Noosphere<精神圏>

進化の途上にある人間、これからどう発展するのか。

宇宙の材質に隠された精神のエネルギー

2015-05-31 01:34:31 | 進化のエネルギー

進化の歴史は生命が複雑なって意識を生じた動きのあるプロセスであり、それが人間になって目的をもち未来を予測する精神として加速しています。この動きを生じるエネルギーとは何でしょうか。動きがあれば、それに伴うエネルギーは必ずあるはずです。それを解明するのは、これからの人類です。

 

宇宙の材質に隠された精神のエネルギー

ピエール テイヤール・ド・シャルダン

 

はじめに

 

ここでもう一度改めて、私が感じて見て生きることについて、捉えどころのない原理をもっと深く掘り下げて、十分に表現することを試みたいと思います。

また何度かそう思ったことですが、もう一度改めて、「私」とは何かということ、それに沿って私が引かれ包み込まれている究極の本質に、もっと密接に迫ってみようと考え続けていることがあります。

そしてもう一度改めて、人間がより密接になって圧縮が増すという、一貫した動きのなかで単純に生じ蓄積されてきて、それが確かな世界の構造として、それらしく訴えているものについて考えたいと思います。その構造はゆっくりと見い出だされ、より密接に引かれ合うことで、生命の歴史や強さや喜びになっていくと思えるものです。

 

哲学者の認識からすれば、それは「存在」であり、宇宙にあって、最も広い一般的な意味で最初に現れ、その後には弁証法的に識別されるものです。神秘主義的な直観の感情からすれば、それは直接的に啓示される「神聖」なものですが、そこではある種共通に持たれる感情となって、物事の多様性や動きは失われているかもしれません。私に生来備わった「物質主義」の態度(私は今はっきり認識しています)にとって、私の目にはこの宇宙にある明確な層と認められることが起点になって、すべての現実が光り輝き、美化されたものでした。

 

初めのアポローチとして、物理学者は世の中の基本となる材質を、測定可能な物理的エネルギーの流れとしてみています。多かれ少なかれそれは「物質」に粒子化されたエネルギーです。

この物質の現象の外側を包んでいるものの中に隠れていて(しかも発生的にそれとともに持続している)別の領域に伸びているものを見出だすことが、私の精神的な動機の背後にあって主要な推進力となっています。これは、もはや隣り合う物質どうしの接線的な関係ではなく、中心のある領域があって、最初の種から放射されて、次の種へと向かう(電子とか熱力学ではなく)、精神のエネルギーです。そして、このエネルギーは上昇する段階の程度において、内面性が増加するに従い、以下の3つの領域へと分けられるものです。

 

<精神エネルギーの段階>

最初は、人間の段階(あるいは内省する段階)

次に、人間を超えた人間の段階(あるいは共に内省する段階)

最終的に、キリスト(神)の段階(あるいは汎内省の段階)

 

この3つの継続した段階の流れにおいて、1つの進化の流れがこの宇宙全体を包む次元に拡張されます。そしてそれ自身で収束してまとまることで、識別され個性化されるものです。

 

私自身が表現する方法において、何らかの(科学であれ宗教であれ)正統的なものを尊重しようと思い煩うことなしに、私が単に忠誠から行動するという意識においても同様ですが、人間とキリスト教という2面性の使命感のその極端な限界まで考慮して、見ることすべてを単純に調整することによって、間違いなく明確にもたらされた見方、私にとってはすばらしい世界観を紹介したいと思います。

これは理論ではなく提案です。あるいは言うならば「呼びかけ」です。道を歩く旅人からの呼びかけです。偶然にある観点に達し、そこからすべてが光になり、仲間に「いっしょに来て、見てみませんか」と呼びかけることです。

 

 

I. 人間(あるいは内省):私個人としての内省

 

宇宙のすべてのつくりを統御していることを考え、この時点で私の経験に最終的に現れてきた、人間を見る特別な方法があります。

この基本的なレベルの理解ということを強調するために、私は「人間」といって、単に「人」とは言いません。人類を見るときに私の見方に最も影響を与えたことは、人が社会に集中することではなく、動物学的な種としてのヒトでもありません。それはこの宇宙の材質によって(たとえば原子番号が大きい「ウラニウム」が現れたように)、思考する要素において現れた、ある種の確かに究極に獲得された、(まったくの物理化学的事実のような)知覚のことです。

 

常識を越えない科学的知識のレベルでは、原子から分子へそして生命へ進歩することにおいて、私たちは本能的に物質が緊張を持たない不活性のものとして心に描く傾向を持っています。あたかもこの世界における材質は、今現在に最高の配置の形態にあると考えて、その原初の安定性や結合状況が徐々に少しずつ失なわれるかのごとくに考えています。

 

しかし、世界について私の見方では、この宇宙の材質は徐々に発展していき、究極には最高状態で固定されるということなので、すべての現われが拡散していくあるいはいずれにせよ次第に希薄になって情報を失っていくような、あまりに広い宇宙の感覚とは直接的に反対なものです。

