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『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

51 法然院

2023-10-30 | 京都府

百寺巡礼第90番 法然院

念仏の原点に戻ろうとする寺のいま

 

哲学の道は、若い人たちに人気のある通りとしてよく知られている。この小道は、琵琶湖湖水に沿って、北は銀閣寺から南は熊野若王子神社までつづく。なぜ「哲学」なのかといえば、かって哲学者の西田幾太郎がこのあたりを散策して、思索にふけっていたからだという。たしかに散策には絶好の場所で、哲学者ならずとも、こんなふうに天気のいい日に歩くと、なにかアイデアがえられるような気がする。京都の中心部からわずかに離れただけなのに、山里にきたような感じがする。もし、今度京都に住むとしたら、やはりこの東山山麓に沿った一角だろうな、と思うほどである(五木寛之著「百寺巡礼」第九巻京都Ⅱより)

鎌倉時代の初め、専修念佛の元祖法然房源空上人は、鹿ヶ谷の草庵で弟子の安楽・住蓮とともに、念佛三昧の別行を修し、六時礼讃を唱えられた。建永元年(1206)、後鳥羽上皇の熊野臨幸の留守中に、院の女房松虫・鈴虫が安楽・住蓮を慕って出家し上皇の逆鱗に触れるという事件が生じ、法然上人は讃岐国へ流罪、安楽・住蓮は死罪となり、その後草庵は久しく荒廃することとなった。江戸時代初期の延宝8年(1680)、知恩院第三十八世萬無和尚は、元祖法然上人ゆかりの地に念佛道場を建立することを発願し、弟子の忍澂和尚によって、現在の伽藍の基礎が築かれた。

浄土宗内の独立した一本山であったが、昭和28年(1953)に浄土宗より独立し、単立宗教法人となり現在に至っている。通常伽藍内は非公開であるが、毎年、4月1日から7日までと11月1日から7日までの年2回、伽藍内部の一般公開を行っている。

 

参拝日     令和5年(2023) 2月16日(木)天候曇り

 

所在地     京都府京都市左京区鹿ヶ谷御所ノ段町30                  山 号     善気山  本山獅子谷                           院 号     法然院                                  宗 旨     浄土宗                                  宗 派     単立                                   本 尊     阿弥陀如来                                創建年     鎌倉時代初期                               開 山     法然                                   中興年     江戸時代初期                               中 興     萬無  忍澂                                 正式名     善気山 法然院 萬無教寺                          別 称     本山獅子谷 法然院                            文化財     方丈障壁画(国重要文化財)

 

 

 

法然院の入り口。

 

 

 

 

 

境内図                             (法然院HPより)

 

 

 

法然院の参道。 正面に山門。 この参道は心地よい風情がある。 

 

山門。 左端の石碑は「不許葷辛酒肉入山門」(くんしんしゅにく、山門に入るを許さず)と彫られている。「ニラやニンニクといった臭く辛い野菜や肉など生ぐさものを食べたもの、酒を飲んだものは、山門に入るべからず」という意味。

 

 

法然院山門。参道側から。

 

 

山門。    茅葺の数寄屋造りの門。屋根にはみどりの苔が付き、昨日の京都地方は小雪が舞い、うっすらと残った白い雪が風情をつくっている。正面より境内のなかから見た方が風情がある。

 

 

山門は明治20年(1887)に焼失、昭和に入り倒木にあたり倒壊。現在の山門はその後復元されたもの。

 

 

山門から境内を見る。山門までは石段を数段上がり、山門から数段下がり境内に進む。

 

白砂壇。 山門の石段を下り左右に白い盛り砂がある。元は池が無く5つの白砂壇が盛られていたが、放生池を造ることによって、2つの白砂壇が残ったとされる。砂壇は水を表し、季節ごと様々な文様が描かれる。砂壇の間を通ることは、心身を清めて浄域に入ることを意味している。

 

 

山門と白砂壇。

 

 

 

 

 

 

 

 

講堂。  元禄7年(1694)の建立時は大浴室であった。昭和52年(1977)に内部を改装し、現在は講堂として、講演会、個展、コンサートなどに利用。

 

 

 

 

 

 

 

 

本堂前の石段の上にある石の祠には、地蔵菩薩像が祀られている。江戸時代の元禄3年(1690)に法然寺の中興忍澂の作になる。

 

 

 

 

庭園は、知泉座観式庭園として、縁側に座って見るように作られている。放生池と名が付く池は、「心」の文字の形で、小さな橋が架かる。堂宇から橋の手前が現世で、橋の向こうは来世で極楽浄土を現している。

 

 

 

 

 

木々が鬱蒼とした境内。

 

本堂。  延宝9年(1681)に客殿造りの堂宇が完成。貞享5年(1688)に再建され、その際に仏殿と拝殿を別に設けた。堂内には本尊となる阿弥陀如来坐像のほかに観音、至誠の両菩薩像、法然上人立像、萬無和尚坐像を安置している。 

 

 

本堂向拝殿。

 

 

 

本堂の玄関。

 

 

本堂玄関の内部。 この寺で内部はここまでしか見られない。

 

 

経堂。   元文2年(1737)の建立。中央に釈迦如来像。両脇に毘沙門天像と韋駄天像を安置。

 

 

 

 

 

 

 

多宝塔。 大正10年(1921)に建てられた。南北朝時代の中元3年(1386)に聖圓阿が引接寺に立てた萬霊塔を模倣拡大したもの。台座の方に何かの文様が刻まれている。

 

 

法然人の境内から見た京都市街。 正面の小高い森が吉田山。

 

 

 

 

 

境内の様子。

 

 

帰り際に山門から参道を見る。

 

 

安楽寺。 法然院の近くの寺で非公開だが、さつきの名所として名高く、時期になれば公開されるようだ。

 

霊鑑寺。   法然院の近くにある寺。臨済宗南禅寺派の門跡尼寺で、通常非公開。承応3年(1654)後水尾天皇が皇女を開基として創建。谷御所、鹿ヶ谷比丘尼御所ともいう。御所人形200点など皇室ゆかりの寺宝が多い。石組に特徴のある江戸時代中期の作庭手法を用いた、格調高い池泉観賞式庭園があり、後水尾天皇遺愛の日光椿をはじめ、椿の名木が広い庭を埋めている。

 

 

案内図

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー法然や親鸞と同じ時代に生きた人びとは、少なくとも浄土というものに光明を見出すことができた。しかし現代の日本人は、浄土というものに実感を持てなくなっている。もし、いまの若者に「浄土はどんなところですか?」と尋ねられたら、なんと答えたらいいのだろうか。とおもうことがある。〈中略〉たとえばアフガニスタンの人びとの場合はどうか。あそこではみづが不足しているので井戸を掘っている。そうすると、水がいくらでもある世界が、アフガニスタンの人びとにとっての浄土かもしれない。あるいは戦乱が長くつづいた国、たとえばボスニア・ヘルツェゴビナの人びとにとっては、平和な場所というだけでも浄土かもしれない。つまり、浄土に関する要求が、いま世界の各地で、同じ時代でもバラバラになってしまっている。そうすると、時代の人びとがあこがれる浄土の新しい物語を、誰かが語ってくれなければいけない。それが現代の経典になるだろう。そういう発想がいま、仏教の方から出てこないのは、とても残念だという気がする。

 

 

御朱印   なし

 

 

法然院 終了

 
(参考文献)  
五木寛之著「百寺巡礼」第九巻京都Ⅱ(講談社刊) 法然院HP  フリー百科事典Wikipedia

 

 

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50 東福寺 

2023-10-27 | 京都府

百寺巡礼第89番 東福寺

紅葉の橋を渡る人びとと大伽藍

 

京都の紅葉名所で、その時期には人が一番集まる寺だという。本当は桜や紅葉の最盛期に京都の寺を巡ってみたいが、混雑が嫌いなこと、また人が多いと思うように見たいところも見れない。という理由で京都や奈良はオフシーズンに伺うことにしている。今回も真冬の2月中旬、雪がちらつき屋根にうっすらと雪を載せた堂も見られた。

東福寺という名前は、摂政九條道家が奈良の東大寺と興福寺という二つの大きな寺にあやかって、その名前からそれぞれ「東」と「福」の二文字を取って、東福寺と名付けられたという。嘉禎2年 (1236)より建長7年(1255)まで実に19年を費やして完成した、京都最大の大伽藍である。

工事半ばの寛元元年(1243)には聖一国師を開山に仰ぎ、まず天台・真言・禅の各宗兼学の堂塔を完備したが、元応元年(1319)などに三度の相次ぐ火災のために大部分を焼失。その後、関白一条経道により20余年を経て、再建され再び偉観を誇ることになった。再建後の東福寺は、完全な禅宗寺院としての寺観を整えることとなった。

明治14年(1881)に、仏殿・法堂、方丈、庫裡を焼失。その後、大正6年(1917)より本堂の再建に着工、昭和9年(1934)に落成。明治23年(1890)に方丈、同43年(1910)に庫裡も再建され、鎌倉・室町時代からの重要な古建築に肩を並べて、現代木造建築物の精粋を遺憾なく発揮している。開山国師の頂相、画聖兆殿司(ちょうでんす、明兆)筆の禅画など、鎌倉・室町期の国宝・重要文化財は数多く残されている。

 

参拝日    令和5年(2023) 2月15日(水) 天候曇り時々小雪

 

所在地    京都府京都市東山区本町15丁目778                      山 号    慧日山(えにちさん)                            宗 派    臨済宗東福寺派                               寺 格    大本山  京都五山第四位                          本 尊    釈迦如来                                  創建年    嘉禎2年(1236)                              開 山    円爾                                    開 基    九条道家                                  正式名    慧日山 東福禅寺                               文化財    三門、宋版太平御覧、絹本著色無準師範像ほか(国宝)               

       常楽庵、禅堂、偃月橋、絹本著地蔵菩薩坐像ほか(国重要文化財)庭園(国の名称)

 

JR奈良線東福寺駅から市街地を歩いて10分程度で東福寺に着く。

 

 

市街地の通路から折れ曲がり最初の門の中門。

 

 

境内地図。    (東福寺HPより)

 

 

 

中門を潜ると両側の東福寺の塔頭の門前を進み日下門に辿り着く。ここから東福寺の境内。

 

 

日下門の右側の通り。

 

 

日下門を潜り境内に。 正面右手前方に本堂。

 

 

 

拝観手続きをし、その目の前に通天橋の入り口があり吸い込まれるように通天橋に向かう。

 

 

 

 

 

 

通天橋  境内には三ノ橋川という小川が流れ、洗玉澗(せんぎょくかん)と名が付く渓谷になっている。その渓谷を渡るため、本堂から開山堂を結ぶ橋廊が設けられた。

 

 

洗玉澗の真上に「通天台」として見晴らし台が設けられている。東福寺の景観を見るベストポジションで、むかしから「通天のもみじ」としておなじみの舞台である。

 

 

 

 

 

約2千本の楓の林が眼下に広がり、秋の紅葉シーズンには京都屈指の眺望を誇る。

 

 

 

 

 

 

開山堂側に辿り着く。

 

 

開山堂の入り口から本堂や三門側を見る。

 

 

入り口となる楼門。

 

 

楼門から上ってきた橋廊を振り返る。

 

楼門から見る常楽庵。一般的に開山堂というようだが、この楼門に囲まれた一角は常楽庵といい、開山堂と昭堂(建物が一緒)と書院といわれる塔司寮、鐘楼、庫裡、そして客殿となる普門院からなり、それぞれの建物はつながっている。また裏門と楼門の二つの入り口がある。

 

正面に開山堂と昭堂と左側に普門院が見られる。前庭は、東側に築山風の池泉鑑賞式庭園で、池の中には亀島や枯滝が配置されている。西側は枯山水庭園で、波紋で市松模様がつけられた砂地に鶴島と亀島代わりの石組みが配されている。枯山水庭園と池泉鑑賞式庭園が対峙しながらも見事に調和する、ふたつでひとつの庭園。

 

 

 

 

 

開山堂【国重要文化財】   通天橋を渡った境内の北、最も高い場所に建ち、文政2年(1819)に焼失した後、文政6年(1823)に一条家第20代当主で公卿の一条忠良によって再建された。2階建の楼閣で、開山である円爾弁円(聖一国師)の尊像が安置されている。

 

 

開山堂の楼閣は伝衣閣(でんねかく)と呼ばれ、金閣寺、銀閣、西本願寺の飛雲閣、そして大徳寺の呑湖閣とあわせて「京の五閣」と称されている。

 

 

扁額は「常楽庵」。

 

 

 

開山堂の内部。

 

 

客殿(普門院)。    東面し、桁行20m、梁間17.4mで入母屋造、桟瓦葺き。西面に典座がとりつき、北面2か所と南面1か所からは廊下が延びて塔司寮と楼門に接続する。参拝時に、その廊下の床の平瓦の改修工事中。庭園は白砂の波形で枯山水。

 

 

 

 

 

