Noosphere<精神圏>

進化の途上にある人間、これからどう発展するのか。

生物の種としての人間の自覚

2014-01-15 20:04:17 | 生物学的な考察

このエッセイでは「Noosphere」とは何かを考えてみたいと思います。「Noos(ノース)」というのはギリシャ語で「心」という意味であり、「Noosphere(ノースフィア)」は、進化のステップとしてBiosphere(生物圏)から一歩進んで、意識することから考えること(内省)が発展して、個々の意識が集約しつつ統合するというビジョンです。現代の人はより個性化することに向かっていますが、より個性化することは他の個性と連携し互いに集約することによって、より高度へと進むことになります。

進化の流れにおいて、人以前では突然変異によって、生命体がより複雑になる方向とその種がより一貫した形態をとる方向の2つが考えられます。しかし人類はいままでの地球上の生命体とはまったく異なった地球上の発展形態になっていると思われます。いままでの生物にない内省(考えること)を得たことによる変化によって個性化がおこり、以前の種の感覚が失われ、新しい進化の流れが生じています。そこでテイヤールは地球上で人類が作り出してきた状況に対し「Noosphere」という言葉を考え出しています。人類は最初に多様化と拡張の段階があり、地球という惑星を占有した以降は圧縮と統合の段階になってきました。現代人は地球レベルでものを考えるようになっており、人種や伝統が違っても人類として互いに理解しあって1つに統合する方向にあります。もし人類に未来があるならば、私たちはこの流れに沿って、「種の保存」のための努力をする必要があると言っています。

以下は、ピエール テイヤール・ド・シャルダンのエッセイ<Le Sens de l'Espèce chez l'Homme, 31 mai 1949>を勝手に訳したものです。ご参考まで。

 

<生物の種としての人間の自覚>

 ピエール テイヤール・ド・シャルダン

 

I.人以前の種の感覚

動物における個体の生命は、「種の感覚」と呼ぶようなものによって制御されて明確に優位となっています。動物は属する動物種の尊厳と生存を確保しながら、自動的なメカニズムと本能的な反射の複雑な行動を、それを理解することなく活動をこつこつ続けています。この人間以前の生物では、より高度に発達した動物の場合でも、「種の維持」のため、その個体における自己を中心とした傾向をまだ識別できていないと言うことができます。あっても、この自己中心は例外的で副次的なことにおいてのみ起こります。全体として優位なことは、動物の行動が進化に関係していることです。生殖を目的とした体になっており、古生物学上での種の流れを見ると、何らかの爆発的な突然変異がおこされる明確な期間があり、そこでは粗悪品は許されないという、その明確な特徴が定義されます。擬人的な表現をすると、人類以前のあらゆる生物の深い部分において、(突然変異には)明らかに2重の精神的な意味での分極の存在を仮定することができると思います。その分極とは、同時的な2つの方向であり、先に向かうものと同種の方向に向うものです。先に向いた場合は、有機体の複雑な組織が現れる方向に引かれているものであり、意識の程度がより高くなる方向に生じます。同種に向いた場合は、同じ種のメンバーと「統合的な」一貫した形態に向かうことになります。生命すべてのケースでこの2重の分極化に盲目的に従うことになります。これはアリたちがあちこちあくせく働いているのを見て、私たちが経験する驚きを説明するものです。

 

II. 文明と個人主義

人で始まった進化段階として、本能から内省へと変化した結果、そのときから続く方向にそって、2つの側面をもった1つの興味深い変化が行動に影響しています。

1つには人の意識が「高次の程度」になったことにより、個人は内省の豊さを得て、遺伝では直接伝達されない価値を個人の中に制限なく増加させながら、人間という種に自分1人で立ち、絶対的な特徴を与え、その人を自立させていることに気がつきます。

もう1つ、人はその種において一定的に生じた支流を維持し統合する能力を新しく得て、(多様のままにしておくのではなく)その種は、厳密に惑星として1つにまとまるという次元に達するまで、範囲や組織に制御されることなく有機的な意味で広がっていく傾向にあります。