 

私は(最初は拒否したのですが)ある事象を受け入れることで、見方が変化したということがあります。ここで私が意味するのは、私の心の中で、一般に言われる発生学的な考えとして、この宇宙のエントロピーによるエネルギー消費とか、原子数の偶然的なリズムの起こりのことではなく、むしろ複雑性(意識)が次第に、より高い状態に向かうという粒子的なエネルギーの確固とした傾向が本来的にあるということです。

 

粒子にある不思議なエネルギーの作用について、私たちが知っていることは、遠い過去に宇宙の生命物質として原初的に形成されたものが、偶然の役割にまかされ、それ自身が長い時間におかれたとするならば、その本質的な傾向として、集団として連携し、(それがどこででも、それがどんな数であっても)最も可能な複雑さと中心のシステムにそれ自身が集中していくことです。これが「中心化する複雑性」であり、そこに意識のより明確な中心の現われが起こり、それはまもなく際立って発展してきます。

 

私たちが宇宙発生の進行の方向と絶対的価値を、最終的に判断するために、この基本的な傾向の真実を受け入れて(私はそうしました)、それをより深く考察するならば、以下の2つの事実が明らかになります。

 

1つの事実は、単純な物質の極端にあるとされる水素原子に生じるメカニズムと、もう1つの極端であるヒト分子との間に明確な直接の同質性が見られます。もう1つは、それ以上にこれらの粒子の形態の1つから他方に変化して循環することにおいて、宇宙的な結びつきが強められる(あるいは弱くならない)効果というものが考えられます。

この2つの極端な粒子が1つから他方への変容の際に、意識の放射する核は、その(周辺的)電子あるいは熱力学的包み込みの中にあっても、それ自身が関連を反映する点に達し、結果として不可逆的な状況が定まるまで個性化がなされるということになります。

 

私は長い間他の人がするように、古い習慣のなかで人を観察することに没頭して来ました。人とは本質的にはっきりしない、つかの間の例外のようなもの、あるいは私たちの惑星に厳格に制限された物理化学的な進化の産物として、あるいはまた、外部宇宙からの不思議な介在の結果として、などのことを考えてきました。

 

しかし今は私の目が開き、以下のことを理解するようになりました。世界の物質は、そのものの全体性において、それ自身にあるすべての点において、それ自身で関連を反映(内省)する傾向があります。

別の言葉で言い換えると、今や地球の人間は、この宇宙に本来的に「ありうる」ものとして以外には認められません。それは物質と時間と空間の全体性を包み込む傾向をもつ、この瞬間に地球上で最も進んだ、この宇宙による生成物です。

そうであるからこそ、私の現在の立場に気づくことができ、今の感覚として、自分以外のすべてとともに、ただの1つのものを終には形成すると、とらわれずに自由に考え内省して生きることができています。

 

 

II. 人間を超えた人間(共に内省すること)

 

私が今言ったように、たとえ私が幸運の可能性に恵まれて、実存的な哲学と論理の精神が、この宇宙の物理化学的な直接の拡張であるとわかったとしても、そうであっても私は急いで付け加えるべきことがあります。それが明確な事実によって自動的になされるのでなければ、その主要な関係の発見があっても、私には無駄で使えないものです。地球にある人類を全体的に考えると、宇宙的なプロセスにおける精神の発生の動きは(人が言うこととは反対に)この瞬間に止まっている状態とはまったく異なって、それは加速しているからです。

 

宇宙の材質の真髄を認識するために、私においてその極限までに発展するエネルギーと物質の理解を活性化させることが必要なことでした。

人間を1つの全体としてとらえるために、同じように1つの銀河を形成する集中のプロセスを考えてみると、この2つの偉大な事実は、同じ言葉を使って同じ基準の本質で表現されると、単に解釈のやり直しをして、継続する動きを考えたということです。この2つの事実は両方とも、「結びついて起こること」の間違いのない証拠です。

そして以下に、人間における科学と社会の結びつきについて説明したいと思います。

 

このことについて、私たちは人間の文明の解釈について、まだ合理的な観点から言って、間違った考えにあるように思えます。

 

その理由の1つとして以下のことがあります。それは、テクノロジーの革新や経済交流の発展によって、人類は日々自身で全体としてまとまっていく動きにあるのは、経験から事実とわかります。しかし、この有機的と思われる(有機的といっても間違いでない)動きの傾向は、生物学的にはそれほど特別な価値はない(生物学的に考えて、有機的な組織の状況に関する必須の傾向ではない)と、私たちは気を使って考えて納得しています。

 

もう1つは、同じ物質的な(テクノロジーの)進歩の動きによって、この宇宙に対する見かたや認識の知覚において、急速にその深さと一貫性が増えてきていることは、私たちの各々が十分に評価しています。しかし、たとえ私たちが良く注意して、それを話題にすることはあっても、この日々に追加される知識が、「人間の本質」に永遠となる、何か「新しいこと」に貢献するとは考えていません。

