人類は、言語、民族、宗教や習慣など、いったんは地球上で多様に広がったけれども、現代では科学技術の進歩によって、互いの距離が近くなり、その精神が1つに収束する傾向にあります。互いがより連携して人類の進歩に役立つことが選択され、皆が協調して先に進むことが約束されているはずです。何らかの特権グループが他の人たちを支配するという構造ではなく、何10億もの人たちが協調し、それぞれの個性を生かしてすばらしい未来を作っていく必要があります。
しかし今、現実の世界は国家や民族が軍事とか経済で何らかの争いが絶えず行われ、それに対して、ほとんどの大衆は無気力を強いられています。ここに不安が起こってきます。ここで問題にする不安という言葉は、突発的な事件に対する恐怖とか、個人が生活物資の不足や何らの危機にあることを言っているのではありません。「宇宙的な流れ」の中で「生物学的」な苦悩を表現するために使っています。自分たちが生きる世界の深い真理を捜し求めようとする人たち、何かをつかむ感覚が優れた人たちにも、そういう不安があるかもしれません。
人間はその知性によって、宇宙に生命が存在し進化のメカニズムがあることに気がつきました。また人間はその知性によって、先を予測でき、発明することで社会を変えてきました。この流れを考える際に、あまり強調されていないポイントがあります。それは「道徳的」な危険に対するものであり、2つの側面を持つ不安です。まず、何でも考え行動できる自由が生じたことから、それを無軌道に開放できる危険に対する不安があります。しかし同時に、本当にこれで良いのかと考え、突然深夜に目覚めるような、心理学的パニックに陥る不安もあります。この2番目のもの、進歩に伴う悪あるいは少なくとも苦痛と呼べるものが、人の意識の上昇過程において「生物学的に」予測されます。この問題を以下の2つの項目で要約します。
1. この不安は時間の経過によって消滅していくものではなく、ある種の発作現象のように世の中に広がっています。自分たちだけのことを考えるグループが、利益を独り占めにして、優位となる技術や知識を公開せず、情報を混乱させて分断を図り、金や権力によって他を支配しようとしているのであれば、旧来の支配構造の継続であり、人類の進歩に反するだけでなく後退していることになります。本当に、こんな状況があるのならば、私たちは正しい方向に進んでいるのかと不安になります。そして、取り残された私たちは、この地球で残るべき人類なのか、という不安が起こってきます。
2. すなわち今の状況は、人類の進歩の観点から見て、例外的な状況であり、正しい道を進んでいないと批判される状況ではないか、という疑いがあることです。これを正すためには、生物学的な進化の経路を辿り、科学的な心によって、開かれるべき進路を考え「安心」できることが必要です。「種の存続」には客観的な条件があり、この宇宙を心理学的に認識することで、先に向かって定向進化的な収束をもつ構造を理解することで解決できるのではないか、と考えます。
それでは、これらの点について考察してみましょう。
不安の起こり(初期のもの)
知的な存在となった人類にとって、世の中に直面して「自分自身に気づく」という意識は、初期の普遍的な苦悩であり、人の誕生とともにある本質的なものです。しかし、これはまだ進んだ形態というわけではありません。その意識が最初に現れたときから、私たちは注意し批判的になって、それをゆっくりと良く考え理解しながら、個人と集団の両方で発展してきています。そうするなかで、この世の中で生きていく不安が、徐々に強さを増してきたと同時に、人間は個人として、自分の足元が失われるような感覚を持つようになっています。この感覚は、人類が生物の種として生き残ってきた事実の中で、心理学的に避けられないドラマチックな明暗を背景にしている、はっきりと合理的に認識できるものです。
社会が未発達な段階の共同体においては、そこに初期的な共通意識が存続していることを民族学者は注目していますが、社会がより文明化してくると、個人の意識が目覚めてきたと見なすことができます。過去には、まだ差別化のある社会構造のなかで、一部の特権をもつ市民が、人権の尊重や自主性を増加させる傾向を表し、いくたびかは無政府主義の方向さえもありました。この傾向が近代になって「民主主義」の起こりによって明確になっています。
人類が何十万年も存続し試行錯誤による進歩の後でも、15世紀から20世紀の西側世界にあったように、自分たちだけが優位とする支配構造のなかに閉じていて、人間自体の価値とか権利が、より鋭い感覚で意識される尊厳にまで至っていませんでした。しかも、人々がやっと自分自身(個人としての人間の価値)を見つけたと思った、そのまさに瞬間に、その上そう感じさせるような状況において、この世の中に取り残されていると感じ始めることがあります。
個人が1つの要素として、自分自身を無意味と感じさせるような、恐れとか不安が起こってきています。物質の世界あるいは人の社会においても、個人が決してそんなに重んじられることもなく、またそれほど十分に理解されていない不安です。これについて、物質的な面と人間に直面することについて考察したいと思います。
宇宙の巨大さ
初めに最も大きな衝撃となって圧倒しているのは、宇宙が巨大であることです。その捉えられない次元のものすごさを考えると、十分な迫力で私たちに迫ってきます。その昔地球が、まわりの星の整然とした動きの中心に置かれている、と信じられていたときには、星の輝く天上はまだ穏やかな賞賛をもってながめていられました。しかし、このすばらしい天体システムが私たちの見方からはずされて、私たちが観測する空間が拡張し爆発的に広げられて、私たちは何万光年とか銀河のことを計算し始めています。そこに天文学的な極端な大きさが現れてきて、その巨大さが説明され、より精密になった映像を見ていると、そこにある検知できない微小な星々の集まりに埋もれて、私たち個人が絶対的な無意味さに気力をなくしそうになる感覚があります。私たちがこの巨大さという、はるかに圧倒する大きさの中で、単に無視されてしまうのではないかと感じます。私たちが経験によって知っているように、宇宙が現代の心に最初に苦悩を吹き込んだ、その巨大さの影の部分は疑いがありません。
しかも、この初期の精神不安の原因は、もう1つのより微妙で危険なもので強化されます。宇宙がそれ自身私たちの経験として「閉ざされたシステム」として現れているからです。閉ざされているという感覚は、宇宙があまり大きく「多数」なので、私たちはその中に消えてしまうという感覚のことです。私たち自身が微小なことによって、大海に失われていると感じるだけでなく、さらにその中に閉塞的に閉じ込められていて、しかも個人が失われているならば、もっと深刻であると思います。
現在の物理学や数学の限界
最近になって私たちは、時間と空間の認識という、経験上の次元的な事実として、急激に「不可能」の問題に遭遇しています。(生物学でも物理学でも)歴史的事実として、現実の状況の方向がどこで終端となるのか、究極を見出すことができないことです。宇宙の始まり、空間や時間について、あるいは素粒子について、すべてが正確に説明できていません。一方、精神的な意味では、私たちの心は、毎日失敗を繰り返して後戻りをさせられる状況にあって、上とか先にあるべき何らかの汎人間とか超人間に、直接接触するような現象へ介入できないという不可能があります。
ちょうど多くの報われない行為の後で、物理学者が素粒子の空間での絶対的な位置と動きを、決定する望みがないと最後にはあきらめたように、私たちはより広い心の分野で、必然性のある方向へと、私たち自身の考えを変更する必要があります。あらゆる真実を探求する観点において、私たちはすべての方向において、あたかもベールで隠されたかのように、生命の発生が直接に影響したポイントや、人間の現象が実証的に生じた点はわかっていません。つまり私たちは、始めも終わりも明確にできていません。
囚われていること
それゆえ、宇宙の巨大な大きさを考えると、物理的にも精神的にもそこに囚われて、私たちはその束縛から決して生きて逃れることができないように包まれています。この束縛や窒息という感覚は、私たちを破滅させるかのように、内部からあらゆる瞬間に現れてきて、混乱と崩壊をもたらそうとしています。それは巨大であり、閉じており、ついには恐怖になります。これはフロイトによって注目されていたことです。コペルニクスの改革から始まった地動説は、世紀を越えた流れとして、継続的に人の心に対して、より「非中心化」を感じさせてきています。これは自分が宇宙の中心でないとする感覚です。最初は天文学から、この「非中心化」が起こってきましたが、生命の領域である生物学や、人間自身の内面を研究する心理学でも起こってきています。しかし、見方を変えることによって、この無意味なものへと消えていくような印象が、正しく訂正されるだけでなく、積極的な逆転となることを示したいと思います。
しがらみの数々
現代人が最も苦悩を感じる経験として、彼が勇気と時間をかけて、何かを発見しようとするとき、彼自身のまわりの世界を見て、すでに決まりきった慣習とか伝統として続いたことが、精神という名のもとに「しがらみ」となって、無数の触手のようにからみあい、まさに個々の心の中で自由を束縛する苦悩そのものとして浸透しています。過去には、私たち自身は、完全に自分自身を管理できている、あるいは少なくとも自分の存在は完全に自分にあると確信していました。私たちの知性や意志において、私たちは私たち自身のまったくの主人であると、かなり単純に考えることができました。
そして今、科学によって身体の物質を情け容赦なく分断して分析が進み、私たちのもっとも精神的と考えられていた複雑なことが、微妙な神経線維(大脳)による複雑な相互作用であると見なし始めています。しかし、内面の相互関係は、あらゆる角度から見ても、理解の範囲を超えて、とんでもなく複雑な機能や未知の部分が次から次へと出てきて、私たちの制御や解明から逃れようとしているかのようです。それゆえ、見通すことができない不明瞭な対象には満足な結果を出せないので、その以外の制限のないところにあるもの、つまり心とか精神に関係することは取り除こうとします。そうして、現代の科学は、すべての凝視から、私たち自身の最も内側の深さにある、人間そのものを排除し追い払うようになっています。
それはまるで、私たちの本能的な行動は、不明瞭で見えないことからは目をそらして、他人の陰に紛れるように、人々に混じって安全なシェルタに隠れてしまう動きに見えます。しかしこの結果だけを見ても、そのときでさえも、そこに私たちの苦悩が理解できます。私たちは、そこにくつろぎが感じられると考えているかもしれません。しかし、そこで待っているのは、しがらみから逃れられないのと、まさしく同じ亡霊です。そこには偉大なる外側世界があるという幻想が、私たちをそこに向けさせるため前に立ちはだかるように待っています。
この地球の光景は、過去の世代では、ちょうど天国を思いめぐらすように、何か穏やかでくつろいだものと信じられたかもしれません。何千年の歴史、また生命の何百万年の歴史が、希望もなく失われるという感覚は、確かに持つべき理由はありません。しかし現代では、内省の積み重ねによって、非情な制約が集約してきたことで、私たちの社会に奥深い変化が起こっていて、最も大衆的な側面からそれを見たときにさえ、何かがゆがめられていることに気づきます。以前は少なくとも親しみ慣れた人々の間においては、釣り合いの取れない次元の世間でさえも、物事は引き続き存在すると考えることができました。私たち自身の努力によって築かれ守られた明晰さや個性は私たちのものであるはずでした。しかし、最も身近に思われる関係にもうごめいている、見通せない側面を見て、人々は逆に奇妙な困惑した側面を持ち始めています。確かに状況は悪化してきているように見えます。この原因として、数の多さ、不透明さ、侵略的非個性化という、私たちの心に不安を抱かせる3つの宇宙的特徴を認めることできます。
3つの不安
1つ目は数の多さです。私たちは、極端に大きな群集に直面して、1人を見失う感じをもつ機会はめったにありません。しかし容赦ない統計数字が私たちにより一層はっきりと示していることです。人間の数が増える勢いは、この惑星上で2011年に70億を越え、人間は互いにくっつくように生きており、全体の人口動向の計算からは、地球の限られた表面に行きかう人の数は、まもなく100億に達するとも見積もられています。この人口増加をざっくりと考えてみると、過去の方向の長さでは、その増加量は比較的すぐに減少することに気づきます。しかし、未来の方向では急速な拡張となります。そして、私たちはこの100億なるものを良く考え理解しようとすると、この数の大きさに直面して、個人の価値や現実性がまったく崩壊してしまうのではないかという感覚になってしまいます。
2つ目に不明瞭さです。前にも指摘したように、私たちの心のすべてに広がっている、先が見通せないベールのために、うろたえてしまう感覚を起こさせます。しかしそれ以上に、私たちが世界にどうしようもなく囚われていると感じていることにさえも、しかるべくして正当な理由があることに(憤慨して)気づいて、しかも私たちはそれに異質なものを感じ、はっきり嫌悪するわけではなく、それは人々を非情にも互いに分け隔てています。いつの時代でも、人は常にはっきりしないことに悩んでいて、しかもそれほど急速に発展することはないので、私たちの世代では極端な個人主義と極端な自己反省から、内面的な隔離の意識を感じることが、確かにあるかもしれません。しかし、この宇宙ですべてが同時に閉じられていて、各々個人がそれぞれで不明瞭さの中に閉じこめられているとすれば、この人間の条件は、まさに悲劇というものです。
3つ目に非個性化ということです。これは、単に人の態度や礼儀で言われる、形式の一般化を意味するのではありません。人類がその要素としてあまりに多くなりすぎたことに気づいて、そこから発した非個性化へ向かう「悪意ある力」を意味しています。単純に私たちが見えなくなると感じる深淵ではなく、私たちが吸い込まれ、そして呑み込まれて個性を失って生きているとさえ感じる、巨大で猛烈な支配組織の構造にある深淵です。世界が全体化する過程で、そのすべての人間が影響されて、1人の人間が非個性化によって、1つの質量に変えられてしまう、と思える宇宙です。現実は、個々人がまだ動物の本能や原始的な共通意識から、精神的にそれほど成長していない状況にあって、その目の前に以前より別のもっと暗いトンネルがあるのが見えてきたことです。そして人をそこに運ぶ宇宙の流れから、逃れようとするには、個人はその力があまりに弱いということです。
不安への対処
私たちは、逃れられない暗闇に囚われていると感じるだけで、明るい日の光の中には出られないのでしょうか。そうならば、確かに私たちは、現代の実存主義的な不安に囚われています。しかし一方では、醒めた目でこの不安の現れをよく見定めて、そこですぐに物理学的、哲学的、道徳的に何かを見出そうとし始めるのではないでしょうか。ここでそれが罪になるのかどうか、はっきりしない感じからくるものは、間違いなく道徳的なものです。また、その不安のなかに、何かの間違いや、正しくないことがあるのではないかと、示唆するものを見出そうとするのではないでしょうか。そして、何かの対策や便宜を考え、何とかすることができるにちがいない、と思うのが本来の人間ではないでしょうか。
不安の解消と確信
将来の世界があるならば、それは考えられるべきもの、ということに誰もそれほどの疑いをもちません。知的でない狂信者が、無節操に排除するのでなければ、それはありえることです。これは、世界の存在そのものが、私たちの存在理由に対する積極的な保証です。その保証があって初めて、考えの対象としては十分であり、すべての特徴を実際に保有しているということです。これが、あらゆる真実の哲学がよってたつ基礎となります。そのとき、私たちは、一般的な方法で、物理学に適用する議論のように、同じ力の関係を、単に「考えられる」ということばを「生きられる」というように適用させられないでしょうか。つまり、私たち生命がこの世界に存在し、生命それ自身が包括して、自然に成長するという事実から、はっきりと結論を出すべきである、ということです。この生命がそれ自身の周りや、その中にすべてのものに見出されていて、私たち生命が意識し認識していることです。また生命の存在がなければ、どんな基礎(空気、食料、光等)があっても、この世界の存続は完全に無に等しい、という結論を導き出せるのではないでしょうか。それゆえ生命という存在には、一貫性があるということです。
存在と生命の全般的な相互関係を考えれば考えるほど、個人の必要条件という限界{個性の創造}に到達した、人間要素の場合において、私たちが宇宙で窒息しないようにする方法として認識できることが、1つあると確信します。それは、生命全体を含む世界の構造は、この宇宙の現実の客観的構造と共通であることです。これがまさに、実存的不安に対する特別な解毒剤として説明したいことです。それは「収束する」宇宙の特徴というものが再び安心させ、心を解放するということです。
私たちが分析を進めていくにあたって、多様性の形(活性あるいは非活性)に関して何ら特別の仮定はしていません。ここでは、人の意識がまわりに開かれていて、埋もれていることに気づいていることを考えます。序列のない巨大な多様性、あるいはその多様性が機能的あるいは静的に最も多様に配置されているとき、そこで私たちが考慮するすべては(そして実際に最初に現れるものすべては)、まわりの世界にある要素たちが、正とか悪とか清濁含めて盲目でランダムな動きにある、ということです。そうであれば、私たちの時間や空間で混乱に直面したときの困惑や不安とは、おそらく休みなき宇宙の動きのなかで、何らかの適応の失敗から導かれたことではないでしょうか。
解決への道
それでは、もっともらしい仮説を組み立てましょう。
生命の発展という現象から、多くの示唆することを考え合わせてみると、物理学で言われる宇宙空間の拡張する理論に反して、宇宙の物質自身は拡張する方向には沿っていないと仮定します。宇宙に含まれる物質の全体は、個々の生命を構成する物質として、その内部から、より複雑な統合の状態へと、収束の方向に積極的に揺れ動いています。そこで、生命の作用による複雑化する傾向に伴い、精神の内面性が増加するという、特別な効果を生じています。つまり、これは生命が収束する構造にあるということであり、これが事実であるなら、宇宙はランダムに爆発的な拡張にあるとはいえないことになります。拡散しているどころか、この宇宙にある生命は、複雑化して意識が上昇するという内部的な構造によって、そこに何らかのある種の宇宙の本質によって、内省による統合を重ねて将来へと進歩しながら、究極的中心へと向かって収束していることになります。もしこれが真実であれば、物質の領域であっても、人間の領域であっても、私たちが不安の対象とした亡霊は、逆に輝きのなかで消えていきます。そこで不安は追い払われることになります。
これがどのように起こるか見てみましょう。
収束の道で起こること
1つ目に、宇宙は最初に盲目なる巨大さの衝撃によって、私たちを消し去るように思えました。これは森の深い所や大都会にいるような、その中で自分が何の価値もないという感覚です。そこで私たちは前に歩む道を、精神を失ったかのようにうろつくだけです。しかし、森や大都会にあっても、人間が通っていく道のまわりに、その本質として生命が進化してきた道を認め、宇宙の流れが放射するシステムを認める瞬間には、愛が呼び起こされ、そして恐怖による不安が消されていきます。その理由は、物質のつながりによって生命を生じさせたのは愛の力によるものであり、生命が組織を組み合わせて上昇させる力は愛そのものだからです。現在私たちが通る道が、荒れ果てた雑草がどんなに厚く茂っても、私たちが過ごす生活がどんなに暗くても、そこに他人の暖かさや友情そして互いの守りの連携が、この星の中心にあって、私たちを待ってくれているので、そこに至る道をもはや失うことはありません。
2つ目として、この宇宙は私たちに不可解さや不明瞭さによって、苦悩をおこさせています。その閉じた天井の下で、反応のない大衆の中にあって、狭い坑道の炭鉱夫が落ちてくる岩の重さの恐怖に戦慄を感じるように、私たちは取り残されていると感じます。しかしそこで、坑夫が頭上に一条の光を見たり、あるいは前方から彼に新鮮な空気の流れを感じさせる希望があります。世界が収束することで、同じ思いを持つ者どうしが、暖かさを生じ互いの協調によって、先が開いた道を取り戻せる希望です。私たちの先には2つの突破口があって、先の見えない鉄のカーテンと同時に、私たちを待っているもう1つの突破口が作られています。1つは現象の割れ目を越えて始めて見える突破口ですが、もう1つは互いの精神の内面的なもの{魂}を通して、他の人たちとつなぐ突破口です。この突破口を使って、ある日私たちは地下に埋もれた坑夫ではなく、人間として再び歓喜できる状況となります。
3つ目として、いろいろな習慣やしがらみの決定論が、物理学的、生物学的、精神的、社会的に、あらゆる瞬間で私たちを捉え巻き込んで、ときおり私たちの個性を忘れさせ混乱をおこさせる用意ができていて、この世の中は油断のならない冷酷な方法で、私たちを不安に陥れます。しかし、ここで再び、この不安はそれ自身で消え去ります。この宇宙に毅然として存在する生命進化に、固有に織り込まれた構造によって、私たちが以下の2つのことを認めるときに消え去ります。
1つは、私たちの意識の上昇が内省の最高点に達するとき、すべての混乱や不安定なことに対して、平衡や後退があるのではなく、持続的な統合に向かう先の状態にあることです。
もう1つは、この社会は全体の試練を通して、その精神が全員の一致する道にそって引かれていて、その道において私たちのそれぞれの個性は完成に向けて進んでいることです。
あらゆることを考えてみてください。この宇宙に生命を起こさせた力(愛の力)が、すべてに働いて私たちを充実させているのに、何を恐れるべきなのでしょうか。私たち自身が精神のまとまりの主流になっていくのであれば、それにはずれた一部のグループは存続ができません。この世界はまとまる方向に不可逆に進歩していきます。いわば、歴史におけるどの瞬間でも、これは人間の内省的な意識のとしてすべてに現れています。
端的に言えば、内省の現れが直接に不安の風を引き起こし、序列のない混乱とか多様な恐怖や怒りを生じることは避けられませんが、その同じ混乱させる多様があっても、いったん収束する方向が認められれば、その道に目覚めた人たちとともに、平和の風が世界中を通り抜けるのも避けられません。これには単純で奥深い理由があります。魂がともに一緒に集まる次元にある宇宙において、意識が研ぎ澄まされた心においては、どんなに不安があっても、「一緒になっていないもの」は私たちに不安を感じさせません。なぜなら、統合への道に対して異質で敵対することは、すなわち統合に対する忍耐の努力を強いられるからです。そして、統合に距離をおく「一緒になっていないもの」は後退します。繰り返して言うと、宇宙は私たちに不安を感じさせなくなります。しかし、ここでの変化で、より歓迎すべきことは、その巨大さは宇宙を著しく魅力的で愛すべきものにする傾向になります。究極的には、多様のレイヤが大きくなるほど、私たちを一緒にする流れが、必然的にすべてを包むような大きさになってきて、それに抵抗するすべての力に優り、私たちを吸い上げる渦巻きの中心化への強さが、より深い方向に約束されます。
いままで宇宙は暗く、冷たく、盲目的でした。しかしそこで光が当たり、暖かく、そして活性化します。魔術のように、物と人にあった不安が変えられて、実存的な愛の中へ平和へと逆転します。宇宙の引く力の中心は個性化することです。これを理解して、それを光栄であると知る人は、それ自身の超個性をもっているにちがいありません。ここで私たちは迷路から逃れて、苦悩から脱出します。そして自由になります。すべてのことは、この世界が中心とその心を持っているからです。そして、この変容にともない、以下のような結論が見えてきます。私たちの周りの現実を見ると、2つの論理的に可能な道が与えられています。1つは不安を通して窒息と麻痺へと確実に導く道です。もう1つは反対に、生きることへの情熱と同時に行動への衝動を生じさせる道です。ここで、この宇宙の2つの解釈の間で許されるべき躊躇はありません。
そして、これは単に道徳家や哲学者に適応されるのではなく、生物学者や物理学者にさえも適用されるべきことです。この世界の精神が組織的に収束することが、私たちに心の平和をもたらすという理由だけで、望ましいのではありません。私たちが日常的に空気で肺を満たすのと同じように、客観的に科学的に真実とみなされるからです。これが真実と思えるのは、それだけが私たちの意識にとって、真に生活できる雰囲気を生じさせるからです。この道だけが、この宇宙の構造と同質であるという理由によって、私たちが生きていかれるものだからです。人間という現象によって理解される、私たちの{生命}宇宙の方向が、間違いなく、その要素としての個人と全体を通して、より高いレベルにある「中心」での平衡を見つけるならば、そして、このプロセスが継続し最高になるには、私たち自身が全体として完全に中心化されたシステムになる以外には方法はありません。
Inspired from “A Phenomenon of Counter - Evolution in Human Biology or the Existential Fear” by Pierre Teilhard de Chardin.