Noosphere<精神圏>

進化の途上にある人間、これからどう発展するのか。

なぜ戦争をするのか

2016-06-22 22:47:17 | 戦争について

なぜ戦争をするのか


はじめに

人間の社会にはいつも争いがあり、何らかの戦いがあります。個人でも集団でも、スポーツでも政治経済でも、優劣を競って戦っています。その争いがルールの範囲内の勝負で収まれば、負けても勝っても次の課題を見出すことができます。しかし、嫌悪や恨みが募っているところに事件が起きれば、暴力を伴った争いに発展します。過去に革命が起こって政権を倒した例でも、血を流さず交代するのは稀なことでした。集団どうしでの戦いにおいては、武器を持って人を殺傷しあい、その規模が大きくなれば戦争になります。そんな物騒な話でなくとも、いつも人間は争っています。例えば現代の日本では、小さい時から何かとまわりと競い合う中で育ち、受験勉強のテスト点数で争い、また何らの派閥をなして争い、果てはバーゲン会場で集まった群衆を押しのけて、安い商品を買おうと争っています。なぜこうも人間は争うのでしょうか、しかし争うことで切磋琢磨し自分を磨いていることも事実です。

争うことだけならまだしも、暴力が伴う喧嘩になれば、相手を殺傷するようになります。一般に動物は生殖のためにオスどうしが争い、生き残りに有力な遺伝子を残すといわれています。しかし人間は生殖や適応行動だけで戦うとも思われません。人類の歴史では、集団ができ接触する機会があれば、そこに何らの利害関係で優位を取るための争いが起こっています。地球上に人間が現れて以来、集団が接する所では、大小何らかの戦いがいつもどこかで行われています。そして、争いを有利にするための努力や投資はいつの時代でも優先され、現代では核兵器、化学兵器、プラズマ兵器などの技術革新が続いています。すでに強力な兵器の使用は地球や人類の消滅をも考慮すべき時代になりました。これらの兵器の危険が大きければ大きいほど、それに対する批判が高まって、実際の使用が困難になるとはいえ、暴発や事故もあり、陰で知らないうちに使われているかもしれません。

国家どうしの戦争に巻き込まれれば、敵国の人間を殺すことでさえも許されるし、逆に戦争に反対すれば反逆罪で逮捕されてしまいます。こんな争いや戦いばかりであれば、嫌気がさしてあきらめムードになってしまいそうです。しかし単に戦争は悪いことだと決めつけるだけではなく、人間が現実に起こした行動について、その原因となる嫌悪を生じた経過や、集団の意識の流れを理解することも必要です。戦うことだけが人間の本質のように考えるのではなく、戦いを生じたことには何らの意味があるし、戦禍の逆境にあっても正しい方向を求めて、たくましく生きている人々もいるはずだからです。そして、集団どうしの戦いが、外面的には相手を排除するように見えても、その本質には統合に向かうエネルギーが働いていて、今後の統合に向かって意識が上昇している試行錯誤の行動かもしれません。そうであれば、人類の進歩にある試練の道とも考えることができるし、人類にとっての未来の形を予測する手段の1つになります。

 

1.人間はいつも戦っている

人間が集まり集団となり、それらの集団どうしが密に接触するようになれば、その集団は優位な方に吸収されていくか、あるいは優位にある集団が他の弱い方を侵略して滅ぼそうとします。所有する武器の優劣とか、戦いの戦略や経験によって、優位な集団が残っていきます。これらのことは、人間の歴史ではいつもあることですが、なぜ人間どうしが戦って殺傷し合うという、ちょっと考えれば非道徳に見えることがいつまでも続くのでしょうか。人間の本質として競争して自己を磨き、闘争によって自分の意志を強くするということはあると思います。しかし、人間というものは、相手に対して嫌悪を感じれば、排除したり略奪して他人の富を奪おうとするものなのでしょうか。あるいは、他人を困らせて面白がり、弱い人をいじめて喜び、敵国であれば無差別に殺人する気質があるのでしょうか。そのような気質を持つ人が優位になれば、未来は暗くなり、より混迷の度を深め、戦争への心が拡大することになります。国家とか民族や宗教の嫌悪が長く尾を引いて、終わることのない戦いが永久に続くように思ってしまいます。

しかし、そうではないと思います。核爆弾などの強力兵器で人類が自滅さえしなければ、人間の気質にある程度の個人差はあっても、地球における人類には未来があるはずだし、自然や生命の本質からして未来への保証を減らすことはないと考えます。生命の歩みからして、現在の人類が完成の段階に達している訳はなく、まだ先の段階まで続いていくはずです。人間どうしの競争や争いは、その究極まで続いていくことはあっても、1つの国家の利権のために他国や自国の人間が死に至るやり方が良い訳はありません。自分の属する集団以外は低く評価するやり方が、科学の裏づけではなく、伝統とか習慣による根拠のない嫌悪感からであれば、人間の意識の上昇とともに変わっていくはずです。

 