人類という「種族」は、それ自身は、まったく新しい地球の発展状況です。生物圏の上に、1つの「Noosphere(精神環境)(あるいは考える意識の圏)」を形成しています。

人は最初少なくとも、身体的な部分で生殖による増殖の多様化や分散が強調されました。(少なくともしばらく)生物として種のバランスする方向に人間の集団化と拡散が促進されました。今、要素としての人々が徐々に解放され、それが今、すべての統制を拒否して、それぞれ自分たちが社会構造において有機的に統合するように立ちあがっています。言い換えれば、私たちは従来の生物種としての感覚を失っているように思えます。これは私たちが文明と呼ぶ全体プロセスを通して、原始的な人々に見られる共通意識が続いており、人間の集団の歴史に刻まれた「個体発生」という新しい導き、新しい動きではないでしょうか。

 

III. 惑星の圧力による強制的再グループ化

ここに、きわめて重要な事実が作用し始めています。それはちょっと聞くと奇妙に思えることですが、私が言いたいのは、人類には「Noosphere(精神環境)」の包み込みによる圧縮がまさに始まっているということです。

人間の始まりから今日に至るまで、人類は(結びついた集団として)、古き時代には多様化と分散化による発展(あるいは少なくとも現れ)が主要なことでした。最初にまずは地球を占有することでした。

現代において客観的に言えることは、地球上の人口拡張が限界に達し、コミュニケーションの発達によって互いの距離が近くなることで、この惑星における空間的および精神的な傾向が結びつく必然的な影響が、人間の進化に現れてきていることです。この結果として私たちは今、そこから逃れ得ない圧縮フェーズに入ったのを見ることになります。

地球の閉じた表面上で、人間は(その集団がより明確化するにつれて、より広くなった行動の範囲と一貫性を持って)そのまとまりとしての増加を持続し、より一層相互に混ざり合って全体を広げ続けないということはありえません。

この全体化するプロセスの意味することが本当かどうか、まだ論議の対象であることはわかっています。この現象は単にエントロピー増大に向かうメカニズムであり、退化とか老化をあらわしているのでしょうか。なるべく感情を荒立てずに耐えるべき生物種の病なのでしょうか。それとも反対に、私たちのレベルを超えた超個人の段階に向かう、「複雑化」のメカニズムの継続であって、その複雑性に向かってエントロピーのメカニズムは経験的に減少するというのは、生物学的には正当なことではないでしょうか。私たちは惑星が社会化する段階において、人間の意識がどの程度より高度に充実するかに注目するべきと思います。先に述べた、相反する2つの回答を考えると、事実によって示唆される方向に一致するのは2番目のものしかありません。

 

ここで現代の人は、まわりの「集約的全体化に向かう力」の圧力によって常に現実の感覚に戻されており、隔離された個人の利己主義的な「個人主義」のなかに人自身の基本的存在の頂点に達するという考えは幻想であり拒否すべきことを意味しています。この個人主義を拒否する理由として、精神を生じた「Noosphere」の包み込みが進行する宇宙においては、人類の最後以外に、私たちの1人ひとりを待つ最後はないということです。それゆえ、この全般的な流れを考えると、私たちがそこから逃がれて超然としていられるわけはなく、この流れのなかにしっかりと飛び込んでいくこと以外に、生きることや超生命に向かう個人の動機が開かれている道はありません。私たちがその明らかな行動を実行しようとするならば、(心理学的必然性から)新しい時代の基準へと向かう種としての感覚を、私たち自身において再び活性化し、再び新しくすること以外に、それを可能とする方法はありません。

 

IV. 種の新しい感覚

動物において、種の感覚は本質的に、種の範囲での再生産と多様化に向けて盲目的に追い立てられることであると、私は始めに言ったことを思い出します。

人においては、個人が内省して考えることと、社会全体が集約化することが結びついた現象によって、この2つの異なった内部的なダイナミズムの平衡は、私が「Noosphere」と言った環境において、すべて人間の存在を最高に配置する方向に従って、(個人とその集約の双方が、それぞれ他方を通して生じてくる)充実へと向かわせることが急務であるとするのが合理的に思えます。「Noosphere」というのは人間の意識が発展して統合に向かう環境であり、その程度が高度になって最高の配置となることが予想されるものです。