常楽庵を後に、洗玉澗(せんぎょくかん)と名が付く渓谷のほうに降ることとした。楓の林は地表が苔で覆われ冬でも美しい。

 

愛染堂【国重要文化財】 渓谷に降る途中に丹塗りの杮葺き八角円堂。南北朝時代の建築。昭和12年(1937)万寿寺より移された。愛染明王をまつる。

 

 

月下門のところ。

 

 


臥雲橋を境内側の渓谷を流れる三ノ橋川から見る。この橋は境内の外の一般道に掛かる橋。

 

 

こちらが洗玉澗(せんぎょくかん)。

 

渓谷から見上げた通天橋と通天台。 下から見上げると、天にも通じるように高くそびえて見えることからいる通天橋と名が付けられたという。昭和34年(1959)の台風により崩壊したが2年後に再建、その際橋脚部分は鉄筋コンクリート造となった。

 

 

横から通天台を見る。

 

 

境内は広く、苔に覆われた楓の林が続く。

 

 

2月中旬の平日。天気は曇り小雪ちらつくなかの前撮り風景。 「おめでとうございます」

 

 

恩賜門    明治14年(1881)に方丈、庫裏、法堂、仏殿を焼失。翌年、英照皇太后、昭憲皇后から、再興のための賜金があり、そこから恩賜門と呼ぶようになった。大方丈への入り口だが、通常は締め切り。

 

 

アーチ型の唐破風の下は兎毛通懸魚(うのけどおしげぎょ)に大瓶束、蟇股と、力強いのに優美な装飾が施されている。

 

 

扉の中心に菊の御紋。ほかに唐草や藤の花に花菱の意匠。

 

 

 

 

庫裡。 切妻造の桟瓦葺。 寺務の建物で、方丈庭園への入口はこちらになる。

 

本坊庭園。   方丈とは、禅宗寺院における僧侶の住居のことをいう。後には応接間の役割が強くなった。広大な方丈には東西南北に四庭が配されている。当初は“東福寺方丈「八相の庭」”という名称が、平成26年(2014)に“国指定名勝”に登録され、改めて「国指定名勝 東福寺本坊庭園」となった。禅宗の方丈には、古くから多くの名園が残されてきたが、方丈の四周に庭園を巡らせたものは、こちらの寺のみである。作庭家・重森三玲(1896-1975)によって昭和14年(1939)に完成。当時の創建年代にふさわしい鎌倉時代庭園の質実剛健な風格を基調に、現代芸術の抽象的構成を取り入れた近代禅宗庭園の名作として知られる。

大方丈の堂宇を縁が回る、東西南北それぞれに庭園が配されている。

 

 

東庭。   徹底的に省略した「静」の世界を表すかのような構成で、星座の「北斗七星」を、円柱、白川砂、苔、背後の二重生垣のみによって表現している。北斗七星を表す円柱は、山内にある「東司」で使用されていた礎石で、東司の解体修理をした際に、余材として出てきたものである。

 

 

 

 

 

 

 

東庭を過ぎて北庭へ。

 

 

北庭。     勅使門から方丈に向けて敷きつめられていた切石を再利用し、小市松模様の庭園となっている。まさに西庭の大市松を受けてさらに小さな姿となり、そして東北方向の谷に消えていくという表現方法だという。

 

最初の部分は、西庭の市松を受け継いでいるために、ほぼ正確な市松で配置されているが、程なくしてそれが崩れていき、そして最後はポツン、ポツンと一石ずつ配しながら消えていくという配置構成になっている。この最後に一つずつになるような所は現在のような苔ではなく、白川砂内におかれていたことが、やはり作庭直後の写真を見ると判る。しかもこの白川砂と苔との仕切の線が、三玲が得意とした州浜状の曲線が用いられており、この辺りのコントラストも考えたうえでの設計であったことがわかる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

廊下伝いに北の庭を出ると、ここにも展望台となる舞台が設けられている。本坊から直接、楓林の眺望をしたいとの考えだろう。

 

 

舞台からは通店橋が見渡せる。

 

西庭。庭の大市松模様「井田の庭」は、日本古来から伝えられてきた伝統的な市松模様を、サツキの刈込と葛石の使用によって表現した。この意匠も、この本坊内に使われていた材料で、敷石の縁石(カズラ石)を再使用してできあがった意匠である。

 

 

市松は日本の伝統的な紋様であり、桂離宮内の松琴亭の襖や床に使用され、また修学院離宮などの茶席の腰張りに使用されたりなど、雅な文化の中において使用されていたことがわかる。

 

 

 

地割も斜線上に市松を組み、北側の小市松模様に連続して繋がっていくことを意図して設計されていることがわかる。それをサツキの刈込と白川砂との、はっきりとした色のコントラストを持って表現している。

 

 

西庭と南庭の絵廻り縁の角に門があるが、詳しく分からない。

 

 

方丈。 明治23年(1890)に再建された。

 

 

正面に扁額「方丈」。

 

 

大方丈の内部。 

 

 

南庭  方丈の南側に位置し、日本庭園における定型的な表現方法である、蓬莱神仙思想を中心とした意匠形態となっている。蓬莱、瀛洲、壺梁、方丈の四神仙島を石だけの構成による四つの意匠で表現した。

 

 

 

 

その中の三神仙島(蓬莱、瀛洲、壺梁)には、6mほどの長い石を、立石とのバランスをとりながら横に寝かせて表現。このような石の扱い方は、古庭園における意匠では、ほとんど例がない。この長石を使用することによって、極度なまでの立石を、この大きな横石によってバランスを保つようにしたところが、従来までの石組手法とは異なる新たな提案であった。

 

 

 

 

 

御賜門。   門からの通路はなく白砂の波紋の石庭のため開かずの門なのだろう。

 

築山は、従来は自然の山の表現であった苔山を、京都五山として表現した。しかもここでは一切石を使用せず、山の大きさや高さによって、造形的な美を追求した。また一番奥の築山と、その左側は、できるだけ土塀寄りまでたかさを保ちたかったので、最土塀寄りの部分は、建物からの観賞からは見えないように土留めの石積が成されている。

 

 

境内の中央付近。本堂は一部改修工事中で足場が掛かる。

 

 

本堂(仏殿兼法堂)      明治14年(1881)に仏殿と法堂が焼けた後、大正6年(1917)から再建工事にかかり、昭和9年(1934)に完成した。

 

 

入母屋造、裳階付き。高さ25.5m、間口41.4mの大規模な堂。昭和期の木造建築としては最大級のもの。

 

 

 

 

 

 

 

蒼龍図。 京都在住の日本画家、堂本印象により本堂の天井に描かれた。東西約22m、南北約11mの鏡天井に描かれている。鋭くとがった角と細かく描かれたウロコが特徴。(通常は未公開であるが、特別公開があり/写真はネットから引用) 

 

 

本堂内。本尊釈迦三尊像は鎌倉時代の作で、明治14年の火災後に塔頭の万寿寺から移されたもの。

 

三門【国宝】       現存する禅寺の三門としては日本最古。三門は至徳元年(1384)から再建が始まったが、完成したのは応永32年(1435)のことである。五間三戸二階二重門、入母屋造、本瓦葺。「五間三戸」とは正面の柱間が5つ、うち中央3間が通路になっているという意味。

 

 

 

こちらが表面。「二重門」は2階建ての門だが、「楼門」と違い、1階と2階の境目にも軒の出を作るものをいう。上層に釈迦如来と十六羅漢を安置する。

 

 

 

 

 

扁額は「妙雲閣」。

 

 

境内に華やかに咲き誇る白梅と紅梅。

 

 

 

 

禅堂【国重要文化財】  僧堂、選仏場とも呼ばれる坐禅道場で、貞和3年(1347)の再建。 桁行七間、梁間四間、単層、裳階付切妻造の建物。中世期より現存する最大最古の禅堂。扁額の「選佛場」は宋国径山万寿寺の無準師範の筆。明治14年(1881)に本堂が焼失した後は、この堂を本堂にしていた。

 

 

経堂   寛政6年(1794)に再建された。

 

 

日下門を出て右折し臥雲橋に進む。

 

 

臥雲橋。 東福寺に掛かる三橋の一つ。こちらは境内の外で一般の道路に掛かる橋である。

 

 

 

 

 

ここから眺める楓紅葉は素晴らしい風景で、京都紅葉の代表の一つ。

 

 

残念ながら枯木も山だが、新緑のころ、紅葉のころ・・・素晴らしいのだろう。

 

 

案内図

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーーーやはり、寺というものは、人がたくさん集まる場所であってほしい。たとえ、その人たちが縁なき衆生であってもかまわない。という気がするのである。第五巻で訪ねた東京の浅草寺は、まさに繁華街にあって、大勢のひとがやってくる寺だった。お寺のかたに、参拝者の人数はどれくらいかとお聞きしたとき、「通り抜ける通行人の数もいれると二千万人になります」と笑いながらおっしゃったのを思い出す。文字どおり通り抜けるだけであれ、どんなかたちであっても、寺との縁が生まれてくるというのはいいことだと思う。人の目を楽しませるつかの間の紅葉を目当てにして、来る人もいるだろう。また、長い歴史をもつ禅寺の静かな境地にあこがれて、訪ねてくる人もいるだろう。本尊の阿弥陀如来に篤い信頼を抱いて、参拝しに来る人もいるだろう。世の中にいろいろな人がいるように、寺を訪れる人もいろいろあっていいのだ。

 

 

御朱印

 

東福寺 終了

 

(参考文献)  
五木寛之著「百寺巡礼」第九巻京都Ⅱ(講談社刊) 東福寺HP  フリー百科事典Wikipedia  
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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49 泉涌寺 

2023-10-26 | 京都府

古寺を巡る 泉涌寺

天皇家から篤く信仰された御寺

 

 

東寺の参拝を終えて、次の参拝が泉涌寺で「せんにゅうじ」と呼ぶ。東寺の紅葉の名所・臥雲橋から山あいの道を歩いて約20分。泉涌寺の入り口門に辿り着く。泉涌寺は、東山の一峰である月輪山の麓に広がる。この寺域には、鎌倉時代の後堀川天皇、四条天皇、および江戸時代の後水尾天皇から孝明天皇にいたる天皇陵がある。

皇室の菩提所として、また諸宗兼学の道場として、壮麗な堂宇が甍を連ね、幽閑脱俗の仙境、清浄無垢の法城となっている。

斉衡2年(855)左大臣藤原緒嗣が僧・神修のために山荘を与えて寺となし仙遊寺と称するようになり、建保6年(1218)に、当寺が開山と仰ぐ月輪大師・俊芿(がちりんだいし・しゅんじょう)が宇都宮信房からこの聖地の寄進を受け、宋の法式を取り入れた大伽藍の造営を志し、嘉禄2年(1226)に主要伽藍の完成をみた。その時、寺地の一角から清水が涌き出たことにより泉涌寺と改めた。この泉は今も枯れることなく涌き続けている。

当時朝野の尊信篤く、後鳥羽・順徳上皇、後高倉院をはじめ、北条政子、泰時など、公家・武家両面から深く帰依された。仁治3年(1242)正月、四条天皇崩御の際は、当山で御葬儀が営まれ、山陵が当寺に造営された。その後、南北朝~安土桃山時代の諸天皇の、続いて江戸時代に後陽成天皇から孝明天皇に至る歴代天皇・皇后の御葬儀は当山で執り行われ、山陵境内に設けられて「月輪陵(つきのわのみさぎ)」と名づけられた。こうして当山は皇室の御香華院として、長く篤い信仰を集めることとなる。泉涌寺が「御寺」と呼ばれる所以である。

総門内の参道両側をはじめ山内一円には塔頭寺院が建ちならび、奥まった境内には大門、仏殿、舎利殿を配した中心伽藍と天智天皇、光仁天皇そして桓武天皇以降の天皇・皇族方の御尊牌をお祀りする霊明殿と御座所、庫裡などの建物が甍を連ねている。 全山木々に包まれて静かにたたづむ堂宇、玉砂利の境内は、春は新緑、秋は紅葉に色どられて、一種別天地の雰囲気をかもしだす。

 

参拝日    令和5年(2023)2月15日(水) 天候曇りときどき小雪

 

所在地    京都市京都府東山区泉涌寺山内町27                      山 号    東山 泉山                                  宗 派    天台宗泉涌寺派                                寺 格    総本山                                    本 尊    阿弥陀如来 釈迦如来 弥勒如来                        創建年    斎衛3年(856) (伝)                           開 山    神修 (伝)                                 開 基    藤原緒継                                   正式名    泉山泉涌寺                                  別 称    御寺                                     札所等    洛陽三十三所観音霊場第20番 ほか                       文化財    仏殿、大門、開山堂ほか(国重要文化財)

 

 

境内地図                                                                                                (ネットより)

 

 

総門 東福寺駅前から知積院方面へ通じる広い通りのほぼ中ほどにある泉涌寺通の交差点を東南の方向に向かい参道にある総門。

 