 

言い換えると、ちょうど生命の進化が現実に人間以外の種でやってきたように、その複雑性の起こりと意識の組み合わせが、人間の大衆においても作用していて、この人間という特別なケースでは、他のケースと同じように、その現われが、宇宙的な見方の次元や価値における動きとして、重要な意味を持っていると認識することを、私たちはまだ拒否しています。

 

私が反抗した足どりとは、これらの事実の扱いが拒否されていることに対抗することでした。私は「本質」と「人が為したこと」の間にある分離を受け入れることを拒否しました。そしてより重要なことですが、人の心の中ででゆっくりと発展した、すべての調査研究によって知識として形作られた、共通の見かた(世界観)の中に、創造的、追加的、遺伝的な要素として、その意味が存在すると考えるようになりました。そして、これが私が今述べている見方の中に結局は確認できることです。

 

私たち自身が、正確な軸の方向への関係づけを見失ってしまうと、人間の現象のプロセスを見るときに、それを十分な長さの期間で扱わず、不明瞭な感傷的な方法で、人間の完全さとか進歩の現実という概念を討論することになります。

現在この分野では、複雑性-意識の普遍的なパラメータを適切に適用することだけが必要です。これは先を見て内省する人々には何の疑いもないことを、私は強調したいと思います。もし時が立って、将来人は良くなるのか、あるいは悪くなるのか、と聞かれても、それは個人の判断なので、私はその言葉の意味が良くわからないと答えるか、あるいはそれを気にかけません。

しかし、人類が種として滅亡に向かっているのか、あるいは現在の人類は最高に達したのかと聞かれれば、私は断固として絶対的にそれを否定します。

 

そして次のことが、まさにその良い理由です。

技術テクノロジーと目的をもった精神が統合されていく作用が、現実の方法となってきたことによって、現代の人類は、後戻りとか衰退という状況からは全く異なり、共に内省し合って十分に活性化したシステムとして、それが私たちの経験の中で明確に現れてきています。それはまさしく人間の連携が個々の人間を超えて超人間になっていることに同じであると思われます。

 

1つの例として、現代流行の風潮になっている、異なった文化や習慣にふれる喜びを求めて海外に旅行する人たちが増え続けています。もし考える地球に暮らす人たちの心配が集まって、そのエネルギーを刺激しているならば、私たちが海外旅行を楽しむ傾向は、まさに切迫した滅亡への現象ではなく、地球を全体に包み込む、宇宙の材質が超活性化していく兆候ではないかと思わせます。(そして、ここに古代の福音書にある予期しない側面を見るようです)

 

私たちに幸福なことは、人類は実証的にその有機的全体性において常に一定した動きがあると考えられるだけでなく、それ以上に、先行したすべての動物学的種(多様性のタイプ)と異なり、人間が人間の全体へと収束していることです。そしてこの(惑星的な制限と変化の速さにおいて)抵抗できない生物学的包み込みは、私たちの先に進化の最高のものがあって、(そして最高に美化された)その究極の内省の中心が、たぶん実際に存在しているという、野心的なアイデアと希望があることを、私たちの心に示唆しています。

 

 

III. キリスト(神)(あるいは汎内省)

 

私の生涯の大きなテーマは、結局のところ、2つの太陽という私の精神的な天国において、ゆっくりと同質化されることを、私は別のところ(The Heart of Matter)で書きました。この2つの太陽の1つは、収束するタイプの普遍的な進化によって仮定された宇宙的頂点であり、もう1つは、キリスト教の信条としてキリストの昇天によって構成されたものでした。私はそれらを結びつける心理学的経過を、ここでは述べません。

私がテーマとして取り上げたいことは、「神聖なる環境」のすばらしいエネルギーの特徴を、過去よりも現代においてより強調することです。

その「神聖なる環境」は、共に内省することで起こる、先からの流れと、神による天啓として上からくる流れとの間で結びついて、真の内面的な「葛藤」が合わさることによって、人間の意識のまったくの深さにおいて生じているものです。

 

宇宙そのものの最終的で完全な内省は、上にある天国と先にある地球との間での「結合」において生じます。別の言葉では、神は自身で宇宙を作り、進化が人を作るということが{隠れたエネルギーの}同じ動きによって進んでいることです。

この「ひらめき」以上に何が必要でしょうか、夢にももっとすばらしいことが想像できるでしょうか。私たちのすべてに潜在する活性化と崇拝のすべての可能性が、最高の形態で同時に実現されるために、私たちが生きていく上の理想として、もっと必要なものがあるでしょうか。

 

現代において、私たちは以下のことを適切に考え始めるでしょう。

自身で内省する人間においては、自己の進化を制御できる特徴を持っていることから、この宇宙における精神の発生はよりいっそう急速になるという事象があります。あらゆる面で最大の複雑性-意識に向かう宇宙の前進は、これからは人間自身に解決を急がす意志が、内面的に支援していると感じることが必要です。

