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原水爆禁止世界大会2008広島大会に参加して

2008-08-11 | 【おしらせ 民商行事・支部のとりくみ】

私は初めてこのような大会に参加しました。期間は8月4日(月)~8月6日(水)

12時30分頃に平和記念公園に到着。平和記念公園噴水前から広島県立総合体育館にむけて「国民平和大行進 終結行進」に参加。警察官が警備する中行進開始。真夏の太陽の下での行進は、体力を奪いあまりの暑さに意識が朦朧とし正直しんどかったです。

 しかし、原子爆弾を投下され焼け野原となった広島で、何が起こったのかもわからず助けを求めさまよった被爆者の方の苦しさ、この地で多くの方が亡くなったことを考えると、弱音を吐いている場合ではない。がんばらなければ。と力がみなぎり一歩一歩大地を踏みしめ平和を願い行進しました。
 約一時間の平和行進を終え大会会場である。グリーンアリーナへ到着。館内に入るとあまりの人の多さに圧倒されました。日本各県からの代表団、政府機関代表、世界各地から約6800人が集結。平和、核兵器廃絶を訴える熱気を肌で感じました。

 開会総会が始まり広島市長あいさつ、被爆者あいさつ、政府代表報告などつぎつぎとプログラムが消化されました。初めのうちは情けないことに会場の雰囲気にのまれ放心状態でした。雰囲気にもなれ、代表者の方々の発言に耳をかたむけていると、自分の戦争や核兵器に対する知識のなさに気づかされがっくりしました。熱心に話を聞いていると2時間半の開会総会は終了。集中していたのか短く感じました。

 夜は「核兵器をなくそう・世界青年のつどい」に参加。青年約1500人が参加しました。
このつどいで印象に残った言葉がいくつかあるのでご紹介いたします。まずは、イギリス核軍縮キャンペーン副会長ブルース・ケントさんがおっしゃった「政府に頼ってはいけない。自分たちが行動し国をうごかさければならない。」という言葉です。次の言葉はアメリカのヒロシマ・ナガサキ平和記念委員会のオデッタ・キングさんの「無関心な若者が多い。戦争や核兵器などなくさなければならないと思っている。しかし私には関係ないとも思っている。」という発言です。

今まで私は国が決めたこと、自分一人が思っていてもどうすることもできない。などと考えていました。ケントさんの話を聞いて大勢で行動すれば国をも動かすことができる。核爆弾を使わなくとも核爆弾を廃絶することができると確信しました。またキングさんの意見を聞いて「無関心な若者」まさに自分のことだと思い知らされました。

海外の二人の報告を聞いて自分も行動しなければいけないという気持ちになりましたが、正直なにから始めていいかわかりません。そんな時、秋田高校生の活動報告が私に活動のヒントを与えてくれました。彼らの活動は「広島に千羽鶴を持って行こう」というものでした。

一人の女の子が教室で鶴を折っていると、友達が興味を持ってだんだんと輪がひろがっていった。といった内容でした。報告をきいてまずは、自分にできることをすればいいということに気づきました。青年のつどいに参加し世界各国の若者の平和に対する熱い思いを感じることができました。

 世界大会二日目は「動く分科会 原爆遺跡・碑めぐり」に参加しました。ガイドさん案内のもと原爆遺跡・碑をめぐりその遺跡や碑にこめられたヒロシマの声を聞こうという分科会です。午前中は平和記念公園内にある石碑をめぐりました。公園内には100をこえる石碑があるそうです。そのなかのいくつかを説明していただきました。
 全日本損害保険労務組合広島会議が建立した碑には
【なぜ あの日あった なぜ いまもつづく 忘れまい あのにくしみを この誓いを】と被爆者の声が刻まれています。 
初期に作られた石碑には「慰霊碑」の文字はあっても「原爆」という文字は見当たりません。これは、アメリカが占領政策として原爆報道を厳しく規制したことによるものです。占領政策がゆるみ始めた1951年頃から原爆という文字がでてくるようになります。

 その中にあって、【なぜあの日はあった】と原爆投下の理由を問い、その犯罪性を指摘し、平和な世の中を築くための行動を過去から現在・未来へと継承することを若い世代へよびかけるこの碑の存在意義は大きいのではないでしょうか。

 午後からはバスで広島市内の原爆遺跡をめぐりました。
原爆投下前の広島は、まぎれもない「軍都廣島」でした。広島の軍都化は、日清戦争をきっかけとして始まり、その第二次世界大戦終結までの約50年間、広島はいずれの対外戦争においても重要な前進基地・補給基地としての役割をはたしました。その間、広島には次々と軍事施設が増設され、宇品港からは数知れない多くの兵士・武器・軍需品が積み出されました。

 広島の街は、日本の対外侵略戦争のエスカレート歩調を合わせて発展してきた歴史をもっています。そして、現在の広島にもその影が色濃く残っており戦争の悲惨さ核兵器の恐ろしさを学ぶことができます。

初めに向かったのは「広島逓信病院」。被爆時爆心2キロ以内で倒壊しなかった病院で、大勢の被爆者が殺到し救護に当たりました。現在では1975年に立て替えられ近代的な病院として蘇っています。95年には旧外科病棟の一部に被爆資料室と復元手術室が設置され公開されています。
当時、被爆者救護の指揮をとった病院長の蜂谷道彦氏は原爆投下後の病院内の凄まじい状況を8月6日から9月29日までに見聞きしたことを「ヒロシマ日記」に記録し後世に伝えています。

この日記の8月7日づけにはつぎのように記されています。
「明かり一つない病院にすし詰になつた患者の吐瀉物で一夜のうちに病院が汚されてしまった。我々の病院にいる者は病院を死守したものか逃げ遅れて逃げ場を失った者か、これ以上逃げる力がなくなって病院にたどり着いたものだ。しかも我々の病院周囲は完全に焼け落ちてしまって家一軒もない。病院と逓信局のコンクリート・ビルディングが焼野が原の真中に哀れな姿を止めているのみだ。(中略)一夜のうちに病院の出入り口は糞まみれになった。人手と便器がないのでどうすることもできない。廊下の患者を整理して歩ける程度にするのが関の山だ。(中略)その上、火傷患者は皮がはげてずるずるになっている身の毛がよだつようなのが多い。まったく手のつけようがない。」

被爆者の状態の凄まじさと医療人としてどうすることもできない心の痛みが伝わってきました。現在自分が立っている病院で、63年前まさに地獄絵図のようになっていたことを知りました。核兵器の悲惨さと恐ろしさを実感させられました。
逓信病院の後に何ヶ所か原爆遺跡、施設をめぐりました。
印象に残っているのが最後に訪れたABCC(原爆症害調査委員会)です。
ABCCはアメリカが原爆の効果を確かめるとともに、将来の核戦争に備えて防衛策を確立するための軍事目的があるのではないかという疑惑がもたれていました。
それはなぜか、被爆者が助けを求めABCCに行くと強引に検査はすれど治療はしない。そのうえ原爆症の調査結果を日本の病院には公開せずアメリカへ持ち帰る始末。
この説明をガイドさんから聞き憤りをおぼえました。戦争に勝った国は敗戦国に対して何をしてもいいのか。原爆の被害にあったのはほとんどが戦地に赴いてないお年寄り、女性、子供たち。武器ももっていない弱い立場の人ばかり、このような人たちを実験材料にしモルモットのように扱う。人の所業とは思えません。

現在、ABCCは日本政府とアメリカ政府が共同出資でRERF(財団法人放射線影響研究所)と名を変え運営しています。名称を変えたものの被爆者のなかにはよく思ってない人も多くいるようでまだまだ課題が残っている施設です。
原爆遺跡・碑めぐりに参加し、戦争の悲惨さ、この地に何で起こったこと、教科書に載ってない歴史など五感で学ぶことができました。ただ残念なことは、原爆投下から63年の月日がたち原爆遺跡の老朽化が進んでいることです。原爆ドームは国の内外の平和を願う多くの人々の基金によって補強工事を行い保存されています。すべての遺跡を保存するのは難しいことかもしれません。核兵器の恐ろしさを伝えてきた建物が消えても、この分科会で学んだことは決して忘れず、伝えていかなければならないと思いました。

8月6日原水爆禁止世界大会最終日。
平和記念式典には参加できませんでした。毎年黙祷をしてますが、2日間核戦争について学び、いつもとは違った思いで、8時15分から1分間黙祷を捧げました。
 8時30分にホテルを出発。10時30分からの閉会総会に参加しました。閉会集会には7500人が参加。

ノルウェー、キューバ、ベネズエラなどの政府代表が核兵器の廃絶を訴え、原爆症認定集団訴訟を戦う日本の被爆者と韓国の被爆者がそれぞれ救済を訴えました。終了後、日韓の被爆者が「被爆者は手を取り合い、お互いがんばろう」と手を握り抱き合うと会場から大きな歓声と拍手がおくられました。
 原水爆禁止世界大会・広島の決議として「広島からのよびかけ」「原爆症認定問題のすみやかな解決を要求します」と題した「特別決議」を満場一致の拍手で確認して全日程を終えました。

 いまもなお2万6000発の核兵器が世界の安全と平和を脅かしています。核兵器の使用は一瞬にして無数の命を奪い、世代を超えて人々を苦しめ、文明を破壊します。このような恐ろしいことを二度と起こさせないために世界中の人々が力を合わせ行動を起こさなければなりません。
私もノーモア・ヒロシマ!ノーモア・ナガサキ!ノーモア・ヒバクシャ!を胸に自分のできることをしていきたいです。まずはこの大会で学んだことを家族、友人、職場の人に伝え、ブログに書きたいと思います。

被爆者や遺族、今だ戦争の巻き添えになっている人々の苦しみが一日も早く癒されることを願い、戦争や核兵器の恐ろしさ愚かさを伝えていきたいです。


観音寺民主商工会 事務局 尾藤 修



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2 コメント

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Unknown (まっきー)
2008-08-21 19:17:54
難しかったですごめんなさい
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Unknown (尾藤)
2008-08-22 09:49:20
まっきーさんへ
コメントどうもありがとうございます。
難しくても読んでなにか感じていただければこれ幸いかと。

これからもコメントお願い致します。
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