進歩についての考察
PartI.古生物学者から見た人間の未来
はじめに
1. 準備観察:ゆっくりした動き
2.生命について
3.古生物学の役割
4.意識の成長
5.生命の最前線にいる人類
6.人類自身の動き
7.人類の未来
8.前進
9.十字路
10.選択
古生物学者から見た人間の未来
ピエール・テイヤール・ド・シャルダン
はじめに
ほんの2世紀ほど前に、初めて人類はその背後にあった文明以前の長い時間の深淵を発見しました。そしてそれゆえに、今の先にある見えない深淵に向けて、その最初の感覚は壮大な希望であり、私たちの祖父たちがなした進歩への賞賛の気持ちでした。
しかし今は、その風向は変わってきたと思われます。巷で多く言われるのは、苦悩する懐疑主義の流れが(表向きは現実主義という話で)、世界に浸透しています。事なかれ主義者(変化を否定する人たち)の反応は、病的な悲観論であり、単に留どまって、未来の信条のような訳が分からないものは、あざ笑って信頼しないのが「よい形」となっています。
「私たちが動いていたんだって?まだ動いているの?もし動いているのなら、前に進んでいるの、後戻りしているの、ただ単に回っているの?」
もし私たちが注意しなければ、これは致命的な疑いの態度です。なぜなら生命の愛を破壊することは、人類の生命力も破壊するからです。
私がここで示したいと思うのは、今は価値あることが幻滅になったとしても、私たちは実際に進歩しており、もっとまだ前進していくと信じるために、私たちの進歩の方向は明確であって、その正しい道に向いていただきたいことです。これには科学的に有力な理由があります。
1. 準備観察:ゆっくりした動き
まずわかっていただきたいことは、宇宙には動きがあるということに同意していただき、それがあまりにゆっくりしているので、私たちはその動きを直接には把握できないということを理解していただきたいと思います。ゆっくりした動きということは、私たちが腕時計で時間を見るように、それ自身まったく単純で常識的なことです。しかし、自然においてまるで安定して不滅のように見えているものこそが、奥深い壮大なる動きがあるとわかるまでに、私たちは長い時間がかかりました。
夜空に見える星の巨大なシステムは、星が粒子となって配置され、星雲や天の川を構成していることを私たちは知っています。この星雲は渦巻状に何百万もの星と連携して、1つの巨大な超システムを構成していて、それは拡張と組織化の動きの過程にあります。一方、地球では大陸がゆっくりと動いており、山々は私たちの足元で少しずつの動きをゆっくりと継続しています。
今日の科学は世界でまったく安定と思われたことのすべてを、1つ1つ解明することで進歩しているとも言えます。動いていないと思われていたものでも、はるかに微小な分子にかなり過激な動きがあり、また巨大なものには超ゆっくりな動きがあることが、明らかになっています。
このことから2次的な効果として、次のような表現ができるかもしれません。この宇宙のすべてのものは動いています。そして、物がより大きくなれば、その動きはよりゆっくりします。
2.生命について
ここで、私たちは星雲や大陸や山々のことから離れて、生命それ自身について考えてみようと思います。人類は1人1人がその生命の粒子です。
生命とは、時間の感覚でいうと、数億年を越える非常に長い時間の現象です。そのうえ、多数の個別の要素から構成され、地球上に広がっています。空間・時間を考慮して分類すると、生命はかなり大きいものという領域になり、もしそれがいつも動いているとすれば、感覚的にはゆっくりと動いていることになります。
私たちの目的は、まず生命そして人類は前進する方向に動いているのかどうかを決定することです。私たちはそれ相当に長い期間を観察することによって見出すことができます。ここで活躍するのが古生物学によって演じられる部分であり、同様に私たちの悪しき慣習として、いろいろ批判したい部分でもあります。
3.古生物学の役割
古生物学とは純粋な観察と詮索の科学であり、古生物学者は現実から遠く離れてあまり有益でないことをする研究者と見られています。彼らは過去への思いをめぐらしながら、その過去の生命の状況を追及しています。そこで彼らは毎日、多くの種類の死んだ物の化石破片を収集します。これは多くの素人が考えることであり、また多くの古生物学者が自身を控えめに言うときの態度です。