その意志には、全体の死についてのどんな究極的な予感も干渉しないでしょう。まさに反対に、その深い根本から、圧倒的な情熱で行動を起こす意志になります。

 

それは(閉じているゆえに)暗い宇宙や氷のようにつめたい宇宙ではなく、単に(その顔を持たない)気乗りのしない宇宙でもなく、共に内省する力が、その共通の極に達するまで生き続けようとする意志が、物理的に可能な宇宙です。

しかし、その意志が最後まで機能するために、私たちの行動が要求するのは、物理の世界としての開いた宇宙、光り輝く宇宙です。そのときにキリスト教の形態を考えると、不可逆的な個性化の本当の中心が、その集中の最高の極において輝くと言えるのではないでしょうか。いつものように、ここでも行動は反応を起こすということに疑いはありません。キリストを「改革者」と考えるには、同時にキリスト教学の全体を考え直すことなしには不可能です。

すべての機能的な完全さを目指すことは、私たちが習慣的に想像して作り出した形式主義を置き換えます。統計的悪と進化による補正の2面性の概念は、破滅的な罪と罪の償いの考え方を正しく完全にします。最終的な完成は破滅というのではなく成熟といえるものです。

 

この世の中の物事は、安定し結晶化して固定している状況ではなく、すべての範囲で再調整がなされる必要があります。キリスト教の信条に明確に規定されている多くの表現や態度の中に、それが表れていることを、私は(率直にキリスト教の進化を望んでいるので)よく気付いています。

結果として、そして現実の必然性から見ると、宇宙が十分に大きく、十分に有機的であるという考えが不足していた状況にあって、いままでは宗教としてあまり知られていないもの、まだ想像されたり述べられたりしていないものが、進化という考え方によって種(たね)が植えられて、現代の宗教の心の中に芽が出ています。

 

神とは、もはや個性を否定したと見なされる概念で追い求められることはないし、反人間化するような逃避のなかに求められるのでもありません。神はすべてのものを含む全体の中心へと入り込むことによって得られます。(そしてこれは限りないエネルギーにあって、限りない真の共同体をもたらすものです)。そして、その中心はそれ自身が形成の過程にあるものです。

 

このような改革が、私の信条を揺るがしているのではなく、この新しい神秘主義の不可避的な起こりを正当に受け入れて、同時に不可避的な勝利を予想できるという、抑えることのできない希望と共にあります。

それは、この宇宙的なエネルギーの力が、人間を究極的にまで収束し最大まで活性化するという信条の形に行き着くことを、最終まで絶対に何からも妨げられないならば、キリストの超越性が実際にその最も良い証明となりうるからです。

 

このキリスト教には、はっきりしたユニークな力が見えており、それがまさに必要なときに現れ、そこで十分な行動と崇拝の力を発展させるとすれば、この歴史の瞬間において、私たちの本質として絶対的に置き換えられないものです。そしてこれが宇宙と同一のものであり、あるべきキリストということです。他の言葉ではそれは神であり、私たちが探している進化の神そのものです。

 

Unpublished, in sight of St Helena, on passage from

New York to the Cape, 14 July 1953 

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現代の人間とは(転換期の人類)

2015-05-24 12:40:51 | 日記

 

この地球には多くの生命体がありますが、思考するのは人間だけであり、この人間がこの地球の未来を作っていくとことは自明のことに思われます。しかし私たち人間は、まじめに未来を考えているのでしょうか。未来に必要な知識を得ようと努力しているのでしょうか、また未来はどうあるべきという考えをもっているのでしょうか。

生命のことを考えるとき、それは物質からできているのは事実ですが、その生命は意識をもっていると言われます。ここで不思議に思えるのは、意識とはどういうことであって、どうして生じたのかという、基本的なことが明確でないことです。これだけ技術革新が進んで便利な世の中にはなってきても、「生命とは何か」という質問に明確な答えは出されていません。

この宇宙の物質としての、原子核や電子の単純な構造から、どうして生命を構成するアミノ酸やたんぱく質の分子ができ、それがどうして生命となるのか解明されていません。

 

しかし実際に地球には生命が起こり、私たち人間に進化した生命があり、これは事実として認められることです。現在考えられるのは、宇宙の物質には集合する傾向があって、それが中心と周辺という構造となり、それらの物質が何らかの理由で組み合わさって高分子となり、その分子が集まって複雑な生命構造を持つようになるといわれます。その基本は炭素、水素や酸素などの元素であり、これらの原子や分子から、どうして特定の複雑分子の組み合わせである「たんぱく質」が構成され、特殊な状況において、独自に自己を複製する機能をもつようになるのでしょうか。これは宇宙の時間で測らなければならないほどの長大な時間を要することですが、いったん生命が発生すると、そこで発現した意識はより複雑になって人間にまで至ります。

 