ここから次の優先度として、(正しい栄養によって、教育によって、選択によって)、地球上で人間という動物のタイプが、より前進的で優生学的に確かとする基本的なことが続きます。

しかし同時に、先を見ようとする情熱的な努力が必要となるに相違ありません。その努力とは、1人の人間として、進化の動機となる、私たちの深いところにある(物理化学的、生物的、精神的すべての面の)力を、ゆっくりと確実に自分たちのものにできるという希望によって、活性化される将来の発見や展望に向けたものです。

同じく最後に、(少なくとも展望が開ける分野については)まさに正しく内省する人間が統合していくと認められる進化の方向に合わせながら、個性化した生命体としての人間は、性の昇華した感覚とか人の普遍的な感覚として、統合への究極の機動力となり情熱の元となるエネルギーの開発に努力することを、決して忘れてはなりません。この感覚によって、人はもはや単なる技術や思考を身につけるだけでなく、いまや互いの1つ1つの内なる内省がすべての人の要素の集まった1つの内省に向けてまとまるように、進化によって知らず知らずに急かされているように思えます。

 

端的に言えば、すでに現代に至った人類の成熟段階において(人類の全員一致に向けた活動的で生産的な意味で)集約に向かう信条があるはずです。もし私たち人類が崩壊せずに「Noosphere」の全体的な包み込みによって充実することが望まれているのならば、その奥にある信条すなわち私たちの心構えに訴えるものを自覚させ、それは人間という種の新しい感覚を呼び起こすものがあるはずです。もう少し正確には、より進んだ状況を可能にする何らかの信条のことです。それは、宇宙そのものが、十分に強力な希望の光と愛の暖かさを私たちの中に火を灯し続けているにちがいありません。

私が先に言ったように、人類の最後以外に人の最後はありません。そこで、もしこの人類の最後が到達する価値あるべきものならば、もしそれが私たちに魅力的なものならば、計り知れない自由が開かれた状況を予想でき、それは滅亡とか物質的なすべての力を超えて、完全な意識そのものが広がった状況が、(心と精神の両方で)私たち自身に現れることが必須となります。

 

繰り返しますが、種の本質としての感覚がなければ人の未来はありません。しかし、私たちはそれにどう気づけば良いか悩んでいます。しかし、宇宙の本質を考えると、個性を超えて集約に向かう超個性という何らかの中心に収束する宇宙以外に、どのような種の本質としての感覚があるというのでしょうか。

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技術革新を生物学的に見る

2013-10-06 21:50:41 | 生物学的な考察

人類は何千年も以前に文明を起こしており、ここ2・3世紀前より急速に科学技術を発達させてきました。現在では地球のまわりに多くの衛星が飛んでおり、携帯電話やスマートフォンが一般的となって、インターネットやパソコンは必需品になっています。これは単純に生活が便利になったということだけでしょうか。人間たちがいっしょに暮らす社会においてコミュニケーションは重要な要因となり、他人とのかかわりや反応を気にするようになり、自分ひとりで超然として生きていくのが困難になっています。これは必然的な方向なのでしょうか。技術革新による成果は経済的な要求からだけなのでしょうか。


以下の文章は、ピエール・テイヤール・ド・シャルダンが1947年に書いたエッセイ<Place de la Technique dans une biologie générale de l'Humanité (The Place of Technology in a General Biology of Mankind), 16 janvier 1947>を勝手に日本語にしたものです。


人間の一般生物学におけるテクノロジーの位置
ピエール・テイヤール・ド・シャルダン

人類は今、社会化という現象を伴った技術革新の時代にいると言われています。ここでは、この時代が新しく始まっていること、この偉大なる事実の意味を考察したいと思います。