しかし、ここで私たちが仕事に駆り立てられている本能は理屈よりもはっきりしています。「それが生きていた状況」を再構築することです。これは単に気持ちをもて余した空想する作業のように見えるかもしれません。しかし事実は、過去数百年での化石の収集によって成し遂げられている地道な作業であり、その忍耐強い結果が多くの資料に記録されています。その手ほどきがなければ、まったく未知で未開の言語のようであり、博物館の棚に乱雑に置かれていても、体系化された知識があります。このすべてが世界の思想にかなり重要な貢献をしています。
それは人間の知識の蓄積に考えられない壮大な興味を追加するものです。それは数億年以上の年月を超えて過去から伸びている流れです。私たちはその価値を十分に理解できているのでしょうか。
繰り返しますが、ここで私たちは、この人類の世界が、前向きな何らかの進歩に位置しているかどうかを決めようとしています。
哲学的な見方とか感傷的な印象などの議論は脇においておきましょう。私たちは事実の観察による問題を扱っているので、事実だけを見る必要があります。また、もし対象を見る時間を、進歩が識別できないくらい短い期間に制限してしまうと、私たちの議論は引きずられてどこかへ行ってしまいます。
しかし、もし私たちが長い時間の深さを十分熟慮して、生命の何らかの動きを研究室で再構築できて、そこで生命の動きが存在すれば、それは必然的にその動き自身が現れることになります。ここ数世代のほんの短い時間に制限して無意味な議論をする代わりに、科学がもたらす広い外観を見てみましょう。私たちには何が見えるのでしょうか。
4.意識の成長
いろいろな心理学的そして技術的な理由がありますが、ここでは詳しく説明はしません。古生物学者によって明らかになった時間の追跡や解読は、まったく困難がなかったわけではありません。実際に、活発な論争が続いている問題もあります。私がここで述べようとする解釈は、学界に「受け入れられた」事項としては認められていません。それでも私自身にとっては、ためらいなく自明な正しい解釈であると考えていて、遅かれ早かれ一般的な科学の議論で優勢になるものと思っています。
それは、数百万年という十分な時間の深さを観察すると、生命は着実に動いていると言うことであり、動いているだけではなく、決められた方向に前進していることです。そして前進しているだけでなく、その進歩をよく観察すると、その動きの過程や実際のメカニズムを識別することができます。
ここで、これらの考えをもう少し発展させて、以下の3つにまとめましょう。
a. 生命は動いています。これについて説明が必要とは思いません。今日では誰でも、地球の歴史を十分に離れた時間で、2つの区間を比較すれば、あらゆる生物がいかに相当な変化をしたかは承知できることです。1千万年という時間帯を考えると、いずれの期間でも生命は成長し、実際に新しい状況に変化しています。
b. 生命は決められた方向に向っています。時間の流れに従って、生命が一般的に進化している事実は否定できないとして受け入れられてはいるものの、まだ多くの生物学者はこれらの変化は何らの決められた流れに従うのではなく、いずれかの方向にランダムに起こると考えています。私の見方では、この論争は何が進歩かという思慮には災いにしかならないことであり、生命体がより「大脳化」してきた流れがはっきりと続いているという、それなりの事実による論拠があると考えます。有機体(生命体)の領域では、古生物学的な観察によって、動物の形態は低いレベルから高いレベルまで、その種の神経組織が、一貫してより繊細で充実した機能へ向かうと定義できる、上昇が明らかにあります。それは有機体における「神経刺激伝達」および「脳形成」における成長です。この法則の作用は、私たちに良く知られたあらゆる生命有機体グループに(大きくも小さくも)見れることです。脊椎動物と同じように昆虫にも見られるし、脊椎動物においては、その段階や系列を通しても見ることができます。
両性類、爬虫類、哺乳類における脳の段階があります。哺乳類では、時間によって脳が成長し、有テイ類、食肉目、霊長類となるにつれてより複雑になっています。それゆえ各系列が地球上に存在した地質学的段階で、その神経組織について、横軸を時間にとり、縦軸にその量やサイズそして機能をあてはめて考えると、はっきりと上昇する生命の曲線を描くことができるはずです。この神経組織の発展によって示された段階ごとの流れに、そこに明確に観察できる、この惑星で起こった意識の上昇(その継続的な高まり)があります。この説明以上にはっきりした説明が必要でしょうか。
c. そして3つめのポイントです。この継続した意識の高まりに伴う、有機体の神経組織と脳の進化で示されることについて、その存在を知覚できる過程の基礎となるものは何でしょうか。
