Noosphere<精神圏>

進化の途上にある人間、これからどう発展するのか。

この世界にある不安

2015-12-30 09:47:40 | 現代と不安

人類は、言語、民族、宗教や習慣など、いったんは地球上で多様に広がったけれども、現代では科学技術の進歩によって、互いの距離が近くなり、その精神が1つに収束する傾向にあります。互いがより連携して人類の進歩に役立つことが選択され、皆が協調して先に進むことが約束されているはずです。何らかの特権グループが他の人たちを支配するという構造ではなく、何10億もの人たちが協調し、それぞれの個性を生かしてすばらしい未来を作っていく必要があります。

しかし今、現実の世界は国家や民族が軍事とか経済で何らかの争いが絶えず行われ、それに対して、ほとんどの大衆は無気力を強いられています。ここに不安が起こってきます。ここで問題にする不安という言葉は、突発的な事件に対する恐怖とか、個人が生活物資の不足や何らの危機にあることを言っているのではありません。「宇宙的な流れ」の中で「生物学的」な苦悩を表現するために使っています。自分たちが生きる世界の深い真理を捜し求めようとする人たち、何かをつかむ感覚が優れた人たちにも、そういう不安があるかもしれません。

人間はその知性によって、宇宙に生命が存在し進化のメカニズムがあることに気がつきました。また人間はその知性によって、先を予測でき、発明することで社会を変えてきました。この流れを考える際に、あまり強調されていないポイントがあります。それは「道徳的」な危険に対するものであり、2つの側面を持つ不安です。まず、何でも考え行動できる自由が生じたことから、それを無軌道に開放できる危険に対する不安があります。しかし同時に、本当にこれで良いのかと考え、突然深夜に目覚めるような、心理学的パニックに陥る不安もあります。この2番目のもの、進歩に伴う悪あるいは少なくとも苦痛と呼べるものが、人の意識の上昇過程において「生物学的に」予測されます。この問題を以下の2つの項目で要約します。

 

1. この不安は時間の経過によって消滅していくものではなく、ある種の発作現象のように世の中に広がっています。自分たちだけのことを考えるグループが、利益を独り占めにして、優位となる技術や知識を公開せず、情報を混乱させて分断を図り、金や権力によって他を支配しようとしているのであれば、旧来の支配構造の継続であり、人類の進歩に反するだけでなく後退していることになります。本当に、こんな状況があるのならば、私たちは正しい方向に進んでいるのかと不安になります。そして、取り残された私たちは、この地球で残るべき人類なのか、という不安が起こってきます。

2. すなわち今の状況は、人類の進歩の観点から見て、例外的な状況であり、正しい道を進んでいないと批判される状況ではないか、という疑いがあることです。これを正すためには、生物学的な進化の経路を辿り、科学的な心によって、開かれるべき進路を考え「安心」できることが必要です。「種の存続」には客観的な条件があり、この宇宙を心理学的に認識することで、先に向かって定向進化的な収束をもつ構造を理解することで解決できるのではないか、と考えます。

それでは、これらの点について考察してみましょう。

 

不安の起こり(初期のもの)

知的な存在となった人類にとって、世の中に直面して「自分自身に気づく」という意識は、初期の普遍的な苦悩であり、人の誕生とともにある本質的なものです。しかし、これはまだ進んだ形態というわけではありません。その意識が最初に現れたときから、私たちは注意し批判的になって、それをゆっくりと良く考え理解しながら、個人と集団の両方で発展してきています。そうするなかで、この世の中で生きていく不安が、徐々に強さを増してきたと同時に、人間は個人として、自分の足元が失われるような感覚を持つようになっています。この感覚は、人類が生物の種として生き残ってきた事実の中で、心理学的に避けられないドラマチックな明暗を背景にしている、はっきりと合理的に認識できるものです。

社会が未発達な段階の共同体においては、そこに初期的な共通意識が存続していることを民族学者は注目していますが、社会がより文明化してくると、個人の意識が目覚めてきたと見なすことができます。過去には、まだ差別化のある社会構造のなかで、一部の特権をもつ市民が、人権の尊重や自主性を増加させる傾向を表し、いくたびかは無政府主義の方向さえもありました。この傾向が近代になって「民主主義」の起こりによって明確になっています。

人類が何十万年も存続し試行錯誤による進歩の後でも、15世紀から20世紀の西側世界にあったように、自分たちだけが優位とする支配構造のなかに閉じていて、人間自体の価値とか権利が、より鋭い感覚で意識される尊厳にまで至っていませんでした。しかも、人々がやっと自分自身(個人としての人間の価値)を見つけたと思った、そのまさに瞬間に、その上そう感じさせるような状況において、この世の中に取り残されていると感じ始めることがあります。

個人が1つの要素として、自分自身を無意味と感じさせるような、恐れとか不安が起こってきています。物質の世界あるいは人の社会においても、個人が決してそんなに重んじられることもなく、またそれほど十分に理解されていない不安です。これについて、物質的な面と人間に直面することについて考察したいと思います。

 

