Noosphere<精神圏>

進化の途上にある人間、これからどう発展するのか。

サイクロトロンの見学

2014-07-30 23:31:47 | テクノロジーについて

人間エネルギーが起こしている現象

研究調査および科学技術の発展が人間大衆を巻き込んでいる現象、これすなわち人間が進化している動きではないだろうか

 

以下は、ピエール テイヤール・ド・シャルダンのエッセイ En regardant un Cyclotron (On Looking at a Cyclotron) を勝手に訳して要約したものです。ご参考まで。

 

サイクロトロンの見学

人間エネルギーに折り込まれたものへの考察

ピエール・テイヤール・ド・シャルダン

 

 

I.バークレーの巨大なサイクロトロン

 

昨年の夏にカルフォルニア大学のサイクロトロンの訪問見学をしました。そこで、これらの不思議な機械が(次の世代の人にはタービンやダイナモ(発電機)のようによく知られるでしょう)互いに個々がつながって大きな規模になって(互いがそこから生じているような)個々の仕組みをすでにご存知かもしれません。サイクロトロンは通常いわゆる陽子、重陽子、アルファ粒子を加速します。その他のベータトロンやシンクロトロンは電子を加速します。3番目のタイプは最近の大きな機械で、ベバトロンと呼ばれ、直径が40メートル(重さが10,000トン)もあり、単に陽子を百万倍に加速するのではなく、百万電子ボルトに加速します。

これらの装置が、機関車の車庫が並んでいるような建物で円形に構築されているのを思い描いてみてください。これらの建物の中で、環状の真空室には原子レベルの粒子があって、一定の電気的な刺激と同時に強力な磁場の効果によって円形の軌跡になるように強制されています。接線方向に飛び出す直前の速度まで加速されており、それは光速に近いような速度で回転しています。その状況は、未知の生きた力によって物質をバラバラにして変換し、そして多分何かを作り出しています。この不思議な装置を見ながら自分自身の心に思い浮んだのは、厳重に守られた入り口のあるミニチュア都市のことです。そこには事務所、車庫、食堂、多くの施設と、もちろんすべての種類の科学者や技術者の人間たちも含みます。そして、サンフランシスコ湾や金門橋を見渡せる丘の上のユーカリの樹々の間に、この敷地があります。

私が上記に述べたことで、バークレイの有名な放射線研究所の様子がおわかりいただけると思います。今日では、米国の原子エネルギー省の研究所であり、加速器や電子顕微鏡の研究が世界でも活発に行われている研究所の1つです。

私は物理学者ではないので、ここで原子がどうなるという見解を述べることはできません。しかし私は多くの年月を生命の研究学徒として過ごして、ここで現代の原子を分解する現場に面して立っていることが私の人生で初めての衝撃的な出来事であり、その精神的な臨場感とエネルギーの溢れた感覚を、寓話的な「千里眼」の現象のように表現してみたいと思います。

 

II. もう1つの目に見えないサイクロトロン: あるいは人間のエネルギーの個々の集中

 

私がバークレイのサイクロトロンを訪問した際には、それらの機械は点検中あるいはまだ完成されていませんでした。それで危険な状態にはなかったので近づけることができ、施設のなかに覆われた厚いコンクリートを通過することが許可されて、そのもっとも秘密の内部組織の動作を見ることができました。今、この巨大な怪獣の内部の中に進んで、原子の加速器を見ていると、徐々に現実とは異なったイメージが心の中に起きてきました。私の案内役は相互干渉の領域について話し続けていましたが、私はこの電磁的サイクロトロンのまわりで、何かが集中する内部の流れとそのすごい放射を全身で感じ受け止めていました。そこに人間も巻き込まれて竜巻の中へと空間の全体から私を吸い上げているかのようでした。

そこにあるものすべて、専門の知識や技術の全範囲と、エネルギー全部のパワーが、私が立っているところに集中して、その情熱で高く充電された特別にユニークな何かを一緒に形成しながら動いています。サイクロトロンが設計され建設されて稼動を始めるには、専門の知識や技術の全範囲、例えば、数学、エレクトロニクス、化学、写真技術、冶金学、素材抵抗、建築学、これらの様々な科学が一緒になって、すべて同時に最高の完成度で統合されているにちがいありません。エネルギー全部の量は、石炭、石油、ウラニウムによるキロワットのまたキロワットという消費量です。お金にしても、何百万ドルとかの非難にも相当するような金額ですが、それでもまさに毎日が人類のための血として生命を助けているようです。そしてそれ以上に、このすべての装置が渾然一体となって、必要として要求された資源のすべてから引き出された、尽きることのない意志から築かれた精神が、ついにはこの環境全体に与えられたかのようです。

そこで、この核エネルギー発生器のまわりの物理的状況が危険なまでに活性化されるというならば、この同じような状況が精神の領域で一体となった活性化であるとすれば、どんなことになるのでしょうか。その精神の活性化には、経済の要求、国家の抱負、戦争への転換、病気を征服する希望などのほか、ここで最も言いたいのは、宇宙発生のまさに動機の力を先取りする制御についてです。

実際サイクロトロンのそばで、その百万とか億万とかの電子ボルトよりも私に印象を与え、私の頭を完全に占有したのは次のことです。最もしっかり確立された領域とみなせるもの(私たちの精神)は、強さと集中がある程度にまで高められたとき、その本質がまだわかっていない新しい精神の何らかの完全なる現実へと「統合」されることです。

バークレイの丘では、研究所と工場の間にある境界が消えています。そこで原子の世界と社会の境界も消えています。そしてその上、私が以下で述べるように地域と惑星の間での境界も消えることになります。

そこで働く人が自分がどこにいて何をしているかを考えるとき、彼はすでに取り組んでいることに関して、研究調査、産業、物理学、哲学、エネルギー学、医薬、戦争か平和などを彼自身で考えるでしょう。あるいは彼を巻き込む流れにそって運ばれて、それまで知られていない人間性が構築(あるいは集中)されたところにまで、ことによると達しているかもしれません。これは真実に思われることです。

 

III. ほとんど宇宙的な現象: 人間集中装置の地球での増殖

 

エネルギー…

広がる波のように、私のビジョンは地球の次元に広がります。私が見た巨大な原子タービンによって受けた、「超人間」の匂いへの感覚は、まさにそこで放射するものの突然の認識でした。それは、ここ半世紀の間持続的に成長する多くの巨大な樹々のような、そのほかの偉大な機械たち、電子顕微鏡や巨大望遠鏡、惑星へと向かうロケット、コンピュータ、すべてを取り囲む放射です。

