、
百済の白村江で、惨敗してしまった。
その事は史実として、日本書紀にはもちろん、相手方の、
唐の正式書籍にも記載されていて、兵員数や船舶の数等に、
それは違うだろうと思われる、大袈裟な数値があるに
しても、歴史的事実として、充分納得できました。
 唐と、新羅の連合軍が、勢いに乗って、倭国へ攻め込んで
来るのでは無いかという恐怖から、朝鮮に一番近い、博多の
大宰府を防衛するために、その近くに水城、大野城、等の
防衛用の山城を多く造ったこと。
 敵が太宰府の守りを破って、畿内まで攻めこまれたとき、
飛鳥の宮の防衛が弱いため、飛鳥の宮を捨て、近江に
大津宮を作り遷都した。と云われる意見、説が多いの
ですが、本当に、唐の倭国への侵略侵攻を想定したの
でしょうか??

 この疑問の答えを求めて、私は、定年後、警備の
アルバイトで、軍資金(小遣い)を貯め、九州太宰府の旅、
今回の「壬申の乱を訪ねて」の旅を行いました。

 九州太宰府の旅では、水城の圧倒的な規模、防御性の凄さに
驚嘆し、これだけの物を造ることの凄さと、是が非でも、
造らなければならない、切迫感が伝わるようでした。
 大きな堤が、九州高速道路を貫いて真っ直ぐに延びていく
その異様さ、まさに、水城は日本の万里の長城と思えました。
 太宰府の後ろのに築かれた、大野城は、その想像以上の、
規模と計画的な防御性に驚かされました。
大野城の山の中に、田畑まで備え、太宰府が攻めらても、
大野城に逃げ込み、何年でも、持ちこたえて見せると言う
意気込みが感じられるようでした。
 大野城は、朝鮮式山城と説明を受けましたが、弥生式末期の
高地性集落に通じる物を感じてしまいました。

「難波宮」跡を見に行て、大極殿跡の基段の上に登って、
ずうっと先を望めば、まるで、遥か向こうから、三韓の
使者が貢ぎ物を持ってやって来るのが手に取るように
見えるような、引き込まれるような感覚を覚えました、
 港(浜)に近い解放感が沸き起こるのですが、逆に、
海に余りに近く、戦いには余りに、向いていない宮で
あったと思えました。
 この、引き込まれるような感覚は、訪ねた、九州の
太宰府跡でも、奈良の藤原の宮跡でも、平条京跡でも、
感じられ、今回の「壬申の乱」探訪でも、
「大津の宮」跡で感じられるのかと期待していたのですが、
大津市歴史博物館で見た「大津の宮」跡の想定図では、
その規模の大きさが、唐の侵略を恐れて、急場凌ぎに
作られたにしては、想像以上だったのですが、大津京の
想定範囲の中で、調査発掘場所が飛び飛びで余りに
少なく、規模も小さく(6LDKの少し大きい宅地分ぐらい)
それを感じられる事が出来ないと言うか、そもそも全体を
見渡す場所すらなくて、とても残念でした。

 「壬申の乱」を旅行するとき、当時の歴史を勉強しようと、
色々な参考図書を読んだのですが、どの文献も、結局、
「日本書紀」を基本に据え、その記述が正しい、間違って
いる、歪曲している等と、論説されており、
「壬申の乱」までは、日本の歴史の参考に出来る文字と
しての史料が無いためだと分かりました。
 そこでやっと、気づいたんです。
「あれ、俺って、「日本書紀」を読んだっけ?」
「えーと、高校の時、日本史の授業で。‥‥‥?」
 いや、習った記憶が無い。
「日本書紀」「古事記」は日本の歴史書の基本中の基本、
バイブルですよね。
「この辺の歴史に興味がある人は、
 日本書紀を読んでみることを進めます。」
の一言を、
社会科の先生からお聞きしたかったものです。
 今の、日本史の授業ではどう教えられているんだろう?
「茜さす 紫野行き 標野行き
 野守りは見づや 君が袖振る」
をどんな風に教えてもらって
いるのだろう?
そうして、日本書紀の内容はどの様に記載されているんだろう。

