Noosphere<精神圏>

進化の途上にある人間、これからどう発展するのか。

教育と社会における遺伝

2014-12-24 23:54:22 | 教育について

生命が人間まで至り思考を得て、内省するようになると、生命のもつ衝動としての意識の上昇には、生物学的な遺伝だけでなく、親の世代から子の世代へと伝わる社会的な遺伝も考えられます。ここで教育とは遺伝と同じ働きをもつ機能ではないかという提起があります。教育が重要なのは皆がわかっていることですが、ではなぜ重要なのでしょうか。

 

教育と社会における遺伝

ピエール テイヤール・ド・シャルダン

 

1.生命と教育

 

自然科学の分野で、生命体の持つ最もはっきりした特徴の1つに形質が「付加」されていくという特性があります。それは「記憶」という機能を持つかのように、生命体は継続的に休みなく獲得したものを付加して、その機能を増やしているとしばしば言われます。

すべての生命存在はその後継となる種に対して、単に多様化するだけでなく、その種が属する流れに従った、ある与えられた方向が強調されて継承されています。そして、生命すべての流れについていえることは、その本質はともかく、各々の形質における変化は、多かれ少なかれ自発性と意識を高める方向に動く傾向があるように思われます。生命体の進化の長い連鎖を通じて、何かが作用し成長させています。これはまさに事実であり、また法則との言えるものであり、この発見はこの約2世紀の間で、世界の見方を一変させてきました。

前もって決められていたかのように「付加」されるという特徴は、生命存在のどのようなメカニズムによって、あるいはどんな様子で見られるのでしょうか。この現象の本質的な部分は生殖の瞬間に起こることです。その生命の継続する波は、親の生殖細胞を通して、その生命体の実体としての特別な特徴を、子に伝達させることが必須条件です。生物学でいう進化は、基本的には遺伝的な伝達についての影響にあるはずです。これが生命の科学によって細胞遺伝の現象がより集中的に研究される理由です。

 

しかしここに説明に窮することが起こります。

今述べたように、動物学的進化のあらゆる連鎖を、かなりの長い期間に渡って(足や歯の形状、脳の相対的な発達などを)観察すると、ある決められた方向にそれ自身を変化させているように見えます。化石の時系列的な観察と分析によって、連鎖のつながる部分で確かに特別な特徴が付加されていることに気がつきます。疑いなく何かが獲得されています。しかもその連鎖のなかの要素は、個々には離れていて、何もこの獲得に活性的に関与していません。初期の発生過程での変態は議論なく受け入れられても、親で獲得された特徴が子供に遺伝として伝えられることについては、遺伝学者たちの間で活発に論議されている問題の1つです。

このような伝達のメカニズムについて確実な証拠はまだ見つかっておらず、今も多くの生物学者はこの獲得形質の遺伝を認めていません。この状況は次のように説明されています。生物学的な連鎖における個体の継承は、それ自身の活動によって影響を受けたものは何ら含まれずに、それ自身の生殖細胞に伝わります。この生殖細胞から生体となる「細胞」が成長しますが、生殖細胞で進化の発達が生じることについてはまだ未解明であり、獲得部分は従属関係であって形質への変化は不可能というものです。これはかなり不可解な仮説に思われます。個体が属する特定の分岐あるいは種の発達に関するすべての相互の関係を、その個体から取り除いてしまうという重大な欠陥があります。

私がここで提案している、生命が特徴を「付加」するメカニズムを、その活性化や動的な形態において調べようという目的は、遺伝の研究者たちがまったく無視していることです。細胞という極小の空間で起こっている、この秘密の過程について、まだ完全な研究の方向性は適用されていません。しかし、ここからちょっと離れて、私たち自身のスケールではっきりと見える現象を対象に、進化の分野で起こっていることに注目して考えましょう。

 

それは教育ということです。真似(まね)をすることによって、改善、行動、生殖などにおける伝達の例です。私たちは奇妙にもいろいろな理由から、生命の発達におけるこの機能の意味を重要視しない傾向があります。教育とは広範囲な現象で、一般的ではっきりとわかっていて、しかも目立たないものであり、そこにはどんな特別な理屈もありません。その上、もっぱら人間の成長と連携していて、何ら普遍的な生物学的価値がそこにあるとは、あまり思われていません。結果的には、教育は私たちの生活に偶然的な機会としてあって、不安定に変化する優雅な環境によって維持され広がっている、個々の表面的なシステムと考えられています。そうではなく、教育が生命の前進にとって避けられない、決められた道筋を基礎にした深いものとして、私たちは考えることができるのでしょうか。いろいろな議論が現れて提示され、混乱して理解され受け取られていて、自然科学者や物理学者たちには価値のない「付帯的な徴候」として見棄てられ、「教育的要因」は私たちの注意から間違いなくそらされています。しかも、それに対して反対や修正などの正当な反対意見の提起はあまりありません。

しかし、3次元空間、物質の落下、光の拡散、植物の成長などよりも、もっと普通に考えるべきことは何なのでしょうか。教育は確かに一般的なことですが、私たちが最も一般的で毎日の経験にあることに、価値の根本的な構造を発見すること以外に、何が科学の基本的な過程と言えるのでしょうか。

教育は人間の現象に特に関係しているとも言われます。疑いなく、そこでは合理的な教育についての問題があります。しかし、私たちは動物たちの世界においても心を開いて、知覚の発生や発達について、よく観察すべきです。それは、あらゆるケースにおいて、すべての動物に共通の特徴を含んだ試行の結果として、心というものに変化した「人間」という存在があるということです。私たちの影の中にある、遠い過去に延び闇に消えた、その始まりのものを見つけるべきです。

犬や猫あるいは鳥はそれぞれ無数の方法で、狩や飛ぶこと、巣をつくることを、その後継者に訓練します。猿ならばより以上のことをします。経験や発見による蓄積された成果が伝えられなければ、私たちはビーバーや昆虫たちのはっきりした行動パターンをどのように説明したら良いのでしょうか。こういった現象は、研究対象の生命体が十分な程度に行動の自発性を獲得したときにのみ明確になります。集団としての生活ならば、もっとはっきりします。ここで、教育は普遍的な生物学的機能であり、生命世界の全体性とともに拡張したとして、少なくとも実際的な目的で追求することが必要ではないでしょうか。

けれども教育は、生命の伝達機構で一旦消去され重ねられる、外因性のメカニズムであることも付け加えたいと思います。しかし、ベルグソンは、「有機的」に決定される」部分と胚形成の経過における「自発性」の間にある、一般的感覚として引かれる境界の任意性を指摘しました。雛が卵からつついて出るとき、そのつつきを導いたのは、生殖細胞なのでしょうか、神経細胞なのでしょうか。

 

同じ厳しい質問は、「個体発生」の場合にまたしても起こります。その発生プロセスの説明となるとふたたびまったくの当惑しかありません。

どの時点で母親は子育てをやめるのでしょうか。誕生後母親が最初にえさをあたえるとき、あるいは離乳とか、獲物の狩を教えるときでしょうか。実際には、2つの異なったレベル(母親としての純粋な器質的機能のレベル、母親の意識行動が他の意識に適用されたレベル)で継続的に作用しているけれども、起こっていることは、連鎖の1つの終端から他の端へと外面的につながる1つのプロセスであり、これは多分そこで行動する可能性であると言われます。私たちは獲得形質の生殖細胞による伝達を拒否している生物学者の説明について話しています。彼らは子孫を知ることなく死んでいく無数の昆虫たちのことを考えないのでしょうか。

私たちが推測したように、これらのパターンは季節や生命の変態、異なった配置によって、その時々に自然発生的な検証によって発見され、その親がそれを知って子供を育てたこと、すなわち教育の結果としてのことが、物理的に決められる、大きさや色などの種の特徴とともに受け継がれ、最終的に生殖細胞に入れ込またことを事実的に意味することになります。

 

そこで、教育は生命体について偶然の表面的で追加的な現象というのではなく、元からあり本質的な生物に「付加」された形質とするのが、私には正しいと思われる結論です。ここにおいて、形質形成の過程での、個々の生殖遺伝において、些細な意識の状態をちょっと垣間みることになります。この段階の有機的な突然変異は、まるで親から意識的に伝えられた発明であるかのように思えます。そしてまた、これはあまり言われることはないのですが、私たちは教育を通して、個人を超えて集約的な段階になり、社会的な組織となることのなかにも、遺伝をみることができます。

この問題の見方でもっともはっきりした収穫は、一般的な生命のテーマに到達することができるような、協調して統一されるという考え方までに特異的な広がりがあることです。しかし、もう1つの利点があります。それは、私が特に考慮したいと思うことです。それは人類の教育に影響するすべての重要性と尊厳に新しい光をもたらします。

 

2.人類と教育

 

生命は人類に至って、共同体にある個人と社会に、最も高い程度の発明という選択を得ています。この2重の理由に対して、教育の現象は、人類に与えた影響として、何か他の場面よりもより明瞭さをもっており、より尽きない研究が要求されます。

私たちの誕生以来、人間は教育の雰囲気の中で呼吸しているので、教育と私たち自身の関係や意味、その影響を考えることがあまりありませんでした。けれども、もし私たちがこの見方を改めて見ると、私たちを驚かせることが多く見出せるようになります。

 

次の検証は考察の価値があると思われます。それは私たち自身が人間社会の生活に負っていることすべてのことを奪われてしまったと想像して見ることです。まずは科学技術の革新によって多様化した最新の通信に関するすべてが消えてしまう必要があります。

そして、それだけでなく工業や農業からも切り離される必要があります。私たちは歴史を忘れなければなりません。私たちは、言語でさえ存在しないと仮定する必要があります。端的に言えば、ほとんど何も認識できない状態に限りなく近づくことになります。そこでは、私たちの意識は人間の連携すべてから離れて、世界に面して丸裸の状態で立っていることになります。

そのとき、私たちの本質には何が残されているのでしょうか。私たちの心の目には、単に私たちの身体の外面が写されているのか、あるいは精神そのものが照らされるのでしょうか。今、このプロセスを逆にしてみましょう。いったん捨てた教育の層を構築し直しましょう。そこに、もう一度私たち自身に服を着せてみましょう。

しかも、どんな困惑があっても、私たちの歴史で積み上げたものを再び作るとしましょう。そこでは、何と計り知れない労苦が各々の衣服を編むことに使われるのでしょうか。試行錯誤に終りのないような時間が、無数にも及ぶ多数の人間の手が必要になるのでしょうか!

私たちはこう考えるでしょう。「衣服なんて、すべてが外面的な装飾でまったくつまらないことだ。1つの大災害が世界全体を荒廃させて、人類をその初期の状態に、最初に思考が地球に生まれたときに、逆戻りさせたのだ」と言うような状況かもしれません。ここで、私たちは人間が忍耐と継続のなかで獲得してきた「蓄積する」という方法を認めざるをえないし、それゆえに生命それ自身の印をそこに認めることができるでしょう。生命とは不可逆的なプロセスであり、その不可能性から生じた必然性によって、一貫した「もろさ」があります。

むしろ次のことを事実として受け入れてみたらどうでしょうか。人類として、その現在の状態と現実の機能からすれば、ゆっくりと追加しながら教育によって広まってきたことは、器質的に人と分離できないということです。人が集約する経験によって、ゆっくりと創造されて有効として残ったものが伝えられる、この教育という「追加ゾーン」は私たちの各々にとって、ある種のマトリックス(織り込まれ組み合わさったもの)であり、それ自身の方法において、「母の子宮」と同様に現実のものです。それは真実の「種の記憶」であり、その上に私たちの個人の記憶が書かれ、それを通して人類自身が完全になっていきます。

人間という種の特別で特異な例への適用から考えると、教育は単に「従属現象」の1つではなく、生物学で言う遺伝の統合部分であり、そこには全体像を描いて浮き上がらせる一貫性があり、まさにこの一貫性から疑いない検証が引き出されます。

しかし論理としては、もう少し先に進む必要があります。生命のもつ器質的な追加は、現在の科学が言う堆積物を形成する層のように、1つ1つ追加された特徴の重なり合いとは、まったく違うことです。生命は単なる「雪だるま」ではなく、その成長の特別な方向に従った、持続する循環を持った1つの大樹のように行動しています。教育をその要因の1つとしてだけでなく、まさに進化という不明確のまま普遍化した言葉によって示される過程の、1つ形であることを受け入れると、1つの世代から次の世代に、教育によって維持され伝えられる知識や獲得されたものは、その方向を見ることができる、本質的な進化の系列を構成していることになります。

そしてこれがまさしく起こっていることです。

 

最初ちょっと見たときは、人が列車の中でごちゃ混ぜになったように、ひっきりなしに成長する検証や組織や理論の内に、何らかの序列を識別するのは困難に思われるかもしれません。懐疑主義者は純粋に量的な進歩であると言いますが、もし私たちがちょっと後ろに下がって立って、この現象の全体を見れば、すべてが混乱なく見ることができます。そのとき、この蓄積された特徴の数々は、あまりに膨大なので当惑していまいますが、実際には1つの顔として描けることが明らかです。人類全体としての顔がそこに誕生し、歴史を持ち、自然な環境と外部に働く力があり、そしてその精神の秘密などの知識がゆっくりと獲得されてきたのが明らかになります。

 

「私たちの成長に伴って、過去の家族や現在の責任、野望、愛、に気がつくようになって、わたしたちに起こるすべてのことは、人間の種全体が誕生から成熟までの成長を通過する、はるかに巨大でゆっくりしたプロセスの、短い繰り返し以外の何者でもないということです。」これは何回も言われることですが、私たちはこの真実の強さや完全さの程度を理解して考えているのでしょうか。ここに個人としての人の成長において、それを通して人類の成長が現実になることが示されているのです。

もし文章の言葉で判断するならば、私たちは先祖の世代より知的とは言えないことは全く本当です。しかし、蓄積された努力のおかげで、過去の人の次元、要求、潜在性、希望、そして私たちのまわりの世界の深遠なる統合について、それらをより良く理解しているのは否定できません。時間の経過において、集約的人間の意識の状態は、前進して進んできており、それは続く世代の個人の意識に継承され、そして各世代が何かを付け加えています。

個人によって確かに維持され、しかし同時に個人がまとまりの形成を継続しながら、ある種の普遍化した人間個性を形成する過程が地球上で見えてきています。

人類に関して、教育の特別の機能は、個性で継続した発達を、果てしなく変化する大衆へと確実に伝えることであると思われます。すなわち、集約する人類のなかで意識を拡張しそれを確かにするには、すでに個人の範囲だけでは限界に達したということです。人類のケースでは、教育という特別な機能の充実は、生物学的本質と価値において、精神の拡張についての最終的な証明になりうるものです。

 

3.教育とキリスト教

 

これ以降の文章はキリスト教の教師を対象にしているので、キリスト教的な超自然の次元において概観するという考え方に変えなければなりません。そうするとどうなるのでしょうか、そしてこの「創造」という新しい領域において、どのくらい完全に発展させられるでしょうか。

 

定義そして本質として、キリスト教は神がイエス・キリストにおいて現れたとする宗教です。神が創造した世界を神自身に統合しつつある、神自身におけるある種の統合です。イエス・キリストを崇拝する者にとって、これは宇宙の歴史を表現する行為です。

しかし、この天国までのゆっくりとした地球の克服と同化はどのような作用といえるのでしょうか。量的には、人間の精神の多様さが増えつつある神秘的な実体に「その数が完全となるまで」追加されることです。しかし質的にも、確かなキリスト教的視野にある教会の範囲内で、安定した成長があります。キリスト教の組織は、信条と神秘の生活にある伝統を通して、キリスト精神と行動への積極性によって、世界の充実により覚醒した感覚を表現し広めています。私たちはイエス・キリストをより多く発見しながら、彼を愛しつづけることです。それと数の拡張で充実する集約の意識が成熟すること、この2つの側面は神が人としてキリストに現れた(Incarnation)という歴史的な展開において分けられずに連携しています。

そしてキリスト教においても、あらゆる領域で生命の広がりを制御している「付加」についての、不思議な法則と社会的な遺伝があります。同時に、この教育の基本的な役割に、新しい領域として人間行動の神聖な教示が示唆されています。

しかしすばらしい予測もあります。私たちが先にみたように、人間の努力は、その「本質的」な側面において、ある種の集約された個性化の方向に向かう傾向があります。その流れのなかで、個々は全体としての人類の意識を、何らかの程度で獲得するだろうということです。そして、超自然的な側面から見ると、この努力は、ある種の神聖な環境の関与で、それ自身が表現されて最高潮に達します。そこでは各々の個人は最高の個性の存在とともにあるという意識の共有において、自身の個性の最高のものになるということです。

この2つのケースはあまりに似ているので、全体としてお互いに分かれたままで考えられるのでしょうか。あるいは、この2つの集約する意識の傾向は、1つが人類に向かい、もう1つはキリストに向かうもので、元々同じ事象のレベルが違うだけで、互いが関係しているのではないでしょうか。

この2つの選択肢が真実であると仮定すると、それはすなわち、神聖な目的において、2つの衝動は1つのものであると受け入れることですが、キリスト教の人間性の心構えは、その本質において、そのすべての輝きのなかに定義すべきことです。

 

キリスト教にある人間にとって、神が人として現れたこと(Incarnation)の最も確かな考え方に忠実なことにおいて、この世界の人類の起源と、神の教会として人類にキリストが出現したことは、分離も不調和もなく、一貫した関係があります。

この2つのプロセスは必然的にその仕組みに関連性があり、2番目のものは1番目を超活性化するために、人間の世界に下りることが、まさしく重要なこととして要求されます。統合に向かう運命にあるという意識が急速に増加するなかで、この見方は、経験から知る人間の思考が集中し前進することに、全く必須なことです。それは、進化のプロセスの究極の最後として、はっきりできない収束の中心のかわりに、「神が人間として現れる(Incarnation)」という神聖な言葉において、現実に個性となって定義されたものがあって、ここにすべての現れや起こりに一貫性を得ることになります。

生命は人間をめざし、人間はキリストをめざし、キリストは神に向かうことです。

そして、発展のすべての段階で、途方もない時間の長さで多くに散らばった要素を包み込みつつ、精神としての継続性を確実にしていくために、1つのメカニズムがあります。それが教育ということです。すべての流れは一緒に結合されてそれ自身を完全にして混ざり合います。すべては全体として1つになります。

 

最後として以下にまとめたいと思います。そこでは中心に引く力と統合があるだけでなく、キリスト教の教育者の控えめに思える仕事にもその複雑さがあります。

 

a. 遺伝の生物学的過程は、この世界の始まりから、意識のより高いゾーンへの上昇が起きており、そこで人に至って内省の形態と社会という次元に進んできているのは、主として「教育」によるものと言えます。自然によってすでになされた発達や今後待たれる発展の深くにある「伝えるべき」という感覚に対し、教育者はそれを創造の道具として、その努力に尊厳と情熱を導き出すべきです。彼のあらゆる訓練は、生命が獲得したうちで、最も必然で決定的なものへの愛の表現であり、愛の基になります。

