Noosphere<精神圏>

進化の途上にある人間、これからどう発展するのか。

古生物学者から見た人間の未来

2014-10-19 00:35:17 | 進歩についての考察

進歩についての考察

 PartI.古生物学者から見た人間の未来

 はじめに

 1. 準備観察:ゆっくりした動き

 2.生命について

 3.古生物学の役割

 4.意識の成長

 5.生命の最前線にいる人類

 6.人類自身の動き

 7.人類の未来

 8.前進

 9.十字路

 10.選択

 

古生物学者から見た人間の未来

ピエール・テイヤール・ド・シャルダン

 

はじめに

 

ほんの2世紀ほど前に、初めて人類はその背後にあった文明以前の長い時間の深淵を発見しました。そしてそれゆえに、今の先にある見えない深淵に向けて、その最初の感覚は壮大な希望であり、私たちの祖父たちがなした進歩への賞賛の気持ちでした。

しかし今は、その風向は変わってきたと思われます。巷で多く言われるのは、苦悩する懐疑主義の流れが(表向きは現実主義という話で)、世界に浸透しています。事なかれ主義者(変化を否定する人たち)の反応は、病的な悲観論であり、単に留どまって、未来の信条のような訳が分からないものは、あざ笑って信頼しないのが「よい形」となっています。

「私たちが動いていたんだって?まだ動いているの?もし動いているのなら、前に進んでいるの、後戻りしているの、ただ単に回っているの?」

もし私たちが注意しなければ、これは致命的な疑いの態度です。なぜなら生命の愛を破壊することは、人類の生命力も破壊するからです。

 

私がここで示したいと思うのは、今は価値あることが幻滅になったとしても、私たちは実際に進歩しており、もっとまだ前進していくと信じるために、私たちの進歩の方向は明確であって、その正しい道に向いていただきたいことです。これには科学的に有力な理由があります。

 

1. 準備観察:ゆっくりした動き

 

まずわかっていただきたいことは、宇宙には動きがあるということに同意していただき、それがあまりにゆっくりしているので、私たちはその動きを直接には把握できないということを理解していただきたいと思います。ゆっくりした動きということは、私たちが腕時計で時間を見るように、それ自身まったく単純で常識的なことです。しかし、自然においてまるで安定して不滅のように見えているものこそが、奥深い壮大なる動きがあるとわかるまでに、私たちは長い時間がかかりました。

夜空に見える星の巨大なシステムは、星が粒子となって配置され、星雲や天の川を構成していることを私たちは知っています。この星雲は渦巻状に何百万もの星と連携して、1つの巨大な超システムを構成していて、それは拡張と組織化の動きの過程にあります。一方、地球では大陸がゆっくりと動いており、山々は私たちの足元で少しずつの動きをゆっくりと継続しています。

今日の科学は世界でまったく安定と思われたことのすべてを、1つ1つ解明することで進歩しているとも言えます。動いていないと思われていたものでも、はるかに微小な分子にかなり過激な動きがあり、また巨大なものには超ゆっくりな動きがあることが、明らかになっています。

このことから2次的な効果として、次のような表現ができるかもしれません。この宇宙のすべてのものは動いています。そして、物がより大きくなれば、その動きはよりゆっくりします。

 

2.生命について

 

ここで、私たちは星雲や大陸や山々のことから離れて、生命それ自身について考えてみようと思います。人類は1人1人がその生命の粒子です。

生命とは、時間の感覚でいうと、数億年を越える非常に長い時間の現象です。そのうえ、多数の個別の要素から構成され、地球上に広がっています。空間・時間を考慮して分類すると、生命はかなり大きいものという領域になり、もしそれがいつも動いているとすれば、感覚的にはゆっくりと動いていることになります。

私たちの目的は、まず生命そして人類は前進する方向に動いているのかどうかを決定することです。私たちはそれ相当に長い期間を観察することによって見出すことができます。ここで活躍するのが古生物学によって演じられる部分であり、同様に私たちの悪しき慣習として、いろいろ批判したい部分でもあります。

 

3.古生物学の役割

 

古生物学とは純粋な観察と詮索の科学であり、古生物学者は現実から遠く離れてあまり有益でないことをする研究者と見られています。彼らは過去への思いをめぐらしながら、その過去の生命の状況を追及しています。そこで彼らは毎日、多くの種類の死んだ物の化石破片を収集します。これは多くの素人が考えることであり、また多くの古生物学者が自身を控えめに言うときの態度です。

しかし、ここで私たちが仕事に駆り立てられている本能は理屈よりもはっきりしています。「それが生きていた状況」を再構築することです。これは単に気持ちをもて余した空想する作業のように見えるかもしれません。しかし事実は、過去数百年での化石の収集によって成し遂げられている地道な作業であり、その忍耐強い結果が多くの資料に記録されています。その手ほどきがなければ、まったく未知で未開の言語のようであり、博物館の棚に乱雑に置かれていても、体系化された知識があります。このすべてが世界の思想にかなり重要な貢献をしています。

それは人間の知識の蓄積に考えられない壮大な興味を追加するものです。それは数億年以上の年月を超えて過去から伸びている流れです。私たちはその価値を十分に理解できているのでしょうか。

 

繰り返しますが、ここで私たちは、この人類の世界が、前向きな何らかの進歩に位置しているかどうかを決めようとしています。

哲学的な見方とか感傷的な印象などの議論は脇においておきましょう。私たちは事実の観察による問題を扱っているので、事実だけを見る必要があります。また、もし対象を見る時間を、進歩が識別できないくらい短い期間に制限してしまうと、私たちの議論は引きずられてどこかへ行ってしまいます。

しかし、もし私たちが長い時間の深さを十分熟慮して、生命の何らかの動きを研究室で再構築できて、そこで生命の動きが存在すれば、それは必然的にその動き自身が現れることになります。ここ数世代のほんの短い時間に制限して無意味な議論をする代わりに、科学がもたらす広い外観を見てみましょう。私たちには何が見えるのでしょうか。

 

4.意識の成長

 

いろいろな心理学的そして技術的な理由がありますが、ここでは詳しく説明はしません。古生物学者によって明らかになった時間の追跡や解読は、まったく困難がなかったわけではありません。実際に、活発な論争が続いている問題もあります。私がここで述べようとする解釈は、学界に「受け入れられた」事項としては認められていません。それでも私自身にとっては、ためらいなく自明な正しい解釈であると考えていて、遅かれ早かれ一般的な科学の議論で優勢になるものと思っています。

それは、数百万年という十分な時間の深さを観察すると、生命は着実に動いていると言うことであり、動いているだけではなく、決められた方向に前進していることです。そして前進しているだけでなく、その進歩をよく観察すると、その動きの過程や実際のメカニズムを識別することができます。