この人間活動のすべての交点において、その状況や行動のあらゆる多様性のなかに、同じ「つながり」のプロセスが確かにはっきりと認められます。それは、すべてのケースで同じ結果に導く「集中と統合」のプロセスです。人々や労働者は、最初は巻き込まれ囚われて、目的への努力が先行しますが、ついには、その仕事やその結果において「つながり」の影響による変化(超統合)があります。その仕事によって、自分自身と仲間とが同じ方向に「一致」することを強制されているとはっきり言えることです。

そしてまた、その仕事によって人がすべてをなしとげた最後の必然として、いつもほんの少し高いレベルになったと気づきます。巨大と微小の間に浸透する感覚的なこと、あるいは空間の幾何学的置き換えによって、人はいつも常に成長します。また(多分、すべての進歩の形態で最も驚くべきものですが)思考についての大脳の能力の直接的な高まりや加速によってそのレベルが上昇します。

地球全体は不思議な一筋の光線に晒された豊富な物質の塊のようです。私の周りにある肉体と精神への放射の影響のもとで、それらはゆっくりと光る点のようになって現れてきて、これらの「星たち」の各々の1つは、研究所とかいくつかの装置と調和しながら、そのまわりの人間が、エネルギーの充電と統合を通して、あちこちで新しい人間の「同位元素」に変化していました。今、地球を包み込むような光の点たちの数や彩りの影とか光沢に、私の心が魅了されて驚嘆していると、特に注目される現実が私の注意を引きました。

私の目には今までぼんやりと惑星の表面に見えたことが、「超人間」という感覚で輝き始めたことに気付き、これを内包する普遍的な法則だけが、地球の大衆全体の側に輝く光の中心を高め強化し、それが内部的に関係するものと想起できました。

しかし、私の目がそこで見たことにもっと慣れてくると、今この光る空間の頂点は動きに輝いていることがわかりました。天体が極を回転する単調な動きではなく、巻き込みのある銀河のような創造的な動きです。最初の段階の考えでは、地球のどこにでも、あまり注意されないけれども、実際に真の人間エネルギーの発生器(あるいは「集中するもの」)の誕生を見ていたことがわかりました。次の段階では、これらの「集中するもの」が必然的にそれら同士で集中しているのをはっきりと見ることができました。

 

IV. 人類の普遍的集中

 

これらのことを言い換えると、19世紀における研究調査の竜巻のような起こりは、(人材が不足したからではなく)現代の偉大なる人間の事象であり、機械と産業はその現われそのものと見なせるかもしれません。しかし今この評価はまだ現象の核心ではないという思いがあります。そのわけは、必然的な内部の動きの影響を考えると、機械や産業のプロセスは、私たちがそれらを扱っていくうちに、よりいっそう力強い味方になってきていることです。先に述べたように、私たちの社会において「研究所」と「工場」の境界は急速に消えていくだけでなく、一層この2つにおいて「研究所」の機能がより優位になってきていることが明らかです。すべての要素を考慮すると、私たちが今突入した時代は、工業時代というより、むしろ研究調査の時代ということになります。

すべての時代で言えることは、実際に人は真実「追い求める人」であることです。その必要性と発見の喜びの両方から、人は絶えず固執して追い求めています。しかし以前には、これらの努力は大きく拡散されていて、一般大衆になんらの印象や説明を与えず、普通の人々にはわかりにくいものでした。そして多かれ少なかれ奇人変人の1つの趣味として捨てられていました。18世紀になっても、科学的な調査はまだ哲学者の奇特なあるいは特別なものとして見られていました。

しかし現在では、ここ2百年で研究調査は、迫りくる潮のごとくすべてを圧倒しています。生産の要求に対し収集し理解することへの熱望があります。人自身における生物学的進化における途切れない進歩は、(まだ不完全でも)科学的なことで支援できること(あるいは支援する必要があること)、研究調査であることを人は突然に発見しています。今日では、研究調査に携わる人々は、数百万人を優に超えているのではないかと思います。そして、彼らはランダムに散らばっているのではなく。統合的な実り多い集団としてシステムを形成するように配置されています。その上誰が見ても、その成長や、分化や、これらの集団の相補的な役割において、人間文明の発生や動物学的な種の発生において起こったことの、まさに繰り返しであることが見逃せません。端的に言えば、(すべての歴史全体での)人間の環境において、物理的エネルギーと精神的なエネルギーの長くゆっくりした蓄積によって、ある種の精神的な竜巻がちょうど私たちを襲って巻き上げていることがそこに示されているようです。

 

そして、この点で、私たちが、この比喩の正確さと現実性を正しく評価できるのを確かめましょう。

研究調査の竜巻、それは単にあらゆる方向に休みなしに動くようなビジネス企業の竜巻ではありません。また動物の種が多様な形態に拡散して広く離れた軌跡に運ばれるような単に多様を意味する竜巻でもありません。まさにその深い根底の軸(宇宙発生)によって起こった、すべてを圧倒して吸い上げる本物の大渦巻きです。

私たちがしばしば聞く話として、研究の専門分野が特化した結果、より数多くの特定の分野に分かれることで、その接触の機会が失われ、そこでの研究者の心の間には交流がなくなっていると言われています。私は、このがっかりする決まり文句が何の価値があって扱われるのか疑問に思います。それは個々に特化する例において、あるいはいつもの形式的な言い回しにおいて、知的な分散化の危険があり、そこに何らかの犠牲さえも要することは十分ありえることです。しかし健全な科学的観点から見て、人に発見や発明を一層強要する力が、必然的に協力という心理学的な「まとまり」を生みだす大きな部分があるのに、そういった無意味な小さい所を何で比較するのでしょうか。

 

すべての種類の装置や機械の勢ぞろいをもう一度考えてみてください。物質を作ったり壊したりする機械、見る機械、通信する機械、考える機械、これらの魅力的な各種の機械が地球に分布し始めています。これらは個々に自立して互いに離れているのではまったくありません。人が作り出した機械はそのパワーを結びつけて高めるという方法で、互いに連携していく本質的な傾向を持っているのを間違いなく見ることができます。

もし私たちがこれらの複数の要素の竜巻を、その特定の作用の放射の中で単に1つ1つみるのではなく、それらをすべて同時に同じまとまりに入れて考えてみると、科学にある無数の支流そのものを擁しながら、はっきりと1つに動いている、思考の巨大な渦巻きがあるのではないでしょうか。

 

私たちは人として単にそこに生命の流れを起こしているだけではありません。また、人は多様な系列へと分かれるのを単にやめたわけでもありません。それだけではなく、知る必要があることによって集中しています。この集中して収束することにおいて、この宇宙における有機的まとまりと意識の、同時的で交互的な起こりの基となる特徴的な力の高まりの方へと、人はまさに運ばれています。いわば複雑化しながら内面化していると言えます。これはすべて認められることです。

 