いままでの古生物学の研究成果からすると、生命の進む道は直線ではなく、変態や放散などの試行錯誤をくりかえし、そこではすでに全滅した種の数も計り知れないことになります。しかし結局のところ生命は哺乳類にたどりつき、そこでは私たちが、その個体に自己を認識する態度を観察できるので、それは意識といえることになります。そして人間という種が現れて、自己を意識するだけでなく、自己の意識において思考する生命体に進んできていると考えられます。とてつもない長い期間を大まかに考えると、炭素や水素などの元素の集合が思考する人間まで、一直線に系統化されていることになります。

 

この生命メカニズムが解明されれば、おそらく人間の生活環境や生活態度にも大きな変化がもたらされると思います。なぜ生物学者は思考へ収束する進化の方向を考えないのでしょうか。また物理学者は生命の現象の元にある原子や分子のミクロ現象を、もっと深く研究しようと思わないのでしょうか。原子核の陽子とか電子の配置で各種の元素ができ、そこに異なった化学的性質が生まれ、その組み合わせで意識が生まれる基盤を構成しているとすると、不思議というより、そこに何らかの新しい原理があるかもしれないと追求すべきであると思います。過去の理論へのつじつまあわせで抽象的な説明と数式に終始して、時間を無駄に使っているとすれば、科学には先がないとなります。ここにも現代の人間にある権威と地位への執着があり、それは科学の精神というものの未熟さであり、まだ旧人類的な考えに支配された、試行錯誤の過程が見え隠れしているようです。

 

現代は新人類への転換期というのがテイヤールの持論です。私たちは次にあるべき未来の人類を目指すべきであると強調されています。過去の「しがらみ」はいろいろあって、目の前の生活の糧を思うと、そうは言ってられない個々の事情があるという反論はあります。しかし、新人類は互いの「思いやり」や連携から生まれるもので、権威や地位や財産などの個人に付随する利己主義を生むものとは無縁のものです。自分の利益だけを追及できる時代は、この先にはありません。

 

現代の人間は自分たちの地球全体をも破壊できるような技術を持ち、地球を埋め尽くすほど増殖し、あらゆる悪のなかで生きる方向を模索しています。この状況に対処するには、人間が意識をもって思考し、互いに連携して協調することを基本にして、未来を考え選択していくことで、利己主義を超えて先に進むことができます。人間は同じ意識の仲間が集まり、内省(思考)の範囲を広げ、試行錯誤のなかで互いを尊重しながら、そこに充実や豊かさを生じさせることができます。互いの連携によって事実を分析し、より正確に事象を理解し、それを一般に公開するという流れが、この先に見えてきています。

 

私の考えでは、この世に偶然はないと思います。人はそれぞれこの世に生まれたときから、その足跡を残し記録してきています。すべての出会いは自分とっての経験であり、試行錯誤の流れのなかの選択です。現代では何をしてもいいという自由な考えが起こってきている一方、他人に迷惑がかかる利己的な行動や進歩を阻止する行動は、まわりの状況から裁かれます。

また個人の人生は1つの試行錯誤なので、個々の人生に良い悪いの判断はありません。悪いことをして刑務所に入るのも、逃げおおせて臆病にくらすのも、有り余るお金の山を見てほくそ笑むのも、単に1つの選択です。自分の人生とは生きるチャンスを与えられたことであり、それが家を建ててお金を残すことだけに終わるのでは、いかにも人生を無駄に過ごしてしまうのではないでしょうか。

 

この宇宙の大きな流れのなかで、1つの生きた粒子として存在して、何をしても良いというけれども、この小さな生命を有効に生かして瞬時の人生を終わりにすると考えるならば、単に生きて死ぬこととは違います。人生に疲れ、肉体の苦労や痛みがあっても、それを意識し思考する自分という世界を持ち、自己を認識して人類の未来を考えることができます。それが地球の精神のほんの小さな一部を構成することになると確信できます。

 

これは意味のないことではないと思います。すべてが自分との関係で、自分のなかに蓄えられることです。それが意識のなかで他人との連携に発展します。それは言葉による連携だけではありません。いろいろな事象についての意識が思考を必要としています。なぜこんなにも考えるのでしょうか、考えることが強制されるのでしょうか。意識が複雑になってきた発展と思考が強制され拡張されることは関連があると思われます。そこですべきことは、原子や分子の構造の解明と精神の構造との関連について科学的に実証され明確にすべきことがあるように思います。おそらく思考は空気とか空間を通して拡張されるという気がします。それは次元の拡張の可能性ともいえるかもしれません。

この世界の物質は見た目には不変に見えます。しかしミクロの世界にある細かい変化は目で見えません。原子や分子の世界は直接の観察はできません。現在の生命についての研究では、技術の進歩によって生理学的な構造や分子生物学の分析である程度わかってきている部分はありますが、これからは原子や分子のレベルで、ミクロ構造の真実が解明されることが必要になると思います。

 