ここで、これらの考えをもう少し発展させて、以下の3つにまとめましょう。

 

a. 生命は動いています。これについて説明が必要とは思いません。今日では誰でも、地球の歴史を十分に離れた時間で、2つの区間を比較すれば、あらゆる生物がいかに相当な変化をしたかは承知できることです。1千万年という時間帯を考えると、いずれの期間でも生命は成長し、実際に新しい状況に変化しています。

 

b. 生命は決められた方向に向っています。時間の流れに従って、生命が一般的に進化している事実は否定できないとして受け入れられてはいるものの、まだ多くの生物学者はこれらの変化は何らの決められた流れに従うのではなく、いずれかの方向にランダムに起こると考えています。私の見方では、この論争は何が進歩かという思慮には災いにしかならないことであり、生命体がより「大脳化」してきた流れがはっきりと続いているという、それなりの事実による論拠があると考えます。有機体(生命体)の領域では、古生物学的な観察によって、動物の形態は低いレベルから高いレベルまで、その種の神経組織が、一貫してより繊細で充実した機能へ向かうと定義できる、上昇が明らかにあります。それは有機体における「神経刺激伝達」および「脳形成」における成長です。この法則の作用は、私たちに良く知られたあらゆる生命有機体グループに(大きくも小さくも)見れることです。脊椎動物と同じように昆虫にも見られるし、脊椎動物においては、その段階や系列を通しても見ることができます。

両性類、爬虫類、哺乳類における脳の段階があります。哺乳類では、時間によって脳が成長し、有テイ類、食肉目、霊長類となるにつれてより複雑になっています。それゆえ各系列が地球上に存在した地質学的段階で、その神経組織について、横軸を時間にとり、縦軸にその量やサイズそして機能をあてはめて考えると、はっきりと上昇する生命の曲線を描くことができるはずです。この神経組織の発展によって示された段階ごとの流れに、そこに明確に観察できる、この惑星で起こった意識の上昇(その継続的な高まり)があります。この説明以上にはっきりした説明が必要でしょうか。

 

c. そして3つめのポイントです。この継続した意識の高まりに伴う、有機体の神経組織と脳の進化で示されることについて、その存在を知覚できる過程の基礎となるものは何でしょうか。

研究者たちの仕事の成果を詳しく見ると、恐らく何万もの原子が1つのウィルスの分子のなかに集まっているのがわかります。そして何百万もの分子が1つの細胞を構成しています。1つの例として、アリ塚には何百万の個々の脳があることになります。この原子性(とその統合)は、どんな重要性を意味するのでしょうか。

 

宇宙の物質は、低位のレベルでは(すでに知られているように)、ゆっくりと原子の状態に分解し拡散する力によって制御されていますが、その一方で今ここで主題となっている宇宙の物質は、かなり強い力が集合を強制していることを示しており、事実において、より強く集中し統合された物質では、精神のエネルギーがより増加する形で現われます。

 

このことについて、決して哲学的な意味で言っているのではないことに注意してください。私が追及しているのは、精神とか物質を定義しようとすることではありません。

まったく物理学の分野を去ることなしに、この現代になされた偉大なる発見から考えると、恐らく時間の進行は、重なり合う集合に向かって物質がゆっくりと集まることによって測定されるのが、一番良いのかもしれないという理解ができます。そこからこの集合は、徐々に豊富になって中心化されて、より一層輝く自由と内面性の縁から外面へと放射することになります。

 

地球上で意識が成長する現象は、短く言えば、ある要素が化学と生命の作用によって生まれて、それが連続的により複雑な要素になるという、その前進する組織(機能)の増加に直接的に依存していることです。しかし私たちが観察できる、この宇宙の物理的な進展による、意識の起こりについて、現時点でまだ私は納得のいく説明をすることができません。

 

5.生命の最前線にいる人類

 

私が言っていることは、生命のことを、その普遍性とかその完全性において見ているのではないことに注意してください。

ここで私たちは最も興味のある特別なケースについて考えましょう。それは人間についてです。

宇宙における上昇する動きの存在は、古生物学の研究によってわかってきたことです。人間はこの進歩の流れの中でどのような位置に置かれるのでしょうか。

その答えは明確です。私が考えるのは、意識の高い段階に向かっている宇宙の動きが、もし楽観的な幻想ではなく、生物学的な進化を表すものであるとすると、生命によって描かれた曲線において、人は疑いなく一番上のポイントに位置しています。そして、その現れと存在によって、人は最終的にその現実性を証明し、足跡の方向を定義するということになります。人は生命において、「i の上の点」です。

実際に、私たちの経験によって考えると、思考(内省)の誕生が重要なポイントとして位置しており、前世代までのすべての努力を通して完成に向かっています。意識の上昇によってその重要なポイントが越えられ(内省の誕生)、そのとき集中の力によって、それ自身が内省することによって、今があるのではないでしょうか。

ガリレオに先立つ時代では、人の科学的思考は世界の数学的あるいは道徳の中心としての、それ自身が静的な領域として構成されていました。しかし私たちの現代の純粋な人間中心的な考えから言うと、人類はこの宇宙の精神的な変容において、惑星的な先頭になっています。人は現時点で最後に形成された、最も複雑で、最も高い意識を持つ「分子」です。

そこから次のことが考えられます、私たちは精神(意識)が発生した百万年の流れの中で生じて、まだよちよち歩きの幼児としての進歩をしながら、私たち自身が進歩の充実を考慮する権利を持っていることになります。

この世界は少なくとも「私たち人間という種が初めて現れた」というポイントにまで進んだことになります。これは私たちが生命についての考え方をベースにした、しっかりと決まった位置にあるということではないでしょうか。

 

さて、もう少し話の段階を進めましょう。

動物学的な進化は人類において最高点に達していることは同意いただけると思います。しかし、この頂点に達したことは、そこで止まってしまったということでしょうか。思考がこの世に現れるまで、生命は動き続けていたことは同意できるでしょう。しかしそれから先に前進しているのでしょうか。今より一層の進歩はあり得るのでしょうか。

 

6.人類自身の動き

 

歴史以前の古代から続いた生命の経過を見ると、私たちが気付くことは、人類はその歴史がまだ非常に浅いということです。その存在を追跡しても10万年を越えていないということは、地球上で私たちに先行した他の動物たちが主流の形態であった期間からして、あまりに短いものです。

人類における生命の動きについて、そのような短い過去の期間で、動静を見きわめようとするのは、不可能にも思えることであり、確かにかなり微妙なことに思えます。

それでも、人間という種の特徴として、意識の発達(内省の獲得)によって、例外的な急速の発展ということがあれば、私たち人間の集合の前進を直接査定することは、時間の限られた期間内でも、訓練された目には可能と考えます。