私の前に驚愕するようなビジョンが現れました。バークレイのサイクロトロンは消え去って、私は完全なるNoosphereのビジョンを見ました。それは研究調査の風の巻き込みによって1つの巨大なサイクロトロンを形成しながら、核のエネルギーの代わりに精神のエネルギーが、より内省する状態にそれ自身で持続的に渦を巻きながら、特別な効果を生じています。そして、これはまさしく超人間(人間を超える人間)を生じていると同じことに思えます。

 

すばらしいことには、今私の頭の中で巻きあがった巨大な「ビジョン」に直面して、私の経験したことすべてが平和と喜びに包まれ始めるのを感じ、それは心からの平和と喜びとなったことです。

 

まずは平和の感覚です。私の見た動きはその巨大さとその安全さによって、恐怖にある個人を安心させることになります。渦巻きの回転が早くなって個人の砂粒を活性化し、宇宙に消え去る危険を少なくしています。実存主義の作家たちが耳やかましく繰り返したこととは異なり、私が個人として経験したことは、単なる進化の普遍的な見方であり、個人による個人の孤独な内観ではありません。現代の人を、個人として「生命についての不安」という問題から救う普遍的な見方です。

そしてまた喜びがあります。もし私たちの周りに実在する領域が、人間大衆の全体を包み込むのに十分に力強く現れていることを説明するのに、多くの要素が同じ方向に運ばれる集約的な圧力を表すのに、生存への要求と言うだけでは足らないということを、以前よりももっとはっきりと見定めました。何万年も続いて、その先へ、さらに上へと、私たちを引いている流れの先を創造するには、避けるべき嫌悪という否定的な死の極は、ダイナミックな必要性によって、魅力的で積極的な極(獲得するべき超生命の極)にあわせられます。その極は、時間の経過とともに、内省の活動の特徴をもった2つの要求を起こすことで十分に満足できるものです。それらは不可逆性への要求と全体の統合への要求です。

 

そしてそれゆえ私が思うに、先にあることへの拡張と私が巻き込みとして見た、人が創造したものと人の精神との巨大な竜巻の進行を神聖なこととして見直すと、単なる「研究調査」の名称で表されて知っていることが、いままで科学から異端と見なされた信条や宗教の確かな力によって色合いがつけられ、暖かさが添えられてくるのが感じられます。

よりいっそうこの研究調査という詳細をよく考えると、何らかの神聖な中心の方向へ向かう努力と希望に向かって、内部的で究極的な衝動から集中するように仕向けられているように思えます。

 

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圧縮時代の人類

2014-07-30 11:28:25 | 現在の人間を超える

現代では環境問題として自然破壊や温暖化などのことが言われます。その原因として世界の人口増加や科学技術の発達にあると指摘されます。私たちが避けて通れない世の中の流れに人間としてどのように将来を生きていくか考える必要があります。人口の増加などの影響は、いろいろな弊害をもたらすと同時に人類にとっても先にすすむ原動力になっていること、すなわち、共に内省をせざるを得ない環境を人類自身が作り出していると言えるかもしれません。技術の進歩や人間関係などがより複雑になってくると、これからの人類は個々の天才によって先導されるのではなく、共に内省する頭脳集団によって前進するのかもしれません。

以下は、ピエール テイヤール・ド・シャルダンのエッセイRéflexions sur la Compression humaine (Reflections on the Compression of Mankind) を勝手に訳して要約したものです。ご参考まで。

圧縮時代の人類についての考察

ピエール テイヤール・ド・シャルダン

 

I.窒息しそうな世界

 

人類という種は100万年もの間ゆっくりと数を増やしながら拡張した後で、突然現代において圧縮の時代に突入しました。この惑星のすべての境界にそって、いろいろな人の集団が広がって接触しており、人々は厳しく制限された地球の表面で日々互いに密になるよう強制され始めています。私たちの世代では不幸にもこの圧縮の結果は、状況の悪化はもとより、直接には一般的な苦悩として現れているようです。端的に言えば、極端な人口増加によっていつも何らかの圧力がかかり、その影響が混乱や悪と連携して徐々に住みにくい世の中になってきていると感じられるのではないでしょうか。

本来の人間性の流れが裂け目の間に浸み込んでしまって、大きな流れが私たちの良い部分をつぶしながら選択する制御を取れなくしているようです。工場や町では、知的な孤立や物理的な自然がなくなってきています。個人の間でも他人が近くなって干渉が不愉快になり、数が増えたことで互いが異国人や侵入者として敵対し摩擦も増え続いています。また、人間どうしの集約化が進んで仕事での隷属関係が避けられないようになり、個人が機械化していくようです。

これらの不満や負担、そして日々の生活で不安が増すこと、これらは私たちの時代の緊張の高まりとか、あるいはノイローゼの原因として説明されています。過剰人口での資源の使い尽くしや伝染病の危険度が増大することは言うまでも無く、これらのことは少ない空間にあまりにも多くの人数がいることです。現実は満員電車のように、地球は単に息をするところすらないようです。そしてこの窒息状態は、国家や個人がからむ暴力的な行為を誘発し、習慣や言語を維持し解放する試みとなると説明されます。その上、まだ電車に旅客がいっぱいに積み重なりなり続けている状態は、何の役にも立たないことに思われます。

今私たちがこれらの不快なことに煩わされて怒る代わりに、あるいはぼんやりと落ち着くのを待っている代わりに、現実に個々の経験として続くことを説明できないと思っても、それを受け入れるべきなのかどうか考えてみても良いのではないでしょうか。

 

II. 閉じられた宇宙

 

人間において今ある過度の圧力についてはっきりいえることは、起こっているプロセスが(生物学的に)まったく単純なことです。生物圏には豊富な拡張性がありますが、人間は(内省への現われを通して)突然他の生物種から解放され地球を占有し、地球の閉じた表面を埋め尽くし今や限界寸前のところまできています。この成り行きや進み具合が不思議に感じられ、しかも先が見えず容赦ないものに思われます。何十億もの人々は単純に圧力のかかったガスに等しいことになります。しかし、私たちの惑星の過剰人口に対して、物理学者は何も対応できず生物学者の分析もないのは、実際の現実なのでしょうか。そしてあえて言うならば、この状況にまったくがっかりする思いになります。温度の上がったガスの量を減らす新しい何かが現れないのでしょうか。反対に、人口増加によって人間世界が持続的により圧縮されるとき、何か重要な効果が現れるのでしょうか。その正しい見方を知れば、現象の真実の本質の何かがわかり、その実際の行動の方法を示してくれるのでしょうか。

