進化の歴史は生命が複雑なって意識を生じた動きのあるプロセスであり、それが人間になって目的をもち未来を予測する精神として加速しています。この動きを生じるエネルギーとは何でしょうか。動きがあれば、それに伴うエネルギーは必ずあるはずです。それを解明するのは、これからの人類です。
宇宙の材質に隠された精神のエネルギー
ピエール テイヤール・ド・シャルダン
はじめに
ここでもう一度改めて、私が感じて見て生きることについて、捉えどころのない原理をもっと深く掘り下げて、十分に表現することを試みたいと思います。
また何度かそう思ったことですが、もう一度改めて、「私」とは何かということ、それに沿って私が引かれ包み込まれている究極の本質に、もっと密接に迫ってみようと考え続けていることがあります。
そしてもう一度改めて、人間がより密接になって圧縮が増すという、一貫した動きのなかで単純に生じ蓄積されてきて、それが確かな世界の構造として、それらしく訴えているものについて考えたいと思います。その構造はゆっくりと見い出だされ、より密接に引かれ合うことで、生命の歴史や強さや喜びになっていくと思えるものです。
哲学者の認識からすれば、それは「存在」であり、宇宙にあって、最も広い一般的な意味で最初に現れ、その後には弁証法的に識別されるものです。神秘主義的な直観の感情からすれば、それは直接的に啓示される「神聖」なものですが、そこではある種共通に持たれる感情となって、物事の多様性や動きは失われているかもしれません。私に生来備わった「物質主義」の態度(私は今はっきり認識しています)にとって、私の目にはこの宇宙にある明確な層と認められることが起点になって、すべての現実が光り輝き、美化されたものでした。
初めのアポローチとして、物理学者は世の中の基本となる材質を、測定可能な物理的エネルギーの流れとしてみています。多かれ少なかれそれは「物質」に粒子化されたエネルギーです。
この物質の現象の外側を包んでいるものの中に隠れていて(しかも発生的にそれとともに持続している)別の領域に伸びているものを見出だすことが、私の精神的な動機の背後にあって主要な推進力となっています。これは、もはや隣り合う物質どうしの接線的な関係ではなく、中心のある領域があって、最初の種から放射されて、次の種へと向かう(電子とか熱力学ではなく)、精神のエネルギーです。そして、このエネルギーは上昇する段階の程度において、内面性が増加するに従い、以下の3つの領域へと分けられるものです。
<精神エネルギーの段階>
最初は、人間の段階(あるいは内省する段階)
次に、人間を超えた人間の段階(あるいは共に内省する段階)
最終的に、キリスト(神)の段階(あるいは汎内省の段階)
この3つの継続した段階の流れにおいて、1つの進化の流れがこの宇宙全体を包む次元に拡張されます。そしてそれ自身で収束してまとまることで、識別され個性化されるものです。
私自身が表現する方法において、何らかの(科学であれ宗教であれ)正統的なものを尊重しようと思い煩うことなしに、私が単に忠誠から行動するという意識においても同様ですが、人間とキリスト教という2面性の使命感のその極端な限界まで考慮して、見ることすべてを単純に調整することによって、間違いなく明確にもたらされた見方、私にとってはすばらしい世界観を紹介したいと思います。
これは理論ではなく提案です。あるいは言うならば「呼びかけ」です。道を歩く旅人からの呼びかけです。偶然にある観点に達し、そこからすべてが光になり、仲間に「いっしょに来て、見てみませんか」と呼びかけることです。
I. 人間(あるいは内省):私個人としての内省
宇宙のすべてのつくりを統御していることを考え、この時点で私の経験に最終的に現れてきた、人間を見る特別な方法があります。
この基本的なレベルの理解ということを強調するために、私は「人間」といって、単に「人」とは言いません。人類を見るときに私の見方に最も影響を与えたことは、人が社会に集中することではなく、動物学的な種としてのヒトでもありません。それはこの宇宙の材質によって(たとえば原子番号が大きい「ウラニウム」が現れたように)、思考する要素において現れた、ある種の確かに究極に獲得された、(まったくの物理化学的事実のような)知覚のことです。
常識を越えない科学的知識のレベルでは、原子から分子へそして生命へ進歩することにおいて、私たちは本能的に物質が緊張を持たない不活性のものとして心に描く傾向を持っています。あたかもこの世界における材質は、今現在に最高の配置の形態にあると考えて、その原初の安定性や結合状況が徐々に少しずつ失なわれるかのごとくに考えています。