 

a. まず、解剖学的に脳のゆっくりした進化は、系統発生の初期の段階では識別しうるものです。ピテカントロプスやシナントロプスは知性は持っていたものの、脳の発達では私たちと同様な発展とはならなかったことが予想され、これにはかなり有力な証拠があります。

 

b. 私たち人間の脳は、人類学者がホモ・サピエンスと呼んだ段階で解剖学的に発達の限界に達したことは受け入れられていることです。あるいは、もしそのとき以来発達が続いているとしても、少なくともその変化は現在の科学の観察方法では検出できないことも受け入れられると思います。

 

しかし、トナカイやマンモスの時代以来(ここ2~3万年の間)、個々の人間の肉体的そして精神的な能力において識別される進歩はないと言われていますが、有機的に見た精神の発展の事実は、「集約的な人類」という状況にはっきりと表れているように思えます。これはどのように考えてみても、これは脳によって付随的に獲得されてきた「巻き込み」という意味での前進が現実に現れていると思います。

 

私たちが確立した2つの基礎的な等式をここで繰り返させてください。

 

      進歩 = 意識の成長

      意識の成長 = 組織化の効果(集約)

 

まとめると、与えられたシステム内で生物学的進歩の存在を発見あるいは検証するためには、対象となる該当期間と領域に対して、どの程度に組織化の状態がそのシステム内で変化したかを観察することが必要です。

そこで古代の穴居人の世界と現代人の世界を比較すれば、これはすぐに断定されることです。あらゆる状況を考えても、3万年という期間で、人類はほとんど信じられないくらいに、集中の度合い(集約化)を進めています。

経済の集中は地球のエネルギーの統合を示しています。知的な集中は一貫性をもつシステム(科学)として私たちの知識を統合しています。社会の集中は全体としての思考システムとして大衆の統合を示しています。

その兆候を見極めようとしない人にとって、このゆっくりとした必然的な変化、より大きな集合へと集約化し統合する歴史の流れは、特別な意味は持ちません。彼らはそのことを表面的で偶発的な現象として取るに足らないと判断します。

 

しかし、状況が良くわかっている人には、前人類の意識から曲がりくねって、あらゆるゆっくりした動きが続いた、この人間の発展の経過が、かなり重要な意味を持つと推測でき、今私たちが通過している、かなり動きのある事象が形を成してきていることが、かなりはっきり見えていることになります。

私たちを苦しめる戦争などの争いごとや、この宇宙が新しい序列を望みながら練り直していること、それらは、ショック、震え、危機以外の何なのでしょうか。それを乗り越えれば、私たちは人間世界のより統合した組織を見ることができるのでしょうか。

そして、この新しい序列として、人類として私たちのすべての心にある思考、そのより高い程度の自己覚醒以外のどんな形態が、より複雑により中心化することになるのでしょうか。

 

いや、これがまさしく現実です。思考にまで至ってきた生命は止まることがありません。それは原生動物から人間にまで進歩して動いてきただけでなく、人間になって以来、その最も本質的な道に沿って前進し続けています。私たちは現代の今、足元でその揺れを感じることができます、私たちを運ぶ船はずっと前進しています。

そして、ここで究極の問いかけとして、私たちに興味がある最終的な質問が起こってきます。生命が、そして人類がそんなに長く進歩していくなら、その未来とは何なのか、ということです。私たちは今動いていますが、もっと長く前進し続けられるのでしょうか。それとも行き止まりになってしまうのでしょうか。人類の未来を真面目に語れるのでしょうか。

 

7.人類の未来

 

私は預言者であると主張するつもりはありません。その上、科学者として、いかに事実の先の曲線を予測する危険についてはよく知っています。

それにもかかわらず、私は以下のことを信じています。3億年を越える世界の歴史の一般的知識についての議論を基礎にすると、推測の霧の中から自身を見失うことなく、私たちは以下の2つの予測を考えることができます。

 

a. まず、人類はすでにその驚くべき集中の潜在性、たとえば、進歩の可能性を保持していることを(経験的に)示しています。私たちは人間として、すでに誕生し、発見し、適用し、統合している、その力と考え方の巨大さを考えることだけが必要です。生物学的に見るのと同様に「エネルギー的」に見ても、人間集団はまだ若くて新鮮です。

 

b. すべてのことが、巨大な時間の余裕が現実にある、と信じる方に導いています。それは通常の進化を達成するには必要なことです。地球の天体としての進化の完成にはまだほど遠い状況です。

 

私たちはあらゆる不運(災害や疫病)を想像するかもしれません。それは理屈では私たちの進歩(進化)を止めるかもしれません。しかし地球で現に3億年以上続いた生命は、逆説的に不可能を超えて繁栄しているのも事実です。

 

このことは、その前進が宇宙の「隠れた」力から何らかの加担があって(いわば容赦なく)維持されている、という暗示ではないでしょうか。

 

これらのことを良く考えてみると、科学的に言って、人にある現実的な困難は、人が常に進歩の中心にいるかどうかの問題ではありません。それは、生命がそれ自身で挫けることなしに、あるいは地球に破壊が生じることなしに、この進歩が今の速度でどのくらい続くことができるか、という問題であることを理解する必要があります。

 

私たち世界は文明が創造されてから1万年を越えません。そしてここ200年において、それ以前の数千年にあった以上の、文明としての変化がありました。そこで私たちの惑星が百万年後に、心理学的にどうなるかを考えたことがあるでしょうか。

それは科学的な意味における現実主義者ではなく、最終的には理想主義者のことです。その想像力による飛行は私たちには微笑ましいものです。しかし彼等は少なくとも人間の現象の、真実の次元を感じているはずです。

 

8.前進

 

私たちの考えをはっきりさせながら、私たちに要求されるのは、どんな行動かを考えてみましょう。もし進歩が続くべきことであれば、それが自発的に進むことはありません。進化はまさにその統合のメカニズムによって、自由が増え続けるやり方で自身を変化させます。

実際に行動のほとんど制限ない領域が未来に開かれているならば、私たちがこの先にあるはずの行動を考えると、どこに道徳が置かれることになるのでしょうか。私には2つのことが考えられます。それは言葉にすると「共通に掲げられる大いなる希望」です。

 

a. 1つは希望です。これは、私たちに課された仕事に際して、あらゆる寛大な精神において、自立的に(おのずと)生命に生じているべきものです。そしてそれは本質的な衝動でもあり、それなしでは何もなされないものです。成長を熱望する情熱は、私たちが必要とすべきことです。貧弱な精神、懐疑主義、悲観論、悲しみの心、疲れや退屈、事なかれ主義などの場所はあるはずがありません。生命は発見を止める事がありませんし、生命は動いています。

 

b. そして、その希望は共通に掲げられるものです。これも生命の歴史において明確です。すべての方向が私たちの前進に良い訳ではありません。上昇に導くものだけが、組織化を増すことを通して、より大きな統合とまとまりに導きます。

