このエッセイでは「Noosphere」とは何かを考えてみたいと思います。「Noos(ノース)」というのはギリシャ語で「心」という意味であり、「Noosphere(ノースフィア)」は、進化のステップとしてBiosphere(生物圏)から一歩進んで、意識することから考えること(内省)が発展して、個々の意識が集約しつつ統合するというビジョンです。現代の人はより個性化することに向かっていますが、より個性化することは他の個性と連携し互いに集約することによって、より高度へと進むことになります。
進化の流れにおいて、人以前では突然変異によって、生命体がより複雑になる方向とその種がより一貫した形態をとる方向の2つが考えられます。しかし人類はいままでの地球上の生命体とはまったく異なった地球上の発展形態になっていると思われます。いままでの生物にない内省(考えること)を得たことによる変化によって個性化がおこり、以前の種の感覚が失われ、新しい進化の流れが生じています。そこでテイヤールは地球上で人類が作り出してきた状況に対し「Noosphere」という言葉を考え出しています。人類は最初に多様化と拡張の段階があり、地球という惑星を占有した以降は圧縮と統合の段階になってきました。現代人は地球レベルでものを考えるようになっており、人種や伝統が違っても人類として互いに理解しあって1つに統合する方向にあります。もし人類に未来があるならば、私たちはこの流れに沿って、「種の保存」のための努力をする必要があると言っています。
以下は、ピエール テイヤール・ド・シャルダンのエッセイ<Le Sens de l'Espèce chez l'Homme, 31 mai 1949>を勝手に訳したものです。ご参考まで。
<生物の種としての人間の自覚>
ピエール テイヤール・ド・シャルダン
I.人以前の種の感覚
動物における個体の生命は、「種の感覚」と呼ぶようなものによって制御されて明確に優位となっています。動物は属する動物種の尊厳と生存を確保しながら、自動的なメカニズムと本能的な反射の複雑な行動を、それを理解することなく活動をこつこつ続けています。この人間以前の生物では、より高度に発達した動物の場合でも、「種の維持」のため、その個体における自己を中心とした傾向をまだ識別できていないと言うことができます。あっても、この自己中心は例外的で副次的なことにおいてのみ起こります。全体として優位なことは、動物の行動が進化に関係していることです。生殖を目的とした体になっており、古生物学上での種の流れを見ると、何らかの爆発的な突然変異がおこされる明確な期間があり、そこでは粗悪品は許されないという、その明確な特徴が定義されます。擬人的な表現をすると、人類以前のあらゆる生物の深い部分において、(突然変異には)明らかに2重の精神的な意味での分極の存在を仮定することができると思います。その分極とは、同時的な2つの方向であり、先に向かうものと同種の方向に向うものです。先に向いた場合は、有機体の複雑な組織が現れる方向に引かれているものであり、意識の程度がより高くなる方向に生じます。同種に向いた場合は、同じ種のメンバーと「統合的な」一貫した形態に向かうことになります。生命すべてのケースでこの2重の分極化に盲目的に従うことになります。これはアリたちがあちこちあくせく働いているのを見て、私たちが経験する驚きを説明するものです。
II. 文明と個人主義
人で始まった進化段階として、本能から内省へと変化した結果、そのときから続く方向にそって、2つの側面をもった1つの興味深い変化が行動に影響しています。
1つには人の意識が「高次の程度」になったことにより、個人は内省の豊さを得て、遺伝では直接伝達されない価値を個人の中に制限なく増加させながら、人間という種に自分1人で立ち、絶対的な特徴を与え、その人を自立させていることに気がつきます。
もう1つ、人はその種において一定的に生じた支流を維持し統合する能力を新しく得て、(多様のままにしておくのではなく)その種は、厳密に惑星として1つにまとまるという次元に達するまで、範囲や組織に制御されることなく有機的な意味で広がっていく傾向にあります。
人類という「種族」は、それ自身は、まったく新しい地球の発展状況です。生物圏の上に、1つの「Noosphere(精神環境)(あるいは考える意識の圏)」を形成しています。
人は最初少なくとも、身体的な部分で生殖による増殖の多様化や分散が強調されました。(少なくともしばらく)生物として種のバランスする方向に人間の集団化と拡散が促進されました。今、要素としての人々が徐々に解放され、それが今、すべての統制を拒否して、それぞれ自分たちが社会構造において有機的に統合するように立ちあがっています。言い換えれば、私たちは従来の生物種としての感覚を失っているように思えます。これは私たちが文明と呼ぶ全体プロセスを通して、原始的な人々に見られる共通意識が続いており、人間の集団の歴史に刻まれた「個体発生」という新しい導き、新しい動きではないでしょうか。
III. 惑星の圧力による強制的再グループ化
ここに、きわめて重要な事実が作用し始めています。それはちょっと聞くと奇妙に思えることですが、私が言いたいのは、人類には「Noosphere(精神環境)」の包み込みによる圧縮がまさに始まっているということです。
人間の始まりから今日に至るまで、人類は(結びついた集団として)、古き時代には多様化と分散化による発展(あるいは少なくとも現れ)が主要なことでした。最初にまずは地球を占有することでした。
現代において客観的に言えることは、地球上の人口拡張が限界に達し、コミュニケーションの発達によって互いの距離が近くなることで、この惑星における空間的および精神的な傾向が結びつく必然的な影響が、人間の進化に現れてきていることです。この結果として私たちは今、そこから逃れ得ない圧縮フェーズに入ったのを見ることになります。
地球の閉じた表面上で、人間は(その集団がより明確化するにつれて、より広くなった行動の範囲と一貫性を持って)そのまとまりとしての増加を持続し、より一層相互に混ざり合って全体を広げ続けないということはありえません。
この全体化するプロセスの意味することが本当かどうか、まだ論議の対象であることはわかっています。この現象は単にエントロピー増大に向かうメカニズムであり、退化とか老化をあらわしているのでしょうか。なるべく感情を荒立てずに耐えるべき生物種の病なのでしょうか。それとも反対に、私たちのレベルを超えた超個人の段階に向かう、「複雑化」のメカニズムの継続であって、その複雑性に向かってエントロピーのメカニズムは経験的に減少するというのは、生物学的には正当なことではないでしょうか。私たちは惑星が社会化する段階において、人間の意識がどの程度より高度に充実するかに注目するべきと思います。先に述べた、相反する2つの回答を考えると、事実によって示唆される方向に一致するのは2番目のものしかありません。
ここで現代の人は、まわりの「集約的全体化に向かう力」の圧力によって常に現実の感覚に戻されており、隔離された個人の利己主義的な「個人主義」のなかに人自身の基本的存在の頂点に達するという考えは幻想であり拒否すべきことを意味しています。この個人主義を拒否する理由として、精神を生じた「Noosphere」の包み込みが進行する宇宙においては、人類の最後以外に、私たちの1人ひとりを待つ最後はないということです。それゆえ、この全般的な流れを考えると、私たちがそこから逃がれて超然としていられるわけはなく、この流れのなかにしっかりと飛び込んでいくこと以外に、生きることや超生命に向かう個人の動機が開かれている道はありません。私たちがその明らかな行動を実行しようとするならば、(心理学的必然性から)新しい時代の基準へと向かう種としての感覚を、私たち自身において再び活性化し、再び新しくすること以外に、それを可能とする方法はありません。
IV. 種の新しい感覚
動物において、種の感覚は本質的に、種の範囲での再生産と多様化に向けて盲目的に追い立てられることであると、私は始めに言ったことを思い出します。
人においては、個人が内省して考えることと、社会全体が集約化することが結びついた現象によって、この2つの異なった内部的なダイナミズムの平衡は、私が「Noosphere」と言った環境において、すべて人間の存在を最高に配置する方向に従って、(個人とその集約の双方が、それぞれ他方を通して生じてくる)充実へと向かわせることが急務であるとするのが合理的に思えます。「Noosphere」というのは人間の意識が発展して統合に向かう環境であり、その程度が高度になって最高の配置となることが予想されるものです。
ここから次の優先度として、(正しい栄養によって、教育によって、選択によって)、地球上で人間という動物のタイプが、より前進的で優生学的に確かとする基本的なことが続きます。
しかし同時に、先を見ようとする情熱的な努力が必要となるに相違ありません。その努力とは、1人の人間として、進化の動機となる、私たちの深いところにある(物理化学的、生物的、精神的すべての面の)力を、ゆっくりと確実に自分たちのものにできるという希望によって、活性化される将来の発見や展望に向けたものです。
同じく最後に、(少なくとも展望が開ける分野については)まさに正しく内省する人間が統合していくと認められる進化の方向に合わせながら、個性化した生命体としての人間は、性の昇華した感覚とか人の普遍的な感覚として、統合への究極の機動力となり情熱の元となるエネルギーの開発に努力することを、決して忘れてはなりません。この感覚によって、人はもはや単なる技術や思考を身につけるだけでなく、いまや互いの1つ1つの内なる内省がすべての人の要素の集まった1つの内省に向けてまとまるように、進化によって知らず知らずに急かされているように思えます。
端的に言えば、すでに現代に至った人類の成熟段階において(人類の全員一致に向けた活動的で生産的な意味で)集約に向かう信条があるはずです。もし私たち人類が崩壊せずに「Noosphere」の全体的な包み込みによって充実することが望まれているのならば、その奥にある信条すなわち私たちの心構えに訴えるものを自覚させ、それは人間という種の新しい感覚を呼び起こすものがあるはずです。もう少し正確には、より進んだ状況を可能にする何らかの信条のことです。それは、宇宙そのものが、十分に強力な希望の光と愛の暖かさを私たちの中に火を灯し続けているにちがいありません。
私が先に言ったように、人類の最後以外に人の最後はありません。そこで、もしこの人類の最後が到達する価値あるべきものならば、もしそれが私たちに魅力的なものならば、計り知れない自由が開かれた状況を予想でき、それは滅亡とか物質的なすべての力を超えて、完全な意識そのものが広がった状況が、(心と精神の両方で)私たち自身に現れることが必須となります。
繰り返しますが、種の本質としての感覚がなければ人の未来はありません。しかし、私たちはそれにどう気づけば良いか悩んでいます。しかし、宇宙の本質を考えると、個性を超えて集約に向かう超個性という何らかの中心に収束する宇宙以外に、どのような種の本質としての感覚があるというのでしょうか。