 

総門から大門までの参道。 参道の両側には泉涌寺の塔頭が並ぶ。泉涌寺の参道の両側には泉涌寺の塔頭、来迎院、善能寺、雲龍院、今熊野観音寺、新善光寺、戒光院、即成院、法音院、悲田院が建っている。

 

 

大門の前にある御寺泉涌寺とある石碑。

 

 

大門【国重要文化財】  泉涌寺道を登った所、伽藍の最も高い位置に建つ大門は、「東山J の額を掲げて東山門とも呼ぶ。 仁和寺の慶長度内裏の南門を、寛永年間に移築した四脚門。屋根は切妻造の本瓦葺き、組物は三斗組で妻に板墓股を用いている。 とくに入り側の墓股には唐獅子・龍・膜麟・ 2莫などの霊獣彫刻があるなど桃山建築の遺風を感じさせ、簡素ながら堂々とした正門となっている。

 

 

大門を潜り、緩い坂道の降り参道となっている。

 

 

参道を進むと正面に建っているのが仏殿。

 

仏殿【国重要文化財】   寛文8年(1668)四代将軍徳川家綱によって再建された本堂。外見は重層建築のように見えるが、裳階の付いた一重入母屋造りの本瓦葺き建物。

 

大屋根の軒に扇垂木、組物は詰組、勇壮な花頭窓など、本格的な禅宗様式の唐様建築の特徴を完備した代表作。建物内部は天井まで組物がつらなる空聞が美しく、高い須弥壇には運慶作と伝わる阿弥陀・釈迦・弥鞠の三尊仏が安置されている。

 

 

横から見る。

 

 

 

仏殿と前後して建つ舎利殿。

舎利殿   釈迦の歯(仏牙舎利)を奉安する貴重な霊殿。慶長年間、京都御所の建物を移築改装したもので、仏殿と同時代に現位置へ移された。開山者・俊芿律師が熱願された舎利を、弟子の湛海律師が安貞2年(1228)に宋朝より将来して祀られたもの。現在寛喜2年(1230)将来された韋駄天像・月蓋長者像(共に重文)とともに内陣に奉祀されている。

 

 

向拝の両側に建て込まれた白塗りの格子の蔀戸。

 

 

舎利殿を横から。

 

 

御座所門。

 

 

本坊門。泉涌寺本坊は、霊明殿、御座所、海会堂の3つの建物をつなぐ御座所庭園によって構成されている。一般の参拝者が拝観する入口門でもある。

 

 

本坊の入り口。 向かって左側から入る。 右側が御座所入口になる。

 

 

入口の前庭を見る。右方向に霊明殿。

 

 

御座所の前庭を通して霊明殿を見る。

 

 

 

 

 

御座所の玄関。 正面は御座所門。

 

なお御座所は両陛下はじめ、皇族方の御陵御参詣の際の御休所として現在も使われている。昭和天皇はかつて御陵参拝の際にこの庭をめでられ、「春ふけて 雨のそぼふるいけ水に かじかなくなり ここ泉涌寺」の御製をお詠みになられました。

 

 

 

 

御座所の東南から御殿の南側にかけて、庭園が築かれている。霊明殿・御座所・海会堂そして御陵拝所に取囲まれたて庭園は、曲折する池の汀にさつきが咲き、秋には紅葉、冬は雪化粧した雪見灯篭も観れる四季折々の自然を見せてくれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

庭園の正面には霊明殿の煌びやかな飾り破風のある建物を見せる。

 

 

 

 

 

霊明殿唐門。 

 

 

門の扉は菊の御紋が掲げられている。

 

 

歴代天皇の御尊牌(お位牌)をお把りした場所の通称を霊明殿という。唐門から白砂の庭のむこうに奔されるのが霊明殿。重厚な入母屋造り檎皮葺き、外観は辰殿風、すべて尾州槍材で造られた品格ある建築物。

 

殿内は内陣・中陣・外陣に分かれ、内障は5室の御厨子となっている。それぞれに御扉を設け、中央御扉内には四条天皇御尊像と御尊牌をはじめ、明治天皇・昭憲皇太后・大正天皇・貞明皇后・昭和天皇・香淳皇后の御真影・御尊牌が奉安されている。

 

 

 

 

現在の霊明殿は、明治17年(1884)に明治天皇の思し召しによって宮内省が再建した。

 

 

二月中旬。冬真っ盛りに椿の花が迎えてくれた。

 

 

仏殿から大門を見る。

 

 

泉涌寺の周りには、このような皇族の墓陵が数多くある。

 

 

こちらは93代後伏見天皇の十八世皇孫の守脩親王墓。120代仁孝天皇の皇女・淑子内親王墓。93代後伏見天皇の十九世皇孫朝彦親王墓。

 

 

 

案内図。

 

 

 

御朱印

 

 

 

 

泉涌寺 終了

 

(参考文献)   泉涌寺HP  フリー百科事典Wikipedia  
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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48 三十三間堂 

2023-10-23 | 京都府

古寺を巡る 三十三間堂

 

1001躯の観音像が一堂に並ぶ、おなじみのお寺。

 

 

 

三十三間堂は何度も参拝をしているが、今回、4日間の京都巡りで改めて参拝をすることにした。当じつは冬と春の繋目のとき、寒くはないが雪がちらつき、写真に雪の降る様子だ写されていた。

建物の正式名称は「蓮華王院本堂」。同じ京都市東山区にある妙法院の飛地境内であり、同院が所有・管理している。元は後白河上皇が自身の離宮内に創建した仏堂で、蓮華王院の名称は千手観音の別称「蓮華王」に由来する。

創建当時は五重塔なども建つ本格的な寺院であったが、建長元年(1249)の大火で焼失した。文永3年(1266)に本堂のみが再建された。現在「三十三間堂」と称されている堂であり、当時は朱塗りの外装で、内装も極彩色で飾られていたという。室町時代は足利義政の命により、桃山時代は豊臣秀吉により、修復や整備が行われた。現代になって、平成29年(2017)には、45年にわたった千手観音立像全1,001体の修復が完了した。

 

参拝日    令和5年(2023)2月15日(水) 天候曇り時々小雪

 

所在地    京都府京都市東山区三十三間堂廻町657                     山 号    妙法院に所属する寺により山号はなし                     院 号    蓮華王院                                  宗 派    天台宗                                   寺 格    妙法院飛び地境内                              本 尊    千手観音(国宝)                              創建年    長寛2年(1165)                              開 基    後白河天皇                                 正式名    蓮華王院本堂                                別 称    三十三間堂                                 札所等    洛陽三十三所観音霊場第17番                         文化財    本堂、木造千手観音立像(1,001躯)、木造二十八部衆立像ほか(国宝)        

 

 

南大門【国重要文化財】    桃山時代の慶長5年(1600)建立。切り妻造り、本瓦葺き、三間一戸の八脚門。境内東南側の敷地外に建つ。虹梁の刻銘により豊臣秀頼が慶長5年に新築したものと推測されている。かつては慶長6年(1601)にこれも秀頼によって建てられた西大門もあったが、明治28年(1895)東寺に移築され南大門(重要文化財)となっている。

 

 

 

 

 

南大門から朱塗りの東大門及び回廊の方向を見る。真正面は京都国立博物館。

 

 

 

東大門の回廊を見る。

 

 

東大門に繋がる回廊。木部の朱塗りと白壁に緑の連子窓が綺麗。

 

 

 

東大門前のお寺(法住寺)の門と紅梅。

 

 

 

普門閣  ここが入り口。

 

 

 

普門閣を潜れば、正面に本堂、左に庭園。本堂の正面(向拝)は庭園側になる。

 

 

 

 

 

 

 

昭和36年(1961)の後白河法皇770回忌記念事業の際に、「昭和の小堀遠州」と称えられた作庭家・中根金作氏により造園された。その後、中根金作氏を祖父にもつ中根行宏氏、直紀氏により庭園の整備がすすみ、令和3年(2021年)に保存工事が完了。

 

 

東大門   昭和36年(1961)の白河法皇770回忌記念事業として再建された。

 

 

 

 

後白河法皇没後800年に建てられた石碑。

 

 

鐘楼。  昭和63年(1988)に再建された。

 

 

 

 

 

堂内は参拝客が大勢いるが、庭の見学には興味がないのか客が少ない。

 

 

本堂の全景を見る。

 

 

本堂【国宝】 三十三間堂と呼ばれる。現在の堂は文永3年(1266)に再建されたもの。

 

三十三間堂の名称は、本堂が平安時代の建物の平面規模を表す間面記法でいう「三十三間四面」となることに由来する。これは桁行三十三間]の周囲四面に一間の庇を巡らせたという意味である。つまり柱間が33あるのは本堂の内陣であり、建物外部から見える柱間は35ある。

 

ここでいう「間」(けん)は長さの単位ではなく、社寺建築の柱間の数を表す建築用語である。三十三間堂の柱間寸法は一定ではなくその柱間も今日柱間として使われる京間・中京間・田舎間のどれにも該当しない。三十三間堂の1間(柱間)は今日の2間(12尺)に相当する。実際の外縁小口間の長さ約121mとなる。

 

 

正面中央に7間の向拝を設ける。現状の向拝は江戸時代初期、慶安3年(1650)のものであるが、後白河上皇による創建当初から現状のような形式の向拝が取り付いていたとみられる。

 

 

 

 

格格子の障子戸と菱格子の欄間。

 

 

軒は二軒繁垂木、組物は出組(肘木を壁面から一手持ち出す)を用いる。柱間装置は正面はすべて板扉。

そもそも「33」は観音菩薩にある縁のある数字で、『法華経』等に観音菩薩が33種の姿に変じて衆生を救うと説かれることによる。俗に「三十三間堂の仏の数は三万三千三十三体」というのは、本尊と脇仏の一千一体がそれぞれ33に化身するからである。また、平成28年(2016)に京都市埋蔵文化財研究所の調査により、地盤は砂と粘土を層状に積んで構成されていることが明らかになった。これは積層ゴムが建物の揺れを吸収する「免震」のメカニズムと共通している。

 

 

 

入母屋造、本瓦葺き、桁行35間、梁間5間とする。実長は桁行が118.2m、梁間が16.4mである。

 

 

 

側面は最前方の一間のみ板扉で他は連子窓。

 

 

 

 

 

 

 

 

南東側からの全景。

 

 

 

背面は5か所に板扉を設け、他を連子窓となっている。

 

 

 

 

西側。

 

 

 

西側は背面となる。通し矢場の場でもある。西側の軒下(長さ約121m)を向こう側(南)こちら側に矢を射通す弓術の競技。安土桃山時代に行われ始め、江戸時代前期に各藩の弓術家により盛んに行われ、京の名物行事となった。縁の北端に的を置き、縁の南端から軒天井に当たらぬよう矢を射抜き、その本数を競った。

太閤塀(国重要文化財)   桃山時代、本瓦葺。豊臣秀吉によって寄進された築地塀。現境内の南端を区切る。方広寺仏殿が創建された時、蓮華王院も方広寺の境内に含まれたため、その工事に伴って築造された。修理の際に「天正十六年‥‥大ふつ殿瓦」と刻んだ瓦が発見されている。軒丸瓦には豊臣家の桐紋が見られる。かつては西にも存在したが、現在は南の塀のみ残っている。塀は高さ5.3m、長さ92mに及ぶ桃山期の豪壮さを示す建造物である。

 

 

南大門の並び側の太閤塀。

 

 

通し矢場入口門。

 

本堂は内苑の中央に南北に長い建物で、建物内に諸仏が置かれていて、参拝者は本堂内の西の廊下を北から南へ歩く。現状では堂の内外に彩色はみられないが、昭和5年(1930)の修理時に、虹梁下面に貼付された装飾鏡の座を外した下から極彩色の文様が現れ、建立当初の堂は彩色で覆われていたことが判明した。 内部のこれ以上は撮影禁止区域となる。

 

木造千手観音立像1,001躯【国宝】  1001体が並ぶ。寄木造または割矧ぎ造、漆箔。像高は166 - 167cm前後。千手観音立像には1体ずつ番号が振られており、堂内南端(本尊に向かって左端)の最上段が1号像、南端の最下段が10号像、堂内北端(本尊に向かって右端)の最上段が991号像、北端の最下段が1,000号像、本尊背後に立つ1体が1,001号像である。昭和戦前期には、南側から入堂し北側へ抜ける拝観順路であったため、南から北へと番号が振られている。(写真は三十三間堂HPより)

 

1,001体のうち、建長元年(1249)の火災の際に救い出された、創建時の平安時代の像の長寛仏は124体、再建時(鎌倉時代)の像は876体あり、他に室町時代に追加された像が1体のみ(32号像)ある。(写真は三十三間堂HPより)

 

 

木造千手観音坐像【国宝】   寄木造り、漆箔、玉眼。十一面四十二臂に表す通有の千手観音像である。像本体の高さは334.8Cm、台座や光背を含めた全体の高さは7Cmを超える。作者は大仏師法印湛慶、小仏師法眼康円および小仏師法眼康清であり、慶長3年(1251)に造り始め、3年後に完成した。(写真は三十三間堂HPより)