テクノロジーが人類に大きくかかわっている現実を見ると、そこで人類の肩に重くのしかかるある種の無駄な重圧を見るべきなのでしょうか。動物の形態で言うと、巨象の伸びる牙とか軟体動物が自分のまわりに大きな貝殻を築く過程のように、巨大化する現象の下に将来押しつぶされてしまうものなのでしょうか。あるいは、人類に寄生して生じたものとか意味のない付属物なのでしょうか。そうではなく、科学技術の発達も生物学的に意味の深い重要性があるのではないでしょうか、その裏に私たちのこころの道標となる、生物としての現実があるのではないでしょうか。科学技術の進歩が、偶然におこってきたものではなく、絶え間なく続いている精神的な作用が生じさせた事象の現れであることを、私はここで示したいと思っています。


まずはじめに、遠い昔に戻って考えてみましょう。人間社会で技術的な能力が置かれた位置を理解するには、世の中の進化の全般的な過程から始める必要があります。生命の発達という進化においては、{人間に}意識の起こりがあり、この意識が内省的思考に至るまでには、「物質の内部性」(物質が持つ極小の内部性)によって、その道が敷かれているとしてみようと思います。
この意識の起こりは、私が「複雑性と意識の法則」と呼ぶ非常に単純で明快な法則で説明が可能です。そこでは組織体の複雑性と意識との間の関係が強調されなくてはなりません。長い間、生命と物質の間は相容れないものと思われてきました。物理学と生物学の間に橋を架けることは不可能と思われていましたが、その関係をより深く正しく認識してみると、その不可能が消えてなくなることになります。私たちによく知られた物理学の考えでは、宇宙的な特性にまで達するようなある特定の条件のみで認識しうる大きさがあります。物体の質量は加速度によって変化することを私たちは知っていますが、この変化は加速度が非常に大きいときにだけ認識が可能となります。同様に、金属はすべての温度では放射をしているようには見えませんが、一片の鉄を500度以上に熱すると赤い放射を始めるようになります。けれども、これはその温度以前には放射がまったくなかったという証拠にはなりません。
この同じ考え方を生命にも適用してみましょう。世の中を2つの部分に分けてみて、1つはその質量の中に意識がない物質、もう1つは生命体としてみます。そうすると、次のように言うことは正しいでしょうか、「物質の内部に意識の原初となるものがどこにでも存在し、その物質が非常に単純である場合には、意識はあまりに小さいので、それを認識することはできませんが、その物質を構成する複雑性が増大してくると意識があらわれ、私たちは生命の世界として認識できるようになります。」
したがって、結合された原子の数がおよそ100万にも達すると、ウィルスのような、まだ生命体とはいえないまでも生命の特徴を示している、明らかな物体に出会うことになります。そこで、もっと複雑なものを見てみると、意識が間違いなく生命に現れていると見て取れる特殊な要素を見出すことになります。
この観点からすると、生命すなわち「内部性」とは、物質が、非常に複雑になったときに認識できる宇宙的な特性です。いわゆる意識と言われるものは、非常に大きな複雑性に備わる特別な特性であって、その複雑さの程度の結果になっているということが言えます。(生命体の複雑性を測るには、原子の内部配置のあらゆる度合いを知る必要がありますが)
このことは幾何学的に、1つの焦点が複雑性でもう1つが意識である楕円形として表現できるかもしれません。ここでは、この2つの焦点の関係について哲学的に論じるのではなく、生命体はそれらの焦点の間で関係しあって前進して広がるものと考えています。進化の最も一般的な経験則として、意識の出現は複雑さの程度の関数といえるのではないでしょうか。
進化の流れあるいは意識の出現に沿って考えてみると、最も進んでいる形が人間です。2つの焦点において、明確に複雑性が最大であるのが人間の脳です。それは百億もの細胞が、伝達・受容を構成しつつ、まさに完全でないような考えでさえ形づくれる統合センターをも構成してグループ化されています。世の中に、人間の脳以外に、その小さな容積の中に大量の組織された物質を詰め込んだものがあるでしょうか。ありえないことです。また個々の人間以外により複雑なものが他にあるでしょうか。
社会という現象に直面してみると、現時点では2つの相反する解釈があります。