 

ここで、個人的に、国家的に、民族的に、その仲間を排除し減らそうとする、一途な個人主義者、利己主義者と袂を分かちます。生命は統合に向かって動きます。もし人間がより強い結合と団結を見出そうとするならば、その希望だけが現実のものとなります。

この2つのポイントは、最終的に過去の評決によって確立されます。

 

9.十字路

 

しかしここで、解決されるべき重大な不確実性があります。私が言ったように、未来は人が孤立主義や嫌悪に向おうとする力を、克服する勇気とその困難への対処能力に依存しています。それらは人を一緒にするよりもむしろ離れさす動機となるものです。そこで、互いに一緒になることはどうして成し遂げられるのでしょうか。どのように工夫したら、人間は塵の中に無制限に散らばらないで、1つの全体として混ざりあうのでしょうか。

 

とりあえず、2つの可能な道があるように思われます。

 

a.最初には、外部の圧力に反応して、より固くなる結合という道です。私たちはどんな場合でも、惑星としての否定的な要因(人口増加や環境悪化)からの行動において、必然的にそれに従っています。

人間大衆は、この惑星の制限された表面で、多数の内部関連を持ち、それを継続的に追加する成長状況にいるがゆえに、自動的にもっともっと自身に固く集中するようになるはずです。

この本質的な圧縮ともいうべき過程に対して、より強い人間集団が弱いものに課すような人工的な束縛があるかもしれません。私たちはこの考えがどのように求められて、実際にどのように実現に突進しているかを、現時点では見ているだけになります。

 

b. しかし、他の道があります。これは、何らかの「好ましい影響によって駆り立てられて」、人類の要素は互いの引き合う、深遠な力をより効果的にして、多様性を起こさせる表面的な嫌悪よりも勝って、より深く、より力強くまとまりを継続していくことです。

 

地球の次元とメカニズムによって互いに強制されて、人は意図的に、この巨大な身体に共通する精神を、生命の流れの中にもたらすでしょう。それは外部から圧縮による統合でしょうか、内部の力による統合でしょうか。強制でしょうか全員一致でしょうか。

 

私は現在の戦いに際して言ったことですが、それは未来を決定するという必要において、その十字路に立つ足元を揺るがす、人類の緊張と内部の食い違いを、正確に表現しているのではないでしょうか。

 

10.選択

 

生命によっていみじくも定められた人類の進化で、その決定的な点において、私たちは何をすべきでしょうか。私たちは地球の未来を自分たちの手にしています。私たちは何を決めるべきでしょうか。

そこで従うべき道は、過去のすべてが教えることで、はっきりと示唆していると私は考えます。

 

私たちは集団としてまとまることによってのみ進歩します。これは、先に見たように生命の法則です。しかし強制による統合は表面的な偽統合にのみ導きます。それはメカニズムを確立しますが、いかなる基本的な統合をも達成しません。そして結果として意識のいかなる成長も生みません。短く言えば、それは精神化するのでなくて物質化することです。

全員一致を通した統合だけが生物的に有効です。これだけが集約の力から生じる、高い個性を起こす奇跡を働くことができます。それだけが私たちに誕生を与えた心理発生の純正なる拡張を表します。それゆえ、私たちが共に来て完全に自由であるというのは、内面的なことを意味します。

 

しかし、これはまさに最後の質問をもたらします。この全員一致を成し遂げるためには、私が言ったように、私たちは「好ましい影響」によって固くなるという、束縛が必要です。どこでそれを見つけるのでしょうか。この「地球の心」ともいうべき、共にあるべき法則をどうやって創り出すのでしょうか。

 

それは共通の見方を発展させることにあります。いわば、宇宙的に受け入れられる知識の形を確立することです。そこではすべての知性が、同じ方法で解釈された同じ事実を知りながら参加することになります。

あるいは、それはむしろ共通の行動となるべきです。1つの目的の決定において、共通の恐怖や共通の野望のもとで、すべての活動は自然にその方向に収束するように、宇宙的に望ましいように理解された、行動になるべきです。

 

この2種類の全員一致は疑いなく現実であり、私たちの未来の進歩の先には、その場所があると、私は信じています。しかし、それらが不安定、不十分、不完全のままで残されないようにするには、何らかのものによって補足される必要があります。

知識の共通の形は、知性という幾何学的な点において全く一緒になることです。共通の情熱が、どのように熱心であろうとも、それ自身は個人の人格を離れた方法で間接的に個人に関与するだけのことです。

私たちに必要なのは、頭と頭や手と手での共同ではなく、心と心の連携です。

そうなってくると、地球の未来の基本的な疑問についてよくよく考えるほど、その統合が生成する真理は、1つの真理だけの思慮ではなく、あるいは1つの物事の望みでもなく、それは1つの存在によって働く共通の引く力において、最終的に追究されるべきであると、私には思えます。

もし精神の統合が、その完全に向かうことにおいて(そしてそれが進歩の唯一可能な定義ですが)もたらされるのであれば、人間統合の最終の休息地において、中心から中心へ会うことを通して、そこで宇宙的な互いの愛が理解される限りにおいて、そこだけで達成できることです。

 

そしてまた、本来的に数限りなく多様な人間の要素が、互いに愛することができる、ただ1つ可能な方法があります。それは各々自身の究極において、その統合を維持できる、全員に共通する1つの「超中心」に、すべてが中心化されると各自自身で知ることによって可能です。

 

「各々の心に生じた同じ神を認めながら、互いに愛する」こと、この言葉は、2千年前に語られた言葉ですが、今この言葉は私たちが進歩や進化と呼ぶものについて、本質的な構造の法則として示唆し始めています。このことが宇宙のエネルギーの科学的な領域とその必然の法則へと入り込んできています。

実際に、私が古生物学の分野において過去の生命の壮大な動きを測ろうとして、愛と驚きの中で一生懸命になればなるほど、この本流の過程は、それは何者も止めることができないものであり、キリスト(神)の名においてのみ、その最高を達成できるものと確信しています。

 

Part I.  The Future of Man Seen By a Palaeontologist

Remarks on a New York Congress of Science and Religion.

Unpublished.Peking,30 March, 1944.

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新しい精神

2014-10-08 19:39:56 | 精神の軌跡とその方向

ここに掲げた文章は、ピエール・テイヤール・ド・シャルダンの

L'Esprit nouveauThe New Spirit)1942年>を日本語にしたものです。

内容はなるべく平易にわかりやすい表現にしています。彼は古生物学者であると同時にカトリックの牧師でもあったけれども、その時代には受け入れられなかった天才の1人です。

目次

はじめに

I. 時間の円錐としての傾向

1. 精神と時間の有機的な奥行きにあるもの

2.有機的な時間の収束と精神の上昇への成長

 

II. 行動の円錐への置き換え

1.新しいヒューマニズムに向けて

2.キリスト教の刷新に向けて

 a. キリストの優越性

 b. 慈悲の優越性

 

新しい精神

ピエール テイヤール・ド・シャルダン

 

はじめに

 

ここ最近、私がエッセイで長く追い求めているテーマは哲学者として絶対性を考えるのではなく、自然主義者とか物理学者として私たちが物質的に取り込まれている事象に一般的な重要性を発見しようとするものです。多くの内面的・外見的前兆は(道徳的あるいは宗教的不安が政治的・社会的に上昇するなかで)、多かれ少なかれ混乱して、現在の世界に何か「途方もない」ことが起こるのではないかと感じさせています。しかしこれは何でしょうか。

ここで私が述べたいことは、私自身が考えたことを、誰もが疑いなく理解できるように、単純で明瞭な形態で表現することです。そしてこれらに対し批判と修正と発展させていただくことを望んでいます。

 

現在の世界の状況は、人間の意識に深いところで作用している、2つの前進する変化による影響で、実質的に決定され説明できるように思えます。

1つ目の変化は、世界の見方の領域で起こっていて、すでにかなり進んでいるものです。それは人間の心によって獲得された新しい能力として、時間の知覚とでもいうものです。あるいはもっと正確には、「時間の円錐的な傾向」というような知覚です。

2つめの変化は、1つ目に関連してしますが、そんなに進んではいませんが、私たちの行動に直接影響していることです。それは人間の価値のゆっくりした調整から起こってきた、時間の再評価ということです。

 I.  時間の円錐としての傾向

II. 行動の円錐への置き換え

 これらをそれぞれの章で説明します。

 

I. 時間の円錐としての傾向

 

1. 精神と時間の有機的な奥行きにあるもの

 

私たちの生きている時代を揺るがす精神的な事象を理解するためには、常に時間の発見という共通の基礎に(繰り返して)戻る必要があると思われます。時間について最初に考えることは、その単純な完全さによって、その修正や改善が可能ではないと思うことです。それは私たちの意識が基本としている確実な事実の1つではないでしょうか。しかし、私たちは過去の2世紀ほどを見るだけで、これら数世代の私たちの世界の時間の見方は、以前の時代の考えとかなり異なってきていることがわかります。

このことは、事象が長く継続したまとまりとして過去の中に浸透していることを理解するのに、19世紀まで待たなければならなかった、ということではありません。現在の私たちと同じように、以前の時代でも時間について多くのことが語られ、その時代の測定装置の許容範囲で測られています。

そうではなくて、過去の人にとっては、時間は同質的なもの、部分に分けられる存在であったことです。世紀の流れは、私たちの前と後ろにあって、理論的には与えられた瞬間に止まるもの、あるいは始まるものとして考えられていました。そこでは全体的な宇宙の期間は数千年を越えてはいないと考えられていました。

また、この数千年以内で何らかの客観的対象物が、任意に環境とか何らの変更もなく、他の時点に配置を換えたり移動ができると思われていました。ソクラテスもデカルトも同じ状況で生きていたかのごとく考えられており、人間は時間的にも(空間的にも)入れ替えられるように論じられていました。このことは、広い意味で、パスカルを含む偉大なる人たちの心で受け入れられていたことです。

しかし、現代では自然、歴史、物理などの科学が、不明瞭ではあっても収束することの影響において、まったく新しい概念が私たちの心に、いつの間にか形作られてきています。

 

まずその概念として、私たちは世界を構成するあらゆる要素が(存在とか現象とか)必然的に先に生じていたという理解であり、それゆえに私たちは「その前にあった何か」がなくて時間ということを考えるのは、「そこにあるもの」なしに空間ということを想像することと同様に、物理的に不可能です。

また同じ意味において、あらゆる現実の粒子は、それ自身の現在の位置はどうかではなく、過去から未来へ無限につながる不可分な流れの中に、前の位置から続く拡張の中の位置にいます。

新しい概念の2番目として、そこで形成された流れあるいは要素のつながりは、その範囲全体を見渡すと同質とはいえないものです。ここで各々は本質的に「何らかの段階」を連続して表しており、そのつながりを私たちの生命の連続した段階で言うと、幼児期、青年期、成熟期、老年期という状態の変化であることを私たちは気がついています。

そして最後に、宇宙における要素のまとまりは、全体としての成長において、その隣に関係する流れから独立しているものではないことを、私たちは徐々に理解してきています。各々の形態は1つのまとまり(束)の1部分を形成し、その束そのものは、より大きな束のより高い序列の1部分を表している、ということが際限なく続いています。それゆえに、時間が空間と作用しながら統合されつつ、一緒に2つが1つの進行を構成しています。ここでの空間は、時間によって奥行きと一貫性を与えられた、流れの瞬間的部分を表すことになります。

 

これらのことが有機的な全体となっており、そこから私たちは逃れることができず、その1部分となっていることに気がついています。

そして無限の長さの流れの中で連携したシステムに従って、宇宙の物質は、空間的には巨大から微小に、時間的には過去の闇から未来の深淵に向かって、制限なく外側に広がっています。

また、この終端のない、そして分けられないネットワークにおいて、すべてのものが完全なシステムの動きによって(自由な、あるいは事前に決定された)発展によって定義された、特別な位置をもっています。

 

最近の2世紀の間で、私たちの科学や歴史、哲学の研究が概観、想像、仮説の問題として現れる一方、私たちは今や事実として、無数の微細な方法で、進化(の動き)という考えが私たちの周りで網の目のように浸透しているのを見ています。

過去において私たちは変化がないと信じていました。しかし現代では、幼児の目が光に開くように、この世界は純粋な時間そのものが、空間とダイナミックに体系付けられて、新しい構造と新しい方向への知識と信じられるものの全体が与えられている状況にあることに、私たちは気付いています。

 

このことを掘り下げる前に、現に私たちが生まれている、新しい環境の本質とか特性の詳細をもう少し見ておく必要があります。

 

2.有機的な時間の収束と精神の上昇への成長

 

私が述べた話の中で、現代にある時間についての新しい目覚めは、紛れもない事実として認められるかもしれません。超保守的な集団を除いて、進化を無視することは現代の思想家や科学者には何ら起こっていません。進化にある世界という概念を無視して思想の流れを追及することは、心理学的に承認できないことになってきています。

 

しかしここで、空間と時間の連続性が一般的に受け入れられ、その枠組みの中で私たちの思考が進行しているならば、私たちがそこに生じている流れの方向や本質を、納得すべきことにしようとするのが必然なことです。それは閉じた竜巻なのでしょうか、無限の巻き込み、あるいは広がる爆発なのでしょうか…。

そこで私たちを掴んでいる物は何でしょうか。その動きの中に浸かっていながら、私たちは何らかの視野が持てるのでしょうか。そこから宇宙の流れが私たちを運んでいる方向がわかるのでしょうか。

 

私が個人的に知っている人々の多くは、まだ進化の方向や目的を科学的に答えのない謎として考えています。

しかし私の考えでは、ここに直感に示唆されていることが重要と考えます。人間の心を考える小さなグループによって直感による見方から控えめに進められ、進化についての概念が、19世紀における考えから、20世紀になって急速に浸透し始めました。

 

過去に埋もれた(化石としての)偉大なる現象の発見は、私たちの曽祖父たちの世代の目を開かせ、そして地球上の生命における進化の過程が認識され、普遍的なものとなっています。

この巨大なる生物学的進化の動きの正確な本質について、その明確な考えを得るには、私たちの「人間の現象」にある、有機的な複雑さや内省の獲得などのものすごいこと、他の生命にはないことに対して、(直感によって)単に目を開くだけで十分ではないでしょうか。(すでにそう考えてはいないのですか?)

私はこれを信じており、その理由を説明したいと思います。

 

まずガリレオの革新的思考があってから、ラマルクやダーウィンに続いた概念に従えば、「創造主」にはその過去の栄光がほとんど残されていませんでした。地球中心(天動説)の理論を翻したことは、その2世紀後に人間中心主義の終末へと導かれて、最終的に人間はその知性が発見した「時間の」流れに隠されて、平準化された人自身を考えるだけになりました。

しかし、現代では自然界の前面にその人間が再び生じてきていると思われます。19世紀末に言われたことですが、進化は人類を単純に巻き込んでおり、それは進化が人類まで拡張し達したことがわかった、ということです。

 

最近の科学の進歩を見ると、起こっていることはまさしく反対であり、進化に巻き込まれているのではなくて、現代の人は進化の当初の考え(受動的、本能的な進化)を変えて、人自身について新しい概観を打ち立てようと努力しています。

 

これについて説明させてください。

 

科学の目で見て、個人としての人間を真のユニークな対象とする3つの特徴があり、それが単に偶然でここまで至ったのではなく、以下のような物質の世界が統合された結果として、人間を見なすことができると思われます。

 

a. 宇宙で現在知られている、物質の最も高度に統合されたもの、かなりの物理化学的複雑さまでに(特に、その脳において)高度に統合されたものとして人を考えることができること。

 

b. 私たちの経験の領域において、宇宙にあるすべての粒子の中で、最も深く完璧に中心化されて、かなりの程度にまで進化が上昇した組織の段階にあること。

 

c. そして上記と関連して、高い程度の精神の発展(内省、思考)があり、人は他のすべて知られている意識のある生物のなかで頭頂部に位置すること。

 

この3つの状況に追加して4番目の特別な状況として大いに重要とすべきものがあります。それは、人が進化の最も新しい創造物ということです。

これらの4つの属性を、空間と時間とに関連させて考え、どのような説明ができるか追求していくと、本質的に以下の見方以外に考慮するのは難しいと考えられます。

 

最近の科学は物質の変化する特性にかなり集中しており、対象としてミクロな領域とマクロな領域の2つの空間的方向のどちらかに従うようになっています。しかし、どちらの方向においても、その進歩によって生命という現象の説明に近づく考え方をもたらしませんでした。

 

なぜ私たちは科学において、時間の有機的な軸についての領域を開拓しないのでしょうか。私たちは物質が熱力学の法則に従い、エネルギーがエントロピー増大の方向に拡散して減少することに気がついており、これはよく知られていることです。しかし、なぜ宇宙の動きがその逆の方向にあること、つまり生命がより高度な組織化の方向に動くという、まったく明らかなことの理由について、特に説明がないのでしょうか。

 

私たちが観察することから確認できるのは、分子の領域から人に至るまでの拡張であり、たんぱく質、ウィルス、バクテリア、原生動物、後生動物などが形成され発展し、結果として天文学的な複雑さと組織の程度を獲得して、同時にそれ自身が活性化して中心化してきたという事実があります。

 

なぜ私たちは生命とは単純に物質に特有の性質であると定義しないのでしょうか。宇宙にある物質が進化によって、より高い程度の複雑さの段階に向けて運ばれていると考えないのでしょうか。

そして、なぜ時間そのものを宇宙のより高い程度への上昇する変化であると定義しないのでしょうか。そこでは、複雑さ、集中の程度、中心化すること、意識の起こりなどが、同時的にかつ相対的に成長し増加しています。

 

宇宙発生は、宇宙的スケールで私たち個人の個体発生の法則を包み込みつつ拡張しており、今それは精神圏という形を形成しています。これは、それまであった世界の代わりに、生じてきた世界です。もし私たちが進化のプロセスにおいて人間が位置する場所を見つけ、そこに人類の場所を確保すべきならば、それは人間の現象が示唆していることであり、実際に人間の現象の現実を受け入れることが強制されます。

 

私が今述べたような、私たちが空間と時間に便宜的に属性をつける形にはまだ戸惑いがあります。しかし、ここで私たちがつまらない議論をしている時間がないことも事実です。もし進化の頂点、先頭にたつものとして人間を置くべきならば、またもし精神圏を含めた拡張があり、それを通して一連の事象がますますはっきりと表現されるならば、空間と時間に対し最も適切な形態として何らかのものが与えられるべきです。

 

物質の層をその曲線の中に捉えると、(全体を1つの独立した要素として考えると)、論理的には統合によって狭められて収束していきます。それゆえ円錐の形がイメージでき、円錐の形によって最もよく表現できるように思えます。

そして、この円錐という形において、その見方によって、その要求事項に調和して、すべての人間の価値の変化がいかに不可避的に進んでいるかを、私たちの意識でイメージできることになります。

 

II. 行動の円錐への置き換え

 

1.新しいヒューマニズムに向けて

 

空間と時間がその本質において収束していることを受け入れると、現在地球上の思考は、まだ進化の究極まで達成されていないと認めるのと同じことになります。

実際に、その特別な傾向で、宇宙がその主要な軸の線に従って、現実に最大の統合の状態に向かって動いているならば、そしてそれ以上に、実際の観察が示すように、もしその人間の粒子が全体として、統合の驚くべき潜在性をすでに持っているとするならば、そのとき私たちの現在の状況は「エネルギー」的に不安定の状態以外の何ものでもないことになります。

私たちは物質的あるいは精神的に、現在ある場所にとどまることはできません。しかし遠い先を見ながら、究極の状態をはるかかなたに見つけるかもしれません。そこでは恐らく、(単独の脳の細胞より以上に密接に)互いに有機的に連携して、私たちは超複雑な1つの完全なシステムを形成して、超中心化している状態となっているでしょう。そこでは私たちは自身の限界に到達したことになると考えます。

今私たちは、個人を超えた時間の円錐の範囲のなかで、人類が進行していくのを見ています。人類はそれ自身で、その頭上において集約的に、何らかのより高い人類の方向へと巻き上げられています。

この予測に気がついた人が、必然的にとると思われる見方や態度の変化を、項目にして評価して見ましょう。私はそのような人に対して、宇宙がその暗闇から明らかとして現れると見なして支持します。それは真実の顔を見せ、その真実の価値を獲得し、新しい暖かさを灯し、最終的に私たちに、内面からの輝きを見せてくれます。

 

とり急ぎ、変化の段階を1つ1つ見てみましょう。

 

a. 1番目に、宇宙は暗闇から現れ出ることになります。いわば、論理の目にそれ自身が明らかになり、まさに暗黒の最も深いところに沈む恐怖のような領域において、真実が明らかになります。

一方では、宇宙の圧倒的な巨大さは、もはや私たちに訴えません。というのは、時間と空間の無限の層は、失われたと思う生命のない砂漠とはまったく異なり、そこでは巨大な宇宙の離れた断片を一緒に集めて成長の過程にある状況を表しているからです。

他方では、悪のすべての形態、不正義、不平等、苦悩、死そのものは、その瞬間から論理的に悪であることをやめます。そのとき、進化が1つの発生となって、世界の労苦は必然的に逆の側になり、それ自身が成長のための良い条件、あるいは勝利の価値を表します。

そして地球にとっては、私たちがひしめき合う顕微鏡的惑星はもはや、息もできない意味のない刑務所とは見られることはありません。もしその限界が狭いとか不可解であれば、それは私たちの統合が偽造されたマトリクスであったのではないでしょうか。

 

b. 2番目に、宇宙はその真実の顔を見せます。いわば、私たちの解放された凝視はその概観を見渡します。現在の状況において、道徳は混乱の苦痛の面を見せています。しかし実証的に確立され盲目的に従われる、個人的な正義の2・3の基本的法則以外に、何が良くて何が悪いと誰が言えるのでしょうか。私たちが航海している進化の道で、はっきりした方向がないとしながら、神や悪が存在することを、私たちは支持すらできるのでしょうか。

実際に、することが楽しみであること以外、興味のないことに、強制されることに、私たちは一生懸命になれるでしょうか。

宇宙に見る目を欠いて、これらの活性化することに最も鋭く反対する信条に対しては、まことしやかに防御されるべきです。また一方で、人間のエネルギーは、正しい指導がなければ、地球上で嘆かわしく浪費されます。

しかし論理的には、この混乱は最後を迎えます。すべての動揺は分極化して、円錐の時間の頂点において、各々の人間の存在の先と上において、直接的に人間の精神的な現実が現されることになります。この目的に到達する最良の方法は、すでに見出だされているとすべきです。それ自身において、生命が目的を持つと知ることが、強さの源や慰めになるのではないでしょうか。そして、その目的は最高のものです。そして、この最高のものは、すべての私たちが方向とすべきものに向かっており、私たちのすべてが、個人的に社会的に国家的に民族的に、もっと密接に、あらゆる感覚で、一緒に引き合うことによってのみ獲得されることになります。

 

c. 3番目に、宇宙はその真実の価値を獲得します。いわば、これは、その要素のもっとも小さいものに対してさえも、尊厳において制限なしに、それが成長することです。世界の最期が何も見えない人には、彼自身よりも高いものはなく、毎日の生活はつまらない退屈なもので満たされるだけとなります。なんと実りの無い努力、無駄な時間でしょうか。しかし、自分自身の存在を超えて精神の統合が地球上で継続するのを見ることができる人については、すべての行動と事象は興味と約束で充実します。実際に、舵をしっかり握っているならば、毎日何をするかは、あるいは何を経験するかは問題ではありません。というのは、世界が充実に向かって進んでいることを自覚しているからではないでしょうか。

新しい時間において、私たちがレベルの違うことで分類している、肉体とか道徳とか、自然とか人口とか、有機的、集約的、生物学的、習慣など、それらのことの間には、もはやどんな区別もありません。すべてのことがどの程度その構成に、すなわち私たちの上にある時間空間の円錐の閉じた状態に貢献しているかに従って、身体的、自然的、有機的に、最高に活性化しています。

 

d. 4番目に、世界は新しい暖かさで光ります。いわば、全体的な愛の力に開らかれます。

愛することは、自分以外の他人の行動において、その人自身を発見し完全にすることです。その隣人の行動が世間の中で自分だけの、まったくの閉じた断片としての行動であれば、地球上で一般的な理解とはなりえないということです。もし私たちが、単に1つの同じ要素としてのみならず、互いに自身として探求する1つの精神を発見しようとし始めるならば、それは隔離の状況がまさに終わりとなることです。

そのとき人を媒介するものが確立されるでしょう。そこに基本とする密接な関係が生まれ育ち、個人の足跡の集まりを1つの方向につなぎながら、次へ向かう考えの1つの種を生じます。以前の時間と空間において、精神の宇宙的な引く力は認識できないものでした。このような力の存在は、精神圏を可能にする世界の傾向において可能となり、必然とさえなってきています。

 

e. 5番目に、そして最後に、宇宙は内面から光り輝きます。いわば、私たちにある神秘的な情熱の最も高いものを充実できることを示しています。

宇宙的な流れが収束するということは、私が言ったように、私たちの先に進化の最極点において、より高い意識の中心の存在を推測する必要があります。

しかし、もし私たちがその位置を決定し、この最高の中心の特性を分析しようと追及すれば、私たちはよりはるか上に越えた先に、何らかのまれで完全な人類の集合を見る必要のあることが、すぐに明確になります。

もし、その長く延びた繊維の先の世界に、それ自身と一緒に加わることが可能であるならば、私たちがそこに移動している円錐の頂点が、超意識、超個性、超現在の何かとしてのみ認識されうる必要があります。

それは私たちに必ず到達して作用しています。直接的に物理的な統合の宇宙的ネットワークを通してだけでなく、さらにより、直接的に中心から中心へ(いわば意識から意識へ)私たち自身にある最も敏感な感受性に触れながら現在も作用しています。

それゆえ、私たちの人間性は、生きることの愛に新しくなり、発見する情熱において励まされ、そこに自己放棄と深い尊敬の態度において自身を論理的に完成する方向の先に、時間の矢の頂点があります。

 

2.キリスト教の刷新に向けて

 

つい最近まで、キリスト教は人自身を人間らしく努めることにおいて、人類の意識によって獲得された最も高い部分を表していました。しかしまだ、この位置を保っているのでしょうか、あるいはそれを長く維持することに最善をつくせているのでしょうか。

多くの人々は、そうではないと考えています。

 このゆるくなってしまった衝動を説明するために、人間の神秘の信条のもっとも高く完全なものにおいて、福音書の言葉は、現代世界の批判的物質的状況に適合していないことが議論されています。キリスト教の時代は過去のものであり、他の支流が宗教の領域で置き換わるべきとも言われています。

 

しかし、私が考えているのは、もし私たちの時代を特徴付ける事象が、空間・時間の本質が収束しているという成長の覚醒であるならば、この悲観論には何も根拠がないことになります。時間の円錐にそった移行によって、キリスト教のシステムは混乱も歪みもなく変化しています。反対に、新しい環境の中に維持され、その主軸をかつてより発展させて、一貫性と明瞭さを付け加えてきています。

 

以下は結論として私が示したいことです。

 

現代の最も革新的で充実した側面として最終的に考えられることは、物質と精神の間に光をもたらす関係です。精神はもはや物質から独立していないし、また反対のものでもありません。精神は、神の引き付ける力のもとで、統合と中心化によってそこから長い苦労で生じているものです。

 

しかし、キリスト教の忠誠と神秘主義について、精神を再検討することは何に影響するのでしょうか。それは、その2重の信条に絶対的な現実性と絶対的な緊急性を単純に認めることです。その信条とは、キリスト教全体が依存し、それによってまとめられているものであり、キリストの物理的な優越性と慈悲の道徳的な優越性のことです。

 

これについて考えてみましょう。

 

a. キリストの優越性

 

狭く区切られた静的な宇宙、そこは私たちの祖父たちが彼ら自身の住むところとして信じた所です、キリストはその追従する者によって、今日と同様に、彼にすべてのものが依存し、宇宙がその一貫性を見出す存在として生き愛されていました。

しかし、このキリスト教的な機能は、合理的な基礎において素直には守られていませんでした。少なくとも、有機的な感覚でそれを解釈するということにおいてです。したがって、キリスト教徒の考えは、正しい宇宙の序列の何かにおいて、それを統合することを特に求めることはありませんでした。

その時代では、キリストの尊厳は慣習としての優越性によって明確に表現されたものです。あるいは、彼は超自然の非実証的で宇宙外の領域での優越で十分でした。短く言えば、宇宙のあらゆる種類のことは、神がキリストとして具現するという考えとは、「共存」しなかったということかもしれません。論理学がこれを理解するとは思えませんでした。

しかし、空間と時間という概念において、私たちが定義したように、信条(信じて従うこと)と合理的な経験という2つの領域の間での調和と充実した結合ということの効果はありうることです。

 

「円錐」的な構造の宇宙においては、キリストは神を満たすための1つの頂点としての場所を持ちます。その精神はすべての時とすべての存在を通して影響できるものです。そして収束する世界の要素にある時間と空間のすべての段階で動いている発生の連携のゆえに、キリストの影響は「神の恩寵」という神秘的なことに束縛されることとはまったく異なり、本質の完全なる質量を通して、その動きが広がり浸透します。

 

この世界において、(ギリシャの偉人たちが直感的に知覚したように)、物質の全体性を追及し保持することなくして、キリストが精神を神聖とすることはありえません。キリストはキリスト教の要求に対し完全な程度に真の宇宙的なものであり、私たちの時代の最も深い情熱に調和しており、十字架はその象徴と道であり、まさに進歩の行動です。

 

b. 慈悲の優越性

 

現代の精神が、キリスト教の慈悲において当惑していることは、その抑制的あるいは少なくとも静的な側面であり、またその立派な徳としての「私心のない」ことです。

「互いに愛すること」、今まで福音書の叙述では単純に「互いに傷つけあわない」あるいは「まわりの世界で、傷を癒し、敵を和らげ、不正を減らす、できるかぎりすべての世話と献身」を意味するように思われました。

これまで、自分自身の「超自然的」な贈り物として、神と隣人になすために必要とされたことは、私たちがこの世界の物事に付属しているという感覚に束縛されることに、反対し破壊することであると思われていました。

しかし、もし慈悲を時間の円錐への変化から見るならば、これらの明らかな制限や束縛は何も残らないことになります。

 

収束する構造にある宇宙において、そこの1つの要素が隣の要素とより密接になりうる、ただ1つの可能な方法は、円錐の頂点が狭まる方向にしっかりと固くなることです。いわば世界の全体の層が部分から頂点に向かう動きが起きていることです。

この物事の序列においては、神のより近くに引かれることなしに、誰も隣人を愛する(もちろん相互に)ことはできません。(これについて私たちはすでに知っています)。

 

しかし、(これは私たちに新しいことですが)物質としての実体において、その精神が惑星的な統合への進展を促進することなしに、神あるいは隣人を愛することは、またそれも不可能です。なぜなら、その統合は私たち自身が互いに密に引く統合についての進歩だからです。一方では、同時にこの統合は神の方向に私たちを上昇させるものです。

なぜなら、私たちには愛があること、そして、もっとより多く愛するために、私たちは自身が、すべての努力、すべての心配、すべての情熱、地球のすべての思いやりにおいても、参加を余儀なくされることを幸福で特別なことであると気付いているからです。これらは上昇と統合の真理を具体化することの限りにおいて、ということになります。

 

キリスト教の私心のなさは、まったく心が広いという態度において存在します。しかし「それをあるままに」というのではなく、それを導くことにあり、それを切って捨てる代わりに上昇します。もはや逃げ道ではなく通り道です。もはや引くのではなく生じる行動です。

 

それ自身に止まることなく、慈悲は上昇する力のように広がります。すべての形態の人間活動の心にあって共通の本質のように、その多様性は最終的に1つの作用の豊富な全体性に統合されます。キリストそれ自身のように、そしてそのイメージにおいて、それは宇宙化されて、ダイナミックな力を獲得し、そうする事実によって人間化されます。

 

まとめると、時間の新しい曲線に合うために、キリスト教は神の段階の「下に」、この世界の価値の発見へと導きます。一方、人間主義はこの世界の段階の「上に」おいて、神についての領域を見出します。これらは相互に逆からの補正的な動きです。あるいはむしろ1つの事象の2つの側面です。そこでは恐らく人類の新しい時代のはじまりとなるものです。

 

この2方向の変化は私自身の見方よりも何かもっとそれ以上のものです。この瞬間に世界を通して、国や階級あるいは職業や信条の違いはなしに、人は空間・時間の制限のない、有機的な次元について、論じ行動し、祈り始めています。

 

外部の観察者からはそのような人はまだ離れたものと思えるかもしれません。しかし彼らは互いに彼らどうしで気付いていて、互いが通りかかるときはいつでも互いに認識します。彼らは、古い概念や位置や形を捨てながら、明日には彼らが見て考えることが全体の世界でわかることを知っています。

 

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