「やはり、日本書紀は家の本棚に要るな。」の結論。
 図書館にはどんな本があるんだろうと、下見。
 古事記の解説書は多くありましたが、日本書紀は少なく、
図解本や、解説本が多く、まさか、漢字だけの原本は読める
はずもなく、現代文に訳された本と言うことで、
「日本書紀」I II III 井上光貞 監訳 笹山晴生 訳 
中央公論新社発行書を借りました。
 原文に忠実に記載構成されており、丁寧な現代文で記載され、
注約も私のような素人にも分かり安く、多く付け加えられて
いました。
残念なのは、字が小さいため、乱視が進んできた、私の眼には
少しキツいものでした。

「大きな本屋に行って、探してこようっと。」
先ず、大阪梅田の、旭屋書店へ。
「あっ! 店の規模を縮小して、専門書フロアーは
 無くしてしもたんや。」

また、「壬申の乱を歩く」を買った、紀伊國屋に行こうかと、
日本史コーナーを見てきました。簡単本、漫画本、
注解図入り本、ばかりで、全文記載本は見当たりませんでした。
古事記の解説本は幾冊も有ったんですが。出版業界は、
日本書紀よりも、古事記のほうに、重きを置いている
ようだなと、思ってしまいました。
「 オーイ、日本人が日本の歴史書である、
 日本書紀を買い求めてはいけないのか??」

少し苛立っています。
「鬱陶しいおっさんやなー。今時、ネット
(インターネットショッピング)で、直ぐ買えるやんか。」

 (関西弁)
「カッタルイ爺だなー。今は、ネットで直ぐに
 手に入るじゃんか。」
(江戸弁ならこんな感じ?)
専門書は書店で、手に取って、いろいろ見比べて
買いたいんだけれど、日本では今やこれが、贅沢になって
しまったのかなー。さみしいね。

 今回の、「壬申の乱」を訪ねてで、強く思ったのは、
「やはり、その場所に行って、この目で見る事によって、
 頭で想像していた事と、違う物が見えてくる。」

ということでした。

 1日目の、「大津の宮」の大きさ、そして、その場所。
唐が攻めてくることを前提に作ったんだなと、素人の
私にも分かってしまう程でした。

 当時の切羽詰まった、天智天皇の倭軍はこんな戦況を
想定したんじゃあないでしょうか?

(1) 唐の巨大軍船が、九州博多に1万人規模で攻めてくる。
 まず水城、大野城などで、くい止め、防衛体制を
 構築する時間を稼ぐ。

2) 博多が潰されたら、唐軍は船で関門海峡から、瀬戸内海に
 入って来るだろうけれど、白村江の戦いで、倭軍の
 主体になった、瀬戸内海地区、安芸地区の兵力は、
 完全に疲弊しているため、戦力として期待出来ない。

 白村江の戦いでハッキリした、軍船の大きさ構造の
 違いのため、船同士の戦いでは、太刀打ちできず、容易く、
 瀬戸内海を通過され、大阪湾に入り込まれる。

(3) 上陸してきた場合は、難波の宮を拠点に、河内、
 飛鳥の豪族の兵を動員し、淀川右岸への上陸、進入を
 封じる。

(4) 東国の兵を動員し、不破の関から、琵琶湖右岸を経由し、
 淀川の上流、山崎で淀川に侵入してきた唐の巨大軍船を
 待ち受け、山崎より上流は水深が浅くなるため、
 船が進めなくなり、やむなく上陸しようとする
 唐兵を待ち伏せ攻撃する。
 東国の兵は後の「壬申の乱」で2万人を集めたと
 書かれているので、おそらくそれ以上の兵力を
 期待したのでしょう。