2. なぜ戦うのか

歴史上ではいつも戦争が起こっていて、そのたびに新しい兵器が開発され軍備が進歩して、技術の革新も多様化していきます。技術の革新とともに意識も多様化していくので、そこに社会の混乱も増えて関係も複雑になっていきます。このような状況では、嫌悪の感情から道徳的な悪へと発散する可能性も生じ、成長の経過に沿ってその悪も多様化しています。このようなことが続く将来に、私たちはまともに適応していけるのでしょうか。

人類以外の他の生命種で争いを動機付けているのは、種の生き残りのために、どちらかが取って代わるという必要性からのものです。しかし、互いが独立して存在できるのであれば、そこで生き残りをかけて戦って交代することはないはずです。もともと生物種には多様に広がる傾向があるので、より機能が進んだ形態が出現すれば、それが旧世代と交代していく経過は考えられます。しかしながら、人類は動物学上では特別にユニークであって、人間以外の種とはっきり区別できることがあります。人類が現れるまで、動物種における支流の発生や枝分れは、機能において多様化する傾向であり、より広く放散して異なった生物種に発展する流れでした。しかし、人類とは「内省(いろいろ試行錯誤して考えること)」をする生物種であり、生命の流れは人類の出現以降では完全にその方向を変えています。人類はいったんは拡散しながら互いが離れて広がりましたが、地球の表面をほぼ占有した後は、人類自体が内面化する方向になり、集団が多様化して互いが影響し合うようになっています。

この人間特有の内面化するプロセスに関連して、多様な枝分かれが生じています。民族、宗教、言語、そして行動様式や慣習などの多様さはいつも人間の争いの原因になっています。その多様さによって、それぞれの集団に分かれて、接触する機会のある集団どうしが優位を争っています。そして、現代において地球上で人類が拡散から集束という変更があったことが、いつも戦いが生じている問題の本質に影響していると考えられます。戦争が各地で頻発して起こるのは、私たち人間という種が、数万年前からの行動の結果、地球の表面をほぼ独占してしまい、人口が急激に増えたことがあって、そこに多様化した意識の上昇が投影されていると考えられます。国家や民族の境界が密に接触し、勢力範囲を拡大しようにも、もう空いた土地がなくなり、隣の領域にいる別の集団を統合あるいは排除しようとして紛争になっています。見方を変えると、これは人類が大きく混ざり合いながら、主流を模索する過程として見ることができます。すなわち現代は、地球全体が1つの超組織に向かって、混ざり合う経過にあるように思えます。

人類が地球上で集束する過程にあるとすると、分かれた集団どうしが接触して戦い、共に消滅してしまっては人類は生き残れません。相手を全滅させて自分たちが残るのか、一緒になって統合するかのどちらかになると思われます。しかし他と混ざることのない孤立した集団では、いずれ消滅する危険性があります。種の存続という観点からは、いくつかの集団が統合されて大きな集団になっていくと考えられ、それは収束していくという特徴を持つはずです。人類は当初の自由な広がりの中で、人種、民族、宗教など多様に分かれましたが、現代では閉じた地球の表面で収束に転じているということになります。

この傾向を考えると、現代では国家や民族どうしの境界が密着しているので、嫌悪の情とか何らの係わり合いが動機となって、利害関係や優位の確保から戦いを起こしています。これが私たちが経験している紛争であって、戦争することが人間の本性で避けられないというより、単に多様な流れにあって主流になろうと衝突しているだけであり、いずれは混ざり合っていくと思えます。しかし、この将来の合流に気づいて、対抗しようとする感情が起こります。それは、嫌悪の感情だけでなく、旧き良き状況を維持したい信条がエネルギーとなったり、生活の倦怠から破壊行動に駆り立てるエネルギーがあって、暴力や武力衝突になっています。つまり戦争が起こるのは、統合に向けた大きな流れの中で試行錯誤の1つの動きとして解釈できることになります。

 

3.戦いは統合まで続く

動物の系統では主流から分散していく流れがありましたが、人類では種が統合される流れに変わっただけでなく、人類は動機を持つことで情熱という精神エネルギーを生じることから、それが統合を達成していく原動力になると思えます。もちろん、そこに至るまでに、私たち人間には行動の自由もあり、今後の予測できない自然界の干渉、あるいは困惑させるような脅威が起きて、試行錯誤の繰り返しはあるでしょう。しかし私たちは、個としての自由があるのは確かに真実ですが、宇宙に生命が発生し、それが発展していく基本の流れに対し、抵抗できるとも思えません。

数十億年もの間、生命の衝動は止まることなく、地球上で意識を上昇させ続けています。これを本質とすれば、そこから必然的に導かれるのは、今後も人間のネットワークには、混乱と対立が増加して複雑化していくことになります。この多様化するネットワークの中で、私たち人間は内省しながら、多様化して複雑になったものを有効に結びつける努力が必要になります。それを実際に担っているのは、覚醒しつつある大衆であり、その意識の上昇です。この世界では、国家や民族、経済状況やその精神が異なっても、大衆として人間同士が結びつこうとする、抑えられない力が実際にあることを、何らかの機会を通して、すでに経験しているはずです。