宇宙の巨大さ

初めに最も大きな衝撃となって圧倒しているのは、宇宙が巨大であることです。その捉えられない次元のものすごさを考えると、十分な迫力で私たちに迫ってきます。その昔地球が、まわりの星の整然とした動きの中心に置かれている、と信じられていたときには、星の輝く天上はまだ穏やかな賞賛をもってながめていられました。しかし、このすばらしい天体システムが私たちの見方からはずされて、私たちが観測する空間が拡張し爆発的に広げられて、私たちは何万光年とか銀河のことを計算し始めています。そこに天文学的な極端な大きさが現れてきて、その巨大さが説明され、より精密になった映像を見ていると、そこにある検知できない微小な星々の集まりに埋もれて、私たち個人が絶対的な無意味さに気力をなくしそうになる感覚があります。私たちがこの巨大さという、はるかに圧倒する大きさの中で、単に無視されてしまうのではないかと感じます。私たちが経験によって知っているように、宇宙が現代の心に最初に苦悩を吹き込んだ、その巨大さの影の部分は疑いがありません。

しかも、この初期の精神不安の原因は、もう1つのより微妙で危険なもので強化されます。宇宙がそれ自身私たちの経験として「閉ざされたシステム」として現れているからです。閉ざされているという感覚は、宇宙があまり大きく「多数」なので、私たちはその中に消えてしまうという感覚のことです。私たち自身が微小なことによって、大海に失われていると感じるだけでなく、さらにその中に閉塞的に閉じ込められていて、しかも個人が失われているならば、もっと深刻であると思います。

 

現在の物理学や数学の限界

最近になって私たちは、時間と空間の認識という、経験上の次元的な事実として、急激に「不可能」の問題に遭遇しています。(生物学でも物理学でも)歴史的事実として、現実の状況の方向がどこで終端となるのか、究極を見出すことができないことです。宇宙の始まり、空間や時間について、あるいは素粒子について、すべてが正確に説明できていません。一方、精神的な意味では、私たちの心は、毎日失敗を繰り返して後戻りをさせられる状況にあって、上とか先にあるべき何らかの汎人間とか超人間に、直接接触するような現象へ介入できないという不可能があります。

ちょうど多くの報われない行為の後で、物理学者が素粒子の空間での絶対的な位置と動きを、決定する望みがないと最後にはあきらめたように、私たちはより広い心の分野で、必然性のある方向へと、私たち自身の考えを変更する必要があります。あらゆる真実を探求する観点において、私たちはすべての方向において、あたかもベールで隠されたかのように、生命の発生が直接に影響したポイントや、人間の現象が実証的に生じた点はわかっていません。つまり私たちは、始めも終わりも明確にできていません。

 

囚われていること

それゆえ、宇宙の巨大な大きさを考えると、物理的にも精神的にもそこに囚われて、私たちはその束縛から決して生きて逃れることができないように包まれています。この束縛や窒息という感覚は、私たちを破滅させるかのように、内部からあらゆる瞬間に現れてきて、混乱と崩壊をもたらそうとしています。それは巨大であり、閉じており、ついには恐怖になります。これはフロイトによって注目されていたことです。コペルニクスの改革から始まった地動説は、世紀を越えた流れとして、継続的に人の心に対して、より「非中心化」を感じさせてきています。これは自分が宇宙の中心でないとする感覚です。最初は天文学から、この「非中心化」が起こってきましたが、生命の領域である生物学や、人間自身の内面を研究する心理学でも起こってきています。しかし、見方を変えることによって、この無意味なものへと消えていくような印象が、正しく訂正されるだけでなく、積極的な逆転となることを示したいと思います。

 

しがらみの数々

現代人が最も苦悩を感じる経験として、彼が勇気と時間をかけて、何かを発見しようとするとき、彼自身のまわりの世界を見て、すでに決まりきった慣習とか伝統として続いたことが、精神という名のもとに「しがらみ」となって、無数の触手のようにからみあい、まさに個々の心の中で自由を束縛する苦悩そのものとして浸透しています。過去には、私たち自身は、完全に自分自身を管理できている、あるいは少なくとも自分の存在は完全に自分にあると確信していました。私たちの知性や意志において、私たちは私たち自身のまったくの主人であると、かなり単純に考えることができました。

そして今、科学によって身体の物質を情け容赦なく分断して分析が進み、私たちのもっとも精神的と考えられていた複雑なことが、微妙な神経線維(大脳)による複雑な相互作用であると見なし始めています。しかし、内面の相互関係は、あらゆる角度から見ても、理解の範囲を超えて、とんでもなく複雑な機能や未知の部分が次から次へと出てきて、私たちの制御や解明から逃れようとしているかのようです。それゆえ、見通すことができない不明瞭な対象には満足な結果を出せないので、その以外の制限のないところにあるもの、つまり心とか精神に関係することは取り除こうとします。そうして、現代の科学は、すべての凝視から、私たち自身の最も内側の深さにある、人間そのものを排除し追い払うようになっています。

それはまるで、私たちの本能的な行動は、不明瞭で見えないことからは目をそらして、他人の陰に紛れるように、人々に混じって安全なシェルタに隠れてしまう動きに見えます。しかしこの結果だけを見ても、そのときでさえも、そこに私たちの苦悩が理解できます。私たちは、そこにくつろぎが感じられると考えているかもしれません。しかし、そこで待っているのは、しがらみから逃れられないのと、まさしく同じ亡霊です。そこには偉大なる外側世界があるという幻想が、私たちをそこに向けさせるため前に立ちはだかるように待っています。

この地球の光景は、過去の世代では、ちょうど天国を思いめぐらすように、何か穏やかでくつろいだものと信じられたかもしれません。何千年の歴史、また生命の何百万年の歴史が、希望もなく失われるという感覚は、確かに持つべき理由はありません。しかし現代では、内省の積み重ねによって、非情な制約が集約してきたことで、私たちの社会に奥深い変化が起こっていて、最も大衆的な側面からそれを見たときにさえ、何かがゆがめられていることに気づきます。以前は少なくとも親しみ慣れた人々の間においては、釣り合いの取れない次元の世間でさえも、物事は引き続き存在すると考えることができました。私たち自身の努力によって築かれ守られた明晰さや個性は私たちのものであるはずでした。しかし、最も身近に思われる関係にもうごめいている、見通せない側面を見て、人々は逆に奇妙な困惑した側面を持ち始めています。確かに状況は悪化してきているように見えます。この原因として、数の多さ、不透明さ、侵略的非個性化という、私たちの心に不安を抱かせる3つの宇宙的特徴を認めることできます。

 

3つの不安

1つ目は数の多さです。私たちは、極端に大きな群集に直面して、1人を見失う感じをもつ機会はめったにありません。しかし容赦ない統計数字が私たちにより一層はっきりと示していることです。人間の数が増える勢いは、この惑星上で2011年に70億を越え、人間は互いにくっつくように生きており、全体の人口動向の計算からは、地球の限られた表面に行きかう人の数は、まもなく100億に達するとも見積もられています。この人口増加をざっくりと考えてみると、過去の方向の長さでは、その増加量は比較的すぐに減少することに気づきます。しかし、未来の方向では急速な拡張となります。そして、私たちはこの100億なるものを良く考え理解しようとすると、この数の大きさに直面して、個人の価値や現実性がまったく崩壊してしまうのではないかという感覚になってしまいます。

2つ目に不明瞭さです。前にも指摘したように、私たちの心のすべてに広がっている、先が見通せないベールのために、うろたえてしまう感覚を起こさせます。しかしそれ以上に、私たちが世界にどうしようもなく囚われていると感じていることにさえも、しかるべくして正当な理由があることに(憤慨して)気づいて、しかも私たちはそれに異質なものを感じ、はっきり嫌悪するわけではなく、それは人々を非情にも互いに分け隔てています。いつの時代でも、人は常にはっきりしないことに悩んでいて、しかもそれほど急速に発展することはないので、私たちの世代では極端な個人主義と極端な自己反省から、内面的な隔離の意識を感じることが、確かにあるかもしれません。しかし、この宇宙ですべてが同時に閉じられていて、各々個人がそれぞれで不明瞭さの中に閉じこめられているとすれば、この人間の条件は、まさに悲劇というものです。

3つ目に非個性化ということです。これは、単に人の態度や礼儀で言われる、形式の一般化を意味するのではありません。人類がその要素としてあまりに多くなりすぎたことに気づいて、そこから発した非個性化へ向かう「悪意ある力」を意味しています。単純に私たちが見えなくなると感じる深淵ではなく、私たちが吸い込まれ、そして呑み込まれて個性を失って生きているとさえ感じる、巨大で猛烈な支配組織の構造にある深淵です。世界が全体化する過程で、そのすべての人間が影響されて、1人の人間が非個性化によって、1つの質量に変えられてしまう、と思える宇宙です。現実は、個々人がまだ動物の本能や原始的な共通意識から、精神的にそれほど成長していない状況にあって、その目の前に以前より別のもっと暗いトンネルがあるのが見えてきたことです。そして人をそこに運ぶ宇宙の流れから、逃れようとするには、個人はその力があまりに弱いということです。

 

不安への対処

私たちは、逃れられない暗闇に囚われていると感じるだけで、明るい日の光の中には出られないのでしょうか。そうならば、確かに私たちは、現代の実存主義的な不安に囚われています。しかし一方では、醒めた目でこの不安の現れをよく見定めて、そこですぐに物理学的、哲学的、道徳的に何かを見出そうとし始めるのではないでしょうか。ここでそれが罪になるのかどうか、はっきりしない感じからくるものは、間違いなく道徳的なものです。また、その不安のなかに、何かの間違いや、正しくないことがあるのではないかと、示唆するものを見出そうとするのではないでしょうか。そして、何かの対策や便宜を考え、何とかすることができるにちがいない、と思うのが本来の人間ではないでしょうか。

 

不安の解消と確信

将来の世界があるならば、それは考えられるべきもの、ということに誰もそれほどの疑いをもちません。知的でない狂信者が、無節操に排除するのでなければ、それはありえることです。これは、世界の存在そのものが、私たちの存在理由に対する積極的な保証です。その保証があって初めて、考えの対象としては十分であり、すべての特徴を実際に保有しているということです。これが、あらゆる真実の哲学がよってたつ基礎となります。そのとき、私たちは、一般的な方法で、物理学に適用する議論のように、同じ力の関係を、単に「考えられる」ということばを「生きられる」というように適用させられないでしょうか。つまり、私たち生命がこの世界に存在し、生命それ自身が包括して、自然に成長するという事実から、はっきりと結論を出すべきである、ということです。この生命がそれ自身の周りや、その中にすべてのものに見出されていて、私たち生命が意識し認識していることです。また生命の存在がなければ、どんな基礎(空気、食料、光等)があっても、この世界の存続は完全に無に等しい、という結論を導き出せるのではないでしょうか。それゆえ生命という存在には、一貫性があるということです。

存在と生命の全般的な相互関係を考えれば考えるほど、個人の必要条件という限界{個性の創造}に到達した、人間要素の場合において、私たちが宇宙で窒息しないようにする方法として認識できることが、1つあると確信します。それは、生命全体を含む世界の構造は、この宇宙の現実の客観的構造と共通であることです。これがまさに、実存的不安に対する特別な解毒剤として説明したいことです。それは「収束する」宇宙の特徴というものが再び安心させ、心を解放するということです。

私たちが分析を進めていくにあたって、多様性の形(活性あるいは非活性)に関して何ら特別の仮定はしていません。ここでは、人の意識がまわりに開かれていて、埋もれていることに気づいていることを考えます。序列のない巨大な多様性、あるいはその多様性が機能的あるいは静的に最も多様に配置されているとき、そこで私たちが考慮するすべては(そして実際に最初に現れるものすべては)、まわりの世界にある要素たちが、正とか悪とか清濁含めて盲目でランダムな動きにある、ということです。そうであれば、私たちの時間や空間で混乱に直面したときの困惑や不安とは、おそらく休みなき宇宙の動きのなかで、何らかの適応の失敗から導かれたことではないでしょうか。

 

解決への道

それでは、もっともらしい仮説を組み立てましょう。

生命の発展という現象から、多くの示唆することを考え合わせてみると、物理学で言われる宇宙空間の拡張する理論に反して、宇宙の物質自身は拡張する方向には沿っていないと仮定します。宇宙に含まれる物質の全体は、個々の生命を構成する物質として、その内部から、より複雑な統合の状態へと、収束の方向に積極的に揺れ動いています。そこで、生命の作用による複雑化する傾向に伴い、精神の内面性が増加するという、特別な効果を生じています。つまり、これは生命が収束する構造にあるということであり、これが事実であるなら、宇宙はランダムに爆発的な拡張にあるとはいえないことになります。拡散しているどころか、この宇宙にある生命は、複雑化して意識が上昇するという内部的な構造によって、そこに何らかのある種の宇宙の本質によって、内省による統合を重ねて将来へと進歩しながら、究極的中心へと向かって収束していることになります。もしこれが真実であれば、物質の領域であっても、人間の領域であっても、私たちが不安の対象とした亡霊は、逆に輝きのなかで消えていきます。そこで不安は追い払われることになります。

これがどのように起こるか見てみましょう。

 

収束の道で起こること

1つ目に、宇宙は最初に盲目なる巨大さの衝撃によって、私たちを消し去るように思えました。これは森の深い所や大都会にいるような、その中で自分が何の価値もないという感覚です。そこで私たちは前に歩む道を、精神を失ったかのようにうろつくだけです。しかし、森や大都会にあっても、人間が通っていく道のまわりに、その本質として生命が進化してきた道を認め、宇宙の流れが放射するシステムを認める瞬間には、愛が呼び起こされ、そして恐怖による不安が消されていきます。その理由は、物質のつながりによって生命を生じさせたのは愛の力によるものであり、生命が組織を組み合わせて上昇させる力は愛そのものだからです。現在私たちが通る道が、荒れ果てた雑草がどんなに厚く茂っても、私たちが過ごす生活がどんなに暗くても、そこに他人の暖かさや友情そして互いの守りの連携が、この星の中心にあって、私たちを待ってくれているので、そこに至る道をもはや失うことはありません。

2つ目として、この宇宙は私たちに不可解さや不明瞭さによって、苦悩をおこさせています。その閉じた天井の下で、反応のない大衆の中にあって、狭い坑道の炭鉱夫が落ちてくる岩の重さの恐怖に戦慄を感じるように、私たちは取り残されていると感じます。しかしそこで、坑夫が頭上に一条の光を見たり、あるいは前方から彼に新鮮な空気の流れを感じさせる希望があります。世界が収束することで、同じ思いを持つ者どうしが、暖かさを生じ互いの協調によって、先が開いた道を取り戻せる希望です。私たちの先には2つの突破口があって、先の見えない鉄のカーテンと同時に、私たちを待っているもう1つの突破口が作られています。1つは現象の割れ目を越えて始めて見える突破口ですが、もう1つは互いの精神の内面的なもの{魂}を通して、他の人たちとつなぐ突破口です。この突破口を使って、ある日私たちは地下に埋もれた坑夫ではなく、人間として再び歓喜できる状況となります。

3つ目として、いろいろな習慣やしがらみの決定論が、物理学的、生物学的、精神的、社会的に、あらゆる瞬間で私たちを捉え巻き込んで、ときおり私たちの個性を忘れさせ混乱をおこさせる用意ができていて、この世の中は油断のならない冷酷な方法で、私たちを不安に陥れます。しかし、ここで再び、この不安はそれ自身で消え去ります。この宇宙に毅然として存在する生命進化に、固有に織り込まれた構造によって、私たちが以下の2つのことを認めるときに消え去ります。

1つは、私たちの意識の上昇が内省の最高点に達するとき、すべての混乱や不安定なことに対して、平衡や後退があるのではなく、持続的な統合に向かう先の状態にあることです。

もう1つは、この社会は全体の試練を通して、その精神が全員の一致する道にそって引かれていて、その道において私たちのそれぞれの個性は完成に向けて進んでいることです。

あらゆることを考えてみてください。この宇宙に生命を起こさせた力(愛の力)が、すべてに働いて私たちを充実させているのに、何を恐れるべきなのでしょうか。私たち自身が精神のまとまりの主流になっていくのであれば、それにはずれた一部のグループは存続ができません。この世界はまとまる方向に不可逆に進歩していきます。いわば、歴史におけるどの瞬間でも、これは人間の内省的な意識のとしてすべてに現れています。

 

端的に言えば、内省の現れが直接に不安の風を引き起こし、序列のない混乱とか多様な恐怖や怒りを生じることは避けられませんが、その同じ混乱させる多様があっても、いったん収束する方向が認められれば、その道に目覚めた人たちとともに、平和の風が世界中を通り抜けるのも避けられません。これには単純で奥深い理由があります。魂がともに一緒に集まる次元にある宇宙において、意識が研ぎ澄まされた心においては、どんなに不安があっても、「一緒になっていないもの」は私たちに不安を感じさせません。なぜなら、統合への道に対して異質で敵対することは、すなわち統合に対する忍耐の努力を強いられるからです。そして、統合に距離をおく「一緒になっていないもの」は後退します。繰り返して言うと、宇宙は私たちに不安を感じさせなくなります。しかし、ここでの変化で、より歓迎すべきことは、その巨大さは宇宙を著しく魅力的で愛すべきものにする傾向になります。究極的には、多様のレイヤが大きくなるほど、私たちを一緒にする流れが、必然的にすべてを包むような大きさになってきて、それに抵抗するすべての力に優り、私たちを吸い上げる渦巻きの中心化への強さが、より深い方向に約束されます。

いままで宇宙は暗く、冷たく、盲目的でした。しかしそこで光が当たり、暖かく、そして活性化します。魔術のように、物と人にあった不安が変えられて、実存的な愛の中へ平和へと逆転します。宇宙の引く力の中心は個性化することです。これを理解して、それを光栄であると知る人は、それ自身の超個性をもっているにちがいありません。ここで私たちは迷路から逃れて、苦悩から脱出します。そして自由になります。すべてのことは、この世界が中心とその心を持っているからです。そして、この変容にともない、以下のような結論が見えてきます。私たちの周りの現実を見ると、2つの論理的に可能な道が与えられています。1つは不安を通して窒息と麻痺へと確実に導く道です。もう1つは反対に、生きることへの情熱と同時に行動への衝動を生じさせる道です。ここで、この宇宙の2つの解釈の間で許されるべき躊躇はありません。

そして、これは単に道徳家や哲学者に適応されるのではなく、生物学者や物理学者にさえも適用されるべきことです。この世界の精神が組織的に収束することが、私たちに心の平和をもたらすという理由だけで、望ましいのではありません。私たちが日常的に空気で肺を満たすのと同じように、客観的に科学的に真実とみなされるからです。これが真実と思えるのは、それだけが私たちの意識にとって、真に生活できる雰囲気を生じさせるからです。この道だけが、この宇宙の構造と同質であるという理由によって、私たちが生きていかれるものだからです。人間という現象によって理解される、私たちの{生命}宇宙の方向が、間違いなく、その要素としての個人と全体を通して、より高いレベルにある「中心」での平衡を見つけるならば、そして、このプロセスが継続し最高になるには、私たち自身が全体として完全に中心化されたシステムになる以外には方法はありません。

 

Inspired from “A Phenomenon of Counter - Evolution in Human Biology or the Existential Fear” by Pierre Teilhard de Chardin.

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

情熱を持つ人類

2015-12-11 19:58:31 | 生命進化の方向

毎日の生活で、政治経済のニュースや心の問題などの話題を見たり聞いたりすると、まったく混乱とか不安を感じてしまいます。世界を大まかに概観すれば、国家どうしがうまく立ち回って、反抗する勢力を抑えて、自分の有利な立場で連携しようとしています。そこでは大衆が忘れ去られ、人間の社会が落ち着くところにおさまっていないと感じます。私たち個人が、どんなに控えめな生活をしていても、流れに巻き込まれてしまって、なるようにしかならないという気持ちで見ているしかありません。正直言って、この困惑させる現象には何の意味があるのでしょうか。そのような国家のいざこざは、国家の間のバランスをうまく取ればよいとする、表面的な調整だけのことなのでしょうか。

しかし、今日の状況を、時間と空間の次元において、よく観察してみると、社会の現象というベールに包まれたなかに、そこにいつも宇宙の基本的な動きが持続していて、もはや地球の表面で人が移動するとか国家が縮小拡大するような、単純な動きという形容は当てはめられないようにも思います。世界全体が揺れて混ざり合って、私たち個人もそこに巻き込まれて、集約する未来に向かって、より複雑に内面化するほうに進んでいる、とは考えられないでしょうか。この見方に立って考え直して見ます。

 

a. この世界には、基本的に生命が揺れならが上昇していく動きが見られ、この動きは人間において集団をつくり、そして社会全体が統合してきています。この動きは私たちの住む世界が、単に生きることができれば良いというのではなく、互いが仲良くなって、より良く生きるには、どの道を信頼して進めばよいかを、私たちに委ねているようです。実際にそれが何かといえば、多数の人たちにとって、生命の主流として期待できる道を、望みがある仲間たちと、共に歩むということではないでしょうか。

b. 生命が上昇する動きが必然であれば、それは一方向(不可逆)なものです。現在の世界の状況は、技術の進歩や社会が集約することから生じる圧力と、地球に独自の特性と知性の傾向が結びついて、そこに覚醒している心が一緒にあるはずです。地球という惑星の囲いにある私たちは、そこから退散できる方法はないし、今私たちが投じられている環境を拒否する手立てもありません。

c. そうはいっても理論的には、この強制された状況から逃れる手立てがないことはありません。自由という概念を拡張し、自分だけの自己自身の組織化を開発し、宇宙の動きの圧力に合わせることも可能と思われます。その場合は、自己の統合について、かなり活性化した情熱を持つ必要があることになります。同時に、今の状況を超えようとする情熱が、より鋭敏に集中しなければ、宇宙の動きによる圧力のすべてが、結びつけていた力を失わせ、バラバラにしてしまうのは目に見えています。そして、まさにこのことが、昨今では統合への「慣習的な抵抗」という状況になって、はっきりと現実に表れています。地球全体からかかってくる圧力の増加が、強く鋭くなったことに対して、抵抗する個人や国家の反応は、自己の周りに線を引くことであり、周りと距離を保って利己主義を標榜する、先がない自暴自棄に陥ることになります。

 

以上のことから、現時点での人類の置かれている位置は、以下のように概観できるように思います。

地球のエネルギー枯渇や食料の確保、あるいは温暖・寒冷や乾燥化などの問題が、まことしやかに広く言われていますが、これらのことは、的を得ていない、主体のない亡霊のようなものに思われます。それらを言う前に忘れられていることを強調したいと思います。まずその前に、人間はより良く進歩するために、行動や知識への情熱を持続できる、精神エネルギーがどこから生じるのか見出し、そのエネルギーを育成し発展させる必要があるということです。たとえ、食料が山と積みあげられ、豊富な原料の貯蔵があり、申し分のない環境にあっても、精神エネルギーが枯れてしまえば、人間は発達をやめて破滅に向かうでしょう。人間の行動や知識への情熱は、より大きく成長し進歩するための前提とすべきであり、ここに心の統合の源があります。人類の背後にある動きは、行動や知識への情熱についての「献身」を、全面的に要求し続けています。人がそれを信じられないとすれば、その人は現代の基本として要求されるべき、他人との統合に向く力を、自らに行使することは決してないでしょう。その人は、毎日のニュースや出来事に耳を塞ぎ、他人との会話で心が和むこともなく、新しい経験や体験に熱中することもないでしょう。ここで「献身」という言葉の意味することは、夢中になること、それに情熱をもって熱中することです。

 

そうした見方で、以下の人間の外面と内面にあることについて整理して考えてみたいと思います。1つには私たちの周りの状況についてのことであり、もう1つは、互いがより強く引かれる状況にあって、私たちの精神は、どのように共に調和していくべきなのか、ということです。言い換えると、それは生命体としての成長を完成させるために、本質的に必須となる「熱意の人類」を発展させ維持するために必要なことです。この客観的と主観的な条件について考えてみます。

 

I. 客観的条件

 「熱意の人類」に客観的な条件については、以下の2つのことを考えて見たいと思います。

自分を統合させようと熱意を持っている人、あるいは属している社会の出来事の価値や重要性から、その統合を情熱的に信じて目指す人にとって、この宇宙の動きには、「先がある」ことと、「中心化する」ことが理解されている、という条件があります。

a.最初に、「先がある」とは、どんな条件なのでしょうか

例えとして、鉱山で働く労働者たちが、上部の地層が崩壊して孤立し、救助用トンネルを使って地上に戻ろうとしているのを想像してください。彼らの上部の通路は塞がれているので、上へ向かっては逃れないのは明らかです。彼らは、何らかの手がかり(1条の光がさすとか上から空気の流れがあるなど)を信じて、脱出に必死になって努力するでしょう。もし、このような越えられない壁に直面した時に、人並みはずれた能力と特別な知識を持つ者だけが、ある何らかの動機の力を得て、自身を超えた人類の統合の実現に成功できると言われれば、前に進もうと奮い立つ気持ちも理由もなくなります。

以前の天文学や生物学の成果では、人間は必然的に地球の物理化学的な制限内に全く囚われて、その進歩は完全にこの制限に依存していると考えられていました。しかし、生命そのものが不可逆的に進み人間が内省(思考)を得たという、宇宙発生の衝動にあっては、その制限や依存は全く相容れないものです。未来が予測可能になった生命体が、自身の前進の道を自分で止めることさえなければ、何らの障壁や限界で行き止まりを感じるはずがありません。

この宇宙の動きには先があるということです。そして、先に前進する道の存在を、何らかの方法で探し、それを可能にしようとするはずです。それが究極までに発展したとき、全体としての死を逃れる勝利を手にするはずです。これは難破船の乗員が何とかして助かる状況ではなく、すべての本質的に重要なものが豊かになり、すべてを勝ち取った状況です。そして、ここに付随する条件として、それは2番目の本質ともいえる条件ですが、単に先があるとするだけでなく、実際にそうであると考えられなければなりません。

b. 次に、人間は未来の方向に、より中心化することです。これはすなわち、より個性化するという条件です。

結晶化する分子たちが、もし感覚があり会話できたならば、自分のシステムに共通しない組み合わせを強いられるのは、確実に拒絶するでしょう。合わないものに統合することは、自身を「殺す」のと同じことになるからです。同様に、意識(中心化)が高い程度にまで達した人間は、他の人間たちと集まって統合する際に、もしこの個々を統合する集合が、それぞれ個別の小さな中心たちの、あらゆる個性(他に直接伝達されないもの)を、尊重していなければ、そこにある個人は統合の作用には耐えられません。

その人間が、どのように惑星の圧力で圧縮されていようとも、いくら社会が個人を規制のない状況においたとしても、個性化する力が形成されない限り、人間はその社会の方向に反逆します。個人それぞれが持つ特性が認められなければ、必然的に反逆するしかありません。ここで個性を形成する力は、見えない感じられない集約に向かうのではなく、内省する人間が集まり、そこで共通に生まれた心が共有されて連携していくものです。言い換えると、そこは明確に収束していく「中心化する」システムがあります。

惑星内の人間たちが統合するには、「先がある」ことと「中心化する」という条件があれば、私たちはそれを意識しながら受け入れることができると予想されます。そうなれば、個々の人々にとって、統合に向かう変化を拒絶する理由は、もはやありません。

そうすると、もし人間がその魅力的な力に気づいて、強いて積極的になろうとすると、その人は何をする必要があって、今何が足らないのでしょうか。これらの外面的な条件が、どのように心へと結びついていくのでしょうか。この問題を、心理学的あるいは精神分析学的な面で考えます。

 

II. 主観的条件

私たちが色やにおいを評価しようとする際には、その前に良い光景や良い香りを知っている必要があります。同様に、物事の本質においてその緊急性が要求されるような、人間を超えようとする情熱を経験する際に、私たちがそれほど気づいていないけれども、すでに十分に発達しているにちがいない、ある確かな「感覚」があります。

ここで1つの比較が、この状況をより明確にする手助けになるかもしません。あらゆる人間が、子供から大人への成長において、「性の目覚め」と呼ぶ感覚を経験します。最初はぼんやりとした経験で、よくわからないものですが、その力は人の成長の心理学的主要な部分を、徐々に形成するもので一貫性があるものです。このほとんどの人間が体験する、「思春期の危機」を通過するということの、心理学的な必要性と同じことが、人類全体として見て、今この世界で、多くの示唆として実際に現れ感じられるのではないでしょうか。

人間が、その最も本質的な思慮について、個人から人類全体へと重力の中心が徐々に移動してきています。現代の時点で人間が人類として、自身の永遠性について、必要とされる能力とか義務の増加に直面して、「どうすればよいか」という思いが増しているのではないでしょうか。「先がある」ということは、人間の進歩を後退させられない、人類は前に進むべきとする「不可逆」という感覚の起こりを意味します。

また国際連盟や国際連合のように、人間はしばしば全体が協調しようとすることに魅力を感じ夢中になっています。しかし最近になって、地球だけでなく宇宙の巨大さや組織がより理解されてくると、全体があってその部分としての要素という感覚が、人類の意識の中で一般化する傾向があります。その全体とは、私たちが混ざりあって、正体のわからない大きな海に溶け込むようなものではなく、むしろ互いが連携する力強い1つの焦点として、私たちを充実させ集中させていく、本質的なものになる変化のことです。これが「中心化する」ことです。

進歩したものは後退できないという明確な感覚は、この宇宙の正しい感覚に思われます。この新しい感覚あるいは人間の能力は、宇宙的なものであり、いままでは多かれ少なかれ私たちのなかで眠っていたものです。今まで私たちは、目に見えない宇宙発生のリズムに従って、まさにこの段階にまで達しています。もし生命が今後も続いていくならば、よりいっそう進歩に対して情熱的であり、内省による新たな創造が生まれてくるはずです。