 

 

雷神像【国宝】  木造風神雷神像として、風神像と2躯。鎌倉復興期の作。それぞれ堂内左右端に安置。風袋と太鼓をそれぞれ持った風神・雷神像の姿をユーモラスに表したこれらの像は、俵屋宗達の「風神雷神図屏風」のモデルになったともいわれる。寄木造、彩色、玉眼。像高は風神が111.5Cmセンチ、雷神が100.0Cm。雷神は連鼓を負い、両手にそれぞれ桴を持ち、風神とは対称的に左膝を突き、右膝を立てる。手指は3本、足指は2本である。(写真は三十三間堂HPより)

 

 

 

三十三間堂の対面が京都国立博物館である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

案内図

 

 

御朱印

 

 

 

 

三十三間堂 終了

 

(参考文献)  三十三間堂HP フリー百科事典Wikipedia 

 

 

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41 東本願寺

2023-10-09 | 京都府

第26番 東本願寺

 

親鸞の思いが生き続ける大寺

 

西本願寺の次に東本願寺を参拝した。西本願寺は自由に写真を撮ることができたが、東本願寺の堂内の撮影は駄目であった。また西本願寺と比較すると東本願寺は見どころは少ない。

東本願寺の名は通称であり、西本願寺に対して東に位置することに由来して、愛称は「お東」「お東さん」。

天正19年(1591)、浄土真宗本願寺派法主で本願寺11世の顕如は、豊臣秀吉により新たに寺地の寄進を受け、本願寺を大阪天満から京都堀川六条に移転させた。慶長7年(1602)に、後陽成天皇の勅許を背景に徳川家康から、豊臣秀吉の命により本願寺の寺内で隠居所を設けて、北方に隠居させられていた顕如の長男・教如へ烏丸七条に寺領が寄進された。これにより、本願寺は正式に顕如の三男・准如の西(本願寺)と、新たに分派してできた教如の東(大谷派)に分立した。

分立当初の両本願寺はともにいくつかの呼び名があったが、便宜上、堀川六条の本願寺の東側にある烏丸七条の本願寺が「東本願寺」と通称されたため、相対的に堀川六条の本願寺も「西本願寺」と通称されるようになった。

万治元年(1658)に、3年後の親鸞聖人四百回御遠忌があるため、老朽化していた阿弥陀堂・御影堂を再建する。天明8年(1788)の天明の大火によって両堂が焼失。その後、寛政10年(1798)に徳川幕府による用材の寄進があり、二つの堂は再建された。その後、度々の火災に遭うこと4度。その火災の多さから「火出し本願寺」と揶揄された。しかし、東本願寺が火元となったのは、文政6年(1823年)11月15日の火災のみである。現在の阿弥陀堂と御影堂は、明治13年(1880)から15年かけて明治28年(1895)にようやく落成した建物である。建築・障壁画等の製作には当時の第一級の職人が参加している。

東本願寺は、お東騒動と呼ばれる内紛が起こり、その結果、昭和62年(1987)に、「包括宗教法人 真宗大谷派」に吸収されてその直属の宗教施設となった。そこで、通称「東本願寺」は正式名称を「真宗本廟」に改称した。よって現在、真宗本廟は真宗大谷派が管理する伽藍で礼拝施設等の総称であり、宗教法人法による「寺院」ではない。

これ以降厳密には本願寺と呼ばれる寺院は、下京においては浄土真宗本願寺派本山の本願寺は、通称の西本願寺のみとなっている。いまでは真宗本廟の通称として「東本願寺」の名称が引き続いて使用されている。

 

参拝日    平成30年(2018)10月4日(土)天候曇り時々小雨

 

所在地    京都府京都市下京区烏丸通七条上ル常葉町754                  山 号    なし                                    宗 旨    浄土真宗                                  宗 派    真宗大谷派                                 寺 格    本山                                    本 尊    阿弥陀如来                                 創建年    慶長7年(1602)                               開 基    教如(本願寺12世)                             中興年    文明3年(1471)                               中 興    蓮如(本願寺第8世)                             正式名    真宗本廟                                  別 称    お東、お東さん                               文化財    御影堂、阿弥陀堂(国重要文化財)  

 

 

東本願寺の前の烏丸通。 京都駅前から京都御所を通り烏丸北大路まで伸びる。

 

 

 

 

東本願寺を取り囲む築地塀と小さな堀が巡る。

 

 

 

 

 

御影堂門の前から京都タワーを見る。

 

 

境内の案内絵図。

 

阿弥陀堂門【国重要文化財】   明治44年(1911)に再建。切妻造り・檜皮葺きの四脚門。正背面に唐破風を設ける。境内で京都駅に一番近く、段差の無いバリアフリーの門である。江戸時代中頃に「唐門」の名称で建てられる。

 

 

境内の内側から見る。

 

菊の門(勅使門)【国有形文化財】     門扉に菊の紋があることから菊の門と呼ばれているが勅使門とも呼ばれる。慶長9年(1604)に徳川家康が寄進したが、幾たびかの火災で焼失した。

明治44年(1911)の親鸞聖人六百五十回忌迄の再建に間に合うよう、名古屋の信者2名が勅使門の寄進を申し出た。勅使門の設計は亀岡末吉、施工は名古屋の鈴木幸右衛門、金物製作は京都の中村猪之助、塗工は京都の三上治三郎という当代の第一人者が担当した。工事は2年かけ明治44年(1911)に完成した

 

 

菊の紋は岩倉具定宮内大臣により、使用が特別に許可されたいきさつがある

 

 

玄関門【国有形文化財】   明治44年(1911)再建。

 

御影堂門【国重要文化財】     明治44年(1911)に再建。高さ約28mの入母屋造・本瓦葺き・両脇に小さな門がある三門形式の二重門。東福寺、知恩院に当寺を合わせ京都三大門の1つである。上層(非公開)には、釈迦如来坐像を中央に、脇侍として向って右側に弥勒菩薩立像、左側に阿難尊者立像の三尊が安置されている。

 

 

「真宗本廟」の扁額を掲げる。

 

 

 

 

 

破風の飾り金物が煌びやかな妻側。

 

 

欅の柱と袖の彫刻模様。

 

 

門扉。

 

 

照明の下げ灯籠。真下から撮ってみた。

 

 

門内から御影堂を見る。

 

 

大きな御影堂が現れる。

 

 

御影堂門を潜り境内の入る。

 

 

境内から見る京都タワー。

 

 

総合案内所・お買い物広場。

 

阿弥陀堂【国重要文化財】  東本願寺の本堂。禅宗様を取り入れた仏堂で、本尊・阿弥陀如来立像を安置する。屋根は瓦葺きの単層入母屋造。建築規模は、間口52m・奥行き47m・高さ29mである。床広さは御影堂の半分以下しかないが、全国屈指の規模の仏堂である。現在の建物は、15年の歳月をかけ明治28年(1895)に完成した。平成に入り、5年間におよぶ修復工事は平成27年(2015)に完了。

 

 

向拝廻りを横から見る。正面は御影堂。

 

 

 

 

 

 

 

堂内は、内陣・外陣・参拝席に分かれている。内陣の本間中央に須弥壇を設け、その壇上の宮殿内に本尊・阿弥陀如来(木像・立像)が安置される。また、本間右側の壇上には「聖徳太子御影」の絵像が、本間左側の壇上には「源空上人御影」の絵像が奉掛される。

 

 

 

 

 

阿弥陀堂側から御影堂側を見る。

 

 

軒下の木組みの様子。

 

 

阿弥陀堂から阿弥陀堂門を見る。

 

 

境内から京都タワーを見る。京都駅の建物が壁のように見える。

 

 

手水舎【国重要文化財

 

 

西に阿弥陀堂、東に御影堂と二つの堂宇を結ぶ渡り廊下。

 

 

渡り廊下【国重要文化財】「造り合い廊下」とも呼ばれ、明治の東本願寺再建に関連した毛綱、大橇 鼻橇、尾神嶽、雪崩被災のジオラマが展示されている。

 

 

渡り廊下から見た、外部の窓の意匠。

 

 

 

阿弥陀堂の妻側。

 

 

阿弥陀堂から御影堂と御影堂門を見る。

 

 

御影堂を見る。

 

 

御影堂の妻側を見る。

 

御影堂【国重要文化財】  「ごえいどう」と読む。 境内のほぼ中心に位置する。和様で建てられた、宗祖親鸞の坐像である「御真影」を安置する建物である。屋根は瓦葺きの重層入母屋造。外観が二重屋根であるため二層建築に見えるが、下部は裳腰であり単層建築である

 

建築規模は、間口76m・奥行き58m・高さ38mで、建築面積は東大寺大仏殿を上回る。現在の建物は、明治13年(1880)に起工し、明治28年(1895)に完成した。平成16年(2004)から平成21年(2008)にかけて大規模修復が行われた。総工費は約98億円である。御影堂の瓦の枚数は175,967枚で、その内の3割は修復時の検査で合格した瓦を再利用して葺いている。再利用した瓦(明治瓦)は風雨に晒されにくい裳階の奥側、「受平瓦」よりも奥に用いられてた

 

 

御影堂から御影堂門を見た。

 

 

向拝から。

 

 

 

 

扉の装飾金物がこげ茶の古木に鮮やかに映える。

 

 

堂の外側を巡る広い回廊。

 

 

 

 

堂内は阿弥陀堂と同じく、内陣・外陣・参拝席に分かれている。内陣は横に7つの室に分かれていて、中央の間を「内陣本間」と呼ぶ。「内陣本間」側から、左側の余間を「十字の間」・「九字の間」・「飛檐の間」と呼び、同じく右側の余間を「六軸の間」・「新六軸の間」・「御簾の間」と呼ぶ

 

 

「内陣本間」の中央に須弥壇上を設け、その上に「御厨子」を置き、「御真影」を安置する。「内陣本間」の左右壇上には歴代門首の絵像が奉掛される。

 

御影堂はかつては「大師堂」と呼ばれていた。その由来は、明治9年(1876)に明治天皇から親鸞に対して「見真大師」の大師謚号(おくりごう)が贈られたためである。だが、昭和56年(1981)に「宗憲」が改正された際、「見真大師」号が削除され、同時に大師堂の呼称が取りやめられて御影堂の呼称に復された。

 

 

基壇から欄干の様子。

 

 

当日は、時々小雨。

 

 

巨大な御影堂門を見る。

 

 

 

 

 

梵鐘は、平成22年(2010)に新しく造られ、今まで使用していた梵鐘。

 

 

 

鐘楼【国重要文化財】  明治27年(1894)に再建されたもの。

 

 

 

 

 

境内から見る京都タワー。古都京都の寺町のシンボル・・・蝋燭をイメージして造られたそうだ。

 

 

案内図

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーーー「わがはからいにあらず」広い御影堂に黙って座っていると、どこからか親鸞の静かな声が聞こえてくるような感じがした。                 〈他力〉といえば、すぐに〈他力本願〉という言葉が浮かんでくるだろう。一般に他力本願といえば、「あなたまかせ」「他人まかせ」の意味で用いられることが多い。世間では〈自助努力〉の反対の表現として通用しているようだ。最近流行の〈自己責任〉を強調する際にも、他力本願ではいけない、と言われたりする。時代とともに言葉の意味が少しずつ変わってくるのは仕方がないことだが、〈他力本願〉の本当の意味は、決して「あなたまかせ」「他人まかせ」「無責任」ではない。それはひときわくっきりとした強い世界観にもとづく大きな思想であり、危機に直面した人間にとってのたのもしい力であると言っていい。他力とは、宗派を超えて現代人すべての心に働きかける激しく大きな力だと、私は思っている。そして、いま、この心の危機の時代にこそ、〈他力〉の考え方が輝いてくると感じないではいられないのだが。

 

 

御朱印

     なし

 

 

東本願寺 終了

 

(参考文献) 東本願寺HP フリー百科事典Wikipedia  

       五木寛之著「百寺巡礼」第一巻京都(講談社)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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39 西本願寺

2023-10-06 | 京都府

第27番 西本願寺

 

信じる力が生み出すエネルギー

 

西本願寺は初めてである。かなり見ごたえがある寺なのだが、東山や嵯峨野などと比べると観光客が断然少なくゆっくり参拝できる。境内は大きく、巨大な堂宇が二つもあり、京都三閣(ほか金閣、銀閣)の一つ飛雲閣も建っている。一日中見てても見飽きない唐門。それに桃山文化が見事な書院がある。国宝と重文だらけの寺院は、そのお宝をなかなか見せてくれない。飛雲閣と唐門は修繕工事中(飛雲閣は常日でも非公開である・・・)で、書院も通常非公開。書院は通常非公開だが、月の法要日に参拝すれば見学できるそうだ。ということで、見どころ満載の寺院は、見れない個所だらけだった。