それは、協同の作業やボランティア活動などで、お互いにまだ知らない「考える人たち」が触れ合うと、あたかもそこに、より親密になろうとするエネルギーがあるかのように、共に認め合う経験をすることがあります。このような経験は、人類が徐々に引き合って、全体を組織化して統合することが、地球の精神の先にあるのではないか、という思いを強くするものです。もし、この内面的な動きが一時的なもので、今後も複雑化の混乱だけが続くならば統合はありえません。それを逆に考えると、生命の流れが何十億年もかけて人類を生じさせ、そこに精神をなして内面性を深めても、地球のケースでは人類の統合が達成できなかったとすれば、この宇宙発生には何らの欠陥があったことになります。

生命は宇宙発生の流れであって、この宇宙の動きを阻止できるものはないはずだし、私たち人類の主流となるものが阻止されることもないはずです。この統合に向かう本質的な動きでは、その経過で個々の詳細な部分では失敗はあるかもしれませんが、この宇宙で地球だけが「統計的エラー」として統合に失敗することは、地球が崩壊することがない限りありえないことです。いったん生命が誕生すれば、生命の衝動は人間を超えて究極まで続くはずです。

 

4.最終にある平和

全体が統合された状態にあるということは、戦争が必要でなくなった状態のことになります。それゆえ、それは平和であることは確かであり、その平和は自由の最高の表現であり、その必然性によって私たちは努力と苦労を重ねて、そこに進むべきことになります。しかし、これは正確にはどういう状態を意味するのでしょうか。どんな種類の平和なのでしょうか。戦争がないという意味で平和ということだけは全くはっきりとしています。それだけなく、それは人類自身の内面性が活性化された成果である必要があります。しかし、それでも何らの争いがなくなることはありえません。

そのいったん成し遂げた統合を、その収束と集中を深めながら維持していくためには、そこに適切で正しい組織化の努力が要求されます。そうでなければ、再び内部で反抗集団が構成され、戦争が始まって不確定への後戻りになります。このことから考えると、財産の維持に固執した中産階級的な考えや、利己主義の欲望を実現する誘惑などは、そのすべてが起こらないようにする必要があります。この平和な状態とは、静かで落ち着いて、自分たちだけが充実する状態ではありません。他人や組織とのすべての人間関係が、互いに協調した連携にあって、意識の上昇とのバランスが取れている状態です。誰もが努力なしに安定して暮らせる社会、あるいは動きがなく活性化のない世の中というのは、自滅あるいは死の状態に向かって、倦怠へと落ち込んでいくことです。これらは、私たちの意識が上昇する宇宙では、全く関係ないことです。

結局のところ、協調や調和はその必然性によって、将来の地球に広がるけれども、そこに前提として必要なのは、充実しながら調和しようとする精神のエネルギーが、一貫してより強く維持されるべきことです。このエネルギーは、以前の時代には、多くの戦争や流血の惨事において無駄に使われたエネルギーであり、それが平和な時代では、より充実することに使われることになります。そして、宇宙の流れからすれば、この精神エネルギーは私たちの意識と自由に対する考えを、全員が一致する高さまで、引っ張って上昇させるものです。そして、真実の平和とは争いをやめるとか、戦争という行為に後ろを向くことではありません。その争いがあることに対して、その本質からの昇華を可能にする道を模索し、その道を実現しようとすることです。そして、それを人類の正常な状態に反映し適応していくことが、人類の未来にある統合を可能にします。

そして、ここで必然として質問が起こります。この時代の人類は、悲しくもまだ戦争をしている集団どうしが同意できないのはなぜでしょうか。戦争がこれほど脅威として現れるのはなぜでしょうか。そして、未来へと動く人間と現状の利権を守る人間との2つの分裂は、単なる進歩と現状維持との外面的な葛藤だけなのでしょうか。どうして前進を拒否する勢力が一掃されないのでしょうか。

人類の進歩とともに、その大衆の意識が上昇していかなければ、現在の戦いの混乱は終息させることはできません。集団が分かれて戦うときに、これらの集団どうしはどこに違いがあるのでしょうか、どんな結果を求めて戦うのでしょうか。その結果で人類全体に何らの進歩はあるのでしょうか。この進歩するという信条と、十分な情熱(精神エネルギー)をもって、私たちすべてが1つの心になろうとしない限り、たとえ形だけ一緒に統合したとしても無益であり失敗するだけです。その信条とは、政府や国連などから「公式な発言」による建前や、「平和主義者」とか「良心的反戦者」の綺麗ごとではありません。ここでいう信条とは、学問を真摯に研究する人々や、進歩を本気で考えている人々などの集団にある信条のことです。そこでは、あらゆる知識を探索して、人類の精神と尊厳において、人類全体の運命によかれとすることを、何としても達成させるという、「新しい精神」が静かに形になって現れているはずだからです。

 

Inspired from “Faith in Peace (The Future of Man)” written by Pierre Teilhard de Chardin.

 

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