研究者たちの仕事の成果を詳しく見ると、恐らく何万もの原子が1つのウィルスの分子のなかに集まっているのがわかります。そして何百万もの分子が1つの細胞を構成しています。1つの例として、アリ塚には何百万の個々の脳があることになります。この原子性(とその統合)は、どんな重要性を意味するのでしょうか。
宇宙の物質は、低位のレベルでは(すでに知られているように)、ゆっくりと原子の状態に分解し拡散する力によって制御されていますが、その一方で今ここで主題となっている宇宙の物質は、かなり強い力が集合を強制していることを示しており、事実において、より強く集中し統合された物質では、精神のエネルギーがより増加する形で現われます。
このことについて、決して哲学的な意味で言っているのではないことに注意してください。私が追及しているのは、精神とか物質を定義しようとすることではありません。
まったく物理学の分野を去ることなしに、この現代になされた偉大なる発見から考えると、恐らく時間の進行は、重なり合う集合に向かって物質がゆっくりと集まることによって測定されるのが、一番良いのかもしれないという理解ができます。そこからこの集合は、徐々に豊富になって中心化されて、より一層輝く自由と内面性の縁から外面へと放射することになります。
地球上で意識が成長する現象は、短く言えば、ある要素が化学と生命の作用によって生まれて、それが連続的により複雑な要素になるという、その前進する組織(機能)の増加に直接的に依存していることです。しかし私たちが観察できる、この宇宙の物理的な進展による、意識の起こりについて、現時点でまだ私は納得のいく説明をすることができません。
5.生命の最前線にいる人類
私が言っていることは、生命のことを、その普遍性とかその完全性において見ているのではないことに注意してください。
ここで私たちは最も興味のある特別なケースについて考えましょう。それは人間についてです。
宇宙における上昇する動きの存在は、古生物学の研究によってわかってきたことです。人間はこの進歩の流れの中でどのような位置に置かれるのでしょうか。
その答えは明確です。私が考えるのは、意識の高い段階に向かっている宇宙の動きが、もし楽観的な幻想ではなく、生物学的な進化を表すものであるとすると、生命によって描かれた曲線において、人は疑いなく一番上のポイントに位置しています。そして、その現れと存在によって、人は最終的にその現実性を証明し、足跡の方向を定義するということになります。人は生命において、「i の上の点」です。
実際に、私たちの経験によって考えると、思考(内省)の誕生が重要なポイントとして位置しており、前世代までのすべての努力を通して完成に向かっています。意識の上昇によってその重要なポイントが越えられ(内省の誕生)、そのとき集中の力によって、それ自身が内省することによって、今があるのではないでしょうか。
ガリレオに先立つ時代では、人の科学的思考は世界の数学的あるいは道徳の中心としての、それ自身が静的な領域として構成されていました。しかし私たちの現代の純粋な人間中心的な考えから言うと、人類はこの宇宙の精神的な変容において、惑星的な先頭になっています。人は現時点で最後に形成された、最も複雑で、最も高い意識を持つ「分子」です。
そこから次のことが考えられます、私たちは精神(意識)が発生した百万年の流れの中で生じて、まだよちよち歩きの幼児としての進歩をしながら、私たち自身が進歩の充実を考慮する権利を持っていることになります。
この世界は少なくとも「私たち人間という種が初めて現れた」というポイントにまで進んだことになります。これは私たちが生命についての考え方をベースにした、しっかりと決まった位置にあるということではないでしょうか。
さて、もう少し話の段階を進めましょう。
動物学的な進化は人類において最高点に達していることは同意いただけると思います。しかし、この頂点に達したことは、そこで止まってしまったということでしょうか。思考がこの世に現れるまで、生命は動き続けていたことは同意できるでしょう。しかしそれから先に前進しているのでしょうか。今より一層の進歩はあり得るのでしょうか。
6.人類自身の動き
歴史以前の古代から続いた生命の経過を見ると、私たちが気付くことは、人類はその歴史がまだ非常に浅いということです。その存在を追跡しても10万年を越えていないということは、地球上で私たちに先行した他の動物たちが主流の形態であった期間からして、あまりに短いものです。
人類における生命の動きについて、そのような短い過去の期間で、動静を見きわめようとするのは、不可能にも思えることであり、確かにかなり微妙なことに思えます。