ここで次元とは何を意味するのかというと、習慣あるいは常識と言われた認識を超える関連付けについてのことを考えています。これは、世界中の意識がどこかに織り込まれていて、関連しあうということを意味しています。虫の知らせや胸騒ぎのような第六感、地震の前触れ現象、同時代に同じような新発見が起こるシンクロニシティという現象、偶然とは思えない邂逅など、言葉によらない意識の伝達があるといわれます。生命には記憶チャネルの中に、そういった通常の感覚をこえるような情報のやりとりはありえるのでしょうか。植物や動物には人間にはない感覚器官があって、何らかの情報を収集し伝達できるといわれます。渡り鳥が集団で連携して正確な方向に飛ぶとか、集団で狩をするシャチの例とか何らかの連携手段が動物にはあるといいます。意識が精神にまで進化した人間の場合を考えると、その精神の進化が時代を経て継承されていかなければ進歩はありません。それは言語によってしか伝えられないのでしょうか。それではあまりに情報が少ないという気がします。同時代の人がそれぞれ、同じところで前進と後退を繰り返すのでは、進化の不可逆性ということに矛盾します。

 

ここに新たな意識が連携する「次元」ということを考慮する必要があります。それはユングのいう「集合的無意識」のような検証できない理論ではなく、科学的に観察しその道理を説明できることが必要です。それには原子の構造や空間のミクロ構造を解明することが必要であって、未来の人類への道は、このような現象が解明でき、人類が連携するようになって切り開かれるのかもしれません。不思議な現象が本当のことなのか、あるいは人をだますために仕組まれたことなのか、という区別もつかず、真摯な研究もなしに、すべてを超心理学とかオカルトだと決め付けて、絵空事や冗談の範囲においておくのは、人類の先を良く考えていない旧人類のすることに思えます。科学の精神ということは、ガリレオの時代に地動説で裁判にかけられたように、正しいと納得させる不屈の精神を必要とすることかもしれません。この流れをつかむことが新人類への道となるという気がします。

 

 

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宇宙の目的

2015-05-14 23:07:02 | 日記

この宇宙は単に静的に存在するのではなく、目的があって存在しているとして考察してみたらどうでしょうか。この考察は生命が発生し進化するという事実の根底にある目的についてのことです。この宇宙では生命の発生条件にかなう惑星の数が、かなりの確率で存在するという計算があります。しかし、もっと大胆に考えれば、この宇宙全体がある目的をもって生命を発生させているのではないか、とも考えられます。つまり宇宙自体が、新星爆発などで宇宙に基本元素を生成し、星々の渦の中から太陽系のような惑星を伴う形を形成して、その環境条件の適した惑星において、宇宙の原則として生命を発生させようとしているとも思えます。生命がいったん起これば思考をもつ人間まで進化し、その人間が究極にまで進化することが、何らかの理由で宇宙に必要であるとは考えられないでしょうか。

 

それでは、この宇宙では必ずどこかで生命が発生しており、その生命は進化して人間の方向を目指し、現在地球の人間と同じような思考し内省する生命体が発生する流れがあるとしてみましょう。そうなれば宇宙には地球のほかにも考える生命体の存在がたくさんあるということになります。人間を形作る材質は、この宇宙内で星の活動などによって生み出されているものなので、生命の元は宇宙そのもの材質であり、あとは環境条件が生命発生に合っていればよいことになります。つまりこれは普遍的なことだといえます。

 

ここでの目的という考え方は、人間が生命進化の優位にあるとか、宇宙の中心に人間がいるとかの思想ではなく、宇宙の目的の1つの中間段階として人間がいて、私たちは次の段階までの橋渡しをしていて、その先には何があるのかということです。しかしその最終の目的が何なのかを、私たちはもちろん知ることはできません。ここでは現状からその未来を(妄想に近いかもしれませんが)想像してみようと思います。

 

生命が人間において獲得したことは、大脳という中枢組織を持ったことで、あれこれ思考し内省し、言語をもち、道具を発明して改良し、未来を予測することができるようになったことです。また最近では、ひとり個人ですることには限界があって、互いに協力して考え行動し、発明し発展させていくという風潮になっています。もし生命発生とその成長が宇宙の目的の遂行にあるならば、人間の向かう先にあるものはどんなことでしょうか。私が思うに、それは宇宙に必要なものを育成し補給することと関係あるのではないかと考えています。

 

宇宙の創造神ということが言われます。たしかに生命は現代の人間の想像を超えて複雑です。生命組織とは、生理学的な免疫システムやホルモン代謝、あるいは生化学的なイオン交換による伝達、生殖細胞の遺伝の機構などを考えると、現代の最先端の技術でさえも、生命のすべてを解明できないほど複雑なことが、偶然の積み重ねで出来上がってくるものでしょうか。もともと仕組みが用意されていたとしか考えられません。宇宙全体の元素の構成から始め、生命の発生の状況と進化の仕組みを準備して、生命の流れを起こさせるという、途方もない大事業は、創造の神が造ったとしても、単なるゲームとか思い付きでやることとは考えられません。これは何らかの目的があってなされていることであろうと考えるしかありません。たとえ私たちが、その過程のほんの1部でしかなくとも、少なくとも1部を担っているということは確かです。たとえその究極の目的は知らずとも、現在に担っている部分から想像することはできないでしょうか。