1つは、社会という現象には特に特別な意味はない、という表面的に単純に言い切るものです。人は多くの集まりが連携をなして生活しており、その連携には全体として特に意味はなく、経済的や法律的なつながりも自然の構造と類似性はない、という意見です。
2つめの解釈は、長年にわたり哲学者たちが示唆してきたことであり、またイスラム世界にもあり、そしてフィレンチェのプラトニストたちにもそれが見てとれます。しかし、疑いない事実に支えられた現在の時代において、ほぼそれが認められてきています。Coumot、Durkheim、L£vy-Bruhlらによると、有機体の積極的拡張性の考えは再び受け入れられているといいます。細胞が複雑になっていくプロセスの結果として人間が現れたとすると、人は複雑性の法則によってより高い「内部性」、より高い精神性を含む特別なタイプの複雑性を生み出すことを追い求めるのではないか、というものです。
私自身はこの2つ目の見方の傾向にあります。それは多くの観察された事実があるからです。それでは、社会(集団化)という現象が、副次的現象(個人があって次に集団がある)というよりは、生物学的な現象により近いという考えを支持する観点を見てみましょう。
社会学的観点からは人類は単なる集団ではなく、構造的な全体を形成しています。人間の問題をより科学的に研究していくと、その互いに密接した集団タイプの形成については、他の動物の種と同じ現われ方をしています。一方、他の種では、はじめの形態があらゆる方向に多様化に向かって変化するという傾向を示しますが、人の行動においては、精神性の程度が高いことにより、かなり異なった様相になります。人の段階において言えるのは、集団が惑星の全体を包み込んでいるので、人類は1つの球状の束を形成して、その中に個々が見分けられるということです。多くの有効な種が、このかたまりの中で現れて、それ自身でまとまった全体を継続的に形成しながら、まさに決定された構造を生み出しています。人間が、すべての個々をまとめ上げてシステムを作るという事実は他の集団についても言えるでしょう。これが社会化という現象が本質的要素とみなされる1つの理由です。
しかしこれがすべてではありません。もし人類の解剖図を描いてみると、私たちはある特別な序列を示す特性を認めることになります。
人類は手と頭脳によって特徴づけられた生物であると言われます。人が頭脳-道具系であるとするならば、私たちは人類全体に頭脳―道具系の特徴を認めることはできないでしょうか?
「手」についてみますと、私たちは今マシン(道具-機械)にかこまれて生活しています。マシンは個人によって発明されましたが、その道具-機械は個人から集団へと手渡しされ、今や、世の中は道具-機械でいっぱいになっています。人間とマシンは完全に統合され協調して発達してきているので、道徳的行動とマシン(道具-機械)は互いに分かれては進歩できないような状況になっています。
「手」においての真実は「脳」においても、より真実であると思われます。人類をそれ自身1つの脳に例えた「人類の全体」の頭脳を考えてみると、何かこの中で生み出されるものはないでしょうか?コミュニケーションの手段(情報の交流)について考えてみるとき、私たちはほとんど損得勘定の部分に注目しがちですが、もっと重要なのは心理学的な部分であって、これはちょっと考えられない効果をもたらしています。
Julian Huxleyの話しでは、この「頭脳全体システム」は、まず自分を考える個々の頭脳との比較において相当な違いがあるといいます。けれども、人類頭脳の全体を、単なる頭脳が集まった合計とみなすことは誤りであるのは事実であり、もっと多くのものがあります。これらの統合頭脳(情報の交流)はある種のドームを形成しており、そこで、もし各頭脳が自分の視野の範囲にだけ頼っていたら逃がしていたことを、他の頭脳の助けによってみることができます。この見方は個人が把握できる範囲を超えしかも尽きることがありません。
1つの例として原子の概念をあげます。現時点では、1人だけでなく多くの物理学者の頭脳がその全体を把握している一方、それぞれの個々の物理学者は彼だけが持ちうる観点をも持っています。
人類全体によって構成される全般的組織体において、私たちは複雑性の法則の拡張として認めることができる現実的なものを見出しています。人間の全体は、ちょうど技術知識の集まりの焦点と、精紳知識の集まりの焦点とで構成された楕円に等しくなっていることに比較されると思います。そして人間において、この2つの焦点が現実に受け入れられるという事実から、自動的に以下のことが言えると思います。一般的に言って、テクノロジーとは単に商業活動の必要性やわれわれが担っている道具-機械の合計というだけでなく、むしろ人々のなかで集まって結びつくという意識状態に一致しており、その意識の状態を維持しようとする方法、内省的に結びつけようとするプロセスの合計となっているということです。