それでも、人間という種の特徴として、意識の発達(内省の獲得)によって、例外的な急速の発展ということがあれば、私たち人間の集合の前進を直接査定することは、時間の限られた期間内でも、訓練された目には可能と考えます。
a. まず、解剖学的に脳のゆっくりした進化は、系統発生の初期の段階では識別しうるものです。ピテカントロプスやシナントロプスは知性は持っていたものの、脳の発達では私たちと同様な発展とはならなかったことが予想され、これにはかなり有力な証拠があります。
b. 私たち人間の脳は、人類学者がホモ・サピエンスと呼んだ段階で解剖学的に発達の限界に達したことは受け入れられていることです。あるいは、もしそのとき以来発達が続いているとしても、少なくともその変化は現在の科学の観察方法では検出できないことも受け入れられると思います。
しかし、トナカイやマンモスの時代以来(ここ2~3万年の間)、個々の人間の肉体的そして精神的な能力において識別される進歩はないと言われていますが、有機的に見た精神の発展の事実は、「集約的な人類」という状況にはっきりと表れているように思えます。これはどのように考えてみても、これは脳によって付随的に獲得されてきた「巻き込み」という意味での前進が現実に現れていると思います。
私たちが確立した2つの基礎的な等式をここで繰り返させてください。
進歩 = 意識の成長
意識の成長 = 組織化の効果(集約)
まとめると、与えられたシステム内で生物学的進歩の存在を発見あるいは検証するためには、対象となる該当期間と領域に対して、どの程度に組織化の状態がそのシステム内で変化したかを観察することが必要です。
そこで古代の穴居人の世界と現代人の世界を比較すれば、これはすぐに断定されることです。あらゆる状況を考えても、3万年という期間で、人類はほとんど信じられないくらいに、集中の度合い(集約化)を進めています。
経済の集中は地球のエネルギーの統合を示しています。知的な集中は一貫性をもつシステム(科学)として私たちの知識を統合しています。社会の集中は全体としての思考システムとして大衆の統合を示しています。
その兆候を見極めようとしない人にとって、このゆっくりとした必然的な変化、より大きな集合へと集約化し統合する歴史の流れは、特別な意味は持ちません。彼らはそのことを表面的で偶発的な現象として取るに足らないと判断します。
しかし、状況が良くわかっている人には、前人類の意識から曲がりくねって、あらゆるゆっくりした動きが続いた、この人間の発展の経過が、かなり重要な意味を持つと推測でき、今私たちが通過している、かなり動きのある事象が形を成してきていることが、かなりはっきり見えていることになります。
私たちを苦しめる戦争などの争いごとや、この宇宙が新しい序列を望みながら練り直していること、それらは、ショック、震え、危機以外の何なのでしょうか。それを乗り越えれば、私たちは人間世界のより統合した組織を見ることができるのでしょうか。
そして、この新しい序列として、人類として私たちのすべての心にある思考、そのより高い程度の自己覚醒以外のどんな形態が、より複雑により中心化することになるのでしょうか。
いや、これがまさしく現実です。思考にまで至ってきた生命は止まることがありません。それは原生動物から人間にまで進歩して動いてきただけでなく、人間になって以来、その最も本質的な道に沿って前進し続けています。私たちは現代の今、足元でその揺れを感じることができます、私たちを運ぶ船はずっと前進しています。
そして、ここで究極の問いかけとして、私たちに興味がある最終的な質問が起こってきます。生命が、そして人類がそんなに長く進歩していくなら、その未来とは何なのか、ということです。私たちは今動いていますが、もっと長く前進し続けられるのでしょうか。それとも行き止まりになってしまうのでしょうか。人類の未来を真面目に語れるのでしょうか。
7.人類の未来
私は預言者であると主張するつもりはありません。その上、科学者として、いかに事実の先の曲線を予測する危険についてはよく知っています。
それにもかかわらず、私は以下のことを信じています。3億年を越える世界の歴史の一般的知識についての議論を基礎にすると、推測の霧の中から自身を見失うことなく、私たちは以下の2つの予測を考えることができます。
a. まず、人類はすでにその驚くべき集中の潜在性、たとえば、進歩の可能性を保持していることを(経験的に)示しています。私たちは人間として、すでに誕生し、発見し、適用し、統合している、その力と考え方の巨大さを考えることだけが必要です。生物学的に見るのと同様に「エネルギー的」に見ても、人間集団はまだ若くて新鮮です。
b. すべてのことが、巨大な時間の余裕が現実にある、と信じる方に導いています。それは通常の進化を達成するには必要なことです。地球の天体としての進化の完成にはまだほど遠い状況です。
私たちはあらゆる不運(災害や疫病)を想像するかもしれません。それは理屈では私たちの進歩(進化)を止めるかもしれません。しかし地球で現に3億年以上続いた生命は、逆説的に不可能を超えて繁栄しているのも事実です。
このことは、その前進が宇宙の「隠れた」力から何らかの加担があって(いわば容赦なく)維持されている、という暗示ではないでしょうか。
これらのことを良く考えてみると、科学的に言って、人にある現実的な困難は、人が常に進歩の中心にいるかどうかの問題ではありません。それは、生命がそれ自身で挫けることなしに、あるいは地球に破壊が生じることなしに、この進歩が今の速度でどのくらい続くことができるか、という問題であることを理解する必要があります。
私たち世界は文明が創造されてから1万年を越えません。そしてここ200年において、それ以前の数千年にあった以上の、文明としての変化がありました。そこで私たちの惑星が百万年後に、心理学的にどうなるかを考えたことがあるでしょうか。
それは科学的な意味における現実主義者ではなく、最終的には理想主義者のことです。その想像力による飛行は私たちには微笑ましいものです。しかし彼等は少なくとも人間の現象の、真実の次元を感じているはずです。
8.前進
私たちの考えをはっきりさせながら、私たちに要求されるのは、どんな行動かを考えてみましょう。もし進歩が続くべきことであれば、それが自発的に進むことはありません。進化はまさにその統合のメカニズムによって、自由が増え続けるやり方で自身を変化させます。
実際に行動のほとんど制限ない領域が未来に開かれているならば、私たちがこの先にあるはずの行動を考えると、どこに道徳が置かれることになるのでしょうか。私には2つのことが考えられます。それは言葉にすると「共通に掲げられる大いなる希望」です。
a. 1つは希望です。これは、私たちに課された仕事に際して、あらゆる寛大な精神において、自立的に(おのずと)生命に生じているべきものです。そしてそれは本質的な衝動でもあり、それなしでは何もなされないものです。成長を熱望する情熱は、私たちが必要とすべきことです。貧弱な精神、懐疑主義、悲観論、悲しみの心、疲れや退屈、事なかれ主義などの場所はあるはずがありません。生命は発見を止める事がありませんし、生命は動いています。
b. そして、その希望は共通に掲げられるものです。これも生命の歴史において明確です。すべての方向が私たちの前進に良い訳ではありません。上昇に導くものだけが、組織化を増すことを通して、より大きな統合とまとまりに導きます。
ここで、個人的に、国家的に、民族的に、その仲間を排除し減らそうとする、一途な個人主義者、利己主義者と袂を分かちます。生命は統合に向かって動きます。もし人間がより強い結合と団結を見出そうとするならば、その希望だけが現実のものとなります。
この2つのポイントは、最終的に過去の評決によって確立されます。
9.十字路
しかしここで、解決されるべき重大な不確実性があります。私が言ったように、未来は人が孤立主義や嫌悪に向おうとする力を、克服する勇気とその困難への対処能力に依存しています。それらは人を一緒にするよりもむしろ離れさす動機となるものです。そこで、互いに一緒になることはどうして成し遂げられるのでしょうか。どのように工夫したら、人間は塵の中に無制限に散らばらないで、1つの全体として混ざりあうのでしょうか。
とりあえず、2つの可能な道があるように思われます。
a.最初には、外部の圧力に反応して、より固くなる結合という道です。私たちはどんな場合でも、惑星としての否定的な要因(人口増加や環境悪化)からの行動において、必然的にそれに従っています。
人間大衆は、この惑星の制限された表面で、多数の内部関連を持ち、それを継続的に追加する成長状況にいるがゆえに、自動的にもっともっと自身に固く集中するようになるはずです。
この本質的な圧縮ともいうべき過程に対して、より強い人間集団が弱いものに課すような人工的な束縛があるかもしれません。私たちはこの考えがどのように求められて、実際にどのように実現に突進しているかを、現時点では見ているだけになります。
b. しかし、他の道があります。これは、何らかの「好ましい影響によって駆り立てられて」、人類の要素は互いの引き合う、深遠な力をより効果的にして、多様性を起こさせる表面的な嫌悪よりも勝って、より深く、より力強くまとまりを継続していくことです。
