ハニワ製造工場 探索
秋の連休、古代史散策 1日目
新池 ハニワ工場公園 に行きました 。
日本中の古墳をイロドリ、当時の人々の映像を私達にリアルに興味深く伝えてくれている、ハニワが、どの様な場所で、それを作ってくれていた、職人さんが、なにを思い、何に苦労して作っていたのかを、その心を、少しでも見たくてやって来ました。
今城塚古墳にあった、両手を空に突き上げた巫女の自信に満ちた顔、力士の自信に満ちた顔。西洋の写実的な石像でなく、今の悟空の漫画に通じる、表現力。創った職人たちの、後世の千年先、千五百年先の、私達に伝えたかった心を探しに。
太田茶臼山古墳から、車で、5分程で到着しました。
ここから、今城塚までもやはり、5分程で両方の塚(ユーザー)にとって都合がいい場所に作られていると思えました。
やはり、駐車場はなく、公園の入り口は道幅が広く、ご迷惑をお掛けしないようでしたので、停めさせてもらいました。
ハニワ工場間は正面入口から開場していました。
ハニワ工場から太田茶臼山古墳と今城塚が見えました
ハニワ工場公園の入り口
ハニワを焼いた釜跡 下から上に焼いていく 登り釜構造
登り釜の下入り口
登り釜の上の排気口
ハニワ工場公園から、太田茶臼山古墳 今城塚古墳が見えました。
南方面のパノラマ
向かって右手に、太田茶臼山古墳、左手に、今城塚がみえます。
公園の道沿いに、イラスト漫画の案内があり、分かりやすくハニワと今城塚が説明されていました。
ハニワ工場公園全景モデル
工房跡が前期と後期で位置が違っており、釜の構造も違っているとの事
ハニワ工場館
ハニワ工場館内部 展示
ハニワの年代順が説明されており、前期の太田茶臼山古墳向け、後期の今城塚古墳向け、それにその他地方向けも製作されていたとのこと。
そうすると、ここが、製造拠点で日本中に。高槻 茨木地区は現代も、パナソニック、明治製菓、サンスター、ミノルタ、丸大食品、等が国道幹線沿いに集中する地区であり、昔から、この時期から、そういう場所だったのか!
当時の、淀川の移動手段がいかに大事だったかと、考えさせられます。
新池ハニワ工場公園を見て、あの謎が、大きく心へ。
年代的に、今城塚が継体天皇陵なら、太田茶臼山塚はだれの塚??
1) 太田茶臼山塚のほうが、1世紀ほど古い。
継体より1世紀以前の天皇は、仁徳あるいは、その子...?
2) 大きさ:太田茶臼山塚 墳丘長さ226m 高さ19.8m
今城塚 墳丘長さ190m 高さ不明
(盗掘、地震の為に崩れているため)
後世の天皇が塚を造るとき(生前から造り始めたらしい)、「側に今ある、塚よりも大きくしたい。」と思うんだけれど。側にある塚の主が、敬意を払わなければならない人物だったら....。
と言うことは、やはり、仁徳あるいは、その子...?
3) ハニワが同じ工房
今の感覚で、同じ墓石屋に製造依頼をすることは、少なくとも、敵対関係、また、無縁の種族でないと思われ、勘繰りから、100年前よりもいい材質で、より楽しいデザインのハニワを作ってくれると思った。あのマワシをしたユーモラスなお相撲さん、両手を空に突き上げて、恐妻家が逃げ出しそうな、しっかりした顔のお巫女さん、を見て、自己満足出来た。その相手。仁徳あるいは、その子...?
4) 大王が住んでいる宮との距離
塚を在位中に造り始めたのだから、進行状況を見に行ったり、死後に遺族が、本葬、年供養等をするのだから、近い方がいい。
でも、百舌鳥大仙陵と、当時の都、難波高津の宮はかなり離れており、淀川を船で行けば、茨木の太田茶臼山塚はそれほど、遠くなかったのじゃないかな。
色々、図書館やネットで勉強して見ても、専門家は、より難しく(よりややこしく)、説明していただいており。この解明は、両塚の発掘調査すれば、いいんだろうけど、宮内庁の対応から、今世紀中に結論は出ないんじゃないかな。
淀川沿いを遡り、大山崎から、木津川沿いを奈良へ。今回のメイン、奈良正倉院典、再度7枝刀見物へ。
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