コジタン-故事譚-

役に立つ故事や春秋戦国、三国志アーンド日常生活についてあつーく語るブログ

陸遜の死と呉の内紛

2005年01月18日 | 三国志
事の発端は、孫権の後継ぎ、つまり皇太子の孫登の死だった。
もともと豪族の連合政権のようなもので、まとまりがかけていた呉の内部。
赤壁の戦いの前は、降伏論が大多数を占めていたことを思いだしてもらえればわかる思う。
このできごとから、有力者の派閥ができ、後宮の女たちの争いも加わって、
呉の内部はますます混迷を深めていった。

呉内部はかろうじて、孫登がいたから収まっていたと言ってもいい。
孫登の死により、呉は崩れ始めた。
孫登の代わりの皇太子には、孫和がなったが、
それに反対する勢力が、弟孫覇をかついだ。
孫権の愛情は孫覇に注がれており、
孫覇が魯王になったのからも、それをうかがえる。

そして、呉は皇太子派と魯王派に分裂し、抗争が激化した。

それをなんとか抑えていたのが、丞相の顧雍だった。
しかし、その顧雍も死んでしまう。
このとき、完璧にタガが外れてしまった。

顧雍の後継の丞相には、陸遜がなったが、
荊州の牧と大将軍を兼務していた陸遜は、
最前線にいなければならず、国にもどれなかった。
北伐時の諸葛亮の境遇と似ている。

そして、例に漏れず、
陸遜の不在をいいことに、孫権に吹き込む輩がでてきた。

ある日、孫権を病になり、祭祀に出席できなかった。
その代わりに、皇太子の孫和が行った。
しかし、そこで、孫和は実は行っていなかったと嘘を
孫権に吹き込んだものがいた。
孫権は激怒した。孫和を廃嫡し、孫覇にすると言い出した。
陸遜は任地から書状を送り、孫権を諌めた。

これが邪魔だった魯王派は陸遜の追い落としを画策し、
陸遜の罪状20ヶ条をでっちあげた。
70を過ぎた孫権にそれを見抜く力はなかった。
孫権は陸遜を流罪にし、陸遜は流刑地で死亡した。

結局、この争いは、孫和を廃し、孫覇に自殺を命じ、
喧嘩両成敗の形をとった。
しかし、皮肉にもこの処置が呉を滅ぼすことになるのである。