地球の次元とメカニズムによって互いに強制されて、人は意図的に、この巨大な身体に共通する精神を、生命の流れの中にもたらすでしょう。それは外部から圧縮による統合でしょうか、内部の力による統合でしょうか。強制でしょうか全員一致でしょうか。
私は現在の戦いに際して言ったことですが、それは未来を決定するという必要において、その十字路に立つ足元を揺るがす、人類の緊張と内部の食い違いを、正確に表現しているのではないでしょうか。
10.選択
生命によっていみじくも定められた人類の進化で、その決定的な点において、私たちは何をすべきでしょうか。私たちは地球の未来を自分たちの手にしています。私たちは何を決めるべきでしょうか。
そこで従うべき道は、過去のすべてが教えることで、はっきりと示唆していると私は考えます。
私たちは集団としてまとまることによってのみ進歩します。これは、先に見たように生命の法則です。しかし強制による統合は表面的な偽統合にのみ導きます。それはメカニズムを確立しますが、いかなる基本的な統合をも達成しません。そして結果として意識のいかなる成長も生みません。短く言えば、それは精神化するのでなくて物質化することです。
全員一致を通した統合だけが生物的に有効です。これだけが集約の力から生じる、高い個性を起こす奇跡を働くことができます。それだけが私たちに誕生を与えた心理発生の純正なる拡張を表します。それゆえ、私たちが共に来て完全に自由であるというのは、内面的なことを意味します。
しかし、これはまさに最後の質問をもたらします。この全員一致を成し遂げるためには、私が言ったように、私たちは「好ましい影響」によって固くなるという、束縛が必要です。どこでそれを見つけるのでしょうか。この「地球の心」ともいうべき、共にあるべき法則をどうやって創り出すのでしょうか。
それは共通の見方を発展させることにあります。いわば、宇宙的に受け入れられる知識の形を確立することです。そこではすべての知性が、同じ方法で解釈された同じ事実を知りながら参加することになります。
あるいは、それはむしろ共通の行動となるべきです。1つの目的の決定において、共通の恐怖や共通の野望のもとで、すべての活動は自然にその方向に収束するように、宇宙的に望ましいように理解された、行動になるべきです。
この2種類の全員一致は疑いなく現実であり、私たちの未来の進歩の先には、その場所があると、私は信じています。しかし、それらが不安定、不十分、不完全のままで残されないようにするには、何らかのものによって補足される必要があります。
知識の共通の形は、知性という幾何学的な点において全く一緒になることです。共通の情熱が、どのように熱心であろうとも、それ自身は個人の人格を離れた方法で間接的に個人に関与するだけのことです。
私たちに必要なのは、頭と頭や手と手での共同ではなく、心と心の連携です。
そうなってくると、地球の未来の基本的な疑問についてよくよく考えるほど、その統合が生成する真理は、1つの真理だけの思慮ではなく、あるいは1つの物事の望みでもなく、それは1つの存在によって働く共通の引く力において、最終的に追究されるべきであると、私には思えます。
もし精神の統合が、その完全に向かうことにおいて(そしてそれが進歩の唯一可能な定義ですが)もたらされるのであれば、人間統合の最終の休息地において、中心から中心へ会うことを通して、そこで宇宙的な互いの愛が理解される限りにおいて、そこだけで達成できることです。
そしてまた、本来的に数限りなく多様な人間の要素が、互いに愛することができる、ただ1つ可能な方法があります。それは各々自身の究極において、その統合を維持できる、全員に共通する1つの「超中心」に、すべてが中心化されると各自自身で知ることによって可能です。
「各々の心に生じた同じ神を認めながら、互いに愛する」こと、この言葉は、2千年前に語られた言葉ですが、今この言葉は私たちが進歩や進化と呼ぶものについて、本質的な構造の法則として示唆し始めています。このことが宇宙のエネルギーの科学的な領域とその必然の法則へと入り込んできています。
実際に、私が古生物学の分野において過去の生命の壮大な動きを測ろうとして、愛と驚きの中で一生懸命になればなるほど、この本流の過程は、それは何者も止めることができないものであり、キリスト(神)の名においてのみ、その最高を達成できるものと確信しています。
Part I. The Future of Man Seen By a Palaeontologist
Remarks on a New York Congress of Science and Religion.
Unpublished.Peking,30 March, 1944.