また、精神の機械的な扱いや全体主義とか大衆の起こりについて、現代の私たちが生活する時代の特徴や非難をするにはあまりに不明瞭であり、何かがどうなるかは神のみが知る状況です。しかしこれらのすべてにおいて科学はどの位置にあり、私たちは科学を使って何をしているのでしょうか。科学については良し悪しについて多くのことが書かれてきていますが、すべて良いことと信じつつ、私たちに起こっていることはすべて悪いことのようです。別の例として善と悪の樹があります。しかし功利主義、道徳判断、単なる憶測からの賞賛や批判の声はあっても、より確かな思慮によって現実の側面を指摘する人はあまりいません。

 

私が意味したいことは、善とか悪とかを言う前に、人が知性によって世界を征服したことは、文明の歴史的プロセスと密接に関連した「意識の高まり」から生じた主要で根本的な現象ではないかということです。互いの強制についてもう少し言えば、すべて私たち考える要素は、圧縮からの強制による相互に内省しあう効果によって、疑いなく個人の内省の能力を上げています。1つの全体として一緒になることで、単独の1人ではどうしてもうまく理解できないことでも理解できるようになります。自身の圧縮によって精神的に個の人間を超える人間のケースを考えると確かにそう思えます。そこでは圧縮と意識が連結して一種の連携作用となっています。この作用は有機体が圧縮によって必然的に生じる配置として、進化の始めからなされたすべての進歩を制御していることと同じです。

実際にそうであれば、最初は人間大衆への締め付けが、悪としか見えなかったことに対して、心理発生の宇宙的な力によって、人類が第三紀の末に現れて地球上に新しい前進の蓄積をなした影にある、動機となる力としての価値を認める必要があります。個人の内省の後は、共に内省することが続きますが、これはすなわち内省を超える内省(超内省)です。またそこでは、光の軸にそって輝く閃光のように全体的に新しい展望が現れます。世界の展望は窒息に向うのではなく、その内部の緊張によって高められることになります。

 

この観点の見直しによって考えると、私たちを圧縮する力は、私たちが考えるよりもっと冷酷なものであるというのは真実に思われます。なぜなら、単にそれは圧縮している惑星環境にあるだけでなく、私たちの存在の深いところで集中しているすべての宇宙にあるからです。

一方、私たちがここですぐにわかるのは、この宇宙のエネルギーは、それが宇宙の序列(宇宙発生)そのものであることによって、その本質の見せ方を変えて、私たちの負担とならなくなります。なぜなら、私たちに密接な精神的接触が強制されることは、明日には私たちの本当の最終的な自由におけるまさに最も活性的な要因となるはずのことだからです。

 

III. 先にある解放

 

自然にしばしば起こることとは異なり、人類の拡張は法則としての自動的な意味で制限されているとは思われません。人が多くなればなるほど、その本来の特徴からして、自分たちを保護しながらより多様な方向に多数を駆り立てるからです。

この事象において、そして私たちに恐怖となっている窒息を回避するためには、慣習的に言われる救済策としては、抜本的な産児制限とか、それとも夢の話で(今すでに夢ではないかもしれませんが)まだ住む人のいない惑星へと大量の人類が移住することです。

しかし、圧縮を回避する方法がどんなことであっても、まさにその本質を考慮すると不安定で自暴自棄なことになります、特に集団で惑星に移住することは、他の星からの訪問者がまだ私たちを見つけにきていないことからも、ここしばらく実現できないと思われます。

私たちが住む世界は十分に一貫しており、結局はここまで来た生命は自動的には抑制しないと思われます。動物学的種が生存でき、優生学的縮小でもなく、人間大衆が地球の外へ拡張するのでもない、救いを探す必要があります。しかしむしろ、「先にある時間への脱出」ということを探索すべきかもしれません。

 

この重要な点を説明させてください。

以前私は、科学が起こったという明白な事象に関して、その背後にこの宇宙にある精神の働きのことを述べました。この精神の働きは人間大衆を引く力となって、圧縮の下で(そしてその圧力がかかるがゆえに)意識をより内省する方向に向わせることになります。

収束してまとまっていく動きというのは、もし実際にそういう動きがあるとすると、本来必然的に、未来のある決められた地点に、これ以上まとまれない限界点、あるいは以下で定義されるすべてを含む頂点が決定されるはずです。

・概略的な定義としては、それは共に内省する究極の中心であることです。

・より完全には、考える個々の人たちを統合した焦点としてあることです。なぜなら心理学的な必然性によって、私たちは他の人と愛情を持って互いに同等と等しく認める以外に、共に完全に活性化して考えることはありえないからです。

 

それを心にはっきり銘記して、人の発生からの流れの時間を拡張し推定することで決定される内省と統合の究極の点を考えてみましょう。

まずは、水平線の先にその究極があるという現実を想定すれば、単純にその引いている力の極は、地球の考える層の全体を通して、人間発生の普遍的な力の強さを発動できるとするのは明らかではないでしょうか。

次に、閉じ込められて混乱した群衆は、前方に閉ざされた門が開くと平和的な流れに戻るように、多くの人はその極の存在に引かれてその存在が活性化されると、先へと押される要求の力によって、調和とおだやかさをすぐに取り戻すのは確かではないでしょうか。

 

まさにこの動きとエネルギーを導く事実によって、収束は緊張の解放をもたらします。ここで基本的な現実について考えてみると、まとまるという収束への圧力が、その内部から起こってくるものを何も妨げないとすれば、私たちの考える地球の層は生物学的に以下のどちらかに直面するのは確かであると思います。

 

・心理学的な混乱と扇動された状態のままに崩壊してしまうこと。

 

・圧縮の程度が極端になることを通して、それによる精神的な苦悩と愛情から1つにまとまることが生じ、未来において正しく正確にまさに十分の熱意を持って、人類自身の信条を発展させること

 

このどちらかになるでしょう。

 

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エネルギー内省の法則

2014-07-04 14:37:32 | 進化のエネルギー

ここでの「内省」とは「知っているだけではなく、知っていることを知っている」という存在にある心理学的な価値のことです。自己の意識と存在を含め関連するすべての事象を参照しながら深く考えることができる能力のことです。将来の科学の発展のためには、物理化学的に説明できる客観的事実だけが対象ではなく、今は説明できない心理学的事実に注目して深く掘り下げ仲間とともに考えることも必要と思います。いくら神経細胞やDNAとか大脳の構造を研究しても、明日に生きる情熱の動機となる力はわからないと思います。生命や人間についての不思議な事実についてもっと考えるべきではないでしょうか。

以下は、ピエール テイヤール・ド・シャルダンのエッセイ<La Réflexion de l'Énergie(The Reflection of Energy)>を勝手に訳して要約したものです。

 

エネルギー内省の法則

ピエール・テイヤール・ド・シャルダン

 

はじめに:人が収束するという事実

 