しかし、世界について私の見方では、この宇宙の材質は徐々に発展していき、究極には最高状態で固定されるということなので、すべての現われが拡散していくあるいはいずれにせよ次第に希薄になって情報を失っていくような、あまりに広い宇宙の感覚とは直接的に反対なものです。
私は(最初は拒否したのですが)ある事象を受け入れることで、見方が変化したということがあります。ここで私が意味するのは、私の心の中で、一般に言われる発生学的な考えとして、この宇宙のエントロピーによるエネルギー消費とか、原子数の偶然的なリズムの起こりのことではなく、むしろ複雑性(意識)が次第に、より高い状態に向かうという粒子的なエネルギーの確固とした傾向が本来的にあるということです。
粒子にある不思議なエネルギーの作用について、私たちが知っていることは、遠い過去に宇宙の生命物質として原初的に形成されたものが、偶然の役割にまかされ、それ自身が長い時間におかれたとするならば、その本質的な傾向として、集団として連携し、(それがどこででも、それがどんな数であっても)最も可能な複雑さと中心のシステムにそれ自身が集中していくことです。これが「中心化する複雑性」であり、そこに意識のより明確な中心の現われが起こり、それはまもなく際立って発展してきます。
私たちが宇宙発生の進行の方向と絶対的価値を、最終的に判断するために、この基本的な傾向の真実を受け入れて(私はそうしました)、それをより深く考察するならば、以下の2つの事実が明らかになります。
1つの事実は、単純な物質の極端にあるとされる水素原子に生じるメカニズムと、もう1つの極端であるヒト分子との間に明確な直接の同質性が見られます。もう1つは、それ以上にこれらの粒子の形態の1つから他方に変化して循環することにおいて、宇宙的な結びつきが強められる(あるいは弱くならない)効果というものが考えられます。
この2つの極端な粒子が1つから他方への変容の際に、意識の放射する核は、その(周辺的)電子あるいは熱力学的包み込みの中にあっても、それ自身が関連を反映する点に達し、結果として不可逆的な状況が定まるまで個性化がなされるということになります。
私は長い間他の人がするように、古い習慣のなかで人を観察することに没頭して来ました。人とは本質的にはっきりしない、つかの間の例外のようなもの、あるいは私たちの惑星に厳格に制限された物理化学的な進化の産物として、あるいはまた、外部宇宙からの不思議な介在の結果として、などのことを考えてきました。
しかし今は私の目が開き、以下のことを理解するようになりました。世界の物質は、そのものの全体性において、それ自身にあるすべての点において、それ自身で関連を反映(内省)する傾向があります。
別の言葉で言い換えると、今や地球の人間は、この宇宙に本来的に「ありうる」ものとして以外には認められません。それは物質と時間と空間の全体性を包み込む傾向をもつ、この瞬間に地球上で最も進んだ、この宇宙による生成物です。
そうであるからこそ、私の現在の立場に気づくことができ、今の感覚として、自分以外のすべてとともに、ただの1つのものを終には形成すると、とらわれずに自由に考え内省して生きることができています。
II. 人間を超えた人間(共に内省すること)
私が今言ったように、たとえ私が幸運の可能性に恵まれて、実存的な哲学と論理の精神が、この宇宙の物理化学的な直接の拡張であるとわかったとしても、そうであっても私は急いで付け加えるべきことがあります。それが明確な事実によって自動的になされるのでなければ、その主要な関係の発見があっても、私には無駄で使えないものです。地球にある人類を全体的に考えると、宇宙的なプロセスにおける精神の発生の動きは(人が言うこととは反対に)この瞬間に止まっている状態とはまったく異なって、それは加速しているからです。
宇宙の材質の真髄を認識するために、私においてその極限までに発展するエネルギーと物質の理解を活性化させることが必要なことでした。
人間を1つの全体としてとらえるために、同じように1つの銀河を形成する集中のプロセスを考えてみると、この2つの偉大な事実は、同じ言葉を使って同じ基準の本質で表現されると、単に解釈のやり直しをして、継続する動きを考えたということです。この2つの事実は両方とも、「結びついて起こること」の間違いのない証拠です。
そして以下に、人間における科学と社会の結びつきについて説明したいと思います。
このことについて、私たちは人間の文明の解釈について、まだ合理的な観点から言って、間違った考えにあるように思えます。
その理由の1つとして以下のことがあります。それは、テクノロジーの革新や経済交流の発展によって、人類は日々自身で全体としてまとまっていく動きにあるのは、経験から事実とわかります。しかし、この有機的と思われる(有機的といっても間違いでない)動きの傾向は、生物学的にはそれほど特別な価値はない(生物学的に考えて、有機的な組織の状況に関する必須の傾向ではない)と、私たちは気を使って考えて納得しています。
もう1つは、同じ物質的な(テクノロジーの)進歩の動きによって、この宇宙に対する見かたや認識の知覚において、急速にその深さと一貫性が増えてきていることは、私たちの各々が十分に評価しています。しかし、たとえ私たちが良く注意して、それを話題にすることはあっても、この日々に追加される知識が、「人間の本質」に永遠となる、何か「新しいこと」に貢献するとは考えていません。
言い換えると、ちょうど生命の進化が現実に人間以外の種でやってきたように、その複雑性の起こりと意識の組み合わせが、人間の大衆においても作用していて、この人間という特別なケースでは、他のケースと同じように、その現われが、宇宙的な見方の次元や価値における動きとして、重要な意味を持っていると認識することを、私たちはまだ拒否しています。
私が反抗した足どりとは、これらの事実の扱いが拒否されていることに対抗することでした。私は「本質」と「人が為したこと」の間にある分離を受け入れることを拒否しました。そしてより重要なことですが、人の心の中ででゆっくりと発展した、すべての調査研究によって知識として形作られた、共通の見かた(世界観)の中に、創造的、追加的、遺伝的な要素として、その意味が存在すると考えるようになりました。そして、これが私が今述べている見方の中に結局は確認できることです。
私たち自身が、正確な軸の方向への関係づけを見失ってしまうと、人間の現象のプロセスを見るときに、それを十分な長さの期間で扱わず、不明瞭な感傷的な方法で、人間の完全さとか進歩の現実という概念を討論することになります。
現在この分野では、複雑性-意識の普遍的なパラメータを適切に適用することだけが必要です。これは先を見て内省する人々には何の疑いもないことを、私は強調したいと思います。もし時が立って、将来人は良くなるのか、あるいは悪くなるのか、と聞かれても、それは個人の判断なので、私はその言葉の意味が良くわからないと答えるか、あるいはそれを気にかけません。
しかし、人類が種として滅亡に向かっているのか、あるいは現在の人類は最高に達したのかと聞かれれば、私は断固として絶対的にそれを否定します。
そして次のことが、まさにその良い理由です。
技術テクノロジーと目的をもった精神が統合されていく作用が、現実の方法となってきたことによって、現代の人類は、後戻りとか衰退という状況からは全く異なり、共に内省し合って十分に活性化したシステムとして、それが私たちの経験の中で明確に現れてきています。それはまさしく人間の連携が個々の人間を超えて超人間になっていることに同じであると思われます。
1つの例として、現代流行の風潮になっている、異なった文化や習慣にふれる喜びを求めて海外に旅行する人たちが増え続けています。もし考える地球に暮らす人たちの心配が集まって、そのエネルギーを刺激しているならば、私たちが海外旅行を楽しむ傾向は、まさに切迫した滅亡への現象ではなく、地球を全体に包み込む、宇宙の材質が超活性化していく兆候ではないかと思わせます。(そして、ここに古代の福音書にある予期しない側面を見るようです)
私たちに幸福なことは、人類は実証的にその有機的全体性において常に一定した動きがあると考えられるだけでなく、それ以上に、先行したすべての動物学的種(多様性のタイプ)と異なり、人間が人間の全体へと収束していることです。そしてこの(惑星的な制限と変化の速さにおいて)抵抗できない生物学的包み込みは、私たちの先に進化の最高のものがあって、(そして最高に美化された)その究極の内省の中心が、たぶん実際に存在しているという、野心的なアイデアと希望があることを、私たちの心に示唆しています。
III. キリスト(神)(あるいは汎内省)
私の生涯の大きなテーマは、結局のところ、2つの太陽という私の精神的な天国において、ゆっくりと同質化されることを、私は別のところ(The Heart of Matter)で書きました。この2つの太陽の1つは、収束するタイプの普遍的な進化によって仮定された宇宙的頂点であり、もう1つは、キリスト教の信条としてキリストの昇天によって構成されたものでした。私はそれらを結びつける心理学的経過を、ここでは述べません。