 

進化の流れの様子を私なりに考えてみましょう。そして想像(妄想?)を膨らましていきましょう。最初、生命は自己を増殖させ、なるべく仲間を増やそうとします。それに成功すると、次のより複雑な種の段階へと変化します。そこでまた自分の仲間たちを増やし、その時の食料や環境条件にあわせて自分を変化させ、もっと複雑な種の段階へと進みます。哺乳動物になった段階で脳が発達して意識というものが表面化してきます。現在の最終として人間に至って、大脳の機能が十分発達して、感情や考え方を身振りや言語の表現で伝え、まわりの世界を識別し意識の中で仕組みを考え、文書に残して後世に伝えるという発展があります。人間はその技術の進歩とともに確実に複雑になってきています。インターネットに巻き込まれてしまうと、それを振り切って田舎で孤独の人生を暮らすなどとは思わなくなってしまいます。日々の変化が面白くなってきて、それが必要なことに思えます。最近では、交通やコミュニケーションの手段が発達し、世界中でお互いが連絡し行き会うことが可能になってきたので、私たちは民族とか国家に関係なく意志を伝えあうことができるようになっています。

 

この意識の変化は何を意味するのでしょうか。意識がより複雑になっていくという流れは確実にあります。もう1つは互いがより連携してきているという流れがあります。これらの変化が何らかの意図されたものであれば、宇宙の目的にかなうものであるはずです。

 

将来私たちは、大脳の神経細胞のように、1つ1つの精神が連携して全体で1つのものとして活動するようになるのではないか、という予測をテイヤールがしています。これが精神圏の頭脳です。この頭脳は地球の精神という意識を持ち、地球全体を考えて宇宙に向けて行動します。現代の物理学ではまだ解明されていない時間や空間の実質とか重力などの領域で、将来何らかの飛躍ができれば、宇宙の仲間たちとの交流が可能になるかもしれません。

 

そうなると、地球の精神は宇宙にとって1つの神経細胞です。他の星の精神の頭脳と組み合わさって宇宙全体の頭脳を構成するようになるかもしれません。それはこの宇宙全体の精神です。この宇宙の精神は別の次元にある宇宙の精神と連携してさらに大きな次元宇宙の精神を構成する可能性があります。それはすなわち最終的にはこの宇宙を統御するもの、つまりこれが創造の神そのものではないかと思えます。

 

つまり私たちは次元を超えた「神」の細胞の一部になろうとしている段階ではないかということです。地球の精神は今「一人前」の宇宙の神経細胞の1つへと成長することを目指しているということになります。そうできれば、創造神の細胞の1つとして最高に充実した状況になるでしょう。この段階までは遠い道のりですが、人間として辿りつかねばならない道です。その間に克服すべき課題はいろいろあって、途中で横道にそれてしまえば(神が意図した道に反すれば)消滅するしかありません。そうならないように、互いに連携して、正しい地球の精神の道を、先に進むしかないということになります。

 

体内の細胞は老化によって入れ替わります。それと同じように宇宙を創造した神も、その部分を構成する宇宙の精神、すなわち個々の星たちの精神が、次から次と悠久の時間の中で造られて、取り込まれて神とともに活動し、そして役目を果たして消えていくという循環のなかで補給されているのではないでしょうか。究極の精神とは神の細胞の1つになるということかもしれません。あなたはどう考えますか。

 

ここで、1つ1つが意識をもつ粒子としての人間と、自己の働きを静かに全うする体内の細胞とは、ありかたの根本が違います。意識をもって連携することが宇宙に取って必要ということから、次の考察が生まれてきます。それを次回の話題にしましょう。

 

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大衆としての役割

2015-05-05 11:33:04 | 日記

昨今は結婚しても子供を作らない、あるいは同性の配偶者の話題とか、種の保存に反するような風潮があります。また、人間は子育てを終えてからも長く生きているという事実があります。このようなことは、生命体がもつ種を保存する本能にからすれば、考えられないことです。しかし人間は、あれこれ考え内省するという機能を得たことによって、私たちの経験や知識が遺産として累積され、種の保存に代わるような状況を自ら作り出してきているかもしれません。

 

老後に長く生きることは、真面目に暮らした人がまわりの尊敬とともに、余生を暮らすなら望ましいことですが、自分の欲望だけで長く生きようとするのでは、単に他人の迷惑にしかならないと思えます。しかしその人にとって、個人としてひたすら年を重ねていくことにどんな意味があるのでしょうか。尊敬に値する人であれば、まわりの人たちの手本となり人生の師として、大いに長生きしてもらいたいと思います。しかし私たち一般人にとってみれば、それほど人に誇れるものもないし、見本となる行動もできません。逆に、家族の負担になって早く死ねば良いのにと思われているかもしれません。子育てが終わって子供が働きに出る年になると、お父さんは会社のゴルフや宴会で、お母さんは婦人仲間で食事会だけが楽しみというような、とりあえずの変哲ない人生を死ぬまで過ごすだけなのでしょうか。この世界で私たちは無駄に生きているのでしょうか。

そんなさびしいことはないはずでしょう。どんな人でも何十年か、それぞれの中に残してきた人生の経験や思い出があり、喜びや悲しみがあります。その人独自の感覚とか感情をもっています。それは個人の中にしまってあるもので、他人との会話で話題にはなっても、互いに連携して何か社会に役立つというようなものではありません。しかし、自分1人ではたいしたことはなくても、「まとまる」ということがあります。

 

地球上にあまねく広がった人間ひとり1人が地球の精神を構成していると考えると、地球全体から見れば私たちはその1つの細胞になっていると考えられます。私たちの体内の細胞は、与えられた使命を黙々とこなし、老化すれば愚痴も言わずに入れ替わります。がん細胞のように他の細胞を押しのけて、自分だけが増殖するのではなく、他の細胞と協調して「私」という1つの生命体を支えてくれています。しかし私たち自身は身体の細胞の1つと違って考えることができます。あれこれ内省します。そして人生を試行錯誤しながら知識を大脳に蓄積し、そして老化し最後はこの世を去っていきます。

地球を身体とした場合、何らかの精神の中心がどこかにあって、進化の方向を見ながら私たちをコントロールし、私たちの個々の大脳のなかで蓄積された知識を吸収して、それを未来に生かそうとしているとは考えられないでしょうか。

 

地球に生命が生まれ、成長し発展するには、大いなる試行錯誤や偶然との出会いがありました。それと同じように、私たちの生活にも試行錯誤と偶然との出会いが続いています。しかし、脊椎動物に脳ができ、それが発達して大脳になって、まったく偶然に思考が生じたとは考えられません。そうではなくて思考を生むために、大脳が少しずつ発達して、人間という思考する生命までに進化したと考えるのが自然です。そこには、単なる偶然からは生まれない、人類への方向があると思われます。その動きはすでに人間に仕組まれているので、最初は見えないほど小さくて、大いなる無駄に思われても、だんだんに数が増して累積されていくことで、ある日突然に明らかになってくるものがあるはずです。

 

今この世界は技術革新によって便利になって、気がつかないうちに互いに交流して連携するようになってきています。個性的な人たちが何かを目的に集まり、1人ではできないことも切磋琢磨し協力しながら、新しい製品やアイデアを生み出しています。それが皆に受け入れられれば、すぐに世界中に広がります。世界の人口がただ単に増えたのではなく、それが大きな数になれば、まとまって反応するという行動に結びつくということです。

その1つの成果にインターネットの普及があります。ほとんどの人は利用者としてインターネットを見て反応する側にいます。良いと思ったことや気に入ったことは、受け入れるという反応があり、良くないことや倫理道徳に反することは嫌悪します。反応するということは人間が生きていることの証であり、世の中にあるいろいろな試行錯誤に反応して、1つの流れを作っていることになります。

これは、地球の精神としてまとまっていく仕組みの成長を、各個人の意識が担っていると言えるのではないでしょうか。1つ1つの意識は、それぞれ個性があり、それが利用者としての個々の反応になっていて、この反応が同意として大きくなってくれば、何らかの方向が見出されていくという流れが見えているようです。私たちの役割は、大いなる反応するものたちということになります。

 

その意味で精神の領域ということを考えて見ましょう。私たちの心が集まっているものが精神圏という領域を作っていて、その中心に大脳の働きをする部分があると考えましょう、そこでは連携が次第に複雑になって、大脳の神経組織みたいになっていると考えましょう。それぞれの意識の中へと累積したものが、精神圏という大きく発展するものを構成する1つ1つの細胞となっていて、地球を支えていると考えましょう。そこでは私たちのうちの誰かが試行錯誤した行動や多くの反応が地球の経験として集積され、そこから将来への道に収束されていくということになります。まるで、私たちの1人ひとりの精神が見えない神経線維のようなものでつながれていて、互いの連携が次第に複雑になり、今は役に立たない知識の蓄積であっても、何かの偶然がきっかけになって、次の新しい方向へと変わっていくかもしれません。

 

私の考えでは、人間の大いなる試行錯誤の集積とその結果が地球の精神の頭脳の中に集められ、ある閾値に達すると何らかの構造変化が生じて、時空を超えて仕組まれたものが、大きな数の中に発現するということではないかと思っています。

地球をまとめている精神の世界が、次元の異なる領域にあって、私たちの心と連携していると考えると、人生が変わってきます。私たちはもっと心が豊かになることを自由に考えて、互いにアイデアを出し合って心を通じ合っていけば、将来が明るくなっていくという気になります。

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