真宗大谷派の本山である東本願寺(正式名称「真宗本廟」)と区別するため、両派の本山は通称で呼ばれることが多い。京都市民からは「お西さん」の愛称でも親しまれている。

文久7年(1272)に、親鸞の末娘の覚信尼が東山の大谷に親鸞の遺骨を改葬し、廟堂を建てたことに始まる。室町時代には、多数の門徒を抱える仏教集団に発展した。その後、比叡山延暦寺から迫害を受けるなど場所は転々とし、現在地には天正19年(1591)に豊臣秀吉の寄進により、大阪天満から移転した。

 

参拝日    平成30年(2018)10月4日(土) 天候曇り

 

所在地    京都府京都市下京区堀川通花屋町下る門前町60
山 号    龍谷山
寺 名    西本願寺
宗 旨    浄土真宗
宗 派    浄土真宗本願寺派
寺 格    本山
別 称    お西さん   
本 尊    阿弥陀如来                                 創建年       大谷本願寺・元享元年(1321)  西本願寺・天正19年(1591)                          開 山    大谷本願寺・覚如(本願寺第3世) 西本願寺・顕如(本願寺第11世)  
開 基    本願寺第11世顕如                                 正式名    竜谷山本願寺                                   中興年     文明3年(1471)                              中 興    連如(本願寺第8世)
文化財    御影堂 阿弥陀堂 書院 唐門 飛雲閣ほか(国宝)  
       経堂 鐘楼 手水場 総門ほか(国重要文化財)
 

 

 

境内地図

 

本願寺伝道院【国重要文化財】    塔屋のイスラム風が特徴の明治の洋館。明治28年(1895)に設立された真宗信徒生命保険会社の社屋として、東京帝国大学教授伊東忠太の設計、竹中工務店の施工により建築された。様々な使用を経た後に「浄土真宗本願寺派布教研究所」となり、昭和33年(1958)あそか診療所として1階が改修され使用された。その後、僧侶の教化育成の道場として今日にいたっている。

 

 

総門【国重要文化財】。 西本願寺の御影堂門の前に、堀川通りを挟み対面にある門。門の手前は仏壇や仏具の店が並ぶ門前町。

 

 

数珠を中心にした仏具の店。創業160年だと言う。

 

 

堀川道を渡り切って総門を振り返る。

 

 

堀川通と呼ばれる国道1号線。

 

 

堀川通と西本願寺の築地塀の間に小さな堀があるが水は無い。 

 

 

 

 

北小路通 北の西本願寺と南に建つ興正寺との間の通路。築地塀が京都らしい雰囲気を味わえる。塀は切妻造、本瓦葺の版築の塀で5本の定規筋が引かれている。江戸中期~後期の建築。右奥手に唐門(国宝)と手前右手に飛雲閣(国宝)があり、いづれも改修工事中。

 

唐門【国宝】  境内の南側、北小路通に南面して建ち、対面所のある書院の正門。桃山時代の豪華な装飾彫刻を充満した檜皮葺き・唐破風の四脚の造り。前後に計4本の控え柱をもつ四脚門形式。。総漆塗り、極彩色彫刻と鍍金金具で装飾しており、日暮し眺めても飽きないとされることから「日暮門」の俗称がある。いまだ以て、この門が最初に本願寺に現れた年代や事情ははっきりしていない。残念ながら参拝の際は、修繕工事中で工事用仮設に覆われ見ることはできなかった。次回、京都に来た際の撮影をしよう。(写真は西本願寺のHPより)

 

 

御影堂門【国重要文化財】   親鸞聖人600回大遠忌を前に、安政6年(1859)に大阪の講社が担当し修理。昭和35年(1960)には、親鸞聖人700回大遠忌を前に修理。平成18年(2006)にも3年をかけ修理を行っている。

 

 

 

 

 

目隠し塀【国重要文化財】 阿弥陀堂門を入り目の前にある独立塀。切妻造、本瓦葺、真壁造の塀で、江戸後期の建築。浄土真宗の宗祖・親鸞聖人をお祀りする御影堂が丸見えにならない目隠し。

 

 

阿弥陀堂の前の境内。

 

 

御影堂の西側には飛雲閣(国宝)があるが、ただ今修理中で仮設に覆われて何も見えない。

 

飛雲閣【国宝】 境内の東南隅にある名勝 滴翠園の池に建つ三層柿葺の楼閣建築。初層は入母屋造りに唐破風と千鳥破風を左右に、二層は寄棟造りに三方には小さな軒唐破風を配し、三層は寄棟造りと実に変化に富んだ屋根になっている。二層、三層と建物は小さくなり、その中心も東に移るという左右非対称ながら巧みな調和を持つ名建築として知られている。全体的に柱が細く障子の多いことから、空に浮かぶ雲のようだということで、飛雲閣と名づけられたといわれる。(写真は西本願寺HPより)

 

 

一層は主室の招賢殿と八景の間、舟入の間(写真右)、さらに後に増築された茶室・憶昔(写真左)からなる。庭園と一体となった、日本を代表する建築の一つ。(写真は西本願寺HPより)

 

 

鐘楼【国宝】 飛雲閣に付随し、江戸時代の元和4年(1618)に建立。桁行一間・梁間一間で、切妻造の陶製本瓦葺。妻側には彩色された彫刻が見られる。

 

 

 

 

 

龍虎殿  参拝の受け付け処。

 

 

御影堂【国宝】 「ごえいどう」と読む。寛永13年(1636)に再建された。中央に親鸞聖人の木像、両脇に本願寺歴代宗主の影像を安置。

 

 

堂の大きさは本堂の阿弥陀堂より大きい東西48、南北62m、高さ29m。江戸時代の建築物としては最大級の建物である。

 

 

堂の西側を見る。 軒先柱や建登せ柱(通し柱)でこの大きな屋根を支えている。

 

 

妻飾り部の懸漁。 妻側は、二重虹梁大瓶束で、蟇股および菊や波をあしらった透かし彫りで飾っている。(写真では判らない)

 

 

向拝正面。

 

 

向拝を横から見る。正面には三間幅の向拝を付して木階(きざはし)六級を設ける。

 

 

幅2間はある堂の外側を覆う広縁。

 

 

建登せ柱や軒柱、多様な紅梁など江戸時代前期の高度な架構や技法を駆使し、当時の超大型建築物を構築している。

 

 

堂の正面入り口。

 

 

外陣部は多数の門徒を収容するため、441畳の大きな空間を有し、太い柱が建ち並び上部に紅梁を掛けわたし大きな空間を支えている。 この堂の太い柱は100本以上使用されているという。

 

 

内陣まわりは、金箔、彫刻欄間、障壁画、彩色を施し壮厳さが感じる。

 

 

建立当時の明かりは、ろうそくなどが主体だったので、天井からの照明は現代の器具だろう。

 

 

内陣の正面には「見真」の扁額。見真の意味は、真実の理を見抜くことにあるが、浄土真宗の宗祖親鸞に対して明治9年(1876)11月28日に宣下された大師号。

 

 

金箔を施された内陣の造作。

 

 

背の高い障子戸と菱目格子の欄間。

 

 

御影堂から阿弥陀堂を見る。御影堂が阿弥陀堂よりも大きな造りとなっているには浄土宗と浄土真宗の大寺院の大きな特徴である。これは、阿弥陀如来を祀る本堂よりも宗祖を祀る御影堂の方を大きく作り、宗祖の像を背景として、大勢の信者・門徒を相手に法話を行うようにしているためである。

 

 

 

渡り廊下【国宝】  御影堂と阿弥陀堂を結ぶ渡り廊下。

 

 

阿弥陀堂から見た御影堂。

 

 

国宝御影堂と国宝阿弥陀堂を結ぶ渡り廊下。

 

 

阿弥陀堂に移り、阿弥陀堂から見た境内の様子。

 

 

手水舎【国重要文化財】 破風板には錺金具を付け、四周を開放し花崗岩の四半敷で中央に石製の井戸と水盤を据えている。軸部は方形礎盤に几帳面取角柱を立て、内法虹梁で繋ぎ、柱頂部の舟肘木と内法虹梁上の蟇股で受け、鏡天井を張っている。

 

 

 

 

 

雨受け石桝。 大きな石桝を支えているのは「雨の邪鬼」で、身長38㎝だそうだ。

 

阿弥陀堂【国宝】 西本願寺の本堂である。宝暦10年(1760)に 再建。南北45m、東西42m、高さ25m。中央に本尊の阿弥陀如来立像、両脇にインド・中国・日本の七高僧の内、龍樹菩薩・天親菩薩・曇鸞大師・道綽禅師・善導大師・源信和尚の六師を、両余間に法然聖人と聖徳太子の影像を安置している。

 

 

 

正面向拝を見る。

 

 

 

 

 

 

向拝を横から。

 

 

外陣から内陣を見る。

 

 

 

内陣は欄間彫刻や柱や壁に金箔を施した。

 

内陣。平成29年(2017)8月より4年8か月にかけて内陣の修復工事を行った。修復は格天井、丸柱の漆塗り修理、彫刻や組み物の彩色修理、天井画と無地金障壁・襖の表具修理。それに格天井・須弥壇の飾り金物の金具宇野修理。併せて宮殿の修復を行った。

 

 

2017年から修理が始まり、参拝したのは2018年の秋。修理工事中と全然気付かなかった。

 

 

外陣の様子。 285枚の畳敷きだそうだ。

 

大銀杏  まるで根っこを天に広げたような形から「逆さ銀杏」とも呼ばれる樹齢約400年の大銀杏。京都市の天然記念物に指定。本願寺が火災があった時、この銀杏から水が噴き出して消し止めたという伝説から、「水吹き銀杏」とも。

 

経堂【国重要文化財】    経蔵に納められている『大蔵経(一切経)』は天海僧正の開版されたもので、寛永12年(1635)に江戸の寛永寺で発起し、12年をかけて完成した。

 

 

総合案内所。 阿弥陀堂門を入った左側にありさすが大寺院だ。

 

書院【国宝】  桃山時代に発達した豪壮華麗な書院造の代表的なもの。間取りは、大きく分けて対面所と白書院がある。それぞれの部屋に座敷飾(床、違棚、帳台構、付書院)を完備し、金碧障壁画や彫刻で飾られている。対面所は寛永年間(1624~44)に建築され、白書院はそれよりやや古い建物である。書院の障壁画は、渡辺了慶とその一派により描かれている。

 

 

白書院 三の間(孔雀の間)から一の間(紫明の間)を見る。                           (以下室内の写真は西本願寺HPより)

 

 

一の間一の間(紫明の間)。

 

対面所 本願寺の書院で一番規模の大きい広間。主にご門主との対面に使われた。上段正面の欄間に鴻の透かし彫りがあることから、鴻の間とも呼ぶ。対面所の構成は上段と下段からなり、下段は一六二畳敷の広大な座敷で、二列の柱で三つに分けられている。

 

 

上々段の手前にある軍配型の火灯窓(左)上段左の帳台構(中)上々段右の付け書院と違い棚(右)

 

 

上段の欄間の鴻の透かし彫り(左) 上段正面床の張良引四皓謁太子図

 

対面所下段左側の巨松と花鳥を描いた金碧松鶴図。

 

虎渓の庭  対面所の東にあり、桃山時代の様式を伝える特別名勝の枯山水。虎渓とは中国江西省の廬山にある渓谷のことで、御影堂の屋根を名山・廬山に見立てた借景とし、北側の巨石で表された枯滝から砂礫の川の流れが大海に注ぐ様を表現。(写真は西本願寺HPより)

 

 

阿弥陀堂門【国重要文化財】 江戸時代後期、天明8年(1788)頃に大阪別院から移築された。昭和58年(1983)、檜皮の葺替、飾金物と金箔押などの補修が行われた。

 

 

 

 

唐破風と天井下部分。

 

 

 

 

 

門柱の基礎部分。

 

 

門の袖壁と扉。

 

 

境内側から見た門。

 

 

横から見た阿弥陀堂門。

 

 

御成門【国重要文化財】切妻造、本瓦葺の高麗門。江戸後期の建築。

 

太鼓楼【国重要文化財】  境内の東北角にある重層の楼閣。内部に今も残る大きな太鼓は、江戸時代には周囲に時刻を告げる合図となっていた。 幕末、本願寺を一時的に屯所としていた新撰組による刀傷が、今も残っていると伝えられている。

 

 

堀川通から西本願寺の全景を見る。

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」からーーー浄土真宗は一神教的といっても、キリスト教のように、自分の神こそ唯一絶対の神であるという原理主義的な一神教ではない。他の神仏も八百万の神も認めるが、自分は阿弥陀仏だけを信じるとかたく決める人間的な生き方だ。世の中には多数の母親がいるが、わが母はただ一人、というようなものかもしれない。信仰を持つことは、人生における目的になるだろうか。いや、人生には決められた目的というものはない、と私は思っている。それでも、目的のない人生はさびしいものだ。さびしいだけでなく、むなしい。むなしい人生は、大きな困難にぶつかったときに、なかなかつづかないものだ。人生の目的とは、「自分の人生の目的」をさがすことではないか、と私は前に書いた。自分ひとりの目的、世界中の誰ともちがう自分だけの「生きる意味」を見出すことこそ人生の目的なのでないだろうか。そのためには、まず生きなければならない。行きつづけていてこそ、目的もあきらかになるのである。そんな目的は、私たちが生きているあいだには、なかなか見つからないかもしれない。でも、人はなお生きつづけていく。

