CubとSRと

ただの日記

戦後教育を受けた我々は、まず知らない話

2022年10月10日 | 心の持ち様
 「ロシア人はいい人ばかりだけれど、国としては信じられないくらい残虐非道なことをする」
 
 ロシア民謡は大好きだ。朴訥で心の温かさを感じるメロディーはロシア人の心情からあふれ出てきた彼らの心そのものなんだろう。
 でも、最初に書いたようなロシアに対する感想は昔から多くの人に持たれていたと思う。

 「それは帝政ロシアだったからで、支配者に全ての問題がある。何しろ『農奴』で成り立っていた国だから。学問・教養のない彼らは支配者に従うしかなかった」
 ということで、社会主義革命によってソ連邦が成立した。これからは農奴だった『労働者階級』が主役だ。
 ・・・のはずだったが、共産党が新たな支配者となっただけだった。
 いやいや。そんなことはない。・・・そんなことはない?
 共産党は『支配者』ではない?農奴の国を率いようとした指導者層は、「まずは新たな国づくりを」と、労働者階級を国民に仕立て上げることはできたのか?できていれば、そこからも新たな指導者が輩出されるはずだが。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・
  
77年前の苦い歴史と国守る使命
━━━━━━━━━━━━━━━
    【正論】 ジャーナリスト・井上和彦 


 ロシアによるウクライナ侵略が始まって以来、北方領土や北海道の近海で軍事演習を行うなど、ロシアは日本への威圧行動も活発化させている。こうした侵略行為や威嚇は、日本人に忘れかけていたロシアの脅威を想起させている。

 いとも簡単に約束を反故(ほご)にし、民間人虐殺、略奪、婦女暴行、強制連行など、現在のウクライナで行われているロシアの蛮行は77年前にわが国が経験した苦い記憶と重なって見える。

 [身を挺して使命を全う]
 昭和20年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、満州や樺太 の国境を越えて軍事侵攻を開始した。南樺太でも日本軍はソ連軍を迎え撃って勇戦敢闘したが、数多(あまた)の民間人が犠牲となった。終戦後も停戦交渉のために派遣された日本軍の軍使を射殺するなど、ソ連軍は話し合って矛を収める気などなかったのである。

 8月20日には、樺太・真岡郵便電信局で、女子交換手たちは避難疎開を断って業務を続け、最期は服毒して9人が亡くなった。この悲劇の中で忘れてはならないのが、彼女たちが命を賭して職責を最後まで全うした使命感であろう。

 ウクライナ戦争におけるロシアの侵略に対して、戦わずして逃げる選択肢も重んじるべきだとの意見も散見される今日の日本で、終戦後も身を挺(てい)して同胞を守り抜いた軍人と、真岡の女子電話交換手のことを思わずにはいられない。

 悲劇はさらに続いた。
 樺太から女性らを中心に北海道への疎開が行われたのだが、終戦から1週間後の8月22日、疎開船3隻「小笠原丸」「第二号新興丸」「泰東丸」がソ連軍潜水艦の攻撃を受けて2隻が沈没し、合わせて1708人が死亡 する大事件が起きた。「三船殉難事件」だ。

 「泰東丸」は白旗を掲げ、戦う意思のないことを示したがソ連軍は攻撃を続け同船は沈没、667人が死亡した。ソ連は国際法を守る国ではなかったのだ。
 このソ連の蛮行はウクライナで人道回廊を設置しながらも避難民を攻撃するロシア軍の姿にダブって見える。

 [三船殉難事件と占守島の戦い]
 ところがこの三船殉難事件は、あまり知られていない。一方、沖縄戦前、米潜水艦の攻撃を受け1484人が犠牲となった学童疎開船「対馬丸」撃沈事件はよく知られている。同船が撃沈されたのは昭和19年8月22日で、偶然にも1年後の同じ日に樺太からの疎開船の悲劇が起きた。この認知度の差の背景には、真岡の乙女の悲劇を描いた映画『樺太1945夏 氷雪 の 門』の上映がソ連の抗議によって妨害されたように、ソ連に共鳴する当 時の日本の左派勢力の工作が見え隠れする。
そして忘れてはならないのが、占守(しゅむしゅ)島の戦いだ。

 終戦から2日後の8月17日、千島列島最北端の占守島にソ連軍が上陸を開始した。これに対して樋口季一郎中将は「断固反撃に転じ、上陸軍を粉砕せよ」と下令、戦車第十一連隊を率いる連隊長・池田末男大佐は部下に問うた。
 「諸子はいま、赤穂浪士となり恥を忍んでも将来に仇を報ぜんとするか。あるいは白虎隊となり、玉砕をもって民族の防波堤となり後世の歴史に問わんとするか」
 池田大佐は戦車で日の丸を握りしめて突進し、大戦車部隊があとに続いた。総数64両の大戦車部隊がソ連軍を蹂躙(じゅうりん)したのである。

 樋口季一郎記念館の資料によると、ソ連軍の戦死行方不明者は4500人、日 本軍の死傷者は600人だった。当時のソ連のイズベスチャ紙も「占守島の戦いは、満州、朝鮮における戦闘より、はるかに損害は甚大であった。8 月19日はソ連人民の悲しみの日である」と記した。こうした日本軍の徹底抗戦の姿勢がソ連の北海道占領を断念させたのだった。
 まさにロシア軍を押し返しつつあるウクライナ軍は、占守島の戦車第十一 連隊を彷彿(ほうふつ)させる。

 [国守った人々を忘れず]
 私は、占守島の戦いに参加した3人の戦車兵に話 を聞いた。
 97式中戦車の機関銃手だった神谷幾郎伍長は「私たちは、『国のために』と思って戦いました」と語り、少年戦車兵だった綱島正巳伍長は「軍人として当たり前のことをしただけです」と謙虚な姿勢を貫いた。同じく小田英孝伍長は戦闘の様子を語り終えるや「万が一の時は自衛隊の古い戦車をよこしてくれたら、いつでも俺は行くよ」と胸を張った。こうした人々が日本を守ってくれたのである。

 そして今、「国のために戦うか」という問いに、肯定の答えが対象約80カ 国の最下位という不名誉な日本で、かつての戦車第十一連隊の「十」と「一」を組み合わせた「士」のマークを陸上自衛隊第11戦車隊が引き継 ぎ、「士魂」の文字を砲塔に描いて北海道の護(まも)りについてくれている。

 だが国の護りを自衛隊だけに負わせて安堵(あんど)していてはならない。ウクライナ戦争は、憲法9条の無力さを思い知らせ、日本が辛酸をなめさせられた歴史を想起させている。今こそ国を守ることの大切さを学校 教育に堂々と盛り込むべきではないだろうか。(いのうえかずひこ)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
  松本市 久保田 康文 

産経新聞令和4年10月7日号採録


 わたなべ りやうじらう のメイル・マガジン
               頂門の一針 6284号
□■■□──────────────────────────□■■□
       
        2022(令和4年)年 10月9日(日)より
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする