生きる意識から精神へ
私たち人間は何かを成し遂げようとするとき、過去の失敗を見直して最も成功に近い方法を考えます。そして成功までの経過を予測し、その状況を頭のなかで事前にチェックし、ときには同好の仲間に協力を求めて役割を分担して効率を図ります。当たって砕けることを繰り返す無鉄砲な行動よりも、頭を使い考えて行動したほうが成功する確率が高いことを承知しています。このような知的な行動は、人間が自己という自覚を獲得し、大脳で記憶を組み合わせて思考するようになり、自己の行動を制御する機能を持った結果であり、この知的な自己の制御によって行動を起こさせるものを、ここでは「精神」ということにします。この精神は人間という知的生命だけに生じていて、人間以外の動物と違って、二足歩行を確立して大脳の新皮質を発達させ、両手を自由にして道具を開発できるようになって、自然の脅威に対抗したり争いを有利にしたりする試行錯誤を積み重ねてもたらされています。生命が知的生命に至るまでの道のりには、進化の長い時間を必要としました。
<生命の歴史と宇宙のプロセス>
生命が発生した経過では、宇宙における星の生成と崩壊の繰り返しによって、生命体を構成する主要な元素たちが作られ、太陽系の地球のように大気があって温度や気圧が適切な条件にあれば、アミノ酸やたんぱく質などの生命に必須な高分子の有機物合成されるといわれます。このような条件が一致して有機物から生命が誕生するには、あり得ないような多くの偶然が積み重なる必要があるといわれます。しかし、それは単なる偶然なのでしょうか。生命が誕生し単純な細胞の種が生じてからも、それが自己増殖するだけでなく、より複雑な機能を追加して、新たな種の創造を繰り返しています。生命体の組織にある細胞が、進化の経過で役割を分化して連携しながら複雑化したことを考えると、そこに有利な状況を単に選択したということよりも、生命の発展そのものが、宇宙に元々あるプロセスの一部ではないでしょうか。この宇宙には生命が生じて上昇していく必然性があるように感じます。つまり、この宇宙では、適切な条件さえあれば、どこにでも生命が活性化し、その生を維持しながらその種が多様化して徐々に複雑になり、知的生命体になって精神を形成する流れが、宇宙のプロセスそのものに思えます。私たち人間は、その始まりも終りも見えないプロセスに巻き込まれ、個々には自由で多様な行動ができ、それなりに世代を積み重ねていますが、そこには事前に決定されている生命の進む歩みがあって、その特定の段階に沿った発展の経過に置かれているのではないでしょうか。
<生きる意識>
生命体とは、閉じた生体組織のまとまりが、自身のなかで活性化を維持しながら、1つの個体として統合した行動をすることなので、それが1つにまとまっているためには、そこに何らかの中心があって、この中心に「引き付けている力」があることになります。この生きている統合体の中心にあって引き付けているものを、ここでは「生きる意識」ということにします。この「生きる意識」は、宇宙のプロセスの途中で突然に生じて、その力を発揮し始めるのではなく、元々この宇宙にその仕組みがあって、適切な条件で形成されると考えるのが自然です。ここで別の見方で考えれば、この宇宙には物質が先にあるのではなく、何らの中心に向かってまとめようとする力が基本にあって、それが物質を作り出しているとも考えられます。
<宇宙のプロセス>
これを発展させて考えると、宇宙における物質とは、そのすべてにおいて、そのなかに「意識の基」としてのエネルギー(あるいは粒子とか波動)を含んでいて、それが特定の条件の下に集まると互いに共鳴し引き合って「生きる意識」となり、生命が起こるとも考えられます。そして一旦生命が生じると、その環境によって経過に多少の相違はあっても、結果的には人間のような知的生命体に至るのではないでしょうか。そして知的生命体はそれぞれの個性や特性を持ちつつ、仲間どうしが引き合って集約し、惑星の精神というまとまりを形成します。この惑星としての精神のまとまりは、銀河や宇宙全体にまで発展していく可能性がある、ということではないでしょうか。
つまり宇宙全体に1つの大きなプロセスがあって、私たち生命体は、その動きに巻き込まれながら、その一部を構成する要素になっている、ということになります。そうなると、地球という小さな惑星に生じた人類の現在位置とは、宇宙全体から見て単なる1つの惑星に起こった事象であって、そこで発展した知的生命体が、先のない自滅の道を進むのか、他の惑星の知的生命と協調して究極に向うのか、試されているということもしれません。
とはいっても、これまで生命が地球上で発展してきた経過には、その長い期間に現れた多くの種が、突然の自然災害や厳しい環境変化を乗り越え、幾多の困難を克服するという、先の見えない試行錯誤の繰り返しがあったはずです。人間という知的生命に至るまでに、絶滅してしまった種は数え切れないほどあって、それでも生き残った種がその生命体の外形や生理組織を環境に有利に適合させ、神経系をより複雑に積み上げてきました。その苦労の時間を考えると、現在の私たちは未来への道を途切れずに続けていく責任があるとするのが自然でしょう。
<先の制限がない精神>
生命の長い歴史で神経系を発展させた哺乳動物は、脳中枢において感情や情動を持つようになり、大脳の完成に向けて機能を複雑化させ知的生命への歩みを続けました。二足歩行になって大きな脳を支えられる構造になった人間は、自由になった手で道具を発展させ、言語を駆使して思考することを獲得しました。人間は過去を振り返って反省することができ、未来を予測してあるべき状況を思い描き、仲間と情報を共有しながら情熱をもって未来への技術を創造しています。すでに映画や小説の世界では、宇宙空間を移動して他の惑星にいる知的生命と会話したり、海底にもぐって不思議な生命体と接触したりなど、空想とはいえ想像したことを言語に表して他人に伝えることができます。そこで思い描くことに制限はありません。頭の中で描く世界では、自分の肉体が直接関わる行動ではないので、それが妄想であったとしても何でも望み通りに思い描くことが可能です。しかし思い描いた世界が現実ではないことはわかっています。実際の行動は肉体に統合された個人としてすることであって、そこには制限や限界があることは確かなことです。
<肉体の制限>
生命を中心化する「生きる意識」は、1つの生命体を維持するために、光や音などの外界からの情報を受容して、脳などの中枢で処理することにより、それが安全か危険かあるいは食料かそうでないかを優先して効率的に判断しています。そのため実際の環境の情報をそのまま知覚しているのではなく、自己の生存に関わることは強調され、それ以外のことは無視して効率化しています。同様に外界から受容する音の場合も、集中することや危険を察知した場合などに認識の度合いが異なります。その結果、自分が行動を起こす意志があっても、「生きる意識」によって危険と判断されれば、実際に行動を起こさず抑制されます。つまり外界の情報をそのまま認識しないのには理由があって、「生きる意識」は生存の維持が最優先になっていて、肉体の生理組織にある複雑さの限界からして、必要な情報を少ない努力で明確に判断できるようにするのは必然なことです。
<精神に向かう流れ>
人間の体内での代謝や循環などの生理的な機能は自動化され、その自己の意識は直接的な行動のみに集中しています。人間以外の動物では、危険を回避したり食料を確保したりする本能からの欲求が主な行動の要因ですが、知的な活動をする人間では、本能からの欲求を抑えて、何らの意志があって頭脳的に行動するようになっています。つまり、「生きる意識」は本能による行動という段階を越えて上昇し、考える行動になったということです。あれこれ考えて工夫し、便利な道具を作り出すという技術の進歩が積み重なり、現代の人間はまわりの自然環境すら変更してしまっています。地球上に人間という知的生命が現れてから、他のすべての生物に対して優位となり、その勢力は地球をおおい尽くしています。そこにある人間の「考える行動」は、単に行動を選択するとか判断するだけで考えるのではなく、「生きる意識」によって内面への方向が追加され、考えることが人間の内面性を発展させて、それが新たに精神となっています。人間以前の生物は、その肉体の制限内でのみ意識を育んできましたが、思考する人間は精神を育んで、因果関係や有利不利を考え、動機や目的を持って成し遂げようという意志によって行動するようになっています。
生命の進化は「生きる意識」の上昇と共にあって、それは知性を向上させる流れにあります。その流れは人間という知的生命になって、その知性によって、肉体の欲求を制御する意志や情熱を生じています。この観点から見れば、進化の長い期間に生体組織を洗練させてきた「生きる意識」は、その基礎にある肉体の制限を超えるために精神を創造し、その精神が肉体を制御するようになったともいえます。人間に精神の領域が現われてから、人類の歴史に記憶されてきた様々な経験の複雑な絡み合いがあって、その時代ごとに蓄積された情報によって、その時点で判断され未来の行動への選択になっています。この精神が今後とも拡張していくことを考えると、それこそ無限に思える広大なものではないでしょうか。その精神の歩む道が、未来に向かって宇宙のプロセスから外れないためには、善と悪が複雑に入り混じった現代社会の中で、他人との交流を通して経験を積み、試行錯誤によって先を見る個性を磨くことになります。そのときに、他人と互いの意志を疎通させて結びつきを深めるために、言語という機能が精神の集約を支援しています。
<言語の獲得>
集団を形成する生命体と同様に、人間は組織や階層をもった社会集団を構成していますが、人間では互いに交流する手段として、言語という機能を獲得しています。言語は身の危険や食料あるいは情動などの情報を単に相手に伝えるだけでなく、かなり複雑で微妙な情報のやり取りを可能にしています。多くの要素が集まる集団で、役割を分担するとか、目的に向かう意志を統一するなどで、言語によって効率的な協調ができ、それが集約的な技術の革新を支え、生活環境を改善する行動につながります。つまり人間社会で交流の活性化に基本となるのは言語です。言語機能は大脳の新皮質にある言語野の領域に関係するといわれますが、文字や音声あるいは手や身体の動きで、会話や読み書きをするには、脳だけでなく喉の構造や筋肉の動きを制御して、感覚器官からの情報が神経線維の束の中で連携される必要があって、かなり高度な複雑さをもつ機能になっています。この言語機能によって、個人の経験が他人と共有され、そこに共感する感情が伴って、さらに協調行動の原動力になり、そして他人を鼓舞する信念にまでに発展します。そして言語の内容が豊富になってくると、それが物体を直接の対象にするだけでなく抽象的な概念を扱うようになり、より詳細に分類して説明する言葉が作られ、主義や思想を表現するようになって、精神の領域を拡張させています。
<精神を支える言語>
人間にとって生活に主要な役割を担っている言語は、誕生後すぐに使える機能ではなく、幼児期を通してまわりの環境の中で組み立てていく期間が必要です。大脳の仕組みが言語に対応していく過程は、発声などの身体構造とか感覚器官の発達とともに、まわりと自分との関係から自己の自覚を形成していく過程と重なります。そして言語は対象の物体を置き換える記号とか音声だけでなく、身体の表現による動きを伴い、感情とか情動などとともに他人に伝わります。それらの連携された記憶が個人の脳に蓄積され組み合わされて思考の手段になり、さらに抽象的な概念を表わす言葉が作られるようになります。これらの言語の組み合わせによる記憶は、行動の計画や実行の際に動機や意志になって熱意が追加されて、言葉によって奮い立たつような状況を作り出します。そこに反発や外圧などからの困難な経験があれば、それを克服したときには信念として記憶に刻まれます。このように言語とはそれ自身で多様化しながら活性化してく力を持っていて、この言語の持つ力が精神の活性化へとつながっています。
<言語の限界>
しかし、言語というのは表現できることに限界があるのも事実です。考えたことをすべて適切な言葉で表現できずに、歯がゆい思いをするのは誰にでもあることです。そして、各自の個性によって認識される言葉の意味は、その個性を形成した経験の違いによって、その言葉に付随する感情やニュアンスが違っているはずです。その上、生活文化や慣習の相違とか感覚器官の生理的限界による強調や抑制があれば、神経線維の信号が脳で修正され、実際の言葉が示す内容が歪められている可能性があります。言語のやりとりだけでは、言葉自体の意味の取り違いが起こることもあるし、嘘や偽りが交ざっていれば、本当にその人が考えていることが他人には伝わっていません。日常の会話など伝えたい内容が明確であれば気を使うことはありませんが、私たちが相手との信頼関係を必要とするときには、その人との付き合いを深めて、言葉の奥にある意味がわかるようになる必要があります。しかし、実際には何となく納得して、相手の意見に従っていることも多いのではないでしょうか。
<精神が構築する世界>
そこで、精神どうしが直接交流する領域というものがあれば、私たちが肉体の制限による情報の歪みから解放されることになり、また感覚器官などを経由する言葉の限界をも超えたものになるはずです。自己の意識のなかに精神の領域を形成するということは、そこに自己の自覚において自分の関心が及ぶ範囲の現実を見ていることです。つまり、自分のまわりにあっても自己に取り入れない現実ではなく、自分の中に独自の現実を構築していて、それを対象にしているということです。その自分と同化している現実は、自分個人にとってより実際的なものであることになります。精神が織り成す世界では自由に妄想することが可能なので、時間や空間のない状況も考え出すことができるし、永遠という時間を考えることもできます。そうなると、「生きる意識」が知的生命に至って精神を形成した結果、その精神は独自の領域をなすように発展していく可能性があります。そうなると、世の中に渦巻く欲望とか嫌悪に囚われない世界を考え、仲間同士の親愛の情に囲まれた世界を、自分の現実の中に実現することが可能かもしれません。まわりが嫌悪の感情で満ちているのであれば、そうではない世界を自分と信頼できる仲間との間で共有する精神の領域を作り上げていけばよいことになります。自分がその中にいる領域ならば、たとえ嘘や偽りがあっても自分でそれとわかることです。また争いや苦悩があっても、それは努力を強いるための刺激となって、精神の領域での経験を深めることになります。
<集約する精神>
人間は、世代を越えて続いた生活の知恵や集団生活や自然環境の違い、あるいは誕生時の遺伝子の情報によって個性が生じて多様化しています。これらの個性は、優位を争って争いの原因にもなりますが、互いに協調して助け合うようになれば、集約の効果をもたらすものです。そうであれば、私たちが互いに自分の精神領域において共有できる部分が広がって、そこに見出した共通の精神が主流になっていき、そこに皆が協調してそれぞれのパワーを完全に発揮するならば、その力は地球を包み込んで次の段階に進み、次の人類へと生き残るのではないでしょうか。現代に蔓延している救い難いほどの嫌悪の感情は、人類としての協調と調和で克服しようと、地球の先を考える人々の内省が集約して、それが多数派となっていく流れがあるはずに思われます。
<緊張を上昇させる精神>
生きる意識が生命に生じてから、それが精神を形成するまでの長い期間に対して、地球上に人類が誕生し数が増えて表面をおおい尽すまでの期間は、かなり急激なものです。人間が精神をもって行動するようになると、互いの間で精神の緊張を起こして、それを超えるための試行錯誤が、急速な人間の発展を支えているように思えます。これから先に私たちが置かれた状況は、精神までになった生きる意識が、静かに不活性になっていくのではなく、より多様化した個性が混ざり合って、その複雑な混沌とした社会で、人類としての内省が集約しながら、その精神どうしの緊張が限界にまで活性化していくのではないでしょうか。その緊張した活性化に適応しながら、地球人類は惑星の究極の統合となる精神を作り上げるのではないでしょうか。
<より高度な精神>
これからも「生きる意識」は宇宙のプロセスに沿って、生命の方向を制御して進み続けるでしょう。宇宙に生命のプロセスがあるならば、生きる意識の上昇は止まりません。現在の人間が見るもの聞くもの感じることの限界を超えて、見えないものや聞こえないものを感じたり、精神どうしが感応し合うような機能が、人間に追加されるかもしれません。「生きる意識」が大脳の機能を生み出したのであれば、さらに脳の神経回路の結びつきを成長させ、新しい機能を創造することもあり得ます。さらに、「生きる意識」が仲間との交流や思考を深めるために、言語という手段を生み出したのであれば、この意識が思考や言語の枠をを超えて、今は神秘といわれる世界へとつながるのかもしれません。将来には、私たち人間が生命とともに内面に積み重ねてきたものすべてが共有され、その究極へとつながっていく可能性がないとはいえません。