人間という「種」は、他の生き物と同様に自身を増殖する有機体としての特徴を持っています。しかし、(多くの理由が後で明らかになりますが)浅瀬に泳ぐ魚やバクテリアの群れで起こることと異なり、この増殖は人口を増やすことをめざして数を増加させているだけではありません。この拡張する状態のなかでも集団の全体として、より緊密に連携しつつ中心化した構造のシステムを生じてきています。

このこと、すなわち集団として集まることとその集団が組織化する現象の事実は絶対的に否定できないことに注目する必要があります。人間はまずゆるく社会化した生命単位として地球を徐々に覆った後、現代では今それが共に(民族的に、経済的に、精神的に)結びつく速度が急激に増加しています。このプロセスを説明する前に、私たちは先にある人の世界が必然的に1つの「まとまり」に向かっていくと考えてみる必要があります。この集団はそれ自身でまとまるようにより緊密に収束しています。

繰り返しますが、人がまとまっていくという方向については誰も争えないことです。それは誰でもが皆が集中することに指向し他人と合わせるように動いている事実があるからです。一方で、(無関心な人を除いて)誰もそれに気がつかないのは不思議なことです。そして歴史的な事件で複雑にからみあった背後を分析すると、確かにこのまとまる「力」が疑いなくその根底に働いていることを誰も考えていません。この「力」は核の力や重力と同じような原初的で普遍的なものですが、おそらく宇宙の物理学的本質関しても多くのことを問いかけるはずのものです。

この確かな「力」(あるいは「エネルギー」)は完全に無視されていて(正確には、それはあまりに圧倒的に明白なことだからかもしれませんが)何があっても止まることがないという人間自身のゆっくり遅々とした動きを起こしています。

私がここで述べたいことは、そのすべての含蓄をこめて、この事実がエネルギー学や生物学において、科学的に正当に評価され受け入れられるよう考えていただきたいことです。そのために以下のことについて説明したいと思います。

 

1. 内省する能力が(鮮新世)にはじめて出現したこと

2. 内省のプロセスが(現代において)集約的に加速されていること

3. エネルギーと内省について

4. 内省に後退はなく後戻りしないことについて

 

人の現象を科学的に説明しようとする場合、これらの連続する人の動きを段階に分けて理解することは、その流れをより明確に見極めるために必要なことです。これによって多くの言葉を要することなく、純粋な「人についての科学」について明確にしていきたいと思います。ここで「現れ」や「出現」に関して、それを起こす原因についての問題は扱いません。

 

I. 内省の初期の段階(鮮新世)

 

現代の人がはっきりと物を観察し考えるとき、本質的な「現象の中の現象」とは、人には肉体的なまとまりがあり、そこに精神的な(意識の)中心がある(少なくともあるべき)ということであり、これは現在人類自身にも起こっていることです。

このことについて、私は以下の説明を付け加える必要があります。少なくとも過去の考古学的事象を考える訓練をした人たちにとって、この偉大なる事象としての「人類の発生」がおこった(変化した)ことは、より以前の状況が(ちょうど圧倒的であるために無視されたと同じように)単なる繰り返し、あるいは連続であると見なしていることです。これは地質時代で第三紀の末期ごろに起こった「人間の発生」という生命の急激な改造期のことを言っています。

そこで人が世界に現れたという尋常でない何かが起こった状況について、より意識的に考えて見ましょう。私たち人類はそこから誕生しているがゆえに、それは非常に「本質」なことに思えます。しかし古生物学者にとっては根本的な迷路となっていることです。

 

解剖学的あるいは系統発生的に単純化する考え方に慣れている専門以外の人は、鮮新世の世界から多かれ少なかれ連続して切れない流れがあると考えており、「象やねずみと同じ法則に従えば、人は最も成功した動物である」して、これがすべての話となっています。

しかし客観的あるいは科学的に事実に即して考えて見ると、まったく異なった概念を形作る必要があることがわかります。

鮮新世の動物たち(多種にわたって拡散した豊富な種の形態)に比較して、それに続いた人間世界(驚くほど閉じた構成であり、他のすべて種に対して完全に優位で排他的である種)を考えると、これらの間では何が言われようとも、単純とは思えないかなりの程度の開きがあり、その序列自体を変更すべき、あるいは(適当な言葉が見つかりませんが)おかれた状況に相当な違いがあります。

前人類においていかに精神としての基本があったとはいえ、前人類自身はそれ以前の類人猿の種にその根拠(連続する流れ)を持っていると思われ、道具の発明や解剖学的な状況などの特徴から、古代の生物圏において事実上いろいろな新しい積み重ねがあったことは疑いがありません。

しかし、これからの説明の前に、このエッセイでは次のことを前提として受け入れてみてください。

 

この惑星の長い経過において、地球に人間の王国が築かれる直前に、この連続した期間に何かが起こりました。物質の活性化の普遍的プロセスに「何か」が起こり、その何かとは非常に微妙で、その本当の最初にはほとんどはっきりしないことが、急に活性化されて、それから数10万年の後の地球の表面を完全に異なったものに変えてしまったことです。

そのときの「何か」とは人における「内省」の誕生でなければ何なのでしょうか。

 

「内省」とは「知っているだけではなく、知っていることを知っている」という存在に心理学的な価値が見出されることです。私たちに与えられたのは、単に知的に世界を征服するという力だけでなく、未来を予見するという自分たちの進化をも制御できる力があることです。この力がどのように大きいものか、私たちは心の中で十分に理解していません。人間が人間以外の残りのすべての種の支配を、突然に達成したことを、「内省」を得たそのことで十分に説明できると、私は確信しています。

まだ重要な事実があります。私たちが余り注意をしていないことですが、「生命」はその発生からより複雑になる方向に進むこと、またその個体に価値ある機能に向かって進もうとする動きを持っており、これは物質そのものにある特徴として、まったく本質的でもっとも深い動きのプロセスから現れて来たものということです。これは(ダーウィンの時代に考えられたように)動物学的なプロセスということではなく、私たちが「進化」と呼ぶ宇宙的動きのプロセス(宇宙機序)のことです。

 

この宇宙のプロセスについて、科学においてはまだ議論が尽くされていませんが、以下の2つのことが言えると思います。

 

1つ目に、宇宙の材質の原初的(原初ゆえに明快な説明はできませんが)何らかの配置によって、物質が集まり(偶然の役割によって集塊し増大する作用によって粒子が密集し始めること)、そして集塊それ自身が中心的に組織化されてより大きく複雑な粒子となっていく傾向があることです。

 

2つ目に、このより複雑になる組織化の影響のもとで、その段階にそって、この同じ物質が、より高度な生命の種に向って神経組織の発達を伴いつつ、その機能の程度をより増やしながら、内部化していくことになります。ここで私たちは意識という現象に遭遇します。

 

この観察による継続した事実を段階に分けて考え、意識が複雑に向うことに対し、「進化の法則」としての価値を認めながら、地質時代に起こった、宇宙の傾向に調和した地球の「精神(意識)の温度」の上昇を考えましょう。そしてこの結果として、この「上昇」と言う言葉において、適切に「内省(関連を通して深く思考すること)」と呼べるものが、地球の表面にすべての種に優位となるように変容し、いかに花開いたかを見てみましょう。

 

この経験の全体から見ると、科学的に以下の結論を避けて通ることができないと思います。

第三紀の末期に、生物圏での特に大脳が発達した種において、その普遍的成熟によって、無数の有機的な(多様化し試行錯誤によって先に進む)精神の流れの1つが生命世界に現れ、偶然の役割によって好ましい方向に選択され集中して、「内省のない状況」から「内省のある状況」への分岐点の境界を越えたということになります。ある日突然(そして恐らく微小な)神経ニューロンの配置において、どのような心理学的な革新が相応して動いたかについてはまだわかっていません。

しかし、この事象に対し、ダイナミックで生物学的な価値があることに目を向けないわけにはいきません。人間は(しばしば語られるような)単なる動物種の1つではありません。人は有機体の生命において、完全なる「新しい種」として出発したと言えます。そして、もし私たち自身を真の人類の次元として描くとすれば、少なくとも人類以前の全体によって占有されていた領域をそっくり「進化としての空間」として埋め尽くすという、豊富で拡張の可能性を認める必要があります。

それゆえ、鮮新世において初期の人間に達した「生命」は、境界線の転換点にあることになり、それは終わりを示すものではなく、再びそこから始まったことになります。(解剖学的な外形の拡張ではなく)内部へと向う宇宙的な流れは、私たちがまさしく「決定できる」方向に新しい出発を始めたことになります。この宇宙の流れの方向が、私たちの心の中で進化という考えを確認できるものです。それが、私がこれから紹介したいと思っていることです。

 

II. 宇宙プロセスとしての内省が現代人において持続し加速すること

 

歴史の経過において、人の心に築かれた致命的な幻想の1つは、「人間はすでに完成され固まって進化しない存在」という間違った認識のことです。

現代では、原子の存在は星や生命の誕生を含め普遍的な循環の流れの中にいることは理解されています。しかし今日、良識ある人の(哲学者や科学者でさえも)心の中では宇宙すべてが微小から極大まで何らかの動きの中にあることがわかっていても、いずれにせよこの世間は結局のところ安定して動かないでいつでも同じと思っています。

人間が「永続して」不変であると主張する信条は、もし私たちが以下に述べることを吟味して、これらの2つの要素をつなぐ発生要因の関係を理解すれば、その信条は無意味で捨て去る必要があると考えられると思います。

 

1. 今、人類に起こっている集約的なまとまり(収束)のこと

2. この流れは人間の生命個体において、過去に起こった内省からの連続であること

 

この2つの事象をそれぞれの側から考えると以下の説明にその意味が見出されるでしょう。

過去においては個人としての内省であったものが、もはや今日ではその個人が(通信機器の発達などの)技術革新によって社会全体の中へと同化し収束しつつあります。また、その個人は彼自身だけでなく仲間とより深く連携して考える(内省する)ことを強いられて、いやおうなしに集約的に収束していくことになります。

言い換えると、仲間と連携して収束し1つにまとまっていく人類は、人類を超えて「先にある人類」としても認識できることになります。そして反対に言えば、人類を超える人類は仲間とまとまって収束に向かう人類として識別されることになります。

この観点から、自然において最も完全に安定していると思えたもの、それは人のことですが、あたかもマジックのように突然に世界で最も動いているものも人となります。なぜなら人は宇宙の新しい空間(内省の領域)での新たな出発であり、すべてのものが自由であり、すべてのものがそこから創造されるからです。

 

この空間は人類の先に開かれている、まったく新しい空間です。しかし同時に、将来に最大になる状態(程度)で構造的に制限されたこの空間は、収束を通してその全体が生物学的最終に達した時に、人間の惑星粒子(全体として1つの惑星粒子)と見なせるものになると論理的に考えられるものです。

 

(訳注)ここに内省の2面性があります。自由ですべてが創造できる空間にありながら、将来の最大値が生物学的にすでに(惑星として)定まっていることです。

 

一度、この「内省の2面性」の理解に目覚めたときには、私たちの最初の反応は、この宇宙の序列が長く注意されないでいたことにかえって驚きを覚えることです。1つの単純な歴史地理的経過が、そのとき私たちの心にはっきり浮かんできて、その盲目を説明し正しく認識することになります。その理由は以下のことです。

人類はその始まりから潜在的に自身に収束(個に閉じて中心化)していたけれども(まさにその材質の内省的本質によって)、そこで潜在していた(全体への)統合という意識に到達するまで、まずは空間的な惑星表面の拡張にいそしむ期間を長く経験し通過してこなければならなかったからです。その期間は人類が地球表面に浸透し占有するのに必要とされた期間でした。

ちょうど(私が他のところで述べたように)球体の極の1つから出て広がる振動のように、人間の波は(あたかも球体の曲面に沿って自身を拡張するかのように)最初は集中よりも多様に広がるように強制されていました。すでに(人類の旧石器時代、新石器時代を含めた、すべての歴史において)人類の拡張と拡散の段階は転換点を迎え、私たちは新たなプロセスの現れに直面しています。私たちは、継続的に人間が内面化する影響にあって、その波が球体のちょうど赤道を越えて突然もう1つの半球に入ったところに例えられます。そこでの前進は、極から赤道に向って広がる拡張から、今度は極に向かう収束への転換となり、必然的に新しい雰囲気を伴ったより密接な接触へと強制されるにちがいありません。

この惑星での占有領域が飽和に達した人類において、新しい社会の拡張がいろいろな栄枯盛衰として歴史の書籍には(しばしば無益なように)書かれています。これらのことは実際には大いなる事象です。人類の収束現象が優位となった段階では、精神圏(Noosphere)において集約的な内省が垂直的に成長し始めており、また同時に、いままで隠れて見えなかった先への統合ということが水平線に上ってきています。今後はそのなかに、私たちは絶えず速度を速めて有機的そして精神的に入り込んでいくことになります。

近い未来において、私たちの科学的な関心は、まさに「先にある」進化の究極の点に、継続的によりいっそう引き付けられていくにちがいないと私には思えます。このことが識別できると思えることがあちこちに多くあり、その基本的な特徴や本質的な特性をこれから見ることになるでしょう。

 

しかし、人の現象の極限にあるものについての適切な質問に行く前に、まずは私が上記で採用した観点からみて、内省が地球上に出現し発展したことに対し、熱力学の冷酷な(エントロピー増大という)エネルギーの法則にいかに対応するかという問題を、どう解決するかについて考えたいと思います。

 

III. 内省とエネルギー

 

物理学と生物学の間の接触を困難にし、依然として両者の協調を遅らせているのは、究極的に言って一般の物理学にはエネルギーの問題があることです。

物理学においては、必然的に最も抵抗が少なく最も可能性(確率)の高い配置や形状へと動く物質を扱っています。一方生物学では、物質の動きとして(生存への必要から、まさに何らかの努力を要する)より不可能な方向、すなわちより複雑になっていく配置の物質を扱います。

この物理学のエントロピー増大と生物学の「個体発生」の間にある基本的な矛盾を解くために、19世紀の生気論者はある種の(測定可能な)力が有機物質に働くという概念で説明しようと試みました。しかし、この考えは実証的論理的にすぐに根拠のないものになりました。それは同時に同じ宇宙に2つの独立したエネルギー原理を含むことになります。1つは物質固有のもの、もう1つは活性化した物質(生命)ということです。

今日では、この問題にあえて直面する勇気がある学者はほとんど見あたらず、そういった困難は回避する方向を模索しているように思えます。その妥協の1つとして言われるのが「究極の領域まで掘り下げると、生命は実証的に熱力学の法則に従うように思えること、そして宇宙を全体としてみれば生命は量的に少なく、あまり意味の無い事象を表している。」ということです。けれども、この回答は問題の根本にあるものを避けていると同時に不適切にそのデータを最小化しています。

実際、生命が経験の領域における時空間の量として信じられないほど小さい占有度にあることは否定できませんが、またエントロピーの流れのある、まさにその中で竜巻のようにそれに逆らって生命が生まれ発展した、ということも否定できません。また、私たち地球のケースを研究するときに、以下の一連の事実を見逃すことはまさしくでき\ないことです。

 

a. 1つ目に、「エントロピー増加」の中で生命の竜巻が現れたとき、まさにそのとき、その出現の機会を許したということ(惑星における生命の誕生)があります。

 

b. 2つめに、この竜巻が現れて以降、その生命は「エントロピー増加」に逆らって、できる限りより強く、その存在を明確にして、成長してきたこと(生命の惑星的内省)があります。

 

 c. 最後に、大きな分子(細胞)の活性化の現象は、それは私たちが生命の有機体を観察して驚きを見出すものですが、これはまったく原子が分子となる現象の継続として考えられるものであり、究極的にはエネルギーの基本粒子の働き以上のものではないことになります。それは即ち、その物質や動きの履歴の全体において、宇宙と関連し宇宙を定義するプロセスであることです。

 

a点 活性化が始まり、まだ配置の動きの無い状態

b点 活性化の動きが最大(最大複雑)になる点

c点 エネルギーが解放される点

 

実際、もしこの宇宙のエネルギー状況を私たちの経験に客観的に理解できるように図で表現すると、図1のようなシステムとして考えてみることができると思われます。まず物質の活性化が起こり、エントロピーの増加に対し優位となる活性化によって生じた蓄積(複雑さ)を積み上げます。ここではOX軸の方向に右上がりの角度ですすみ、OY軸には明白に活性化された事実を表現します。宇宙のエネルギーは全体としてその複雑性(原子化、分子化、活性化、内省)を通した曲線に従って、初期の伸張の状態から最終の伸張の解放までをエントロピーの影響において経過することになります。

この曲線にそって、少ない努力と高い確率の法則に調和してこの配置が究極で捨てられるまでこの動きは発展します。ここでは、一般のエネルギーが生命と協同(そしてより一般的には粒子化のすべての現象と協同)して、必然的にエントロピーの単一の軸において築かれていることになります。ここで、2つの軸方向があり、1つはより確率の高い方向、もう1つはより複雑に向う方向です。

 

このとき全体としての問題は以下の事項に依存します。

 

a. 1つには、OYにそったabcの曲線が(より複雑な方向へ)上昇したことは、より大きな確率に向うOXの軸の方向で世の中の一般的な下降傾向の、単に一時的で副次的な効果であったのか否かということです。

  

b. もう1つは、(もしa.の答えが否定的なものとすれば)この曲線がその最大位置のb点に達したときに、実際OXの軸に向って再び下降するのか、それとも反対に、b点に達したときに、特別な変化を起こすのかどうかということです。

 

このb点でどうなるかに関する疑問について、経験上の扱いには耐えられない、あるいは各個人の知的好みや哲学に依存すると思われるかもしれません。しかし私がここで示したいと思うのは、内省の進化現象のまさに本質にある、「不可逆性への要求(後戻りしないこと)」において、私たち人類が現存しているならば、科学としての論争への何らかの提起としたいと思います。

 

IV. 内省の不可逆性

 

前述のエネルギーについての分析から、いずれの場合でも進化として物質が複雑化していくこと(あるいは同じことですが、内省によってエネルギーが内部に充実すること)は、経験的に、あたかもそれ自身の方法として決められたような宇宙的プロセスとして、エントロピーに融合して現れているように見えます。

 

OYの軸にそった蓄積の事実は、ちょうど偶然によって制御された役割の結果として、物理学で言うところの要素としての不確定性が、特別な構造(より大きく十分に促進的な生命粒子)のなかで、それが究極的に「内省的な選択」が形成されるまで、必然的に集まり拡張するということです。

そしていったん閾値を越えたピークが得られると、ここでの確定は(実際まったく反対に)その後の作用が消えることはなく、後戻りすることがありません。

 

1つの例として、「自由」の人は自身でその存在を感じ(信じ)てはいますが、その人は、(まさに経済的、精神的)要求からは逃れられません。その要求は個人的に集約的にその人に内省することを強制します。それゆえに、自身でより一層その存在を内省します。というのは、その人がいったん考え始めたら、彼が考えることによって、彼がより一層考えることを持続させ記憶に留めるので、ある程度それを止めることができないことになります。これが真実であるとすると、人間化の初期から続く必然的な形態あるいは本質において、先ほどの曲線abc(図1)で発生した動きは、(b点で)意味のある変更が生じます。なぜなら人において進化は意識となることであり、(少なくとも人において)それが自身に作用することの両方であり、同時にそれは自動的に未来を予見する力を発展させるものだからです。

 

このb点での変化は、いままでの自然の仕組みを十分に説明する構造やプロセス越えた問題として、進化の動機についての微妙な問題を提起するのにどうしても必要なことです。ここで私たちは新しいタイプの生物学的問題を持つことになります。それは人のエネルギー学を築く他の一般的な問題(これも私たちには重要な問題ですが)を越えて、明日に優位とするべきものとして、私たちの心に静かに感じられるものです。この重要な事象を、特別なそして特別に明確なケースとして、正しく理解するように試みる必要があります。

 

産業界の(理想的な)大企業の領域での、生産性についての専門家によると、工場の生産性は労働者がその仕事にかかる情熱に機能的に依存していると評価されています。同様に、人類が経験を持ち始めてからの重要な積み重ねにおいて、そこに達した段階としてではなく、なされた仕事について見ることが必要です。1つの完成は究極的にそれを追い求める才能の高さや技術の巧妙さに依存しています。このことから、人間の未来は物質的な資源の「確かな富」というよりも、仕事に「熱意をもってかかる」という確かな情熱に依存していると認識できることになります。

 

しばしば私が書いていることですが、(決して誇張して言うのではなく誰もがわかっていることです)、明日の人類が豊富な鉄、石炭、ウラニウム、小麦などの山に立っていても、もし何らの機会を見逃して人類の熱意が失われ、その生活や生存に対してだけでなく、先の人類に向って生きる情熱が弱体化していくならば、ここまで続いた宇宙のプロセスとは何なのでしょうか。(このブログの「生きる熱意」も参照してください)

最大の収束と内省(そして私たちに最大の努力で追求して獲得されるもの)に本来的に到達できるならば、これからの人間の進化は、その決定論において、経済の背後にある押す力を越えた、何らかの精神的な本質からの「引く」力を含む必要があります。

 

ある意味で冷酷な力として粗野な表現ですが、現代の「人間大衆のエネルギー」の発生という状況があります。しかしそのとき、私たちの進化の可能性の実現に本質的な「引く力」を起こし発展させるものを、どの方向に探すべきでしょうか、どの形態において私たちは想像すべきでしょうか、またどの条件によって客観あるいは客観的なものを定義すべきでしょうか。

この関係で、私にとって以下の2つのことが、要素を考えた心理学的分析によって、はっきり述べることができると考えます。以下の説明から、図1に表された進化の動きの不可思議なb点の本質に関して、この宇宙としての曲線を描くことができると思います。

 

1. 人は今(内省によって)精神圏(Noosphere)の収束が引く方向に未来を意識するようになっており、彼の行動での嫌悪感がなければ、彼は次のようにするにちがいありません。彼がb点に達したときに、より可能性があっても動きがなくなる下降に向うことを避けて、何らかの方法で上昇する竜巻の方へ、彼がその中で現れ彼自身がその上昇に責任があると気づいた方向へ向います。もしそれで窒息しなければ、進化は内省的となることによって、「循環する閉じた宇宙」の中での進行とはなりません。これは活性化であって全体の死の仮説と反対のものです。

 

2. 2つめに、もし人が、最大まで活性化する力の行使を予測して嫌気から単に逃れるのでなく、(彼がそうあるべきとして)そうすることに積極的な熱意を向けるならば、いまや彼は進化を超える感覚を発展させたことになります。もし究極的にその下降を逃れるならば、もっとも本質的で「内省的な」彼の存在の心に抱くすべてを(まったくの究極の頂上として)充実させて行動するという希望を持てるにちがいありません。

 

これらの2つの条件は同時に以下を満足します。B点が曲線のピークとして微分係数が0となる頂上の点ではなく、(1) 分岐で屈曲する点であり、図2のようにb - dの支流に分かれて指数的に上がることであり、(2) (同じことですが)惑星的内省のより高い限界点を目指すものとなっていることです。

この越えたものを現在の私たちは何も識別できないけれども、それを越えても宇宙はなお継続するとは言う事ができ、それは他の次元のようなまだ表現できないものに相当することになります。

 

 

それゆえ先に私が約束したように、内省が不可逆的であるという特徴の認識は、生命とエントロピーの関係を与える図にある程度表すことができると思います。

広い意味で言えば、生命は宇宙において単に確率の効果において現れたと言うのはまったく真実です。しかし究極には、もし同じ生命が「内省」的形態において研究されるならば、生命がそのなかで進化を機能できるためには、生命はその確率を自身の目的に仕えさせる力を意識している必要があるのは明白です。そこでは隠れた決定論によって仕組まれたある種の脱出があります。

 

そうすると、この宇宙において内省を単に一時的な超構造とするような神秘なものと認めることは絶対的に不可能です。生命自身が意識になるとき、それ自身は私たちの経験に自己の進化として示されます。しかしそれは必然的に自己(自身)の意識である必要があります。この本質的な自己一貫性はそれ自身の存在であり、これは以下の2つのことにおいて明快に示されます。

 

a. それは内省する粒子自身が互いに内省する集合から排他的に誕生していること(互いに内省して集まるといえども排他的に生じており、粒子としての独立性があること)

 

b. あるいは、単に潜在するもの(確率が高いこと)としてではなく、真実の宇宙の収束としての、最高の中心の存在を要求もしくは公開していること(内省の究極には最高の中心の存在が必要であり、それが潜在的なものではなく、実際にあってそこへ収束していること)

 

まとめと結論

 

いままで考慮してきたいろいろな事項は以下のポイントにまとめられるかもしれません。

 

1.  初期の人間の個々の状態をみれば、内省とは(単なる意識から自己を意識する存在への変化であり)、生命の2つの種(前人類と人類)を互いから分ける境界点に相当します。

 

2. 内省する生命が要素として個々の内に初期化されると(内省のない生命の継続した動きが新しい領域へ変化すると)、それは人の技術革新と文明のまとまりに密接に連携しながら集約するプロセスに続き、この多様化しながら強まる動きを決してやめることはありません。

 

3. この内省が(限界ある惑星としての「量子」に作用しながら)究極まで続くプロセスであると、そこに最大に収束する極点を識別できることになります。内省する生命において本来的にある不可逆性に対する要求の結果として、この極は一時的な(閃光のような)状態として認めるべきものではなく、より高い(内省の)限界閾値としてあるべきものです。私たちの経験に関して言えば、それを含んで越える複雑性-意識の進化の曲線がこの時空間において現れています。

 

4. 最終的に、エネルギーの観点からは、あたかも宇宙は、1つの単独の軸にそってではなく、2つの結合した軸にそって発展を続けていくかのようです。1つの軸はより大きい確率(エントロピー)であり、もう1つの軸はより複雑へ向う(生命)ことです。意識は(熱力学の必要条件と調和して)エントロピーの機能の1つのように発展します。しかし究極には、派生して離れたエネルギー、あるいは共通エネルギーの内部化された部分として、内省の特別な効果によって有機組織の崩壊から逃れます。

 

5. そして次のように言う事ができないでしょうか。(生命を含む)宇宙の進化の仕組みを説明するために、すでに受け入れられている、エネルギー保存則とエネルギー消費則(エントロピー)という2つの原理に付け加えて、3番目に「エネルギー内省の法則」を付け加える必要があると思われます。

 

以上

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