私がテーマとして取り上げたいことは、「神聖なる環境」のすばらしいエネルギーの特徴を、過去よりも現代においてより強調することです。
その「神聖なる環境」は、共に内省することで起こる、先からの流れと、神による天啓として上からくる流れとの間で結びついて、真の内面的な「葛藤」が合わさることによって、人間の意識のまったくの深さにおいて生じているものです。
宇宙そのものの最終的で完全な内省は、上にある天国と先にある地球との間での「結合」において生じます。別の言葉では、神は自身で宇宙を作り、進化が人を作るということが{隠れたエネルギーの}同じ動きによって進んでいることです。
この「ひらめき」以上に何が必要でしょうか、夢にももっとすばらしいことが想像できるでしょうか。私たちのすべてに潜在する活性化と崇拝のすべての可能性が、最高の形態で同時に実現されるために、私たちが生きていく上の理想として、もっと必要なものがあるでしょうか。
現代において、私たちは以下のことを適切に考え始めるでしょう。
自身で内省する人間においては、自己の進化を制御できる特徴を持っていることから、この宇宙における精神の発生はよりいっそう急速になるという事象があります。あらゆる面で最大の複雑性-意識に向かう宇宙の前進は、これからは人間自身に解決を急がす意志が、内面的に支援していると感じることが必要です。
その意志には、全体の死についてのどんな究極的な予感も干渉しないでしょう。まさに反対に、その深い根本から、圧倒的な情熱で行動を起こす意志になります。
それは(閉じているゆえに)暗い宇宙や氷のようにつめたい宇宙ではなく、単に(その顔を持たない)気乗りのしない宇宙でもなく、共に内省する力が、その共通の極に達するまで生き続けようとする意志が、物理的に可能な宇宙です。
しかし、その意志が最後まで機能するために、私たちの行動が要求するのは、物理の世界としての開いた宇宙、光り輝く宇宙です。そのときにキリスト教の形態を考えると、不可逆的な個性化の本当の中心が、その集中の最高の極において輝くと言えるのではないでしょうか。いつものように、ここでも行動は反応を起こすということに疑いはありません。キリストを「改革者」と考えるには、同時にキリスト教学の全体を考え直すことなしには不可能です。
すべての機能的な完全さを目指すことは、私たちが習慣的に想像して作り出した形式主義を置き換えます。統計的悪と進化による補正の2面性の概念は、破滅的な罪と罪の償いの考え方を正しく完全にします。最終的な完成は破滅というのではなく成熟といえるものです。
この世の中の物事は、安定し結晶化して固定している状況ではなく、すべての範囲で再調整がなされる必要があります。キリスト教の信条に明確に規定されている多くの表現や態度の中に、それが表れていることを、私は(率直にキリスト教の進化を望んでいるので)よく気付いています。
結果として、そして現実の必然性から見ると、宇宙が十分に大きく、十分に有機的であるという考えが不足していた状況にあって、いままでは宗教としてあまり知られていないもの、まだ想像されたり述べられたりしていないものが、進化という考え方によって種(たね)が植えられて、現代の宗教の心の中に芽が出ています。
神とは、もはや個性を否定したと見なされる概念で追い求められることはないし、反人間化するような逃避のなかに求められるのでもありません。神はすべてのものを含む全体の中心へと入り込むことによって得られます。(そしてこれは限りないエネルギーにあって、限りない真の共同体をもたらすものです)。そして、その中心はそれ自身が形成の過程にあるものです。
このような改革が、私の信条を揺るがしているのではなく、この新しい神秘主義の不可避的な起こりを正当に受け入れて、同時に不可避的な勝利を予想できるという、抑えることのできない希望と共にあります。
それは、この宇宙的なエネルギーの力が、人間を究極的にまで収束し最大まで活性化するという信条の形に行き着くことを、最終まで絶対に何からも妨げられないならば、キリストの超越性が実際にその最も良い証明となりうるからです。
このキリスト教には、はっきりしたユニークな力が見えており、それがまさに必要なときに現れ、そこで十分な行動と崇拝の力を発展させるとすれば、この歴史の瞬間において、私たちの本質として絶対的に置き換えられないものです。そしてこれが宇宙と同一のものであり、あるべきキリストということです。他の言葉ではそれは神であり、私たちが探している進化の神そのものです。
Unpublished, in sight of St Helena, on passage from
New York to the Cape, 14 July 1953