 

b. 共通となる見方と態度が広がっていくことで、心と精神のゆっくりとした収束が進んできており、教育というものがなければ、私たちの将来には生命の衝動にとっての成果は何もないとさえ思われます。教育者は、人類全員が一致を達成できる仕事に直接携わり、その目的が文学、歴史、科学、哲学の何であっても、常に全員が一致することを考えて、意識的にその実現に努力しなければなりません。目的を達成しようとする情熱的な信条とその人間の情熱の輝きは、その教育の実践に光を与える炎です。

 

c. 最後に、神が人の形をとった(Incarnation)とする神聖な言葉における世界のゆっくりした統合を、直接的、間接的に確かとするのは、教育という手段によって可能なことです。間接的には、集約に向かう人類の心がますます内面的になっていくことが、この高い変容への準備となる段階であり、直接的には、イエス・キリストによって歴史的事実として解放された神への感謝(恩寵)の流れが、生活の伝統において生まれて広がることです。しかも、この人間の内面化と神聖という、2つの影響を伝え全体的な効果を追い求める教師は、その分割できない構造関係の証拠を見て、そのあり様に圧倒されるにちがいありません。

他の人に経験と理解を教えるためには、すべて人間のどのような豊富さであっても、愛の不滅の中心へ「付加」しつつ、すべてのものを最も貴重で不朽のものとしなければ、単なるカスでしかないことを経験し理解することです。このことはキリスト教の教育者によって授けられる究極の授業であり最高の知識です。

 

この3つの関連した提案は、完全に調和することで真実の論理的な仕組みを完成します。

今日において人間の教育は地球の表面で考えられないほどの範囲で、予測できない表現や拡散の方法によって広がっています。どんなに多くの図書館、雑誌、学校、大学、研究所、それに生徒たちがいるのか想像もできません。ここにすばらしい全体があります。私たちが今いる新しい時代の広がりを考えると、大いなる物事の核心を真実の精神で授け教えられるのは、キリスト教の教師以外にはないように思えます。なぜなら、キリスト教の教師だけが積極的な情熱と目的を持ち、人間の努力と豊かを投資する力を持っており、キリスト教の教師のみが、使う意識と伝達する意識の両方において、教育者の機能全体を充実する位置にいるからです。

 

1938. Etudes, April, 1945. 

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原子爆弾についての考察

2014-12-07 00:24:04 | 進歩についての考察

原爆が広島や長崎に落とされた問題は、いまだ日本人にとって心の底に残ることですが、西洋や東洋を問わず闘争を好む人たちは原子の炎についての魅力は捨てがたいものがあるように感じます。ここでの話は、生命の流れにおいて、原爆を実現させる理論や技術の進歩が、精神現象の基礎にある原子のしくみの解明に向かう序章である、との位置づけになっています。個人的には現在原子核を構成するといわれる、クォークのスピンあるいはフレーバーや色も何か学者のまやかしのような気がしており、もっとすっきりした基本構造を解明してもらいたいと思っています。そこに精神を作り出す元の機構があるはずです。人類が核爆発や伝染病で滅びる前に精神の構造がわかり、しかるべき優秀な新人類のもとで制御できるようになってほしいと思います。


原子爆弾についての考察

ピエール テイヤール・ド・シャルダン

 

1945年ある日の早朝、アリゾナの荒地で、まぶしい閃光がはるか遠くからでもわかる明るさで炸裂し、昇る太陽の光線をさえぎりました。そしてものすごい爆発音が続きました… これが起こったことです。その日が人類の科学によって、地球上で原子の火が最初に燃えた日となりました。しかし、人類はこの新しい稲妻の閃光を熱心に追求して創造の夢を実現し、その成功に驚いたものの、人類自身が手にした影響を理解することは疎かになっていました。その身体に影響はなかったとしても、その心には何が起こったのでしょうか。

 

私はこの原子エネルギーを解放するという行動の本質的な道徳性についての議論や防御をするつもりはありません。アリゾナでの実験の翌日に、物理学者によって成功という結論があったけれども、その発明の危険な成果について、抑制し廃棄すべきだと敢えて主張する人々がいました。あたかも最後の最後まで知識と行動の創造的力を追及することがすべての人の義務ではないかのようです。どんな事象においても、そこから出発する流れに従うことに対し、それを抑える何らかの人間の思考が地球には存在します。

私は、この人間の事象に起こった核エネルギーの政治的あるいは経済的問題を調査しようとするものでもありません。この恐ろしい脅威のある力をじょうずに制御しうまく使うことは、世界中の技術者たちが答えるべきことです。私にとっては問題の解決に必要な一般的条件を考えることで十分に思います。それは国際的な観点からすべきことです。1945年8月18日付のアメリカの雑誌ニューヨーカーでは、以下の注目すべき記事が掲載されました。「政治家による新しい世界の政治計画は十分すばらしいと言えるものではない。原子のエネルギーを有効に使う唯一の方法は宇宙的な構造を対象とした政治エネルギーにある。」

 

ここでの考察の狙いは、私たちの個々の心により間近く関係し、しかも恐らく底深くにある理由によって、今回の原子爆弾のケースにおいて、発明された事実から起こった発明の効果を単に調べ考察することです。私たちの各々の行動、そしてより多くの新しい行動が、それに続く内面的な適応に深い影響を持っていると考えています。

 

この爆発物が飛びだし破裂し命を殺傷することは、生命の現象に変化を与えるのに十分と思えます。しかし(基本物質である)原子のエネルギーを解放させることは、人類が地球の表層を初めて塗り変えるというだけではありません。人類はその背後に作用反作用の長い連鎖にある生命現象が動いており、この物質の爆発の短い閃光において、まさにその行動によって少なくとも実質的に、いままで人類自身でも知られていない、新しい存在があることについての考察です。

 

この話の主要なテーマをはっきりさせるために、以下に要約して述べてみたいと思います。

 

<技術革新という面から>

a. その爆発が起こるまさにその瞬間に、原爆の技術者たちは砂漠の土の上にかがみこんでいました。爆発が終わった後、立ち上がったときに、人類は彼らとともに立ち上がり新しい感覚の力がそこに流れ込みました。確かに人類はその力が何回も自身から発散すると感じており、その歴史の流れの中で偉大なる鼓動の動きとなっています。たとえば人類は旧石器時代の暗闇の中で、火が使えることを最初偶然に見出して、それをあえてやってみたときの感覚です。新石器時代では、草原の穂を耕して米やキビやトウモロコシを見出したときです。だいぶ後になって、産業革命の黎明期に馬や牛だけではなく蒸気や電気の機械を使い始めたときのことです。

 

地球の人類にとって、これらの各々の出来事は生命の全体の動きに画期的な変化を印し付けるものでした。しかしすべてが人間の意識の深さにおいて、本質的な変化をもたらした訳ではありません。これらのすべてのケースで、(もっとも有効であったと思われる電気のケースでも)発見が導いたことは、すでにこの世界で解放されていたものを、制御し有効化することではなかったでしょうか。それらは創造の行動というよりも、独創と適応が要求されたことです。その各々のケースでは新しい風を捕まえるために、新しい帆を揚げたこと以上ではありませんでした。しかし原子の力の発見と解放はまったく別の側面にあって、結果として人類の心にまったく異なった影響をもたらしました。ここでは、もはや自由に存在する力を何かに使うという話ではありません。

いままでこの宇宙で不可侵と思われた新しい領域に通じる扉を決定的にこじ開けたことになります。それまでの人類は要求に応じて存在する物質を使っていましたが、今は物質のまさに原初の深くに秘められた力を把握し操作することに成功しています。その深さゆえに宇宙の排他的な特性と思われたものが、人類自身の目的で解放できたということであり、その力があまりに強いので、行動を起こす前に、地球を破壊するかもしれないと何度も考えるべきものです。

 

この勝利の光を目にして、人類はその誕生以来決してなかった高まりを感じない訳はありません。そうであればあるほど、このものすごい事象は単に将来性のないことが偶然に成されたのではなく、人類の行動が知的に協調し長い間準備されてきた結果によってなされたことです。

 

<協調による成果と将来への希望>

 b.それゆえ、それは新しい感覚の力です。しかしそれ以上に、無限の拡張にまで発展する可能性のある力を意味します。アリゾナでの大胆な実験で成功の端緒を掴んだことは、この爆発の前の数分間まで、計算の積み重ねと仮説の検証によって、厳粛な瞬間に最高潮となるべく準備された究極のテストに耐えるための奮闘が続き、それがもたらす破壊についての考慮は、はるかに少なかったにちがいありません。

戦争を早期に終結させるためとか、それに莫大な費用が使われたなどを言うことは、科学自身のまさに価値ある試みに対して、どれだけ重要といえるのでしょうか。数式、計算、実験、検証が研究所で徐々に成果を現して統合されました。それが、何が有効か明確に答えのない毎日で、厳しい検証テストで生き残ってきたことです。夢か現実か、その爆発は正念場という瞬間でした。

そして、その炎は定められた時と場所で、本当に実現されました。私たちの日常の感覚では、不活性で炎とは無関係な物質から、その莫大なエネルギーが実際に燃え上がりました。そのときの人類は、自身に強さが存在するだけでなく、まわりのすべの力を征服することができる方法を持ったと気づきました。1つには、過去の世紀を通じて鍛えられた数式の分析という道具が、絶対的で最終的な信頼を獲得しました。数式による表現だけではなく、数学によって(理論的に)征服することができるという感覚です。

さらに重要なことは、全員一致の行動という恐らく思慮にもなかったことにおいて、全能の道への秘密の手段を発見したことです。人類の歴史においてこれが最初と思われるのは、計画されて雇用された科学的検証のための集団が、先例のない技術革新と戦争という世界の危機とが偶然とは思われない結びつきによって、何百とか1000とかの人々が集められ、それが成功して完成されたことです。

それと迅速にその完成がなしえたということです。個々に離れた期間での蓄積ではなしえなかったことが、この集中した3年間で技術的達成が実現されました。それゆえこの人類の科学の勝利における偉大さは、多くの数の頭脳が一緒に加わって1つの組織になって、同時にその研究調査に対してより複雑でより中心化がなしえて起こったことです。これは単なる偶然でしょうか。ここにおいて地球の他の場所にはなかったような、十分な数の頭脳が十分に集まって組織化され、そのエネルギーが収束したことを示しているのではないでしょうか。

 

今考えると、核のエネルギーの解放の事実とは、それを克服したい思いに酔わせることではあっても、そんなにものすごいこととは思わなくなってきました。それは単に最初の行動ではないのでしょうか。すばらしい事象の連続における単なる序章であって、原子の心との触れ合いに向かう道が与えられたということではないでしょうか。

科学がすでに道をつけた多くの他の拠点においても、私たちは何らかの暴投や爆発へ向かうように導かれているのでしょうか。人類は今、超分子化の創造による物質の活性化に向かっています。ホルモンの分析によって人間の器官の再構成があり、遺伝子や染色体の操作による遺伝と生殖の制御があります。また、精神分析などによって、私たちの心を直接に内部的な解放と再調整する手法が徐々に明かになりつつあります。

底の知れない知的で効果的な力が起きていて、その利用については、まだ人間大衆のレベルでは潜在している段階です。しかし、あらゆる種類の効果は適切な物質(分子や原子)の動きによって生じているのではないでしょうか。

そして、私たちは、この核の分野の閃光で得たことに従って、最後にはすべての種類の物質を再配置可能にする望みがあるとするのは、理にかなっているのではないでしょうか。

  

<生物学的考察、全体の中の部分>

 c.それゆえ、人類は成長する野望の高まりを追求しながら、その力を意識することを最初の成功によって教えられました。それは人類自身が、地球の表面の純粋に機械的な改善とか外面的な豊富さを超えるべきであり、人類自身の精神の成長とその生物学的な完成について、じっくり考えるべきことに徐々に気がつき始めたことです。

歴史の調査や考えられる再構築の巨大な蓄積によって、すでに人類はこれを学んでいます。百万年の間、人類の知識の流れは留まることなく、宇宙の材質を通して上昇しています。この流れは、人類が「私」とよぶものにおいて、それ自身に(意識が)原子のしくみとして内部化しているとする以外に考えられません。すでに人はこの知識の蓄積がわかっています。しかし、人まで至る生命の流れに対して、どの程度の有効な支援が生じたか明らかにできないでいます。

 

しかし今、アリゾナでの閃光の後では、もはや疑いはありません。人類はそれを知るだけでなく、(生命の)本来的な宿命によって、人類自身の本来的根源において将来の支援に責任を持たねばなりません。

最初の段階では、本能的に活性化する(生命の)かすかな力の役割によって精神を創造していくことでした。2番目の段階は、精神がそれ自身の内省の役割によって考察し、上昇する動きが起こって加速することです。惑星のレベルにおいて、物質や思考がまだ分散し眠っていたエネルギーを、生命の目的に応じて結びつけて使うことができるようにするという、この宇宙の法則のことです。それは広い意味において、私たちが存在するという事実から考えて、私たち自身は1つの部分であるという物事の基本を、これからは考えるべきであるとすることです。

 

そこで今日、各々における心において、地球において宇宙的に機能することへの情熱と責任感の意味することに目覚めている人々が存在します。その人々は、いわば彼がそれを好む好まないにかかわらず、そのまさに深さにおいて別の人(新人類)に変化している人です。

 


<人類に必要なのは、たゆまぬ努力>

 d. 現代世界の大いなる敵として「社会の1番の敵」は退屈です。生命が考えなかった、そして考える時間がなかった時代に限っては、それ自身を維持し前進することに直接精を出しており、まだ発達しながら吸収している期間でした。そのすべての間、行動の価値や興味についての質問にわずらわされることはありませんでした。

しかし余暇を考える余裕や「ゆとり」の時間が、仕事との間で干渉されてくると、働く人は人生に倦怠感が起こってくるのを経験します。そして今日では、その「ゆとり」の時間は計り知れなく少なくなってきています。機械化されてきた装置のおかげで、生産そのものだけでなく制御や計算による負担がますます増えて、使われずにいる人間の精神エネルギーの量は、私たちの内面や周囲で、気がかりな率で成長しています。今後、核の力が私たちの仕事で有益に利用されるようになれば、この現象は近い将来に最高潮に達するでしょう。

 

繰り返しますが、すべての現れにもかかわらず、今人類は退屈しています。多分これは私たちにあるすべての苦悩の底にある原因と思われます。私たちは自分自身でどうするべきかわからなくなっています。それは社会的に言って、個人としての争い事や利己主義を追求する無秩序な混乱となり、国家的なスケールでは、武装対立の混乱とか、蓄積された過剰なエネルギーが、良い物の不足から破壊する方向に解放されます。退屈さはすべての悪の母です。

しかし、進化の感覚が人間の意識に起こってくると、これらの嵐の暗雲が低下し分散に向かいます。原子爆弾による未来の経済的影響がどうであっても、その過大評価や過小評価にかかわらず、物質のまさに核において、人間の存在に対する究極の目的を明らかにするという目的は残ります。これはもっと追求されて、まさに最後まで生命の力を明らかにするべきです。

 

人類は原子の力に酔って自身の崩壊へと突進していて、軽率にも究極の炎を灯して、自身を尽しきってしまうということが言われています。しかし原子爆弾の炸裂において、私たちは偉大なる発見の果実を味わいました。そして、それは私たちの味覚に十分浸透したので、もう洗い流すことはできません。それは超-創造という味です。

私にとって原子爆弾のおかげと言えるのは、人類に対してではなく、戦争に対するものです。それは2つの理由で消え去る運命です。1つは私たちの皆がそれを望むことです。まさに過剰で破壊的な武器による、すべての軍備の争いを不可能にするにちがいないと思われることです。しかし、もっと重要なことがあります。私たちはそれを余り考えていませんが、科学が征服し明らかにした多くの領域の広がりにおいて、戦争は私たちの心から消え去るでしょう。たとえ争いに勝利しても、その勝利はすぐに取るに足らない時代遅れのものになってしまうからです。血なまぐさい戦闘の悪夢は、皆の心の一致が何らかの形で成長することで消えていきます。今や本当の目的は、すべての力が協調して励む努力においてのみ得られるものであり、そこでの私たちの未来の行動は、思いやりに満ちた状況に一緒になって収束することだけにおいて提供されます。

 

繰り返しますが、「思いやり」は共通の対象に情熱をもって励まし合うことゆえに、そこで愛の始まりは避けられません。生物学的に上昇に向かう「人間の種」に待つ出口を示すことにおいて、私たちに破壊の脅威となるショックは、方向の感覚とダイナミックな動機の力に影響を与え、最後には(ある特定の範囲内で)私たちを1つの同じ考えにすることになるでしょう。

原子力の時代は破壊の時代ではなく、研究や調査において統合に向かう時代です。最近のビキニでの爆発について軍事的な戦略に対する反応は、人類の世界に内面と外面の両方で平和に戻す方向の誕生を告げています。地球の精神の到来が宣言されているようです。

 

<今後の課題: 地球の精神>

 e. 原子の炎のショックが誘導した精神的な無秩序の状態から完全な平衡を回復させるには、私たちは遅かれ早かれ(すぐに?)基本的な選択への態度を決める場面におかれることになります。その位置によっては、私たちの対立が他の手段によって違った場面で再び激しく始まるかもしれません。ここでは「地球の精神」のことを話しています。私たちは今の不確かな段階で何を理解すべきなのでしょうか。

 

それは自立と孤独にあるプロメテウスとかファウストの精神でしょうか。人類はそれ自身のために、その力の強さによって、見えない恐怖の宇宙に対抗するのでしょうか、その意識の上昇は「自己をコントロールする」という行動において結論づけられます。

それとは反対に、キリスト教の精神による奉仕と感謝の精神でしょうか。ヤコブのように、意識が要求する最高の中心となるように奮闘するのでしょうか。統合の行動によって地球の進化は最終に向かうのでしょうか。

 

力の精神でしょうか、それとも愛の精神でしょうか。私たちはどこで真の英雄、真の偉大さ、客観的な真実を探したらよいのでしょうか。

 

愛と力を2つの対立する形で比較するのは、長い説明を要するので、ここの話の範囲を超えてしまいます。1つとして、それは詩人の心を引き付けるテーマかもしれません。しかし、私が思うことは、動きのある宇宙において、その精神的な一貫性を完全にできるものとして、内省する心自身において、「愛」の真実は現われると考えます。生命が死を通過して流れる完全な一貫性は、最終的に私たち人類の精神全体のメッセージとなるものです。

ここで、人類が原子の炎の征服から始まった道を進むことについて重要なことは、人類がどちらの最高を達成すべきかと追い求めている問題を、きちんと決める(知的に分ける)ことが必要なことに注意してください。要するに、地球の精神の深さの中に原子の炎が投げかけた最終的な影響は、そのなかに進化での究極で最終の質問が輝いているからです。すなわち、それは神の問題です。

 

Etudes, September 1946.

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