 

ここで、精神分析や潜在意識についての専門家に提案したいことがあります。いままでの精神分析はまず第1に個人の認識に関するものであり、それは人の深くにある忘れられた印象、ある隠れた複雑性ということを見出すものでした。いったんこれらの抑制や複雑さが開かれて受け入れられると、現実の光の中で消え去るということが、経験で確認できます。この一度きれいに溶かす仕事が終わった後で、より構造的でより重要な仕事があります。それは、自分たちがまだよく認識していない、まだ完全に明確ではないけれども、私たちが感じる(逆行できない感覚、地球の感覚、人類の感覚、宇宙の感覚)を復号化する、という仕事を支援してもらいたいと思います。これは治療として何かをもたらすためではなく、人間自身の中に見つけるべきものを読み出すことです。ここでは何かを取り除くのではなく、私たちの中で抑えられている(あるいは私たちが押さえ込んでいる)もの、まだ明確に理解されていない、本質的で偉大なる要求を満足させるもの、人間に一貫性を与えてその方向に向かせるものを読み取る必要があります。これは明らかに充実した仕事です。なぜなら制限や欠陥を見出すのではなく、私たちを活性化する精神的ダイナミズムの、最も隠された動機の力を明らかにするからです。

端的に言えば、いままで精神分析はもともと医療の観点から、個人の治療への扱いに関心がもたれていましたが、その治療だけではなく、人間自身のメカニズムの解明にも寄与することになります。これを人間の精神エネルギー発生に関する研究において、惑星の全体が統合する過程にある社会集団に応用する必要があると思われます。

 

話を戻して、進歩に逆らえない感覚と、宇宙が巨大という感覚の、2つのことを考えてみると、心や意識の研究や問題に携わる人々の仕事だけを考えても、先がないようなことは拒否する要求が現われ、特定の領域の知的な表現だけでなく、宇宙的な構造を極めたい気持ちによって活性化する要求が現われてきています。そのとき、確かにこれら2つの本質的な情熱を人々に開かせ、あらゆる人の心に組織的にそれを培うことが、どんな仕事よりも急がれるのではないでしょうか。

まさにこの時点で世界が、いくつかのブロックに分かれているのは、確かに奇妙な分裂です。そして、何らかの力の対立よりも、もっと深い理由の真実を知りたいとするなら、またかつての偉大なる分裂の歴史から学べるどんな力の争いよりも、奥深い理由を知りたいとするならば、まだ言葉によって意志を交流する以前の、互いに矛盾する原初の人間の信条の中にあった、全体の統合と個々の自由の間で、まだ決定できていないことが、まだ残っていることになります。もしこの分析が正しければ、分裂した状況に苦悩しているなかで、地球が待っているものは、宇宙的に探し期待しているもの、進歩を求める感覚ということになります。

ここで再び強調して言いますと、世界の未来は、私たちが今見たように、人類は何らかの社会の統合によって固く結ばれていくはずです。それは究極的に私たちを完全な生命へと導く確かな力において、その中心における自由な役割に依存しています。その力がなくては、すべての科学、すべての技術がその動機を失ってしまいます。

今この地球世界の目の前にあることは、あまりに複雑で大きく活性化する動機に燃えながら、統合の完成に向かうあらゆる作用が用意されていることです。しかし、それは1つの条件でのみ機能することになります。それは、もし私たちがそのメカニズムを完成しようとするならば、それに正確に適合した燃料のタイプとその質を見出さなければならないことです。

言い換えれば、もし人間が支配する地球がまだ今日その動きを決めていないとすれば、そして明日にも止まってしまうという危険があるならば、これは単に十分なる地球的ビジョンが不足していることになります。進歩に向かう不可逆の道に反して外れるものに対し、いっそう大きな努力によって、それに対応するビジョンが生じなければなりません。

こういった状況においては、人類は未来に増加する部分、主要となる部分に注意を向ける必要があります、もちろんテクノロジーとしての技術を否定することなしに、その過程において互いに手をとって進む努力において、精神的エネルギー(考えることを生じた宇宙において、物理的エネルギーの影にある本質的なもの)を維持し発展させることに注意を向けなければなりません。まさに真に高貴な、宇宙の全体的な「自由」の探求と開発に集中する必要があります。

これが結論として導かれることです。それは、未来の信頼される世界への準備であり真髄です。そして、これは忘れてはいけないことですが、そういった信頼の兆しや要素、本来あるべき現実について、単純に心理学的な見方において、いかなる信条的な思慮とは関係なく、宗教の役割があると思います。道徳や個性についての信条の正しい教えのなかに、精神的なエネルギーが、はっきり現れているように思います。

ここでピエールが強調していることは、精神的な流れによって、世界に対して情熱的見方を保持し、より鋭くしていること、非個性的で閉じたものでなく、個性があって開かれていて、先の未来に神聖な中心に向かうことについて、キリスト教こそが、精力的であり現実的であるとしています。

 

Inspired from “The Psychological Conditions of the Unification of Man” described by Pierre Teilhard de Chardin.

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする