人間エネルギーが起こしている現象
研究調査および科学技術の発展が人間大衆を巻き込んでいる現象、これすなわち人間が進化している動きではないだろうか
以下は、ピエール テイヤール・ド・シャルダンのエッセイ En regardant un Cyclotron (On Looking at a Cyclotron) を勝手に訳して要約したものです。ご参考まで。
サイクロトロンの見学
人間エネルギーに折り込まれたものへの考察
ピエール・テイヤール・ド・シャルダン
I.バークレーの巨大なサイクロトロン
昨年の夏にカルフォルニア大学のサイクロトロンの訪問見学をしました。そこで、これらの不思議な機械が(次の世代の人にはタービンやダイナモ(発電機)のようによく知られるでしょう)互いに個々がつながって大きな規模になって(互いがそこから生じているような)個々の仕組みをすでにご存知かもしれません。サイクロトロンは通常いわゆる陽子、重陽子、アルファ粒子を加速します。その他のベータトロンやシンクロトロンは電子を加速します。3番目のタイプは最近の大きな機械で、ベバトロンと呼ばれ、直径が40メートル(重さが10,000トン)もあり、単に陽子を百万倍に加速するのではなく、百万電子ボルトに加速します。
これらの装置が、機関車の車庫が並んでいるような建物で円形に構築されているのを思い描いてみてください。これらの建物の中で、環状の真空室には原子レベルの粒子があって、一定の電気的な刺激と同時に強力な磁場の効果によって円形の軌跡になるように強制されています。接線方向に飛び出す直前の速度まで加速されており、それは光速に近いような速度で回転しています。その状況は、未知の生きた力によって物質をバラバラにして変換し、そして多分何かを作り出しています。この不思議な装置を見ながら自分自身の心に思い浮んだのは、厳重に守られた入り口のあるミニチュア都市のことです。そこには事務所、車庫、食堂、多くの施設と、もちろんすべての種類の科学者や技術者の人間たちも含みます。そして、サンフランシスコ湾や金門橋を見渡せる丘の上のユーカリの樹々の間に、この敷地があります。
私が上記に述べたことで、バークレイの有名な放射線研究所の様子がおわかりいただけると思います。今日では、米国の原子エネルギー省の研究所であり、加速器や電子顕微鏡の研究が世界でも活発に行われている研究所の1つです。
私は物理学者ではないので、ここで原子がどうなるという見解を述べることはできません。しかし私は多くの年月を生命の研究学徒として過ごして、ここで現代の原子を分解する現場に面して立っていることが私の人生で初めての衝撃的な出来事であり、その精神的な臨場感とエネルギーの溢れた感覚を、寓話的な「千里眼」の現象のように表現してみたいと思います。
II. もう1つの目に見えないサイクロトロン: あるいは人間のエネルギーの個々の集中
私がバークレイのサイクロトロンを訪問した際には、それらの機械は点検中あるいはまだ完成されていませんでした。それで危険な状態にはなかったので近づけることができ、施設のなかに覆われた厚いコンクリートを通過することが許可されて、そのもっとも秘密の内部組織の動作を見ることができました。今、この巨大な怪獣の内部の中に進んで、原子の加速器を見ていると、徐々に現実とは異なったイメージが心の中に起きてきました。私の案内役は相互干渉の領域について話し続けていましたが、私はこの電磁的サイクロトロンのまわりで、何かが集中する内部の流れとそのすごい放射を全身で感じ受け止めていました。そこに人間も巻き込まれて竜巻の中へと空間の全体から私を吸い上げているかのようでした。
そこにあるものすべて、専門の知識や技術の全範囲と、エネルギー全部のパワーが、私が立っているところに集中して、その情熱で高く充電された特別にユニークな何かを一緒に形成しながら動いています。サイクロトロンが設計され建設されて稼動を始めるには、専門の知識や技術の全範囲、例えば、数学、エレクトロニクス、化学、写真技術、冶金学、素材抵抗、建築学、これらの様々な科学が一緒になって、すべて同時に最高の完成度で統合されているにちがいありません。エネルギー全部の量は、石炭、石油、ウラニウムによるキロワットのまたキロワットという消費量です。お金にしても、何百万ドルとかの非難にも相当するような金額ですが、それでもまさに毎日が人類のための血として生命を助けているようです。そしてそれ以上に、このすべての装置が渾然一体となって、必要として要求された資源のすべてから引き出された、尽きることのない意志から築かれた精神が、ついにはこの環境全体に与えられたかのようです。
そこで、この核エネルギー発生器のまわりの物理的状況が危険なまでに活性化されるというならば、この同じような状況が精神の領域で一体となった活性化であるとすれば、どんなことになるのでしょうか。その精神の活性化には、経済の要求、国家の抱負、戦争への転換、病気を征服する希望などのほか、ここで最も言いたいのは、宇宙発生のまさに動機の力を先取りする制御についてです。
実際サイクロトロンのそばで、その百万とか億万とかの電子ボルトよりも私に印象を与え、私の頭を完全に占有したのは次のことです。最もしっかり確立された領域とみなせるもの(私たちの精神)は、強さと集中がある程度にまで高められたとき、その本質がまだわかっていない新しい精神の何らかの完全なる現実へと「統合」されることです。
バークレイの丘では、研究所と工場の間にある境界が消えています。そこで原子の世界と社会の境界も消えています。そしてその上、私が以下で述べるように地域と惑星の間での境界も消えることになります。
そこで働く人が自分がどこにいて何をしているかを考えるとき、彼はすでに取り組んでいることに関して、研究調査、産業、物理学、哲学、エネルギー学、医薬、戦争か平和などを彼自身で考えるでしょう。あるいは彼を巻き込む流れにそって運ばれて、それまで知られていない人間性が構築(あるいは集中)されたところにまで、ことによると達しているかもしれません。これは真実に思われることです。
III. ほとんど宇宙的な現象: 人間集中装置の地球での増殖
エネルギー…
広がる波のように、私のビジョンは地球の次元に広がります。私が見た巨大な原子タービンによって受けた、「超人間」の匂いへの感覚は、まさにそこで放射するものの突然の認識でした。それは、ここ半世紀の間持続的に成長する多くの巨大な樹々のような、そのほかの偉大な機械たち、電子顕微鏡や巨大望遠鏡、惑星へと向かうロケット、コンピュータ、すべてを取り囲む放射です。
この人間活動のすべての交点において、その状況や行動のあらゆる多様性のなかに、同じ「つながり」のプロセスが確かにはっきりと認められます。それは、すべてのケースで同じ結果に導く「集中と統合」のプロセスです。人々や労働者は、最初は巻き込まれ囚われて、目的への努力が先行しますが、ついには、その仕事やその結果において「つながり」の影響による変化(超統合)があります。その仕事によって、自分自身と仲間とが同じ方向に「一致」することを強制されているとはっきり言えることです。
そしてまた、その仕事によって人がすべてをなしとげた最後の必然として、いつもほんの少し高いレベルになったと気づきます。巨大と微小の間に浸透する感覚的なこと、あるいは空間の幾何学的置き換えによって、人はいつも常に成長します。また(多分、すべての進歩の形態で最も驚くべきものですが)思考についての大脳の能力の直接的な高まりや加速によってそのレベルが上昇します。
地球全体は不思議な一筋の光線に晒された豊富な物質の塊のようです。私の周りにある肉体と精神への放射の影響のもとで、それらはゆっくりと光る点のようになって現れてきて、これらの「星たち」の各々の1つは、研究所とかいくつかの装置と調和しながら、そのまわりの人間が、エネルギーの充電と統合を通して、あちこちで新しい人間の「同位元素」に変化していました。今、地球を包み込むような光の点たちの数や彩りの影とか光沢に、私の心が魅了されて驚嘆していると、特に注目される現実が私の注意を引きました。
私の目には今までぼんやりと惑星の表面に見えたことが、「超人間」という感覚で輝き始めたことに気付き、これを内包する普遍的な法則だけが、地球の大衆全体の側に輝く光の中心を高め強化し、それが内部的に関係するものと想起できました。
しかし、私の目がそこで見たことにもっと慣れてくると、今この光る空間の頂点は動きに輝いていることがわかりました。天体が極を回転する単調な動きではなく、巻き込みのある銀河のような創造的な動きです。最初の段階の考えでは、地球のどこにでも、あまり注意されないけれども、実際に真の人間エネルギーの発生器(あるいは「集中するもの」)の誕生を見ていたことがわかりました。次の段階では、これらの「集中するもの」が必然的にそれら同士で集中しているのをはっきりと見ることができました。
IV. 人類の普遍的集中
これらのことを言い換えると、19世紀における研究調査の竜巻のような起こりは、(人材が不足したからではなく)現代の偉大なる人間の事象であり、機械と産業はその現われそのものと見なせるかもしれません。しかし今この評価はまだ現象の核心ではないという思いがあります。そのわけは、必然的な内部の動きの影響を考えると、機械や産業のプロセスは、私たちがそれらを扱っていくうちに、よりいっそう力強い味方になってきていることです。先に述べたように、私たちの社会において「研究所」と「工場」の境界は急速に消えていくだけでなく、一層この2つにおいて「研究所」の機能がより優位になってきていることが明らかです。すべての要素を考慮すると、私たちが今突入した時代は、工業時代というより、むしろ研究調査の時代ということになります。
すべての時代で言えることは、実際に人は真実「追い求める人」であることです。その必要性と発見の喜びの両方から、人は絶えず固執して追い求めています。しかし以前には、これらの努力は大きく拡散されていて、一般大衆になんらの印象や説明を与えず、普通の人々にはわかりにくいものでした。そして多かれ少なかれ奇人変人の1つの趣味として捨てられていました。18世紀になっても、科学的な調査はまだ哲学者の奇特なあるいは特別なものとして見られていました。
しかし現在では、ここ2百年で研究調査は、迫りくる潮のごとくすべてを圧倒しています。生産の要求に対し収集し理解することへの熱望があります。人自身における生物学的進化における途切れない進歩は、(まだ不完全でも)科学的なことで支援できること(あるいは支援する必要があること)、研究調査であることを人は突然に発見しています。今日では、研究調査に携わる人々は、数百万人を優に超えているのではないかと思います。そして、彼らはランダムに散らばっているのではなく。統合的な実り多い集団としてシステムを形成するように配置されています。その上誰が見ても、その成長や、分化や、これらの集団の相補的な役割において、人間文明の発生や動物学的な種の発生において起こったことの、まさに繰り返しであることが見逃せません。端的に言えば、(すべての歴史全体での)人間の環境において、物理的エネルギーと精神的なエネルギーの長くゆっくりした蓄積によって、ある種の精神的な竜巻がちょうど私たちを襲って巻き上げていることがそこに示されているようです。
そして、この点で、私たちが、この比喩の正確さと現実性を正しく評価できるのを確かめましょう。
研究調査の竜巻、それは単にあらゆる方向に休みなしに動くようなビジネス企業の竜巻ではありません。また動物の種が多様な形態に拡散して広く離れた軌跡に運ばれるような単に多様を意味する竜巻でもありません。まさにその深い根底の軸(宇宙発生)によって起こった、すべてを圧倒して吸い上げる本物の大渦巻きです。
私たちがしばしば聞く話として、研究の専門分野が特化した結果、より数多くの特定の分野に分かれることで、その接触の機会が失われ、そこでの研究者の心の間には交流がなくなっていると言われています。私は、このがっかりする決まり文句が何の価値があって扱われるのか疑問に思います。それは個々に特化する例において、あるいはいつもの形式的な言い回しにおいて、知的な分散化の危険があり、そこに何らかの犠牲さえも要することは十分ありえることです。しかし健全な科学的観点から見て、人に発見や発明を一層強要する力が、必然的に協力という心理学的な「まとまり」を生みだす大きな部分があるのに、そういった無意味な小さい所を何で比較するのでしょうか。
すべての種類の装置や機械の勢ぞろいをもう一度考えてみてください。物質を作ったり壊したりする機械、見る機械、通信する機械、考える機械、これらの魅力的な各種の機械が地球に分布し始めています。これらは個々に自立して互いに離れているのではまったくありません。人が作り出した機械はそのパワーを結びつけて高めるという方法で、互いに連携していく本質的な傾向を持っているのを間違いなく見ることができます。
もし私たちがこれらの複数の要素の竜巻を、その特定の作用の放射の中で単に1つ1つみるのではなく、それらをすべて同時に同じまとまりに入れて考えてみると、科学にある無数の支流そのものを擁しながら、はっきりと1つに動いている、思考の巨大な渦巻きがあるのではないでしょうか。
私たちは人として単にそこに生命の流れを起こしているだけではありません。また、人は多様な系列へと分かれるのを単にやめたわけでもありません。それだけではなく、知る必要があることによって集中しています。この集中して収束することにおいて、この宇宙における有機的まとまりと意識の、同時的で交互的な起こりの基となる特徴的な力の高まりの方へと、人はまさに運ばれています。いわば複雑化しながら内面化していると言えます。これはすべて認められることです。
私の前に驚愕するようなビジョンが現れました。バークレイのサイクロトロンは消え去って、私は完全なるNoosphereのビジョンを見ました。それは研究調査の風の巻き込みによって1つの巨大なサイクロトロンを形成しながら、核のエネルギーの代わりに精神のエネルギーが、より内省する状態にそれ自身で持続的に渦を巻きながら、特別な効果を生じています。そして、これはまさしく超人間(人間を超える人間)を生じていると同じことに思えます。
すばらしいことには、今私の頭の中で巻きあがった巨大な「ビジョン」に直面して、私の経験したことすべてが平和と喜びに包まれ始めるのを感じ、それは心からの平和と喜びとなったことです。
まずは平和の感覚です。私の見た動きはその巨大さとその安全さによって、恐怖にある個人を安心させることになります。渦巻きの回転が早くなって個人の砂粒を活性化し、宇宙に消え去る危険を少なくしています。実存主義の作家たちが耳やかましく繰り返したこととは異なり、私が個人として経験したことは、単なる進化の普遍的な見方であり、個人による個人の孤独な内観ではありません。現代の人を、個人として「生命についての不安」という問題から救う普遍的な見方です。
そしてまた喜びがあります。もし私たちの周りに実在する領域が、人間大衆の全体を包み込むのに十分に力強く現れていることを説明するのに、多くの要素が同じ方向に運ばれる集約的な圧力を表すのに、生存への要求と言うだけでは足らないということを、以前よりももっとはっきりと見定めました。何万年も続いて、その先へ、さらに上へと、私たちを引いている流れの先を創造するには、避けるべき嫌悪という否定的な死の極は、ダイナミックな必要性によって、魅力的で積極的な極(獲得するべき超生命の極)にあわせられます。その極は、時間の経過とともに、内省の活動の特徴をもった2つの要求を起こすことで十分に満足できるものです。それらは不可逆性への要求と全体の統合への要求です。
そしてそれゆえ私が思うに、先にあることへの拡張と私が巻き込みとして見た、人が創造したものと人の精神との巨大な竜巻の進行を神聖なこととして見直すと、単なる「研究調査」の名称で表されて知っていることが、いままで科学から異端と見なされた信条や宗教の確かな力によって色合いがつけられ、暖かさが添えられてくるのが感じられます。
よりいっそうこの研究調査という詳細をよく考えると、何らかの神聖な中心の方向へ向かう努力と希望に向かって、内部的で究極的な衝動から集中するように仕向けられているように思えます。