テクノロジーは言葉の厳密な意味からして生物学的な役割を持っており、自然のスキームの中に含まれるべきすべての権利を持っています。この観点からすると、それはベルグソンの考えにも同意することですが、人為的なものと自然的なもの、テクノロジーと生命とのあいだに何らの違いもなくなってしまいます。なぜなら、すべての有機体は長い進化の間におこった発明の成果であるからです。もし何か違いを見ようとすると、人為的なものはそこから得る利益というものがあることでしょう。
テクノロジーと人類がどんな関係にあるかを認識することで、価値の本質に実際に触れることになるのでしょうか。あるいは、すでにテクノロジーが人間の意識を刺激するかどうかを決める重要な局面にいるのでしょうか。2つの焦点にはそれらの影響の限界に達したのでしょうか。人はその最高点に到達したのでしょうか。未来にはどうなのでしょうか。人類はここで、その環境内で獲得しはじめている物質の傾向について、ほとんど無制限な力{可能性}という大いなる現象に私たちは遭遇しています。
組織の原初の形態または非常に単純なテクニック(荷馬車の装飾や車輪など)にもかかわらず、社会化の現象の始まりは、輸送方法において重要な技術的成果と改善をもたらしました。しかしながら私たち自身の場合を考えると、人類が獲得した個々の要素を超えた巨大なパワーを観察しています。新しい基本的物質(抵抗器、コンデンサ、電子的眼など)を獲得したあと、まだ人は宇宙の材質を拡大するのに満足できず、それを組織的に組み直して再構築する動きをします。私たちは原子構造の核の内部について研究している物理学者に対し驚異の目をもってみています。同様に、生物学者は染色体の働きの可能性やホルモンによる有機物質の状態遷移の可能性を、私たちに考えさせてくれています。精神分析学者も私たちが生きている最も親密なコアと思われるものをコントロールする潜在的な働きを垣間見せてくれています。
これらの力は、人が未来全体に依存する複雑さの焦点を変えていく手段を手にしている、ということを意味しています。しかしながら、これらのケースにおいてもう1つの焦点は、その{意識の}集中性を増大するために、同じ強さの力が演じられていることです。人の意識には上昇し飛躍する方向に向くものがあるのでしょう。私たちがまわりを見わたすとき、この精神的エネルギーが今や、量、強さ、質ともに上昇しているのを感じないでしょうか。
量ということでは、失業という現象が経済学者に不安をもたらしていることを考えてみましょう。しかしこれは、生物学者にとっては世の中で最も自然なことです。それは精神的エネルギーが解放されるということであり、両方の手が自由であることは、頭脳にとっては自由に考えることを意味します。私は、この現象はまだ十分に成熟しているとは思えません。生物学的な観点で言うと、技術的な素材が増加してくることがわかってくると、有効なエネルギーが起こって、意識の焦点が向かうべき方向へ舵を取るようになります。
量や強さということで言うと、将来、思考する脳から放射されるエネルギー波を記録する道具が作り出され、与えられた方向へと向くこれらの高いエネルギーを感知できる可能性への壁をいつか越えることでしょう。精神的な意味で、地球はもっと熱くなり、継続的に光り輝くようになるとさえ思えます。もし私たちが地球全体の精神について、調和ということではなく、その全体の強さを考えると、地球は現在の強さと同じフェーズであり続けることは決してありません。
また、この人間のエネルギーは質的にも上昇していると評価できます。ここで、人々の間で「研究」という行為が一般化してきている現象について考えましょう。1世紀以上前では研究とは実際よく知られていない余技の1つでありました。しかし今日では多くの人が発見の衝動に魅了されており、まだ不完全ではありますが、ともに協力し共通の観点を展開しながら「研究集団」を形成しつつあります。このことは、まったく適切な精神エネルギーと評価できます。