(5) 山崎の戦況が不利なときは、大津京から、琵琶湖左岸を
 北に上り、敦賀に逃れ、東国を目指す。

 日本書紀に、東国の信濃に、宮を移設する為の調査をして
 いる事が、書かれており、真剣に遷都を想定したの
 じゃあないかと、思われます。
 そこまで、切羽詰まっていたのでしょうね。

 ただ、壬申の乱までに、唐に侵略された様子は
 ありませんよね。

 後で、日本書紀を読んで、壬申の乱が始まるきっかけの、
 天智天皇の崩御の際、二千人以上の唐の使節団が
 九州太宰府に来ていたようで、崩御を伝えると、
 代表者の郭務そうは喪服を着け、三度亡き人を送る
 礼をしたと。書かれていました。これを、
 どう理解したらいいのでしょうか?



 紀行文の中に。

(これから、桑名間での話の入力は、これで3回目の入力です。なぜか、途中で入力文章が消えてしまいます。こう書いておけば、大丈夫だろう。)

 壬申の乱の紀行文を、書き始めてから、何かおかしい。
「5月の旅行の事を、何時まで掛かっているんだ!」と
お叱りを頂戴しそうなのですが、この紀行文を書こうと
すると、思わぬ、トラブルが襲いかかるのです。

トラブル1:構文作成に乗って、1ページ程保存するのを
忘れていると、突然タブレットがフリーズ。
入力済み文章が‥__

トラブル2:メインのディスクトップPCが、突然起動
しなくなった。
 2年前 定年退職の前の正月に、おそらくこれが最後
だろうと、小遣いをはたいて買った、自作パソコンが、
電源を入れても起動しない。しかし、冷却ファンは
回っている。CPU、メモリー、ハードディスク、最後に、
電源コンセント、異常なし。お手上げ。仕方なしに、
大阪日本橋に安い中古ディスクトップを探しに。
 出費金2万円 まーPCって安くなったよね。新品でも、
5万円出せば、かなりの高性能が手に入る。
 現役時代から、30年余り、パソコンにはまり、小遣いを
貢いできた私が。何か寂しい気持ちになったのが
ご理解いただける方は、多分、多いはず。
 1万8千円で中古の DELL を購入。
店員さん「ベースはVISTAですが、
 WIN7をハードディスクに入力していますから、
 立ち上げて設定してください。」

「はいはい、PCの立ち上げは、会社の分を入れると
 100台以上やってますから大丈夫です。」

 家に帰って、立ち上げ、初期設定、プロデュースキー入力、
「この製品は、不正商品です。」
えっ?? 直ぐにその画面は消え、
設定画面継続。???
 設定終了。WIN7 平常に動作。
 WIN10へのバージョンUP案内が、いつまで待っても
まだ出ません。 ブログ作成をさせない為の「祟り」か?



追記

  何故か、予期しない、煩わしい、トラブルごとが
続いています。
 誰の怒りか? 取りあえず、お詫びをするため、
鎮魂のお参りを企画しました。
 8月13日~15日 天智天皇稜、天武天皇持統天皇陵の
参拝をしました。
 その惨憺たる紀行を近日中に報告します。

 そのブログの作成が、凄い傷害の続出で、取り掛かれません。



「壬申の乱」を訪て 1日目 へ飛ぶ。



 平成27年5月13日
「壬申の乱」を訪ねて 2日目



 平成27年5月14日
「壬申の乱」を訪ねて 3日目



「額田王姫へ、君が袖振る」
  恋歌 ⇒ 反戦歌です。



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 すみません。私は、理系出身で物を知らないド素人の定年組みです。記載内容に、非常識な内容、不快な表現等があるかと思いますが、何卒ご容赦いただきますようお願い申し上げます。ご指摘頂けましたなら、早急に訂正変更いたしますので、ご指摘、ご指導お願いします。 記載内容に多少の大袈裟や、特に会話記載に省略や脚色を加えております。老人の戯言と、ご容赦下さいね。



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