 

 

御朱印

なし

 

西本願寺 終了

 

(参考文献) 西本願寺HP フリー百科事典Wikipedia  WANDER国宝HP  閑古鳥旅行社HP

       五木寛之著「百寺巡礼」第一巻京都(講談社)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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38 浄瑠璃寺

2023-10-03 | 京都府

第28番 浄瑠璃寺

 

いのちの尊さを知る、浄瑠璃浄土

 

 

 

 

奈良駅前から1時間に1本のバスを利用し30分で浄瑠璃寺の前に到着。浄瑠璃寺の場所は、京都府木津川市の山中にあるが、奈良から直通のバスが出ているので、こちらが便利。地理的にも奈良の地域に入る。雨の降る中、山の中にある古寺に参拝する団体客はない。10月の初めの土曜日でこ個人の参拝客は、かなり少ない。浄土式の庭園は雨に濡れて、しっとりと落ち着いた風景はすごく雰囲気が良く、心から癒してくれる古寺だった。

本堂に9体の阿弥陀如来像を安置することから九体寺の通称がある。緑深い境内には、池を中心とした浄土式庭園と、平安末期に建立された本堂と三重塔が残り、平安朝寺院の雰囲気を今に伝える。本堂は当時京都を中心に多数建立された九体阿弥陀堂の唯一の遺構としてた貴重である。

浄瑠璃寺の所在する地区は「当尾の里」と呼ばれ、付近には当尾石仏群と呼ばれる、鎌倉時代からのぼる石仏、石塔などが点在している。

浄瑠璃寺の創立については、永承2年(1047)、義明上人により本堂が建立され、60年後の嘉承2年(1107)、本仏の薬師如来を「西堂」に移したとの記録がある。この嘉承2年に建立された新本堂が、現存する国宝の本堂であるとするのが通説である。それから50年後の保元2年(1157)には本堂を西岸に解体して移築した解釈できる記録が残っている。すなわち、現存する本堂の建つ位置にほかならない。その後、浄瑠璃寺は建造物が増えてゆく。久安2年(1146)食堂と釜屋を建設、同6年には摂政藤原忠道の子の覚継が寺を整備する際に池を築造した。

 

参拝日    平成30年(2018)10月4日(土) 天候小雨のち曇り

 

所在地    京都府木津川市加茂町西小札場40                         山 号    小田原山                                   院 号    法雲院                                    宗 派    真言律宗                                   本 尊    九体阿弥陀仏(国宝) 薬師如来(国重要文化財)                創建年    永承2年(1047)                               開 基    行基  多田満仲(源満仲)                          中 興    義明上人                                   正式名    小田原山法雲院淨瑠璃寺                            別 称    西小田原寺  九体寺                             札所等    仏塔古寺十八尊第10番 ほか                          文化財    本堂、三重塔、木造阿弥陀如来坐像9躯、木造四天王立像4躯(国宝)        文化財    木造吉祥天立像、木造薬師如来坐像、木造地蔵菩薩立像ほか(国重要文化財)             庭 園    国の特別名勝・史跡

 

 

浄瑠璃寺入り口。  バス停から直ぐのところ。

 

 

細い道の参道が続く。沿道の立木は馬酔木とのこと。

 

 

境内図                                   上部が北

 

 

 

山門。 武家の門のようだが小さな門。

 

 

 

 

 

門を入るとすぐに案内看板。さすが京都や奈良の大寺院の看板とは異なり、こんなところにも風情がある。

 

 

門を入るとすぐに宝池が見える。三方が小高い丘に囲まれた境内は、中央に宝池、右手に本堂、左手に三重塔。小雨が降る中、箱庭のような静かな境内に人影はなく、風情が一層我が身にしみる寺だ。

 

 

本堂の方向へ。

 

 

本堂への拝観手続きと入り口(建物右手)と出口(建物左手)となる寺の社務所のような建物。

 

本堂【国宝】 嘉承2年(1107)に再建された。寄棟造、本瓦葺き。桁行11間、梁間4間(柱間の数を表す)。平面は「九間四面」、すなわち、桁行9間、梁間2間の身舎の周囲に1間幅の庇をめぐらした形式になる。安置する9体の阿弥陀如来像のうち、中尊は他の8体より像高が大きく、中尊を安置する堂中央部分の柱間は他の柱間より2倍近く広くなっている。

 

 

堂正面の柱間には、左右両端間は上半を連子窓、下半を土壁とし、他の9間は板扉になっている。隅の柱上に舟肘木を用いるほか、外周の柱上には組物を用いない、簡素な建物である。

 

 

 

 

白河院、鳥羽院の院政期を中心とした11 - 12世紀には、多くの九体阿弥陀堂が建立された。記録に残るものだけで30数例を数えるが、現存するものは浄瑠璃寺本堂のみである。これらの九体阿弥陀堂の多くは天皇家や有力貴族の建立したもので、浄瑠璃寺本堂のように地方の豪族によって建立されたものは珍しい。

 

本堂正面。写真はないが、堂内は板敷きで、身舎の奥寄りに横長の須弥壇を設け、9体の阿弥陀如来坐像を横一列に安置する。天井は身舎、庇とも、天井板を張らず、垂木などの構造材を見せる「化粧屋根裏」とする。

阿弥陀堂には、平等院鳳凰堂や富貴寺大堂など堂内を極彩色の壁画で飾り立てているのが特徴であるが、浄瑠璃寺本堂にはそうした壁画の痕跡はない。柱上の組物も用いない(隅柱に舟肘木を置くのみ)など、全体に簡素な造りである。九体仏のうち中尊を安置する部分の柱間を特に広く造り、求心性の高い建物である点が特色である

 

 

 

 

木造阿弥陀如来坐像 9躯【国宝    平安時代の作品で現存するものは浄瑠璃寺像のみである。9体とも檜材の寄木造、漆箔仕上げで、像高は中尊像のみが他より大きく、224.0Cm、脇仏8体は139.0Cm~145.0Cm 。 9体とも永承2年(1047)の作とする説と、嘉承2年(1107)の作とする説があり、像の制作年は判明はしていない。(写真は浄瑠璃寺HPより)

 

吉祥天立像【国重要文化財】 本堂内に安置。像高90.0cm。檜材割矧ぎ造、彩色・截金。『浄瑠璃寺流記事』によれば、鎌倉時代の建暦2年(1212)に本堂に安置されている。九体阿弥陀の中尊の向かって左に置かれた厨子内に安置され、春、秋、正月の一定期間のみ扉が開かれる秘仏である。構造はヒノキ材。像は蓮華座上に直立し、右腕は下げて与願印(掌を前方に向けて開く)とし、左腕は肘を曲げ、掌を肩の辺に上げて宝珠を捧持する。体部を白肉色とし、衣部は繧繝彩色を含む極彩色である。『大吉祥天女念誦法』に「身色白にして十五歳の女の如く」とある姿を表現したものである。像は黒漆塗の春日厨子に安置される。この厨子の扉と後壁に描かれた仏画も鎌倉時代の絵画資料として貴重なものである。ただし、オリジナルの扉と後壁は明治時代に流出して東京芸術大学の所蔵となっている。  (写真は奈良県観光局HPから)

 

木造四天王立像【国宝】 持国天  像高167.0 - 169.7cm。寄木造。漆箔・彩色・截金。平安時代後期の作。当初の彩色と截金文様がよく残っている。4体のうち広目天は東京国立博物館、多聞天は京都国立博物館に寄託。持国天と増長天は本堂内に安置。(写真は浄瑠璃寺HPより)

 

 

 

宝池の此岸側から弁天社と九体阿弥陀堂を見る。

 

 

 

 

 

此岸側から本堂を見る。

 

池の反対側から本堂を見ると、中央の阿弥陀如来の顔は本堂の庇に隠れて見えないが、池に映った姿を見ると顔も見える。池に映して見ることで、極楽浄土の世界を見るように設計されていた。当日は扉が閉まり堂内は見えない。

 

 

浄土式庭園の代表格ともいえる庭園。奈良時代の仏教の伝来とともに創られた独特な庭園で、「死後に清らかな世界浄土への往生を願う浄土思想」を表現したと言われる。

 

 

本堂正面に中島の先端となる州浜が玉石で造られた。7つの石で浄土の世界を表している。洲浜は池泉を美しく魅せる技法である。

 

 

彼岸側から見た州浜の石組。

 

 

石橋や州浜が特徴の一つ。昭和の中頃まで池水は著しく汚濁していた。この状態を改善すべく昭和50年(1975)に、境内の発掘調査と大規模な庭園整備が行われた

 

 

 

 

 

三重塔から此岸を通し宝池全景を見る。。

 

 

宝池の中島に造られた弁天社を彼岸側から見る。弁天社は平成29年(2017)に修復された。

 

 

 

 

 

 

 

 

彼岸から見る三重塔。

 

 

 

 

 

 

 

 

三重塔【国宝】 『浄瑠璃寺流記事』によると治承2年(1178)、京都の一条大宮から移建したとするが、もともとどこの寺院にあったものか不明である。

 

 

 

 

構造上の特色は、初層内部には柱がないことで、心柱は初層の天井から立てられている。浄瑠璃寺に移築された後、初層内部に仏壇を置きその上に薬師如来像(重文、秘仏)が安置された。初層内部の壁面には十六羅漢像などの壁画が描かれている。

 

 

 

 

 

 

 

三重塔が見える宝池西岸を彼岸という。三途の川を挟み人間が住んでいる世界(現世)を此岸、そして向こう側の仏様の世界(来世)を彼岸という。つまりお彼岸とは、我々人間の迷いや苦しみの原因となる煩悩のない、悟りの境地に達した世界であり、極楽浄土のことを言う。春分・秋分には太陽が三重塔から昇り、九体阿弥陀堂に沈むように配置されていて、太陽が「来世」から「現世」へ移動するのである。

 

 

石灯籠【重要文化財】    貞治5年(1366)の造。花崗岩。六角型(般若寺型)。「貞治五年丙午正月十一日造立之為法界衆生願主阿闍梨祐実」の銘が刻まれている。

 

 

宝池は回遊式庭園であり、歩道が整備されている。

 

 

何かの石組の跡かな?

 

 

鐘楼。治承2年(1178)鐘楼の建立。

 

 

なにのための石かな?。

 

 

山門を出る。

 

 

山門を出た参道の右側に風情のある茅葺屋根の食事処が見えた。

 

 

 

 

 

参道に立つ案内板。

 

 

参道の土産物屋。ここから直ぐバス停。

 

 

案内図

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーーやっと雨がやんだ。私は庭園から裏側にまわって阿弥陀堂のなかに入った。一歩足を踏み入れて、あ、と息を呑んだ。居ならぶ九体の阿弥陀仏に圧倒されたのである。堂宇はどちらかというと素朴なのだが、そのなかに二メートル強、あるいは一メートル五十におよぶ阿弥陀仏が横一列にずらりと並んでいるのは、ものすごい迫力である。私がこれまでもっていた阿弥陀仏のイメージは、どこかやさしい母性的な感じだ。しかし、阿弥陀如来像も、歴史によってかなり変化するもののようだ。浄瑠璃寺の九体の阿弥陀如来像は藤原時代に流行した九体阿弥陀の唯一のいぶつだそうだが、体躯は堂々して、目から鼻、唇、肩、手にかけて、力強くしっかりしている。この九体は、同じデザインでつくられたそうだが、やはり彫る職人の個性がそれぞれにじみ出ているようだ。よく見ると一体一体が微妙に違う。機械的な仕事とはちがって人間の仕事はこうゆうところに面白みがある。堂々とした九体が、それぞれに縁なき衆生に顔を向け、それぞれの光を投げかけてくる。浄瑠璃寺という山間の寺の素朴な堂宇のなかに、おおらかでどっしりとした九体の阿弥陀如来が、天井低しとばかりに座っておられる姿は、あるショックを私にあたえた。

 

 

御朱印

 

 

浄瑠璃寺 終了

 

(参考文献) 浄瑠璃寺HP フリー百科事典Wikipedia  奈良県観光局観光プロモーション課HP(祈りの回廊) 五木寛之著「百寺巡礼」第三巻京都(講談社)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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26 天龍寺

2023-08-25 | 京都府

古寺を巡る 天龍寺

 

 

 

歴史

平安時代初期、嵯峨の地に橘嘉智子(嵯峨天皇の皇后)が開いた禅寺・檀林寺があった。寺は、約400年の長き年を経てかなり荒廃し廃絶していった。そこに嵯峨天皇が上皇となり仙洞御所を造営、嵯峨上皇の第3皇子である亀山天皇が、さらに仮の御所を営んだ。その地に足利尊氏を開基とし、無夢疎石を開山として開かれたのが天龍寺である。その目的は、後醍醐天皇の菩提を弔うため暦応2年(1339)に創設された。なお造営費用は足りず、元寇以来途絶えていた元との貿易を再開することとし、その利益を当てることにした。それが「天龍寺船」の始まり。貿易により造営費用は捻出され康永4年(1345)に落慶した。かつて広大な寺域と壮麗な伽藍を誇った天龍寺は500年の間に8回ほどの大きな火災に見舞われた。その中でも、文安の火災と応仁の乱による被害は大きく、天正13年(1585)に豊臣秀吉の寄進を受けるまで復興できなかった。その後秀吉の朱印を受けて順調に復興するが、文化年間(1804~1818)に被災、この再建途中の元治元年(1864)の蛤御門の変に際して長州軍の陣営となり、兵火のために再び伽藍は焼失した。以後は歴代の住持の尽力により順次旧に復し、明治9年(1876)には臨済宗天龍寺派大本山となった。しかし翌明治10年(1877)に、嵐山に53町歩あった寺領は、明治政府の土地の没収命令の上地令により、10分の9ほどに及ぶ領地を没収され3万坪を残すこととなった。こうした逆境の中、天龍寺は復興を続け、明治32年には法堂、大方丈、庫裏が完成、大正13年には小方丈(書院)が再建されている。昭和9年には多宝殿が再建、同時に茶席祥雲閣が表千家の残月亭写しとし、小間席の甘雨亭とともに建築された。翌10年(1935)には元冦600年記念として多宝殿の奥殿、廊下などが建立されほぼ現在の寺観となった。

 

参拝日   平成30年(2018)3月1日(木) 天候曇り

所在地   京都府京都市右京区嵯峨野天龍寺芒ノ馬場町68
山 号   霊亀山
寺 名   霊亀山 天龍資聖禅寺
宗 旨   臨済宗
宗 派   天龍寺派
寺 格   大本山  京都五山
本 尊   釈迦三尊
創 建   康永2年(1343)                                開 山   夢窓疎石                                    開 基   足利尊氏 
文化財   庭園(特別名勝・史跡)、絹本著色夢窓国師像3幅、
      絹本著色観世音菩薩像、木造釈迦如来坐像ほか(重要文化財)
      

 

京福電鉄嵐山線終着駅の嵐山駅。 嵐山駅の嵯峨野界隈は、清水寺、八坂神社とおなじように観光客が多い地区である。とくに、このごろ(平成30年春)は、中国、韓国などアジア系の外国人観光客の多さが目に付いた。

 

 

観光地の割には歩道の狭さが感じられる。

 

 

入口の石碑の前。

 

 

案内図 境内東端に勅使門があり、参道は西へ伸びている。これは通常の禅宗寺院が原則として南を正面とし、南北に主要建物を並べるのとは異なっている。参道両側に塔頭が並び、正面に法堂、その奥に大方丈、小方丈、庫裏、多宝殿などがあるが、いずれも近代の再建である。

 

 

総門 

 

南側の参道

 

 

庫裡  明治32年(1899)の建立。庫裏は七堂伽藍の一つで台所兼寺務所の機能を持つ。方丈や客殿と棟続き。白壁を縦横に区切ったり、曲線の梁を用いたりして装飾性を出した建物で天龍寺景観の象徴ともなっている。

 

 

切妻造の屋根下の大きな三角形の壁を正面に見せる。

 

 

庫裡の玄関前庭。

 

 

庫裡の屋根妻側の鬼瓦と懸魚を見る。

 

 

庫裡の玄関から入り大方丈、小方丈(書院)、多宝殿を巡る。

 

玄関に入った正面に置かれる大衝立の達磨図は前管長である平田精耕老師の筆によるもので、方丈の床の間などに同じ達磨図が見られ、達磨宗である禅を象徴し、天龍寺の顔ともいえる。

 

 

玄関の衝立達磨図。

 

 

 

玄関から外を振り返る。

 

 

小方丈(書院)は大正13年(1924)の建築である。

 

 

小方丈(書院)の廊下。

 

 

廊下の角から庭園を見る。

 

 

小方丈側から庭園を見る。

 

 

小方丈から見た庭園。

 

 

小方丈(書院)内部の部屋。

 

 

 

 

 

小方丈は書院で2列に多くの部屋が並び、来客や接待や様々な行事、法要などに使用される。

 

 

 

 

 

小方丈(書院)から庭園を見る。

 

 

 

 

 

大方丈。明治32年(1899)に造営された大方丈は天龍寺最大の建物で、正面と背面に幅広い広縁をもち、さらにその外に落縁をめぐらせる。東は中門に対し、西は曹源池に面する。東側が正面で曹源池側が裏となる。

 

内部は六間取り(表3室、裏3室)の方丈形式で、中央の「室中」は釈迦尊像を祀る48畳敷き、左右の部屋はともに24畳敷きで3室を通して使うこともでき、欄間の下に襖を立てれば個別にも使用できる。

 

 

東西を仕切る襖の雲龍の絵は昭和32年に物外道人によって描かれたもの。

 

 

 

 

 

大方丈の裏側に位置する廊下は幅広い広縁をもち、さらにその外に落縁をめぐらせる。

 

 

 

 

 

 

 

 

大方丈が右の建物で、正面に小方丈。

 

 

大方丈の南側。

 

 

大方丈の表側が中門に対して向き合う。

 

 

 

 

 

 

正面の「方丈」の扁額は関牧翁老師(天龍寺第8代管長)の筆。

 

 

幅広い広縁をもち、さらにその外に落縁をめぐらせる。

 

大方丈の本尊は釈迦如来坐像【国重要文化財】。平安時代後期の作とされ天龍寺の造営よりもはるかに古い。天龍寺が受けた都合8度の火災のいずれにも罹災せず助けられた仏像で、天龍寺に祀られる仏像の中で最も古い像。

 

 

庭園への入り口  庭園に直接出入りできる。

 

曹源池庭園  約700年前の夢窓国師作庭当時の面影をとどめており、わが国最初の史跡・特別名勝指定。中央の曹源池を巡る池泉回遊式庭園で、大堰川を隔てた嵐山や庭園西に位置する亀山を取り込んだ借景式庭園でもある。

 

 

方丈からみた曹源池中央正面には2枚の巨岩を立て龍門の滝とする。龍門の滝中国の登龍門の故事になぞらえたもので、鯉魚石を配するが、通常の鯉魚石が滝の下に置かれているのに対し、この石は滝の流れの横に置かれており、龍と化す途中の姿を現す珍しい姿をしている。

 

 

 

曹源池の名称は国師が池の泥をあげたとき池中から「曹源一滴」と記した石碑が現れたところから名付けられた。

 

 

 

 

 

 

小方丈の西北から上り坂に併せて屋根付きの廊下が設けられ、右手に祥雲閣や甘雨亭の茶室を見ながら上りきったところにある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

多宝殿へ上る廊下の右手にある茶室の祥雲閣と甘梅亭。写真は甘梅亭。

 

多宝殿 後醍醐天皇の尊像を祀る祠堂で、前に拝堂をもち、後ろの祠堂とを相の間でつなぐ。入母屋造の屋根とも調和し、中世の貴族邸宅を思わせる。昭和9年(1934)に建築されたもの。後醍醐天皇の吉野行宮時代の紫宸殿の様式と伝えられる。

 

 

 

 

拝堂には正面に1間の階段付き向拝を持ち、あがると広縁になる。

 

 

中央に後醍醐天皇の像、両側に歴代天皇の尊牌が祀られている。

 

 

 

 

 

多宝殿から北門への苑路で、北門開設と同時に昭和58年整備された庭園の百花苑へ続く。

 

自然の傾斜に沿って苑路が造られており、北門を抜けると嵯峨野の観光名所である竹林の道、大河内山荘や常寂光寺、落柿舎などへ通じる。

 

 

苑内は苔に覆われしっとりとした緑が気持ち良い。

 

自然の地形に沿って苑路が設けられ、ゆっくりお散策することができる。頂部にたどり付けば京都市内嵯峨野の街がよく見える。

 

 

 

 

鐘楼 天龍寺の除夜の鐘も全国的に有名だと言われる。

 

 

法堂への渡り廊下。

 

中門。

 

 

塔頭が並ぶ。塔頭の松巌寺、慈済院、弘源寺の3か寺は元治(1864~1865)の兵火を逃れたため、室町様式あるいは徳川期のものが残る。

 

 

塔頭の門。

 

 

土塀を背に梅の花。

 

 

塔頭の一つの門の袖壁。

 

勅使門【京都府指定有形文化財】  四脚門。寺内最古の建物である。元々は慶長年間(1596~1615)に建てられた御所・明照院の門である。そもそも伏見城の門であり、その後、御所に移築されたともいう。嘉永18年(1641)に現在地に移築された。

 

 

嵯峨野の街は大賑わい。

 

 

案内図

 

 

御朱印

 

 

天龍寺 終了

 

 

 

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25 金閣寺

2023-08-23 | 京都府

第21番 金閣寺

 

目もくらむような亀裂に耀く寺

建物の内外に金箔が貼られていることから金閣寺とも呼ばれているが、正式名称は北山鹿苑禅寺である。鹿苑はの名は、開基の室町幕府三代将軍足利義満の法号である「鹿苑院殿」にちなんでつけられた。その中心的なお堂が舎利殿で、室町時代前期の北山文化を代表する建物であった。残念ながら昭和25年(1950)に放火により焼失し、昭和30年(1955)に再建された。

本堂や仏堂があるお寺というよりも、室町幕府第3代将軍足利義満の私邸という感じで拝観した方が判りやすいと思う。

 

参拝日   平成30年(2018)3月1日(木) 天候曇り

所在地   京都府京都市金閣寺町1                             山 名   北山   
宗 派   臨在宗相国派 
寺 格   相国寺境外塔頭  
創 建   応永4年(1397) 
本 尊   聖観音                                     開 山   夢窓疎石
開 基   足利義満                                    正式名   北山鹿苑禅寺                                  別 称   金閣寺  北山殿  北山第                           文化財   木造不動明王立像(国重要文化財)ほか

 
金閣寺の歴史

鹿苑寺の一帯は、鎌倉時代の元仁元年(1225)に藤原公経が西園寺を建立し、併せて山荘にしていた場所。以降も公経の子孫が代々領有を続け、朝廷と鎌倉幕府の連絡役を務めていた。幕府滅亡後に当主の西園寺公宗が後醍醐天皇暗殺を企てたことが発覚し、公宗は処刑され、西園寺家の膨大な所領と資産は没収。西園寺は次第に修理されなくなり、荒れていった。応永4年(1397)、金閣寺の開祖である足利幕府第3代将軍の足利義満が当寺を譲り受け、寺を建て直すなどして北山第と呼ぶ山荘とした。山荘の規模は御所にも匹敵し、政治中枢のすべてが集約された。将軍職を、応永元年(1394)に子の義持に譲っていたが、実権は手放さず、ここで政務を執っていた。そんななかで金閣寺舎利殿は、応永6年(1399)に造営されたと推定される。義満の死後は妻の北山院(日野康子)の御所となっていたが、北山院が死ぬと舎利殿以外の堂宇は解体された。そして、応永27年(1420)に北山第は義満の遺言により禅寺とされ、義満の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺と名付けられた。その際、夢想疎石を勧請開山とした。義満の孫の五代将軍足利義政は、祖父の義満が建てた舎利殿に倣い、造営中の東山山荘(現・慈照寺)に観音殿(近世以降銀閣と通称される)を建てた。応仁の乱では、西軍の陣となり建築物の多くが焼失したが、江戸時代に西笑承兌が中興し、以後主要な建物が再建された。舎利殿も慶安2年(1649)に大修理された。明治維新後の廃仏毀釈により、寺領の多くが返上されて経済的基盤を失ったが、明治27年(1894)よりて庭園や金閣を一般に公開し、拝観料を徴収し寺の収入の確保ができた。昭和4年(1929)には国宝に指定された。昭和25年(1950)7月2日未明、放火により国宝の舎利殿(金閣)と安置されていた仏像等を焼失する。昭和27年(1952)に再建工事が始まり昭和30年(1955)に竣工し、創建当時の姿に復元された。

 

 

宿泊した東急ハーヴェストクラブ京都鷹峯のロビーから見た鷹峯の山並み。

 

 

ホテルを出て、すぐのしょうざんリゾート内の歩道を歩き約10分で金閣寺に。

 

 

鬱蒼とした森にたたずむ黒の門が金閣寺への参道入り口。門柱には「鹿苑寺 通称 金閣寺」と書かれている。 

 

境内地図

 

参道から総門の少し手前に「世界遺産」の記念石碑。

 

 

総門   塀は格式高い五本線の筋塀。

 

 

 

 

 

舟形  石造りの手水鉢で総門近くにあった馬小屋の水槽と言われる。

 

庫裏  明応から文亀年間(1942~1502)の創建と言われる。大きな切妻が正面に向く禅宗特有の建築。

 

 

唐門  総門を入り真正面の突き当りに位置する。方丈(客殿)の門にあたり、正面に唐破風がついている「向唐門」である。通常は閉め切り。

 

 

金閣寺のHPより。

 

無字の経  拝観受付付近。「咲花の露のみづけさ 鳴く鳥の聲(声)のさやけさ 雲閑に水藍をたたふ
 誰が説きし無字の眞言  山清くそめなす木立 谷深くたまちる流れ 風そよぎ月すみ渡る ひとりよむ無字の眞言」。

 

 

築地塀が続く。

 

 

拝観門を潜り・・・

 

拝観の受け付けをして築地塀のに挟まれた細い通路を抜けるとやがて視界が広がり、目の前が開け大きな池が飛び込んでくる。鏡湖池で、鏡のように金閣寺を映し出すことから、その名前が付けられている。

 

 

人気のある観光地でいつも観光客や修学旅行生がわんさかやってくる。

 

 

左右に亭々たる木立、後ろに小高い山を背負う金閣寺舎利殿の雄姿。

 

 

 鏡湖池に写った金閣は「逆さ金閣」と呼ばれ、ベストショットとなっている。

 

 

 

 

 

 

 

葦原島 鏡湖池の中央、金閣の正面に浮かぶ島で蓬莱島とも。池にある10の島々のうち最大の大きさで、日本の国を象っているといわれている。

 

 

鏡湖池には葦原島、鶴島、亀島などの島々のほか、畠山石、赤松石、細川石などの奇岩名石が数多く配されている。

 

 

 

 

方丈 普段は非公開となっている。境内を順路にそって歩いていくと、陸舟の松の奥に見えるのが方丈で、中まではよく見ることができない。

 

 

方丈の庭。

 

 

陸舟の松 足利義満の愛用の盆栽の樹木。

 

 

 

 

 

書院への通路 書院は非公開。

 

 

金閣寺舎利殿を北・東側から見る。金閣は木造3階建ての楼閣建築。屋根は宝形造、杮(こけら)葺きで屋頂に銅製鳳凰を置く。3階建てであるが、初層と二層の間には屋根の出を作らないため、形式的には「二重三階」となる。

 

 

初層と二層の平面は同形同大で、正面5間、側面4間とする(「間」は柱間の数を表す)。初層と二層は通し柱を用い、構造的にも一体化している。三層は一回り小さく、方3間である。

 

 

 

 

 

屋根の頂部に飾られた鳳凰。

 

 

一層は金箔を張らず素木仕上げとし、二層と三層の外面は高欄も含み全面金箔張り。三層は内部も全面金箔張りである。

 

 

一層は「法水院」と称し、寝殿造りの建築様式。正面の一間通りを吹き放しの広縁とし、その奥は正面5間、側面3間の1室となっている。正面の5間は等間ではなく、西から2間目(本尊を安置する位置)の柱間が他より広くなっている

 

 

ガラス越しに撮った舎利殿の内部。

 

室内の奥に須弥壇を設け、壇上中央に宝冠釈迦如来坐像、向かって左に法体の足利義満坐像を安置する。床は板敷、天井は鏡天井となっている。

 

 

 

 

 

宝冠釈迦如来坐像(金閣寺HPより)

 

 

 

 

 

二層は「潮音洞」と称し、武家造りの建築様式となっている。

 

 

 

 

漱清 初層の西側には、池に張り出して、「漱清」と称する方1間、切妻造、吹き放しの小亭が付属する。いわゆる釣殿で、釣殿は寝殿造において池に臨んだ形で周囲を吹き放ちにして建てられる建造物をいい、魚釣りを楽しんだ所からこの名がついたという。他にも納涼や饗宴、月見などにも用いられることがあるという。

 

 

 

 

 

 

 

 

境内の林に見え隠れする舎利殿。

 

 

境内は松林と地面は苔に覆われている。

 

 

金閣寺垣   金閣のある鏡湖池より北側の夕佳亭や不動堂へと向かう参道の途中、巌下水に続いて見えてくる小さな石段。

 

 

龍門の滝 鯉が三段の滝をも遡上する力があり、三段を上り終えると龍に転生するという中国の故事から。

 

 

安民沢  西園寺当時の遺跡でもある池。

 

 

金閣寺境内は、北側になる後ろ側が高台になっていて、そこから見る舎利殿の姿。

 

 

足利八代将軍義政公が使用していた富士山の形をした手水鉢。

 

茶室「夕佳亭(せっかてい)」  寄棟造茅葺、三畳敷の席に勝手と土間からなる主屋に、切妻造こけら葺で二畳敷の鳳棲楼と呼ばれる上段の間が連なっている。明治の初めに焼失したため、現在の建物は明治7年(1874)に再建されたもの。三畳敷の床柱は茶席としては珍しく南天の木が用いられており、殊によく知られている。

 

 

お休み何処。

 

 

 

 

 

不動堂   天正(1573~1593)年間よる再建。金閣寺境内に現存する最も古い建物。本尊は空海(弘法大師)作の伝承を有する石不動明王。

 

 

 

 

 

 

 

出口門

 

 

 

 

 

出口を出てからも苔の地はつづく。

 

 

 

 

 

参拝を終え境内を後にする。

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」からーーー義満が政治的なセンスだけでなく、こうした豊かで洗練された文化的な感性をかねそなえていたことが、きらめくような北山文化を花開かせたと言っていいのだろう。だが、そもそも義満の、底知れぬ権勢欲、物欲、執着心がなかったなら、北山文化そのものが存在したかどうかさえ、あやしいものだと思う。こう考えていくと、文化とはじつに罪深いものだといわざるをえない。権力者の権勢力や物欲が強ければ強いほど、富は一手に集められ、一部の取り巻きをのぞいて、下層の人びとは苦しい生活を強いられる。しかし、そうした犠牲があってはじめて歴史に残るような文化が生まれてきたというのは歴史の不条理としかいいようがない。私はしばらく鏡湖池の周囲を回ってみた。杜若であろうか、濃い紫の花が一輪、くっきりと咲いている。

 

 

御朱印

 

 

金閣寺 終了

 

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24 龍安寺

2023-08-20 | 京都府

古寺を巡る 龍安寺

 

二泊三日の京都巡りは、家族同伴である。昨日は東山方面で、清水寺と高台寺を参拝した。宿は鷹峯地区にあるホテルなので金閣寺に近い。 今日の最初は金閣寺で、二番目の参拝寺が竜安寺である。世界遺産で世界的にも有名、特に石庭の有名な寺院である。何十年ぶりの参拝である。

 

 

参拝日    平成30年(2018)3月1日(木) 天候曇り

 

所在地    京都府京都市右京区龍安寺御陵下町13                      山 号    大雲山                                     宗 派    臨済宗妙心寺派                                 寺 格    妙心寺境外塔頭                                本 尊    釈迦如来                                   創建年    宝徳2年(1450)                               開 山    義天玄承                                   開 基    細川勝元                                   文化財    方丈(国重要文化財)ほか

 

竜安寺の歴史  

 衣笠山山麓に位置する龍安寺一帯は、永観元年(984)に建立された円融天皇の御願寺である円融寺の境内地であった。円融寺は徐々に衰退し、平安時代末期には藤原北家の流れを汲む徳大寺実能が同地を山荘とした。この山荘を細川勝元が譲り受け、宝徳2年(1450)敷地内に龍安寺を建立した。細川勝元らと山名宗全らが争った応仁の乱の際、細川勝元は東軍の総大将だったため、龍安寺は西軍の攻撃を真っ先に受け、応仁2年(1468)焼失してしまった。勝元は寺基を洛中の邸内に一時避難させた後、現在地に戻すが、勝元は文明5年(1473年)に没す。長享2年(1488)勝元の子・細川政元が龍安寺の再建に着手、政元と四世住持・特芳禅傑によって再興され、明応8年(1499)には方丈が上棟された。その後織田信長、豊臣秀吉らが寺領を寄進している。

 

 

 

山門   江戸時代中期再建。宝暦5年(1755)洪水により破損し再建。

 

 

 

 

 

山門を振り返り見る。

 

 

山門を入り砂利道の参道をすすむ。

 

 

 

 

参道の木々から見え隠れする鏡容池。周囲は池泉回遊式庭園になっており、年間を通じて四季それぞれの花を楽しめる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

方丈への参道。石段の両脇に組まれた竹垣は龍安寺垣として名高い。

 

 

階段の上から参道を見下ろす。

 

 

庫裡入口で、こちらが参観の入り口となる。

 

 

 

 

庫裡の入り口。

 

 

庫裡の広間。庫裡は、寛政9年(1797年)に火災で焼失しその後再建。

 

 

 

 

庫裡の広間は天井がなく梁や小屋組みが見える。

 

 

庫裡から方丈の建物を見る。左手方向が石庭。

 

 

方丈と廊下。

 

方丈庭園【国の史跡・特別名勝】 いわゆる「龍安寺の石庭」である。白砂の砂紋で並みの重なりを表す枯山水庭園。幅25m、奥行10mほどの空間に白砂を敷き詰め、東から5個、2個、3個、2個、3個の合わせて15の大小の石を配置する。この石庭は、どの位置から眺めても必ずどこかの1つの石が見えないように配置されている。どこから鑑賞しても庭石が1個までしか見えないようになっているのは、ある石に別の石が重なるよう設計されているためで、日本庭園における「重なり志向」を表したものともいわれている。

 

 

 

 

方丈【国重要文化財】 方丈の室内は天井が高い。もともとの方丈が寛政9年(1797年)の火災で失われた後、塔頭の西源院方丈を移築したもの。慶長11年(1606)に織田信包による建立。

 

現在の襖絵は、龍と北朝鮮の金剛山が題材で、昭和28年(1953)から5年がかりで皐月鶴翁によって描かれた。

龍安寺は明治の初期に廃仏毀釈により衰退し、明治28年(1895)には、狩野派の手による方丈の襖絵90面がほかの寺院に売却されている。襖絵はその後、他の寺から再び売りに出され、九州の炭鉱王伊藤伝衛門によって買い取られている。その後、第二次世界大戦に流出してしまいその多くは所在が分からなくなっている。一部は、メトロポリタン美術館や市シアトル美術館に所蔵されているのが判っている。平成22年(2010)に、「群仙図」4面と「琴棋書画図」はアメリカのオークションで龍安寺が買い戻している。

 

 

 

 

室町時代末期(1500年ごろ)特芳禅傑らの優れた禅僧によって作庭されたと伝えられるが、作庭者、作庭時期、意図ともに諸説あって定かではない。

 

石庭の石は3種類に大別できる。各所にある比較的大きな4石は、チャートと呼ばれる龍安寺裏山から西山一帯に多い山石の地石。その他の9石は三波川変成帯で見られる緑色片岩である。

 

塀ぎわの細長い石他2石は京都府丹波あたりの山石で、「小太郎・二郎」と刻まれており、作庭に関わった人物と推測されるが詳細は不明。

 

 

 

 

 

 

 

高さ1.8mの油土塀。石庭を傑作とさせた重要な要素の塀は、菜種油を練り混ぜたつくりで、白砂からの照り返し防止や、長い間の風雪にも耐える堅牢さがある。

 

 

東側に一番大きな石。

 

 

 

 

石は15個並べてあるが一つ見えない。「15は完全を表す」東洋の言葉で、人間は不完全な存在で、あえて14個だけしか見えない。あと一つは「心眼」で見ることだと・・・。

石は15個あるというが、写った写真を調べても14個しか見当たらない。右下の石は二つだが、反対側から撮った写真でも2個で、こちら側から撮った写真の裏にも石があることが判り15個全部見つけることができた。人間の目で見ることは不可能のようだ。

 

 

石庭が人気のせいもあり縁側から人影が消えることが、なかなかない。

 

 

 

 

北側には「吾唯知足(われただたるをしる)」の蹲踞〔いわゆる「知足の蹲踞」〕の複製が置かれている。

 

 

 

方丈から仏殿に渡るが入り口だが、仏殿は非公開。

 

 

勅使門【国重要文化財】  寛政9年(1797年)に火災で焼失した後、西源院唐門を移築したもの。

 

 

高さ1.8mの油土塀の外側。石庭の白砂の面は、ここから80㎝ほど上がった面になる。

 

 

 

 

 

油土塀から方丈の屋根。

 

 

境内を巡る池泉式庭園の遊歩道。 

 

 

鏡容池のほとりには西源院、大珠院、雲光院などの堂が建つ。

 

 

弁財天のある弁天島

 

 

鏡容池。

 

 

案内図

 

 

 

御朱印

 

 

(参考にした資料) 龍安寺HP   Wikipedia

 

竜安寺 終了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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