ここから、進化とは人を通じて新しく躍動するという、まったくシンプルな考えが生まれてきます。今起こっていることは、ロケットが最初に発射された後、2段目に点火されて飛び続けることに例えられます。私たちが進化という現象の全体像をみるとき、それは自然がどのように流れて動いているかということになります。進化が{内省する}人間をつくりだしたときに、同時にもう1つの発射台から{テクノロジーを生み出す}別のエネルギーを使って供給される動きがありました。そして今やこの現象は再び新しい精紳の起こりに向かって動き始めたと思われます。
もしテクノロジーを通して、進化が新しい躍動を作り出すというならば、同時にそれは内省的(精神的)となります。Huxleyは「人は‘意識‘それ自体になる進化である。」と言いました。今、進化は自分自身の選択をしなければなりません。人以前では生命に真の自由は存在せず、生命体はあっちこっちに可能性を模索しながら先へ進んできたように思われます。人の場合は、意識的になり、内省的になり、自分の後に続くプロセスがどうなるかに責任があるので、1つの方向を見出さなければなりません。生命はもはやランダムには進まず、テクノロジーは生命に必要不可欠で必然的なイデオロギーをもたらしてくれることになります。
今2つのイデオロギーが対立しています。1つは唯物主義で「組織がすべてである」と定義されています。言い換えれば、私たちの2つの焦点の最初のものだけが真に重要で現実であり、「意識」の焦点は次に続くものということです。この見方は基本的にはマルクス主義と言われているものであり、私にとっては問題の解決にはまったく不適当に思えるものです。(なぜなら)この考えでは方向を定められません。大きな組織は生命の目的とはならないし、必然的に最適条件へ向かう道ではありません。もしすべてが組織下に置かれるのだったら、個人は何か本質的なものが危険にさらされると感じるでしょう。人にあるすべての問題を組織に明かすことは、1つの全体的な避けられない死(不活性)に導くことになります。組織において人と人の関係がより複雑になればなるほど、それは不安定で可逆的になってきます。人は個人としては不可逆的な方向によってのみ前進が可能です。{時間の経過を考えると、人は個人的には後戻りできないので、組織と異なる部分は抹殺されるしかありません}。前進がなければ、人は行動に対し欲求するエネルギーを失ってしまいます。そして、この「欲求するエネルギー」が最高のもので、これによってテクノロジーは判断されるべきです。
もう1つの焦点は精神のイデオロギーです。2つの焦点のうち、より重要で他のもう1つをコントロールするのが精神であることを強調したいと思います。この観点からすると、今私たちは現在の状況が良いか悪いかを判断する手段を持っていることになり、まったく状況がかわってきます。個人はテクノロジーの中でも守られます、なぜなら彼の「意識」の焦点は今もなお明確に認識しているからです。生命は安全です、なぜなら「複雑性の焦点」が不安定であるのは確かですが、もう1つの精神意識の焦点は、自分自身の中心にあって不可逆性を持ち状況の推移を見ながらコントロール可能となっているからです。
この精神的な見方は、その限界までも追求されるべきです。ここでキリスト教がこの究極の価値に貢献しているということを示したいと思います。キリスト教は現れて以来普及して、1つの輝く中心を提供しうる精神的イデオロギーになっています。この浸透によって、その中心は人の精神エネルギーと継続的に接触しています。神と人の調和をイエス・キリストに見るという考えが、他の現象にも明らかに関係しているという深い調和を内省すればするほど、キリスト教が進歩する宗教になるための必然的なすべての条件にかなっていることをより確信しています。{(注)テイヤール・ド・シャルダンは考古学者、生物学者、地質学者であると同時にキリスト教の牧師でもあった}
これらの結論は、テクノロジーと意識の関係を完全に理解し確認するものです。テクノロジーの大きな影響力は、1つの基礎的序列(精神の序列)の力を私たちに発展させるためであり、そして、私たちに宗教の問題を気付かせようとするためでもあります。

Unpublished, 16 January 1947
Written after an address given on that date in Paris, at the Salle d'horticulture, rue de Grenelle

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